精神医療の「「治す」とは異なる」専門性

フィールドワークの本で、書き手も対象となるフィールドも、インタビューした相手も全員知っている現場の本って、たぶんこの本だけだろう。それが、近田真美子さんから頂いた『精神医療の専門性—「治す」とは異なるいくつかの試み』(医学書院)である。ぼくの知っている人、知っている世界のはず、なのに、知らないことや、見えていなかったことが書かれていると、めちゃくちゃ興奮する。

この本は彼女が提出した博士論文を書き直したものである。実はその博論も読ませて頂いていたのだが、その時からかなり書き直され、読みやすくなっていたのにまず、びっくりした。しかも、このタイトルは、博士論文の公聴会で、副査を務めた斎藤環さんからの問いに基づく。

「結局、あなたが言いたかった精神医療・看護の専門性とは何か」

彼女は最終章を「精神医療の専門性をつくり変える」としている。その中で、従来語られていた専門性に対する批判と、重度の精神障害のある人を地域で支えるACT-Kというチームで見つけた「つくり変える」内容を以下のようにまとめている。

「医学モデルに依拠した実践を中心に展開するということは、支援の場を精神科病院という医の論理が具現化された空間へ移すことを容易にした。苦楽を共にする機会を失い、ひいては、利用者の主体化を損ねることにつながる恐れがあるのだ。」(p140)

「そもそも、医療専門職は、国家資格を取得するための教育課程において生物医学モデルをベースとした自然科学的なものの見方や技法をすでに身につけている。そのため、彼らは、特に異常がなく健康体であったとしても、問題や異常を積極的に見いだし、“病い”として価値づけることのできるポテンシャルを持つ。ここには。患者は何かしらの違和を感じ医療機関を訪れるのだから、何らかの問題を抱えているはずだという先入観や、医療専門職として期待された役割を全うしなくてはいけないという使命感があるのかもしれない。医療専門職らが身につけていく生物医学モデルという眼差しは、病状を見定め判断し治療にあたるという医療の正当化を支える基盤になっているが、ときには、認知の歪みをもたらす恐れを有しているのだ。」(p141-142)

「医療専門職として期待された役割を全うしなくてはいけないという使命感」を持つ医学モデルの何が問題なのか。それは、「特に異常がなく健康体であったとしても、問題や異常を積極的に見いだし、“病い”として価値づけることのできるポテンシャル」=「認知の歪みをもたらす恐れ」を持っている点にある。「患者」と名付けられた人が、人間関係や人生が上手くいかず苦しんでいる時に、その「しんどさ」「生きづらさ」をい「“病い”として価値づける」ことによって、全てを病気のせいにしてしまう危うさがあるのだ。それは、あなたや私のように生きる苦悩を抱えた隣人として精神障害のある人を捉えることが出来なくなり、「苦楽を共にする機会を失い、ひいては、利用者の主体化を損ねる」結果につながるのである。

これが、旧来の精神医療の専門性=「医学モデルに依拠した実践」が孕む問題性である。(その点に関して、かつて僕は、イタリアで精神病院を廃絶したフランコ・バザーリアの思想を取り上げ、「「病気」から「生きる苦悩」へのパラダイムシフト」を書いた問題認識も通底する)。では、これをどう「つくり変える」ことが出来るのか。ここから、ACT-Kの実践者達の素敵な語りと、それを現象学的質的研究で分析していった近田さんの論考のすごみが出てくる。

精神科ソーシャルワーカーの金井さんへの聞き取りで、こんな語りが出てくる。

「もう毎日、電話かかってきて、やっかいな人なんですよ。で、近所からしてもこの人、大声だすんです、夜中に。うん、あの、やっかいな人なんです。で、支援者はその声を受けるから、うん。病状が悪化してる、になるんですね。」
「どうしても医療っていうのは、っどうしてもその、周りの心配ごと。あと自分の心配ごとの解決のために動いちゃうっていうところ」(p120)

この金井さんの語りを受けて、近田さんは以下のように分析していく。

「周囲の人から発せられた『やっかいな人』という表現は、医療者がキャッチした途端、『病状が悪化してる』という表現へと変換され、精神科病院への入院または薬の増量、訪問回数の増加といった医療を呼び寄せることへつながっていく。医療専門職としての社会的責務が医療という眼差しを強化するのだ。そして、『自分の心配ごとのために動いちゃう』といった不要な動きは、たとえ不要であっても医療であるがゆえに『正当化されやす(く)』『絶対にこけないような強制力がある』という。」(p121)

