想いを描く創作、とは

 

金曜の夜、あるドキュメンタリーに釘付けになっていた。

昔からテレビのドキュメンタリーが好きで、若い頃、こういう映像を作る人になりたい、と憧れていたこともある私にとって、この番組の主人公である木村栄文氏の語りには、グイグイ引き込まれていった。なによりも、一番心が揺さぶられたのが、次のフレーズ。

「ドキュメンタリーとは、自分の想いを描く創作である」

不偏不党、客観性、事実をありのままに伝える・・・こういった「縛り」に囚われて、すっかり面白くなくなっている最近のテレビに比べて、なんとはっきり、なんと分かりやすいメッセージか! そして、そういうが満載の木村氏の作品は、そのダイジェストを垣間見るだけでも、どれほどその世界に引き込まれていくか。今だときっと「やらせ」とか「虚実ない交ぜ」とかいわれそうだが、全くそういう批判は当たらない。木村氏の「想いを描く創作」として、見事に彼のドキュメンタリーは見る人をその世界に引き込んでいく。(このあたりは読売新聞の特集にも詳しい)

実はこの「想いを描く創作」というのは、何もドキュメンタリーに限ったことではない。優れた社会学系論文も、同じく「想いを描く創作」の部分が強いのではないか、と感じている。

例えば以前書いたが、マックス・ウェーバーだって、「想いを描く」ための分析であった。

「具体的な実践的提案を科学的に批判する場合、その動機や理想を明らかにすることは、その根底にある価値基準を他の価値基準、とりわけ自分自身の価値基準と対決させることによってのみなされうるということがきわめて多い (中略)ある実践的意欲の『積極的』批判は、必然的にその根底にある価値基準を自分の価値基準と対決させつつ明らかにすることである。」 
(大林信治著、『マックス・ウェーバーと同時代人たちドラマとしての思想史』岩波書店 p51)

ウェーバーは、「自分自身の価値基準と対決させること」の中から、様々な価値基準や歴史的事実に対しての「『積極的』批判」を続けてきた。でも、これは「自分の想いを描く」ための、「創作」の一手段として整理することが可能だろう。また、こないだのコラムで書いた阿部謹也氏は、「それをやらなければ生きてゆけないテーマ」の模索の中で、中世のドイツ史に行き当たり、そこから自身が「それをやらなければ生きてゆけないテーマ」へと見事な連絡、結びつきを続ける中で、ハーメルンの笛吹男などの「創作」へと結びついていかれた。この際、木村氏はフィクションで、ウェーバーと阿部氏はノンフィクションだ、なんて単純に分化出来ない。どちらも、ご自身の切実な「想い」に端を発し、その表現方法が、映像か文章か、ドキュメンタリーか歴史分析の論文か、の違いだけだ。かつて大熊一夫氏は繰り返し、「優れたドキュメンタリーはすぐれた論文と全くひけを取らぬ価値がある」といっていたが、まさに木村氏の作品を見ていて、これほど立派に論文が対象に迫れているか、を反省させられる内容だった。

大熊さんや木村さんはジャーナリズムの世界から、阿部さんやウェーバーは研究者の立場から、ともに「自分の想いを描く創作」としての大作を作り上げられている。富士山の頂上はひとつ。でも、登り方は色々ある。論証の仕方、ストーリーの組み込み方、ロジックや表現方法、には、各登山路で、独自のやり方がある。それに拘泥するのではなく、あくまでも「創作」の向こう側にある「自分の想い」に目を向け、それをやり遂げること、そこらあたりに、ノンフィクションや論文が持つ特有の「面白さ」があるような気がしている。

小手先の地域移行?

 

この間から折に触れてこのブログでも書いていた、問題の多い「退院支援施設」について、ここ最近様々な動きが出ているので、まとめてご紹介しておこう。

まず、この問題のことをよくご存じない方は、昨日、今日と読売新聞が丹念に取り扱っている。
【短い版】 
【詳しい版】 
取材をされた大阪科学部の原さんは90年代の大和川病院事件からずっと取材を続けてこられた敏腕記者。内容も、迫り方も、まさしく本質を突いている。僕も原さんの記事ではずいぶん勉強させて頂いた。そんな大先輩の記事に、僕もチョコちょこっと載っていたいりする。

精神病棟を1億円!かけて改築して、福祉施設にしてしまえば、72000人の社会的入院患者は、あっという間に名目上退院出来る。だが、敷地内にずっと住んでいれば、そこは鍵があってもなくても、管轄が医療だろうが福祉だろうが、ご本人の意識としては、「入院」状態であることにはかわりない。こういう状況を作らないために、病院からの地域移行に94億円の予算を使うのならよくわかる。しかし、同じ94億円が使われるのは、半永久的な病院敷地内の4人部屋の「住まい」。なんだかこの政策は、本当にずれている、としかいいようもない。本来この政策にのってもよいはずの病院経営者団体だって、「手薄な体制の施設に変えるのは、我々の要望とは違う」というくらいなのだから。

で、当事者団体も当然の事ながら、大反対である。この間、3障害の当事者が集って、共同歩調をとりながら自立支援法の政策課題に意見表明をし続けてきた「障害者の地域生活確立の実現を求める全国大行動」実行委員会が、今回、この「退院支援施設」に反対の動きを示すことになった。
【その詳細】

