シェフの腕の見せ所

 

貰い物のいんげん豆のへたをとっていると、外から鼓の音が聞こえてきた。
近くの神社で能でもやっているのだろうか? 

家でのんびりしていると、様々な音が聞こえてくる。関西にいた頃は、車のクラクションや爆竹・花火系、あるいはたまには暴走族の音だったり、「騒音」にカテゴライズされるものだったが、こちらでは、鳥のさえずりやら、近所の小学生の「ただいまー」という元気な声やら、まあ健康的な音が多い。
音は、集中やリラックス、そのどちらにも関係しているので、騒音けたたましくないこの地では、非常にリラックスできる。

音だけでなく、野菜もすこぶるよい。
週末は、人に教えてもらった「道の駅」でおかひじきやらルッコラなどを買い込む。ルッコラはスウェーデンで頂いていらい、大ファンになった癖のある葉物。イタリア料理にたまにちょびっと載っていたりするが、我が家では100円の束を二束買って、大量に食す。レモンベースのドレッシングを作り、焼き豚の残りとかりかりベーコン、それにトマトとキュウリを添えると、立派な準メインディッシュとなる。

能を聴きながら処理をしていたいんげん豆は、葉タマネギ、しめじ、鶏肉とともに煮物に。煮干しと干し椎茸でだしをとったら、あとはCMじゃないけれど、「しょうゆとみりん、1:1、ただそれだけ」で実に美味しく仕上がる。おかひじきもさっと茹でてポン酢で頂くと、しゃおしゃおして美味しい。おかひじきなるものは、甲府に引っ越して初めて食べてみたのだが、実に美味しい。初夏の味覚を満喫した。

「タケバタさんは食の話は熱を込めて、研究の話は迷いながら、が多いですね」
とは、よくこのブログを読んでくださるM先生の分析。その通りなのです。実際、昨日もグタグタ迷いの文章を書いていましたしね。それに比べて今日のはルンルンに書いている。もちろん研究にも「熱は込めて」いるのだけれど、どうもまだ歯車がピッタリあい切れていないのか、模索の途中なんです。それにくらべると、主夫生活は板についてきたのか、あるいは30年以上「食べている」からか、ついでに山梨で美味しい食材に沢山出会えることもあってか、食とは最近実に良い出逢いが出来ている。

研究だって、もちろん良い出逢いがたくさんある。あとは、それを僕がどううまく「調理」できるか、だ。ここからが、シェフタケバタの正念場なのだろう・・・。その前に、包丁をとがなくちゃ、ね。

おぼろげながら見えてきたこと

 

「いかにしてあるのか」の整理をしてみたら、これまで自分の中でもよくわからないうちに選択していた、あることに対する説明がつくようになった。その疑問とは、

「なぜタケバタは院生になった時に、臨床心理系の本を読むことをきっぱりやめたのか」

である。

実はこのHPのプロフィール欄にも少し書いたが、むかーしむかし、高校生から大学生に書けて、臨床心理学というものに相当興味を持っていた。入学した阪大人科も、臨床心理学講座があるから入った、という部分もあった。ただ、当時から臨床心理はブームになっており、講座に入るのはかなり高倍率であった。大学生になってからすっかり「嫌なことはしたくない」モードが身に付いてしまったタケバタは、臨床心理系の講座に入るには必修となっていた「心理学概論」や統計的なものを勉強するのが面倒くさくて、専攻にすることは諦めた。でも、集中講義では臨床心理系の授業はかじったし、ユングや河合隼雄だけでなく、風景構成法や神田橋條治氏の臨床関連の本を読んでみたり、とにかく興味を持ち続けていた。

だが、院生になって、師匠大熊一夫氏に師事することになり、精神病院と向き合うことが決まった時、自分でもびっくりするほど決然と、「これからは臨床心理の本はしばらく読まない」と決めたのである。以来本当にこの分野の本は「封印」してしまった。それが博論を書き終わって大学院を修了した後に、ようやく少しずつ封印を解いて、中井久夫をはじめとした精神科医の手による著作を読み始め、今は活字の大きい「中公クラシックス」で出ているフロイトの「精神分析学入門」を読み始めている。読んでみて、もちろん面白い。

では、どうして「面白い」はずのこれらの臨床心理系の本を、しかも精神障害者支援を専門にしているタケバタは、特に院生の間、構造的に排除してきたのか? 院生の時、自分にはこういう言い聞かせをしていた。
「臨床心理の本を読んだら、そっちに流されてしまう」
もともと嫌いじゃない分野の本だから勿論なのだが、「そっちに流されてしまう」ことによって、何が問題となり、自分が掴もうとするどういうことが掴めなくなるから排除していたのか? その時はこういう答えを用意していた。
「精神病院や精神保健福祉の構造的が掴めなくなるから」「当事者の声をその通りに聞けなくなるから」

当時直感的にそう思っていたことが、今になって「いかにしてあるのか」という言葉で振り返ってみると、確かに選択肢はそれ一つではないけれど、でも求めるものにたどり着くための一手段として有効であった、ということがわかってきた。以下、少しだけ、そのことをひもといてみたい。

僕自身、心の病や精神疾患に関して、臨床心理という視点を通じて、以前から興味を持っていた。だが、実際に精神病院でのフィールドワークを始めた時、なんとなくその視点には囚われてはいけないな、と感じたのだ。これは師匠の捉え方が、精神障害者個々人の病理の把握、ということを、取材の根拠にされておられなかった、というのが大きい。そうではなくて、精神障害者が、社会の中で、精神病院という密室で、あるいは日本の精神保健福祉制度の中で、どのような状態に置かれているのか(=いかにしてあるのか)を、徹底的にルポとしてあぶり出す手法を取られていたのだ。1971年に出された「ルポ・精神病棟」が、未だに読む人の心をわしづかみにするのは、それが暴露本であるからではなく、むしろ精神障害者の「いかにしてあるのか」を赤裸々に、かつ構造的に明らかにした記念碑的著作だからである。

この著作を通じて、あるいは師匠の語りや教えを学ぶ中で、まず院生の自分が掴まなければならないと感じたのは、個々人の精神病理や臨床心理学的専門用語ではなく、この日本で人は精神障害を持つと、「いかにしてあるのか」、その全体像だった。それを掴むために、修士の1年生の段階で臨床心理学的視点を持つと、専門家的視点に固着し、全体像が掴めない可能性があった。つまり、一つの視点で物事を深く捉えようと決意した段階で、それ以外の視点を「とりあえず置いておく」という選択肢をとったのだ。これは、その時点の選択としては、一番良かったと思う。

