嬉しい書評とイベントのお知らせ

2022年9月11日、新刊本を巡ったトークイベントをジュンク堂梅田店で開催していただく事になった。

残暑のモヤモヤ父親対談! 仕事中心主義を降り、ケアの世界を取り戻すために

この対談は、ラグビー元日本代表で、うちの娘と同じ年長組のお子さんがおられる平尾剛さんとの対談。勝利至上主義や生産性至上主義に共通する「男性中心主義」がいかに人間を追い込んできたか、とか、ケアの発想を取り戻すことが、どんな盲点に気づかせてくれるか、を、平尾さんにじっくり伺ってみたいと思っている。対面とオンラインのハイブリッド開催なので、ぜひともお待ちしております♪

さて、今回はこのイベント主催者であるジュンク堂のカリスマ書店員、福嶋聡さんが、ジュンク堂の店頭で配布される丸善ジュンク堂のPR誌「書標(ほんのしるべ) 20229月号」に、以下の書評を書いて下さった。ご本人の了解を得たので、ブログに転載させてもらう。

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『家族は他人、じゃあどうする? 子育ては親の育ち直し』 竹端寛著、現代書館、1980円。

ケアや教育の現場では、その対象と対話をし相手から学ぶことが何よりも大切であることを、バザーリア、ニィリエ、フレイレといった先達に学び、『「当たり前」をひっくり返す』(現代書館)ことを熱く読者に訴えた竹端寛にとっても、その本の執筆中に誕生した娘の育児は、かなりの難事業のようだ。

訪れた雑貨店で商品を壊す、お出かけ時にむずがる、食事中に遊ぶ、おもちゃを片付けない・・・。そのたびに、「何やってるの!あやまりなさい」「ちゃんとしなさい」と声を荒げて叱りつけてしまう。そんな態度が子どもを決していい方向に向かわせないことを重々承知していながら、いざそうした状況に直面すると、あたふたし、腹を立て、同じ失敗を繰り返す。

気づけば、自分じしんを馬車馬のように動かしていた「ちゃんとしなくちゃ」という価値観を、娘にも押し付けているのだった。自分のかたくなさ、娘を思い通りに支配したいという気持ちが見えてきて、竹端をゲンナリさせる。

だが、失敗を重ねながら、竹端に「わからなないことを聞く」耳、「他者を主体としてみる」目が備わっていく。そうした姿を読みながら、ぼくたち読者も、ケアとは何か、育児とは何かを学んでいく。

かつて、ブラジル北東部の貧民地区の労働者を教えたフレイレに、妻エルザは「あの人たちを理解していないのは、あなたのほうじゃないの?」という一言を突きつけた。竹端と娘の関係に危機が訪れるたびに娘目線で事態を収拾する妻に、そんなエルザの姿が重なる。

思わず竹端に、(古い表現で恐縮だが)「この果報者め!」と呟く。(フ)

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福嶋さんからお送り頂いた書評を最初に読んだ時も、そして今こうやって書き写しながらも、こんな優れた書評を書いて頂けること自体がありがたいし、まさに「果報者」だと思う。書評に解説を加えるのは野暮とはわかっているのだけれど、少し文脈も理解してほしくて、『「当たり前」をひっくり返す』(現代書館)のp135-137から、引用しておく。

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「「理解していないのは、あの人たちを理解していないのは、あなたのほうじゃないの、パウロ?」そういって、エルザはつけ加えた。「あの人たち、あなたの話はだいたいわかったと思うわ。あの労働者の発言からしても、それは明瞭よ。あなたの話はわかった。でも、あの人たちは、あなたが自分たちを理解することを求めているのよ。それが大問題なのよね」」(フレイレ、『希望の教育学』:三四頁)

これは、世界的なベストセラー『被抑圧者の教育学』の著者で教育学者のパウロ・フレイレが、同書を執筆する十年以上前の、一九五〇年代後半に出逢った現実である。その日、彼はブラジル北東部レシーフェの貧民居住区にある産業社会事業団のセンターで、労働者たちを相手に、ピアジェの理論を使いながら、親が子どもたちに体罰しないように、というレクチャーをしていた。彼の話が終わった後、「年のころ四十歳くらいの、まだ若いのに老けた感じのする男」が発言を求めた。「よい話をききました」「私のようなものにもすっとわかりました」とお礼を述べた後に、次のように問い始めた。