従来知的障害者と身体障害者は支援費制度、精神だけ別制度、と別れてきたので、3障害の共同歩調がなかなか取りにくかったのだ、3障害のサービスが一元化される自立支援法制定の動きを「奇貨」として、障害当事者団体で声を揃え始めた。で、今回、精神障害者のこの問題に、かつてないほどの注目が、他障害からも集まっている。それは、この呼びかけ文の下記の部分が本質を突いている。

「これは精神障害者だけの問題ではありません。入居施設はこれから5年後には現在の入居者の1割以上を地域移行し、施設入居者を7%削減すると言っています。しかし、『精神障害者退院支援施設』のように、実質的にまったく地域移行していないのに、看板だけ書き換えて、地域移行完了!とやりかねません。」

まさしく、どこかで「例外」が出てくれば、例外は瞬く間に拡大する。
自立支援法で掲げた「地域移行の促進」という大原則も、こういう「例外」を精神病院で認めたら、知的障害者や身体障害者の入所施設に「飛び火」することは、間違いない。

この呼びかけ文にあるとおり、8月24日に行われる障害福祉関連の重要な会議(障害者福祉施策担当主幹課長会議)の前日の8月23日、厚労省との交渉の中で、おそらく何らかの厚労省の案が出てくるはずだ。というのも、この「退院支援施設」は4月末にぽっとその概要が「案」として示されたわりに、何にも議論しない中で、10月から実施、という無茶なスケジュールで動いているからである。すると、何が何でも10月から強行するなら、24日にその細かい内容を出さざるを得ない。

「国は、小手先ではなく、まっとうな退院促進対策に取り組まないといけない。」という原さんの言葉は、「小手先」に流れかねない今だからこそ、大変重要で、かつ重みのある言葉だと思う。

評価の難しさ

 

今日もあっという間に時間が過ぎていく。

朝一番から研究室に籠もり、午前中は紀要の追い込み。もともと「予定枚数40枚」なんて書いて提出していたが、出てきたものは、その倍の80枚! 実はまだ止まらず、さらにある視点で書き続けることも不可能ではないのだが、なんぼなんでも長すぎるし、少しバテてきた。とりあえず80枚で止めることにして、残りの部分はしきり直して、次回の宿題とする。こうして宿題原稿は延々と積み重なっていくことになるのだが、とにもかくにも一区切り着いた(まだ微調整は残っているけど・・・)。まあほぼ確定稿なので、とりあえず「はじめに」の部分をくっつけておこう。

日本では30万人以上の精神障害者が精神科病院に入院中であり、そのうち半数以上が5年以上の入院と、社会的入院患者の数は先進諸国の中で飛び抜けて多い。また、地域で暮らす精神障害者にとっても、頼りになる地域の社会資源はまだまだ少なく、安心して地域で生活できる体制にはほど遠いのが現状である。そんな中で、病院を退院して地域で自分らしく暮らしたい精神障害者のノーマライゼーションを保障する権利擁護の取り組みの重要性は、今ますます大きくなってきている。
だがこの問題を考えるにあたり、まずはっきりさせなければならないのは、日本の精神障害者の権利がどの程度擁護されているのか(いないのか)である。もし、大きく権利が擁護されていないなら、具体的にどのような権利がいかに擁護されていないか、を明確にすることから、この権利擁護に関する研究は始まる。そこで、本稿では、精神障害者の権利擁護の実態を、精神病院に入院している「入院患者の声」の分析をもとに明らかにする。その後、「入院中の精神障害者の権利に関する宣言」で謳われる10の項目を縦糸に、「入院患者の声」分析の内容を横糸に見立て、横糸が縦糸とどのように絡み合っているのか、の分析の中から、現状と課題を明らかにしたい。

今回はネットリじっくり縦糸と横糸を織り込んだ、つもりだ。乞うご期待。というか、明日最終的な詰めをちゃんとせねば・・・。

午後は採点に追われる。今回のテストでは初めてレポート形式をやめて論述テスト形式にした。というのも、昨年レポート形式にしたら、ネットからの剽窃や一部コピペが相次いだからだ。授業とは全く視点の違うノーマライゼーションについての小難しい論考や、自立支援法について全く授業で紹介した視点とは違う、しかも高尚な言葉遣いのレポートを発見すると、そのキーワードの一部をパソコンで打ってみる。すると、ほぼ百発百中で、ネットの全文剽窃、あるいは一部剽窃の繰り返し、などが見て取れたのだ。当然そういうレポートは不可にするのだが、採点しているこちらの気持ちが片づかない。何だかなぁ、と、教育目標とは裏腹な結果に、落ち込んでしまっていた。そこで、色々な先生方にリサーチして出てきたのが、小問題を多めに記述してもらう方式。実際に今回採点してみて、びっくりした。

4問の出題で、積み上げ方式の配点を作っていったら、合計90点満点になった。で、一問毎に部分点をちりばめながら、ここまで出来たら何点、と作っていくと、結構小論文に関しても適切な配点評価基準が定まってくる。平均点が34.5点と全体の4割に届かなかったのはガックリだが、得点調整をしながらならしていくと、高得点と赤点がほぼ同じ数になった。丸付けをしている最中は、小問の採点で必死で全然「意図せざる結果」なのだが、偏差の分布としてはまあまあよいようだ。最終的に、不可にするかどうか迷った時には出席状況を加味して、すっきり採点をし終えることが出来た。何より、不正行為に出会わなかったことが、身体に良いようだ。後期以後も、しばらくこのスタイルを続けてみよう。

