鶴見俊輔からのバトン

500頁を超えるけど、一気呵成に読み終えたのが『鶴見俊輔伝』(黒川創著、新潮社)。以前から鶴見俊輔のことは気になりながら、何冊か対談を読んだ事もあるのだが、この濃厚な評伝を読んで、もっと彼の著作を読んでみたくなった。その理由は色々あるが、この部分が大きい。

「『戦争中、自分に捕虜殺害の命令が下っていたら、それを拒み通すことなどできただろうか?』
この自問は、戦後70年間、彼の中に生きつづける。それを拒めたかは、疑わしい。だからこそ、『敵を殺せ』と人に命じる国家という制度への憎しみと懐疑が、彼のなかで消えずに残る。
状況のなかで考える-と、よく彼は言う。『状況』とは、歴史のただなかに身を置く、現在という場所のことだろう。」(p540)

自分も悪をなし得る存在である。悪をなしていないのは、たまたまの運の巡り合わせに過ぎない。

彼は第二次世界大戦が始まる直前までハーバード大学で学んでいたが、収容所で卒業論文を書き上げ、日米の交換戦で帰国後、徴兵されてジャカルタで軍属として短波無線の傍受の仕事に就く。その時期に、インド人の捕虜が伝染病にかかり、治療する薬が不足しているから、という理由で捕虜殺害命令が、自分の隣室の軍属に下される。その軍属は、毒薬とピストルを持たされ、実際にピストルで射殺したと鶴見に語る。

鶴見はジャワ島の古本屋で買い求めたタゴールを貪るように読む。そこにはこんなフレーズがあった。

「不道徳的であることは道徳的に不完全であることだ。これと同じ意味で、間違っているという場合、わずかな程度真実であることを意味している。そうでなければ、間違いということさえできない。見えないということは物を見る眼がないことだ。けれども、見あやまることは不完全な見方をしていることである。人間の利己主義は人生において何らかの縁故や目的を見いだすきっかけとなる。そしてそれが命じるものに従って行動するためには、自衛と行為の規制が必要である。」(『タゴール全集第八巻』第三文明社、p50)

彼は、不完全や不道徳を、自分の中に持ち続けた。後藤新平を祖父に、鶴見祐輔を父に持つ政治家の家系に育ち、小さい頃はそんな「肩書き」や「世間の目」だけでなく学校制度にも馴染めず、「不良少年」だった。そして、ハーバードで猛勉強するも、日米開戦と同時に帰国を余儀なくされる。当時彼は「アナーキストで戦争は基本的に支持しないが、どちらかといえばアメリカに理がある」とFBIにこたえており、それで国外追放になるし、戦後も彼の入国が赤狩り時代のアメリカから拒絶されたりする。

だが、彼が「『敵を殺せ』と人に命じる国家という制度への憎しみと懐疑」を抱いたとき、単に「自分が正しい」と道徳や正義を体現して、そう考えたのではない。『戦争中、自分に捕虜殺害の命令が下っていたら、それを拒み通すことなどできただろうか?』 という問いを、ずっと抱え続けていた。つまり、自分が不道徳な捕虜殺害を「なし得る」立ち位置にいて、隣室の軍属は実際にそれに手を染めざるを得なかった。彼は「他人を殺す」という意味では「間違っている」行為をしたが、そのような状況下でも、「わずかな程度真実である」ことがあった。それは、「捕虜殺害の命令が下っ」たら「それを拒み通すこと」はできない、という真実である。それは、完全な道徳や正義を上から目線で語ることなど出来ない、という平場の思想である。更に言えば、自分は悪をなし得る存在であり、不完全な見方をしている存在である、という己への健全な懐疑を持ち続けたことであった。

この原点があるから、戦後の彼は「思想の科学」を50年も刊行し続け、学生運動に同調して大学教員を辞職し、ベ平連の活動にもコミットしていく。自らの正義や道徳性を相手に押しつけるのではなく、自らの内に潜む「悪をなし得る存在(だがたまたま今は悪をなしていない)」という原罪に常に自覚的であったからこそ、筋を通した発言をし続ける。自らが不道徳で不完全な部分があったからこそ、他者の不道徳や不完全を理解し、その中にある「わずかな程度の真実」や「何を見誤ったのか」を掴む力があった。そして、それは彼がハーバードで学んだプラグラマティズムの、彼なりの応用だったのかも、しれない。

鶴見俊輔と親子二代にわたって深い付き合いがあった著者だからこそ、の視点が前提にあり、その上で膨大な彼や彼の周囲の人々の書いた物を読み解き、それを一次資料として考察する強靱な思考の著者故に、骨太で読ませる評伝だった。そういう意味では、筆者の黒川氏は、鶴見から託されたバトンを、見事に描ききったのだと思う。最後に、鶴見俊輔の子である鶴見太郎が、彼の死後の記者会見で述べた印象を引用しておきたい。

「父は、私が子どものころから、いろんなことを話すごとに、『おもしろいな!』『すごいね!』『いや、驚いた!』と、目を見張って、心底からびっくりしたような反応を示す人でした。ですから、大人というのは、そういう人たちなのだろうと思っていました。
ところが、いざ外の世界に出てみると、世間の大人達は、何に対してもほとんど無反応でいる、ということがわかって、ショックを受けました。」(p496)

鶴見が単に子どものような心を持っている、だけではない。悪をなし得る、不完全で不道徳な部分が自分にあるとわかっているからこそ、子どもであっても、他者に対して敬意と好奇心を持って接し、新たな発見を共に喜ぶことのできる「大人」だったのだと思う。僕もこんな大人になりたい!と思わずにいられなかった。そういうバトンを、僕は受け取った。

2018年の三題噺

2012年の年の瀬から書き続けている、恒例の年末三題噺。今年の三題噺はこんな感じ。

1,姫路での生活が始まる
2,三冊目の単著を世に出せた
3,ダイアローグをじっくり深める

1,姫路での生活が始まる

移動を決めたのは、子どもが産まれ、僕の父母が初孫をすごく喜んでくれたけれど、「甲府は5時間かかって遠い」と言われたことだった。自分が親になって初めて「親孝行したい」という想いが沸き起こった。それだけでなく、現実的な問題として、僕が泊まりがけの出張の折など、毎月のように母に京都から5時間かけて手伝いに来て貰うし、今後も出張をゼロに出来そうにない。ならば、僕たち家族のことだけでなく、手伝いに来て貰う母、そして足腰が弱まり甲府にあまり来れない=頻繁に孫に会えない父のことも考えた上で、関西に帰れるなら帰ろう、という決断だった。13年間お世話になった山梨を去るのは辛かったが、暖かく見送ってもらえたのは、本当に嬉しかった。その事は「あっという間の13年間」として3月に書いた。新幹線と特急で5時間、が、新快速で1時間半になって、おばあちゃんも楽に来てくれるようになった。おじいちゃんもたまに遊びに来れて、大満足である。

で、姫路に引っ越して、4月から兵庫県立大学環境人間学部の教員として、新しい職場での暮らしも始まった。引っ越した後の「想定外」は、新幹線にしょっちゅう乗っている、ということだ。東京行きも何だかんだと月に1度程度あるが、それだけではない。姫路−京都の距離って、京都−名古屋の距離と同じである。元京都人としては、確かに名古屋までなら新幹線に乗る。また、子どもの風呂の時間に間に合うように帰ろうとすると、タクシー感覚で、新大阪から姫路まで乗ることもある。甲府と違って姫路はバス路線が発達していて、夜中でなければタクシーに乗ることはほとんどなくなった。その代わりに、新幹線にしばしば乗るので、ポイントもたまり、3月以後、2回ほどただでグリーンにアップグレードできた。いやはや。

あと、姫路は地方都市だが、普段使うものならだいたい揃うだけでなく、海の幸と山の幸にも恵まれた、すごく暮らしやすい土地である。工学キャンパスの近所にあるJAの直売所で週に1度野菜を買い込み、近所の老舗スーパーには、しょっちゅう活きの良い魚を探しに出かける。まさかスーパーで7000円のトラフグが売っているとは、これも「想定外」だった。まだ買ってないけど。シャコにサワラ、エビに鯛、ハマチに牡蠣、鯖など、瀬戸内海だけでなく、鳥取や下関、福井、宮城など、全国各地から活きの良い魚を仕入れる目利き職人がいるスーパーがご近所で、わが家の魚率が随分高まったのも、大きな変化だ。お陰で娘も魚が大好きになった。赤穂の生牡蠣も、この冬、二度ほど食べた。

それから、1月に内定が決まり、1ヶ月で家を決めて2月末に引っ越し、4月から新天地で授業もスタートし・・・と怒濤の日々だったこともあり、今年はその後、しょっちゅう風邪を引いている。案の定、年末も風邪をしいてしまった。1年に6回も風邪をひくなんて、過去最悪ペース。忙しかったり、家事育児に追われて、合気道もほとんどいけていない。運動不足や体調管理不足、それに住まいや職場での慣れないこと・・・などのストレスが、僕の自覚のない中で重なっているのだろう。加えておっさんになって基礎体力が落ちている。とにかく来年は、体力向上を基本に据えねば、と思う。

2,三冊目の単著を世に出せた

11月に三冊目の単著、『「当たり前」をひっくり返す—バザーリア・ニィリエ・フレイレが奏でた革命』を上梓した。(その序章はブログに)。この三人と、連載原稿を書きながら足かけ3年ほど、対話を続けてきた。バザーリアを読み始めたのは、2012年に、イタリアのトリエステを訪問した頃から。最初の単著『枠組み外しの旅−「個性化」が変える福祉社会』の中で、現象学的還元について考えていたので、バザーリアが精神医療そのものを括弧に入れて、根源から考え直すプロセスが、僕にもしっくり理解できた。その中で、精神科医に課せられた「科学者」と「警察官」という相反する二重の役割を直視せよ、といったどぎついフレーズを、そのものとして受け取って、考えを深めることができた。

