戦略的母性主義という可能性

「母性」というのは、悩ましい言葉だ。子育てをするなかで、子どもを包み込み・無条件に承認するような愛情が自分のなかにもあること発見して、「母性的」と言いたくなる自分がいる。でも、ぼくは生物学的にも性自認も男性である。そのぼくが「母性的」と自らを名乗るのも何だか変な気もするのだが、それを「本質主義的だ」と批判するのも違うような気がする。

そういうモヤモヤを抱えていたので、元橋利恵さんの『母性の抑圧と抵抗:ケアの倫理を通して考える戦略的母性主義』(晃洋書房)を読んで、そうかそんなふうに考えればいいんだ!と、少し風通しがよくなった。

「母親業の営みは、パターナリズムに特有の、『優れた』者がそうでない者を代弁するという発想には基づかない。ケアとは非対称な関係性のなかで相手を1人の人間として尊重するということから始まり、ゆえにそこは常に自分と相手との間のぶつかり合いや葛藤が生じる。母親業では子どもの意思を尊重しつつ、彼彼女らが人間として尊厳をもてるような選択肢や問題解決を具体的な文脈に寄り添いながら思考し導いていくことが要請される。それはマターナル(maternal)な営みであると言えるだろう。」(p204)

パターナリズムとは父権主義や温情主義とも訳される言葉で、「『優れた』者がそうでない者を代弁するという」ある種の上から目線の、恩着せがましいアプローチである。そこでは、「可愛そうだから何とかしてあげよう」という温情的な視点はあるが、あくまでも父的な存在が絶対的な力を持ち、絶対的に非力な子どもは父に言われるがままに導かれる、という非対称な関係を前提にしている。そして、その非対称な関係は、「仕方ない」「そういうものだ」とデフォルトにされる。ゆえに、親子がぶつかった時は、親に子が従うのが「仕方ない」「そういうものだ」と理解されやすい。

一方マターナルな営みは、「非対称な関係性のなかで相手を1人の人間として尊重するという」ケアからスタートする。赤ちゃんや幼い子どもでも「1人の人間として尊重する」ということは、相手の意思決定を大切にすることであり、親が思う方向ややり方と違う動きをしても、押さえつけることなく、そのものとして尊重する必要がある。その際、「自分と相手との間のぶつかり合いや葛藤が生じる」。五歳の娘と日々過ごしていても、服のたたみ方とか、片付け方とか、本当にささいなことで、「自分と相手との間のぶつかり合いや葛藤が生じる」。

その時に、「お父さんのやり方の方が正しい(効率的だ、上手くいく・・・)から、このやり方でしようよ」と提案しても、娘は頑として受け付けない。その時に、父の中に存在するパターナリズムは、「そういうもの」だから聞いてくれたらいいのに、とつい温情主義から暴力的な抑圧に転化しそうになる。でも、ここで一呼吸を置いて、子どもを観察して、待つことが出来るか、が問われる。それはまさに、元橋さんが描くように、「子どもの意思を尊重しつつ、彼彼女らが人間として尊厳をもてるような選択肢や問題解決を具体的な文脈に寄り添いながら思考し導いていくこと」なのである。その時、ぼくはパターナリスティックな部分とマターナルな営みに引き裂かれる。そして、何とか後者に踏みとどまろうとする。

元橋さんの論考が圧巻なのは、このようなマターナルな営みとしての、母親達の政治運動に関して、歴史的な視点を持ちながら、フィールドワークを行った点である。第二次世界大戦中の「軍国の母」が大政翼賛会に参加していったことや、その反転としての反戦運動に転じていった歴史を踏まえた上で、1980年代のチェルノブイリ原発事故以後の反原発運動、そして2011年以後の反原発・反戦運動を俯瞰するし、近年の母親によるアクションが、「戦略的な母性主義」に基づく、と指摘している。

「本書の視座である戦略的な母性主義は、『個』であることと母性を相反するものと捉え母親を社会の中で劣位に置く近代個人主義的な母性観に対して、母親業のなかで鍛えられ培われた思考や判断力を社会構想の基盤に置こうとする。戦略的母性主義の視点からは、母親の活動は、個としての存在を抑圧するものではない。むしろ、個としてしか主体であることを認めない従来の枠組みを批判し、母であるという『わたし』から始めるという視点を有しているものである。」(p141-142)

ここで言う「母であるという『わたし』から始めるという視点」は、「個としてしか主体であることを認めない従来の枠組み」とは違う視点である。子どもと抱えた母である、という複数性を抱えた主体であり、「常に自分と相手との間のぶつかり合いや葛藤」を抱えている、という点で、単数の個とは異なる存在である。そして、「近代個人主義的」においては、そのように1人に割り切れない母なる存在を、「社会の中で劣位に置く」価値判断をしてきた。子どものケアを母に押しつけ、父は外で主体的に働く、というあの構図である。でも、それによって見えなくなっている視点がある。それを社会構想の基盤に置こうとするのが、「戦略的母性主義」の視点なのである。その結果、反安保法制に関するママの会において、以下のような展開がスタートしていく。