確かに、今頃「精神分析学入門」を読むなんて、精神障害者支援を「専門」にしている人間としては「論外」と言われるかもしれない。でも、1:1の個別支援だけでなく、精神障害者の支援とは「いかにあるべきか」を問うためには、まず精神障害者を巡る実情が「いかにしてあるのか」をきちんと自分の中で把握していないといけない。その時、臨床心理のめがね、つまりは専門家的視点を持って眺めると、精神障害者が専門家にコントロールされている、いわゆる「医療・福祉の専門家支配」の問題を見る視点がどうしても弱くなる。つまり、精神障害を持つ人の発言を、人間として聞く、ということが出来ず、その人の語りの中にある「病理性」を探し出そう、という目を持ってしまう可能性が、当時の僕には高かったのだ。それでは、当事者の視点に立った「いかにしてあるのか」を見つけ出すことは出来ない。

例えば、病棟で若い頃、医師からセクハラを受けた、と語ってくださった女性がいる。その人の語り口がものすごく激しくて前後関係も一見、滅茶苦茶にみえる場合、病気故の妄想なのか、と専門家なら判断するかもしれない。本当にセクハラがあったのかどうか、の真偽認定は今となっては出来ないが、でもその人にとって、そのことは大きなリアリティを持ち、それだけでなく、大きなトラウマとなり、傷ついているのだ。また、それを、「嘘でもいいから相手の言うことを信じましょう」という専門家的認識にはなじめない。だって、その人にとって、それは嘘ではなく、偽りない事実なのだから。その人にとって、その語りは、その人自身が「いかにしてあるのか」を表現する上で、欠かすことのできないものであるのだから。それを、病状、とか、病理、とかで他者が勝手に「嘘」と解釈することなしに、その人の心的事実として受け止めることから始めたい、そう思ったから、専門家的視点を数年間、封印していたのだと思う。

もちろん、上に書いたエピソードに関しても、その後読みかじった精神分析や精神科治療の世界の専門用語やその枠組み・思考方法を借用して書いている。だが、これは、自分の中である程度、精神障害をもたれた方が現在の日本において「いかにしてあるのか」について、体感、というか、実感としてわき上がってきた後、それらの枠組みなり用語を学んだから、書けるのだと思う。前後が逆であれば、きっとこういう視点にも立てないし、こういう風にも書けない。自分がこう育ってしまったから、今のような書き方、ものの見方が出来ているのである。

そう思うと、あのとき無意識に選択した、臨床心理の専門家的視点を「いったん括弧に入れる」という選択は、精神障害者の「いかにしてあるのか」を少しでも自身の実感として掴むためには、その当時の僕にとっては必要な手段だったのだろう。もちろん、これからそれを言語化していくためには、括弧に入れていた専門用語も用いないと、多くの人に伝わらない。だが、その際大切なのは、「ミイラ取りがミイラになる」ことへの戒めである。精神障害を持つ人は、長い間、自分が言うことは全て「オカシイ」と専門家や一般の市民に決めつけられ、自分の話をなかなか真剣に聞いて貰えなかった、という。そういうリアリティを描き出し、その背景要因も含めて「いかにしてあるのか」として提示するためには、僕自身が精神障害を持つ彼や彼女の話を「病理」として聞いていては、全く意味をなさない。その人と、その人の語りを解釈する「専門家」という閉ざされた1:1の関係に自閉せずに、社会構造の中でその人の「いかにしてあるのか」を浮かび上がらせるためにも、僕自身にこれまでも、これからも求められているのは、第三者として、ご本人にも専門家にも通じうる言葉で、わかりやすく、書いて・語り続けていくことである。

そう、自分の前の大海原が何物なのか、どこに向かっているのか、がようやくなんとなく、おぼろげながらもわかりかけてきた、ような気がする。

「神話」より大切な「いかにしてあるのか」

 

今、自分の中で、いろいろなものが組み替えられつつある時期のようだ。

いろんな着想を得て、様々な想いが頭の中を去来し、あるものがアイデアとして言語化いたるまでに昇華したり、また他のものは、ひらめき段階で消えていく。そういう「組み替え」の時期にあっては、なかなか一つの論にまとまらず、こうしてブログに書き留める間もなく、様々な思念が通り過ぎていく。すると、どう書いていいのか書きあぐねているうちに、何かを書き付ける間もなく、ブログを更新しない日々が続いてしまう。でも、とりあえずここしばらくの「頭の中での騒動」を収束させるための端緒を、パラパラ読んでいた本で見つけた。

「『いかにあるべきか』の前に、『いかにしてあるのか』を徹底して問う、というのが、社会学という学問のあり方だとするならば、現在の私たちは誰も『いかにあるべきか』を語りうるほどに、現在についての知識を蓄積していると私は考えていない。である以上、もうしばらくは『いかにしてあるのか』について問い続ける必要があるといえよう。社会的危機が様々な方面から指摘され、『べき論』の溢れる現在だからこそ。そうしたモラトリアムこそ必要とされているのではないか。」(鈴木謙介「カーニバル化する社会」講談社現代新書、p168)

「べき論」の前にこそ、「いかにしてあるのか」をもっと徹底的にあぶり出す。鈴木氏の語るこの指摘は、僕の抱える現場でも、すごく大切なのだろう、と思う。特に、福祉という「理念」が「行為」に結びつきやすい分野においては、「理念」と引きはがした「行為」とその結果(=「実態」)の方をあぶり出す、という仕事の重要性は、今だ持って大切だ。例えばこないだ書いたが、精神障害者の「権利剥奪の実態」をあぶり出すことは、精神障害者の「権利擁護のあるべき姿」を浮かび上がらせるためには、まず前もって必要になってくる。だが、こうした実態をあぶり出す、ということは、ともすれば現状告発に終始する可能性もある。実際にこの前の発表もそれで終わってしまった。そうではなくて、実態を整理した上で、それが「いかにしてあるのか」を、一つ審級を上げて論じることが大事なんだな、とようやく腑に落ちてきた。それが、理論とのおつきあいなんだなぁ、と。