ニィリエとフレイレは、大学院の頃から、ずっと気になっていた。実際に晩年のニィリエに2004年の冬、ウプサラでお目にかかって、僕は彼から大きな宿題をもらった気分だった。今回、ニィリエのまとまった論考を書き切ることで、その宿題をやっと果たすことが出来た、と感じている。フレイレに関しては、三砂ちづるさんが、実に読みやすくてフレイレの息吹を感じさせる新訳を2011年に出してくださったことで、やっと彼が伝えようとすることをつかむことが出来た。その三砂さんに拙著をお送りしたところ、訳者から直々にメールを頂いたのも、すごく嬉しかった。

刊行後、色々な人から読後の感想を教えてもらえるのも、また嬉しい限り。本は書くまでは著者のものだが、刊行後は読者のもの、という言葉もある。少しでも多くの人の手に届き、読者の中で、三人や僕とのダイアローグが広まってくれたら嬉しいなぁ、と思っている。僕自身は、やっと本棚を結構入れ替え、心機一転、次の研究テーマに向けて勉強し直す日々が始まる。膨大なアウトプットを終えたので、インプットし直しに、モードも転換し始めた。

3,ダイアローグをじっくり深める

子どもの発語が大分増えてきて、いろんなことを叫んだり、わあわあ言っている。「しぇんべい」「みかん」「しゅわしゅわ」(=炭酸水のこと)など、名詞で欲しいものを表現するだけでなく、「おなかすいた」「眠たい」、といった動詞も、時折言えるようになってきた。なので、子どもが全身で表現しようとすることを、僕自身が想像し、確認し、一緒に考え合う中で、ある種の共同決定をしている。そして、それは僕より遙かに妻の方がうまい。

こういうプロセスのなかで、意思決定支援や共同決定のオモシロさ、難しさを色々感じる。それと共に、非言語表現も含めたダイアローグの重要性を感じる。なんせ、子どもは親の顔を本当にじっくり見ている。こっちがどう思っているのか、だけでなく、「ちゃんと私のことも気にしてよ!」と強く訴えている。ドイツの小学生は、スマホ依存の親に「僕たちをちゃんと見て」とデモを行ったそうだが、子どもにそういうストをされない父にならねば、と思う。

ダイアローグを深めつつあるのは、家族内だけではない。昨年未来語りのダイアローグを集中的に学んで以降、授業でも研修でも、会議の打ち合わせでも、ダイアロジカルなものを大切にしようとしている。すると、少しずつ、いろんな場面でダイアローグが深まる場面が増えてきた。僕自身が話す量を減らし、考え合うプロセスを深める。about-nessからwith-nessへのモードの転換。すべての場面でするっと出来る訳ではないけれど、授業でも研修でも、なるべくwith-nessモードを大切にして、受講者と考え合う時間を増やした。打ち合わせでは、相手が何をしたいのか、を聞き出しながら、何かを作り上げることを試みた。その中で、僕自身がしっかり聴くことができると、あたりまえだけれど、相手との共同作業の質が飛躍的によくなることもわかってきた。他人を変える前に己が変わる、を改めて痛感しつつある。

というわけで、風邪気味なので、今年の三題噺はこれくらいで、今からもう一寝入り。みなさん、よいお年をお迎えください。

今に引き継がれるトラウマ

衝撃的な番組を見た。「隠された日本兵のトラウマ~陸軍病院8002人の“病床日誌”」である。戦争中に戦地で、殺す・殺される、の瀬戸際になるような経験をする中で精神疾患になり、陸軍病院に送られた日本兵たちを巡るドキュメント。そこに出てくる一人一人の発病前と後のエピソードが、非常につらかった。

「ごく普通の人」が、徴兵されたがゆえに、人を殺したり、自分が殺されかけたり、という恐ろしい経験をしてしまう。その中で、ごく普通の精神や感性を持つが故に、つまりはこういう異常な経験を異常だと受け止めるだけの感性を持っているが故に、自傷や発狂などの形でしかその苦しさを表現できない状況に構造的に追い込まれた人々の病状を克明に記録した病床日記が、戦後の焼却命令にもかかわらず、病院長の一存でドラム缶に入れて病院内に隠され、保存された。その記録を元に番組が作られている。

この番組を見ながら思い出していたのは、内田樹が書く村上春樹のエピソードだ。

「村上春樹はいっさい中華料理を食べない。食べることができない。
中国にかかわるある種のオブセッションかもしれない、と村上春樹はどこかで書いていた。
「飲み込むことができない」というのは、きわだって象徴的なふるまいである。
中国についてのある経験(それは彼自身の経験でさえない)が名付けられ、理解され、類別され、忘却されることを拒んでいる。
その「名付けられ、理解され、類別され、忘却されることを拒むもの」が「父」の soul であったと、それが無言のまま遺贈された、と。そう「息子」は感じている。
その「遺贈された空洞」が村上文学の「核」のひとつを形成していると私は思っている。」(壁と卵(つづき)

これはエルサレムでの村上春樹のスピーチの分析である。ちなみに村上はこう語っている。

「私の父は昨年、90歳で死にました。父は引退した教師で、パートタイムの僧侶でした。京都の大学院生だったときに父は徴兵されて、中国の戦場に送られました。戦後生まれの子どもである私は、父が朝食前に家の小さな仏壇の前で、長く、深い思いを込めて読経する姿をよく見ました。
ある時、私は父になぜ祈るのかを尋ねました。戦場で死んだ人々のために祈っているのだと父は私に教えました。
父は、すべての死者のために、敵であろうと味方であろうと変わりなく祈っていました。
父が仏壇に座して祈っている姿を見ているときに、私は父のまわりに死の影が漂っているのを感じたように思います。」(上記の内田訳)

今回見た映像と、この村上春樹のエピソードが重なった。なるほど、これがinter-generational trauma(世代間に引き継がれるトラウマ)かもしれない、と。テレビの映像では、戦争後、人格が変わって帰還した父が母に暴力的に接するのをつらく思っていた娘が、父のカルテを読んで、父の暴力の背後に戦争トラウマの強烈な体験があることを初めて知り、慟哭する場面がある。それは、父が暴力という形で表現する何かに対して、受け入れらず、反発していた娘が、初めて父のつらさを知り、亡くなった父とカルテを通じて和解していくプロセスにも思えた。

同じように、村上春樹が「いっさい中華料理を食べない。食べることができない」という一種のオブセッション(強迫観念)を抱えていたのは、彼が「父のまわりに死の影が漂っている」のを敏感に感じ取っていたからも、しれない。つまり、「父が朝食前に家の小さな仏壇の前で、長く、深い思いを込めて読経する姿をよく見」るなかで、父が語らずとも身体で表現している痛みや苦しみ、を村上少年は感じ取り、それがオブセッションとして「中国料理は食べられない」という「飲み込むことができない」何かを父から受け取った。これは、父の感じたトラウマを子が継承する、というinter-generational traumaそのものである。そして、この話は、トロントに出張に出かけたときに聞いた話ともつながる。

11月にトロントで反抑圧主義的ソーシャルワークについて調査に出かけた折、現地の人から繰り返し、trauma-informed approachというのを聴いた。これは、調査でお世話になったトロント大学の坂本いずみさんによると、「トラウマというレンズを通じてものをみる」という考えた方である。トラウマの継承、という視点で社会問題を捉え直すと、個人的な問題の背後にある社会的抑圧がよりよく見える、という視座である。例えばカナダでは薬物依存が大きな社会問題になっているが、依存症の人の少なからぬ割合がエスキモーやイヌイットなど、先住民の子孫であり、土地の剥奪や子供の同化政策(誘拐のような形で親から引き離し寄宿舎に入れるなど)で、多くの心的な傷(トラウマ)を受けた。そして、それが親子間で引き継がれたため、無気力や諦めが蔓延し、それが貧困や薬物・アルコール・暴力などへの依存という現象を引き起こす、という視点である。トラウマのレンズを通じて眺めると、個人的な弱さの問題に見える依存症の背後に、社会的な排除や抑圧という根本要因が見えてくる、という整理である。

これを村上春樹の例で当てはめるなら、村上春樹は「父が仏壇に座して祈っている姿」から、語られざる中国での経験や痛み、苦しみを敏感に受け取る。それをどう処理してよいかわからないから、中華料理が食べられない、という形で身体表現化される。その一方で、「ねじまき鳥クロニクル」の中で明示的かつ執拗にノモンハン事件を取り上げることで、彼なりの意識化を果たそうとしているようにも感じられた。つまり、「名付けられ、理解され、類別され、忘却されることを拒むもの」を親から遺贈されるという形でinter-generational traumaを抱えた村上春樹は、表現行為の中で「トラウマのレンズを通じて眺める」ことに成功し、「中国についてのある経験(それは彼自身の経験でさえない)」であり「遺贈された空洞」を再言語化・再文脈化できたのかも、しれない。

だが、その一方で、「トラウマ」から距離を置くことができず、他者に贈与もできず、解釈もされないまま、精神病院の中で一生を終えた兵士は少なくない。20年ほどまえ、公立精神科病院でフィールドワークをしていた大学院生の時に、その病院にも戦地から帰ってきてそのまま入院している人がいる、という話を聞かされた。その時は深く考えることもなく「お気の毒に」としか、感想を持てなかった。だが、そのような他人事としての忘却と関心のなさが、ご本人をトラウマの世界に閉じ込め、戦争神経症の世界から出られない元凶の一つなのではないか、とも感じている。戦地で兵士として闘わざるを得なかったが故に、人を殺す・人に殺されかけるような境遇へと追い込まれ、それに耐えられずに精神が失調してしまった。これは、ミクロレベルでは暴力の加害者であっても、マクロレベルでは国家による暴力の被害者でもある。メゾレベルでは上官や連隊内での暴力の被害・加害もあったかもしれない。そのような社会的な要因を見ることなく、個人のトラウマや病気の問題に矮小化してきたからこそ、その病は癒えなかった可能性はないだろうか。

