コンフォートゾーンを越える

ひさしぶりに「ワイドビューふじかわ号」でブログを書いている。

山梨を後にして5ヶ月で、久々に仕事で呼んでもらい、【8日】県児童家庭課の地域コーディネーター養成研修→南アルプス市の地域福祉計画庁内ミーティング→飲み会→【9日】元ゼミ生とのダイアローグ→「半年振り返り会」、と、てんこ盛り。8日の12時過ぎのスーパーあずさで甲府について、9日の12時40分南甲府駅発のワイドビューで帰るので、超濃厚な24時間だった。そして、往復は行きも帰りも5時間の列車旅。

この濃厚な24時間を振り返ると、「コンフォートゾーンを越える」がテーマだった。

コンフォートゾーン。それは、安心で快適な領域、のことである。自分が慣れ親しんだやり方を手放す、という意味合いでも使われる。僕の中では、「若い仲間から学ぶ直す/と学びほぐす」というのが、それにあたる。

この24時間で一番時間を共にしたのが、NPO bond placeの小笠原祐司さん。彼はファシリテーションや場づくり、組織変革を専門にしているだけでなく、僕のYGUでのゼミ生を引き継いでくれた、尊敬できる仲間である。彼とは月に1度、Zoomでの定期ミーティングをしていて、その中で「僕は他人や組織の話を聴いたり、ファシリテーションをする機会は圧倒的に多くても、僕自身の話を聴かれることがない」とつぶやいたところ、「では今度タケバタさんが山梨に来た折に、振り返り会をしましょう」と提案してくれた。この振り返り会の中で、他の2人の参加者と4人で、お互いの半年をじっくり聞き合う2時間半を過ごす中で、小笠原さんに言われたのが「タケバタさんって、コンフォートゾーンを越えようとされているんっすね」。それを聴いて、いま・ここがまさにそう!と思っていた。

僕は昔から、熟達者に弟子入りして学ぶ、という構えが得意だった。中学時代の塾の塾長にはじまり、予備校の先生や、大学の先生、そして大熊一夫師匠への弟子入りと四半世紀くらい、熟達者の近くで学ばせて頂く、という構えを続けて来た。小さい頃から「大人の会話に入りたがるおませな”ひろっちゃん”」にとっては、そのガキの頃からの願いが実現していったプロセスでもあった。

だが、大学教員として独り立ちするなかで、先達から学ぶチャンスも徐々に減っていく。その中で、気がつけば僕が熟達者に近づいていく、というより、年若い仲間と学び合う機会が少しずつ、増えていった。その象徴が、岡山の『「無理しない」地域づくりの学校』。あの場の校長を仰せつかり、教頭の尾野寛明さんも、用務員の西村洋己さんはじめ、学校メンバーとガッツリ付き合う中で、指導する学生ではない、年若い仲間が沢山増えていった。これは、僕にとって新しい経験や発見であり、その中で学ばせてもらったり、オモロイ経験をさせてもらうことも少なからずあった。

昨日から今日にかけて、三つの場で小笠原さんのファシリテーションを間近で体験する機会があったが、それを見ていても、「こんな風に聴くんだ」「こんな展開を考えるんだ」「こういう流れを作っていくんだ」という発見や学びが多かった。企業のコンサルテーションがバックグラウンドの彼と、福祉現場に関わる僕とは、一見すると別のアプローチをしているようにも見えるが、富士吉田側から登るのか、御殿場から登るのか、の違いで、目指す富士山という到達目標は同じ、と感じる事が沢山あり、だからこそ、彼とのやりとりから学ばせてもらうことが沢山ある。

そして、南アルプス市の現場では、小笠原さんだけでなく、山梨県立大学の高木さんともご一緒した。彼は愛媛や神奈川、山梨の地域福祉の現場でコツコツ誠実に関わっている逸材だが、地域福祉のコア概念を押さえた上で、ボトムアップ型の政策形成を提案出来る彼の視点やコメントは、僕には言えない・見えていなかった視点であり、それを聴いている僕もすごく学びや刺激が大きかった。南アルプス市では第3次地域福祉計画の策定アドバイザーとして僕は関わらせてもらったが、僕がやり残した・一人では出来ない何かが沢山ある、と自らの限界を感じ、兵庫に移籍する以前から、高木さんと小笠原さんとチームを組んで動きたいと思い続けてきた。なので、こういう感じで二人とコラボできるのが、めちゃ嬉しい。

そして、これって、熟達者に弟子入りする、というこれまでの慣れ親しんだモードから、ようやく脱しつつあるのかな、と今日思い直していた。新たなチャレンジなのだが、不安よりも、ワクワクの方が先行している。

先達から教わる、とか、学生に教える、ではなく、同世代や下の世代の仲間と、共に考えあい、学び合う。その中で、僕自身が学んで来たことを解き放ち(un-learn)、新しい考え方を学び直すような関係性が、気がつけばあちこちで出来はじめている。これが、僕自身の中での「開かれた対話性」と重なったとき、オモロイ相互作用が始まるのかもしれない、とも思い始めている。

それと共に、慣れ親しんだ山梨を離れてみて、今回の山梨からの旅立ちも、コンフォートゾーンを越えるチャレンジになっている、と遡及的に思い始めている。

山梨では、居心地の良い学科・同僚に恵まれ、ゼミ生とも良い関係が結べ、授業もうまく展開して行き、市町村や様々な福祉現場の人とも信頼関係が生まれ、最後の数年は実にスムーズに事が運んでいた。それは不安や不快な何かが減っていく、コンフォートゾーンに入ったことでもあった。だが、子どもが生まれ、孫に会いたいと願う父への親孝行のつもりで山梨を去る決断をしたのは、結果的にこのコンフォートゾーンを手放したことでもあった。肩書きも教授から准教授に変わり、給与も下がった。でも、僕の中でもう一度、「出来上がった何か」ではなく、一から学び直す、チャレンジャーの立ち位置に戻った感覚を持っている。まだ、色々な事に慣れていないし、100人越えの授業でアクティブラーニングに取り組むなど、今までとは違う新たなチャレンジにも取り組んでいる。それらは、結果的に先ほど書いた学びほぐしや学び直しと直結している。これは、今回の「振り返り会」に参加して、新たに気づけたことでもあった。

そして、それはこの1年間の子育てや家族関係にも直結している。

妻と結婚して16年目。子どもが産まれるまでの14年間に、お互いがしたいことを追求しながら、二人で旅行にもあちこちでかけたり、一緒に飲みながら語り合うなど、コンフォートゾーンを二人で創り上げてきた。そして、子どもが産まれたあと、まさに移行期混乱というか、周りに関係なくありのままに泣き、笑い、ぐずがり、眠る娘さんに翻弄され続けてきた。安定した二者関係から、必死で生き延びる三者関係に移行したことにより、お互いが随分シンドイ思いもしてきた。だが一方で、子どもと妻と三人で過ごすありふれた日常が、実に愛おしく、かけがえのない何かであると感じる瞬間も、確実に増えている。二者関係のコンフォートゾーンはなくなったけど、今度は三人での新たなコンフォートゾーン作りを、やんちゃな娘に翻弄されながらも、作ろうとしているのかもしれない、とも思う。

そんな意味でも、僕自身が「いま・ここ」の立ち位置を改めて振り返り、これからの歩みに思いを寄せる、濃厚な24時間であった。

内なるハウルを意識する

ブログの更新が二ヶ月も空いてしまった。2005年に開設して以来、初めてのこと。引っ越しや勤務先が変わった疲労が出てか、何度か風邪も引いたし、子育てに仕事のピークが重なると、ツイッタに書き込めてもブログのために1時間割く余裕がなくなっていた。一般教養の130人の採点が終わったので、やっとその余裕を取り戻す。

さて、この間もっとも僕の心に残っていること。それは、昨晩指摘された、僕の中の「内なるハウル」の存在である。少し、丁寧に説明してみたい。

ハウルの動く城、とは、多くの人がご存じの宮崎駿のアニメである。そして、その「ハウルの動く城」を「魂の脱植民地化」の視点から考察した深尾葉子先生と、昨晩お話ししていた折、実は僕自身の中にも「ハウル」がいた、ということがわかってきた。それが、①英語を話すときと、②人前で講演するとき、の僕である。

きっかけは、深尾先生のお友だちのスティーブさんと三人で英語で議論をしていたとき、僕自身が頭をかきむしりながら必死で英語で言いたいことを絞りだそうとしていたのを見て、深尾先生から「何だか普段のタケバタさんと違うよ」と指摘されたことだった。僕はそれが、自分の英語表現の下手さ・稚拙さゆえである、と思い込んでいた。だが、深尾先生と話すうちに、僕が抑圧していた過去を思い出す。それは、英語の発音を巡る思い出である。

僕は小学校の頃、ラボファミリーという英語サークルに入っていて、「ぐりとぐら」「だるまちゃんとかみなりちゃん」といったかこさとしの童話が英訳された内容のテープをずっと聴いていた。だから、ヒアリングは割とすんなり出来るし、小学校の頃は比較的流ちょうな英語を話せていた。だが、中学校に上がってすぐ、友達から「巻き舌なんて、なんかいちびっている!」「外人っぽい!」と馬鹿にされて以来、日本語イングリッシュに強制して、巻き舌を封印した。だからこそ、それ以来英語を話すのにエネルギーが必要になった。伝えたいこと、話したい内容が一杯あるけど、「いちびっている!」と馬鹿にされた記憶ももたげて、下手な日本語英語しか出て来ず、相手に伝わらず・・・という悪循環に陥っていたのだ。

その話を聴いて下さった深尾先生が一言、「日本人に聞かせるのではなく、ネイティブと話すんだから、格好つけでもなんでもないじゃない」と仰って頂き、その呪符はひらひらと飛んでいった。そう、一生懸命力を入れて、日本語英語を話すから、疲れるのだ。そう思って、昨晩再び英語で議論した時、夜という時間帯もあって、テンションを上げずに、何だか気怠い感じで、必死に話そうとせず、リズムにのるように、話してみた。すると、表現や文法上の稚拙さは変わらないかもしれないけど、より自然に英語が出てきたのだ。それは、深尾先生もスティーブさんも同意してくれた。

このエピソードを通じて、もう一つの僕自身の「仮面」を思い出していた。それが、「講演モード」の「仮面」である。

数年前まで、研修や講演が終わると、「あなたの話を聴いて元気を貰いました」と言われることが多かった。一方、僕自身は講演が終わるとへとへとに疲れ果て、グッタリすることもしばしば、だった。だが、対価をもらって講演する、ってそういうことなんだ、と勝手に自分で思い込んでいた。その一方、身体はボロボロになるし、漢方医や鍼灸に通っても、その場しのぎでいっこうに快復しないのも、また事実だった。

そんな折、昨年春に未来語りのダイアローグの集中研修を受けて、僕自身が「頑張らなくて良いんだ」と思うようになった。僕自身がしっかり「話すと聞くをわける」ことを理解し、研修内でもより多くのダイアローグの機会を作り、「不確実性さを耐えること」になれて、僕の持って行きたい筋書きを放棄し、その場に任せるようになると、より場全体のダイアローグが深まっていった。そういう場では、落としどころを探らなくても、色々な人の声を拾う中で、勝手に場が収まっていった。そして、そういう講演の方が、確実に聞いて下さった方の全体的な満足度があがった。「元気になりました」と言われることはなくなったけど、「色々考えるきっかけをもらえました」と聞く機会が増えた。

つまり、これまでの僕は、一方的に伝えるのに必死になって、何とかして会場の人を「説得」して、理解させようとしていた。熱量をかなり込めて語るので、うまくいけば、相手に伝わって僕の熱量を伝えられると共に、僕自身はクタクタになった。でも、その熱量ゆえに時として、会場の人からの大きな反発を招き、研修中に激論になることもあった。そういうときは互いの熱がぶつかりあい、会場全体がグロッキーになってしまっていた。