「パウロ先生。先生は、ぼくがどんなところに住んでいるか、ご存じですか? ぼくらのだれかの家を訪ねられたことがありますか」(前掲書、三一頁)

彼はフレイレの暮らしと自分たちの暮らしがどのように違うのか、説明し始めた。自分たちはシャワーもお湯も出ない、「からだをおし込む狭苦しい空間」で、「おなかを空かせ」「のべつまくなしに騒ぎ立てているガキたち」と共に「辛くて悲しい、希望とてない一日」を「繰り返す」日々だった。その上で、こう述べたのだ。

「わたしらが子どもを打ったとしても、そしてその打ち方が度を超したものであるとしても、それはわしらが子どもを愛していないからではないのです。暮らしが厳しくて、もう、どうしようもないのです」(前掲書、三二頁)

この言葉は、フレイレにとって「全生涯を通じて聞いたもっとも明快で、もっとも肺腑をえぐる言葉」(前掲書、三〇頁)であった。その日の夜、打ちひしがれながら帰宅する車の中で、たまたまその集会に同伴していた妻エルザからフレイレが言われたのが、冒頭の発言である。当時フレイレは、貧困地区の労働者「のために」働きたい、と熱意をもって仕事に取り組んでいた。だが、彼はあくまで一方的に労働者に話しかけているだけだった。彼ら/彼女らから学ぼうとしていなかった。労働者たちは、フレイレの話を理解していた。その一方、フレイレは、労働者自身が置かれた現実や生活環境のことを理解してはいなかったのである。その時のことを、彼はこんな風に振り返っている。

「ぼくは学ばねばならなかった。進歩的な教育者は、すべからく民衆に語りかけねばならぬときも、それを、民衆に、ではなく、民衆との、語りあいに変えていかねばならぬのだと。」(前掲書、三三頁)

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優れた読者は、著者が思いも寄らなかったことまで、文脈を読み込み、関連付けてくれる。それが、本の面白さであり、素晴らしいところでもある。ぼくは自分の子育てエッセイを書きながら、『枠組み外しの旅』や『「当たり前」をひっくり返す』という著作のケアバージョンである、とは思っていた。でも、まさかフレイレがエルザに言われたあのエピソードにつながるとは、思いも寄らなかった。でも、福嶋さんに指摘されて、当該箇所を読み直すと、ほんとうにその通りである。

子ども「のために」と思って、必死に頑張ったところで、子どもの声に基づいて動かない限り、その「あなたのために」は、親のエゴであり、暴力的な関わりになる可能性だってある。そして、最近痛感するのは、年長組の娘は、親の言うことはしっかり理解出来ている、ということだ。出来るかどうかは、さておいて。一方、彼女が出来ない、言うことを聞いてくれない時、「理解していないのは、あの人たちを理解していないのは、あなたのほうじゃないの」というエルザの箴言は、まさに妻に言われているフレーズとも共通して、耳が痛い。どうして福嶋さんは我が家の夫婦の会話を知っているのですか?と思ってしまうほど、図星の指摘である。

そして、ぼくは失敗を繰り返し、頭を打ちながらも、他者である娘や妻のことを理解しようと少しずつ右往左往する中で、福嶋さん曰く「「わからなないことを聞く」耳、「他者を主体としてみる」目が備わっていく」のだと思う。そのプロセスを言語化したのが、このエッセイだ、と言われてみて、なるほど、確かにその通り!とびっくりし、他者の解釈で自分の本がより深く出来る、という不思議な体験を得られた。

だからこそ、フレイレの言う「ぼくは学ばねばならなかった」というフレーズも、改めて突き刺さる。娘や妻「のために」という説得や恩着せがましいabout-nessのモードを脱却して、妻や娘「とともに」というwith-nessモードの「語りあい」をし続けることができるか、が、常に問われている。

そんなことを、9月の頭に気づかせて頂いた。福嶋さん、素敵な「ギフト」、本当にありがとうございました。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。