このあたりのことを色々考えたくて、この前は『テストの科学』なる本を読んだ。この本のことを教えてくれたHPには大学教育についての有益な情報が載っているのだが、この池田氏の本も、テストの作り手としてはまだひよっ子の僕にとって、収穫は大きかった。この中で、「少数大課題設定方式が良くない」という筆者の主張はよくわかるのだが、地域福祉論のような分野では、一元的な(選択肢から選ばせるor○×形式の)問題設定は、正直しにくい。以前放送大学の問題を見る機会があったが、それでも佐藤学先生は果敢にマークシート問題を作っておられた。でも、あれは教育学の、しかも歴史的に評価が定まっている対象だから出来うるような気がする。そのため、地域福祉論では「多数小課題」な、短い論述の積み重ねを設問で出すことが、現時点での妥協点のような気がしている。

問題を解くよりも、作り、採点することの方が遙かに大変だ、と、今さらながらに知り始めたタケバタであった。午前中に一応書き上げた権利擁護の論文も、最後は権利侵害をどうチェックするか、という審査や評価の問題になってきた。どの分野でも、公正で効果的な評価、は難しいのである。

あ、結局昨日のもう一冊にたどり着く前に息切れだ。でも、その著者に関連してもう一冊紹介したいのだが、研究室に置き忘れてきたので、また明日。

一人で開けて入る

 

日曜日は京都駅前のホテルで高校時代の同窓会に出ていた。
何人かの連れとは2,3年に一度は飲んだりするのだが、同窓会自体は10年ぶり。「ひとをつなぐ」というお仕事をしている副委員長のハヤシ君が、ご丁寧にはがきや電話で知らせてくれたので、10年ぶりなのに結構多くの人々の消息がつかめた。ハヤシくんの議員秘書としての有能さも推測出来る。残念ながら当日やってきたのは15人程度だったが、でも大いに盛り上がる。

有能な、と言えば、某鉄道会社で働く旧友タナハシ君にもお世話になりっぱなし。甲府の僕と、東京からやってくるタナハシ君と、久しぶりに車中でじっくりしゃべりたかったので、特急券の手配をお願いしたら、ちょちょいのちょい、と送ってくれる。行きも帰りもお盆で車内は大混雑だったし、夏場は甲府駅の「みどりの窓口」もとんでもなく混んでいるので、こういう電話一本でお願い出来るのは、ありがたい限りだ。静岡からの車中では鰯かまぼこをアテに、早速1次会。京都駅前でハヤシ君とも合流して、同窓会が始まる前に近鉄名店街の飲み屋でプチ2次会。そして同窓会が終わった後、またもや近鉄名店街で3次会とおさかんである。でも、3次会も9時半には閉店で店を追い出されて終了。流れ解散となったのだが、そう言えば、と最近京都に引っ越したナカムラ君の顔を見に自宅まで押しかけ、お酒のない4次会。その後、恩師のお一人TA師と京都駅前に戻って5次会。ふー。ごくろうさま、である。

で、こんなに予定がうまく繋がった日の翌日は、その正反対。1時半の新幹線に乗る前に、とある人とお昼をご一緒できる、かも、という未定の予定であったが、結局電話してもつかまらず。眠い目をこすって朝10時に京都駅に来てみたが、ぱっくり3時間半空いてしまった。あと2人ほどに電話をかけるが、すれ違いでアウト。こういう場合は、じたばたせずに、久しぶりに、と京都駅前のアバンティー・ブックセンターで久しぶりにじっくりゆっくりたむろする。

前々回に「すっかりジュンク堂のお得意様状態になっている」と書いたが、高校時代から京都を離れる前まで、僕の中で本屋といえばアバンティー・ブックセンターであった。実家からチャリで30分弱、バスでも1本でいけるし、京都駅の真ん前。しかも、このアバンティーは大規模書店のはしりでもあったので、中学生の頃から本当にしょっちゅう通った。写真部の友人とワイワイ語らいながらやってきた高校時代、参考書コーナーの前で苦い顔をしていた予備校生時代、哲学書をボンヤリ眺めてため息をうっていた大学生の頃、塾の教え子と一緒に参考書ツアーなんぞ企画した院生時代・・・折に触れ、この本屋の記憶は探せば探すほど、どんどん出てくる。同窓会ついでに郷愁に浸れたひとときであった。

で、収穫は郷愁だけではなかった。じっくりアテもなくふらついたので、収穫も多かった。で、お盆ラッシュで大混雑の帰りの車中では、軽めの本を数冊鞄に忍ばせる。昨日読んだ本は、実にあたりだった。1冊が「北の街にて-ある歴史家の原点」(阿部謹也著、洋泉社) 阿部先生といえば「ハーメルンの笛吹男」で有名な歴史家だが、ことあるごとにご自身の学問のスタイルについても語っておられる。そういえば「苦い顔をしていた予備校生時代」に、別冊宝島「学問の仕事場」で阿部先生を初めて知った際、阿部先生が恩師から、「それをやらなければ生きてゆけないテーマを探せ」といわれた、という逸話が胸に突き刺さったことを思い出す。だいたい行きたい学部自体があまり決まっていなかった僕にとって、一生かけるテーマが大学で見つかるのだろうか、とため息まじりに、でも羨望の眼差しで、彼の文章を何度も読み返している自分がいた。そう言えばこの本には網野善彦、白川静、廣松渉といった錚々たる「第一人者」の学問へのスタンスや方法論も載っていて、大学への憧れと、当時の自分の「勉強したくない」という現実への絶望の、両方を抱かせてくれた本だったような気がする。