電話をしょっちゅうかける、夜中に大声を出す。それをされた周囲の人からすると、迷惑をかけられることであるし、それが度重なるなら「やっかいな人」と名指される可能性が高い。だが、それは別に精神症状とイコールではない、「社会的逸脱行為」や「迷惑行為」である。だが「問題や異常を積極的に見いだし、“病い”として価値づけること」が得意な「医療者がキャッチした途端、『病状が悪化してる』という表現へと変換され、精神科病院への入院または薬の増量、訪問回数の増加といった医療を呼び寄せることへつながっていく」。これは、「異常者が生み出す社会の不安や混乱を鎮めるために社会を護らなければならない」という「社会防衛思想」そのものである。しかも、その社会防衛思想を抱く医療者は、「やっかいな人」にうまく対応できないという『自分の心配ごとのために動いちゃう』のだが、この「不要な動き」も「医療であるがゆえに『正当化』」されていくのだ。

これこそ「病状を見定め判断し治療にあたるという医療の正当化を支える基盤になっているが、ときには、認知の歪みをもたらす恐れを有している」こと、そのものである。

では、それ以外の可能性はどうやったら模索できるのか。

対象者の暴力行為にどう向き合ってきたのか、を語る看護師の福山さんの語りをみてみたい。

「ほんでもうすごい『うわー』と言って、『ばかやろー』みたいな形で、全然反省の面は出てこなくって、いつもそうやって逃避しちゃう人で、向き合えないのね。でもちょっとずつそうやってクライシスの対応しているなかで、『一緒に謝るから』とか言って、『ちゃんと悪かったっていうのを思ってるでしょ?』って言ったら、ツーって泣いたりとかする人でね。そうそう。だから自分だってやりたくないのはわかるけど、どうしてもやっちゃう。なんかあるんだよね、みたいに言ったら、ちょっと体感幻覚みたいなのがあるみたいだし、どうも幻聴もやっぱりひどいみたいだしっていう、彼女の病気のところが浮かび上がってくるんだけれども、それに対してやっぱりお母さんに攻撃に出ちゃうっていうのはちょっと違うよねって。あとになってみたらそういうやって話はできるんだけれども、やっぱりそのときの感情のコントロールってなかなかできなくて。」(p103)

ACT-Kのチームも、近田さんも、精神病は存在しないので医学のカテゴリーから外すべきだ、という「反精神医学」の視点とは異なる。幻覚や幻聴の存在は肯定するし、時として薬が必要なことも認めている。ただ、肉親を攻撃する、ATMをぶっ壊す、無銭飲食をする、などの暴力や暴言に関して、それを全て病気のせいにして、「縛る・閉じ込める・薬漬け」にすることで「治療した」とはしないのである。だからこそ、暴力や暴言の行為を「クライシス」と捉え、「クライシスの対応しているなかで、『一緒に謝るから』とか言って、『ちゃんと悪かったっていうのを思ってるでしょ?』って言ったら、ツーって泣いたりとかする人でね」と、本人の素の部分を見つけていく。

この福山さんの語りをうけて、近田さんは以下のように受け止める。

「このように、利用者の気持ちを理解することができるという共感的な了解の仕方は、利用者の立場に立ち、主体化を目指す彼らの苦労に伴走することを可能にする。別の言い方をすれば、暴力といった精神症状を、主体化を図る過程で遭遇する苦悩の表出と捉えて共感するからこそ、彼らに責任を返しながら伴走するという『意味』のある支援を展開することが可能になるのだ。」(p104)

暴力行為というのは究極的な反社会的行為である。それを「共感的な了解」をするのは、果たして倫理的に許されるか、という「道徳的批判」も招きかねない。ただ、福山さんや近田さんは、「暴力といった精神症状を、主体化を図る過程で遭遇する苦悩の表出と捉えて共感する」ことを大切にする。生きる苦悩が最大化した時に、それを「苦しみ」として社会的に許される表現様式として表現出来ないから、暴力という反社会的な形で「苦しいこと」を表現しているのである。