トラウマの課題は、個人や家族内の問題と見られやすい。だが、今回の映像を見ながら、その元凶となる戦争や、国家が兵士として一般市民を総動員していった背景、強制的に入隊させられた軍隊での過酷な現実や、戦地でのおぞましい日々など、本人や家族の個人的問題では全くない、社会構造が個人に抑圧を与えた歴史を考えていた。そして、そのようなトラウマを押しつけられた個々人が、戦後日本社会で、狂気に陥ったり、あるいは病院に入院せずとも家族に暴力をふるったり、あるいは狂ったように働いたり・・・というプロセスがあり、そのトラウマについて子孫や他人に語れず、苦しみを抱え続けてきた歴史があった。そして、戦地に実際赴いていない世代は、語らず黙する先代の苦しみを尊重することなく、その傷みやつらさに向き合う、共感することなく、前だけを向いてきたのではないか。それが、日本が戦後70年経っても、第二次世界大戦をしっかりと謝罪や総括出来きれず、近隣諸国との争いを未だに抱えている元凶にもあるのではないか・・・。こんな妄想すら、浮かんできた。

そういう視点で捉え直すと、日本社会には直視できていない、成仏も出来ていない社会的なトラウマがうようよあるように、思えてくる。反抑圧主義ソーシャルワークや修復的対話の議論をしっかり学びながら、この問題をじっくり考え続けてみようと思っている。

『当たり前をひっくり返す』序章公開

今日、三冊目となる単著が発売された。『「当たり前」をひっくり返す――バザーリア・ニィリエ・フレイレが奏でた「革命」』である。

『枠組み外しの旅』を2012年、『権利擁護が支援を変える』を2013年に上梓してから、共著や編著は3冊ほど出したが、単著は5年間なかった。次の単著は最初から書き下ろしか単著を目指して書き続けよう、と決めていたので、時間がかかった。でも、その分、オモロイ物語になったのではないか、と自分では感じている。

出来れば多くの方に手にとって頂きたいので、挿画を山福朱美さん、帯文を斎藤環さんにお願いした。どちらも本当に素敵な作品を添えてくださった。ただ、中身を見てからじゃないと購入をためらう人(僕のように)もおられると思うので、今回も序章を「立ち読み」出来るようにしました(出版社了承済み)。立ち読みしてよいと思えば、ご購入くださいませ。

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三人の主人公

支配的な価値観をひっくり返し、支配-抑圧的な関係性もひっくり返す。半世紀近く前に、これを実際に行った三人を巡る物語を書いてみたい。

ブラジルで、大地主に搾取されていた小作人たちに識字教育をするなかで、『被抑圧者の教育学』を書き上げ、抑圧された側の主体性を取り戻す問題解決型教育の理念を世界中に拡げたパウロ・フレイレ。スウェーデンの知的障害者の入所施設の構造的問題と取り組むなかで、アメリカの「大統領委員会」に招かれ、「ノーマライゼーションの原理」を書き上げ、施設の論理を破壊したベンクト・ニィリエ。精神病院の隔離収容構造そのものを問題視し、「自由こそ治療だ」というスローガンのもとで、イタリア中の精神病院廃絶の法制定の原動力になったフランコ・バザーリア。

一九二一年にブラジルで生まれたフレイレ、一九二四年にスウェーデンで生まれたニィリエ、そして同じく一九二四年にイタリアで生まれたバザーリア。同世代に生まれた三人だが、直接の出会いや交流はないし、思想的に影響を与え合った形跡も見られない。ゆえに、これまでこの三人がセットで語られることはなかった。だが、単に同時代に生まれた人、というだけでなく、実践内容やそれが及ぼした社会への影響力、形成されていく思想や哲学、および生き様をつぶさに眺めていくと、少なからぬ類似性や関連性が見いだされる。

フレイレの『被抑圧者の教育学』が出版されたのが一九六八年。ニィリエの「ノーマライゼーションの原理」が最初に発表されたのが一九六九年。バザーリアはちょうどその頃、ゴリツィアの精神病院で病院の開放化を進め、精神医療改革だけでなく、イタリア学生運動でのリーダー的な存在であった。この一九六〇年代終わりといえば、世界各地でこれまでの支配体制への異議申し立てが行われ、学生を中心とした社会運動が大きなうねりとなった時期である。この時期に四十代後半を迎えた三人は、当時の知識人ではあったが、アンシャンレジーム(旧体制)の守護神として攻撃される側ではなく、抑圧的な教育や、入所施設・精神病院での管理支配といった、当時の社会で「当たり前」とされてきたことに公然と異議を唱え、それ以外の方法論を提示した、ある種の闘志であり社会改革のリーダー的存在であった。であるがゆえに、フレイレは一九六四年に軍事政権に「国際的破壊分子」として捉えられ、以後十数年間は亡命生活を余儀なくされ、ニィリエは一九七〇年に自らが所属していたFUB(知的障害者の親の会)から半ば追放される。バザーリアはゴリツィアの精神病院を一六九八年に去らざるを得なくなる。つまり、三人は当時の既得権益層にとっては、あまりに危険分子であり、放っておけない・追放すべき対象者でもあったのだ。

本書では、三人が何をどのように「ひっくり返した」のか、それはなぜ実現できたのか、を追いかけながら、半世紀後の私たちが彼らの思考と実践のプロセスから学べる現代的課題とは何か、を掘り下げて考えてみたい。

本書の構成

この本は大きく分けて、四つのパートから構成される。第一章から第三章まではバザーリアの精神医療改革を、第四章から第六章まではニィリエのノーマライゼーションの原理生成史を、第七章から第九章まではフレイレ思想の核である対話や意識化を、それぞれ掘り下げていく。第一〇章および終章は、これまでの議論をまとめ上げていく内容になっている。

三人は世界的な著名人であり、『希望の教育学』(フレイレ)、『再考・ノーマライゼーションの原理』(ニィリエ)、『精神病院のない社会をめざして』(バザーリア)、といった自伝的著作も日本語訳されている。また三人の理論や実践については、里見実氏の『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』(太郎次郎社エディタス)、河東田博氏の『ノーマライゼーション原理とは何か』(現代書館)、大熊一夫氏の『精神病院を捨てたイタリア捨てない日本』(岩波書店)など、日本に紹介した第一人者による解説書も出ている。関連書・論文も沢山刊行されている。では、この本でしようとしているのは、「屋上屋を架す」ような愚行なのだろうか。

そうではない。この本では、ポリフォニー(多声的)であることを目指した。第八章で詳述するオープンダイアローグの考え方の中核に、このポリフォニーというものがある。

ポリフォニー的現実においては、語られている事柄は、新たな会話において新たな意味を得る。語り合っている事柄についての新たな言葉が生まれるのである。語り合っている人たちは、自らの社会的意味や社会的アイデンティティをつくりだしているのである。それらは、文脈が違えば異なったものになるのだ。(セイックラ&アーンキル、二〇一六:一〇九頁)

本書の元になる連載を雑誌「福祉労働」で三年にわたって書き続けるなかで、「新たな会話において新たな意味を得る」場面に何度も遭遇した。三人とも既に故人であり、僕自身は二〇〇四年にニィリエ氏に一度会っただけ、である。ということは、「会話」といっても生身の個人とのリアルな会話ではなく、三人が語った書籍との「会話」である。だが、三人のテキストを何度もなんども読み直すなかで、僕自身の「内なる声」とも繰り返し対話を続けてきた。三人のテキストとの「水平の対話」を重ねる中で、僕自身の中での「垂直の対話」も深まっていった。すでに先達によって何度も論じられてきたテーマに関しても、これまで重ねて論じられることのなかった三人の思想を交錯させることにより、「語り合っている事柄についての新たな言葉が生まれ」てきたのだ、と僕自身は感じている。

そして願わくば、読者のあなたの手元の中で、この本を通じて「新たな意味」が生まれて来るなら、著者としてこれほど嬉しいことはない。三人のことを全く知らない人にとっても、あるいはよく知っている人にとっても、「語り合っている事柄についての新たな言葉が生まれる」ことを願って、本書への誘いとさせていただく。そんな「ポリフォニー的現実」に、ようこそ!

子どもでなく、教師が変われるか?

すごく面白く、現代の学校の抱える病の深さに気持ちが暗くなり、だが、二人の対話者の話に心から納得して希望も抱く、そんな本を読んだ。

「木村:合理的配慮といいながら、多様な特性を持った子をどんどん特別支援学級へと移し、排除しています。画一的な子どもだけを授業の場に残して、どうやって『主体的・対話的で深い学び』を実現して、社会力を付けるというのでしょう。」
「多様な子どもがいるのに、先生が教える行為を継続していると、困る子がいっぱい出てきます。だから、教える授業を変えない階切り、インクルーシブ教育なんてあり得ません」
(木村泰子・菊池省三『タテマエ抜きの教育論』小学館p84-85)

映画『みんなの学校』でも有名な大空小学校元校長の木村泰子先生の対談集を何気なく読み始めて、びっくりした。対談相手の菊池先生は僕は初めて知ったのだが、彼も北九州の「しんどい学校」で子ども中心の教育実践をやっていた元教師で、両者とも教育現場での教師向け講演を多数こなしている、という。タイトル通りで、タテマエ抜きに教育現場の問題点を語る二人の議論に引き込まれつつ、教育現場の根深さを思い知る一冊。

今、引用したように、特別支援学級への「社会的排除」は、かなり進んでいる。しかも、それは発達障害の急増、というより、教員との関係性の中で、社会的に構築されたものだ、と木村先生は断言する。全国学力テストなどの標準化テストで高得点をとらせるために、「画一的な子どもだけを授業の場に残し」、それ以外の「先生が教える行為を継続して」いたら「困る子」=「多様な特性を持った子をどんどん特別支援学級へと移し、排除して」いるのだ。それに「合理的配慮」なんてラベルを貼ると、開いた口がふさがらない。

ただ、この特別支援学校への排除は、それが当たり前だと思っている世代には、なかなかその前提を疑いにくい。かく言う僕自身も、大空小学校の映画の元映像となった関西テレビのドキュメンタリーを見るまで、心のどこかで、重い障害のある子は支援学級の方が良いのではないか、と思う部分があった。この映画を見たり、学生と議論するなかで、僕自身が気付かされたのは、そういう内なる能力主義を簡単に捨て去ることは容易ではない、ということである。そこに「合理的配慮」のような美しい言葉を着せられると、ころっと騙される。そのことを、菊池先生は次の様に整理する。