「ママの会のメンバーたちは、政治活動の場で『母としての私』として日々の母親業の経験や不安について話す。そして、その語りが集団において承認されることによって、母親である自分は政治にふさわしくないと考えていたことが、実は、母親業に価値を見いださない政治の仕組みや文化のほうに問題があるのだという認識の転換を行っている。このようにして、自らの行う母親業には政治的価値があるという確信を得ることが、メンバーたちを励ます。そして、エリート政治の空間に子どもを連れていき、母親の日常の延長に『政治』を置こうと試み、政治の当事者であることを奪われている他の母親たちにアプローチを行う等といったママの会の活動の特色をつくることにつながっていったと考えられる。このように、彼女たちが母親であることを掲げながらも、『自分の子どものため』だけに留まらず、『他の母親や他の子どもたちのために』という思考や行動につながっていく。」(p190)

「母親である自分は政治にふさわしくない」というのは、明らかにパターナリスティックで近代個人主義的な日本の政治が、母親にそう思わせてきたことである。そして、ママ達もそれを疑うことなく内面化してきた。だが、「日々の母親業の経験や不安」に基づく、政治や行政に関する違和感や疑問を言葉で表現することで、「その語りが集団において承認されることによって」「実は、母親業に価値を見いださない政治の仕組みや文化のほうに問題があるのだという認識の転換」が始まる。

これは、「保育園落ちた、日本死ね!」という1人のママの怒りの発言が、待機児童問題を政治化させたプロセスを思い出させる。あるいは「エリート政治の空間に子どもを連れていき、母親の日常の延長に『政治』を置こうと試み」は、熊本市議会で子どもを連れて出席しようとしてバッシングされた議員の試みを思い出させる。パターナリズムに染まった人々(男女問わず)は、二つの出来事に批判やバッシングを浴びせかけた。だが、この2人の母親の行動によって、「彼女たちが母親であることを掲げながらも、『自分の子どものため』だけに留まらず、『他の母親や他の子どもたちのために』という思考や行動につながって」いったのである。これらは、まさに「母親業のなかで鍛えられ培われた思考や判断力を社会構想の基盤に置こうとする」戦略的母性主義の一例である、と言えそうだ。

そして、こういった戦略的母性主義はケア倫理にも結びついている、と元橋さんは整理する。

「母親業を担う者としての『母親』の政治的アイデンティティは、あらかじめあると措定された本質としての母親ではなく、ケア行為の事実や、ケアの価値をないがしろにする政治への対抗から創出されたつながりである。政治的アイデンティティとしての『母親』は、子どもの尊厳を傷つけるものや、母親業の遂行を妨げる社会のあり方を不公正とみなし闘う者であることがその本質であると言える。そのため、母親業の政治的アイデンティティは、親の性別やセクシャリティ、家族形態を問わない。」(p205)

パターナリズムに染まる人々が称揚する母性を持った母親とは、子どもを無条件に愛するが、政治には口出しせずに慎ましく慕う像であろう。一方、ママの会も含めて、社会的にバッシングも受けた上記の女性たちは、政治的主体性を剥奪されていないし、それを主張している。これは本質主義的な「母なるものは父なるものとは異なり、政治的な発言は父に任せる」というパターナリズムに染まった主張とは真逆である。「ケア行為の事実や、ケアの価値をないがしろにする政治への対抗から創出されたつながり」であり、発言である。女子どもは黙って男に従え、という旧時代の抑圧的価値観に対して、「子どもの尊厳を傷つけるものや、母親業の遂行を妨げる社会のあり方を不公正とみなし闘う者である」。これはケアを重視した倫理的な態度、という意味で、ケア倫理に基づいた政治的主体性を引き受けた存在であり、「本質としての母親・母性」とは異なる「戦略的母性」である。

そして、そのような「戦略的母性」について、「母親業の政治的アイデンティティは、親の性別やセクシャリティ、家族形態を問わない」とも彼女は語る。ぼくは十分に出来ているとは言えないけれど、「子どもの尊厳を傷つけるものや、母親業の遂行を妨げる社会のあり方を不公正とみなし闘う者」ではあり続けたい、と思っている。「ケア行為の事実や、ケアの価値をないがしろにする政治」については、アカンもんはアカン、と言い続ける。そういう意味で、「戦略的母性」をぼくも生きたいと、心を新たにした。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。