動感を充実させる

9月11日に平尾剛さんと対談をさせて頂く。ラグビー元日本代表であるが、恥ずかしながら、彼が現役時代にそのプレーを拝見したことはない。ずっと内田樹さんのファンだった僕は、内田さんのブログや『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新書)で彼のことを知り、興味を持った。そして、彼のツイッターをフォローして読んでいるうちに、競技中心主義や教育のありようについて書かれていることにすごく共感し(今のミシマ社の連載もオモロイです)、ルチャ・リブロの青木真兵さんがつないでくださって、今回、初めて対談させていただく事になった。

そして、読んだつもりになっていたけど実は未読だった『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)を拝読。この本は、今だからこそ、その中身が深く味わえて、すごくよかった。

「スポーツでも人生でも、ときおり訪れる『うまくゆかない場面』は、まるで複雑に絡み合った結び目である。どこをどう解けばよいかがわからない。結び目を眺めながら解けそうな場所に目星をつけて、一つ一つ根気よく紐を引っ張るしか解決方法はない。
しかしながら端的に結び目をなくす方法が一つだけある。それはナイフで一刀両断にすることだ。そうすれば結び目はなくなる。
だが、果たしてこれで解決したといえるだろうか。ちぎれた紐が散乱する様を見て、これで落着したと思えるだろうか。もしこれがからだなら、『全身協調性』をぶった切ることになるし、人間関係なら傷ついた人たちが増えることになりはしないだろうか。
このシンプルな解決法に頼らない思考を私は『脱・筋トレ思考』と名付ける。『うまくたちゆかない場面』を克服するときには、その本質としての複雑性をそのまま認めるという態度が、スポーツ界のみならずあらゆる場面で、今、求められている。」(p187)

ぼくはなぜだか、福祉現場の『うまくゆかない場面』が持ち込まれて、何とか紐解くことを求められる案件が多い。色々な現場から、「これはどうしたらよいのでしょう?」という案件が持ち込まれる。相談する当の主体が解決方法をわかっていないのに、ぼくにわかりっこない。その時、「ナイフで一刀両断」したくなることもある。でも、それでは全くなにも解決しない。だからこそ、「結び目を眺めながら解けそうな場所に目星をつけて、一つ一つ根気よく紐を引っ張る」ことしか、できない。それを専門性と言って良いのかわからないけど、現にナイフを使わなくても、ほどけたり、何とか切り抜ける場面と何度も遭遇してきた。

そして、そういう風に複雑に絡み合った結び目を解き続けているうちに、ぼくの中に宿ったある種の感覚的な何かがある。そして、平尾さんの本の第5章から第6章を読むうちに、それはトップクラスのアスリート達が身につける「身体知」と共通している、と気づかされた。発生論的運動論に基づくと、身体知はうまれつきの運動能力である「始原的身体知」と、特定の動きを身につけるための能力である「形態化身体知」、そして動きの質を高めるための能力である「洗練化身体知」の三つがある、という。それぞれ、土壌、木の幹、枝葉にあたる部分だそうだ。

ぼくは現場の人のこんがらがった話を聞くときは、まず話の全体像を把握しながら、気になる部分の気配や直感を大切にし、「問い」を発して対話をするなかで、モヤモヤした直観を予感に変えようとするのだが、これは始原身体知にあたる、という。その上で、これまで解決してきた先例と紐付けながら、この問題ならこういう対処方法もあるかも、というコツやカンを働かせて、相談相手に働きかけてみるのだが、これは形態化身体知という。そして具体的な解決策に落とし込んでいくのだが、これはどうも洗練化身体知で書かれている内容に共通するようだ。それなら、先週末もやっていた(^_^)

なんと、運動は苦手なはずなのだが、こんがらがった問題に取り組むとき、無意識で無自覚に、身体知を使っていたのですね。だからこそ、なぜかぼくのところに沢山こんがらがった問題が持ち込まれるし、ある程度はほどけてしまうけど、自分ではなぜそれがほどけたのか、よくわからないままだった。でも、こうやって現象学的なフレームに基づいて整理されると、なるほどな、と心より納得する。