でも、今はそういう「説得」を手放し、議論を一致させることも狙わなくなった。それは、僕がダイアローグを学んだトムさんから、次のアイデアを聞いていたからだ。

「ダイアローグが始まる前は、さまざまな独自の見方があります。ダイアローグの後にも、さまざまな独自の見方があります。しかし、見方はさらに深まっていて、お互いの物の見方がよりよく理解されています。このようにして、協力して活動する方向へと道が開かれます。」(トム・エーリク・アーンキル&エサ・エリクソン『あなたの心配ごとを話しましょう』日本評論社、p64)

「協力して活動する方向へと道が開かれる」ことが主目的であれば、意見を一致させる必要はない。むしろ、あなたも僕も唯一無二の存在なのに、意見を一致させる、とは、どちらか一方の価値観に従いなさい、という強制にしばしば陥る。熱量を込めれば込めるほど、反発を招く可能性が高くなる。ダイアローグにはならないし、押さえつけるときも、反発を招くときも、必要以上にパワーを使い、結果的に両者が疲れ果てるだけである。

だからこそ、意見の一致、ではなく、「お互いの物の見方がよりよく理解され」ることを目指す方が大切なのだ。そのためには、僕が必死に力んで話をするのではなく、テンションを下げて、落ち着いたトーンで、「あなたはどう思われますか?」と伺うことが必要不可欠なのだ。

で、ここまで①英語を話すときと、②人前で講演するとき、の僕が疲れ果ててきたこを述べて来た。では、なぜこれが「内なるハウル」なのか。

それは、アニメを見た人は思い出して欲しいのだが、ハウルは外界から「城」に帰ってくると、いつもグッタリ疲れ果てているのである。外界ではイケメンスーパースターとして振る舞っているのだが、その実、めちゃくちゃ怖がりで、自分の部屋(内界)にはお守りを張り巡らせているハウル。外界でテンションを上げてスターを演じた後、内界の扉を開いた段階で、既に肩を落として疲れ果てているのである。

このハウルの疲れ果てた姿が、英語を話した後や日本語で講演をした後の僕の姿と同じだ、と深尾先生に指摘されて、やっと初めて気づけた。つまり、この2つの振る舞いをしている時、僕はかなり無理をして、テンションを上げて、自分のエネルギーを使い果たし、「馬鹿にされないように」「少しでも敬意を持たれるように」と、他人のために心身を酷使してきたのだ。そして、その事に無自覚なまま生きてきたから、深尾先生のハウル論は以前から読んでその概要は諳んじて言えるにもかかわらず、「僕はハウルみたいにイケメンでもないし」なんて訳のわからない理由を付けて、僕自身のありようとは無関係だと切り分けていたのである。これって、まさに「魂の植民地化」そのものだ!

だいたい、「馬鹿にされたくない」「敬意を持たれたい」というのが、僕自身のありのままを表現することへの恐怖や、他者への憧れとそれが出来ない自己嫌悪にもとづく「自己愛」の作用である。安冨歩先生の名著『生きる技法』の中では、この「自己愛」を超えて、ありのままの自らを愛することを「自愛」と表現していた。そして、僕は『枠組み外しの旅』を書くプロセスに身を投じて以来、この7,8年の間に、だいぶ「自愛」モードを手に入れてきた。そのプロセスで、昨年くらいから、講演や研修場面でも、無理せず自愛モードを獲得出来た。そういえば、『「無理しない」地域づくりの学校』を岡山の仲間たちと創り上げてきたのも、僕にとっては格好のリハビリだった。だが、それが全然未開発で、「無理しまくって」「自己愛」に陥っていたのが、英語を話すときの僕、だったのだ。そんなことに、ようやく気づき始めた。

少なからぬ人が、自分の中に「内なるハウル」を抱えている。虚勢を張り、外界で無理をして、内界で疲れ果てる、という、憧れと自己嫌悪がセットになった自己愛モードだ。それは、ハウルの声優として一体化できた某ジャニーズ系アイドルさんの中にも恐らくあるだろうし、僕の中にも、しっかり根付いていた。あるからダメ、なのではない。それがあることに気づけると、キョンシーに貼り付けられた呪符のように、勝手にそれがほどけていく「魔法」なのである。深尾先生は「魔法は魔法であると自覚すると、その効力が失われる」と仰っていた。そう、自らのシンドサや悪循環に、その自己愛のフィードバックループがあるとわかれば、そこからどう抜け出せるか、も模索できるのだ。

ちょうど今日は立秋。姫路は何だか秋風のような涼風が吹き続けている。僕自身、もう少しクールダウンして、テンションを下げて、流れに乗るように、自分自身のあるがままに日本語でも英語でも表現できるように、ぼちぼちモードを切り替えていこうと思う。

ポリフォニー的現実

5月12日から13日にかけて、2017年の4月に「未来語りのダイアローグ」の集中研修を受けたグループの振り返り会を同志社大学で行った。24名の参加者が、1年前からの変化を振り返った。その上で、日曜午後はオープンな場での実践報告会を行った。

この日、僕は実践報告会全体のファシリテーションをしていてのだが、いつものように、会場内からの声を伺いながら、「話をまとめよう」「関連づけよう・つなげよう」としていた。このやり方は割と評価されてきたし、密かに自分自身も自信を持っていた。だがその様子を見ていた、同じ研修の参加者で、家族療法の大家でもある白木考二さんが、研修の合間に、「あんまり綺麗にまとめすぎない方がよい」と仰ったのが衝撃的だった。ただ、すごく大切な論点のような気もしたので、実践報告会の最後に白木さんにお願いして、二人でリフレクションを全体の前でやってみた。

白木さんがその際に言ったのは、「話をまとめようとするのは、旧来型のファシリテーションのやり方だね」「一つの話にまとまりそうになった時には、僕なら『他の話はありませんか?』と聞く」ということだった。「なぜですか?」とおたずねすると、「その方がよりポリフォニックになるから」という。「だって、意思決定の場ではないのだから、話をまとめなくてもいいじゃない」と。「僕は無責任だから」とも。これらの発言は、僕にとって目から鱗だった。

そう、僕はやっぱり「話はまとめなければならない」という旧来のファシリテーションの技術の癖が身についていたのだ。でも、白木さんが言うように、別にその場は特に、何かをまとめなければならない、という訳ではない。ダイアローグをしにきたのである。であれば、「何かをまとめよう」「話を一つの方向性に持って行こう」というファシリテーターの意図や意思は、その場に対して介入的な働きかけになる。白木さんのレクチャーでも、OD/ADが目指すのは、「早期の介入」ではなく、「早期の対話だ」、という話がなされていた。そういう意味でも、竹端はまだ介入的側面があったのだ。だが、ADで求められているのは、あるいは対話的な場で求められているのは、豊かなポリフォニーで、不確実性に耐えることであり、一つの声にまとめる・不確実性を縮減することではないのである。

という訳で、改めてヤーコとトムの本を読み直してみると、こんな風にも書かれていた。

「ポリフォニー的現実においては、誰の声が正しく誰の声が間違っているかを決めることはできない。<全ての声>が重要であり、新たな意味を生み出すことにかかわっているのだ。それらは等しく価値がある。モノローグ的な語りでは、声にヒエラルキーがある。たとえば、もっぱら主治医である精神科医の意見が診断を決めることになる。ポリフォニー的対話では、専門家間のヒエラルキーは重要ではない。問題となっている事態についての理解が豊かになればなるほど、より多くの声が新たな意味をつくりだすことに加わってくるのだ。」(『オープンダイアローグ』日本評論社、p109-110)

「<全ての声>が重要」と言うとき、それは、その場の流れの主流の声「以外の声」も「重要」ということである。研修会や授業などで、主流の声が浮かび上がると、僕はその主流の声を強いものにしよう、としてきた。それが、議論を方向付けることであり、「良いことである」と信じ込んできた。だが、そういう風にすると、時として感情的反発を招いた場面にも出会ってきた。そういう時には、その感情的反発をする人を「わからずやだ」「困った人だ」とラベルを貼って、終わることもあった。

だが、そのラベリング自体が、「ヒエラルキー」を産んでいる元凶なのだ。ファシリテーターの僕が、そのような「ヒエラルキー」を生み出すなら、その場は「ポリフォニー的対話」ではなく、「モノローグ的語り」で終わってしまう。そして、「モノローグ的語り」は「新たな意味」を生み出さないだけでなく、「誰の声が正しく誰の声が間違っているかを決めること」に加担するのだ。しかもそれは、ファシリテーターの「声が正しく」、その声に反する声は「間違っている」とファシリテーターが(無意識に)「診断を決める」ように査定者のポジションとして機能するのだ。まさに、これって権力作用そのもの。精神科医の権力作用を批判する僕自身が、ファシリテーションの場面で自らの権力作用に無自覚というのは、本末転倒である。

急いで付け加えておくと、もちろん、僕自身もある程度の試行錯誤をする中で、ここ最近は、ファシリテーションの場面で、できる限り色々な声を会場内から拾ってきた、つもりである。だが、白木さんに指摘されたように、「まとめ」モードになると、そこから声を選択的に選んでいたのも、また事実である。そして、その選択と集中を、良いことと、と思い込んでいた節もある。

では、どうすればよいのか。

「<全ての声>が重要」である、と本当に思うなら、主流の流れと違う声も「重要」であると受け止める必要がある。異論や反論は、方向付けられている流れに対する障害や障壁でない。「問題となっている事態についての理解が豊かにな」る、ということなのだ。そして、ある方向性の「声」とは違う「声」も含めた「理解が豊かになればなるほど、より多くの声が新たな意味をつくりだすことに加わってくる」という。「急がば回れ」ではないが、ある問題に賛成の意見が多いときこそ、まとめの場面であっても、賛成以外の意見も拾うことで、その問題に対する「新たな・別の理解」が豊かになり、単純な善悪や賛否という二項対立的なモノローグではなく、「より多くの声が新たな意味をつくりだす」ことが可能になるのだ。

そこから更に広げて考えると、僕自身はこれまで、ある程度、意見をまとめる・集約することがファシリテーターの役割だ、と思い込んで来た。そうすることにより、「より多くの声が新たな意味をつくりだす」チャンスを失い、モノローグ的な結論になっていたのかもしれない。そして、そのような一本化こそ、ファシリテーターの「取るべき責任だ」、と思い込んで来た。

だが、ダイアローグを大切にする「責任」を果たすならば、意見の方向付けや一本化という部分には「無責任」でないとつとまらない、と気付かされる。ダイアローグの前提に「ポリフォニー的現実」があるのなら、ダイアローグを大切にするということは、「<全ての声>が重要」であると理解し、異論や反論、少数意見をもその場を豊かにする大切な意見であると尊重し、まとめの場面でも取り上げることこそ、「取るべき責任」なのである。

そう考えたら、これまで僕は、「取るべき責任」をはき違えていた、と改めて気付かされた。「多くの声が新たな意味をつくりだすこと」を目標にして、そのためにこそ、<全ての声>が出てくるのをファシリテートする必要がありそうだ。そのことに無自覚で、せっかくのダイアローグのチャンスを、自ら潰して、ヒエラルキーに基づくモノローグ的語りに堕していたのだとしたら、何という愚かなことをしていたのだろう・・・。

そういえば、研修の翌日の講義で学生に「自分が『何をわかっていないか』をわかることが、最も大切だ」と伝えていた。偉そうに言っているけど、僕自身、上記のことが「全然わかっていなかった」のである。情けないけど、それは紛れもない事実。以前の僕だったら、白木さんの指摘の真意が理解できなくて(見たくない現実に蓋をしたくて?)、怒り出したり、感情的反発を抱いたかもしれない。でも、ダイアローグの研修を受ける中で、ようやく今、素直に己の愚かさやモノローグ的・支配的ファシリテートの欠点と、向き合う事ができはじめた。