鈴木氏を含め、同世代の研究者達のぴりっとした仕事を見ていると、「僕もがんばらな」と心から思う。20代の後半は、現場に通って、話を聞き続け、報告書にまとめることは多くても、理論との往復や論文という形での昇華をさせる機会は正直言って多くなかった。幾つかの理由があるのだが、一つは「いかにあるのか」を実感として把握することに精一杯だったことが大きいだろう。福祉現場、という、ある種世間から隔絶された「当事者と専門家で閉じた世界」を、外部者の僕が「体感」するためには、一定期間以上、ぶらぶら現場に通って文字通り「肌で感じる」期間が必要だった。それがないまま、何か書くことなど出来ない、と思っていた。

また、考察に関しても、今から思うと、「いかにしてあるのか」を「べき論」につなげるための手段としていて、つまりは「べき論」がまず先にあり、それに連結する形での「いかにあるのか」の析出になってはいなかったのか、という反省がある。現場レベルでは「いかにしてあるのか」をじっくりみようとしているのだが、それを文章として書く時、ついつい「べき論」に「先走り」してしまい、そこに都合のいいような形での現状分析になっていた、と思うのだ。特に価値指向性の高い福祉現場の話を書く際に、その現場で重んじられる価値とは異なる価値であっても、とにかく何らかの価値に繋げることを念頭に置いた現状分析をしていると、どうしてもバイアスがかかって、一側面からの分析以上の豊かなものが出てこなくなってしまうのだ。そういう意味での「価値中立」の分析が出来ていない、って、今思い出したのだけれど、数ヶ月間にこのブログ上でこんなふうに書いていたのだっけ。

「自分が属する日本社会が持つ、『入所施設・精神病院必要悪論』、という『神話』。これに対抗する為に議論したいのに、僕は『脱施設・脱精神病院』を『神話』として掲げて、『神話』の置き換えを求めているだけなのだ」

「べき論」は、結論がつかない分、「神話」と一致する可能性が非常に高い。だからこそ、議論の余地のない「神話」を産み出すのではなく、透徹な「いかにしてあるのか」分析が求められているのである。

その上で、書く時の「文体」についても、「べき論」をゴリゴリ振り回すのではなく、「いかにしてあるのか」をさらりと書いていく、軽やかさとわかりやすさが必要なのでは、と思っている。どうも「べき論」で進めると、イデオロギッシュで、かつステレオタイプな、いわば「肩の凝る」文体になってしまう。正直、そういう文体になっているものも、僕の中にもいくつか見られる。でも、本人でさえ書いていて「肩が凝る」のだから、況や読み手をや、である。もう少し、軽やかに、「いかにしてあるのか」を伝えるのに有用な限りに置いて感覚的な表現も含めて、思うことを率直に描写していくやり方に戻ったほうがいいのではないか、そう感じている。力を込めるべきなのは、「べき論」ではなく、現状描写が何を意味しているのか(=いかにしてあるのか)を抽象的に分析する、その時の語り口であった方が、より説得力が高いのだ。

なんだか、今日も言い訳のような文章でしょう? そう、自分の中でのわだかまりが、これでもたんとあるんです。とあるブログが「日記コンプレックス・セラピー」を標榜していたけれど、僕のブログも、ある種のセラピー的なものかもしれない。今日も他人のセラピーにおつきあいくださった読者の皆様、ありがとうございました。セラピーの成果あってか、もうちょっと肩肘張らない「いかにしてあるのか」論を、近い将来お届けできる、はず、です。気長にお待ちくださいませ。

 

刺激を受けた週末

 

1週間も御無沙汰でした。すんません。

火曜日以後、出張2回、飲み会1回、お客様のおもてなしが2回に原稿の手直しと雑用たんまり、の地獄絵図をこなしているうちに、あっという間に過ぎ去った日々だった。日曜日は完全休業だったのだが、もうパソコンを見る気力さえなく、その日は一日うとうとの日。起きている間は、無性に読み返したくなった村上春樹の初期作品(「風の歌・・・」「・・・ピンボール」)を一気に読む。昔一度、「もう村上春樹は卒業した」と古本屋に売り払った数年後、無性に読み返したくなって、古本屋で全巻買い直した記憶もある。なんだか、自分がモヤモヤしたり、ギアチェンジの時期に、心を鎮めるために読みたくなるのだ。今回も少し色々さざめいてるようだ。ブログを書き終わったら、続けてエッセイ(「やがて哀しき・・・」)をルンルンと読み進めるつもり。このままでは、また全巻制覇、と行きそうだ。

さて、週末のシンポジウムの時くらいから、何となく悩んでいるのか、気づき始めたのか、その中間のことがある。それは、自身の研究の方向性についてだ。毎度毎度同じ事で悩んでいていてすんません。でも、悩んでいるんだから、しゃあないのです。

土曜のシンポは「アミューズメント」がお題の会だった。そんな会に、僕は「アミューズメント以前の問題」として「精神病院での権利剥奪の現状」というタイトルでしゃべりまくった。そういう会でしゃべっていて、何だか他のシンポジストや、他の参加者との距離感、というか、浮いた感じを持っていたのだ。浮けば浮くほど饒舌に語り、その落差をひしひし感じていたのだが・・・。まあ、そういう会でおくびもなくそういう話にこだわる僕が悪いと言えばそれまでだが、他の皆さんとの接点を持ちきれない具体的事象に終始して理論化や抽象化が足りなかったのだろうか、とも考えている。

だが一方で、理論化や抽象化の際、大切な現場の当事者のリアリティがそぎ落とされるくらいなら、それは自分の研究にとって本当に大切なことなのだろうか?という疑問もある。個別具体例から抽出された普遍的なものが理論であったり、そのプロセスを抽象と呼ぶのだろうが、他方で、切り落とされたものの中にあるリアリティをどうするんだい、というのがいつも頭の中によぎっている。特に、福祉のように、制度政策論やシステム論と1:1のケア論・支援論が極端に断絶している分野にあっては、どっちかに傾くと、どっちかを切り捨てる、という歯がゆさを、いつも感じている。出来ればその両者の接点である「中範囲」を射程にした理論化や抽象化、つまり現場の当事者のリアリティに基づくシステム論をしたいのだが、まだ僕の現状は「中範囲」ならぬ「中途半端」。結局真ん中をきちんと書ききる為には、システム論とケア・支援論の両方を自分の中で成熟させる必要がある。しんどい課題だ。でも、僕自身の論文は、最初ケア・支援論で、今はシステム論、と右に行ったり左に行ったりしているので、ボチボチそれを統合させる方向に持って行かねば、というのが目下の課題だったりする。

