隣人としての<ヤンチャな子ら>

『<ヤンチャな子ら>のエスのグラフィー』(知念渉著、青弓社)を読み終えた。博論の単行本化で、理論的な押さえもしっかりしていて、エスノグラフィーとしても面白いし、対象も興味くて、何より読みやすい。ゆえに、刊行前から話題で、僕が手に取ったのは初版から1ヶ月後の二刷りである。学術書としては、極めて売れ行きのよい、注目の一冊である。(ちなみに僕の本は5,6年かけてやっと二刷りになった・・・)

でも、そういう下馬評ではなく、読んでみて感じた実感は、「そうそう、この世界、わかる、わかる」という感覚である。30年前の、自分の中学校時代に出会っていた<ヤンチャな子ら>の世界観と地続きの世界が、見事に生き生きと表現されている。そう、僕にとっての隣人としての彼ら彼女らが、この本の中にいたのである。その上で、僕が知らなかった隣人の生活史や内在的論理を描いているのが、僕がこの本の世界に引き込まれた最大の理由である。

以前、『ヒルビリーエレジー』と『CHAVS』を読んだ感想として「階級格差の自覚化」というブログを書いた。この中で詳しく述べたが、僕自身も、京都のダウンタウンで生まれ育ち、中学校には<ヤンチャな子ら>が隣人だった。僕はたまたま猛烈学習塾に通って夜中まで勉強していたので、学校では昼寝ばかりしていた。そういう部分が<ヤンチャな子ら>と同じだったのと、学校の勉強は一応出来たので、そういう<ヤンチャな子ら>に勉強を教えてもいて、彼ら彼女らとクラスでは友好な関係を結んでいた。だからこそ、この本を読みながら、何人ものクラスメイトの顔が浮かんだのだ。

その上で、既存のヤンキー研究とこの本の決定的な違いは、「フィールド調査から見いだされたヤンキー集団の内部の階層性や複数制、そしてそこに社会空間の力学が作用している」(p221)という点をあぶり出している部分だ。<ヤンチャな子ら>は一枚岩ではなく、彼ら彼女らの中にも、「家族関係を土台にした、友人も含めた地元に包摂されているか否か」(p207)で、「社会的亀裂」がそもそも内部に存在しており、それが学校中退/卒業後の移行期により明確になる(p208)という。そう言われてみれば、中学校時代の<ヤンチャな子ら>の中でも、親のお商売を引き継ぐなどの形で「見通しが持てる経路」(p203)をたどった人もいれば、そういう「相続資本」がなくて、場当たり的な「即興的な関係性」しか築けず、「見通しをもつのが難しい仕事」についていった、と人づてに聞いたこもある。そして、そういう「社会空間の力学が作用している」と言われたらら、確かに思い当たる節が一杯あるのだ。

だからこそ、筆者がたどることが出来た一四人の<ヤンチャな子ら>の高校中退/卒業後の「移行パターン」の一覧表(p176-177)を見ていると、僕の中学の同級生がたどったであろう「移行パターン」を見せられているようで、圧巻であった。ペンキ屋やホスト、車屋など転々と職業を変える人がいる一方で、若くしてパートナーの妊娠が発覚して手堅い仕事につく人もいれば、住み込みで働くも挫折してその後歯車が狂う人もいる。これらの一覧表を見ながら、僕の「隣人」たちもたどったかもしれない生活史が浮かび上がってくるような、そんな不思議な読書体験をしたのだ。

その上で、結語に印象的なメッセージが書かれていた。

「インターネット上には、彼ら彼女らを『DQN』と呼んで、嘲笑・攻撃・侮蔑する語りがあふれている。しかし、それほど社会が饒舌に語るヤンキーについてだからこそ、彼ら彼女らのリアリティをきんと描き出すことができれば、それは『その立場にいたら自分もそういう行動をしたかもしれない、そういう選択をしたかもしれない』という、人々の他者への想像力もかき立てることもできるはずだ。」(p239)

僕がまさしくこの本を感じたのは、よくわからなかった・何気なくクラスでやりとしていた隣人という「他者への想像力もかき立てる」ということ、そのものだった。そして、それは理解社会学とは何か、ということについての、岸さんの語りも想起させる。

「他者の合理性を再記述する、つまり、行為の合理性を理解するとどうなるか。その帰結はいろいろあると思いますが、そのひとつは、行為責任の解除です。「そういう状況なら、そういうことするのも仕方ないな」というのが理解でしょう。」(「インタビュー 社会学の目的 岸政彦」

いみじくも、二人はほとんど同じ事を言っている。知念さんの文脈に引き戻すなら、<ヤンチャな子ら>という「他者の合理性を再記述する」ことで、「そういう状況なら、そういうことするのも仕方ないな」という<ヤンチャな子ら>の内在的論理を「理解」することができる。そういう意味で、この本はまさに理解社会学的な内容としての王道を行く一冊でもあるのだ。そして、僕はこの本を通じて、中学時代の隣人のうちの何人かの、虐待や貧困といった「しんどい家庭環境」や、学校から仕事への移行期での混乱や苦悩を、リアリティを持って想像することができた。そして、福祉領域に関わる一人として、そういう<ヤンチャな子ら>の内在的論理を「理解」することなく、「支援が必要な存在」「家族機能は不全な存在」などと外形的に決めつけることがもっとも危険である、と改めて確認し直した一冊でもあった。

職業的研究者として勉強になっただけでなく、自分自身の隣人を見つめ直すきっかけにもなった一冊だった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。