<全ての声>を大切にするための実践を、これから少しずつ積み重ねていきたい。そう感じている。

島成郎とバザーリアの「重なり」

島成郎の名前は知っていたが、彼は僕が大学院生の頃(2000年)に亡くなられたので、どんな人かよくわからなかった。でも彼の沖縄精神医療の著作はなぜか2冊とも持っていたし、学生運動の闘士、だとも、ぼんやり知っていた。今回、この評伝を読んで、やっと彼の全体像が見えてきた。
彼と学生運動の関わりに関しては、ご自身の総括本もあるし、学生運動関連の本でも何度も出てくる。だが、精神医療との関わりについては、情報があまりない。そこで、丹念に彼に関わった人へのインタビューを積み重ね、島がどのように精神医療を捉え、何を実践しようとしたのか、をつぶさに拾い上げたところに、この本の価値がある。
左翼の活動家リーダーから精神医療の実践者に変わった。この部分では、現象学的精神医学研究者から、精神病院の院長して精神病院を潰そうとしたフランコ・バザーリアに重なるところがある。バザーリアも、イタリア共産党よりも極左だったという。島も、共産党から除名されていた。二人とも、第一の人生(活動家リーダー、研究者)で着目されるも、その世界からはドロップアウトして、「在野に下る」中で、精神医療の現場を変えていく第二の人生に後半戦を捧げ、そこでは多くの事を積み上げて行く。そういう共通点がある。
で、この本を読みながら感じたのは、島もバザーリアも、党利党略ではなく、自分の中の軸をしっかり持ち、その軸に基づいた生き方をしてきた、ということ。イデオロギーとしての政治、というより、人間を見据えようとしていた。
学生運動の後に、医師や学者、政治家、ジャーナリスト、企業人に転身して「成功」した人々の中には、組織の論理に順応し、そこで勝ち上がる事に人生を賭けてきた人も少なくない。国家権力と闘ってきた「はず」なのに、その後の人生ではガッツリ権力闘争で勝ち上がった人々。そういう姿を、以前は「変容」「転向」だと思っていたが、その人の中での内在的論理を考えるならば、結局そういう層の人にとっての学生運動は、受験勉強の延長線で、組織内で勝ち上がる、という意味では共通していたのかも、と、内情を知らない後人の僕は訝しくなる。
一方で、島は組織におもねろうとしない。沖縄で地元の医療関係者や政治家から批判的な視線を浴びつつも、私宅監置の状態にある利用者の家に訪問し、中に入って、その監置状態を解放しようとした。組織で成り上がることより、利用者との出会いや相互作用を大切にした。その相互作用の魅力に惹かれ、彼の周りにの多くの支援者や家族が、彼と共に、地域精神医療のムーブメントを起こしていった。このあたりも、バザーリアと同じで、「既得権益」層から徹底的に嫌われるが、現場の中で賛同者を増やし、草の根から変えていった点とも重なる。島の晩年の講演録を引用した部分に印象深い記述がある。
「精神病院が閉鎖的だというのは、鍵をかけて患者さんを閉鎖的にしているだけではなくて、そこで働いている人間が非常に閉鎖的になっているということなのです。(中略)職員自身が自閉的になって閉鎖的になってしまう。心を閉じてしまう。外のことがわからなくなります。そうなると地域との交流もなくなって、地域との交流がなくなれば患者さんとの交流もなくなる」(p299)
この記述を読みながら、バザーリアの評伝の次の一節を思い出していた。
「患者が病院に収容されているとき、医師には自由が与えられています。ということは、収容された人が自由になれば、その人は医師と対等になるのです。しかし、医師は患者との対等な立場を受け入れようとはしません。だからこそ、患者は閉じ込められたままなのです。つまり医師こそが彼らをそうさせているのです」(『精神病院のない社会を目指して バザーリア伝』 p41)
閉鎖空間で「自閉的」「閉鎖的」なのは、患者だけではない。職員自身も「閉鎖的」で「心を閉じてしまう」。「地域との交流がなくなれば」「外のこともわからなくなる」だけでなく、「患者さんとの交流もなくなる」。これって、交流を遮断しているのは、患者ではなく、医療者の側なのだ。医師が患者と対等になるのが怖いから、患者は閉じ込められたままなのだ。そして、医師はますます「閉鎖的」「自閉的」になっていく。(その極端な例の人が書いている自閉的な独白のサンプルはこちら)
そして、島もバザーリアも、この「対等」な関係性を大切にしようとした。だからこそ、私宅監置の部屋に訪問したり、閉鎖病棟の鍵を開けていった。つまり、自分自身が「精神病状態」とラベルを貼られた「人間」と対等に向き合う中で、島やバザーリアの側が、つまりは医療者の側が、自らの鎧となっていた専門性のヒエラルキーの呪縛から自由になり、心を開いていったのではないか。そう読み解くことが出来る。

社会問題に関して、評論家的に批判する事は容易い。でも、現場に入り込んで、多くの人の賛同を得ながら、実態を変えていくことは、決して容易くない。それを、誠実に取り組んで来た人なのだなぁ、と学び多く読ませてもらった。

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追記的に書くが、この本の後書きを読みながら、障害者領域で多くのルポを書き続けて来た著者、佐藤幹夫氏のスタンスがわかった。自らのご家族が入所施設に暮らした経験を持つ障害者家族として、施設批判の論理に身を切られる思いをしつつ、その気持ちを脇に置きながら、しっかりと評伝をまとめ上げられたことにも、敬意を表したい。

学習Ⅲと枠組み外し

連休最終日、明石にある看護の大学院で2コマ、講義をさせて頂くことになった。『枠組み外しの社会思想史』について、話して欲しい、という有難いオーダー。ちょうど4月末の別の研究会で『オープンダイアローグ』(日本評論社)を読み直し、その中で改めてベイトソンと向き合う必要を感じて、連休中に大著『精神の生態学』を読み直してみたら、以前分からなかったことが、しっかりわかるようになっていた。そこで、大学院のコマの半分くらいを使って「学習Ⅲと枠組み外し」というネタで話をしていた。その時話した内容を、忘れないように、メモをしておく。

この本の「学習とコミュニケーションの階型論」という論考の中で、ベイトソンは3つのレベルの学習について、以下のように整理している。

  • 学習Ⅰ・・・反応が一つに定まる定まり方の変化(慣れ、反復、報酬や報復を伴うプロセス)
  • 学習Ⅱ・・・学習Ⅰの進行プロセス上の変化。経験の連続体がくくられる、その区切り方の変化(慣れや反復などが「性格」に転化する)
  • 学習Ⅲ・・・学習Ⅱの進行プロセス上の変化。代替可能な選択肢群がなすシステムそのものが修正されるたぐいの変化(このレベルの変化を強いられる人間は、時として病的な症状をきたす)

学習Ⅰとは、「パブロフの犬」のように、チリンチリンと鳴らしたら餌が与えられることを「学ぶ」ということである。そして、学習Ⅱは、そのチリンチリン→餌、という反復や報酬のプロセスを学ぶことで、チリンチリンと鳴ったら、餌が与えられていなくても、よだれが出てくる、という形で「慣れや反復などが「性格」に転化する」プロセスをいう。ここまでは、よく分かる。だが、以前この本を読んだときに、僕は学習Ⅲが何を意味するか、がさっぱり分かっていなかった。しかし、今回読み直す中で、学習Ⅲが、どうやら僕がこの6,7年追い続けている「枠組み外し」の考え方と親和性が高いことが、やっとわかりはじめた。

その話に入るためにも、もう少し学習Ⅱから学習Ⅲへのプロセスを見ておこう。

ベイトソンは、勝ち気、お調子者、気難しい、大胆、臆病といった「性格」について、「学習Ⅱの結果として習得されたパターンを記述する言葉」であり「人間の相互作用の枠付けられ方」(405)だと喝破している。それは一体どういうことか。そのために、彼はある二人の会話を取り上げている。

AとBが[a1, b1, a1+1]の相互作用を行う

これは会話のモデルであり、学習Ⅰから学習Ⅱの移行プロセスである、とベイトソンは指摘する。どういうことか。例えばAさんが、「僕の言いつけを守ったら、あめちゃんをあげるよ」(a1)と話しかけ、Bさんが「うん、わかった。頑張るよ」(b1)と応答し、「エライね、言いつけを守ったから、あめちゃんを上げよう。次もそうするのだよ」(a2)と述べたとしよう。これは、「報酬と罰の条件を定めるシグナル」(a1)、「Bがそれに従うというシグナル」(b1)、「b1を強化するシグナル」( a1+1)のプロセスであり、これが連鎖すると、「AがBを支配している」というプロセスが出来上がる。

そして、この相互作用のモデルを用いると、全く逆の「AがBに依存している」というモデルも出来上がる。それは、a1が、「何らかの「弱さ」を示すシグナル」(=「俺一人ではだめなんだ」)を送り、b1が、「その弱みをカバーする行為」(=「私がついていれば大丈夫よ」)をすることによって、a2として、「そのb1をAが受け入れたことを示すシグナル」(=「やっぱり頼りになるなぁ」)を返す、というプロセスである。そして、支配も依存も、先ほどのコミュニケーションパタンという慣れや反復(=学習Ⅰ)が「性格」に転化する(=学習Ⅱ)なかで、固着化される。

その上で、「「身に染みついた」前提を引き出して問い直し、変革を迫るのが学習Ⅲだ」(412)と「サイコセラピストは、学習Ⅱのレベルで患者にしみついている前提の入れ替えに挑戦する」(410)という部分が結びついた時、僕の中でようやく学習Ⅲとは何か、が見えてきた。あ、それってADの集中研修で学んだ・体験したリアルダイアローグの世界そのものかも、と。

オープンダイアローグや未来語りのダイアローグも、家族療法の流れから多くのものを学んで出来上がった考え方である。そして、昨年僕が集中研修で学んだ未来語りのダイアローグ(Anticipation Dialogue: AD)では、実際のダイアローグも見たし、ファシリテーターもさせてもらったり、ロールプレイも体感した。その中で、決して強引に明示的に行われる訳ではないものの、結果的にそこで生じているのが、「「身に染みついた」前提を引き出して問い直し、変革を迫る」ということだったのである。もう少し、具体的に述べてみよう。

ADでは次の三つの質問がデフォルトとなっている。

①「一年がたち、ものごとがすこぶる順調です。あなたにとってそれはどんな様子ですか? 何が嬉しいですか?」②「あなたが何をしたから、その嬉しい事が起こったのでしょうか? 誰があなたを助けてくれましたか? どのようにですか?」
③「一年前、あなたは何を心配していましたか。あなたの心配事を和らげたのは、何ですか?」

これは、「心配事」で一杯一杯になっていたり、「心配事」に囚われている、という意味で「「身に染みついた」前提」「学習Ⅱのレベルで患者にしみついている前提」を、一端脇に置き、本人が決めた未来の「良い変化」を主題化してそれを具体的に検討し、実現に向けたプランを設定するプロセスである。「心配事」ではなく「良い変化」を先に訊ねることによって、「学習Ⅱのレベルで患者にしみついている前提の入れ替え」への「挑戦」が、侵襲的ではない形で行われ、そのなかで「「身に染みついた」前提を引き出して問い直し」、その結果として具体的な行動プランを練り上げることで「変革を迫る」。これってまさしく「学習Ⅲ」プロセスそのものである。

ただ、ADもODも、それを一人でせずに、チームで行う事に最大の魅力がある、ということもわかってきた。なぜなら、一人で行うと、「このレベルの変化を強いられる人間は、時として病的な症状をきたす」可能性があるからだ。そして、僕自身がこの「病的な症状をきたす」一歩手前まで行ったことがあるので、「同行二人」のありがたさがよくわかる。

僕は東日本大震災の直後、発狂寸前の状態にまで、追い込まれたことがある。

あの日、余震が続く甲府の自宅で妻とテレビを見ながら、津波が人や車を飲み込んでいく光景をライブでみてしまい、その後、ツイッタ画面にしがみつきながら、様々な情報の爆発を目の当たりにしていた。そのなかで、「まさか津波が街を飲み込むはずがない」「原発は安全に運営されているはずだ」という僕自身の「「身に染みついた」前提」が、眼前で引き剥がされていく。映像で見れば明らかに爆発しているのに、「爆発的事象」「支障ない」などと言葉が置き換えられる。にもかかわらず、原発周辺自治体からの避難勧告が求められ、しかし政府発表は「落ち着いて行動せよ」と繰り返す。それは、政府発表の「安全性」を信じたいのに、現実には信じることが出来ない、という意味で、「学習Ⅱにおける矛盾」の最大化であり、ダブルバインドそのものであった。

