一呼吸を置いて、まずは聴く

このタイトルは、僕が今、一番変えねばならないポイント。先日、妻に指摘された。

「あのさ、相手の話を聴いた時、『へぇ、そうなん!』で良いところを、どうして『それについて僕はね・・・』なんて言い出すの? コメントを求められているのではなく、共感や理解を求められる時にまで、どうして自分の意見が言いたくなるの?」

いてて!そこ、自分でも一番の弱点と思っている部分です・・・。

実はこないだのAD集中研修中でも、飲み会の席で、気づけば心理療法家であるSさんに、「僕は『なんで?』を多用するんです」とこぼしたら、飲みながら「なんで返し」で突っ込まれていた。

「実は僕、だまって聴くだけ、が苦手なんです」
「なんで?」
「間が怖いというか、相手の話に何か付けて返さなければならない、という強迫観念のようなものがあるんです」
「なんでそんな強迫観念をもっているの?」
「えーっ・・・、なんでやろう・・・。なんか沈黙があると、ついついしゃべりだして場をもたせようとする自分がいます」
「なんであなたが場をもたせる必要があるの?」
「うぇーっ!!! 確かにその通りや。でも、ゼミ生との飲み会でも、ついつい場を盛り上げようと必死にしゃべって疲れ果てる僕がいて・・・」
「なんでそんなに頑張るの?」
「ひゃぁーーー。助けて! でも、なんでなんやろう。そうやって合いの手を入れて必死になると、疲れ果てるんです。でも間が怖いような気もします。それはなんで???」

なるほど、この「なんで?」攻撃はかなりえげつないことがその時よく分かりました(笑)

閑話休題。

こんなエピソードの後だったので、妻の指摘を受けた直後の妻との会話は、「相手の話の確認モード」に徹してみた。

「そんな余計な事を言わんと、共感の言葉を出すだけで充分なんじゃない?」
「そうか、余計な事を無理に言わなくてもよいんだね」
「そうそう、たいていの場合、相手はそこで議論をしたくないんだから。ただ、共感してほしいだけだから」
「なるほど、共感してほしいだけで、議論したくないなら、余計な合いの手はいらない、と」
「そうよ。それに、余計な一言は、火に油を注ぐ、というか、自分が巻いた種で面倒な事を引き起こして炎上した経験、あるでしょう?」
「確かに、巻いた種で、火に油を注いで、疲れ果てたことは一度や二度では無い」
「だからこそ、相手の発言を聴いた後、『俺の意見を言わねば』なんて頑張らないで、スーッと聴いて受け止め、理解していることを伝えるだけで、充分な場合も多いんじゃない?」
「そうか、聴いているよ、と伝えるには、この前の研修でも習ったけれど、こういう事実確認をするだけで、充分なんだね。頑張らなくてもよい、のかもね」
「そうそう、今日はいつもと違って余計な返しやツッコミが無いから、以前から言いたかったことが、ずいぶんスッキリ言えたわ」
「僕の余計な返しがないと、言いたいこともスッキリ言えるんだね」
「ほんとよ!」

こう書くと、少し技法チックだが、実際僕は随分省エネで話せたし、妻は今までよりも随分「聴かれた」という感覚を持ったそうだ。

大学院生の頃は、何の肩書きも社会的信用もなかったので、自分の意見を聞いてもらうために、必死でアピールしていた。自己顕示欲もあるのかもしれないが、それよりも、「言わないと誰も聴いてくれない」「存在がなかったことにされる」という危機感・切迫感がひどく内面化されているのだと思う。でもその実、対話空間が好きだ、なんて言いながらも、そういうやりとりの後はごっつう疲れ果てている事も、一度や二度ではなかった。つまり、自分では「自然体のつもり」でも、実際はかなり「無理して」「合いの手を入れている」ことが多かったのだ。

だが、こないだのAD研修で学んだのは「話すと聴くを分ける」と「ポリフォニー」。一方、これまでの僕は、相手の話を聴きながらも、自分の話すことを考えたり、その合いの手を入れるタイミングを探っていたのかも、しれない。それは、僕の中で、相手の話を受け止めて、内的対話をする時間や空間を用意せずに、脊髄反射的なコメントをする、ということを意味する。相手にとっては、その発言に関する情動やパッケージの総体が受け止められていない、という感じになるだろう。また、単なる「オウム返し」ではない事実確認の質問は、「こっちはあなたの話を聴いているよ」とキャッチのサインを出した上で、あなたの話をもっと聴きたいな、という素敵な合いの手なのだ。「なんで?」より、随分マイルドで、相手も答えやすい。そして、僕も相手の発言を整理・要約することで、僕自身の中での対話も促進されている。何より、エネルギーの消費量ががくっと下がって、楽な対応なのだ。

こういう「聴く前提」に耳も口もそろっていると、聴いた後の対応も全然違う。相手の意見は相手の意見として尊重して、でも自分の意見はそれと違っても良いのである。その中で、初めて「ポリフォニー」が生まれてくる。

実はAD研修を受けて目から鱗だったもう一つのポイントが、ポリフォニー。これって、意見を一つの方向性にまとめなければならない、というファシリテーター的強迫観念に縛られていた僕には、本当に青天の霹靂。無理してまとめなくても、「話すと聴く、をわける」事が出来ていると、相手の話を聴いて受け止めた上で、でもそれとは違う自分の意見を共存させる、ということが可能になる。更に言えば、そういう異なる意見が、でも相手の話を聴いた上で、共存しているうちに、何となくのハーモニーが生まれてくる。

これは「妥協」とは違う。各人のヴォイスというか、主体性は守られるし、しっかり聴かれる。でも、他の人のヴォイスを聴いて、その主体性を受け止めることで、自分自身が単独で踊っていた時と違い、ある種のダンスの状態に入る、ということでもある。

今回の研修の中で、「関係性の中での心配事(relational worries)」という考えを聞いた。それに関連づけるなら、ポリフォニーとは「関係性のダンス」なのだ。あなたと私は違う主体や意見を持ちながら、ダンスを続ける関係性を維持する。その中で、ダンスのステップが、少しずつ同期してくる。同調ではなく、お互いが気持ちよい感じで同期していくのだ。

そしてこういう気持ちよい、ポリフォニックなダンスを続けるための「初めの一歩」こそ、「一呼吸置いて、まずは聴く」ことにあるのではないか。そういう仮説を抱き始めた。

「未来語りのダイアローグ」という希望

4月の週末は4週間連続で京都に通っていた。『オープンダイアローグ(OD)』(日本評論社)の訳者である高木俊介さんが、ご自身の所属するACT-Kという精神科の訪問支援チームのメンバー向けに開催されたクローズドな研修に参加させて頂いたのである。高木さんは私財をなげうち、ODの執筆者の一人で「未来語りダイアローグ(anticipation dialogue:AD)」を唱えるトム・アーンキルさんと弟のボブさんを日本で招いていた。ちょうど、そのトムさんに1年前、この依頼する場で通訳の真似事をしたことがご縁で、僕もその研修に混ぜて頂いた。

今回、この研修に参加したかったけど出来なかった人が多かったと聞いたので、少しでもOD/ADの理解に役立てば、と一参加者として感じた事・理解した事をまとめておく。なお、ちゃんと理解したい人は、先述の本をしっかりお読みになることをお勧めする。

ADのプロセスとは、おおむね次のようなものである。社会関係がうまくいかず・つまづき、支援者が介入するもうまくいかない「困難事例」に関して、「当事者(家族)の『問題』」に焦点を当てず、「支援者の『心配事』」に焦点を当て、それを解決するために、当事者や家族、支援者などの関係者に集まってもらう。そして、想起(anticipation)すべき未来を当事者と決めた上で、例えば1年後と決めると、次のように聞く。

①「一年がたち、ものごとがすこぶる順調です。あなたにとってそれはどんな様子ですか? 何が嬉しいですか?」②「あなたが何をしたから、その嬉しい事が起こったのでしょうか? 誰があなたを助けてくれましたか? どのようにですか?」
③「一年前、あなたは何を心配していましたか。あなたの心配事を和らげたのは、何ですか?」

この3つの質問について、ご本人だけでなく、ご本人に関わる支援者にも一人ずつ話してもらう中で、みんなの心配事だけでなく、希望する未来に向けての具体的な行動が明らかになり、本人と家族や支援者の関係が大きく変わり始める。

・・・これだけ聞くと、ほんまかいな?と疑いたくなる。僕も半信半疑、というか、「そうなればいいけど、1回のミーティングでそんな変化が生じるだろうか」と半信半疑だった。だが、実際の事例を通じての「ライブダイアローグ」のセッションの場面で、ACT-Kの利用者さんと支援者達が、トム&ボブの二人のファシリテーターに上記の3つの質問をされて話し合う場面を別室からの映像越しに眺める中で、本当に「ほんまかいな」の出来事が「ほんまに」起こっていったのである。これが、最大の驚きだった。先ほど、上述の本の第4章を読み直したが、そこに書かれていた通りのことを、トムやボブは実践し、それで大きく場面が展開していたのである。それは一体どういうことなのだろうか。少しだけ、体験したことの振り返りをしておきたい。

まず、他の多くの参加者が言っていたことだが、「聞くと話すをわける」「安心して話せる空間を確保する」、というのが、この未来語りダイアローグの最大の特徴だろう。ファシリテーターがこのミーティングをハンドリングするのだが、通常のケース会議やサービス担当者会議と違い、「ファシリは事例に関わっていてはいけない」「ケースにではなく、ダイアローグに集中するのがファシリの役割」なのである。これは一体どういうことか?

困難事例、とは、支援者が通常のかかわり方でうまくいかない事例、である。つまり、その困難性は「支援者にとっての困難」でもあるのだ。だからこそ、会議では「支援者の困難を解決する為に本人に協力して頂く」というスタイルをとる。支援者が本人の困難性について論じる、というのは、ご本人にとっては自分が批判や非難の対象である、と感じやすい。だから、本人の困難に焦点をあてるのではなく、支援者が何を心配に感じているのか、を主題化するのだ。ゆえに参加した当事者は、支援者の困難性を解決するのを助ける立ち位置、を取る事が出来る。ここが、通常のケース会議とは全く違うところである。

そして、上記の例でもわかるように、支援者が「困難さ」を感じている事例について「相談」するのだから、その事例に関わる支援者が会議のファシリテーターになってはいけない。あくまでも、一参加者として、当事者とも対等な立ち位置で、その「心配事」について「相談する」のである。だからこそ、外部のファシリテーターが必要であり、今回の京都の集中研修はファシリテーター養成の為の研修であった。

ただ、このADは治療でも心理療法でもない点が特徴である。つまり、一定のトレーニングは必要だが、資格がないと出来ない、ということではないのだ。その代わり、心配事がかなり極度になっている急性期においては、ADではなくケロプダス病院でやっているようなODの手法が必要であり、ADでは対処出来ない。一方で、急性期では無い心配事で、混乱している状況を整理するためなら、精神医療の現場以外でも、例えば組織内・組織間コミュニケーションの不全などの問題でも、このADのファシリテーションは使える、というのが、僕にとって最大の発見であり、魅力だ。