「自分が受けてきた教育がある。そして、教師として働く地域や学校に伝統的に伝わっている教育がある。教師は、毎年どんな子どもが学級に入ってこようとも、その二つの教育を一般化してしまいがちなのだと思います。『このやり方が正しいんだ。だって、自分もそういう教育を受けてきたし、先輩もそうやっているじゃないか』という考え方が染みついてしまっていて、なかなか授業を変えることができません。」(同上、p85)

この偏見や先入観は非常に強固であり、僕自身も長年縛られてきたし、学生達もインクルーシブ教育のビデオを見せても、この部分に抵抗を感じる人が多い。でも、長年の実践に基づく木村先生のこの発言には、全く反論はできない。

「先生自身が変わらないで、子ども達ばかりを変えようとしていることが大きな問題です。先生に反抗する子がいる学級で、先生の力のほうが強ければその子は不登校になり、子どもの力の方が強ければ学級崩壊になります。そもそも『この子が私に反抗しているのはなぜだろう?』といいうことを教えてくれるのは、その子しかいません。ですから、先生がその子から学ぶしかない。どんなに悪ぶっている子でも、先生が自分に学ぼうとしている姿や空気というものは伝わりますから、絶対につながることができるはずです。」(同上、p95)

不登校と学級崩壊は、コインの裏表。言われてみればその通りだが、しんどい子を見続けてきた木村先生の発言なので、説得力が半端ない。先ほどの「多様な個性を持った子」とつなげげるなら、「先生に反抗する子」とは、画一的で一方通行の教え方に対して「反抗する子」でもある。その際に、先生が変わろうとせず、その子を「困った子」とみなし、その子を変えようとパワーゲームを展開すると、そのパワーのぶつかり合いで、不登校や学級崩壊という結果が生じる。だが、どちらにせよ、無駄に力をぶつけ合うので、消耗感は半端ない。その無駄な消耗戦をどうやったら、抜け出せるのか。

木村先生はそこで、「『この子が私に反抗しているのはなぜだろう?』といいうことを教えてくれるのは、その子しかいません。ですから、先生がその子から学ぶしかない」という回路を開く。「反抗」を自己表現と捉えるなら、そのような必死の「反抗」を、他ならぬ教師の自分にしてくるのはなぜか、を本人から「学ぶしかない」のだ。そして、その「学ぶ」姿勢をもって子どもと向き合う教師には、「どんなに悪ぶっている子でも、先生が自分に学ぼうとしている姿や空気というものは伝わりますから、絶対につながることができるはず」という。

これは、「問題行動」への対処として、極めて真っ当な姿勢だと思う。「関係性のなかでの心配ごと(relational worries)」の考え方からみると、「反抗」というのは、教師と生徒の関係性のなかで生じている。ということは、反抗の原因の一つには、教師の側の関わり方、アプローチの仕方も含まれているのだ。つまり、教師は問題の一部分なのである。そう思ったら、相手を変えるより、自分自身のコミュニケーションパタンを変えるために、相手から学んだ方が、消耗戦のパワーゲームをしているより、遙かに有意義である。だが、先の菊池先生の言葉を借りるなら、『このやり方が正しいんだ。だって、自分もそういう教育を受けてきたし、先輩もそうやっているじゃないか』という心地良い先入観に囚われると、自分の変容可能性より、生徒が悪い、という決めつけに支配され、それを自己正当化するマジックワードとして、発達障害などの言葉を安易に誤用しているのではないか、という疑念すら、浮かぶ。

「大空小は創立12年目になりました。今の大空には、地域住民がつくっている地域の学校の根が張っています。この根はどんなものかというと、『大空で今誰がいちばん困っている? その子をみんなで見よう!』という根です。そもそも困っていない子は大人を信頼できているわけで、いちばん困っている子が大人を信頼するようになることが大事なわけです。その子が変われば、『あいつが変わるってすごい!』と、周りだって可能性を感じます。だから、他のことは何もしなくても構いませんから、一人の子どもを全教職員が多方面から見ていくことが必要です。この根っこさえしっかり張っていれば、少々の風が吹いても倒れることはありません。」(同上、p115-116)

「いちばん困っている子」を、不登校や特別支援学級という形で社会的に排除することが出来れば、先生は楽になる。でも、本人の困り感は、何も解決されない。そして、学校は本来、すべての子どもがが発達し成長するのを後押しする場である。ならば、『大空で今誰がいちばん困っている? その子をみんなで見よう!』という当然の帰結が導き出される。しかも、「いちばん困っている子」は「大人を信頼」できていない、というしんどさを抱えている。だからこそ、大空小学校では、担任や他の先生、用務員や校長、地域のサポーターの人など、多くの人が「かまう」。その中で、「いちばん困っている子」を大人が信頼し、「全教職員が多方面から見ていく」チーム支援を行う。だからこそ、子どもにも変容可能性が生まれてくる。

このプロセスを書き写しながら、精神病院を潰したイタリアの精神科医、フランコ・バザーリアの戦略と近いとも思った。彼は、精神病院の閉鎖病棟で、最も対処が困難と言われた患者を、一番最初に地域に退院させた。それは、「その子が変われば、『あいつが変わるってすごい!』と、周りだって可能性を感じます」という木村先生の戦略と全く同じである。学校や精神病院という、社会の他の風が入り込みにくい、閉鎖された空間。教員と生徒、医療者と患者は上下関係に陥りやすく、支配関係を生み出しやすい。また、教師や医師が言うことの方が、生徒や患者の言うことより、社会的に信用されやすい。だからこそ、「いちばん困っている子」を不登校や特別支援学校、閉鎖病棟に排除せずに、その子とがっぷり向き合い、信頼関係を醸成するなかで、その子の「困り感」をなくし、変容するのを支援する。これぞプロの仕事だと思った。

最後に繰り返すが、「先生がその子から学ぶしかない」のである。これは、「大学教員が学生から学ぶしかない」と言い換えても全く同じであり、精神医療においては「医療職は患者から学ぶしかない」のである。この部分を無視して、権威主義的に生徒や学生、患者に接することで、教育や医療の根が腐っていく。そんなことも感じた一冊だった。

因果から縁起へ

「魂の脱植民地化」研究をご一緒している深尾葉子先生から、博論を元にしたご著書『黄砂の越境マネジメント』(大阪大学出版会)を御恵贈頂いた。この本の概要は出版社HPに次の様に書かれている。

「黄砂は砂漠から飛んでくるという思い込み、植林への思い込みの枠組みをはずす。人の動きと自然現象は予測不可能だが無秩序ではない。人の営みが作り出す景観と、その空間構造にある生活世界の理解なくしては成し得ない「境界を越える」黄土高原の緑化マネジメントを提唱する。」

正直、これだけを見ると、「なんのこっちゃ?」と思う人も少なくないだろう。環境問題はあまり興味関心がないから・・・とスルーする人もいるかもしれない。そういう僕自身も、かつてはスルー派だった。だが、8年前に深尾先生の講演を聴いて以来、そうやって「自分には関係がない」と切り分ける思考そのものが、「魂の脱植民地化」につながっている、と気付かされはじめ、そこから僕の学びも深まっていった。

深尾先生からこの8年間学ばせて頂いている事は数限りないが、決定的に大切なことの一つが、本書にも書かれている。

「問題を『制御可能』と見なして枠組みを固定してしまうと、あらかじめ予定されていたストーリーに執着し、そのために現実に起きていることから目を背けてしまう」(p247)
「現実には非線形で複雑なシステムに対して、『調査・計画・実行・評価』という線形的アプローチを適用することは、原理的に不可能であるといってもよく、多くの問題を惹起する」(p248)

これは砂漠化対策としての植林が、その現地の元々の植生を無視した、その土地に根ざしていない外来種の植林であり、「毎年何万本植えよう」という「計画制御」モデルであったため、見事に破綻していく様子を考察したものである。そして、そういう現場で現地のコーディネーターが、「上」が決めた目標と、現場でのズレを解消するために「『つじつま合わせ』のストーリー」(p254)を描いているという。

これは、中国の砂漠化対策の植林に限定されたことだろうか?

PDCAサイクルがもたらす弊害は、日本の教育や福祉現場でも沢山見られるし、少なからぬ方がその被害をご自身の職場でも体感しておられるのではないだろうか? 大学では毎年の授業アンケートという「評価」に基づいて、次年度どう授業を変えるかが「調査」され、それに基づきシラバスという「計画」を作成し、授業を「実行」する。これは少なからぬ大学で行われているが、それで現実に授業がめきめき改善したか、というと、少なからぬ場合、ペーパーワークという「つじつま合わせ」で終わっている。これは行政の福祉施策でも、コンサルに丸投げされた基礎「調査」がなされ、福祉「計画」が作られて、計画に基づいて具体的な施策が「実行」されるが、その施策が実践されるなかで表面化されたマイナスの「評価」に関して、次の「計画」の中に取り入れられ、改善されることは、あまりないのが現実である。

どちらの例からも言えること、それは「『制御可能』と見なして枠組みを固定」することで、計画も実践も「あらかじめ予定されていたストーリーに執着し、そのために現実に起きていることから目を背けてしまう」可能性がある、ということである。だから、「お上」がいくらPDCAをしつこく言っても、現場はそれでうまく回るはずはないし、「お上」が求めるから、と「つじつま合わせ」だけが蔓延し、「やっているふりをするだけ」の余計な仕事がどんどん増えていくのである。これは、まさに悪循環そのものである。

では、どうすればよいのか。深尾先生は、複雑な現象を制御可能であるかのように見なして振る舞う「切り取られた合理性」や「単純化された因果関係」(p272)、つまりはPDCAサイクルそのものから自由になることを提唱する。では、それに変わる代替案はないのだろうか? それを黄土高原の村における相互作用の観察に基づいて、こんな風に描き出す。

「村において観察可能であったのは、村人同士が各々個別に展開する労働交換や情報の交換によって形成される『関係』のネットワークのみで、それは常に変化し、形を変えて存在し続ける。そこから抽出できるのは、構造そのものではなく、構造化のダイナミクスであり、動的なモデルであった。」(p291)
「人為的要因と自然的要因が複雑に相互作用し、非線形性によって支配される複雑な現象を理解するには、あらかじめ『フレーム』によって対象と『時間』を区切り、限定された因果関係で理解しようとする手法は、大きな齟齬をもたらす」(p294)