その当時、気が狂いそうになりながら、何とか此岸にしがみつく為に書いていたブログを読み返すと、レインを必死で読みながら、「ポスト311の局面で生じているのは、「一次的存在論的安定」への大きな裂け目、亀裂である」と書き綴っていた。そう、僕自身が日本の文化で育ち、なんとなくそういうものだ、と無批判に信じ込んできた原発神話とか、政府の信頼性といった「一次的存在論的安定」が、文字通り揺さぶられ、亀裂が生じ、何を信じてよいのかがわからなくなってしまったのだ。だからこそ、ユング心理学もかじっていた僕自身はその当時、「教育分析を受けたい」とうわごとのように妻に繰り返して言っていたが、実はサイコセラピーを受けたいと希求するほど、追い詰められていたのである。

その4ヶ月後、「枠組み外し」をキーワードに思考を整理するブログ記事を連載しながら、僕自身が辿り着いたのは、「存在論的裂け目と枠組み外し」であった。少し長くなるが、その時のブログを引用しておく。

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ゆえに出来る事は、その枠組みそのものを眺めること、それもメルロ=ポンティが言うように、「われわれを物理的・社会的・文化的世界に結びつけている鎖を否認することではなく、逆にそうした結びつきを見ること、意識すること」であろう。原爆から原発へとどう「鎖」が「結びつき」を強めてきたのか。政治家と官僚の構造とはどう結びついているか。中央集権的システムから地方分権に移行できなかった日本に、どのような構造的制約があるのか。そのしわ寄せとして、福祉現場で、もっとも権力の非対称性の枠組みの中から抜け出せない人々は、結果的にどのような処遇を強いられているのか。私自身が見てきた福祉現場のミクロな現実にも、日本社会のマクロな総体、つまり『世界の定立』にある呪縛作用が現れている。その枠組みを外してみる、「現象学的還元」をする、以前のブログの整理で言うと、「福祉現場の構造に関する現象学的考察」を続けることによって、何らかのブレークスルーが見いだせるのではないか。そう、感じている。

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僕が、ポスト311の世界で、学習Ⅱの信念体系がその土台から崩され、発狂しそうになりながら、何とか食い止められたのは、ひとえに「学習Ⅱの進行プロセス上の変化」をそのものとして眺められたからである。それは「その枠組みそのものを眺めること」であり、「代替可能な選択肢群がなすシステムそのものが修正されるたぐいの変化」としての学習Ⅲを、文字通り命がけで行っていたのが、僕自身の「枠組み外し」であった。

そして、オープンダイアローグや未来語りのダイアローグが良いところは、一人でやったら発狂しそうになる、この学習Ⅱという「性格」にまで根付いた前提を問い直す危険な枠組み外しを、安心・安全な場の設定の中で、with-nessを共に出来る支援チームと共に飛び越えていく、というところに、その良さがあるのである。

と、ここまで気づいて、僕が『枠組み外しの旅』で書いてきたことは、既にベイトソンが半世紀前に分析していた内容そのものだった、と遅まきながら、気づかされた。だが、僕は自分の頭で論理を構築しないと身につかないタイプなので、発狂寸前になりながらも、自分なりに「枠組み外し」という学習Ⅲのプロセスを自前で行った後に、未来語りのダイアローグや学習Ⅲ概念に出会えて、本当によかった。やっと、ここまで言語化することが出来た。

そんな万感の思いがあったので、忘れないうちに、長々とブログに書き付けておく。何だか『枠組み外しの旅』の次作に向けた旅が始まりそうな予感もしている。

 

セクハラと性教育バッシング

財務省の事務次官が女性記者にしたセクハラ言動や、その後の本人および大臣や財務省の一連の対応に、すごく嫌な気持ちになっている。そのモヤモヤをどう表現したら良いか、とおもったら、小田嶋さんのコラムで、すぱっとこう表現されていた。

「録音された音声を聞いた上であらためて記事を読んで見ると、福田氏のセクハラ発言が、通常の日常会話や取材への受け答えの中にまったく無関係に挿入される挿入句のように機械的にリピートされている印象を持ったからだ。
それこそ、学齢期前の子供が、進行している対話とは無関係に「うんこ」とか「おしっこ」だとかいった単語を繰り返し発声しながらただただ笑っている時の、幼児性の狂躁に近いものを感じた。」

実は僕はこの小田嶋コラムのタイトルである「能力が高すぎた」という部分と、「幼児性の狂躁」を掛け合わせると、色々なモヤモヤが氷解し始めた。以下、そのことを書いておく。

まず、この小田嶋氏の指摘する財務次官の「能力が高すぎる」とはどのような「能力」を指すのか、ということである。それを氏はこのように表現している。

「助平な福田さんと有能な福田さんという二つの別々の人格を同時並行的に機能させつつ、その二人の腹話術的複合人格の福田さんとして振る舞うことが可能だったのだと思います」

「二つの別々の人格を同時並行的に機能させ」るのは一般には「二重人格」と言われ、「二人の腹話術的複合人格の福田さんとして振る舞うことが可能」なのは「乖離」状態なのだろう。だが、そんな「助平」をしながらも、「有能な福田さん」を維持し続ける事が出来たからこそ、かれは「財務次官」の職につけたのである。

これを読みながら思い出したのは、以前のブログでも引用したアルノ・グリューンの『「正常さ」という病』である。

「狂気を巧みに隠している人々の場合には、権力の追求が、差し迫っている内面的な混沌と内面的な破壊を防ぐ唯一の道となる。空虚を、自分自身の内面的な空虚と認識しなくてすむように、彼らは破壊と空虚とを自分の周りに創り出す。」(アルノ・グリューン『「正常さ」という病』青土社、p30)

「今日の精神病理学の矛盾は、何よりもまず、みずからの感情世界とのつながりを保つ以外の事はそもそも追求しない人々が病人であると分類されていて、このつながりから逃れようとしている人々は病人とされないことだ。」(同上、p28)

二重人格や乖離をしながらも、「正常」と言う世界内での地位や権力を追求できる「能力」。そのことを指してグリューンは、「権力の追求が、差し迫っている内面的な混沌と内面的な破壊を防ぐ唯一の道となる」という。財務次官の地位にしがみつき、自らの行動を音声データが出ても否定されるのは、「差し迫っている内面的な混沌と内面的な破壊を防ぐ」からだ、と言われたら、納得できる。そして、彼の「能力」は、「みずからの感情世界とのつながり」「から逃れようとしている」中で発揮される「能力」なのである。

うーむ、これって『「正常さ」という病』そのもの、なのかもしれない。

セクハラ行為も、「空虚を、自分自身の内面的な空虚と認識しなくてすむように、彼らは破壊と空虚とを自分の周りに創り出す」プロセスとして行っていた、とすると、その行為は全く許されないが、彼の内在的論理の断片がみえてくるような気もする。

とはいえ、僕は個人を診断したり、断罪したいのではない。今回のブログで主題にしたいのは、ここ最近、沢山出てくる「社会的地位が高い人」「学歴優秀な人」「能力がある人」と言われる男子がセクハラを繰り返すのはなぜか、ということである。それに関して、グリューンの「感情世界とのつながりを保つ」と小田嶋氏の「幼児性の狂躁」から、見えてくることがある。それは、「日本における性教育の不足あるいは無さ」の問題である。

それに関して、先日の足立区立中学校での性教育バッシングの記事も思い出す。記事によると、望まない妊娠を防ぐための性教育を行っていた区立中学に対して、ある議員が中学段階では不適切だ、と圧力をかけていた、という。そして、その議員は「家庭と社会の再生の為、今一度、純潔教育(自己抑制教育)の価値観に回帰すべき」という信念を持っていたという。

「純潔教育(自己抑制教育)の価値観」なるものによって、何が「抑制」されたのか。その記事では教育学者の橋本紀子氏の以下の指摘を掲載していた。

「〈日本では02年以降、学校の性教育に対する保守派の「性教育バッシング」が起きており、性教育の内容に対する厳しい抑圧と規制が強まっています。ちなみに、性教育バッシング派は、性器の名称を小学校低学年で教えること、性交と避妊法を小・中学校で教えることなども「過激性教育」として攻撃しています。」

僕はこの「性教育バッシング」に、「破壊と空虚」を見る。そして、その「破壊と空虚」が、「空虚を、自分自身の内面的な空虚と認識しなくてすむように、彼らは破壊と空虚とを自分の周りに創り出す」プロセスと捉えたら、「セクハラ」行為と繋がって見えてくるのだ。

「性教育バッシング」と「セクハラ」

一見すると全く二つの異なって見える行動。だが、この二つとも、共に「性愛」における「感情世界とのつながり」を無視・破壊し、「幼児性の狂躁」レベルで対応している、という点で、ぴったり符号を一にする行動に見えるのだ。つまりは、本来は「感情世界とのつながり」を豊かに保つための大切なプロセスである「性愛」を、「うんこ」「おしっこ」といった単語を繰り返すレベルの、「幼児性の狂躁」でしか理解できていない、ということである。

これが、「能力」の高い大人のすることであろうか? あるいは、この国で評価される「能力」の高さには、上記の意味での「感情世界とのつながり」の豊かさは、カウントされないのだろうか。

では、他国ではどうしているのか、とググってみると、フィンランド人のこんな話が載っていた。

「包括的性教育というのは、単に事実を提供するもの ではありません。 「若者が」と書いてありますけれども、「成人」も含 めてください。「セクシュアリティや生殖の健康につ いて、自身の感情・情緒的スキルや価値を発見・発達 し、開発していくということを奨励」するもの、これ が包括的性教育です。 包括的性教育とは、対話です。基本になるのは、家庭生活、人間関係、多様性、文化、セクシュアル・アイデンティティ、ジェンダー・アイデンティティ、バ ウンダリー(境界線)を引くということの重要性、自尊感情、肯定的なセクシュアリティ、身体の肯定など に関する対話が重要です。」(肯定的で健康的な自尊感情とセクシュアリティを育む フィンランドにおける性教育と家庭(親)支援)

実は、日本の学校で排除されてきたのが、このような「自尊心や肯定的なセクシュアリティ、身体の肯定」などについて豊かに「対話」する機会であり、その意味での「包括的性教育」である。そして、財務次官を初め「能力」の高い人が受験勉強にせっせと打ち込んでいても、そのような進学校でも「自身の感情・情緒的スキルや価値を発見・発達 し、開発していく」ことは教わらない。だって、試験に出ないから。

だが、「自身の感情・情緒的スキルや価値を発見・発達 し、開発していく」ことを学べないまま大人になるということは、「感情世界とのつながりを保つ」こととは逆のベクトルである。そして、その「つながり」から逃れる事こそ「正常」だと誤解する事によって、「能力」の高さを評価された人々は、「差し迫っている内面的な混沌と内面的な破壊を防ぐ」ために「権力を追求」し、「空虚を、自分自身の内面的な空虚と認識しなくてすむように」、彼らはセクハラや性教育バッシングといった「破壊と空虚とを自分の周りに創り出す」。

だが、セクハラや性教育バッシングをする人が、真っ先にしなければならないのは、「自身の感情・情緒的スキルや価値を発見・発達 し、開発していく」ことなのである。権力を維持する「能力」はあっても、「感情世界とのつながりを保つ」ことは「未熟」なのだから。

このことに、今回の一連の騒動は気付かせてくれたように思う。これは、もちろん他人事ではない。僕自身だって「自身の感情・情緒的スキルや価値を発見・発達 し、開発していく」ことはまだ「未熟」だし、「感情世界とのつながりを保つ」ことも得意ではない。