実際に自分も「脱施設化」に向けた「未来語り」のplanning meetingに実際のダイアローグの参加者として立ち会った。その中で、僕自身が「脱施設化について1年後、どんな嬉しい変化がありましたか」「あなたは何をしましたか? 誰としましたか?」「1年前の心配事は何で、何があなたの心配事を減らしましたか?」と聞かれた。「自分はどんな未来を想起して、自分には何が出来るか?」と問われるのは、外から観察していると簡単そうな質問に聞こえるが、答える張本人にとっては、結構グッとくる質問である。しかし、自分自身もこの問題であれこれ書いてきたし、それでも変わらない現実に大きなworryを抱えていたので、気がつけば「ファシリテーターとしての腕を1年後に上げています」という「未来語り」をしながら、そうなるための方法論を具体的に話している自分がいた。

この際、一参加者として実感したのは、ファシリテーターがアドバイスも提案もしない、じっくり聞いてくれる、というのが、これほど嬉しい体験か、ということである。「話すことと聞くことを分ける」ことで、僕もライブの間、ほかの人の発言を真剣に聴きながら、自らの中での内的対話をしているし、僕の発言もしっかり聞かれていて、他の人の内的対話を促している。まさに交響曲(ポリフォニー)のような空間なのだ。

不確実な未来についての何らかの提案や宣言は、勇気が要る。しかも、馬鹿にされたら・非現実的だと言われたらどうしよう・・・という不安や心配事も抱えやすい。でも、トムやボブといったADファシリテーターは、「ケースにではなくダイアローグに集中している」ので、どんな発言でも、批判も非難もされない。具体的に「いつからですか?」「それは一体何ですか?」という事実質問をする。前回のエントリーで「なぜ?」の問題を問うたのは、ここに起因する。語りにくい未来を恐る恐る語った相手に、「なぜ?」と問い詰めたりだめ出しをして気持ちをしぼませずに、具体的な未来像を語ってもらうための、事実質問なのだ。

僕の場合、「ファシリの腕を上げる、ということはどういうことですか?」と聞かれ、こんな風に答えていた。

「この研修で、精神科病院の中で働く方々が、様々な苦悩を抱えているのを知りました。支援者は、自分自身の心配事をそれとして言えない。だからこそ、何かがオカシイと感じても、変わることが出来ない。それが結局「どうせ」「しかたない」という諦めや現状肯定につながってしまう。一方僕はそんな現実を問題視し、多すぎる精神科病院に関して、いつも外から批判をし続けて来ましたが、全然変わらない現実に、半分絶望していました。
しかし、今回の研修で、精神科病院の中の人と外の人が対等な場でダイアローグすることが出来たら、そこから風通しが良くなり、精神科病院の現場での苦悩が表面化することで、解決策に結びつくきっかけがうまれるのだ、と思いました。その中で、ちゃんとダイアローグされている病棟現場なら、声高に『脱施設』と言わなくとも、『重度かつ慢性』の人も含めて、どうしたら退院できるか、を話し合う土壌が生まれると思います。
そういう意味で、僕は精神科病院の中の人と外の人が開かれた場でダイアローグ出来るような1年後になっていてほしいし、そのためにはこの1年間で、そういうダイアローグが出来るためのファシリテーターとしての腕を上げたいです。」

正直、こうしゃべりながら、僕自身が楽になっていた。

それは、自分自身の「心配事」が「解決された未来」から、自分が変わるべき課題や具体的に出来るアクションを口に出来るから、である。正直、上記の内容は、この研修を受ける前に、思いもしなかった。でも、精神科病棟のスタッフで参加している研修仲間達のライブダイアローグを拝見したり、対話を重ねる中で、外から批判するより、中の人の心配事を理解し、それを解決するための「建設的対話」を重ねていくことが、中の人が納得して変わるきっかけになるのではないか、と思うようになった。実際、ファシリテーターが入った、病院内の「心配事」に関するダイアローグの後、その病院の関係性は変わり始めるのではないか、という感触を、見ている僕も抱くことが出来た。

だからこそ、僕自身もこのファシリテーターとして、地域の現場や、あるいは病院の内外でのダイアローグの場に居合わせ、未来語りの瞬間に立ち会い、そのダイアローグの手伝いをしてみたい、と思っている。そうすることで、批判するだけではかえって頑なになり、聞く耳も持たれなかった外部者の「声」が内部に届くのではないか、と思っている。そして、病院の内外の人が対等な立場で、病院の人の「心配事」に向き合う事が出来れば、内外の障壁の高さが下がり、それがひいては病院職員のマインドを変え、結果的に「脱施設とは言わない脱施設化」を進める兆しになるのではないか。そんな「想起(anticipation)」をし始めている。

ちなみに、今回の通訳をされたのは、あの『プシコ・ナウシカ』を書いた松嶋健さんだが、彼と二人で、精神病院の内外でのオープンな対話って、イタリアのアッセンブレアそのものだよね、と話し合っていた。そう、イタリアの脱施設化は、病棟内でのオープンな対話から始まったのだ。それを日本で実現するためにも、この「未来語りダイアローグ」は充分使えるのではないか。そう思うと、希望がわき、ワクワクとした4週間だった。

さて、ファシリテーターとして、どこから何が出来るのか? 僕の具体的なアクションプランが、始まろうとしている。

「なぜ?」から距離を置いてみる

気づけば研修や授業でファシリテーターをする場面が多い。とはいえ、これまでファシリの研修を受けたことなく、参考文献を我流に読み込みながら、現場で鍛えられてきた。

とはいえ、我流には限界がある。そこで今、あるクローズドな研修の場で今、学び直している。その中で、研修の本論とは関係ないが、今の僕にとっての最も大きなハードルにぶち当たっている。それは、「なぜ」を使わない質問、である。僕が参加しているその研修でも、実際に「なぜ」を使わない。それは「なぜ」か?

僕の実像を知っている人にはご案内の通り、僕は「なんで?」の竹端である。インタビューでも、授業でも雑談でも、どんなところでも「なぜ?」の問いを深めていく。それは、価値前提を問い直すために必要不可欠な問いであると思っている。これは、「哲学の巫女」で夭逝した池田晶子の産婆術から学んだもので、僕自身が20代にずっと彼女の本を読み続け、30代で研修や授業を持つようになると、その骨法を使い続けてきた。

授業でも、例えばシングルマザーの貧困問題を取り上げると、「自己責任論」に共感する学生もいる。自分が選んだ相手なのだから、仕方ないではないか、と。その時、学生がどのような根拠で「自己責任」だと思っているのか、そこにはどのような前提があるのか、その前提はどういう時には機能するが、どういう時には機能不全に陥るか。それは自分自身と関係のないことか・・・を「なぜ」をもとに考えあっていく。すると、価値前提に含まれた臆断や他人事的な視点が崩れ、自分事として物事を見つめ直せる。そんな場面に出会ってきた。これぞ、池田晶子が舌鋒鋭く書き続けてきた、「問いかけ、考え続ける中での価値前提の問い直し」である。

だが一方、この「なぜ?」はしばしば原因追及になったり、放っておけば「問い詰める」表現になりやすい。そして、研修や授業の場で、あまりに僕と価値前提が違う人に「なぜ?」を問うていると、その前提を問い直すモードから、いつしか「相手の糾弾」に転化する場面が、たまにある。そしてそういう「糾弾」モードに入ったら最後、相手も頑なになり、対話が二項対立的議論の泥沼に変化し、不全感が満載で終わる。最近ではそんなことは少なくなったが、以前はたまに「やらかしていた」。

僕が受講している研修では、「対話が二項対立の泥沼」にはまらず、良き未来を想起するための方法論を学んでいる。その際、「なぜ?」と「説明」を求めるのではなく、「いつ?」「どこで?」といった「行動」を促す質問が大切だ、と学びつつある。

この逸話に関連して、ファシリテーターの知り合いが「こんな本ありますよ」と教えてくれた本がある。指摘された本は、実は僕自身が以前読み、線まで引いていながら、実践できていなかった本でもある。

「一般に、質問をする場合、英語の5W1Hを聞いていくようにするとよいと言われています。しかしながら、5WのうちWhyは避け、残りの4つ『When=いつ』『Where=どこで』『Who=誰が』『What=何を』の4つに置き換えるよう努めてください。中でも一番簡単かつ強力な質問が『いつ?』というものです。何か相手が問題を語り始めたら、『どうして?』と原因や動機を尋ねるのではなく、『一番最近それが起こったのはいつですか?』と尋ねます。さらに『その前は?』と聞いていく、相手はどんどん思い出してきます。次には、『それはどこですか?』『誰と(あるいは誰が、誰に)?』『何を?』などと聞き込んでいきます。そうしているうちに、相手は、原因や動機、あるいは事態の捉え方についての自分の思い込みと現実の間のギャップに気づき、自らそれを語り始める、というのがこの対話術の基本中の基本です。」(中田豊一『対話型ファシリテーションの手ほどき』ムラのミライ、p10-11)

僕が研修や授業で扱うテーマも、「原因や動機、あるいは事態の捉え方についての自分の思い込みと現実の間のギャップ」について、である。ただ僕自身はこれまで、それを僕から「なぜ?」「どのように?」と問いかけることで、相手に気づいてもらおうとしてきた。でも、それは僕から相手に対する問いかけである限り、相手は「応答」モードである。しかも「糾弾」されている、と思うと、相手は必死になって自己防御的に自分の価値前提に固執しようとする。それがコミュニケーションの悪循環を創り出すとしたら、僕の「なぜ?」という問いかけ自体が大問題だったのだ。

では、どうすればよいか。そのヒントは、次の二カ所にある。

「事実を聞くつもりで、相手の意見や考えを聞く質問をしてしまい、結果として、相手の思い込みや思惑を引き出してしまうことで、ものごとをよりわかりにくしている」(p79)

「対話型ファシリテーションの技法の中心は事実質問にあり、『なぜ』という質問は禁句と繰り返して述べて来ました。しかしこの場合はそれを逆手に取りました。つまり、あえて『なぜ?』を尋ねることで、相手の誤った固定観念を引き出し、事実質問を使ってそれを検証することで、新たな学びと気づきを引き起こすという方法をとった」(p97-98)

「なぜ?」質問が全く駄目、なわけではない。そうではなくて、「事実質問」と「相手の意見や考えを聞く質問」の違いに常に自覚的である必要がある、ということだ。もっといえば、質問者が今話題にしているのは「事実」なのか、「相手の意見や考え」なのか、に自覚的になることが大切なのだ。そして、僕はそこに無自覚なまま、「相手の意見や考え」を聞き続け、糾弾モードになり、泥沼にハマル局面があったのだ。

ということは、今の僕がすべきファシリの実践上の変化とは、「『なぜ?』を尋ねることで、相手の誤った固定観念を引き出し、事実質問を使ってそれを検証する」ということである。価値を問う質問一辺倒、ではなく、出てきた価値についてまで「なぜ?」とたたみかけず、「いつからそう考えるようになりましたか?」「誰からそういう考えを学びましたか?」「その考えは、何と似ていますか?」など、「事実質問を使ってそれを検証する」ことが大切になってくるのだ。

更に言えば、「相手の間違った固定観念」と決めつけなくても、力まなくても、事実質問は魔法のように状況を変える力がある、と筆者いう。

「事実質問の訓練を重ねていくうちに、人間の意識と行動と感情を繋ぐ糸の共通の仕組みがだんだん目に見えるようになってきます。それとともに、その糸を相手にみてもらうために効果的なものや出来事を捉まえて、『これは何ですか?』『それはいつですか?』と聞いて行けばよいということがわかってきたのです。」(p58)