懐古調になるとどうも話しがそれるので、本題に。
そう、阿部先生の初めての勤務校での小樽商科大時代からドイツ留学、そして再び小樽で頭角を現される間での逸話を縦糸に、阿部先生の恩師との手紙のやり取りを横糸に置いたこの本は、扇情的な書き方とは対極の静かな語り口だが、その核心は文字通りラディカルであり、静かな熱さを感じる事が出来る。

「ある学者が著書を出したときのことである。その人は自分の学問の方法について後書きで語り、後進に対して『一人で開けて入れ』という言葉を付記した。ところがこの著者が歴史学界で注目されたとき、人々が一人で開けて入れと言うのは独善的で良くないといい、学問は皆で営むものであって、共に開けて入ろうという姿勢でなければならないといったのである。それに対してこの学者がそれを認め、自己反省をしている文章を読んだことがあった。私はこれはたまらないという感じで、このようなことをいう人々の気持ちが理解出来なかった。(中略)自分の内面に深く降りていって何故自分がこのような課題に関わらなければならないのかを考えることから出発しない学問は私には無縁であった。」(同上、p234)

「それをやらなければ生きてゆけないテーマ」と巡り会い、そのわずかなきっかけから光が見え始めるまでの10数年以上もの間、ずっと「一人で開けて入」り、奥深くまで単独で掘り続けてきた著者にとって、その営みが「独善的」といわれるのは、全く思いもよらず、信じられないことであった。このくだりは決して僕にとっても他人事ではない。自分が選んだテーマが、実は僕自身の深い内面的関心とリンクし、「それをやらなければ生きてゆけないテーマ」であると気がつくまでに長く時間がかかったし、そのテーマは世間では「マイナー」と見なされ、深い部分まで議論出来る相手は、大学内では指導教官を除いてほとんどいなかった。僕の場合は「共に開けて入ろうという」仲間が誰もいなかったので、仕方なしに「一人で開けて入」らざるをえなかった、というのが本音だろうか。でも、一人で深く入り込んでいったおかげで、どうもこの分野で従来論文として書かれていることが「何だか変」なのもよくわかったし、先行研究より、むしろ現場の声の方が面白い、ということも体当たりの中で気づいていった。結果論としては、大変よかった、ということになる。

で、体当たりの経験、といえば、実は阿部先生の本を読み終えた後に手に取ったもう一冊の本をご紹介したいのだが、そろそろ家事の時間なので続きはまた明日。

「くだ巻くだけじゃなくて」

 

昨日は東京に一日出張で、暑くてグッタリ。
今朝は久しぶりにゆっくり寝る。お昼は素麺を湯がき、午後は大学で〆切がとうに過ぎている紀要と格闘。

精神病院の入院患者の権利がいかに「剥奪」されているか、を、NPO大阪精神医療人権センターに寄せられた「入院患者さんの声」の分析から明らかにする、という縦糸は定まっていた。だが、論文として分析するには、横糸となるもう一つの柱が必要だなぁ、と感じていたら、数日前にその「横糸」を発見。今、サクサク整理が出来ている。横糸の中身や、実際の分析結果は、書き上がったらまた、ご紹介しようと思う。結構この横糸が効いて、面白い分析になりはじめた。いつも論文にコメントくださる大阪のKさんにメールで途中経過を報告したら、「面白いけれど、あいかわらず濃ゆいですねぇ」とのこと。ならば、まあ方向性は間違っていないだろう。

山梨も夏真っ盛りで連日暑い。夕方は真っ赤な夕日だったのだが、現在はゴロゴロの雷がなっている。この妙に蒸し暑いのは、雨降り前の証拠。連日じっとりしていてグッタリなので、一雨来てほしい。でも、奥さまはただいまテニス中なので、もう少し待ってあげてくださいませ。

出張の折りには毎回大型書店に顔を出すのだが、昨日もご多分に漏れず、顔を出すために早めの電車で新宿に出かけた。東京ならジュンク堂新宿店、大阪ならジュンク堂堂島店、とすっかりジュンク堂のお得意様状態になっている私。1万円以上買うと無料で送ってくれる、と知って以来、「一万円は買わなくっちゃ」という変な買い物ゲームの様相を呈して、よろしくない。でも、荷物が重くなることを思ったら、どれだけ送ってもらうのは楽か。と、ウダウダいっているが、気になる本をほいほい手にとっていくと、結局軽く超えてしまうのである。今回も6冊お買いあげ。うち1冊を、帰りの電車用に手持ちとする。その1冊とは、少し難しくて敬遠していた立岩真也氏の新著。自分自身で「くどい」と仰るほど、議論をじっくり重ねていくタイプの著者なので、今回の短めの文章をコンパイルしたこのエッセイ集?は、電車で読むには丁度良い。早速のっけから、1960年代から70年代と現代を比較した面白い箇所を発見。

「『近代(社会)を問う(問い直す)』というたぶんに大言壮語的な問いが示されたことはあった。私はそれを馬鹿にしてはならないと思う。いろいろな大切なことが言われた、少なくとも呟かれた。しかしそうであるがゆえに、どこをどう詰めていくか、理論的にも面倒なことになってしまい、それ以上に現実的な展望が見えない。それで先が続かなかった。」(「たぶんこれからおもしろくなる」立岩真也著『希望について』青土社所収、17-18