ユングはタイプ論で「思考」と「感情」は対極に位置すると指摘し、主機能が「思考」の場合、劣等機能は「感情」になり、その劣等機能は逸脱したり幼稚な形で漏れ出てくる、とも言っている。思えばセクハラも、性教育バッシングも、その劣等機能である「感情」の歪んだ発露にもみえる。

今一度、「自身の感情・情緒的スキルや価値を発見・発達 し、開発していき」「感情世界とのつながりを保つ」ことを重視しないと、このような歪みは何度も再発する。少なくとも、僕自身は、妻や子どもとアクチュアルな関係のなかで、そのことに自覚的でありたいと思う。

聴くことと民主主義

久しぶりにトム・アーンキルさんのワークショップに部分的に参加してきた。去年、未来語りのダイアローグ(AD)の集中研修を受けて以来、この魅力にはまり、僕自身の生き方にも影響を与えている。今回も、トムさんの話を聴きながら、腑に落ち、また考えさせられる事があった。それが、「聴くこと」と「民主主義」の関係性について、である。

ワークショップの質疑応答の場で、一人一人の話を聴くことの重要性と平等性について関係を問われたトムさんは、こんな事を語っていた。

「これは民主主義の話でもあります。この話をするためには、4人の思想家について触れてみましょう。まずはフーコーの権力関係。関係性の中での心配事(Relational worries)を取り上げる際には、当然話し手と聞き手の間の権力関係にも自覚的でなければならない。次にブルデューの『資本』の話ですが、明らかに文化資本や社会関係資本が少ない・奪われた人がクライエントで、専門家の側がその逆になっている場合がある。その際、文化資本や社会関係資本を多く持つ側が、自らのその資本の多さを所与の前提としてしまうと、それは抑圧的な場や関係性にになる。文化資本が低いことが、ソーシャルネットワークの危機でもある、ということに自覚的かどうかが問われる。そしてトクヴィルの『アメリカの民主主義』。トクヴィルはアメリカ政治は民主主義的ではないが、アメリカの労働組合に民主主義を発見した、という。草の根の議論の中で、民主主義が息づいている、と。そして、最後はデューイの公共性。狭義の民主主義は国会だが、広義の民主主義は平場での議論だ、と。」

このトムの話は、僕の中で深く残った。ダイアローグが権力関係に無自覚な場で「道具」として使われると、安易に管理や支配の方法論に堕してしまう。それを乗り越える為には、民主主義的な関係性を築くための一手段としての対話、というプロセスにかなり自覚的である必要があるのだ。

このダイアローグと民主主義の関係性を考えていたとき、知り合いのかやさんとやりとりしていたら、こんな事を指摘された。

「民主主義ではない場に民主主義を持ち込むやり方はいびつに感じます。支援の中にある民主主義ではないものを取り除くことが大事なのに、ということに気づきました。取り除けば、自然とそこに民主主義的な場があるはず。たぶん。」

僕は以前から、精神科病院の中でのオープンダイアローグに反対してきた。そのことは以前のブログでも書いたことがあるのだが、かやさんの言葉を借りるなら、「民主主義ではない場に民主主義を持ち込むやり方はいびつ」だからだ。精神科病院の中では、明らかに患者と医療職の間での権力の非対称性がある。その権力の非対称性について、専門職が無自覚のまま、「さあ、遠慮なく対話しましょう」というのが、「いびつ」なのである。

そこまでは、以前のブログでも整理していた。ただ、今回のワークショップを受ける中で改めて考えたのは、かやさんの指摘した後段の、「支援の中にある民主主義ではないものを取り除くことが大事」と言う部分である。そして、ここに「聴くこと」という補助線を入れると、随分物事がクリアにみえてくるように思う。

まだ翻訳されていない、トムさんとセイックラさんの最新の主著の副題がRespecting Otherness in the Present Momentとなっている。これは、トムさんの講演時の一貫したテーマでもある。ちょっと意訳してみると、「いま・ここの瞬間に、他者の他者性を尊重すること」である。そして、これは「聴くことと民主主義」という今日のテーマにも大きく関連している。

「支援の中にある民主主義ではないもの」とは、支援における専門職支配のことであり、支援者の枠組みの中に当事者を当てはめることである。そのためのアセスメントでは、専門職が聴きたいことだけを聴き、当事者が本当に話したいことは「それは支援に関係ないから」と無視したり、聴かないでいる。

だが、他ならぬ「いま・ここ」でわざわざ支援者に向けて当事者が話し始めたことには、それなりの意味があるのである。それが、専門家の想定外であったから、アセスメントに無駄な雑談だと切り捨てるのか。どんな話であれ、いま・ここで話されているその「他者」の話に耳を傾け、自分が知らない「他者性」と向き合う事が出来るのか、で随分展開が変わってくる。

私たちは、「話すこと」については自覚的であったり、トレーニングを積んできたとしても、「聴くこと」については、無自覚で練習不足ではないだろうか。

僕は今回のワークショップで、ある人の悩みを聴く練習をしていた。その時、またいつもの悪い癖が出てしまった。それは、「相手が発言した言葉の通りに繰り返す、のではなく、相手の話を勝手にまとめる」という悪癖である。「それって○○ということですよね?」と。これは、「①相手の話をしっかり受け止めることなくことなく、②自分が勝手に相手の話を解釈し、しかも③その解釈を相手に押しつける」という三重の意味での権力関係の行使、なのである。これぞまさに「支援の中にある民主主義ではないもの」そのものであり、そしてこの非民主主義的な関係の行使は、権力の非対称的な支援や教育の現場で、しばしば起こっているのである。そして、それは僕が教育現場で侵し続けている愚でもある。

つまり、本当に民主主義的な教育や支援を取り戻そうとすれば、支援や教育の対象者ではなく、支援や教育を行使する側が、つまりは僕自身が、自らの「聴き方」を変えることから始めなければならないのだ。①相手の話が自分の想定外の内容であってもそのものとして受け止めた上で、②勝手な解釈をせずに、気になるなら③僕には「○○」と仰っているようにも思えるのですがどう思いますか、と発言者本人に解釈や判断を委ねる質問をする必要があるのだ。つまり、簡単に言うなら、話の主導権を話者本人に戻す、ということである。

支援や教育の現場ではこれまで、話し合いの主導権が支援する側・教育する側に全面的に握られてきたまま、であった。これこそ、非民主主義的なのである。支援や教育において、民主主義を取り戻す、とは、相手が話す際の主導権を相手に返す(専門家が相手の発言の主導権まで握らない)ということである。そのためには、専門家が聴きたいことしか聴かない、というスタンスを変え、ちゃんと相手の話をそのものとして受け止める、というスタンスの変更が求められる。そのためには、聴く練習を、専門家こそ自覚的に行わなければならないのだ。

明日の授業から、僕自身がちゃんと聴けているか、に自覚的になろう。そして、想定外の発言が飛び出した時にこそ、自分の聴きたい範囲に内容を縮減することなく、「いま・ここの瞬間に、他者の他者性を尊重すること」を実践してみよう。そう、心を新たにする研修であった。

兵庫県立大学に移籍しました

13年ぶりに、新しい職場で、新しい辞令を受け取った。

2018年4月から、兵庫県立大学環境人間学部に准教授として着任した。

久しぶりの関西で、50万都市の姫路という大都会に家族と一緒に移り住む。今年は引っ越し狂想曲が予期されたので、家も研究室も2月末には引っ越しをした。1ヶ月たって、やっと家もどこに何があるか、がある程度わかるようになり、研究室の70箱もほぼ空いた。物理的に環境は整ったが、新しい職場環境に慣れるのはこれから。よってしばらくは移行期混乱の渦中にいることになるだろう。

山梨学院大学時代は、法学部政治行政学科に所属した。今度は環境人間学部の環境共生社会コース(今年度からは社会デザイン系)というコースに属する。どちらも福祉学科ではない。でも、福祉士の国家資格も持っていないし、養成過程教員の研修会にも行っていない僕には、福祉学科では採用される見込みはない。それに、法学部政治行政学科時代は、福祉国家や市民社会論など、この学科に所属するからこそ、守備範囲を広げることができ、政治学や行政学の先生方から沢山のことを学ばせて頂いた。

そして大学で地域福祉論を教えたり、現場での地域福祉課題と向き合う中で、次第に従来の地域福祉の射程の狭さ、が息苦しくなってきた。家や研究室の本棚の整理を手伝ってくれた元教え子のフジワラさんが、「福祉以外の本がメチャ多いですね」と言っていたが、ある時期から、福祉現場で抱いた問いを解決するためには、既存の福祉の本では満たされなくなってきた。なので、上述の福祉国家論や市民社会論、だけでなく、地方自治論や都市計画、地場産業、コミュニティ論など読み漁ってきた。ここ数年は家族療法やオープンダイアローグ関連、それに子どもが生まれて以後、子育て支援や保育関連の本も五月雨式にふえ、相変わらず専門が何だかわからない状態である・・・。

閑話休題。
そんな模索の過程の中から、岡山ではじめた『無理しない地域づくりの学校』。この学校の「教頭」でもある尾野寛明さんが「福祉が中心ではなく、地域が中心だ」と本の中でも明言してくれたのが、最近の僕には一番しっくり来ている。「住民にとって、福祉は地域の一部でしかない。買い物難民や農村振興、地場産業や獣害対策など、様々な地域課題の一つとしての福祉でしかない」と。そう、地域福祉を考える際に、この「大きな地図の中での位置づけ」がないと、地域の住民のリアリティからかけ離れた、福祉専門職のみのタコツボ議論に陥るのである。実際、獣害や買い物難民の問題、商店街や農漁業の後継者不足は、少子高齢化問題と直結している。厚労省や国交省、農水省や総務省と縦割りにしているから、関係がないようにみえても、地域ではそんな縦割りでは、問題は解決しないのだ。

今度の環境人間学部は日本では一つしかない学部。20年前から文理融合で作られた学部で、土木や建築、環境工学などの先生もいる学部の中で、僕が所属するのは社会デザイン系。同じ系の中には、防災教育や都市計画、農村計画やシティープロモーション、社会経済地理学など、魅力的な研究をしておられる同僚の方々がおられる。僕自身がまさに学びたいと思っていた領域の専門家とご一緒出来る。これは、僕自身にとっての願ったり叶ったりのチャンスである。また、大学院の講義も来年度から担当するのも、常勤としては初めての経験。よって、久しぶりに准教授に戻り、一念発起して、ガッツリ勉強し直そうと思っている。

ちなみに、姫路に一ヶ月暮らしてみての感想は、イエテボリやサンフランシスコに似ている、という印象。14年ほど前にイエテボリに半年暮らし、サンフランシスコは調査で何度も訪れた。共に港町で、第二の都市で、魚が美味しい。買い物はこの街で完結できるだけでなく、工業地帯やオフィス街もあり、近隣の官公庁の集積地で、郊外では農業が盛ん。歴史があり、独自の文化も持っていて、かつ雑多な人々の集まりという意味でも多文化な街。

事実、正月には未だに酢蛸や煮貝が振る舞われるほど、山国で活きのいい魚とは遠ざかっていたのが、山梨時代の数少ない不満だった。だが、こちらは瀬戸内や鳥取沖の新鮮な魚が近所のスーパーでも手に入る。うまい甲州ワインやサクランボ、ぶどうに桃は入手しにくくなったが、毎日新鮮な魚が食べられるのは、ありがたい。40代に入り、脂っこいものばかりだと身体が重くなり始めていたので、タンパク質を魚で取れるのは、本当に嬉しい。

ただ、のんびり甲府で暮らしていた13年間が快適だったがゆえに、この人の多さや、車の渋滞、などには、まだまだ全然慣れない。姫路での生活リズムを作るのは、まだ始まったばかりである。

落ち着いたら、兵庫や岡山、鳥取など近隣県のオモロイ現場を色々訪問したい、などの妄想は広がる。ただ、まずは職場になれることが、第一歩。ここで飛ばしすぎると5月病がきつそうなので、関西弁でいう「ぼちぼち、いこか」である。