「人間の意識と行動と感情を繋ぐ糸の共通の仕組み」。これこそ、ファシリテーターが常に手綱を握るべきポイントなのかもしれない。そして、その「糸」を事実で辿っていきながら、相手に「糸」の存在を「みてもら」い、そこから「意識と行動と感情」のダイナミズムに事実質問を通じて働きかける。そのプロセスの中で、「相手が自分で気づくことによって行動変化を起こすのを促す」(p65)ことも可能になる、というのだ。

さて、それは僕の場合にも当てはまるだろうか? 明日の授業から早速、①なるべく「なぜ」「どのように」を使わないこと、②使う場合でも「固定観念」に気づいてもらう場面に限定し、その後は「事実質問を使ってそれを検証する」ことをしてみようと思う。

果たして、どうなることやら。

「おせっかい」の前に信頼関係

ハートネットTVで相模原事件を受けた精神医療の特集を二夜連続でやっている。その中で、措置入院に関する検討会の委員を務めた松本俊彦医師が、番組HPで次のように語っていた。

「精神保健は、「他害を企てる人もまた困難や苦痛を抱えていて、本当はそれを解決したいはずなのだ」という仮説のもと、その人の主観的苦痛に寄り添い、信頼関係を築くなかで変える手法を用います。わかりやすい言葉でいえば、善意にもとづく「おせっかい」です。」

この主張そのものに関しては、僕自身も同感する。特に、「他害を企てる人もまた困難や苦痛を抱えていて、本当はそれを解決したいはずなのだ」という「仮説」はその通りだと思う。生きる苦悩が最大化したとき、「自傷他害」という「究極の自己表現」をせざるを得なくなるのだ。それは、薬物中毒の患者さんを沢山見てきた松本氏ゆえに、説得力がある整理だ。

だからこそ、僕は「国が打ち出した、措置入院した患者に対する退院後の訪問支援は、わが国の地域精神保健的支援の質を飛躍的に高める施策ではないかと考えています」という松本医師の意見には、反対する。彼は「自殺未遂者に対する訪問支援」が成功している事を引き合いに出して、他害要件のある人にも、同じような「おせっかい」な「訪問支援」が効果があるはずだ、と説得する。だが、ここには重大な欠陥がある。

自殺未遂者などの「自傷」行為をするひとに、「おせっかい」な「訪問支援」をする場合には、「あなたのことが心配だ」という大前提がある。だからこそ、支援者は「あなたのことが心配だ」とダイレクトに伝える。自分の事を気にかけてもらえることは、多くの人にとっては苦痛では無い。嬉しい場合も多い。特に、生きる苦悩が最大化している場合、「気にかけてくれる人がいる」という思いは、すっと相手に伝わりやすい。つまり、善意の「おせっかい」を、そのものとして受け止める信頼関係が構築されやすい。

一方で、「他害の疑い」の場合はどうだろう。

「あなたのことが心配です」という意味には、①「あなた自身の生きる苦悩が最大化した生きづらさ・しんどさが心配です」という意味だけでなく、②「あなたが他害行為をして、他者に迷惑をかけないかどうかが心配です」という意味もある。①のことを気にかけてくれるのであれば、それは「善意のおせかい」であるといえるだろう。でも、心配の中心が②であれば、話は異なってくるのではないか。

松本氏は、先ほどの引用の直前で、こんな風にも語っている。

「精神保健的支援は一種の性善説に支えられています。罰の威嚇をもって人を変えるのが刑事司法の手法であるとすれば」

松本氏自身は、「性善説」を地で行く医師なのだと思う。この間の薬物問題に関する社会的発言などを読んでいても、そう感じる。だが、残念ながら精神保健全体を「性善説」で見て良いのか、というと、はなはだ疑問に感じる。むしろ、「性善説」に基づく医療を隠れ蓑として、隔離拘束を「罰の威嚇」として用いている実態を、僕は沢山見聞きしてきたからだ。

現に、このハートネットTVでも、入院時の採血中にいきなり「興奮しているので眠剤を投与します」と暴力的に注射され、その後手足を拘束されて、2日後に意識が戻ったとき、枕元に「措置入院のお知らせ」の紙がおかれていた人の訴えが出されていた。彼は、説明無く隔離拘束されたことに、「人間として扱ってもらえない」と感じ、強い屈辱と恐怖を感じたという。このような強制入院における暴力的な対応や、「罰の威嚇」のような措置は後を絶たない。これは、読売新聞の原さんがずっと追いかけているが、新聞に掲載されただけでも実に多くの「罰の威嚇」的な不祥事が起こり続けている。

そんな精神科病院への強制入院を、「性善説」だから「おせっかい」も大丈夫、なんて安易に言って良いのか。これが最も気になるところである。

もちろん、だからといって、何もしなくてよい、と言うわけでは無い。他害行為にいたる人が、生きる苦悩が最大化した状態である、という前提は、松本さんと共有する。しかし、先にも見たように、他害疑いに関しては、①あなたのしんどさや辛さが心配だ、というだけでなく、端的に言って②あなたが何をしでかすかが心配だ、という暗黙の前提がある。そして、②を重視した場合、いくら本人に寄り添う(①の視点も持っている)、といっても、本人からすれば「利益相反」になっている(拒否しているのに行動が制限されている)という部分が強い。

だからこそ、松本氏が最後に語っている部分が、死活的に重要になる。

「そのような行きすぎにブレーキをかけるためにも、当事者に対する「権利擁護」の仕組みを強化する必要があると考えています。つまり、アドボケーター制度を併せて確立することです。これは、退院後の地域における「おせっかい」制度と切り離すことのできないものであると、私は考えています。」

本人の意思に反する入院をさせるとき、いくら「性善説」で「あなたのためだから」と言っても、本人の思いとずれている場合、その「あなたのため」は「罰の威嚇」に簡単にすり替わる可能性がある。ゆえに、それを監視し、本人の側に立って、本人の訴えをきちんと届ける権利擁護者(アドボケーター)の存在が必要不可欠なのだ。そして、この存在がないなかで、措置入院制度の縛りだけきつくすることは、信頼関係を構築しない中での「おせっかい」が強化されることであり、本人からみたら「性善説」ではなく、「罰の威嚇」が強化される危険性が高いのである。

ちなみに僕がフィールドワークをまとめたカリフォルニア州では、強制入院した人には必ず権利擁護者がつき、72時間入院時にその措置が正しかったか、について、異議申し立て出来る仕組みがある(詳しくは『権利擁護が支援を変える』を参照)。

これまで起きている不祥事や、松本氏も番組中で述べていた精神科病院の人員体制の不足の現実の中では、安易な強制入院の強化は、より厳しい人権侵害に繋がるリスクが非常に高い。この部分で、強制入院の最小化の努力、およびやむを得ず強制入院させられる人への権利擁護者の必置義務を課すことをせず、単に退院後の訪問支援「のみ」に限定されることは、「性善説」に端を発しながらも、結果的には「罰の威嚇」の強化に堕するのではないか、と大きく危惧している。

そして、アドボケーター制度を「退院後の地域における「おせっかい」制度と切り離すことのできないものであると」松本氏が考えているのなら、なぜその内容が含まれない中での精神保健福祉法改正案に「わが国の地域精神保健的支援の質を飛躍的に高める施策ではないか」とお墨付きを与えるのか、が理解できない。本気で「切り離すことのできないもの」と考えるなら、現に「切り離」された法案には反対すべきではないか。「そうはいっても世の中全部一気に変わるわけではない」という反論も聞こえてきそうだが、本質的かつ死活的に重要な部分を「切り離」すことに妥協すれば、それは松本氏本人が「性善説」であっても、「罰の威嚇」の強化に結果的に手を貸すことにつながらないだろうか。こう、危惧している。

僕は悲観的に考えすぎなのだろうか。

でも、例えば「アイヒマン実験」のことを思い出してほしい。このことをわかりやすく書いているサトウタツヤ氏は次のように述べている。

「アイヒマン実験とも通称されているもので,権威(者)による命令が個人を従属させ,殺人のような重大な結果をもたらしかねないことをシミュレーションしたものとして有名です」

「権威や役割が容易に深刻な暴力的行為につながる」

精神病院での強制入院は、その権限を与えられた医療者に「権威」と「役割」が与えられている。そして「権威(者)による命令が個人を従属させ」「容易に深刻な暴力的行為につながる」のである。「他害」を防ぐために、という「権威」と「役割」が、「罰の威嚇」のような「容易に深刻な暴力的行為」をもたらす危険性があるのである。その部分について、あまりにも脇の甘い法改正であり、松本氏も言うように、「善意にもとづくおせっかいであっても、それが行きすぎれば当事者をかえって追い詰め、苦しめてしま」うのである。そして、措置入院の最小化の努力、および権利擁護者制度の設置とセットでない今回の改正案は、「行きすぎ」の可能性が高く、「当事者をかえって追い詰め、苦しめてしま」う可能性も高いのだ。

「善意にもとづくおせっかい」が正当化されるには、まずそのまえに病院や医療者側が「行きすぎ」や「罰の威嚇」「深刻な暴力的行為」を防ぐ措置がなされなければならない。本人の権利を護る手段がしっかりない中での、「おせっかい」は、それも結果的に暴力的行為になりうる。更に言えば、そもそも措置入院や医療保護入院を最小化する努力をしないなかでの、措置入院に至った後のみの対応強化、では、問題の本質は変わらないままではないか。

だから、僕自身はこの法改正に納得出来ない。

納得出来ない部分をもう二つだけ、簡潔に述べておく。

今回の改正では、「退院時の支援を充実させる」ことが目玉とされていた。これを指して松本氏は「国が打ち出した、措置入院した患者に対する退院後の訪問支援は、わが国の地域精神保健的支援の質を飛躍的に高める施策」だと言っている。

だがそのモデルとなった兵庫県の仕組みを紹介する映像を見ていて、すごく気になった。様々な人が参加している会議に、「本人がいない」のである。「ご本人さんは○○と言っています」と保健師が「本人の代わりに」発言しているが、そこに本人がいないのだ。本人と「信頼関係」を本気で築きたいのなら、なぜそこに「本人がいない」のか? もし本人が入っていると「ややこしい」と考えているのだとすると、「本人不在のおせっかい」であり、それは本人にとっては、「自分のしんどさやつらさに共感してくれる人の集まり」ではなく、「自分が何をしでかすかわからないと迷惑に感じている人の集まり」と感じるのではないか。それが、本当に本人にとって安心できる支援である、と言えるのだろうか。

さらに、番組では紹介されていなかったが、今回の法改正案では、医療保護入院の市町村同意の要件を緩和することも書かれている。そもそも医療保護入院というもの自体、強制入院なのにその同意権限が家族等という玉虫色のものであり、この医療保護入院の存在自体が問題だ、と僕は思っている。その上、「家族等から意思表示が行われない場合について、市町村長同意を行えるよう検討する」とされている。これは、ハードルの低い措置入院措置、ということではないか。本来強制入院は最小化されるべきなのに、どうしてそれとは真逆の方向性を打ち出すのか。

このように、「おせっかい」の方向性が、松本氏の述べる「その人の主観的苦痛に寄り添い、信頼関係を築くなかで変える手法」とはほど遠い手段になっているのが、今回の法改正のように思えてならない。このような法改正は、やっぱりオカシイ。