この60から70年代の立岩氏なりの総括の注釈の所で、氏はこんなことも書いている。

「私の出自は単純で、そして古色蒼然としている。1960年代後半、1970年前後が私の出発点になっている。その時私は小学生だったから、すこし遅れて知ることにはなったのだが。その時期の人たちは私に大きなものを与えてくれたのだが、しかし途中で止まってしまったり、いなくなってしまったり、なんだかよくわからない。酒ばかり飲んでないで(いや酒を飲むのはよいのだが、酒飲むときにくだ巻くだけじゃなくて)もうちょっときちんとあの話しを続けてくださいよ、考えてくださいよ、と思うのだが、なかなか。では自分で考えてみよう、みるしかない。そんなところでものを考えているのだと思う。」(同上、p24)

立岩氏から15年あとに生まれた僕も、団塊の世代に対して立岩氏と全く同じ視点を持っている。「飲み屋の端でくだを巻く」だけじゃなくて、若い時に「人間の幸せ」について議論し、「闘った」ことを、もう少ししつこく追い求めてほしい、あのころは若かった、なんて簡単に青春時代に追い求めたことを「なかったこと」にしないでほしい。前言撤回はありだけれど、白紙撤回ではなくて、連続性を考えてほしい。「みんなの幸せ」のために「運動」をしてきた世代が、自己否定的猛烈サラリーマンに変化していく過程を、そう眺めていた僕にとって、立岩氏のこの注を本屋でぱらっとめくった瞬間、これは買って読まねば、と思ったのであった。

30年前の若者が、当時勝ち取ろうとしたもの、追い求めたこと、それは「たぶんに大言壮語的」で、「どこをどう詰めていくか、理論的にも面倒なことになってしまい、それ以上に現実的な展望が見えな」かった、かもしれない。でも、だから間違いだった、わけではないのだ。まさに、立岩氏が上の世代の残した荷物を見て、「自分で考えてみよう、みるしかない。」と接ぎ穂をし始めているように、継承していくべき叡智の一つだと僕は思っている。

福祉の世界では、この団塊の世代で、その当時の「追い求めたこと」を捨てずに、きちんとご自身で消化しながら、80年代の国際障害者年以後、90年代の「障害者プラン」、2003年の支援費に向かって、入所施設ではなく地域で障害のある人の自立を支えていこう、という「想い」に人生をかけてきた先人達がいる。90年代以後の地域福祉の急激な発展には、当事者運動と共に、情熱と給料と休みの時間まで傾けて地域支援にこだわった一部の支援者達の動き、も重なっていたことは、否定出来ない事実である。だが、その団塊の世代もぼちぼち定年の時期にさしかかり、さて、これからどうその叡智を継承していくか、という時期に、運悪く自立支援法の大波が押し寄せている。若い世代の私たちが、上の世代や国の批判に終始するのではなく、「指示待ち族」になるのでもなく、「自分で考えてみよう、みるしかない」と接ぎ穂出来るかどうか? これは当事者運動の世代間継承でも、支援者組織の継承でも、事態は全く同じ。次の世代が、逃避せず、「くだ巻くだけじゃなくて」どう接ぎ穂出来るか、そこにかかっているのだと思う。

忘れずに考え続けるために

 

先ほど、公開初日の「ユナイテッド93」を見てきた。

この映画や「ユナイテッド93」の事件に関しては、実に様々な角度から、正反対のコメントや指摘がされている。それらの評価を紹介する前に、僕の感想を少し述べておくと、「2時間全く息つく間もなかった」「映画終了後の数時間後の今も、心にズシンと残っている」ということである。

この映画や事件に関する主な賛否のコメントは次の通り。
Takuya in Tokyo:「ユナイテッド93」(2006)
「ユナイテッド93」は究極のジェットコースター映画
今日も明日も映画三昧:「ユナイテッド93
ユナイテッド93便をめぐる「ダイ・ハード」なミステリー
『ユナイテッド93』@ぴあメールマガジン/シネマ
ピッツバーグでの墜落旅客機の美談は本当なのでしょうか
MovieWalker – 「ユナイテッド93

真相がどうだったのか、この映画のストーリーと違う何かがあったのか、今となっては全くわからない。ただ間違いなく言えるのは、ユナイテッド93便の乗客全員が死亡した、という事実である。どこまでが真実で、どこまでが虚偽で、あるいは何らかの陰謀があったのか、を的確に判断するには、あまりにも多方面の情報で溢れすぎている。ただ、そこに居合わせた乗客、ユナイテッド93の行方を追い続けた管制塔の職員、のリアリティだけは、どのようなストーリーが背後に横たわろうとも、そのリアリティの現実性は少しも損なわれることはないと思う。この部分だけでも、この映画には十二分過ぎるほどの価値があると思う。

誰が正しくて、誰が間違いで、どの説が真実か、の虚偽判断は容易ではない。ただ、多くの遺族のインタビューに基づいて、分厚いリアリティを集積して作られたこの映画が、一見の価値があることだけは、紛れもない僕にとっての真実だと思う。その上で、この事件を忘れずに、考え続けることが、私たちには必要とされていると思う。そして、イランの泥沼化、イスラエルとレバノンの戦争激化、今週のロンドンのテロ未遂事件も含めて、この911にまつわる様々な出来事を、決して忘れることなく、様々な立場から、様々な角度で、しつこく考え続ける必要がある、それだけはハッキリした映画であった。

移行期の支援

 

日曜日に長野で知事選があった。
その日は丁度長野で調査の日。田中知事の県政下で、入所施設から地域移行を果たした知的障害を持つご本人への聞き取り調査をしていた。

選挙結果はご案内の通り、現職の田中知事が破れ、村井氏が新しい知事となることに決まった。
長野で聞き取り調査を終えて帰宅した我が家でこの速報を眼にしながら、「新しい知事でもこの地域移行の取り組みはずっと続けてほしいな」と思っていた。