PDCAサイクルに代表される計画制御は、「構造」で理解しようという試みだが、それは「あらかじめ『フレーム』によって対象と『時間』を区切り、限定された因果関係で理解しようとする手法」であるがゆえに、大学の授業であれ、あるまちの福祉政策であれ、「人為的要因と自然的要因が複雑に相互作用し、非線形性によって支配される複雑な現象を理解するには」「大きな齟齬をもたらす」という。

だからこそ、PDCAサイクルのような「構造」を手放し、どのような「『関係』のネットワーク」が存在するのか、それがいかように「変化し、形を変えて存在し続け」いるのか、という「構造そのものではなく、構造化のダイナミクスであり、動的なモデル」を理解することが大切だ、と指摘する。

大学の授業も、僕と毎年異なる学生(対象者)、そして教室環境や他の授業との関係性、といった「複雑に相互作用し、非線形性によって支配される複雑な現象」である。それをPDCAシートで埋めても、改善できない。それよりは、今年の学生さんとの一期一会のなかで、授業において学生達とどのような「『関係』のネットワーク」を創り上げていくのか、が問われている。そして、そのような関係性構築という「構造化のダイナミクスであり、動的なモデル」を自覚化することで、翌年の授業を「構造化」する上での課題が浮かび上がる。学生が学べていないと感じたら、教員の側が授業の内容ややり方を「変化」させ、「形を変えて」学生と関係を取り結び直す試行錯誤が求められる。これは、因果モデルでは描ききれない「複雑に相互作用し、非線形性によって支配される複雑な現象」そのものである。そして、そういう動的なモデルを動かしていくうちに、何らかの「構造化」が生まれてくるのだ。

最終章で深尾先生はそのことを次のように総括している。

「『フレーミング』を取り外すということは、非線形的な語りの中では、常に線形的因果関係の背後に広がる非線形的な『縁起』に思いをはせるということであり、それこそが本書で『アウトフレーミング』と称する動作である。既存の『フレーム』を相対化し、『フレーム』の外部にあって、実は重要な役割を担いうるものを認識の中に取り込むこと、既知の世界で合理的であると考えられる事柄を常に相対視し、不合理であるとされていることを自己の行動や視野の中に取り込んでゆくこと、それが『アウトフレーム(フレームを凌駕)』することである。すなわちアウトフレームというのは、フレームを超えようとするプロセスそのものを指している。」(p310)

この指摘は書き写しながら根源的に重要である、と改めて感じた。

授業で言うならば、教員の僕が知っている範囲の事を、僕が教案通りに一方的に講義する、というのは、「線形的因果関係」で閉ざすことである。それをやっていて、前任校では全然興味を持って聞いてもらえなかったところから、僕の授業改革は始まった。その中で、学生たちの発言や興味関心という「『フレーム』の外部にあって、実は重要な役割を担いうるものを認識の中に取り込むこと」が、僕の授業を変えてくれる大きなきっかけになった。「教員が教えなければいけない」という「既知の世界で合理的であると考えられる事柄を常に相対視」して、学生達の学び合いの場を授業中で展開していくことで、寝る学生はいなくなり、学生の参加度も満足度も高まっていった。これは、「学生が興味を持たない」という「不合理であるとされていることを自己の行動や視野の中に取り込んでゆくこと」そのものであり、結果的に僕のしてきた事は『アウトフレーム(フレームを凌駕)』だったのだ。そして、PDCAサイクルなんかより、死活的に重要なのは、この「フレームを超えようとするプロセス」であり「構造化のダイナミクス」を動かし続けることである。そして、そうやって僕が自分の教育スタイルの因果モデルを超えて、「非線形的な『縁起』に思いをはせる」ことによって、僕は沢山のことを学び続けているのである。

このプロセスは、授業だけの話ではない。たとえば、福祉現場で「支援困難事例」や「多問題家族」と呼ばれる事象に支援者が関わるとき、それは支援者がその対象者(家族)を「困難」と感じている時点で、「既知の世界で合理的であると考えられる事柄」の限界・臨界点にさしかかっているのである。わけのわからない発言、理解できない言動、周囲を巻き込んで迷惑をかける事象・・・などの「非線形的な語りの中では、常に線形的因果関係の背後に広がる非線形的な『縁起』に思いをはせるということ」が死活的に大切なのだ。そして、従来の支援の「『フレーム』の外部にあって、実は重要な役割を担いうるものを認識の中に取り込むこと」、つまりは「アウトフレーム」のダイナミズムのなかで、新たな「縁起」が生まれ、悪循環の固着状態から解放され、支援が回り始めたり、するのである。

あと、長くなったので手短に言うと、オープンダイアローグも、このアウトフレーミングのプロセスそのものである。線形的な因果論では解決出来ない「狂気」の出現に対して、因果論的に薬を処方して閉じ込める、のではなく、「狂気」の形でしか自己表現出来ないものは何かを支援者と当事者と本人が信頼を寄せる社会ネットワークの人々が一緒に考える事によって、「『フレーム』の外部にあって、実は重要な役割を担いうるものを認識の中に取り込む」プロセスそのものでもある、ともいえる。

そう考えるならば、私たちの「思い込み」や「つじつま合わせ」から自由になることが、より創造的で本質的な仕事につながることも見えてくるし、この深尾先生の指摘は、様々な人が関わる現象(支援関係や授業、環境問題や政治・・・)にも当てはめて考えることが出来る、極めて普遍性の高いモデルである、ともいえるのでは、ないだろうか。

この本は、折に触れて読み返そうと思う。

追伸:本の中身自体の紹介は密林レビューに書いてみました。

「○○しちゃダメ」と違うやり方とは?

わが家のおちびは絶賛イヤイヤ期に突入。食事中に、お茶の入ったミニボトルやスプーン、お皿などを投げまくる。「投げたらダメ」と言っても、全然聞いてくれない。そのくせ、「ぶどう食べる人?」と訊ねると、元気に「はい」と答えたりする。お茶ボトルがゴツンと当たると、正直痛くて、「痛いなぁ」と思わず大きな声を出すときもあるし、睨んでしまうときもある。でも、本人はきょとんとしている。まだ、「悪いことをした」という自覚や判断力も身についていないようだ。さて、困った。

そう思った時、岡山の「「無理しない」地域づくりの学校」で出会った、香川の子育てサークル「ぬくぬくママSUN’S」代表の中村香菜子さんの顔が浮かんで、彼女にお尋ねしてみた。すると、色々教えて下さったのだが、その中で最も刺さったフレーズが次の部分だった。

「コミュニケーションの基本は、相手を否定せず、認め、提案するです」

本当に、そのとおり。なのに、わが子の「『問題行動』を修正せねば」と躍起になるあまり、この基本を忘れていた。そう、おちびがものを投げ続ける時も、それにはそれなりの理由があるのだ。それを「否定せず、認め」た上で、それ以外のやり方を「提案する」。これは、子どもだけでなく、認知症のBPSDでも障害者のchallenging behaviorでも同じだった。・・・と知識で知っていても、目の前で実際にその行動と出会った時、スプーンや皿が飛び続ける時、なかなか自覚的になれない、ということも、今回よくわかった。文字で知っている事と、実際に出来る事は、違いますね。

そして、中村さんは、「ダメ」ではないコミュニケーションとして、次の様な例も教えてくださった。

「水筒投げたらめちゃ楽しいよなーわはははは!ねー!でもさ、これ、投げたらママの頭がいたたたたーやで。それに、大事な水筒が壊れちゃう。みんなえーんえーんやで。だから、こっちにしまっておくね、」

子どもが言語化出来ていない、水筒を投げて楽しい、とか、欲求不満とか、とにかく水筒を投げるのに意味がある、ということを肯定的にまず受け止める。親がキャッチしたと言葉で伝える。でも、その上で、親にとっての困った現象や、その行為が及ぼす影響も伝えた上で、別の提案をする。いやはや、さすがですね。

このことを教わりながら、二つのことが結びついて来た。

一つは非暴力コミュニケーション(Non Violent Communication)との共通点である。NVC Japanのホームページにはこんな風に説明されている。

「頭(思考)で判断・批判・分析・取引などするかわりに、自分自身と相手の心(ハート)の声に耳を傾けて、今の感情(Feeling)・ニーズ(Needs)を明確にしていくことで、お互いの誤解や偏見からではなく、心からつながりながら共感を伴ってコミュニケーションをすることを主眼にします。
具体的には、「観察(Observation)」「感情(Feeling)」「ニーズ(Need)」「リクエスト(Request)」の4要素に注目しながら、コミュニケーションで起こっている問題・ズレを整理していくという方法をとります。」

「それしちゃダメ」というのは、「頭で判断や批判」をすることである。それは、「自分自身と相手の心(ハート)の声に耳を傾けて」はいない。そして、そのことからズレが生じ、共感ではなく「お互いの誤解や偏見」が広がっていくという。では、どうすればよいか。実は、中村さんの上記のコミュニケーションでは、既にそれが実践されている。

「「水筒投げたらめちゃ楽しいよなーわはははは!ねー!」(観察) 「でもさ、これ、投げたらママの頭がいたたたたーやで。それに、大事な水筒が壊れちゃう。みんなえーんえーんやで。」 (感情+ニーズ:水筒を壊したくない、泣きたくない) 「だから、こっちにしまっておくね」(リクエスト)

ここでの肝は、相手がなぜそうするのか、という相手の内在的論理を探り、それを自分の感情と分けて、まずは観察言語として表現し、相手に伝える、ということである。つまり、真っ先に「ダメ」「やめなさい」といった「判断や批判」をする前に、相手の行動を「否定せず」に受け止めることである。

そんな折、昨日の朝日新聞のフロントランナーで、LITALICOの長谷川さんが取り上げられていた。彼の発言を読んでいて、ここまで考えて来たことと繋がるフレーズを見つけた。

「ワークスを利用する精神疾患の人たちの多くが、幼い頃からの失敗体験の連続でトラウマを抱えて青年期に発症していることを知り、「日本には、ユニークな人を育てる教育環境がなさすぎる」と痛感した。」