あっという間の13年間

毎年、3月15日は山梨学院大学の卒業式。そして、僕自身が山梨学院大学の研究室で卒業証書をゼミ生に渡す最後の日でもあった。13年間お世話になった山梨学院大学をこの3月で退職し、4月から兵庫県立大学環境人間学部に移籍することになった。ここしばらく、この移籍関連で忙殺され、ブログからも遠ざかっていたが、甲府から姫路への「帰り道」に、山梨での13年間のことをざっくり振り返っておきたい。

思えば、山梨には一人も身寄りがいないところからのスタート、だった。

博士号を取得したものの、就職活動がうまくいかず、2年間で50の大学で落とされ続けてきた。結婚して妻が「主たる生計者」を担い、生活は何とかなっていたが、母からは「そんなに大学に職が決まらないなら、研究職以外の仕事も探したらは?」と言われ、心身ともにやさぐれていた。そんな中、山梨学院大学で「地域福祉論」の公募が出ていたのが2004年の秋。二次面接の前の日は、長野にお住まいの師匠のお宅に前泊させて頂き、美食にワインに楽しくごちそうになり、翌朝に生まれて初めて甲府に降り立った。大学の本部棟の待合室からは小鳥のさえずりが聞こえ、こんな環境で仕事が出来たらいいな、と思った。それが、甲府の第一印象だった。2年越しにやっと掴んだ公募の仕事で、職が得られた事がとにかく嬉しかった。

<プレイングマネージャーとして>
ちょうど山梨に来る前あたりから、障害者自立支援法の制定に向けた議論が着々と進んでいた。ポスドク時代にお世話になっていたNPO大阪精神医療人権センターでは、厚労省の出す「精神病床のあり方検討会」や「グランドデザイン案」などの資料を毎週のように膨大に印刷しては、それを批判的に分析していた。その関連で、厚労省の改革動向に関する学習会に関する講師にも度々呼ばれていた。一時期その資料だけで段ボール箱数箱分もあった。

山梨に着任後もすぐ、障害者福祉現場で、そういう厚労省の政策に関する学習会の講師などに呼んで頂いていた。その研修の場では、自立支援法の全面的批判だったのだが、「唯一評価できる可能性は、地域自立支援協議会です。要求・反対・陳情に終わらせず、官民共同で連携や提案出来る場にどう作れるか。この場をどう使いこなせるか、が鍵です」と必ず締めくくっていた。すると、その僕自身の発言に責任を取る場面が訪れる。山梨に赴任して1年ほど経った、春のある日の講演会の後、「ご挨拶がしたいのですが」、と名刺を差し出されたのが、山梨県障害福祉課のTさんだった。「自立支援協議会についてご相談があります」、とのこと。このTさんとの出逢いが、僕自身の仕事を大きく変えるきっかけになる出逢いになるとは、その時は思っていなかった。

聞けば、山梨県でも相談支援体制の整備や市町村の地域自立支援協議会の立ち上げ支援をしようと考えている。その際、国は学識経験者などを「特別アドバイザー」として市町村に派遣する事業を作っている。この事業を活用し、山梨県の特別アドバイザーになってもらえないか、というご依頼だった。まさに、自分が言っていることを「やってみなさい」というチャンスだった。行政と連携提案が必要、と理念で分かっていながら、この前まで大学院生で、どうやって良いのかわかっていなかった。で、1年間で出逢った山梨の現場の人にアドバイスももらい、就任条件として、①県内の市町村の現場を全て訪問したいので、行政の人が同行してほしい、②僕だけでなく、障害当事者も特別アドバイザーにして、二人体制にしてほしい、という二つの条件を提示した。①については、「県庁が市町村を呼びつけて」という批判をしばしば耳にしていた。②については、一人だけでは不安なので、東京で自立生活センターを手がけ、僕と同時期に山梨に移住されてていた今井志郎さんと出逢い、彼とご一緒するなら、何とかやれるかもしれない、という思いがあった。そしてTさんは、この無理難題に近い事を聞き入れて下さったので、こちらもいよいよ「口だけかどうか」が試されることになった。

それから数年間は、プレイングマネージャー的に、様々な現場に関わり続けた。28市町村の訪問の中で、人口規模や社会資源の違いがどのようにその地域の文化や文脈を形成しているか、を学んだ。その上で、机上の空論に近かった協議会を実際にどうやって立ち上げるのか、市単独か、複数市町村での圏域レベルで合同協議会なのか、を各市町村と色々やりとりしながら、立ち上げ整備のお手伝いをした。市町村同士の確執やら、担当者レベルでの理解状況など、様々なでこぼこがある中で、どう底上げするか、をいつも考えていた。あと、長野の山田優さんなど、他の地域で立ち上げ支援を行っている人々の情報を掴み、そこから山梨で出来る事は何か、を考える日々だった。あまりにしょっちゅう県庁1階の障害福祉課で作戦会議をするので、県庁の駐車場パスを作ってもらっていた時期もあったくらいだ。それだけでなく、相談支援の研修のビジョンを描き、実際にその講師をずっとしていた時期もある。長野県にならって、各圏域の相談支援体制整備の核となる「圏域マネージャー」を県単独事業で作ってもらい、その委託事業のプレゼン審査もした。とにかく、智恵がないなら動いて解決せよ、とばかりに、出来る一つの方法論を模索し続けていた。そんな仕事の仕方が気に入られ、気付けば三重県でも特別アドバイザーを引き受け、市町村の相談支援体制整備や障害福祉計画策定のお手伝いもし続けてきた。

こういう自治体福祉の現場にドップリ5年ほど浸かっていたからこそ、2010年に民主党政権下で、障がい者制度改革推進会議の総合福祉部会、という、自立支援法を根本的に作り替える国の検討会が開かれることになったとき、委員を依頼されても、僕にも出来うることがある、と思えるようになった。元々は、甲府に来る前から現地調査もしていたスウェーデンやカリフォルニアの脱施設化研究の知見を活かしてほしい、というご依頼だったが、僕の中では山梨の自治体のリアリティがあるからこそ、地域移行した後の地域生活支援をどう創り上げられるか、をイメージしながらの、骨格提言の原案整理のお手伝いもしていた。震災を挟んで骨格提言を出した2011年8月までは、毎週のように、だけでなく週2回とか3回、打ち合わせや作戦会議等で東京に通っていた。関西にいたときには遠い存在だった霞ヶ関が、山梨に来て心理的にも距離的にもグッと近づいた。

<書籍化へのドライブ>
そして、骨格提言が無残にもゼロ回答になり、敗北感で一杯だった。猛烈に「書かねば」という思いを持ち始めた。

「なんぼ良い提言をしたって、人々がそれを応援してくれないと、施策にはならない。そのためには、自分自身がしっかり考えている事を整理して伝え、発信する媒体にならないと」「どうして厚労省の認識枠組みが変わらなかったのか。その認識枠組みを変えないと、脱施設化や地域移行は進まないのではないか」

こういった問題意識と、2010年に出逢った「魂の脱植民地化研究」がピタッと重なり、2011年の秋から猛烈に書き始める。それは、東日本大震災の発生後が骨格提言の作成時期と重なり、思うように被災地支援が出来なかった自分自身と、どこかで自分自身のあり方にブレーキを踏んでいた僕自身の実存を問い直す文章でもあった。だからこそ、自分自身の枠組みを捉え直す旅としての「枠組み外しの旅」であり、僕自身がどのような定めを実現する心的発達過程にいるか、を意味づけ直す「個性化」が、福祉社会の変容にも直結する、という内容に高まっていった。これが、2012年秋に出した初の単著である『枠組み外しの旅-「個性化」が変える福祉社会』(青灯社)という著作に繋がる。この本を書きながら、僕の認識枠組みや生き様、価値前提を徹底的に問い直す、内面という「異界」への旅を続けて来た。博士論文がもともとのベース(の一部)であるが、博論提出から10年近く経ち、山梨での様々な試行錯誤があったからこそ、やっとこういう形での単著執筆、という成果に導くことが出来た。

そうそう、このあたりで触れておかねばならないのは、職場である山梨学院大学法学部政治行政学科が、実にフレンドリーな先生方ばかりで、働きやすい職場であった、ということだ。福祉学科のような実習巡回がないので、夏休みや冬休みは海外調査に出かけたり、論文や書籍執筆をゆっくりする時間的余裕があった。ありがたい事に着任後すぐに他大学の巨大研究プロジェクトに5年間混ぜてもらったり、自身の科研若手研究が5年間当たり続けたので、スタートアップの5年間で本を大量に買い続けた。そして、与えられた研究室がたまたま小教室を改造した部屋で、学部長の部屋に次いで広かったので、本棚やゼミをする為の机や椅子も買い増してもらい、じっくり研究にも打ち込むことが出来た。

自治体の現場で抱いた問いを何とかしたい、という実務的な欲求から、英米の福祉政策ではどうやって解決しているのか、を読み囓り、障害者政策や認知症支援、ヒューマンサービスの組織論などの議論を色々追いながら、日本の現場に当てはめて考えようとした。授業期間中は学内の仕事もあれこれあったが、関西出張の行き帰りの電車内で、出張時に買い求めた仕事能率本をあれこれ読み漁り、作業効率を上げるための鍛錬も行った。このブログも文章修行の一環として2005年の着任後すぐ初め、主に文献との対話を他人の目に触れる媒体でしよう、とブログに書き続けた結果、今では原稿執筆速度もかなり速くなった。習うより慣れよ、とはこのことだ。

寛容な職場、気持ちの良い同僚、サポーティブな事務スタッフ、などに支えられて、『枠組み外しの旅』の1年後には、『権利擁護が支援を変える-セルフアドボカシーから虐待防止まで』(現代書館)という二冊目の単著も出す事が出来た。もともとは、こっちの本の元案になる原稿の方を書きためていて、最初の単著はこっちと思っていたのだが、権利擁護について語る僕自身の視座がしっかり定まっていなかったので、その視座を固めるためにも、『枠組み外しの旅』を先に上梓しなければ、この本にたどり着けなかったと思う。山梨でも三重でも、市町村支援の現場ではいつもかならず「当事者主体」と「権利擁護」は車の両輪で、自治体福祉政策の柱になる、と伝え続けてきた。それが、何とか本という形になったのだと思う。

<ウィングを広げる>
そして、僕にとっての大学院生時代からのコアな課題を言語化出来たことにより、新たな可能性というか、チャレンジが舞い込む。山梨は東京や大阪と違い、研究者の数も少ない。なので、行政の仕事を一度引き受けると、他課からもお声がかかる。主任ケアマネ研修の「地域援助技術(コミュニティソーシャルワーク)」の研修をして欲しい、と声がかかったことがきっかけになり、今度は長寿社会課で地域包括ケアシステムを作るためのアドバイザーに就任した。ただ、僕は高齢者福祉もケアマネジメントも専門ではなかったので、一人では無理と思っていた。そこで、山梨県内で出逢った魅力的な僕と同世代の若手研究者の伊藤健次さん(ケアマネジメント論)や望月宗一郎さん(地域看護学)を巻き込んで、アドバイザーチームを作り、現場支援の合間に研究会も開きながら、地域ケア会議の持ち方などを、包括や自治体担当者とも議論し続けていった。そして、この取り組みが面白かったので、僕に声をかけてくれた長寿社会課の主担当だった上田さんが移動になる前の年に、伊藤さんや望月さん、上田さんと4人で編著者になって『自分たちで創る現場を変える地域包括ケアシステム』(ミネルヴァ書房)という本も作り、上田さんが移動になる2015年春に上梓できた。山梨のような小規模の県でも、カリスマ支援者がいなくても、出来る事が沢山ある、ということを示した一冊である。障害者自立支援協議会の立ち上げ支援から培ってきた、現場との、行政との協働を、書籍として形に出来た一冊でもあった。