政策は時の為政者によって変わる。例えば宮城では、浅野知事時代に続けてきた「脱施設宣言」も、次の知事では事実上の撤回となった。そう言えば浅野知事の次の知事も「村井知事」。同じ名前だから、といって、同じような政策を続けてほしくない、としみじみ思う。それは、グループホームで暮らす人々の意見を伺っていても、すごく感じる。

グループホームで暮らす当事者にお話を伺う際、必ず聞くことがある。それは「西駒郷の生活と今の生活のどっちがいいですか?」という事である。この質問に、実に多くの当事者が「そりゃあ今の方がいい」とお答えになる。「なぜ?」と聞くと、多くの人が一人部屋になった、自由が増えた、という答え。それほど多人数で集団一括処遇では自由がなかったのか、と思い知らされるエピソードだ。しかも、お話してくださる方々は、20年30年と集団生活をしてこられた方々が少なくない。その方々が、地域に出て、初めて個室を持ち、自分らしい生活スタイルを一歩ずつ築かれている様子を垣間見ていると、この地域移行の政策の普遍性をすごく感じる。

この地域移行というギアチェンジについて、前回の記事でも書いた村瀬さんは、映画レインマンの解説に寄せながら、実に適切な表現をされている。以下、少し引用してみよう。

「『町に出る』ことで、社会の持つ『規則的なもの』とぶつかりながら、少しずつ自分の流儀(儀式)を曲げて、社会の規則を受けいれてゆこうとする主人公の生き方である。施設の中だけで暮らしていたら、そんなふうに自分の流儀(儀式)を曲げることはなかったであろう。
 でもそうするためには、弟のように、彼に付き添って町の中で暮らす人の援助がいる。そういうことを含めて、この映画が作られていることを私は見ておくべきだと思う。つまり、この映画の『解説』をするのに、弟チャーリーの役割に一度も言及しないで、ひたすら『自閉症のレイモンド』を描いた映画のように説明するのは間違っているのである。」(村瀬学「自閉症-これまでの見解に異議あり!」ちくま新書p138)

そう、施設という「保護的」な場で、自分の流儀(儀式)と社会との接点がなかった当事者の方々は、今、地域移行という局面で、はじめて「社会の持つ『規則的なもの』とぶつか」る場面に遭遇している。でも、グループホームを訪ねていって感じるのは、実に多くの方が、「社会の規則を受けいれて」いきながら、自分らしく暮らすことも両立されておられる、という姿である。施設内での「訓練」でなく、実際に社会に出て、グループホームで暮らしながら、苦労を重ねながら、社会に「復帰」していく。これと同じ事を、精神科リハビリテーションの現場で活躍されている方も次のように整理していた。

「まず実際に地域のアパートや事業所に行って、そこでの生活や就労に必要な技術を、専門家の援助を受けながら学ぶほうが、保護的な環境での訓練よりも、より実現適応が良い」(香田真希子 「社会的入院者の退院支援にACTモデルから活用できること」OTジャーナル 38(12) 1097-1101

入所施設という「保護的な環境」で、ずっと「訓練」を続けているより、「まずは実際に地域のアパート」に移り住んでしまい、「そこでの生活や就労に必要な技術を、専門家の援助を受けながら学ぶほうが」よい。これは、ごく当たり前のことなのだが、「専門家」が支配する福祉や医療の分野では、このごく当たり前が、ごく最近まで「当たり前でない」というアブノーマルな現実が続いていた。

そして、このレインマンの逸話でもう一つ大切な点、それは村井氏が指摘するように「弟チャーリーの役割」である。つまり、「彼に付き添って町の中で暮らす人の援助」をどう組み立てていくか、という点である。先に移り住んだアパートで「実現適応が良い」結果になるためには、それ相応の移行期の支援、移行後の支援、というものが求められる。

障害を持つ人でなくとも、「少しずつ自分の流儀(儀式)を曲げて」他の別の「規則を受けいれてゆこうとする」ことは、並大抵なことではない。当然、入所施設からの地域移行においても、この部分での濃厚な支援が真に求められている。宮城ではこの部分への支援に対する利用者家族の不信感が募っていたようだが、幸いにも長野では、各圏域全てに地域移行の連携窓口となる障害者自立センターがあり、グループホームへの独自の助成制度などもある。また、西駒郷の支援チームが移行時や移行後に、ご本人の移行期を支える支援にも入っている。

まさにこのご本人の移行期、「社会の規則を受けいれてゆこうとする」その局面の障害当事者の「しんどさ」や「生活のしづらさ」に着目し、それをどう支えていけるのか、このあたりに支援のプロと言われる人々の、プロの本質というものが問われているような気がする。支援のプロではない「弟チャーリー」でさえ、「弟」とじっくり関わる中で、見事に移行時の支援が出来ていたのだ。まかり間違っても、支援者自身がこの問題から逃げて、ご本人も大変だから施設の方がいい、なんて安逸な結論にはまりこんではならない、そう感じている。

誰の何を調べるのか

 