「ユニークな子にあった教育環境がなかった結果、二次的に精神疾患になる人が多いというのは、僕の肌感覚による仮説です」

ここでいう「ユニークな子」とは、単に発達障害とか精神障害というカテゴライズに入る子を意味してはいないと読みながら感じた。「○○しちゃダメでしょ」に素直に従う従順な子ども以外は、つまり実は大半の子どもは、本来一人一人がかなりユニークさを持っているのだ。だが、親が「○○しちゃダメ」と言い続けると、そのうちの少なからぬ子は、その親の統制に従う。それが「しつけ」として社会的に合意されている。そして、その「しつけ」に従う事を前提とした学校空間において、「しつけ」に従えない「ユニークな子」は、先生や親から抑圧され、「幼い頃からの失敗体験の連続でトラウマを抱えて青年期に発症」したり「二次的に精神疾患」になる可能性がある。それは、僕のこれまでの「肌感覚」とも繋がる話だ。(それは以前、「規則や権力への『従順』という『病』」として整理したことがある)

で、その元凶に「○○しちゃダメ」があるのではないか、とも感じている。

以前からの研究仲間でもある大阪大学の深尾葉子先生は、それを「ノットコマンド」問題として提唱しておられる。ノットコマンド、とは、例えば「○○しちゃダメ」のような否定形を伴う表現の場合、「しちゃダメ」という「ノット(not)」の部分を発話者は強調したいのに、受け取る方は「○○する」の部分だけを無意識的に受け取り、発話者の意図とは真逆の指示(コマンド)が伝わる、という「真逆の・意図しない(not)指示(command)」を指している。

娘の場合も、「ぶどう」とか「テレビ」とか「ご飯」とか「じぷた」(好きな絵本のタイトル)とか、キーワードに反応している段階である。その段階で「水筒投げてはだめ」と言っても、たぶん「水筒」しか聞こえない。すると、ダメという部分より「水筒を投げる」に耳が集中し、それを反復してよいと誤解するコミュニケーションが成り立ったいるのかも、しれない。

これは、大人だって同じだ。頭ごなしに「○○しちゃダメ」と言われても、「○○する」事が「楽しい」「したくなった」「そうしないとやっていられない」「それ以外の行動が出来ない」から「○○する」のである。その相手の内在的論理を探ることなく、頭ごなしに判断や批判されても、感情的な反発を受けるだけだ。まずは、否定せずに、notコマンドを使わずに、相手の表現を「観察」して、それを表現してほしいのだ。そこから、表現している相手と観察者の、判断や批判ではない、決めつけではない(=非暴力的な)コミュニケーションが始まるのだ。

そして長谷川さんが「幼い頃からの失敗体験の連続でトラウマを抱えて」と言う時、「ユニークな子」ほど、この「○○しちゃダメ」に安易に従わない特性(=ユニークさ)を持っているがゆえに、それを「しつけや教育」において、頭ごなしに批判・判断され続けてきた結果、二次的に精神疾患になる可能性もあるかも、と、我が事として理解することが出来た。

そういえば、僕だって小さい頃は癇癪持ちで、小学校のころは鞄を道路に投げて放置したり、とか、「きかん気」の子どもだった。でも、ありがたいことに、親や周囲の友達が「○○しちゃダメ」となじるタイプではなく、暖かく見守ってくれたから、なんとか自分で「鞄を投げても得なことはない」と納得し、そこから自分で行動を変えていった記憶がある。誰だって、感情がコントロールできない時がある。興味関心が、親の注意より先立つ時もある。その時に、安直に「○○しちゃだめ」と判断や批判をせず、まず生じていることを「観察」し、そこで生じていることを否定せずに受け止めることができるか。

うーん、実際にコツンとコップが頭に当たったり、食事が床に飛ぶ中で、落ち着いて観察するのは、ハードルが低くない。でも、怒鳴りつけるコミュニケーションをしても、おちびには届かないことだけは、確かだ。であれば、これは僕自身が非暴力コミュニケーションが出来るか、「問題行動」の内在的論理をまさにその行動が成されている時に探ることが出来るか、を試されているのである。おちびさんは、お父ちゃんになかなかハードで有意義な試練を与えて下さっている。さて、そろそろおちびが起きてきたので、その試練を試してみよう。

二項対立を超える為に

最近ご一緒させて頂く事の多い、財政社会学者の井手英策さんが新著『富山は日本のスウェーデン-変革する保守王国の謎を解く』(集英社新書)を出された。僕は発刊直後に駅の本屋で買って読み始めたが、その後井手さんからご恵贈頂いたものも届いた。この本は、新書で読みやすい文体なのだが、僕個人にとっては時間のかかる読書となった。それは、井手さんが二項対立を越える為の問いかけを、本書に沢山埋め込んでいて、途中で立ち止まって考える場面も多かったからだ。

「社会民主主義は、共産主義や社会主義とはちがって、議会制民主主義の廃止、共産党の一党独裁、私的所有権の否定といった革命的な変革をもとめてはいない。むしろ基本的な制度の枠組みを維持しながら、自由や公正、連帯といった価値の実現を追求している。
たしかに、追求する価値が古い文化や伝統のあり方なのか、自由や公正、連帯なのかというちがいはある。だが、それぞれにとっての大切な価値を実現するため、永続的な運動を行っていく点に目をつければ、マンハイムらのいう保守主義と社会民主主義との距離は意外と近いものに見えてこないだろうか。」(p26)

この井手さんの発言は、蒙を啓かれる、というか、自分自身に欠けていた視点だった。僕は14年前にスウェーデンに半年住んでいたこともあり、社会民主主義的な価値観は凄く大切だ、と思っている。特に子どもを授かってからは、公立保育園が近所にあって、1才から必ず入れられるので、パパが朝から連れて行った風景を、羨ましく思い出していた。ああいう社会を日本でどう実現出来るのだろう、と自分事として考えている。

そういう僕にとって、「大切な価値を実現するため、永続的な運動を行っていく」点では、社民主義と保守主義では構造は同じだ、という指摘が興味深く映った。大学生の頃から随分スウェーデン贔屓で、「スウェーデンでは」と「出羽の神」のごとくいつも引き合いにだしていた。でも、そういう言い方をしても、日本では全然響かない。「すごいですね」「いいですね」という声が挙がったとしても、必ずセットで「人口が違いすぎるから」「日本の風土に高福祉高負担は似合わない」などと否定されることも多かった。井手さんも、きっとそういう経験もされたのではないか、と思う。だからこそ、重視する価値ではなく、「永続的な運動」という側面で富山を捉え、それをスウェーデンと結びつけようとしたこの著作は、多くの問題提起を僕にも投げかける。

富山とスウェーデンがどう似ているのか、は同書を手にとって頂くとして、僕に刺さったフレーズを幾つか抜き出したい。

「富山を『保守的な社会だ』と斬って捨てることは簡単だ。おそらく多くの左派・リベラルはこうした社会を望もうとはしないのではないだろうか。だが、本書で明らかにした諸指標、そして富山の人たちがつくりだしたマクロの社会循環は、リベラルや左派がもとめ、そしてついぞ実現できなかった社会の姿にきわめて近いこともまた事実である。
一方、保守派の好む伝統主義的、家族主義的な傾向が支配的であることは、多くの人にとって生きづらさと紙一重というのが実際のところだろう。だが、そうした傾向は富山だけでなく、日本社会のいたるところに存在している。それをただ『保守的だ』といって批判するだけでは思考停止と変わらない。
保守的だと斬り捨てる前に、保守的なものの内側で起きつつある変化の兆しをうまくつかまえ、より、自由で、公正で、連帯できる社会をめざすことは論理的に可能だし、実際にそうした萌芽が富山社会にも数多く存在している。
僕は富山をユートピアだと思わない。無前提に賞賛するつもりはない。そうではなく、富山社会のこれまで、いま、に深く入り込み、学び、そのなかでの発見をつうじて、よりよい社会の条件について考えてみたいと思っている。そのヒントが富山に無数にあることを僕は知っているからだ。」(p74-75)

長い引用になったが、この部分に井手さんの視点が凝縮されていると感じる。「保守派の好む伝統主義的、家族主義的な傾向が支配的であること」が、団塊の世代を中心に多くの反発を招き、故郷を捨てて大都会に人口移動させる契機になった。少なからぬ若者にとって、上記の傾向は「生きづらさ」に直結していた。団塊の世代がリベラルや左派的視点に親和的になっていったのは、この「伝統主義的、家族主義的な傾向」への反発の意味も大きかったと思う。

だが、そんな「保守王国」富山が、持ち家率や女性の正社員比率で全国1位だと言う。これを指して「リベラルや左派がもとめ、そしてついぞ実現できなかった社会の姿」があるではないか、と井手さんは指摘する。保守王国で社会民主主義的な結果と類似した内容が出現しているのはなぜか、と問うているのである。その上で、井手さんは、一見すると相容れない二つを繋ぐ隘路を、「保守的なものの内側で起きつつある変化の兆しをうまくつかまえ、より、自由で、公正で、連帯できる社会をめざすことは論理的に可能だ」と整理している。

なるほど。先ほどの「大切な価値を実現するため、永続的な運動を行っていく」と結びつけると、見えてくるものがある。保守王国でも、さすがに三世代同居や地縁組織の加入率も低下しつつある。これは全国の傾向と変わりない。このような「保守的なものの内側で起きつつある変化の兆し」に対応して、家族主義的な限界を乗り越える為に、「より、自由で、公正で、連帯できる社会」を目指すようにシフトチェンジできるのではないか、という提言である。

つまり、二つの異なる価値体系の結び目にも見える富山という現場を観察することで、「よりよい社会の条件について考え」る「ヒントが富山に無数にある」と彼は指摘する。だからこそ、この本は富山礼賛本でも富山否定本でもない、富山というケーススタディーを通じて「思考停止」を乗り越える方法を模索する本だと僕は受け取ったのだ。

「リベラルな政策を志向する人たちのなかには、『家族』という言葉を聞いて眉をひそめる人が多いように思う。それは、家に閉じ込められた専業主婦に、家事や育児といった『シャドウ・ワーク』を押しつける『閉鎖的な場所』として認識されるからだ。(略)だが、ここで重要なのは、家族という『場』ではなく、家族の持つ『原理』をどのように社会に仕組んでいくかということである。」(p150)