あと、土曜日にはすてきな出会いが二つもあった。

一つは阪大人科の後輩のIさん。分科会は違ったが、同じシンポの会場でお会いできたのだ。声をかけられて、初めて気づいた。「そういえば、お顔をどこかでお見かけしたことがありますね」。狭い世界だ。彼は、今は研究者と実践家の二足のわらじを見事にこなしておられる。しかも、今日、彼の書いたある本の一節を読んでみて、大変刺激的な論考で、人類学の視点から、障害者福祉の問題点に切り込んでいく、力作だった。いやはや、すごい人物がどんどん出てきている。彼の論考を読みながら、ふと自分を振り返って、彼の書いているような、他の分野の人が見ても面白い(=一定の普遍性のある)、でも現場のリアリティに基づいた、そんな論考を書けていないことを、心から恥じた。そして、僕もそんな論考が書きたい、そう思った。そう、次なる論文への意欲に火をつけてもらった週末にもなった。もう一つの刺激的な出会いは・・・。それは、また次回にでも書いてみよう。

花も団子も

 

花香る五月、である。

ハナミズキの散る甲府。大学では今、藤の花が満開である。構内を歩いていると、赤と白のツツジの花が、その甘い香りをあちこちにまき散らしている。昨日は諏訪で、300円のバラの花束を買った。愛宕トンネルを抜けた山の手通り沿いでは、今年も色とりどりのバラが咲き始めている。まさに、花盛りの初夏の日より、である。

昨日までの3日間、調査に出かけていた。このGWは、前半2日は出歩いて、中日2日は研究室でお仕事、その後2日はゆっくりやすんで、最後3日は調査、という日々だった。感触的には、遊び半分、仕事半分、って感じである。まあ、仕事ははかどったので、よしとしたいGWだった。今日は研究室の窓も扉も開けっ放しにしておいても、Tシャツで十分な暑さである。我が家にはまだ灯油が残っていて、石油ファンヒーターも鎮座ましましているのだが、気づけば甲府は春から夏に一直線に進みつつある。

夏、といえば、二年前からファンになっている小豆島手延素麺協同組合から、DMが今日、届いていた。香川出身の知り合いが、スウェーデン在住時に持って来てくださった「島の光」。めちゃくちゃうまくて、日本に帰って取り寄せてみたら、これがおいしいこと、おいしいこと。素麺なんてどこも同じだ、と思っていたが、100円ショップで買う素麺とも、「○○の糸」とも違い、しっかりしたコシと、のど越しのよさ。思わずうなってしまう味だ。3kgで2600円なので、早速注文する。去年はこの箱を二つ買った。今年もたぶん一箱では足りないだろう。でも、新鮮さを保持するためにも、とりあえず3kgを購入しよう。ネットで購入できるので、興味のある方は、是非どうぞ。

食、と言えば、調査の間もおいしい食材にありつけた。伊那谷でおいしいイタリアンにありつけたその夜、亀の夢を見る。なんだか亀は、夢判断系のHPによれば、幸運(特に金銭運)の象徴だそうな。なんとも、あやかりたい、あやかりたい。そして、その翌日、調査現場に出かけたら、その横にあったのが、「亀饅頭」。なんというシンクロニシティ。さっそくお店に入り、試食すると、これがまた、塩味がほどよく、おいしいことったら。なので、亀饅頭を15個、衝動買いしてしまう。まあ、今日すでに3つなくなったので、これはゼミの日まで残っているかどうか、アヤシイのだが・・・。

旬のもの、といえば、昨日は諏訪で、うまい魚をゲット。いぜんご紹介した角上の諏訪店で、おいしいイカの刺身に、カツオ、甘エビもゲットする。どれも、めちゃんこうまい。残ったら漬けにでもしよう、と思っていたのだが、さにあらず。昨晩中に、近所の酒屋で買った諏訪の地酒と共に、ぺろりと完食してしまった。いやはや、これだから初夏はすばらしい。花も、団子も、そして魚も、最高においしい日々だ。今日はジムに出かけたが、そんな微妙な運動では無理なほど、しっかり連休は食べまくった。今日は連休明けで事務仕事満載だったが、花も団子も堪能した翌日は、快調にこなせる。やはり、連休はバランスを保つためにも、大切なんだな、と職場復帰して、しみじみ感じた連休明けの月曜日だった。

風穴を開けるためには

 

私たちが、ある本なり考えなりを知った時、琴線に触れる、あるいは腑に落ちる時って、どんなときだろう。

それは本の一節なりある理論なりが、自分を「呼んでいる」と感じる時である。「そうそう、そやねんなぁ」とか、「思っても見なかったけど、まさにその通り!」とか。出会う以前は知らなかったが、出会ってみると、その出会いの正当性をあたかも出会う前から予期していたような、「ようやく出会えたよ!」というか、そんな「うなずき」の瞬間。僕が本を読み続ける理由も、そういう「うなずき」を求めて、という部分が少なくないような気がする。

一方、論文なり、ブログなり、こうして第三者の目に触れる文章をつらつら書いていて、じゃあこのタケバタから出てくる文章のどこかに「うなずき」を提供できる何かがあるのだろうか、とたまに考え込むことがある。書いている事に意味がないんじゃないか、とか。そして、リアクションが全くない文章だと何だかすこしガックリきている自分を考えると、やはりどこかで「他人のうなずき」を欲望している自分がいるのかもしれない、と感じることもある。

例えば、「アメリカ・カリフォルニア州の精神病院に関する情報公開に関する法改正について」という内容の文章を書いていたとする(いや、実際ある雑誌で近々載せてもらうんですけど・・・)。これって、「ボリビアの○○遺跡における共同溝の設計様式に関する一考察」(という論文があるかどうか知らないけど)と同じくらい、普通の読者にとって「遠い」文章だろう。少なくとも、業界とは関係ない一読者として読んでいたら、一見そう見える。でも、書き手としてのタケバタにとってみると、すっごく大切に感じるから、わざわざ慣れない英語と格闘して、こういう文章を書くのである。でも、往々にして書き手としては、その対象を「書ききった」ことに自己満足してしまい、その対象の概要は触れても、何がどうあなたにとって大切なのか、という部分に触れずじまいになってしまう。まあ、学術性の高い文章では、科学性や客観性という「しきたり」を求められるので、それはそれで仕方ないかもしれないが、それでもなお、一読者の視点に戻ると、So what?(だから何なのよ!)、と言ってみたくなる。だから○○なんだよ、と付け加えるだけで、思いの外「うなずける」内容かもしれないのに・・・。