追記:そもそも、今回の法改正の出発点である相模原事件との関係性については、事件直後のブログ「同じ穴のむじな」に書いております。そちらもごらんください。

意識ではなく時間配分を変えられるか

新聞の書評で面白そうだった『N女の研究』(中村安希著、フィルムアート社)を一気読み。この本は、一流企業でもバリバリ働く能力があるキャリア志向の女性が、NPO業界に転職している現状を捉え、社会運動の論理だけではなく、そこでの働きがいを求めている「NPOで働く女子=N女」へのインタビュー集である。僕自身も、この定義に該当する「N女」を何人か知っているので、実感を持って読めた。だけでなく、この本は日本社会の労働政策の本質を突く指摘がちりばめられている、と感じた。

「働く母を持つ子はかわいそう。働く妻を持つ旦那はかわいそう。仕事も家庭もと頑張る女たちのせいで、日本の家族が崩壊する。多かれ少なかれ、こうした考えを内面化しているのが日本社会ではないだろうか。専業主婦並みの家事・育児レベルを標準とし、それを女性たちに要求する社会では、その基準を満たせない女性は、すぐに『ダメ母、ダメ妻、ダメ嫁』の烙印を押されてしまう。保育園のお迎えがあるからと早めに会社を出ただけで、これだから女は甘い、使えない、とすぐにダメ社員のレッテルを貼られてしまう。そうした社会のプレッシャーが、一部の特殊な女性たちを非の打ち所がないスーパーウーマンへと駆り立て、それ以外の女性たちを労働市場からの脱落へと追い込んできたのである。」(p256-257)

僕自身、日本社会は、「男は外で働きすぎ、女は外で働く機会がなさ過ぎ」な社会だと思っていたので、この指摘は本当にその通りだと思う。20年ほど前、こんな僕でも就活を一応したことがあるのだが、僕がエントリーしたとある会社は、女性でも対等に働ける教育産業として、女性の憧れの的、の会社だった。その会社説明会で「企業を通じて社会貢献をしたい」と目をきらきらさせている女子大学生に対して、その会社のいかにも「やり手」そうな女性課長が「うちは株式会社ですから、営利が第一です!」とキッパリと言ったことを強烈に思い出す。その課長は、その説明会で他の女子大学生から、「あなたにとって、充実感ややりがいを感じる時って、どんなときですか?」と聞かれて、横にいた係長の女性と目を合わせてにやりと笑い、その女性課長はこう断言した。

「そうですね、犬のようにクタクタになるまで働いて、帰りの新幹線の中で、缶ビールをプハーっと空けたときですね」

僕は、新幹線の中で女性が飲むのがダメだ、と言っているのではない。だが、その時に直観したのは、「なるほど、この会社は男も女もクタクタになるまで働かせる、という意味で『対等』のだな」ということ。そんなネガティブな気持ちを持っていたから、一次面接で当の課長にこちらの不信感が見抜かれたようで、「あなたにとって仕事って何?」と厳しい質問を浴びせられる。「えーっと、生計を維持していくための一つの手段です」とドギマギしながら応えたら、見事一次面接でアウト。そりゃ、そうですね。

で、なぜこのエピソードを思い出したのか、というと、その大手教育産業の女性課長はまさに、「一部の特殊な女性たちを非の打ち所がないスーパーウーマンへと駆り立て」た、その「成果」だったのだ。男性と同じように、いや男性以上に仕事に命を燃やす「非の打ち所がないスーパーウーマン」だった。とはいえ、彼女を個人的に責めたいのではない。そのような「一部の特殊な女性たち」に違和感を抱いたのは、「それ以外の女性たちを労働市場からの脱落へと追い込んできた」構造が看過されているからだ、ということを、この本を読みながら20年たってやっと言語化する事が出来た。

「専業主婦並みの家事・育児レベルを標準とし、それを女性たちに要求する社会では、その基準を満たせない女性は、すぐに『ダメ母、ダメ妻、ダメ嫁』の烙印を押されてしまう。」

この「烙印」は、えげつない。僕も子どもが産まれて以後、家事や育児の分担をする中で、「専業主婦並みの家事・育児レベルを標準」とするのは、かなりキツイと感じているからだ。大学教員のような裁量労働で、授業や会議がない日は在宅勤務が出来る職種であっても、子どもの世話を中心とした生活に、原稿書きや雑務が重なると、手一杯になる。ましてや、女性は授乳というとてつもない重労働までくっついている。この家事や育児と、仕事の両立は並大抵なことではない。子育てするようになって、自分事として痛感するようになった。その上、「専業主婦並み」をデフォルトとされたら、働く女性はたまったもんではない、とつくづくそう思う。

そんな働く女性に対して、一番厳しい目を注ぐのは、他ならぬ女性であり、女性間の分断が生じている、とも筆者は指摘する。

「結婚の壁、所得の壁、育児の壁、103万円の壁、働き方をめぐる壁、時代の壁、制度の壁、階級の壁、夫の理解度の壁、居住地域の壁・・・、女性社会を分断に追いやる壁は山のように存在する。そして分断の根底には、『自分の大変さをわかってもらえない・もらえなかった』という孤独感や不満感が渦巻いている。ここで問題となるのは、不満の矛先がどこへ向かうのか、ということだ。隣の女性に向かえば、女性社会はそこら中敵だらけという終わりのなき潰し合いへと転がり落ちていくだけだろう。」(p273)

確かに僕の母親世代は、一部の例外を除き、専業主婦→103万円のパート世代、だったので、「専業主婦」をデフォルトに感じている。すると、専業主婦の「標準」を果たすことが出来ない「働く母親」への目は、厳しいものになる。なぜこのような厳しい目線が、女性間で注がれるのか。中村さんはその理由を、「孤独感や不満感」の「不満の矛先」にある、と指摘する。「自分はキャリアの道を絶って専業主婦になったのに・・・」「必死になって職場で働きながら保育園にお迎えにいくのに・・・」という「・・・」の部分にある、「『自分の大変さをわかってもらえない・もらえなかった』という孤独感や不満感」。これを最も理解してもらいやすい「隣の女性」に向けるとき、「私だって」という別の「孤独感や不満感」とぶつかり合う。すると、本来は家事や育児を女性にのみ構造的に過度に押しつける、男性稼ぎ主中心型の日本の労働・社会構造こそ「敵」として、女性同士が連帯し合う方がよいのに、遠くの「敵」ではなく、身近な、共感も出来るが故に差違が目立つ「隣の女性」が「不満の矛先」となってしまうのだ。

これは、女性にとってはあまりに不幸だ。だが一方、自分の働き方を変えたくない、変えられると思っていない多くの男性にとっては、このような「内ゲバ」は実に好都合である。男性自身の働き方、育児や家事との向き合い方を変えることなく、「所詮女同士の争い」と高見の見物が出来るからだ。『ダメ母、ダメ妻、ダメ嫁』の烙印が、「ダメ父、ダメ夫、ダメ婿」と反転しないためには、男性にとって必要不可欠な烙印なのである。つまり、女性がこのような評価・査定の厳しさを必死にクリアしようとすればするほど、男性は「不労所得」的に、何もしない自分の地位を保持する事が出来るのである。だからこそ、もっともっと女性同士で内ゲバしてほしい、と願うのだ。

「女のライフキャリアは複雑だ。キャリア志向を持つ女性の多くは、できることなら第一線で仕事をしたいと思いつつも、男性と同じように100%では走り続けられないことを知っている。キャリアの中断や減速を受け入れながら、仕事にもプライベートにも、どうにか折り合いをつけて生きてかなくてはいけないことに気づいている。焦りもするし、不安にもなる。この先どうやって生きていけばいいのか、走ればいいのか、止まればいいのか、貫けばいいのか、諦めればいいのか、キャリア志向が強ければ強いほど混乱は大きくなり、ときに自暴自棄になったり自信を失ったりして、意味もなく行き詰まってしまう。」(p61)

実は、本当は「男のライフキャリア」だって「複雑」なはず、である。子どもが産まれる・育てる、だけでなく、うつ病で休職したり、介護休暇が必要になったり、人生には様々な「キャリアの中断や減速」があるはずなのである。しかし、それらのことは、全て女性(=専業主婦)に丸投げして、「100%で走り続け」、24時間戦い続けることを前提にしたのが、「男性稼ぎ主型モデル」なのである。本来ならキャリア志向の男性にもあるはずの「不安」や「焦り」を思い出せないほど、長時間労働で仕事にかじりつかせることによって解消しようとしたのが、日本型雇用ではなかったか。そして、そこには女性という犠牲者の存在を、必要不可欠としていなかったか。

だが、右肩上がりの経済成長もバブル経済もとうの昔になった今、このような「なかったこと」にした「不安」や「焦り」が男性にも明らかになっている。だからこそ、一部の男性は、その不安や焦りを鎮めるためにも、育児に積極的に参加しようとしている。それと同じ動機で、一部の男性は、「働く母を持つ子はかわいそう。働く妻を持つ旦那はかわいそう。仕事も家庭もと頑張る女たちのせいで、日本の家族が崩壊する」という復古的なフレーズに共感してネトウヨを応援する。どちらも、男性自身の「不安」や「焦り」が前提にあるのだ。そして、この男性自身の「不安」や「焦り」を真正面から見据え、どうするのがよいのか、が問われている、「移行期混乱」の社会にいるのである。

「男女間での育児・家事に対する感じ方も違う。育休を取得し、育児や家事を手伝う男性たちが、『イクメン』とプラスに捉えられるのに対し、女性にとっての育児や家事は、できて当たり前のところから、少しでもできないと『ダメ母、ダメ嫁、ダメ妻』のレッテルが貼られるマイナス材料にしかなっていない。また、男性にとっての育児参加が、短い育休取得期間で終了するのに対し、女性にとっての育児の大変さは、むしろ育休からの復帰後に始まり、その後も半永久的に続く。育児への参加度合いとは、そもそも『育休を取ったかどうか』だけで測られるべきものではなく、日々の生活の中で、どれだけ家事・育児労働に責任を感じ、継続して時間を割くかという基準で測られるべきなのだ。」(p196)

「女のライフキャリア」と「男のライフキャリア」。これを二項対立的に考える限り、損得勘定の負の連鎖から抜け出しにくい。夫も妻も、そして子ども、家族一人一人のライフキャリアが、それぞれに豊かになるような社会こそ、少子高齢化を乗り越え、安心して子どもが産み育てられる環境として、必要不可欠である。男性は「短い育休取得期間」で「『イクメン』とプラスに捉えられ」、その一方、女性は半永久的に「『ダメ母、ダメ嫁、ダメ妻』のレッテルが貼られる」という非対称性こそ、問い直す必要があるのである。そうしないと、男も女も、子どもも大人も、ハッピーにはなれない。

14年前、スウェーデンに半年間住んでいた時、朝は7時過ぎから集合住宅の真ん中にある保育園に親が子どもを連れて行き、4時頃には迎えに来る、という風景を当たり前のように見ていた。しかも、午後3時半を過ぎると、必死になって職場を出て子どもを迎えに行く父の姿をしばしば目にした。また当時から、普通のオフィス、だけでなく、バスの運転手とか車掌とか、いろんな分野で当たり前のように女性が働いていた。そんな国の日常に馴染んだ後、たまに日本に帰国したときに、夜の11時頃までオフィスに煌々と灯りがついている風景をみて、改めて驚く。「なんで、早く帰らないの?」と。そして、日本では男性は過剰に働かされ、女性は「母・嫁・妻」役割を逸脱しない形でしか働けないのがデフォルトな社会である、という先述の違和感を抱くようになった。