「動きを実践するときに、運動主体の内面に生じる感覚を『動感』という。たとえば跳び箱を前にしたときに、『なんとなくこんな感じでからだを使えば跳べるはずだ』と思える人は、跳び箱を跳ぶための動感が充実している。(略)
ボールを投げる、蹴る、バットあるいはラケットで打つといった動きにもそれぞれに必要とされる動感がある。運動取得という現象そのものを厳密に掘り下げれば、この動感を充実されることが最大の目的であり、ポジティブな心構えも、発達した筋肉やからだの柔軟性も、つまりのところはこの動感の充実に収斂される。」(p134-135)

「動感の充実」! それこそ、福祉現場の『うまくゆかない場面』を前に、ぼくが活用していることである。そして、スポーツに当てはめるなら、ぼくが知りたかったけど、教わらなかったことだ。であるがゆえに、スポーツ音痴だと思い込んで、ずっと体育の時代が嫌いだった、最大の理由にも繋がる。ぼくは跳び箱、バスケ、サッカー、野球、鉄棒、駆けっこ・・・様々な競技で、動感が空虚なまま放置され、ほんとうにつまらなかったのだ。

ぼくはスポーツは小学校の頃から苦手意識が強かった。サッカーも野球も、集団プレーは「どんくさいから、他人の邪魔になる」と思って、積極的に関わらなかった。でも親がテニスを本格的にしていたので、スクールにもかよって、ストロークに関する動感は辛うじてつかめた。とはいえ、試合となると「へまをしたら」と思って、極端に苦手になる。運動とは縁遠いまま、だった。それが、30代で大学教員になった後、内田樹さんの著作で憧れて、山梨で合気道をはじめたあたりから、風向きが変わった。自分のペースで出来るスポーツなら出来そうだ、と、登山をしたり、ジョギングをしてきた。幸いにして、この三つに関しては「動感の充実」があったのだ。

そして、子どもが生まれ、こども園に通い始めると、ボール蹴りをし始めるようになった。本格的にサッカーをするこども園で、保護者サッカー大会もあるので、この夏はサッカーのトレーニングシューズを生まれて初めて買って、夏の間、ずっとボール蹴りをしていた。そのうちに、テニスでラケットの芯に当たるのと同じような感覚を、ボール蹴りでも時たまするようになってきた。これは、合気道で言うなら、相手の力を上手く導いて、何の力もいれなくても、すーっと技が決まっていく、あの感覚に近い。まだまだボール蹴りは初心者なので、そこまではいかないけど、純粋に、娘とボール蹴りをしていて、面白い、もっと蹴りたい、と感じる感覚である。まさにそれは、サッカーに空虚な気持ちを持っていた状態が、徐々にボール蹴りなら「動感が充実」してくるように、変わりはじめたのかもしれない。

そして、平尾さんの本を読んでいると、「どんくさい」「スポーツが苦手」というのは、「動感が空虚」だという風に置き換えられる。すると、その動感を充実させていきながら、そのスポーツなり動きを楽しめたら、オッサンになってからでも、そのスポーツに親しめる可能性がある、ということだ。確かに、合気道を始めたのは2009年で34歳の時だった。体重も増えていたし、ジムでバイクを漕ぐだけだったり、最初は先生の模範演技を見ても、全くわからなかった。でも、毎週コツコツ稽古を重ねていくうちに、動感が身についていくと、面白くなっていく。そのうちに、「袴を着けたい」という憧れというか目標が出来、稽古に打ち込めるようになった。無事に有段者になった後、子どもが生まれて家事育児に必死で3,4年は休眠状態だったが、最近、姫路の道場で再開している。今は、さび付いた動感を再び満たすために、コツコツ基本から抑え直している、というところである。

そして、秋の日差しで風も涼やかになる休日夕方は、そろそろ娘と公園でボール蹴りをする時間。子どもが生まれて、仕事が出来る時間が極端に減った。でも、ケアって、義務感だけではない、生の充溢という意味で、「動感が充実」しているのだと思う。生産性至上主義や競争原理主義とは違う、ケアにおける生の充溢とか、子育てを巡るオモロサやトホホさとかを、次の日曜日に平尾さんに色々伺えるのが、めっっっちゃ楽しみだ。まだお席に余裕があるようですので、皆さんもよかったら、対面でもオンラインでも、お越しくださいませ

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。