そして、こういう著作を世に問うと、反応して下さる方がいるのが、実に嬉しい。2010年から始めたツイッターをフォローして下さっていた、岡山県社会福祉協議会の西村洋己さんが、『権利擁護が支援を変える』の発売を機に、2013年秋、岡山で講演会をして下さった。その時に、オモロイ若手の西村さんと意気投合した事がきっかけになり、翌年春には岡山のオモロイ地域福祉の現場を巡るツアーを組んで下さり、更に一緒に仕事がしたくなって、前から目を付けていた社会起業家で人づくり塾を全国各地で繰り広げていた尾野寛明さんにアプローチして、三人で2015年からスタートしたのが、『「無理しない」地域づくりの学校』。この学校を展開するうちに、いつの間にか地域福祉の領域に足を踏み入れてしまう。

お世話になっている編集者からは「タケバタ先生は、障害者福祉と高齢者福祉、地域福祉のどれが専門なの?と他の先生に尋ねられます」と言われる始末。そうそう、東京や大阪のような大都市にいると、先述の通り、各領域に先達がいるだけでなく、その領域で充足していても仕事が結構あるので、他の領域にまで、手が付けにくい。ただ、人口80万で、世田谷区より人口の少ない山梨県では、一旦お顔のみえる関係性のネットワークを創り上げると、色んな仕事が付随的に付いてくる。それを面白がって関わっているうちに、博士論文は精神科ソーシャルワーカーとノーマライゼーションの関係性を迫るもの、だったのに、その10年後には、三障害を束ねる自立支援協議会、だけでなく、地域福祉という接点から認知症支援にも携わることになった。でも、地域を中心とすると、障害や高齢や地域福祉というタコツボは関係ない。地域の中で、私がいて、課題がある。それにどう私を主語として向き合えるか。そういうスタンスで、『「無理しない」地域づくりの学校』に取り組み続けていたら、これも昨年末、ミネルヴァ書房から尾野さん、西村さんと共に編著者として書籍化する事が出来た。

<授業で一皮むける>
このような研究や実践をする一方で、大学教員としても、山梨では本当に沢山のことを学生達から学ばせてもらった。山梨学院大学の名刺を全国どこで出しても、知らない人はいない。こんなに全国に沢山の「○○学院大学」があっても、みんな必ず「ああ、駅伝の!」と答えてくれる。あの「関東大会」の宣伝効果は、本当に半端ない。それはさておき、山梨学院大学はカレッジスポーツにも力を入れているから、実に様々なタイプの学生さんと出会った。2005年に専任教員として赴任する前も、関西の大学や専門学校で非常勤講師をしていたが、「大学教員になれた」と力が入り、最初の頃は熱を入れて講義するものの、学生達は全然聞いてくれない。それを最初は、「聞いてくれない・居眠りする学生が悪い」と人のせいにしていた。でも、そう他人をなじったり、寝るなと言っても、一方的な講義なら、朝練習でクタクタの学生達は眠くなる。パウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』を読み直し、銀行型教育を、他ならぬ僕自身がやっている、という自己欺瞞にも気づけた。ならば、と授業スタイルを徹底的に変え始めた。

師匠の大熊一夫さんや、博論の指導教官だった大熊由紀子さんは、様々な現場の人々をゲストに呼んで講義をして下さった。ただ、僕はそんな資金を持っていないし、何より山梨で1限の授業に来てもらうのは大変だ。一方、法学部の学生に福祉現場の話をしても、現場実習もしたことがないし、そんな世界を知らない・興味がない・関係ないと思っていた学生達に言葉や文字だけで理解してもらうのは限界がある。そこで、「クローズアップ現代」や「ハートネットTV」、「バリバラ」など社会問題を扱う30分番組を撮りだめて、授業時に見てもらい、その前後で僕が問いかけたり、学生同士で議論しながら、話を進めていくスタイルに変えた。

すると、「自分の頭で必死になって考える」「朝から全く眠れない授業だ」という感想をもらえるようになり、受講者との相互関係も年々良くなってきた。「社会を変える前に、自分が変わる」。これは「枠組み外しの旅」の通奏低音でもあるが、授業でもまさに、僕自身の講義スタイルを変えることで、学生との豊かな相互作用が展開出来るようになった。ここ数年は、学生達の発言を板書しながら、それを掘り下げ、板書されたキーワードを関連づける産婆術的関与をするだけで、授業がどんどん深まっていくことにも気付いた。そして、僕一人で頑張って授業をしなくても、学生が主体的に参加すればするほど、学生の満足度も飛躍的に高まる事も分かってきた。そんな折に、大学での初年次教育改革のプロジェクトにも関わり、僕がやっている事は、「アクティブ・ラーニング」なんだ、と気付かされた。だから、大学内で割り当てられた業務も、自分自身のアクティブ・ラーニングのFD的な要素もあり、実学的に多くを学ばせて頂くチャンスを得た。

<ゼミという相互作用の場>
あと、ゼミでの相互作用から、本当に数限りないことを学んだ。

僕は大学・大学院とも、ゼミを経験したことがない。卒論は、指導教官の先生のご自宅や、近所の喫茶店で1:1で指導を受けていた。大熊一夫師匠に弟子入りしてからは、師匠の鞄持ち的にあちこちくっついて回った。博論の指導教官の大熊由紀子さんの周りには沢山のゼミ生が集まってきたが、肝心の僕自身が博論調査で忙しかったので、部分的にしかその輪に加われなかった。そんな中で、2005年の着任当初からゼミを持つ事になり、最初にやってきた3人の3年生とお茶を飲みながら、戸惑うばかり。そんなところから、ゼミが始まった。

ただ、ゼミ生と現場訪問をしたり、飲み会を繰り返したり、他の先生に教わって見よう見まねでゼミ合宿をしはじめたり、をしているうちに、僕なりの鎧が取れてきて、学生さん達との関わり方が少しずつ、わかりはじめた。そんな頃に出逢ったのが、その後ゼミ生との必読書になる安冨歩さんの『生きる技法』(青灯社)だった。「誰とでも仲良くなってはいけない」「憧れと自己嫌悪は自己愛である」「自愛は、ありのままの自分を愛すること」。ウィトゲンシュタインのような簡潔明瞭な定理と、それに基づく深い洞察、それを友達やお金、という誰にとっても身近な話題で問いかける。この本に僕自身も多くを学び、せっかくだから、とゼミの課題図書にしてみたら、議論百出。学生達は、これまで自分自身が鎧のように身につけてきた「良い子」が、他人(親、教師、コーチ、恋人、バイト先・・・)にとっての「都合の良い子」だと、この本を巡る議論から気付き始めた。

すると、結果的に卒論では、僕は全く強制や誘導もしていないのに、「生きる技法」や「枠組み外し」を補助線にしながら、自分自身の「枠組み」を問い直す卒論が生まれ始めた。すると、福祉政策をテーマにしていた時代の学生の卒論より、本気度が増してくる。そりゃそうだ。自分自身を問い直すのだもの。だから俄然、ゼミの議論も深まりが出てくる。いつの間にか、毎年ほぼ全員のゼミ生がどこかのタイミングで泣いたり、言葉を見失う場面が訪れる、という、ある種の人生道場的なゼミに、気付けばなってしまった。

ただ、今回退職するにあたり、職場の複数の同僚から、「タケバタ先生のゼミ生たちは活き活きしている」と言われた。僕が褒められるよりも、我が事として素直に嬉しい。こないだは、附属高校の学生達にゼミ生達が講義をしてくれたのだが、「大人しかった子があんなに自分の意見を述べるように成長したなんて」と元担任の先生が伝えて下さったそうだ。なぜそのような変化が起こったのか?

ゼミの中で僕や仲間と議論をし続ける中で、「この場では思った事を話して良いんだ」という安心・安全の場を経験する中で、思考のリミッターを外し、自分自身ではめていた足かせから自由になり、自らを抑圧していたもの(親やクラブの顧問、教師・・・などの呪縛力の強い言葉)を「抑圧」として自覚化出来るようになると、学生達は自己愛モードから自愛モードに少しずつ変化し始める。そして、自愛モードでのゼミが展開されると、それがゼミ生同士で相互作用しあい、僕があまり働きかけなくても、ゼミのなかで勝手に学びの渦が生まれ、お互いの気づきが深まる。そんな場に、気付けばゼミが深化していた。そして、こういうゼミは、「僕が何かをした」という気持ちがどんどん減り、僕がただそこにいるだけで、勝手にゼミ生達が成長していく、という面白い場に高まっていった。そういう場がゼミという場を通じて展開出来るんだ、ということを知れたのが、僕にとって大きな気づきであり、ゼミ生から学ばせてもらったことであり、教育がオモロイ、と深く感じられるチャンスにもなった。

そういう意味では、研究も、現場との関わりも、教育も、学内での仕事も、実に実りが多く、本当に13年間で沢山の事を学ばせて頂いた。しかも、山梨を離れるにあたり、他大学の教員からは「離職にあたって嫌な思いをするかも」「関係がこじれる事や絶縁状態の可能性も覚悟して」とアドバイスを受けていたが、なんとありがたいことに、そんな反応は一切なかった。職場でも、福祉現場でも、ゼミ生達も、突然の移動で驚かれたり、ビックリしたり悲しい・寂しいと言われる事は何度もあったが、色んな場で送別会を開いて頂いたり、送別の品を頂いたり、嬉しい言葉をかけてもらえてばかり、だった。13年前、一人も知り合いがいなかったのに、山梨を去るときには、声をかけてくれる・気にしてくれる人々に沢山囲まれる日々になった。

<最後に>
そうは言っても、4月以後も山梨でのon goingな出逢いや関係性は続く。長く関わる自治体でのアドバイザー的関与はしばらく続きそうだ。一番気になっていたタケバタゼミは、僕よりも遙かにファシリのプロで、ここ1年ほど急速に仲良くなり、研究室にもしばしば遊びに来てくれていた、山梨学院大学の非常勤講師でもある小笠原祐司さんが引き継いでくれることになった。ただ、僕もゼミ生とはZoomやメールで関与し続ける、と約束している。

そんな訳で、今までは片道5時間かけて関西まで通っていたのですが、3月頭には姫路に引っ越し、これからは5時間かけて、山梨に通う場面がありそう。そうそう、13年間、この長時間の移動の中で、ブログの原稿を何本書いていたっけ。今回も、身延線特急が富士を過ぎたあたりから書き始め、新神戸でほぼ書き終えてみれば、9000字強というブログとしては超・長文に。今日はだから、普段付けない小見出しも付けてみた。

まだまだ書ききれないけど、本当にあっという間の13年間だった。そして、山梨という場や、山梨学院大学という職場は、30代の僕を育て、鍛えてくれた、第二のホームになった。本当に、心からの感謝である。そして、次は姫路でどんな出逢いが待っているのか。どんな学び直しや新しいチャレンジに遭遇出来るのか。春は不安と期待が入り交じるが、今年の春は、なおさら大きい。

13年間の山梨生活でお世話になった皆様、本当にほんとうにありがとうございました。

たけばたひろし

身体拘束を減らす4つの視点

昨晩はクローズアップ現代の身体拘束特集の番組に出演した。ご一緒頂いたのは、訪問診療などを通じて入院を最小化させる実践を続けておられる精神科医の上野秀樹さん。上野さんの『認知症 医療の限界、ケアの可能性』はすごく学びが多く、授業の課題図書にしたこともある一冊。僕は出演依頼を受けた時、自分一人は荷が重いと思ったので、上野さんと一緒じゃないと辛いなぁと正直に申し上げた。そして、上野さんも僕となら出演してもよい、と仰られたようで、二人セットだった。この問題は、それだけヘビーな話題である。

気重な理由。隔離拘束が現に沢山起きている日本において、それを批判すると、必ず現場で縛っている・閉じ込めている医療スタッフから批判されることは、目に見えている。でも、だからといって、その自由の剥奪をそのまま放置しておいてはならない。とはいえ、本来現場の人が怒るべきは少ない人員配置基準や多すぎる病床なのに、テレビでコメントしたら、「自分たちはこんなに頑張っているのに、あいつの発言は理想論だ」「現場をわかっていない」「おまえがやってみろ」・・・といった、近視眼的批判にさらされる。実際、ツイッタなどでは、そういうつぶやきも目にした。だから、気が重かったのである。