子どもを育てる父としては、なるべく早く家に帰りたい。妻も職場復帰をして、自分のライフキャリアも追求してほしい。すると、敵は専業主婦でもワーキングマザーでもない。それらを女性内分断させる事で、「疾病利益」を得ている社会構造こそが、共通の「敵」であるはずだ。いや、それは「敵」ではない。男性だって、子育てや家事を通じて、走りっぱなしでなく、立ち止まる時間も必要不可欠なのだ。女性だって、良妻賢母の呪縛から解き放たれ、自分自身の人生を生きることも必要不可欠なのだ。それが出来なかった・させなかった祖父母の世代が、「私たちだってそうしたかったのに」「今の若い人は贅沢だ」と嘆きたくなる、その不安感や孤独感もわかる。でも、その不安の矛先は、「隣の女性」に向けてはならない。不満や不安をぶつけるべきは、日本社会の労働環境であり、労働構造である。官僚や政治家、産業界が一致して働き方改革を率先し、男性と女性の「時間の使い方」こそ、変える必要がある。

そういえば、昨晩、ツイッタを見ていたら、大前研一botが面白いことを書いていた。

「人間が変わる方法は3つしかない。1番目は時間配分を変える。2番目は住む場所を変える。3番目はつきあう人を変える。この3つの要素でしか人間は変わらない。最も無意味なのは、『決意を新たにする』ことだ」

大半の人はスウェーデンに移り住むことも出来ないし、今いる会社をすぐに辞めることもできない。住む場所とつきあう人を変えるのは、容易ではない。だが、「時間配分を変える」ことは、同じ職場であっても可能なはずだ。問題は、それを面倒がる人に限って、「意識改革」で話を済まそうとすることだ。ワークライフバランスも、この骨法で誤魔化されやすい。そしてそれは、「最も無意味」なことである、と断言しておく。

似ていたのはトーンだけでなく

いつのころからだろうか、講演の際、「ジャパネットたかたのような語り口で」と言われるようになっていた。確かに、たまーに自分の声を録音されたものを聞く、という「地獄」のような絶望的経験をすると、自分の自覚症状よりもかなり甲高い声のようだ。それが、高田社長のような絶叫に似ている、とのこと。妻曰く、「普段はトーンが低いけど、興に乗って来たり、勢いづいてくると声のトーンがそっくり」だそうな。ということは、講演時はおそらく「ジャパネットさん」なのだろう。

というわけで、勝手に親近感を持っていた高田社長の初の自著を読んでみた。テレビショッピングで鍛え上げられた話法は、自伝でも本領発揮。あっという間に読み終えるほど、おもろかった。そして、似ているのは声のトーンだけではなく、目指そうとすることや、視座が似ている、と僭越ながら感じ始めた。

「小さな町で、つても何もないのに、55万円の月商をたった1年で300万円なんて無理だと思われるでしょう。できない理由を探せばいくらでもあるんですよ。でも、私はできない理由ではなくて、できる理由を探そうと考えました。そして、やれることやできることを考えて、工事現場を回って集配ルートを作ることや、出張販売を企画しました。一生懸命にやっていると、できることが見えてきたんです。」(高田明『伝えることから始めよう』東洋経済新報社、p34)

「できない理由ではなくて、できる理由を探そうと考えました」

これこそ、55万円の月商だった会社を、年間1000億を超える売上高の巨大企業に成長させた極意である。そして、この極意は、僕自身が大切にしていること、そのものである。(もちろん、僕の売り上げは比較にもならないけれど)。

何か新しい挑戦をしようとした時、「できない理由」を探す人はいくらでもいる。前例踏襲主義、とは、「新しい事をできない理由を探す主義」である。前例を沢山知っている偏差値秀才や、経験だけが長けている人々は、この「できない理由」を探すのに必死になる。だが、そもそも前例踏襲主義で何とかならないから、新たな何かに挑戦するのである。それに対して「できない理由」を探す人は、簡単に言えば、何も変えたくないし、自分が責任を取りたくないのである。世の中につまらない会議が沢山あるのは、新たな何かに挑戦の際、したり顔で「できない100の理由」を述べ立てる人が多いからである。

しかし、高田社長は、2004年の顧客情報流出事件の際にも、前例踏襲主義には陥らなかった。全ての営業を自粛して、前例を改める「できる一つの方法論」を探ったからこそ、その後業績がスピード回復し、事件後2年で1000億円の売り上げを超えた。ここに見られるのは、彼の柔軟さや「自己更新」の精神である。ご本人もこんな風に語っている。

「私は、できないと決めているのは、その人自身だ、やろうとする前から、できないと決めつけていては何もできないと思っていました。」(p234-235)

人は、自分自身の固定観念の牢獄の中にいる。ということは、その牢獄の中でうめき続けるのも、そこから脱出するのも、自分次第。大切なのは、「できないという決めつけ」を「決めつけ」であると認め、そこから抜け出す勇気や覚悟を持てるかどうか、なのだ。また、こんな風にも語っている。

「ミッションは変えてはいけない。パッションも失ってはいけません。ただ、アクションは時代に即して、むしろ変わっていくべきだろうと思います。」(p249)

これは至言である。

アクションを変えるのが嫌な前例踏襲主義者こそ、気づけばパッションを放棄したり、ミッションを誤魔化したりしている。そのうちに、何のために、誰のために働いているのか、が不明確になり、方法論の自己目的化に陥る。だが、高田氏はずっと「企業は人を幸せにするためにある」というミッションを抱き、それを「伝える」パッションを失わないがゆえに、伝え方や見せ方というアクションを時代に即して不断に変えて来た。40年前に温泉旅館で記念写真を撮っていたのと、佐世保でDPEの同日渡しを始めたのと、六本木でスタジオを構えてテレビショッピングをしたのは、企業の規模や形態、売り方といったアクションは変われど、ミッションもパッションも変わらず一貫しているのである。これが、「ぶれなさ」なのだ。つまり、ぶれない、とは、アクションは柔軟に変えながらも、パッションやミッションが不動だからこそ、護られるのである。逆に言えば、アクションを固定した段階で、パッションやミッションは死に至る病に陥るのである。

「できる一つの方法論を模索する」「そのためには、パッションやミッションではなく、アクションを変える」

これは、どんな領域でも、新たな何かを成功させるための、必要不可欠な普遍的法則である。僕はこれを徹底できていないが、高田氏の本を読んで、頷くことしきり、だった。声のトーンは似ているが、まだこの普遍的法則を貫徹できていない。さて、次はどんな風に「アクションを変え」たらよいか? そんな「できる一つの方法論を模索する」エネルギーをもらえる、めちゃ良い本だった。

80億円は誰のため?何のため?

「例外を見る代わりに、ルールを見よう。事件を見る代わりに、構造を見よう。今日を見る代わりに、毎日を見よう」

これは、オランダで急成長を遂げているオンラインメディア『De Correspondent』の創始者の語った言葉である。従来のマスメディアに欠けているもの、そして今求められていることを実に簡潔に語っている。そして、僕はそれと同じ事を、ある記事を読みながら感じた。こんな記事だ。

「宮城県は30日、1973年建築で老朽化が進む知的障害者施設「船形コロニー」(宮城県大和町)について、現地建て替えを柱とする整備基本構想をまとめた。入所者が生活しやすい環境を整えるとともに、地域で暮らす障害者やそれを受け入れる民間施設を支援する機能などを備え、障害福祉の拠点化を目指す。
居住棟3棟のうち1棟の大規模改修を含む2棟を建て替え、いずれもバリアフリー化する。居間や浴室などを共有するユニット形式で1ユニット10室程度とし、プライバシー確保のため基本的に個室とする。
240室を整備し、既存の居室と合わせて計300室とし、一般家庭での暮らしに近い雰囲気づくりを目指す。活動棟や作業棟、事務管理棟などは建て替え、体育館も大規模改修する。
現時点での概算事業費は約87億円を見込む。2017年度に基本設計を実施し、19年度から段階的に建設に着手。20年度に一部利用を開始し、23年度の全面利用を計画している。
構想では利用者主体の障害福祉サービスの提供を基本理念に掲げた。生活の質を向上させて高齢化や障害の重度化にも対応し、安全で快適に暮らせる施設として整備を図る。」(<船形コロニー>障害福祉の拠点化目指す 河北新報

この記事を見て、「今日」の障害者入所施設の建て替えという「例外」的なトピックに目を奪われてはならない。僕は、これを読みながら、この建て替え問題に潜む、日常的な(=「毎日」の)「ルール」や「構造」に気づき、暗澹たる想いを持ったのだ。それは、どのような「毎日」の「ルール」であり「構造」なのか。それを示すために、別の場所の違う記事を引用してみよう。

「昨年7月に殺傷事件が起きた神奈川県立の障害者支援施設「津久井やまゆり園」(相模原市)の建て替えについて、県は1月27日、基本構想の策定を夏まで延期すると発表した。今年3月末までに作り、2020年度の建て替え完了を目指していたが、1月10日の県主催の公聴会で異論が噴出したことなどを受け、県の障害者施策審議会に特別な部会を設けて議論する。県は「昨年9月に決めた建て替え方針を白紙撤回したわけではない。多くの意見に耳を傾けたい」としている。  10日の公聴会では、県が現在地で最大80億円かけて建て替えることをめぐり「時代錯誤だ」「入所者本人の意向を確認すべきだ」といった異論が噴出。県は意見を聞くだけで回答せず、改めて議論する場を設けるつもりもないとした。  公聴会での異論を受け、黒岩祐治知事は「私が強引に建て替えを決めたかのように思われ心外だ」と態度を硬化させたが、知事のこの発言が批判を招いたこともあり、再考を迫られた。知事は全面的な建て替えにはこだわらないとした。」(【相模原殺傷事件】やまゆり園の建て替え構想、夏に延期 「入所者の意向確認すべき」と異論続出で 福祉新聞

誰が見てもわかる二つの記事の共通点から「ルール」や「構造」を探ってみよう。大規模な入所施設を建て替えるには、およそ80億円もの巨額な費用がかかる。この公金投入が費用対効果も含めて妥当かどうか、を決めるのは、「有識者」で構成される「基本構想」を策定する委員会である。その委員会には、入所施設を現に利用している入所者本人の意向は反映されていない。意思決定や表現が苦手な人だから、という理由で、本人ではなく、本人の代理人的な存在である保護者(家族)の意向が反映されている。そして、やまゆり園の家族会に代表されるように、入所者の家族は「私たちはあくまでも建て替えを希望する」と述べる一方、「時代錯誤だ」「入所者本人の意向を確認すべきだ」といった異論、は無視されやすい。

そして、これが二つの施設に限らず、日本の入所施設の「構造」的問題である、と僕自身は確信している。それは、この「ルール」や「構造」を変えるべくチャレンジした事例があるからである。その舞台、長野県西駒郷の地域移行の事例について、このプロセスに主導的に関わった山田優さんの記事の冒頭も、引用してみよう。