「私は『自閉症の特異な記憶力』などと呼ばれて学者の間で珍重されてきた現象も、もっと私たちがふだんしている現象の中で理解すべきものではないのかとずっと感じてきた。そしてあるときにふと、『自閉症の特異な記憶力』というのも、『特異な記憶力』なのではなく、彼ら特有の『記憶術』によて覚え込まれているものなのではないかということに気がついた。そう考えることで、彼らと自分の距離はうんと縮まったし、さらには自分たちの『記憶術』について考え直す視点を与えてくれることになった。
(中略)
 しかしながら、大学の研究者は、自分たちのもっている知能検査法の尺度で『おくれ』をもつ人の行動を測るばかりで、一人一人違うその人の記憶術の所在を調べようとはしてくれなかったように私は思う。だから研究者の記述には決まって、彼らの『記憶術』のからんだ行動を、判で押したような『常同行為』とか『執着行動』として見てしまうところがあった。実際には『自閉症児』と呼ばれてきた人達の『記憶術』は、一人一人みんな違っていて、その実態はその人と付き合う中でしかみえてこないはずのものだったのである。」(村瀬学「自閉症-これまでの見解に異議あり!」ちくま新書p80-81

お隣の長野県で明日から明後日にかけて、知的障害者で、大規模入所施設を出て、地域で暮らしておられる方々へのインタビュー調査に出かける。このとりくみは「地域移行検証プロジェクト」として、HPでも紹介されているので、ご参照頂きたい。長野が全国に先駆けて行っている地域移行の取り組みを、実際に出た人へのインタビューからフォローしていこう、という取り組みである。で、もともと精神障害者の問題をやっていた僕なので、勉強の意味もかねて、インタビューをしながら色々知的障害関連の文献を読み始めているのだが、その中で思わず「そうよねぇ」と膝を打った言葉。

村瀬さんは、「自閉症」とラベリングされる人々の行為を、「異常な行為」とラベリングすることに深い憂慮と嫌悪感を示している。むしろ、私たちが幼稚園から小学校段階で獲得していく、様々な認知上のスキームや、あるいはマッピング機能について、それを不得意な「自閉症」とラベリングされる人々が、自分が持つリソースを使いながら最大限の「防御反応」をするときに、こういう形で表象せざるを得ない、ということを分析している。その表象を、いわゆる専門家は「症状」と捉え、特異な例として研究対象に挙げてきたのだが、このラベリング機能そのものが、業界用語以上の意味があったのか、と筆者がずばりと攻め寄っているところが、すごく面白い。

専門家の外形的判断を退け、ご本人の立場なら「どう見えるか」を問いかけ、「なぜその手法を取ったのか」を論証していく、こういう作業が必要になってくるのではないかと思う。だが現状では、「自分たちのもっている知能検査法の尺度」以外のものをオルタナティブとして示せていない。そういう研究者への厳しい警告の言葉でもある。己の明日以後の調査にも、当然批判の刃は向いてくる。気をつけなくっちゃ。

あっという間に・・・

 

7月も気がつけば怒濤のごとく過ぎていった。

6月末も〆切に追われていたが、今月も輪をかけるように〆切があったような気がする。
詳しくは覚えてないが、講演のレジュメやら、査読論文やら、法律の翻訳やら・・・慣れない仕事が多いが、とにかく出来ればやってしまいたい、エイヤッ、と力づくでいろんなことに体当たりしてきた。

思えば事の発端は、数ヶ月前のこと。恩師の先生に、「ちゃんと調査で調べたものにはキッチリと片を付けてから、次に進みなさい」と言われたことに端を発する。それまで、海外に何度も調査に行くが、その割にアウトプットが少なかった。きっちり調べきり、一つの作品に仕上げるまでに、次のことに興味が出てしまい、なので現地で仕入れたネタを、腐らせる、とは言わないまでも、ちゃんと昇華(消化)しきる以前に、放ったらかしていた部分も少なからずある。「10取材して1を原稿に出来たら良い方だ」とは、ジャーナリストの指導教官の発言だが、僕の場合は、「1を原稿にする」ということすら出来ていない取材もあった。なんと、もったいない、というか、罰当たりな。なので、今回は粘りに粘って、その「1を原稿にする」というのを、何とか産み出そう、という産みの苦しみの7月だったのだ。

おかげさんで、結果として、カリフォルニア州の精神保健福祉政策と財源問題をある査読に出し、同じくカリフォルニア州の隔離拘束の最小化に関する法律の翻訳をある雑誌向けに載せてもらう手はずが、とりあえず整った。しんどいが、今月「二つの借金」を一応返済した気分で、今すこしすっきりしている。前者も面白いが、後者の法律の翻訳も結構面白かった。どんな内容か、というと・・・翻訳の前につけた、説明文をはっつけてみよう。

「この法律は、州立精神病院や障害者入所施設などにおける違法な隔離拘束による人権侵害事例を調査してきた公的権利保護・擁護機関(PAI)に所属する弁護士が、人権侵害の再発を防止するために作成に関与した、という点が大きな特徴である。そのため中身も、最も危険な拘束技術の禁止や、隔離拘束後の評価・報告聴取の実施、一つ一つの隔離拘束事例の記録化とその報告義務、集められたデータの情報公開、そして隔離拘束に関する技術指導やトレーニングプログラム開発など、隔離拘束を減らすための具体的な取り組みが定められている。今後の我が国における精神科病院や障害者入所施設での隔離拘束の最小化の取り組みに際して、この法律から私たちが学ぶことが出来る点は多い。」