この前段では、惣万さんの「この指とーまれ」に代表される富山型デイサービスと、その進化形態としての「あしたねの森」、そして射水市のふるさと教育を取り上げている。そして、その章のタイトルには、「家族のように支え合い、地域で学び、生きていく」と書かれている。ここに「家族という『場』ではなく、家族の持つ『原理』をどのように社会に仕組んでいくか」という井手さんの問題意識が詰まっている。

これまで「家族主義」が批判されてきたのは、「家に閉じ込められた専業主婦に、家事や育児といった『シャドウ・ワーク』を押しつける『閉鎖的な場所』」という意味で、「家族という『場』」の問題性ゆえであった。だが、社会変化に基づく「永続的な運動」という視点に基づけば、このような「場」は限界が来ている。それが、「この指とーまれ」のような宅老所や共生型ケアが全国で求められている理由でもある。そこは、家族規範を護持する「場」ではない。そうではなくて、「家族のように支え合い、地域で学び、生きていく」という家族の「原理」を社会化し、制度化したものである。そして、そのような家族における「場」から「原理」への変化こそ、保守主義の曲がり角において「永続的な運動」として選ばれた論理であり、この「原理」は「より、自由で、公正で、連帯できる社会」とも接続可能だ。これが、保守主義と社会民主主義を繋ぐ隘路なのだ、と腑におちる整理であった。

本の最後で、再びスウェーデンに言及し、井手さんはこう総括する。

「スウェーデン自身も、自分たちの保守的な価値のなかから新しい価値を生み出し、保守的な思想とリベラルな思想とのせめぎあいを経て、いまのスウェーデン型社会民主主義をつくりあげてきたわけである。リベラルが『保守的だと思ってきたもの』を『保守的だ』と批判することにとどまるとすれば、彼らの欲する社会変革は永遠に実現不可能のまま終わってしまうだろう。」(p198-199)

保守的だと批判することそのものを批判しているわけではない。そうではなくて、リベラルや左派が本当にスウェーデンを見習いたいと思うなら、「自分たちの保守的な価値のなかから新しい価値を生み出し、保守的な思想とリベラルな思想とのせめぎあい」をしっかり自分たちの国の中で受け止め、実践していくべきではないか、と提案していると受け取った。そして、富山のケーススタディーは、そのような「保守的な価値のなかから新しい価値を生み出」す土壌であり、かつ「保守的な思想とリベラルな思想とのせめぎあい」、つまり「場」から「原理」への移行や相克が表面化する現場である、と整理しておられると受け取った。

僕自身も13年間山梨で暮らし、また三重や岡山などで定点観測を続ける中で、都会人の言う保守/リベラルの二項対立では収まりきらない何かを感じていた。そしてそれを説明する言葉を僕自身は持っていなかった。井手さんのこの本で学ばせて頂いたのは、価値前提が違っても、ある価値を大切にするための永続的な運動というプロセスは同じではないか、という提起である。また核家族化や少子高齢化の影響の中で、保守とリベラルの中間のような領域に実態が変化している事も踏まえると、「自分たちの保守的な価値のなかから新しい価値を生み出し、保守的な思想とリベラルな思想とのせめぎあいを経」ることによって、「いまのスウェーデン型社会民主主義」のような「より、自由で、公正で、連帯できる社会」が実現出来るのではないか、と問いかけているのである。

僕自身は日本社会が「より、自由で、公正で、連帯できる社会」であってほしいと願っている。なので、この本は、ではその価値の実現の為に批判に終始せずに何をすべきか、を考える上で、非常に大切な補助線を引いてくれた、と感謝している。そういう意味では、この本は二項対立の閉塞感から抜け出すガイドブックなのかも知れない。

コンフォートゾーンを越える

ひさしぶりに「ワイドビューふじかわ号」でブログを書いている。

山梨を後にして5ヶ月で、久々に仕事で呼んでもらい、【8日】県児童家庭課の地域コーディネーター養成研修→南アルプス市の地域福祉計画庁内ミーティング→飲み会→【9日】元ゼミ生とのダイアローグ→「半年振り返り会」、と、てんこ盛り。8日の12時過ぎのスーパーあずさで甲府について、9日の12時40分南甲府駅発のワイドビューで帰るので、超濃厚な24時間だった。そして、往復は行きも帰りも5時間の列車旅。

この濃厚な24時間を振り返ると、「コンフォートゾーンを越える」がテーマだった。

コンフォートゾーン。それは、安心で快適な領域、のことである。自分が慣れ親しんだやり方を手放す、という意味合いでも使われる。僕の中では、「若い仲間から学ぶ直す/と学びほぐす」というのが、それにあたる。

この24時間で一番時間を共にしたのが、NPO bond placeの小笠原祐司さん。彼はファシリテーションや場づくり、組織変革を専門にしているだけでなく、僕のYGUでのゼミ生を引き継いでくれた、尊敬できる仲間である。彼とは月に1度、Zoomでの定期ミーティングをしていて、その中で「僕は他人や組織の話を聴いたり、ファシリテーションをする機会は圧倒的に多くても、僕自身の話を聴かれることがない」とつぶやいたところ、「では今度タケバタさんが山梨に来た折に、振り返り会をしましょう」と提案してくれた。この振り返り会の中で、他の2人の参加者と4人で、お互いの半年をじっくり聞き合う2時間半を過ごす中で、小笠原さんに言われたのが「タケバタさんって、コンフォートゾーンを越えようとされているんっすね」。それを聴いて、いま・ここがまさにそう!と思っていた。

僕は昔から、熟達者に弟子入りして学ぶ、という構えが得意だった。中学時代の塾の塾長にはじまり、予備校の先生や、大学の先生、そして大熊一夫師匠への弟子入りと四半世紀くらい、熟達者の近くで学ばせて頂く、という構えを続けて来た。小さい頃から「大人の会話に入りたがるおませな”ひろっちゃん”」にとっては、そのガキの頃からの願いが実現していったプロセスでもあった。

だが、大学教員として独り立ちするなかで、先達から学ぶチャンスも徐々に減っていく。その中で、気がつけば僕が熟達者に近づいていく、というより、年若い仲間と学び合う機会が少しずつ、増えていった。その象徴が、岡山の『「無理しない」地域づくりの学校』。あの場の校長を仰せつかり、教頭の尾野寛明さんも、用務員の西村洋己さんはじめ、学校メンバーとガッツリ付き合う中で、指導する学生ではない、年若い仲間が沢山増えていった。これは、僕にとって新しい経験や発見であり、その中で学ばせてもらったり、オモロイ経験をさせてもらうことも少なからずあった。

昨日から今日にかけて、三つの場で小笠原さんのファシリテーションを間近で体験する機会があったが、それを見ていても、「こんな風に聴くんだ」「こんな展開を考えるんだ」「こういう流れを作っていくんだ」という発見や学びが多かった。企業のコンサルテーションがバックグラウンドの彼と、福祉現場に関わる僕とは、一見すると別のアプローチをしているようにも見えるが、富士吉田側から登るのか、御殿場から登るのか、の違いで、目指す富士山という到達目標は同じ、と感じる事が沢山あり、だからこそ、彼とのやりとりから学ばせてもらうことが沢山ある。

そして、南アルプス市の現場では、小笠原さんだけでなく、山梨県立大学の高木さんともご一緒した。彼は愛媛や神奈川、山梨の地域福祉の現場でコツコツ誠実に関わっている逸材だが、地域福祉のコア概念を押さえた上で、ボトムアップ型の政策形成を提案出来る彼の視点やコメントは、僕には言えない・見えていなかった視点であり、それを聴いている僕もすごく学びや刺激が大きかった。南アルプス市では第3次地域福祉計画の策定アドバイザーとして僕は関わらせてもらったが、僕がやり残した・一人では出来ない何かが沢山ある、と自らの限界を感じ、兵庫に移籍する以前から、高木さんと小笠原さんとチームを組んで動きたいと思い続けてきた。なので、こういう感じで二人とコラボできるのが、めちゃ嬉しい。

そして、これって、熟達者に弟子入りする、というこれまでの慣れ親しんだモードから、ようやく脱しつつあるのかな、と今日思い直していた。新たなチャレンジなのだが、不安よりも、ワクワクの方が先行している。

先達から教わる、とか、学生に教える、ではなく、同世代や下の世代の仲間と、共に考えあい、学び合う。その中で、僕自身が学んで来たことを解き放ち(un-learn)、新しい考え方を学び直すような関係性が、気がつけばあちこちで出来はじめている。これが、僕自身の中での「開かれた対話性」と重なったとき、オモロイ相互作用が始まるのかもしれない、とも思い始めている。

それと共に、慣れ親しんだ山梨を離れてみて、今回の山梨からの旅立ちも、コンフォートゾーンを越えるチャレンジになっている、と遡及的に思い始めている。

山梨では、居心地の良い学科・同僚に恵まれ、ゼミ生とも良い関係が結べ、授業もうまく展開して行き、市町村や様々な福祉現場の人とも信頼関係が生まれ、最後の数年は実にスムーズに事が運んでいた。それは不安や不快な何かが減っていく、コンフォートゾーンに入ったことでもあった。だが、子どもが生まれ、孫に会いたいと願う父への親孝行のつもりで山梨を去る決断をしたのは、結果的にこのコンフォートゾーンを手放したことでもあった。肩書きも教授から准教授に変わり、給与も下がった。でも、僕の中でもう一度、「出来上がった何か」ではなく、一から学び直す、チャレンジャーの立ち位置に戻った感覚を持っている。まだ、色々な事に慣れていないし、100人越えの授業でアクティブラーニングに取り組むなど、今までとは違う新たなチャレンジにも取り組んでいる。それらは、結果的に先ほど書いた学びほぐしや学び直しと直結している。これは、今回の「振り返り会」に参加して、新たに気づけたことでもあった。