「平成15年度(一部14年度)から始まった、大規模入所施設から地域生活への移行は5年目を迎え、現在入所している知的な障害のある人たちは466人(H14)から227人(H19.6現在)に半減した。この間、県内民間入所施設の支援力も高まり、西駒郷が新たな入所者を受け入れたのは1人だけである。退所者245人中、地域生活への移行者は(グループホーム190人・アパート5人・自宅14人)209人である」(入所施設(長野県西駒郷)から地域生活への移行に向けた本人支援・家族支援について 「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年7月号

この西駒郷の地域移行に関しては、その途中から、第三者による評価検証事業がなされている。それを主導した大阪府立大学の三田優子さんのチームに僕も混ぜてもらい、一時期、長野までしばしば通って、地域移行された方々のお話を伺っていた。その時に聞いた当事者の「声」の一部をご紹介しよう。

「あのね、今もうこういう暮らしが楽しいから、二度と帰れって言われても嫌だ」

「(西駒では、朝6 時半くらいに起きて、ご飯食べて、掃除して、仕事行って)それの繰り返しだったからね。今こっちに来てほんとに楽。何時に寝ようが、ね。」

「*:何で、西駒に来る事になっちゃったんだろうね。
A:さあ、私にも解からない。
*:急に西駒に行くよってなったの?
A:そう、親が亡くなって、西駒に入るまでに片親亡くしてね。」

僕はこのインタビューを通じて、障害者入所施設をめぐる、様々な「ルール」や「構造」を学んでいった。まず、産まれた時からずっと入所施設だけ、という人は、ほとんどいない、ということ。「親が亡くなって」とか、高齢になって、あるいは特別支援学校や養護学校を卒業して行くところがなくなったので、など、地域で支え続ける家族がいなくなった事が、入所施設に行く原因となった人がほとんである、というリアリティである。裏を返せば、成人になった障害者本人が、親元に帰らずとも、地域で暮らすことが出来るような支援体制を組めば、入所施設はいらない、ということである。愛知で地域支援のプロフェッショナルとして活躍してきた山田さんは、その地域移行の「ルール」や「構造」をしっかり貫いたから、5年間で施設入所者を半減させる実践に成功した。

その際、山田さんが重視したのは、「入所者本人の意向を確認する」という鉄則である。それも、入所施設での生活が長く続いた人に、「どっちが良いですか?」と聞いたところで、すぐに「どっちが良い」などと言えない場合が多い。多くの入居者は、施設以外の暮らしはない、と諦めている場合が多いからだ。だからこそ、一旦施設以外の暮らしを体験してもらい、不安があれば入所施設に戻ってきてもよい、というスタンスで、利用者たちを地元自治体か近所の圏域内に戻す支援をしていった。そして、一度その新しい生活をしてみた人々が口々にいうのが、「今こっちに来てほんとに楽」「二度と帰れって言われても嫌だ」という表現なのである。つまり、「入所者本人の意向を確認する」とは、入所施設の暮らし以外を示されていない・他の場所での暮らしが想像出来ない利用者に、別の選択肢を味わってもらった上で、比較対象してもらう、というプロセスが必要なのである。実際の経験がないと判断できない、という障害特性をカバーするには、それくらいのことが必要なのだ。

そして、この西駒郷と比較対照されるのが、冒頭に書いた、船形コロニーの事例である。実は、船形コロニーは、日本で一番最初に「施設解体宣言」がなされたが、知事が替わると共に、その宣言が撤回された、という残念な過去を持っているからである。そのことは、大熊由紀子さんの記事に詳しい。(新知事、村井仁さんの秘められた”過去”と長野発の福祉改革

大熊由紀子さんは、長野で地域移行が進んだ理由を次の4点としてまとめている。

①実力と経験のある「達人」たちが、がっちりとチームを組んでいる→施設から送り出す側、地域で受け入れる側、それをつなぐ県行政が本気のチームを組んでいました。

②暮らしの拠点に予算がしっかりついた→「他県では、志をもった人々が資金を用意しなければならないのですが、長野の場合は、半額を県がもちます。さらに上積みして3分の2を公費でみる仕組みもあります」

③住いだけでなく、仕事や交流の場など20の政策のパッケージを丸ごと、県が認めたこと→宮城の「施設解体宣言」が失敗したのは、この部分を用意しなかったので、グループホームが「ミニ施設化」したからだった。

④大阪府立大助教授の三田優子さんたちのチームに、「施設を出たご本人が幸せに暮らしているかどうか」を厳しく見張るお目付け役を委嘱したこと→利用者の権利擁護を大切にするため、施設利害者と関係ない第三者による評価検証や、利用者のエンパワメント支援を行ったのが、西駒郷の特徴でもあった。

実は、この4点こそ、本当に「入所者本人の意向を確認する」ために、必要不可欠な「ルール」であり「構造」である。もちろん、この「ルール」や「構造」を貫徹するのは、楽ではない。残念ながら長野の西駒郷でも、施設入所者は現在100名程度に減ったものの、「実力と経験のある「達人」」である山田優さんが退職し、「意思確認が困難」な人の保護者が「私たちはあくまでも建て替えを希望する」と述べた為、10年前に重度棟を建設してしまった。施設入所者は5分の1に減ったが、残りの人々の権利を護ることが不十分になっていないか、という問いが残っているのだ。

長く書いてきたが、「船形コロニー」や「やまゆり園」の立て替えにあたって最も欠けているもの。それは、先述の長野の「西駒郷」の地域移行で追い求められた「入所者本人の意向を確認する」4点のプロセスがない中で、立て替えありき、で物事が最初から進んでいることである。これこそ、当事者不在であり、「私たち抜きで私たちのことを決めるな(Nothing about us without us!)」という障害者権利条約の精神を踏みにじるやり方である。そして、残念ながら、これまでの障害者の入所施設政策とは、このような当事者不在のやり方が、「ルール」であり、「構造」であったのだ。この「ルール」や「構造」こそ、変えなければならないし、80億円もの巨費は、上述の4点を愚直に推進するために、活用されるべきなのである。

そして、最後にもう一つ、なぜ入所者の家族は、「私たちはあくまでも建て替えを希望する」と述べているのか、を書いておきたい。

入所者家族は、別に悪者でも悪役でも何でもない。施設入所者の我が家族のことを、誰よりも心配しておられる方々が大半だ。だが、その家族が、なぜ「あくまでも建て替えを希望する」と述べるのか。これは僕の推論だが、大きく分けて3つの理由がある。それは、①「親亡き後の我が子の生活」が確実に護られるのは入所施設しかない、という現実であり、②入所施設か家族支援の二者択一的現状では、施設を無くす=家族負担の重圧、という切迫感があり、③入所施設の否定=入所者家族のこれまでの判断や考え方の否定、というしんどさがあるからではないか。

①と②は実はセットなのだが、「意思確認が困難」と言われる、強度行動障害や重症心身障害、あるいは医療的ケアが必要な障害者は、行政の支援が不十分で、「家族が丸抱え」か「入所施設に丸投げ」のリアリティが残っている。その中で、限界以上に支え続けてきた家族にとって、「親亡き後の我が子」がどうなるのか、は、恐ろしい不安であり、それを地域支援で充分に解消できないなら、最後の砦が入所施設になるのである。

そして、③は心理的なモノであるが、利用者本人も喜んで入所施設に入っている人がいない、というのと同じように、入所させる家族だって、喜んで入れている訳ではない。地域支援の不足、家族だけでの介護の限界などがあって、泣く泣く入れているのである。その時に、入所施設がいらない、と言われると、これまで自分が感情的にひき裂かれそうになりながら、我が子を入れてきた、そのしんどさや矛盾を抱えた辛さそのものの存在を否定されるようで、到底受け入れられない、という辛さや悲しさがあるのである。

だが、この③をのみ捉えて、「意思確認が困難」な人の代弁者(=家族)が「あくまでも建て替えを希望する」から、と施設建て替えを安易に進めるのは、明らかに行政の無策である。なぜならば、①や②で明らかにしたように、家族はひき裂かれそうな思いをしながら、家族と利用者の双方の生活が限界に追い込まれ、泣く泣く入所施設に我が子を託してきたのである。行政が本来なら地域支援を推進し、施設でも在宅でもない、第三の支援の在り方を、長野県で進めた4点の施策のように実現してきたら、入所施設に頼らない生き方が出来たのである。それを行政がしていなかった、これまでの行政の無責任な体質について反省することなく、施設の建て替えに問題を矮小化させるのは、本質的な問題のすり替えである。そのための80億円は、問題の隠蔽と温存に使われるだけではないか。

長い長いエントリーになった。だが、入所施設を安易に温存させるルールや構造こそ、利用者やその家族を悲劇に追い込む元凶である。このルールや構造こそ、変えなければならない。そして、諸外国ではそのルールや構造の変更は、すでに20年前以上にはなされており、スウェーデンでは「意思確認が困難」とラベリングされている人も地域で当たり前に暮らしている、ということも、付け加えておく。(「スウェーデンではノーマライゼーションがどこまで浸透したか?」

「やまゆり園」の殺人加害者は、入所施設で暮らす利用者の生活を見ていて、「生きる価値のない」という決めつけを行った。だが、例えば西駒郷から地域移行した当事者の活き活きとした暮らしをみて、本当に同じ思いを抱いただろうか。そう思うと、改めて「そもそもなぜ、わけるのか」というルールや構造そのものへの問いが、未だに僕の中で渦巻いている。

80億円は、利用者が満足できる生活を展開する為に、入所施設中心主義のルールや構造を変えるためにこそ、投入されてほしい。そう、深く願っている。

最上の贈り物

「親がそのこのために与えることのできる最上の贈り物は、安心感と自己肯定感である。この二つを授けられた子どもは、多少の逆境に出会おうと、方法を模索しながら、わが道を切り開いていく。苦しい状況におかれても、自分を追い詰めすぎず、希望を保ち、一歩一歩進んでいける。少々生き方が不器用だろうと、世渡りが下手だろうと、自分を信じ、自分が進んでいる道を肯定することができれば、やがてその人は、自分にふさわしい生き方にたどりつく。不器用で飾り気のない純粋さゆえに、その価値はいったん認められれば、揺らぐことはない。」(岡田尊司著、『アスペルガー症候群』、幻冬舎新書、p167-168)

最近周囲から「マイペースですね」と言われる事が多い。また、発達障害の専門家から、タケバタもその傾向がある、と言われたことがある。どんなもんだろう、と思って、改めて基本書をざっと読む。確かに、小さい頃は癇癪を起こしてランドセルを投げていたこともあるし、杓子定規な大人への反発は、今だって強い。小さい頃から、子どもの会話より、親や親戚の話の輪に入ろうとする、言語的にませたガキだった。その一方、注意されても一度では覚えず、何度も何度も注意してもらわないと直らない傾向は、今でも残ってる。お箸の使い方は直らなかったけど、食卓の椅子は、やっと元に戻せるようになった。ある事に集中し始めると、他のことがおろそかになるのは、原稿を書いているときにはしばしばある。妻には、「言わなくても分かる、わけではないので、ちゃんと口に出して伝えてほしい」と、何度も言っている。

これらを指して、「アスペルガー症候群」の傾向がある、のなら、確かにそのカテゴリーに属するのかも、しれない。だが、おかげさまで、それを40代になるまで気づかずに来たし、そのことが苦労の源泉だと感じたこともない。知った今でも、「あぁ、そうねぇ」くらいにしか、思わない。それもこれも、ありがたいことに、「安心感と自己肯定感」という「最上の贈り物」を親から授かったからだ、ということが知れたのが、この本を読んでの最大の成果だった。