例えば、前回と今回、福祉労働という雑誌に載せてもらう、「アメリカ・カリフォルニア州の・・・」って奴も、実は日本のことを考える上で、結構大切なものになるのではないか、と個人的には思っている。日本のように、精神病院という密室での権利が剥奪されがちな現状をどう改善していくか、それに情報公開がどう役立つか、そしてそういう法改正に権利擁護団体がどう携われたか、というのは、日本での実践を変えて行く上で、大きく参考になる、と思っている。もっと言えば、これは日本の障害者分野の制度設計を、障害者やその支援者の側から「対案」として提起していく上での、いい見本の一つ、とも言えるかもしれない。つまり、大変局所的でピンポイントについて調べているのだけれど、実は穴を開けきれば、大海原に通じているかもしれない、という内容なのだ(もちろん、まだ僕は穴を開けきっているわけではないが・・・)。

ここで大切なのは、その際「穴を開けられるか否か」だと思う。どういう対象であってもいい。それを右から左に翻訳するのは、昔否定された「横文字理論学者」様のすることだ。そうではなくて、その調べたある事実が、日本の現実とどう対応しているのか、そこから何が導き出されるのか、を局所的なある一点を元にして、社会システムの問題にまで俯瞰して考えることが出来るか? これが、穴を開けられるか否か、の最大のポイントだと思う。つまり、文章を書く時はある一点に集中しているけれど、その点には「風穴が空いているか」「どこかに通じているか?」を問いかけながら、書く必要があるのではないか、と思う。それが大切な内容だ、と直感すればするほど、常に「風穴」を気にしなければならない、と思うのだ。

正直言うと、10年前のタケバタは、10年後に「アメリカ・カリフォルニア州の精神病院に関する情報公開に関する法改正について」などという主題で文章を書くとは思っていなかった。だが、10年前から、どんな文章を書くにせよ、それが「わかりやすい」必要がある、とは思っていた。その当時、わかりやすさ、とは文字通り、読みやすく、すっと頭に内容が入ってくるものである、と思っていた。でも、今は、わかやすさは、それ以外にもある、と思っている。それは、先述の「風穴が空いているか否か」だ。普通の人が読み慣れない、聞き慣れない論点、あるいは一見自分とは関係ないと思える論点であっても、読み進めていくうちに、これって「○○」と関係あるかも、と思ってもらえる・・・。そんな「わかりやすさ」だ。それは、書き手が感じた、「これってすごく大切」「他人に伝えたい」という想いを、ある主題を通じて伝える、という作業を通じて浮かび上がってくる「わかりやすさ」だと思う。

ただ勿論、先述の「○○」は自分が思っていた以外のものが入るかもしれない。自分としてはそこに「日本の精神病院を変えること」というものを入れたいと思っていても、読み手によっては、「社会システムの変容のあり方」と入れてくれるかもしれない。まあ、今回の僕の文章はそこまで深くはないけれど、欲を言えば、そういう風に読み手によって様々に解釈可能な、解釈の多義性を備えたテキストこそ素晴らしい、なんてその昔大学時代に習ったような気もする。書き手として、この多義性をあるコンテキストに内包することはめっちゃ難しい、と今になってようやく気づくのだけれど、この「多義性」(=つまりどれほど開かれているか)って、今まで使ってきた言葉に直すと、どれほど風穴が空いているか、といういことだと思う。

昨今医療や福祉の世界で、闘病記や克服記、大変さを綴ったエッセーがたくさん出ている。中には心打たれるものや、思わず感動したり、勉強になったり、大切な様々なことを教えてくれるものもある。そういう本は「風穴」が空いていると思う。一方で、どれだけ激しい体験であっても、それほどドギツイ内容であっても、「風穴」の空いていない体験談は、読んでいて「息苦しい」。僕の文章も、それに似た「酸欠状態」を読む方にもたらしていないだろうか? そんなことを考えてしまう。どこにも連れて行ってくれない、どこにも抜け出せない文章ほど、読んでいてしんどいものはない。「うなずく」瞬間とは、ある主題からノックされ、自分の中にスーッと風が入り込んでくる瞬間だと思う。これは、読む方ではなく、書く方が穴を開けておかないと、流れてこない「風」だ。

読み手に「風」を届ける努力を、微力ながらも僕もしていきたい、そんな風に僕は今、感じている。

あ、それならあの原稿も書き直さないと・・・

充電の会話

 

GW期間中で臨時休校の大学に来て、のんびり仕事をしている。

この1週間、ブログを更新する間もなく、ドタバタしていた。昨日は高校時代の仲間4人が山梨まで遊びに来てくれたので、山梨市駅でお出迎えほったらかし温泉トマト農家でお買い物奥籐でお蕎麦と鶏モツ煮フジッコワイナリーで試飲とお買い物研究室でご接待甲府駅前で夕食兼ご歓談、とコーディネートをしていた。その前の土曜の晩は、東京で大学時代の友人とプチ同窓会的集まり、巻き戻すこと土曜のお昼は京都で友人とランチ、金曜が大阪で打ち合わせ2件と飲み会1件、とハードにこなす。そういえば、木曜の晩は甲府でも飲んでいたから、まあ先週末は飲んだり食べたり、人と交遊することが多かった。

研究室に閉じこもっていると、どうしても視野も世界も狭くなってしまうので、出張ついでに色んな人に出会うことは良いリフレッシュになる。特に一昨日から昨日にかけて、「ごぶさた」の友人達とたくさん歓談できた。特に高校から大学にかけて、自分の方向性を定めるためにウダウダしていた日々。お金はないけれど、部室や学食、教室や学生控え室などで、とにかくよく喋っていた仲間達だ。その時にしゃべっていな内容なんてすっかり忘れてしまったが、しょちゅう会っては膝と膝をつき合わせて語り合っていた。まだ携帯電話が高嶺の花で、大学生の終わり頃に急速に普及した。パソコンやE-mailだって、大学生の後半くらいからようやく普及した。だから、基本的には携帯やメールより、普通の電話か、それとも会ってしゃべる、という方が優先された最後の時代だったんじゃないかと思う。