どうです? 面白そうでしょう? え、マニアックだって? いやいや、真理は細部に宿る、ですよ。今回、この法律を作った弁護士に実際にインタビューしていたので、一文一文の法律を、大変よく噛みしめながら、訳すことが出来て、すごく面白かった。彼女はこういうことを意図しながら、こういう目的で、このセンテンスを書いたんだろうな。そんな推測を交えると、無味乾燥に見える条文も実に彩りをましてくる。というか、この条文自体が、ナース兼弁護士のPAIの弁護士の想いが一杯詰まっており、読み込めば、すごく魅力的な内容である。ご興味のある方は、是非とも9月発売の「季刊福祉労働112号」(現代書館)をお楽しみに。ついでに、110号と111号の二号連続で、そのカリフォルニア州の精神保健福祉政策や訳した法律の概要をご紹介しているので、そちらもよかったら読んでみてくださいませ。

でも、実はまだ7月末〆切(だけれど少しはのばせそうなもの)が二本、残っている。とある教科書に載せる「精神科ソーシャルワーカーの意義」についての原稿と、紀要に載せる予定の「精神障害者の権利剥奪の現状について」。7月に書いたものといい、予定の二本といい、久しぶりに「精神」モードの原稿をあれこれ書いている自分がいる。

夏休みは、このままではまとまった休日が取れなさそうだ。でも、原稿を書きながら、最近、少しずつノって、楽しんでいる自分がいることを発見している。何年か越しに考えていたテーマも、形を変えて、また原稿にしよう、という意欲もわいてきている。これまで現場で見聞きしたことも、調査で色々感じたことも、その多くをため込んで、アウトプット仕切れていない自分がいた。全てをアウトプットすることは不可能だけれど、出来る限り色んな方面から、様々な媒体を使って、とにかく書ける限り書き進めてみよう、そんなことを感じている7月末であった。

「越権行為」にならないために

 

「被害者との同一化によって『告発者』の地位を得ようとする戦略そのものは別に特異なものではない。『周知の被迫害者』とわが身を同一化することによって、倫理的な優位性を略取しようとする構えはすべての『左翼的思考』に固有のものである。『告発者』たちは、わが身と同定すべき『窮民』として、あるときは『プロレタリア』を、あるときは『サバルタン』を、あるときは『難民』を、あるときは『障害者』を、あるときは『性的マイノリティ』を・・・と無限に『被差別者』のシニフィアンを取り替えることができる。『被差別者』たちの傷の深さと尊厳の喪失こそが、彼らと同一化するおのれ自身の正義と倫理性を担保してくれるからである。」(内田樹『私家版・ユダヤ文化論』文春新書 p70

またも内田師の引用から始まってしまった。とにかく今の「マイブーム」なので、早速出た新刊を味読しながら、今日も思わず「ホホー」と唸る部分にドッグイヤーをつけていたら、あちこち耳だらけ、になってしまった。今日はその中でも一番「ホホー」度が高かったこの部分を引いてみる。

そう、障害者問題に関わっていて、自分を一番厳しく戒めなければならないのが、「彼らと同一化する」ことによって「おのれ自身の正義と倫理性を担保」しようとしていないか、という点である。これは二回前のブログで書いたことの繰り返しになるが(「代訴人」と「本人」)、代弁者は、その代弁する対象者の「傷の深さと尊厳の喪失」が深刻であればあるほど、自らの「代弁者」(=「代訴人」)としての地位を確固たるものとする。「こんなに可哀想な人達がいる」と声高に叫ぶことによって、その「可哀想な人達」のことに気づかずにいる無知蒙昧な市民と違って、ちゃんと彼ら彼女らの声を先進的に受け止めている知者としての「代弁者」たる己の地位を、自分の努力でなく、代弁するはずの当の「被差別者」を「利用して」、確立しようとしているのである。そして、この枠組みにひとたびのっかると、「代訴人」という特権的な地位や、その地位に基づき「○○は悪い」という他責的な非難のロジックで糾弾できることの快感に身を委ね、気がつけばその地位にしがみつきたくなる、という人が出てくるのも、理解できなくはない(事の理非は別として)。代弁者は、代弁する人本人に直接「語らせない」限り、一番弱いモノの味方である、という一番強いカードを手にすることになるのである。そこから、本人に直接「語らせる」ことを封印する「代弁者」が出てきてもおかしくない。

だが代弁者が不要だ、といっている訳ではない。そうではなくて、代弁者が、どこまでが「代弁」役割であって、どこからは「本人」の越権行為か、をきちんと理解しているか、が大切になってくる。僕も、恥ずかしながら山梨でいろいろな講演をさせていただく。その時、当事者の代弁者、という形で語るモードに入っていないか、をいつもチェックする必要がある。権利擁護の問題を考える時に大切なのは、権利剥奪状態の当事者の「代わり」に周りのモノがヤイヤイ言うとではない。そうではなくて、本人が言えないとしたら、なぜ言えないのか、なぜ「代わり」のものがヤイヤイ言わなければならないのか、本人が「権利剥奪状態」を「主張」出来るためには、どのようなシステムや支援が必要なのか・・・これらのことを分析した上で、提示していくことであるはずだ。つまりは、本人が言える仕組みになっていないのなら、その機能不全を指摘した上で、どういうことが「本人が言える」ためには必要なのか、を提示すること。これが、本来の「アドボケイト」(=権利擁護者)の役割だと思う。

代弁者は、善なる意志を持って始めたとしても、気がつけば、己が意志を、本人の状況に仮託して語る可能性が高い。常にその部分にこそ「おのれ自身の正義と倫理性」を振り向け、おのれの逸脱にこそ、厳しい目を向け続ける、そういう己自身への「告発」の眼差しをこそ、しんどいけど持ち続ける必要があるのではないか、そんな風に感じている。