いかに、多くの視聴者に、単に誰かが悪者、ではなく、精神医療の構造的問題を理解してもらえるか。僕も上野さんも、その点をすごく時間をかけて考えていた。上野さんは、念入りに準備された番組用の考察の一部をブログに昨晩早速アップしておられたので(今朝6時の列車で敦賀に戻ると仰っておられたのに、恐ろしいほど仕事が早い!)、僕もここで示しておきたい。(→以後は、番組でどこまで触れられたのか、のメモ書き)

<身体拘束を最小化するための4つの視点>
1、現場での「開かれた対話」
身体拘束が現になされている患者さんについて、なぜ拘束が必要なのか、その期間をどうやったら減らす事ができるか、を、本人も交えてオープンに話し合うこと。「問題行動」とされている現象がいつ・どうして生じるのか、どうやったら減るのか、も、みんなでオープンに話し合うこと。

→この部分は、「問題行動」とされている現象が「悪循環」である、と伝えることは出来た。暴力や暴言、徘徊や制止によらない言動には、ご本人なりの訴えや理由がある。その理由を探ることなく、表面的な現象だけを捉えて、「不穏」「精神症状」などのラベルを貼って、その根拠に基づき、隔離や拘束をする。これは、問題行動に対する「偽解決」であり、悪循環の高速度回転そのものである。

ここから先は番組ではなせなかったのだが、その高速度回転を止めたければ、まずは「問題」とされるご本人にじっくり話を聞き、ご本人がどのような不安やしんどさ、悲しさや怒りなどを持っているのか、を理解しようとする試みからスタートするのが必要だ。その上で、「問題」とされる現象はいつ・どのような場面で・何がきっかけで生じるのか、を徹底的にアセスメントする必要もあるだろう。それが出来れば、ではどうすれば身体拘束を減らせるか、の具体的な方法論の模索も始まるはずだ。また、身体拘束の最小化には、ご本人や家族の理解と協力も欠かせない。家族や本人とも、そのことについてオープンに話し合う機会を持つことができるか、も問われている。

番組では、実際に上記の実践を積み重ね、身体拘束の最小化に成功した松沢病院の事例が報告されていた。松沢でされていたことは、まさにこの部分である。

2,チーム医療と医師のリーダーシップ
「身体拘束を減らす・無くす」と、医師が率先してリーダーシップをとらないと、スタートしない。VTRの松沢病院の実践のように、「身体拘束をしないことによるリスクがあるかもしれない」という合意形成を取る必要もあるかもしれない。だが、「縛る・閉じ込める・薬漬けにする」のは自由の制限であり、医療ではない、というリーダーシップを医師が率先して宣言する必要がある。その上で、松沢の実践のように、身体拘束が必要な理由、を一つずつ組織的に潰していく必要がある。

→病棟で縛っている看護師(とおぼしき人びと)から、「現場のことをわかっていない」「やってもいないものが口出しするな」的な批判を、僕は20年近く、浴び続けてきた。それが、現場の悲鳴であることはよくわかる。だが、逆に現場の人びとは、自分自身がどのような構造に置かれているのか、に盲目的になっているのではないか、とすら、思うこともある。そのことについて、精神病院をなくしたイタリアで、素晴らしきリーダーシップを発揮した医師フランコ・バザーリアは次のように語っている。

「看護師が抱いている恐怖は、医師の恐怖よりはるかに大きなものだからです。医師はたとえば解雇されたとしても、開業医として他の仕事をみつけることができます。しかし、もし看護師が病院に逆らって解雇されてしまえば、職を失ったままになってしまいます。これがプロレタリアートとブルジョアの違いです。つまり、変化に対する看護師の抵抗は、職を失うことへの恐怖であり、これは痛いほどよくわかります。」(『バザーリア講演録 自由こそ治療だ!』岩波書店、p250)

これは「○○なので縛らざるをえないのだ」という発言の裏側にあるのは、「もし看護師が病院に逆らって解雇されてしまえば、職を失ったままになってしまいま」う、という恐怖である。オカシイと思っても、「明日の生活のためには、我慢して現状肯定するしかない」と諦めを内面化してしまう論理でる。つまり、おかしいことをおかしいと言えない状況に構造的に追い込まれているのだ。それは、ものすごく大きな恐怖を日常化して、「しかたない」と「なかったこと」にしている、とも言える。だからこそ、昨晩の番組のように、そのような「恐怖」を思い出させ、と向き合わざるを得ないような番組に直面すると、本来は「そうだそうだ、現場のここが課題だ、よく取り上げてくれた!」と声をあげてもよいはず、なのに、逆に「現状は何も分かっていない」と、番組内容を感情的に否定する論理が先に出る。これは、直面化した見たくない恐怖を鎮静化させたい対処行動、なのかもしれない。

バザーリアはこうも言う。

「看護師は自分自身が暴力による抑圧や虐待の一端を担っている、ということを理解することから始めなければなりません。看護師は病院の院長の手のひらで踊らされているわけですが、医師が患者の抑圧者として看護師を利用するとき、労働者階級は二つに分断されることになります。なぜなら、病人も看護師も同じ階級に属しているからです。こうして看護師を患者の拷問者に仕立て上げることで、病院は運営されています。これは支配者達が常々用いるメカニズムです。この仕組みは、工場でも見られます。集団のリーダーは、同僚達をお互いに敵対関係に置くことによって彼らを管理しています。これは、私たちには馴染み深い分業の論理です。分業を通じて、被支配階級を統治するのです。これは人びとを飼い慣らすことにほかなりません。」(同上、p247)

本当に現場を変えたければ、まずは「看護師は病院の院長の手のひらで踊らされている」ことを、客観的事実として認める必要がある。だって、支援が必要な60人の人を、「夜間だから」という理由で2人で見ることが、どだい無理な話なのだ。そもそも、国の定める最低限の人員配置基準が低すぎるのだ。そして、最低限、なのだから、そこから人手を増やしてもよいはずなのに、「経営が成り立たない・赤字だ」という「もっともらしい理由」で人手を増やさない経営者もいるのだ。そのような制度や組織的な矛盾や抑圧の「手のひらの上で踊らされている」のが、現場なのである。まず、悔しいけれど、ここを認める事が出来るか、が問われている。

更に言えば、人手が足りないから縛らざるを得ない、というのは、人手不足を解消するために、物理的な暴力に頼っているという点で、「看護師は自分自身が暴力による抑圧や虐待の一端を担っている」ということでもある。ここは、否定しようのない事実である。これを認めて、「それは嫌だ!」と訴えないと、物事は変わらないのだ。「こんなの、私が学校で習った医療ではない!」「もっと患者さんに寄り添った、ほんまもんの医療をしたい!」「そのために、ちゃんと現場スタッフの人手を増やしたり、縛らない実践をしたい!」と声をあげ、変革の第一歩に踏み出せるか、が課題なのだ。

だが、それが出来ない現場をバザーリアは「人びとを飼い慣らすことにほかなりません」と喝破する。そう、「人手不足だから、縛らざるをえない」と発言することは、病院経営者に「飼い慣らされている」のである。この「支配者達が常々用いるメカニズム」そのものが、現場の医療スタッフの尊厳を踏みにじっている。ここにこそ、「それはオカシイ」とNOを突きつける必要があるのだ。そんなことをいっても、すぐに世の中は変わらないから、と諦念していると、それは「看護師を患者の拷問者に仕立て上げることで、病院は運営されています」という論理に、消極的に加担することにすら、つながるのだ。

あと、だからこそ、医師のリーダーシップが必要不可欠なのだ。看護現場が変えたくても、なかなか変えにくい現状がある。だからこそ、現場の医師が、縛るのを最小化しよう、なるべく開放型の医療を目指そう、身体拘束しないことで生じるリスクについてご家族に理解をしてもらおう、もっと患者さんと寄り添う医療をしよう、と率先してリーダーシップを取る必要があるのだ。「馴染み深い分業の論理」を打破するためには、医師こそ、まずは看護や医療スタッフとの協同やチーム医療に率先して関われるか、も問われているのだ。

3,スタッフの質的向上
1や2をするなかで、「認知症だから」「問題行動をするから」縛るしかない、というのは、医療スタッフ側の経験不足や先入観に基づいている事が見えてくる。すると、身体拘束をしない実践をしている他病院の経験から学び、自病院でも拘束を最小化するためにどうしたらよいのか、を学び合う事も必要になる。そのためには、ユマニチュードなど、縛らない医療を実践している諸外国のやり方も学び、取り入れながら、スタッフのケアの質的向上をする必要がある。

→「井の中の蛙、大海を知らず」。「やってもいない者が口出しするな」と仰る方ほど、実はご自身の病棟や病院の実践「しか」知らない場合も、残念ながら見受けられる。「あなたは現場の苦労を知らない」と批判されることもあるが、ではその方々は、他の現場の試行錯誤を知っておられるのだろうか、と問い返したくなるときもある。

松沢病院の実例を出すと、「あれは公立で潤沢な予算があるから」という反論もある。だが、そもそも抑制廃止は、八王子の民間精神病院、上川病院の総婦長だった田中とも江さん達の『縛らない看護』からはじまり、それが介護施設での「身体拘束ゼロ作戦」に繋がったことを、ご存じだろうか。田中さんの名著、『縛らない看護』に目を通したことはあるだろうか? あるいは、現状の病院の中でも、たった数時間で寝たきりでやる気のなかったお年寄りの意欲を回復させる支援をしていることがテレビで沢山放映されたユマニチュードについて、テレビで見たり、書籍や雑誌を読んだりしたことがあるだろうか。

「人手不足だから、しかたない」と聴く耳を持たないことによって、逆に様々な変化の可能性からも耳目を塞いでしまっていては、まったくもったいない限りである。

4,人手不足を解消する取り組み=病床を大幅に減らすこと
問題行動や暴言、暴力という形で表現せざるを得ない人の支援には、人手がかかる。であれば、人手を増やすしかない。一方で、日本の精神科病床は、人口比で見れば、諸外国の3~5倍以上ある。医療費の上昇を伴うことなく、一番合理的に底上げしようと思えば、病床を3分の1から5分の1に減らす事。その上で、1~3の取り組みを行えば、確実に身体拘束は減少する。逆に言えば、この4番目を目指すことなく、1~3だけで問題を根本的に解決することはできない。

→散々書いてきたが、最も本質的に必要とされているのは、ここである。本当に良いケアをしようとすれば、今の精神医療の現場は、明らかに病床が多すぎ、各病棟での人員配置基準が低すぎる。医療費を増やさなくても、病床をたとえば3分の1に減らし、スタッフを再教育した上で、例えば残りの3分の1を病棟で、後の3分の1を地域支援のスタッフに「転換」する事が出来れば、それだけでも身体拘束は随分減るし、地域支援の層も厚くなる。病棟転換型居住施設、なんてつまらない議論をする前に、精神病床で働く職員の質的「転換」こそ、求められているのだ。

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とまあ、こんな内容を25分番組で話せるはずもなく、どれも一言、エッセンスでしか伝えられていない。でも、武田キャスターは、秒単位の短い場面場面で、なるべく上野さんや僕の発言を引き出し、この問題を知らなかった一般視聴者にも伝わるような番組構成をしてくださった。事前にクローズアップ現代前キャスターの国谷裕子さんによる『キャスターという仕事』を読んでいたが、僕も出演してみて、この番組が代々大事にしてこられた、25分という時間の中での真剣勝負、というのは、すごく伝わってきた。ディレクターや制作チームの皆さんと、キャスターとゲストが、何度も打ち合わせを重ねる中で、短い時間でもなるべく沢山の本質を伝えようと奮闘されていることが、よくわかった。

そういう意味では、めちゃ気重だったけれど、出演をすることで沢山の学びが与えられた番組だった。