小さい頃は、むしろ特別な存在を憧れる子どもだった。自分自身や自分の家族が「ごくふつう」であることへの不満を持って、母親とこんな問いを投げかけた。

「おかあさん、どうして僕やうちの家族はふつうなの?」

それに対する母親の応答は、今思い出してみても、立派である。

「ひろし、ふつうであることって、そんなに簡単にはでけへんことなんやで」

10歳くらいの当時のひろし少年には、「そんな簡単にはでけへん」の意味が、さっぱり分からず、「ふーん」程度の感想しか、抱かなかった。でも、心のどこかで、その母の言葉は残っていた。そして、その価値に気づいたのは、30も越えてからである。「自己肯定感」や「安心感」を子どもに授けることが出来るのは、ありきたりでも、「ふつう」のことでもない。実に、有り難い、ことである、と。そして、それが僕の根底的な自信や存在根拠の揺るぎなさにつながったのだ、と。

我が家はサラリーマン家庭で、週末に王将やマクドナルドに連れていってもらえるのが実に楽しみだった、というリアリティを持つ、平凡な家庭だ。貧乏ではなかったが、裕福でもなかった。しかし、その家庭環境に不満を持つことはなかった。ただ、小学校の高学年あたりから、学校でいじめられる集団に属していたこともあり、根源的な「つまらなさ」を抱えていた。桂川の河川敷をチャリでぶらぶら走っては、「つまんないなぁ」と嘆いていた記憶が蘇る。中学では、政治や経済についてまともに議論してくれる塾長のいる進学塾が自分の居場所となり、進学校の高校に入るも、勉強に興味がわかず、男子校の写真部室で同年代の仲間達とつるむ喜びを覚え、それは予備校時代まで続く。

そんな僕が、ほんまもんの「学ぶ喜び」を見いだしたのは、大学生になってから。暗記や試験勉強のための学び、以外の、「なぜ」「どうして」という問いを深める学問に出会ってから。社会学や哲学、臨床心理学や社会思想史など、ごった煮的に学べる人間科学部という場所は、僕のような人間にとってはうってつけの、問いを深める場であった。大学という空間で初めて、「生き方が不器用だろうと、世渡りが下手だろうと」、そんな他者評価よりも、オモロイ何かを探索する喜びに没頭できはじめた。それが、大学院生で精神医療と出会い、今は大学で地域福祉や福祉政策を教える側になる、原動力にある。

そして、教育や研究という、人と対話しながら、真理を探究する仕事、に出会えたことによって、やっと「自分にふさわしい生き方にたどりつく」ことが出来たのだと思う。だが、そこに辿り着くまでに途中で道を曲げなかったのは、「安心感と自己肯定感」という「最大の贈り物」をもらっていたからだ、と改めて思う。世間の流れに器用に乗ることは出来なかったけれど、自分の中で「おのずから」わき起こる流れのようなものに「みずから」飛び込んでいったからこそ、僕自身の中での自我と自己が、うまく融合しつつあるのかもしれない。

僕が、異常と正常のカテゴリーがすごく気になるのも、あるいは「困難事例」や「問題行動」という形でのラベリングが嫌いなのも、下手をすれば、僕自身が排除の対象になっていたかもしれないし、これからなり得る可能性がある、ということを、肌身で感じているからだと思う。そういう意味では、高校時代に北杜夫のエッセーを読んで精神科医になりたいと夢見るも物理化学が嫌いで断念し、予備校時代に河合隼雄を読んでカウンセラーになりたいと憧れるものの、臨床心理の教官に「きみは向いてない」と言われて挫折した僕も、今、福祉社会学と社会福祉学の「隙間産業」的に精神医療を眺めているのが、ちょうど見つけた「ニッチ」であり、「多少の逆境に出会おうと、方法を模索しながら、わが道を切り開いていく」プロセスだったのと思う。

そういう意味で、改めて託された「最上の贈り物」に思いを馳せるきっかけとなる読書であった。

僕は僕

2017年の初めての投稿。で、ブログシステムも大きく変わった。

このブログの管理人をしてくれている高校の後輩、N氏のお陰で、古いシステムから新しいシステムへのお引っ越しと再構築。700本近い記事を抱え、その中で過去の記事を参照したりしていて、僕の中ではこのブログこそが「外部記憶装置」となっているので、引っ越しでデータが失われたら、文字通り「記憶が失われる」恐怖だった。なので、無事に移行作業が終わって、ほっとしている。20年以上の付き合いが続いているイケメン中年N氏には感謝の言葉がない。

そして今回は、膨大な過去記事が自動で移行されなかったので、「やまなしピアカフェ」のみなさんに、データのチェックと移行の作業をお手伝い頂いた。ずいぶん丁寧な仕事をして下ったお陰で、過去の引用や参照もほぼそのまま移行することが出来た。この「やまなしピアカフェ」は、「ひきこもりを含む社会参加したい人が力を発揮できる環境を、その人と一緒に、考え、探し、つくっていく住民互助グループ」であり、こういう在宅勤務出来る仕事も引き受けておられる。丁寧に仕事をされるので、そういう依頼があれば、ぜひ。

で、過去のブログ記事をランダムにチェックしているうちに見つけたのが、この「私は誰?(増補版)」という記事。2009年5月というから、8年前の記事である。その時は、現場の実践者でありながら、アカデミックスキルを持った上で、中途半端な研究者よりも遙かに深い洞察を続けておられるとみたさんlessorさんのお二方のブログを通じて、自分の立ち位置を問い直していた。そして、最後にこんな弱気な発言を書いている。

「僕自身は、誰なんだ? 「現場のプレイヤーとして研究を深めることに徹する研究者」と対比しても、多少なりとも役立てる何かがあるのか。本当に研究者などと名乗っていいのか。鋭いお二人の分析から、崖っぷちでしがみついている自分自身が見えてくる。」

ああ、8年前はもがいていたのだなぁ、としみじみ思う。

当時は34歳。大学教員になって5年目。やっと研究者という立ち位置に慣れて来たものの、必死になって勉強している途上で、アウトプットも少なく、何をどのように考えてよいのか、書いてよいのか、がわかっていなかった。現場に通い続けながら、色んな人の話を聴きながら、それをどう言語化して良いのかわからなかった。「研究者として」という部分に力が入りすぎていて、それが空回りしていたのかもしれない。思えばブログで700本近い記事をずっと書き続けてきたのは、僕自身がどのように考えてよいか、言語化してよいのかわからなかったので、その練習台として、必死に言葉を探し、思考訓練を重ねてきた、とも言える。博論を書いたのに一冊も単著が出せず、自分自身がどこに向かうのかもわからず、苦しかった時代だと振り返って思う。

では、いまはどうなのか。当時の問いに対する現時点での答は、月並みだけれど「僕は僕」。力んだところで、背伸びしたところで、自分の向いていない「憧れ」には、近づけそうにないし、「自己嫌悪」するだけだ。であれば、自分の持つ特性を活かして、ありのままの自分の強みを活かしながら、仕事をするしかない。そう思い始めている。

そう思えた転機は、やはり『枠組み外しの旅』の執筆だった。

この本を書く中で、自分の立場主義者的要素や前例踏襲主義、常識や業界の専門用語・常識などというものを、徹底的に問い直す作業をしていった。自分自身が囚われているものを疑い、学び直すプロセス。それは、最近よく言われている表現を使えば、unlearnであり、学びほぐし、である。よく言われる守破離の世界観になぞらえるなら、大学院生時代から10年掛けて身につけてきたアカデミックスキルという型を「守」るのに必死だったのが、30代前半まで。先のブログを書いている頃は、ちょうど型は身についたけれど、ではそこからどう自分らしく改善が出来るか、がわからず、試行錯誤していた。型の「破」り方に惑っていた時代だった。

そして、2011年7月から、突如連作をブログに書き始める。これは、311の後に自分の実存が揺さぶられる経験をする中で、文字通り、大げさではなく実存を賭けて、この連作を書き進めた。自分の精神がぶっ壊れてしまいそうな辛さの中で、とにかく書くことで局面を打開するしかない、と思っていた。本当に大切なことを、嘘偽りなく書きたい。その思いだけで、ずっと書き続けるうちに、半年後には論文になり、1年後には単著が出来上がってしまった。そして単著を出してみたら、それまでの社会的役割を気にする自分が「破」れて、別の何かが現れ始めた。

単著を出してからの4年半は、その自分なりに芽生えた何かを追い求めていた日々だったような気がする。講演やアドバイザーとして訪問する現場でも、「もっともらしいことを言おう」なんて力むことはなくなった。自分に何ができるかわからない。でも、その現場に行き、そこで話されることに耳を傾け、その語られた状況や文脈に即して考えて、何となく頭に浮かんだことを伝える。その対話に集中するだけだった。それでも、いくつかの現場では、何度も声を掛けてもらえるのだから、そういうスタンスが、多少なりとも役立つ局面があったのだと思う。

先のlessorさんは、こんな風に書いている。

「研究者が中途半端に現場に入り、現場で既に自明視されているようなことをさも自分が発見した「新しい事実」であるかのように示して自己満足するぐらいならば、「現場のものの見方」に擦り寄ろうとするのではなく、徹底的に「研究者としてのものの見方」を押し通すことで見えてくるものに期待をかけたほうがずっと有意義だと思う。」

僕は、「徹底的に「研究者としてのものの見方」を押し通すこと」はしていない。さりとて、「現場で既に自明視されているようなことをさも自分が発見した「新しい事実」であるかのように示して自己満足する」ほど愚かでもない。「「現場のものの見方」に擦り寄」る、というより、「現場のものの見方」をまずは理解しようと努め、その内在的論理に対して、外部者として問いを投げ掛けることによって、「現場で既に自明氏されていること」という暗黙の前提に対して、「それって、変えられないことですか?」「他のやり方は、あり得ませんか?」と、風穴をつくり、別の可能性を考える。そんな仕事をしてきたのだと思う。「研究者としてのものの見方」を押し通す」のではないけれど、現場とは違う第三者が、現場の人びとと対話をする中で、一緒に考え合う、というプロセス。そう、昔からずーっとし続けてきた、産婆術的姿勢である。といか、僕はこれしかできない。

そう思って、外部記憶装置であるこのブログを検索すると、ぴったりの表現が出てきた。

「そういう、ゼミ生の中から「世界が立ち上がる」瞬間に、間主観的な存在としてたたずむ僕。相手の「言葉」が「分かれて」くる瞬間を信じて、待つ僕。こう位置づけると、僕の役割は、助言者や指導者、ではなく、ソクラテスのような「産婆役」である。」(産婆役という”かまえ”

この記事を書いた4年前は、産婆術はゼミですることだ、と思い込んでいたが、結局、僕は現場のアドバイザーであれ、講演であれ、人材育成の場であれ、どこでも「産婆術」している。文章を書くのだって、現場から学んだこと、引用したい書籍、などと「対話」しながら、そこに問いをはさみ、僕なりに問いを深め、共に論を展開して行く、という意味では、産婆術的書き方しか、できない。そう、産婆術を生きているだけ、である。

そういう意味では、8年前の「僕自身は、誰なんだ?」という痛切な問いに、今ならはっきりと答えられる。「僕は僕」でしか、ありえない。僕自身を生きる中で、現場やゼミ生、理論との産婆術を続ける中で、僕なりの対話の中から、何かを産み出していくだけだ、と。これが、30代までの暗中模索を「離」れる第一歩になれたら、よいのだが。