メールや携帯電話という、ダイレクトに相手につながるツールが普及した今でも、いやそういう今だからこそ、久しぶりの仲間と直に会ってワイワイ言いながら語る、ということはすごく貴重な時間だ。別に、過去の古傷をなめ合ったりするために会う、という訳ではない。あんまりあれこれ説明せずとも、あうんの呼吸が出来る仲間達と、近況報告のウォームアップを終えた後、仲間モードでの会話を「再開」する。あのときは良かった、といった回顧録的お話ではなく、あくまでも今のトピックについて、昔のモードをそのままに話が続いていくのだ。そういう「続き」が出来る仲間は大変貴重である。だって前提条件や自身の履歴などについて触れることなく、また警戒感やら様子見をすることもなく、最初から安心して話せるのだから。また気心知れた相手とのお顔を見ながらのダイアローグという「あいだ」から、思いもよらぬことが立ち上がってくるのも、メールや携帯では得難い経験だ。こういう「あいだ」からは、もちろん新しいアイデアも立ち上がるが、旧友との歓談では、それよりも安心感や落ち着き、自分らしさ、といったアイデンティティのコアの部分がなんとなくホッコリするような気がする。こういう得も言われぬ「充足」感を、「心の充電」と命名するなら、まさに昨日一昨日と「フル充電」出来たのではないか。

そうやって充電を終え、今日は午前中ゆっくり休んだ後、研究室で仕事をしている。すると書きあぐねていた〆切原稿もポツポツと切り出し始めることが出来、また思わぬ方から大役のお仕事の依頼も舞い込む。うむ、悪くない一日。明日も一日研究室でお仕事をすることにして、さて、奥様を迎えにいくとするか。

託された「宿題」

 

ベンクト・ニイリエ氏の訃報に接した。
ノーマライゼーションの「育ての父」と呼ばれたスウェーデン人だ。3年前のスウェーデン在住時、ウプサラまでお会いしに出かけたことをしみじみ思い出していた。

彼はイェール大学やソルボンヌ大学で哲学や文化人類学を学び、文化相対論の視点を持っていた。第二次世界大戦後、難民キャンプや障害者支援の現場で事務方として働き、そこでの大規模集団一括処遇の「文化」が、人間の価値や尊厳を踏みにじるものである、ということに気づいてた。そして、オンブズマンとして知的障害児の入所施設を訪れた際、障害児の親(=や社会の一般人)の「普通の一日」と比べて、いかに入所者の一日が違うか、を知る中で、普通の人の一日、一週間、一年・・・がどう構成されているか、を文化的パターンの視点で捉え直したという。その視点から、またノーマライゼーションの「産みの親」といわれるデンマーク社会省の官僚、ニルス・エリック・バンクミケルセンとの議論の中から、有名な「ノーマライゼーションの8つの原理」を産み出した。

1.一日のノーマルなリズム
2.
一週間のノーマルなリズム
3.
一年間のノーマルなリズム
4.
ライフサイクルにおけるノーマルな発達的経験
5.
ノーマルな個人の尊厳と自己決定権
6.
その文化におけるノーマルな性的関係
7.
その社会におけるノーマルな経済水準とそれを得る権利
8.
その地域におけるノーマルな環境形態と水準
(ベンクト・ニイリエ著「ノーマライゼーションの原理」現代書館より)

この際、「ノーマル」という言葉は、大変誤解を招きやすい表現で、実際、多くの障害関係者でもこのノーマライゼーションの考え方を誤解して理解し、否定する向きもある。だが、ベンクト・ニイリエ氏自体の認識は、すごくシンプルで分かりやすい。この点は是非とも知っておいて頂きたいので、1960年代に入所施設を調査した後に彼が気づいたことを僕のインタビューでお話くださった、その発言の一部をご紹介しておきたい。

「(調査した当時)入所施設が全くダメだ、役に立たない、全然ダメだ、という事に気づきました。なぜかというと、入所施設はお金がかかるだけで、何も役に立たない。入所施設の中では何も成長できない。入所施設で出来るのは、そこにいる知的障害者を、そこの規則に合わせることだけで、これは当人の成長に何も役立ちません。また職員は、施設の入所者、と見なしてしまって、一人一人の個人としての個性、を全然学びませんでした。しかも、施設の中にいると、みんなグループで接しています。すると、この支援者がある人から学んだことがどういういい結果をもたらすか、ということを、他の支援者が学ぶ機会がありませんでした。」

ここで大切なのは、ニイリエ氏は障害者をノーマルにしよう、とは考えていなかった、ということだ。むしろ非人間的処遇というアブノーマルな「環境」をノーマルにしよう、と考えていた。また、個人が規則に合わせられる、という現実がオカシイ、と感じていた。

実はこの点は、あまり日本では知られていない。というか不幸なことに、このニイリエ氏の視点とは逆の観点でのノーマライゼーション理解がその後進んでいく。それというのも、ニイリエ氏の考え方を「アメリカの文化に適合的な形」で移植したヴォルフェンスベルガーは、移植の際、障害者の逸脱した外見こそをノーマルにしよう、という「同化的戦略」を取った。しかもこの逸脱論に基づく「障害者の外見をノーマルにする」という発想こそ、我が国はじめ多くの国で広まったのだ。それ故に、この戦略は80年代以後、地域でのノーマルな生活を求める自立生活運動をしていた障害者の激しい反発を喰らうこととなり、障害者側から葬り去られていく、という悲しい歴史を辿っていく。(そのあたりは以前ブログに少し書いた)

だが、改めて強調しておきたいのは、ベンクト・ニイリエ氏自体は、障害者のアブノーマルな「環境」こそオカシイ、という視点で、このノーマライゼーションの考え方を展開させたのだ。また、ノーマルという言葉の語源が「ノーム(規範)」にある、ということから、障害者の規範化、と誤解する向きもあるが、彼の先の発言を読めば明らかなように、障害者が規則に合わされていた実情に、彼は怒りを覚えていたのだ。この点が、現代の日本でも未だに誤解されていることが、僕は個人的にすごく悲しかったりする。