そして、それはこの1年間の子育てや家族関係にも直結している。

妻と結婚して16年目。子どもが産まれるまでの14年間に、お互いがしたいことを追求しながら、二人で旅行にもあちこちでかけたり、一緒に飲みながら語り合うなど、コンフォートゾーンを二人で創り上げてきた。そして、子どもが産まれたあと、まさに移行期混乱というか、周りに関係なくありのままに泣き、笑い、ぐずがり、眠る娘さんに翻弄され続けてきた。安定した二者関係から、必死で生き延びる三者関係に移行したことにより、お互いが随分シンドイ思いもしてきた。だが一方で、子どもと妻と三人で過ごすありふれた日常が、実に愛おしく、かけがえのない何かであると感じる瞬間も、確実に増えている。二者関係のコンフォートゾーンはなくなったけど、今度は三人での新たなコンフォートゾーン作りを、やんちゃな娘に翻弄されながらも、作ろうとしているのかもしれない、とも思う。

そんな意味でも、僕自身が「いま・ここ」の立ち位置を改めて振り返り、これからの歩みに思いを寄せる、濃厚な24時間であった。

内なるハウルを意識する

ブログの更新が二ヶ月も空いてしまった。2005年に開設して以来、初めてのこと。引っ越しや勤務先が変わった疲労が出てか、何度か風邪も引いたし、子育てに仕事のピークが重なると、ツイッタに書き込めてもブログのために1時間割く余裕がなくなっていた。一般教養の130人の採点が終わったので、やっとその余裕を取り戻す。

さて、この間もっとも僕の心に残っていること。それは、昨晩指摘された、僕の中の「内なるハウル」の存在である。少し、丁寧に説明してみたい。

ハウルの動く城、とは、多くの人がご存じの宮崎駿のアニメである。そして、その「ハウルの動く城」を「魂の脱植民地化」の視点から考察した深尾葉子先生と、昨晩お話ししていた折、実は僕自身の中にも「ハウル」がいた、ということがわかってきた。それが、①英語を話すときと、②人前で講演するとき、の僕である。

きっかけは、深尾先生のお友だちのスティーブさんと三人で英語で議論をしていたとき、僕自身が頭をかきむしりながら必死で英語で言いたいことを絞りだそうとしていたのを見て、深尾先生から「何だか普段のタケバタさんと違うよ」と指摘されたことだった。僕はそれが、自分の英語表現の下手さ・稚拙さゆえである、と思い込んでいた。だが、深尾先生と話すうちに、僕が抑圧していた過去を思い出す。それは、英語の発音を巡る思い出である。

僕は小学校の頃、ラボファミリーという英語サークルに入っていて、「ぐりとぐら」「だるまちゃんとかみなりちゃん」といったかこさとしの童話が英訳された内容のテープをずっと聴いていた。だから、ヒアリングは割とすんなり出来るし、小学校の頃は比較的流ちょうな英語を話せていた。だが、中学校に上がってすぐ、友達から「巻き舌なんて、なんかいちびっている!」「外人っぽい!」と馬鹿にされて以来、日本語イングリッシュに強制して、巻き舌を封印した。だからこそ、それ以来英語を話すのにエネルギーが必要になった。伝えたいこと、話したい内容が一杯あるけど、「いちびっている!」と馬鹿にされた記憶ももたげて、下手な日本語英語しか出て来ず、相手に伝わらず・・・という悪循環に陥っていたのだ。

その話を聴いて下さった深尾先生が一言、「日本人に聞かせるのではなく、ネイティブと話すんだから、格好つけでもなんでもないじゃない」と仰って頂き、その呪符はひらひらと飛んでいった。そう、一生懸命力を入れて、日本語英語を話すから、疲れるのだ。そう思って、昨晩再び英語で議論した時、夜という時間帯もあって、テンションを上げずに、何だか気怠い感じで、必死に話そうとせず、リズムにのるように、話してみた。すると、表現や文法上の稚拙さは変わらないかもしれないけど、より自然に英語が出てきたのだ。それは、深尾先生もスティーブさんも同意してくれた。

このエピソードを通じて、もう一つの僕自身の「仮面」を思い出していた。それが、「講演モード」の「仮面」である。

数年前まで、研修や講演が終わると、「あなたの話を聴いて元気を貰いました」と言われることが多かった。一方、僕自身は講演が終わるとへとへとに疲れ果て、グッタリすることもしばしば、だった。だが、対価をもらって講演する、ってそういうことなんだ、と勝手に自分で思い込んでいた。その一方、身体はボロボロになるし、漢方医や鍼灸に通っても、その場しのぎでいっこうに快復しないのも、また事実だった。

そんな折、昨年春に未来語りのダイアローグの集中研修を受けて、僕自身が「頑張らなくて良いんだ」と思うようになった。僕自身がしっかり「話すと聞くをわける」ことを理解し、研修内でもより多くのダイアローグの機会を作り、「不確実性さを耐えること」になれて、僕の持って行きたい筋書きを放棄し、その場に任せるようになると、より場全体のダイアローグが深まっていった。そういう場では、落としどころを探らなくても、色々な人の声を拾う中で、勝手に場が収まっていった。そして、そういう講演の方が、確実に聞いて下さった方の全体的な満足度があがった。「元気になりました」と言われることはなくなったけど、「色々考えるきっかけをもらえました」と聞く機会が増えた。

つまり、これまでの僕は、一方的に伝えるのに必死になって、何とかして会場の人を「説得」して、理解させようとしていた。熱量をかなり込めて語るので、うまくいけば、相手に伝わって僕の熱量を伝えられると共に、僕自身はクタクタになった。でも、その熱量ゆえに時として、会場の人からの大きな反発を招き、研修中に激論になることもあった。そういうときは互いの熱がぶつかりあい、会場全体がグロッキーになってしまっていた。

でも、今はそういう「説得」を手放し、議論を一致させることも狙わなくなった。それは、僕がダイアローグを学んだトムさんから、次のアイデアを聞いていたからだ。

「ダイアローグが始まる前は、さまざまな独自の見方があります。ダイアローグの後にも、さまざまな独自の見方があります。しかし、見方はさらに深まっていて、お互いの物の見方がよりよく理解されています。このようにして、協力して活動する方向へと道が開かれます。」(トム・エーリク・アーンキル&エサ・エリクソン『あなたの心配ごとを話しましょう』日本評論社、p64)

「協力して活動する方向へと道が開かれる」ことが主目的であれば、意見を一致させる必要はない。むしろ、あなたも僕も唯一無二の存在なのに、意見を一致させる、とは、どちらか一方の価値観に従いなさい、という強制にしばしば陥る。熱量を込めれば込めるほど、反発を招く可能性が高くなる。ダイアローグにはならないし、押さえつけるときも、反発を招くときも、必要以上にパワーを使い、結果的に両者が疲れ果てるだけである。

だからこそ、意見の一致、ではなく、「お互いの物の見方がよりよく理解され」ることを目指す方が大切なのだ。そのためには、僕が必死に力んで話をするのではなく、テンションを下げて、落ち着いたトーンで、「あなたはどう思われますか?」と伺うことが必要不可欠なのだ。

で、ここまで①英語を話すときと、②人前で講演するとき、の僕が疲れ果ててきたこを述べて来た。では、なぜこれが「内なるハウル」なのか。

それは、アニメを見た人は思い出して欲しいのだが、ハウルは外界から「城」に帰ってくると、いつもグッタリ疲れ果てているのである。外界ではイケメンスーパースターとして振る舞っているのだが、その実、めちゃくちゃ怖がりで、自分の部屋(内界)にはお守りを張り巡らせているハウル。外界でテンションを上げてスターを演じた後、内界の扉を開いた段階で、既に肩を落として疲れ果てているのである。

このハウルの疲れ果てた姿が、英語を話した後や日本語で講演をした後の僕の姿と同じだ、と深尾先生に指摘されて、やっと初めて気づけた。つまり、この2つの振る舞いをしている時、僕はかなり無理をして、テンションを上げて、自分のエネルギーを使い果たし、「馬鹿にされないように」「少しでも敬意を持たれるように」と、他人のために心身を酷使してきたのだ。そして、その事に無自覚なまま生きてきたから、深尾先生のハウル論は以前から読んでその概要は諳んじて言えるにもかかわらず、「僕はハウルみたいにイケメンでもないし」なんて訳のわからない理由を付けて、僕自身のありようとは無関係だと切り分けていたのである。これって、まさに「魂の植民地化」そのものだ!

だいたい、「馬鹿にされたくない」「敬意を持たれたい」というのが、僕自身のありのままを表現することへの恐怖や、他者への憧れとそれが出来ない自己嫌悪にもとづく「自己愛」の作用である。安冨歩先生の名著『生きる技法』の中では、この「自己愛」を超えて、ありのままの自らを愛することを「自愛」と表現していた。そして、僕は『枠組み外しの旅』を書くプロセスに身を投じて以来、この7,8年の間に、だいぶ「自愛」モードを手に入れてきた。そのプロセスで、昨年くらいから、講演や研修場面でも、無理せず自愛モードを獲得出来た。そういえば、『「無理しない」地域づくりの学校』を岡山の仲間たちと創り上げてきたのも、僕にとっては格好のリハビリだった。だが、それが全然未開発で、「無理しまくって」「自己愛」に陥っていたのが、英語を話すときの僕、だったのだ。そんなことに、ようやく気づき始めた。

少なからぬ人が、自分の中に「内なるハウル」を抱えている。虚勢を張り、外界で無理をして、内界で疲れ果てる、という、憧れと自己嫌悪がセットになった自己愛モードだ。それは、ハウルの声優として一体化できた某ジャニーズ系アイドルさんの中にも恐らくあるだろうし、僕の中にも、しっかり根付いていた。あるからダメ、なのではない。それがあることに気づけると、キョンシーに貼り付けられた呪符のように、勝手にそれがほどけていく「魔法」なのである。深尾先生は「魔法は魔法であると自覚すると、その効力が失われる」と仰っていた。そう、自らのシンドサや悪循環に、その自己愛のフィードバックループがあるとわかれば、そこからどう抜け出せるか、も模索できるのだ。

ちょうど今日は立秋。姫路は何だか秋風のような涼風が吹き続けている。僕自身、もう少しクールダウンして、テンションを下げて、流れに乗るように、自分自身のあるがままに日本語でも英語でも表現できるように、ぼちぼちモードを切り替えていこうと思う。