新年早々、長々と書きましたが、今年もよろしくお願いいたします。

2016年の三題噺

毎年恒例の、今年一年を振り返るブログ。とは言っても、今年は何を基軸にしようか、書き始めた今も漠然としている。まあ、書いていれば出てくるだろうと思い、一つ目を繰り出す。

1,年下の仲間たちにエンパワーされた一年

僕自身は、これまでずっとチャレンジャーだと思ってきた。師匠や指導教官、諸先輩の優秀でオモロイ研究者の皆様に鍛えられた。そういう人びとの背中を追いながら、自分も少しでもその領域に近づきたい、と必死になってきた。同世代と群れることはせず、学会発表や論文執筆も、基本的には一匹狼で、必死にキャッチアップするモード、であった。

その風向きが、明らかにこの一年の間で、変化しつつある。

一番大きいのが、岡山や京都で人材育成塾の「校長」をしているから、かもしれない。

「校長」って、ふつう50代のおじさんがやる、あの立ち位置である。

岡山県社協の「無理しない地域づくりの学校」が二期目になり、そこからスピンオフした形で京都府社協でも今年、「コミュニティーソーシャルワーカー実践研究会」をさせてもらった。岡山では、各地域で人作り塾を主催している尾野寛明さんを「教頭」に、岡山県社協の西村さんを「用務員」にした布陣の二年目。尾野さんも西村さんもまだ30代前半だが、めちゃくちゃ面白くて優秀なメンツ。一年目の昨年は、尾野さんと僕が「船頭多くして船山に上る」に近い状態だったけれど、僕は「校長」なんだから、どーんと構えて尾野さんに任せればいいや、とお任せして、好きなことを好きな時にしゃべるだけのモードにしたら、やっと波長が合ってくる。11月末の最終回、長泉寺で尾野さんとセッションをしたときは、「漫才を見ているみたい」という評価を受けるくらいの掛け合いの呼吸が合ってきた。それは、僕自身がやっと、「貪欲に食らいつくチャレンジャー」の構え、を脱ぎ捨てて、年下の仲間たちに下駄を預けることを覚え始めたからかも、しれない。

そんな時期に、京都府社協の才女、北尾・西木ペアに誘われて、地元京都での恩返し的な仕事も今年スタートした。この2人も、僕よりは一世代若い2人だが、めちゃくちゃ優秀で、かつ熱い気持ちを持ち、細やかな心配りも出来るソーシャルワーカー。西村さんといい、北尾さんや西木さんといい、志ある社協若手の人びととチームを組むと、こんなにオモロイ仕事が出来るのだな、という可能性を教わった。今まで、僕の仕事はどちらかと言えば僕自身が企画から全面的にコミットする内容が多かったが、岡山と京都のこの人材育成塾は、主催者たちの本気の想いに寄り添いながら、僕はその場に顔を出し、皆さんとエールを交わしながら、全体をぼんやり眺めていくうちに、うまく展開して、連続講座の間に受講生も発芽し、ドラマがあちこちで展開して行く、という、生まれて初めての経験。

不思議なことに、京都や岡山に行く度に、こちらも元気を分けてもらえる、そんな愉快な場だった。僕は今までは逆で、講演する度に、受講者から「元気を貰いました」と言われるものの、僕自身はグッタリしていた。なので、一体この経験をなんて名付けたら良いのかわからなかったのだが、さっきのタイトルをみて、ふと、気づいた。そう、僕自身がエンパワーされつつあるのだ、と。誰か「のために」行う講演では、僕自身が一方的にエネルギーを出してしまう。でも、誰か「と共に」であれば、僕自身も学ばせてもらえて、元気も貰える。30代はひたすら前者で疲れ果てていたけれど、41歳になって、やっと「と共に」のモードを、自分自身でも実践できるようになってきた。そんな、信頼できる年下の仲間たちに、気づいたら囲まれ始めている。これは、めちゃもうけもんだ。

2,バラバラだったものがつながりつつある

研究の面では、今まで気になっていたことが、急にグッとつながってきた。「問題行動」や「困難事例」、BPSDや強度行動障害、精神症状・・・と言われている「何か」についてである。

僕の研究は、精神病院でのフィールドワークを振り出しに、精神科ソーシャルワーカーへのインタビュー調査や、スウェーデンでのノーマライゼーションについての実態調査、カリフォルニアと大阪での精神医療の権利擁護の比較研究、重症心身障害児者の地域生活支援や西駒郷からの地域移行調査、山梨での自立支援協議会の立ち上げ支援、障がい者制度改革推進会議へのコミット、地域包括ケアシステムの立ち上げ支援、そしてトリエステの脱施設化調査やオープンダイアローグへの関わり・・・など、雑多な領域で色んな事に首を突っ込んできた。「ご専門は?」と聞かれても、「よくわかりません」「特に一つと定められません」と、むにゃむにゃ答える日々だった。

でも、こないだ大坂精神医療人権センターの研究会で、認知症患者とBPSDについて議論をしながら、ふと全てのことがつながってきた。「ああ、僕が気になっているのは、『世間に迷惑を掛けるから』と排除されている人を、どう施設や病院に排除せず、包摂していくか、という主題なんだな」と。かつ「世間に迷惑をかける」行為とは、そのような形でしか表現できない状態に構造的に追い込まれている、という意味で、究極のSOSなんだな、と。こう考えると、いろんなことが串刺しで繋がってくる。

ゴミ屋敷の主、徘徊や暴力行為をする認知症の人、幻覚や妄想に振り回されている人、頭に壁をぶつける強度行動障害の人・・・。表面的な現象を見ると、バラバラに見える。でも、どれも「世間に迷惑を掛ける」「他者が口で制止しても止まらない」という共通点を持つ。そして、そのような言動ゆえに、これらの人びとは地域の中で暮らせない、と排除される。だが、そういう人びと自身が、そういう言動を喜んでしている訳ではない。不安や孤独、不満や苛立ち、貧困や心身の不調、などが折り重なり、絶望的な状態になる。しかも、それをどう言葉で表現してよいか、わからない。聞いてくれる人もいない。その中で、絶望や諦めの気持ちが大きくなる。その不安や苦しみを、行動の形で表現したのが、「自傷他害」である。あるいは、行動しない、という形で表現するのが、ゴミ屋敷だったり、「無為自閉」と言われる状態である。そして、多くの人はその「状態」をみて、「その人は○○という病状だ」と固定的な理解をして、「わかった気」になる。でも、ご本人は、その「状態」に固定されることが、「理解されていない」と思うからこそ、命がけで反論の行為や表現にでる。すると、「病状」がひどい、というラベルを押される。その悪循環。

ということは、この悪循環の構造や全体像を理解し、その悪循環を鎮め、悪循環が好循環に変化し、本人も周囲の人もハッピーな形に物語が変容するにはどうしたらよいか、を考えるのが、実は支援の醍醐味であり、僕自身が追い求めてきたテーマのひとつだ、ということに、やっと最近気づき始めた。これは、5月に参加したオープンダイアローグのセミナーでも感じたことだし、この秋、精神科の訪問看支援チームであるACTの現場に二カ所ほどお邪魔して、改めて強く感じた事だ。脱施設化を日本で本気で実現するために、今までスウェーデンやアメリカ、イタリアのシステムを、僕自身は調べ続けてきた。だが、システムだけでなく、「悪循環を地域の中で鎮め、好循環に転換させる支援のあり方」を考えることが、脱施設化を本気で実現する為の、大きな鍵なのだな、と気づき始めている。こういう部分で、今までバラバラな現場で考え続けてきたことが、やっと一つの形として、言語化できはじめている。

3,いろんな意味で「本厄」でした

日本では、男子の41歳は「本厄」とされている。「前厄」の昨年、妻に山梨の地場産業のショップ「かいてらす」で、翡翠の数珠をプレゼントして貰った。山梨は宝石の加工業が日本一でもあり、うちの近所にも宝石加工関連の会社が沢山ある。

そういえば、うちの父親が「本厄」だった年には、滋賀の立木山に毎月お参りに出かけていた。僕はドライブがてらに休日、弟と3人、時には母も一緒に4人で立木山に行くのが好きで、帰りにMドナルドでお昼ご飯を食べるのも含めて、一大イベントだった。でも、そんな父も、確か厄年の時期に十二指腸潰瘍で入院した。暮れの時期に北野天満宮そばの病院に入院していたので、お見舞いついでに12月25日の「終い天神」にでかけた事を思い出す。あれから30年たった。

数珠を毎日つけていると、折に触れて「本厄」だ、と思い出す。で、そのことの意味を考えていたのだが、41歳というのは、仕事に脂がのり出すのと、体力がついていかなくなる(衰え始める)、その均衡点が崩れる時期なのだな、とよくわかった。先の二つの噺で書いたように、最近いろんな学びや気づきが多く、仕事の面では実に充実している。ありがたいことに、いろんな領域からの講演や原稿依頼も、増えてきた。放っておけば、忙しさはドンドン加速していく。その一方、体力は着実に落ちはじめている。特に、仕事続きで、合気道の稽古やランニングが出来ないと、体重が増え、身体の切れも失われていく。だからといって、以前なら、出張帰りでそのまま合気道の稽古に行くことも出来たのだが、今ではそんなことをしたら身体が悲鳴を上げるので、さすがにそこまでの無理が利かない。

そんな折に、今年は何度も、「何を大切にしますか?」「優先順位が高いのは、どれですか?」と、妻にも尋ねてもらい、自問自答をした年だった。そして、そういう自問自答の中で、自分が譲れない軸や一貫性を再定義し、次の10年20年に向けて余裕を持って生きていくための、ギアチェンジの時期。それが「本厄」という年なのだと、改めて感じた。それは、昔からその年齢で来る体力の衰えと、経験の蓄積の均衡点の崩れと反比例の始まりに際して、「人生の正午」を超えて、「午後」をどう豊かに成熟していくのか、を自問自答し、次のステップに歩み出すための、必要不可欠な「階段の踊り場」の時期なのだと、本厄の一年を過ごして、やっとわかった。僕は、経験してみて、やっとその意味を理解できるタイプなので、いつものことだが。

自分の中では、今年はいろんな不全感や、未達成なモヤモヤ感が引きずり続けた。もっと勉強したい、もっと学びを深めたい、と思いながら、現実的な制約も大きくて、フェードアウトすることもあった。この20年は、体力に任せてがむしゃらに突っ走ってきたが、どうもそれでは対応出来ない局面があり、どうもそれとは違う立ち位置の方がスーッとうまくいくことは、一つ目の話題で書いたとおりである。ということは、次の20年は、がむしゃらモードではなく、少し腰を落ち着けて、取捨選択した上で、一貫性と柔軟性をもちながら、もちろん前提としてオモロく楽しみながら、出来る事を積み重ねていくのだな、と理解し始めている。そういう意味で、やっと「大人」の「成長」や「成熟」とはなんたるか、が、朧気ながら見え始めたのが「本厄」というプロセスなのかもしれない。(まだ「成熟」とは言い切れないけれど)

 

で、実はこの3つ以外にも、大きな変化のプロセスが始まっているのだが、それはまた、いずれ機会を改めて書くとしよう。

この一年も、お世話になりました。

みなさま、良い年をお迎え下さいませ。

たけばたひろし