そんなパッションの人であるニイリエ氏と、3年前に逢った際、日本にも何度も講演に来て、日本の脱施設・脱精神病院が阻害されている現状もよくご存じの彼に、僕は次のような質問をした。「どうすれば、日本で今後、本当にノーマライゼーションが広まるのでしょうか?」 彼が答えた次の発言は、以来僕の心の奥底に突き刺さっている。

「なかなかみんなが団結しにくいならば、例えば東京や横浜は大きすぎるから、どこか一つの地域をやりなさい。どこでもいい。島でもいい。ここ、というところをすごく変えると、『あそこは大きく変わっている」とみんなから注目されるようになります。」

あれから3年、ご縁あって人口89万の山梨に赴任した。その地で、このニイリエ氏の言葉を胸に秘め、僕もささやかながら、地域での障害当事者の連携の動きのお手伝いをさせてもらっている。今日は、聴覚障害者と車いす利用者がパネラーのシンポジウムのコーディネートをさせてもらった。同じ障害者どうしでも、これまでは各障害の垣根を越えた協働や連携、があまりなかったのだが、自立支援法を契機に、バラバラだった障害者団体の足並みが、少しずつ同じ方向に向かって揃いつつある。そんな折りに、障害種別を超え、圏域や地域を越えた、県全体のネットワーク作りのお手伝いをさせて頂いているのだ。

これも、些細なことかもしれないが、ニイリエ氏に教えてもらった、「どこか一つの地域をやりなさい」という助言に、自分なりに実践で応えようとしているが故、と思っている。

修論でノーマライゼーションの考え方を知って以来、この思想に虜となり、またニイリエ氏本人にもお会いして、すっかりその人間的魅力に感化された僕にとって、ニイリエ氏の訃報は、すごく悲しい。でも、こうして大切な「バトン」を実際にお会いして託された、と感じている。託されたバトンを、どう山梨で、日本で実現させていくか? 片思い的に勝手に名乗っている不肖の弟子として、ニイリエ氏から託された「大きな宿題」を前に、心新たにしている。

変容過程の支援とは?(増補版)

 

(*さっき研究室を掃除していたら、足したい資料が出てきた。どうも酔った頭で書いた文章は明らかに舌っ足らずなので、いっそのことゴソッと書き足し直し、タイトルまで変えてしまいました。 4月20日午後7時)

今年も1年生の授業を担当している。

大学1年生、というと、フレッシュマン、というイメージだが、一方で彼ら彼女らはほんの少し前まで「高校生」。なかには「高校4年生」的意識をお持ちの方もいらっしゃる。だが現実はというと、大学という機関に関わりを持たれた方ならおわかりのように、大学と高校の落差、は、中学と高校の落差、とは大きく違う。職員室がない、先生からの学生へのコミットが極端に少ない(放ったらかしに近い)、授業は学生が選べる、45分単位から90分単位、受験勉強からそれ以外の教養や専門授業に・・・などなど。この落差を、自由の謳歌、と喜ぶ人もいるけど(僕もその一人だった)、自由であるが故の「不安」を感じる学生も少なくない。(この辺のことは、数回前に紹介した数土さんの光文社新書「自由という服従」がうまく伝えてくれている)

確かにこういう「不安」は僕も大学1年生の時に感じていた。切り離されたような、所属感のない、寂しい雰囲気・・・。だが、それから12年、教員サイドで眺めてみると、何だか今の学生さんの方が、僕らよりかなり「真面目」過ぎて、大きな変容過程の真っ直中への「不安」をかえってより一層感じているような気がする。ま、ただ比較している自分の出身学部(人間科学部)のカルチャーが「なんとかなるだろう」という「ええかげんさ」が結構支配的だったからかもしれないが、それと比べると、法学部という学部がなせるわざなのか、わが大学のカラーなのか、多くの学生が熱心かつ真面目に大学の授業に取り組もうとされている。それは大変良いことなのだが、その際、あまりにも高校までのカルチャーと大学のカルチャーが違っていて、その文化変容に関する不安が増大し、ゆえにギアチェンジ期の「危機」に直面しておられる、そんな風に見受けられるのだ。

そんな1年生の皆さんに、教員としてどんな変容過程の支援していけばいいのか、が目下の課題である。

いろんなやり方の可能性があるだろう。例えば、授業の進路やレベルを高校と同じ水準に合わせる、というのも、アクセシビリティを保障する一つの案だ。ただ、この案を実際に授業に導入され、学生からもわかりやすいと定評のある先生にお聞きしたところ、高校と同水準であれば、教員側として伝えたいことの半分から3分の1以下しか伝えられず、結果として大学の講義として提供する水準としては低くなる、というジレンマを抱えておられた。一方、昨年の1年生アンケートデータを見ていると、伝えたい何かを教員が満足できるだけ伝えることを重視しすぎて、つまり高校を出たての学生の「取っつきやすさ」や「わかりやすさ」を結果的に無視するような授業形態では、「わかんない」「ついていけない」「絶望的だ」といった感想がもたらされる。つまり、わかりやすすぎても、内容伝達を重視しすぎても、どちらかに偏ることが、結果的に学生にとって「不十分」という結論をもたらすのだ。

じゃあ、どうすりゃいいねん?という疑問につながる。この問題に対する、現時点での僕の見解は次の通り。

前々回のコラムで述べた「変容型様式」(=課題提起型教育)に従って、まずは学生の興味関心に火をつけることが一番大切。そして、ともした火と、自分のこれまでの経験や考えとの間で対比が出来るチャンスを与え、そこから「自発的な学び」へと繋がるようなアシストが教員側に必要。でも、これはそんなに大変ではない。というか、あんまりアシストが過剰すぎてもいけない。いったん学生自身が、他者の押しつけでなく「自分事」となるような課題を発見できれば、自ずとその課題を解決したい、そのためにはどうすればいいんだ、という「自発的学習」へとつながっていくのではないか、そう感じているのだ。はじめの一歩、の支援さえ出来れば、あとはスッと船出が出来るはずである。この「船出」の「変容過程」について、さっき研究室を掃除していたら、次の記事をめっけた。

「15~25歳くらいにかけて、人は誰でも貪るように、本物に触れたい、魂を揺さぶられたい、巨大なものを求めたい、という思いを持つ。つまり、感動を渇望するのです。その時期に本質的なものに触れて心を揺り動かされた経験ができるか否かで、本質を求めようとする好奇心や探求心がつくられるかどうかが決まります」(丹羽健夫「心に火がつけば走り始める」WEDGE 2005 5月号)

昨年の連休中、静岡からの新幹線が満席で、泣く泣く自腹で乗ったグリーン車の車内誌で出会った「めっけもん」の記事。1年ぶりに丹羽さんの考えを読み直して、「そうそう」と思っていたのだ。

例えば昨年の2年生のゼミでは、甲府のバリアフリーというトピックに焦点化し、自分たちで調べ、まとめ、それを中高生に伝え、全てを冊子にまとめる、という課題に取り組んでもらった。課題を設定する前の授業では、この丹羽さんの記事を含めて授業中色んな意見を配ってディスカッションをしてみたが、どうもいまいち「机上の空論」で盛り上がらなかった。でも、テーマを定め、自分たちで調べ、まとめる中で、ゼミ生ひとりひとりが何かに触れ、揺さぶられはじめたのだ。そして、いったん火がつけば、柔軟性の高いこの年代の若者達は、どんどん加速度的に自分たちで炎の勢いを高め合い、友人同士で学び合いながら、どんどん気づき始めた何かを深め、エッジを効かせていく。その変容過程に立ち会い、ゼミ生達がまさに「心に火がつ」き「走り始め」た瞬間に立ち会えた喜びを、僕自身は感じていたのだ。

つまり、大学という場で何かをパスするなら、それもゼミという少人数の場なら、今の僕なら、一方的な教師生徒の大量情報伝達、という形式を取らない。そうではなくて、一人一人の学生さんが20年近くかけて培ってきた経験や個性の固有性に着目し、どうしたらその部分が「揺り動かされ」るか、に着目する。そして、彼ら彼女らの「感動を渇望する」魂に直接届くような内容・表現形式の「課題提起」を行ってみるだろう。そうすれば、揺り動かされ、刺激をうけた個々人の中で、新たな学びへとつながる知の変容、あるいは学生の「知りたい」という欲望へ火が灯り、その火が個々人の「固有性」と化学反応を起こして、その人なりの「探求」へと繋がっていくのではないか・・・。

新米教師のタケバタとしては、昨年1年のもがきのなかで、こんなことを実感し、今年のゼミの仕掛けへとつなげようとしている。

詰め込み型でも、学生主体でも、教え方がどうであれ、つまるところこちらが伝えようとする「知識」や「智恵」を活かすも殺すも学生次第。ならば、彼ら彼女らが大学の学びを血肉化するため、つまり彼女ら彼らが「本質を求めようとする好奇心や探求心」を活性化させるために、大学教員の私たちが携わり、尽力できる「変容過程の支援」って結構たくさんあるんじゃないか。そんなことを感じている。

雑学王からの脱却!?

 

目覚めたらまだ朝5時だった。しかし、外を見るとすっかり明るい。季節は確実に、春を通り過ぎようとしている。

そういえば、近所のクリーニング屋の春物割引セールは今日で終了する。昨日朝、出しに行ってそれを知って、昨日は時間的に余裕があったので、再び家に冬物をごっそり取りに戻った。思えばこの冬も、たくさんの防寒着にお世話になったものである。感謝しながら、来年もまたよろしく、とクリーニング屋に託した。愛宕山を染めていたピンク色の桜模様も、今見たら若葉色に変化しつつある。温度も急激に上昇している。季節の変わり目だ。

昨日はそれだけでなく、オイル交換をしたり、洗車をしたり、大学ではなかなかその気にならなかった報告書作成に向けて文献を読み始めたり、切り替えの時期だった。こういう切り替えの時期って、どうしても朝早く目覚めることもあるが、逆に言えばこれを良いチャンスと思って、パソコンの前に座って、ぼちぼちこのブログも書いてみたり。なんせ、寝ているときも仕事していたようで!?、昨日何気なくネットで捜し物していたことと、今取り組んでいる課題の整合性について考えていたのが、起きる直前の夢というか、考えていた内容だった。まあ、ヘンテコな夢で苦しむよりは遙かにましなのだが・・・。

で、せっかく起きたのだから、昨日大学で探していて見つからなかった、ある大切なデータを自宅のパソコンの中を検索して探しているのだが、見つからない。あれぇ・・・確か以前はあったはずなのだが。もう5年前に作ったデータで、プリントアウトしたものは昨日発見したのだが、肝心の打ち込んだデータがないのだ。そして、5年も経って、このデータが結構大切な価値を持っている(かもしれない)、ということが分かってきて、今あわてている。まあ、A4で5枚ほどなので、最悪の場合、もう一度打ち直せば良いのだが。

でも捜し物をしている時の効用の常で、探しているもの以外の「めっけもの」を発見。そうか、5年前にはこんなことも考えていたり、やっていたりしたのね、と。結構今、使えるものがある。常に近視眼的に「目の前の新しい何か」を追いかけていると、これまでの積み重ねを忘れてセカセカする羽目にどうしてもなりがちだ。でも、ここ何年かで積み上げて来たものを振り返ってみると、存外この「積み重ね」を活用せぬままの自分がいたりする。ちゃんと調べたものを「形にする」まで固執せずに、次の課題、次の課題とスルーしてしまっていたりするのだ。これは大変ソンなことであるばかりでなく、これだから「雑学王」の地位から抜け出せない。

この「雑学王」なる名称は、昨年ある先生としゃべっていた時に、「雑学王からどう抜け出すのか、がタケバタさんの課題だね」と言われた時、あまりにドンピシャだったので、頭にインプリンティングされた言葉だ。そう、色んなことにコミットして、あれこれ知ってはいるのだけれど、それをアウトプットという形で「まとめ」ないままなので、どんどん「雑学王」化しているのだ。研究者は、それを論文なり報告なりに「書いて」、ある種その「雑学」の種から一定のまとまりとして「切り離す」から、次の課題へと進んでいける。僕は、何だか「まとめる=切り離す」作業をしないまま、興味本位でズンズン進んでいるから、どうもまとまりのない、ダラダラした中途半端な興味本位の知識で終わってしまうのだ。そういう意味で、ここしばらくの目標の一つに「雑学王からの脱却」を掲げておこう。さしあたり、4月末にある原稿を書けるか、が一つの勝負。は、はやい〆切だぁ・・・。