そして、『一緒に謝るから』というのは、一人では謝れない状況にあるご本人の「苦しいこと」を共感的に了解し、共に謝ることによって、「主体化を目指す彼らの苦労に伴走すること」である。それを通じて、心神喪失、とか責任無能力、とラベルが貼られがちな精神障害のあるご本人に「責任を返しながら伴走するという『意味』のある支援を展開すること」が可能になるのである。これはまさに「苦楽を共にする」ことであり、「利用者の主体化」を支援することでもある。

これは看護やソーシャルワーカーだけではない。ACT-Kの主催者である医師、高木俊介さんの語りにも共通することが出てくる。

「患者の家から出て帰ろうと思ったら、地域の人がぞろぞろそろって出て来て、車囲む。僕の車。『なんとかせい』っちゅって。『すいません』って。いや、あの、いうちクリニックで。いや、そうですよね、大変なんですけど。あの、『この頃は人権とかいうこともうるさくなって、私も困っとるんですよ』って。そうか、大変やなって言って。いや、保健所にも、どうしたらええか相談に行っとるんですけどねって言って。何せ、人権、人権と言われても、医療も困るんですよねって言って。」(p73)

往診に出かけた高木さんが、帰ろうとしたら「地域の人がぞろぞろそろって出て来て、車囲む。僕の車」。これはかなり抜き差しならない事態である。しかもその時に言われたのが、『なんとかせい』。この意味は、本人に注射を打って暴言や迷惑行為を止めろ、とか、それが無理なら強制的にでも精神病院に入院させろ、という意味での「なんとかせい」である。ただ、高木さんは脱精神病院運動の闘士でもあり、強制入院の暴力性を誰よりも熟知している人である。とはいえ、住民とガチで対立したら、余計問題がややこしくなる。その際、彼がとっさに出てきたのが、『この頃は人権とかいうこともうるさくなって、私も困っとるんですよ』という発言であった。近田さんは、この部分を以下のように分析している。

「近隣住民からの『なんとかせい』という一方向的な要請に対し、高木氏は、 『私も困っとるんですよ』と困りごととして吐露する。それに対して住民は『そうか、大変やな』と共感を示す言葉を返している。つまり、この『困りごと』というのは、困りごとを抱えた1人の他者の立場に立つことを可能にするフレームとして機能しているのだ。」(p73)

書き写していても思わず唸る、優れた分析である。「なんとかせい」というのは、社会防衛的な視点に立ち、医師に警察官役割を求める世間の視点でもある。その役割を日本の精神科医は求められ続けてきた結果、世間の視点を内面化し、「一般医療は医療するだけじゃないですか。保安までも全部やっているわけでしょう、精神科医療って」といった発言を、当の精神科病院協会会長が公言するほどだ。それだけ、狂った人は病院に隔離収容せよという発想が私達の頭の中に刷り込まれている。

それに対して、高木さんはガチでぶつからず、「『私も困っとるんですよ』と困りごととして吐露する」。すると、自分たちだけが困っていると思い込んでいた住民達もハッと気づく。困っているのは自分たちではない。「なんとか」してくれると思っているこの高木さんも、同じように困っているのだ、と。すると「住民は『そうか、大変やな』と共感を示す言葉を返している」のだ。すると、住民対医者、といった素朴な対立軸は消失する。なぜなら「この『困りごと』というのは、困りごとを抱えた1人の他者の立場に立つことを可能にするフレームとして機能している」からだ。さらに言えば、「困りごと」を抱えているのは、迷惑行為を受ける住民だけでも、そこにうまく関わりきれないACTチームだけでもない。もっとも困りごとを抱えて困っているのは、他ならぬ迷惑行為をするご本人である、という眼差しを、ジワジワと共有するきっかけにもなるのだ。そのようなフレームの転換が、あの短いやりとりの中に詰まっているとは、何度もインタビュー原稿を読み直して分析する現象学的質的研究だからこそ浮かび上がる真骨頂でもある。

そのような「困りごと」を抱えた当事者に向き合う精神医療の専門性とは何か。それは、看護師の大迫さんの語りに象徴化されているように思う。

大迫さんは、40代で未治療の統合失調症患者となかなか出会えなかった時、「自然が大好きな人」と聞いて、本人部屋の見えるところにシイタケの原木を置いておいて、それが生えてきて、一緒にシイタケを食べたところから関係性が出来た、という。また、別の会えない利用者がたこ焼き好きだと聞いて、「玄関先でたこ焼きを焼き、香ばしい臭いで誘い出した」(p81)こともある。さらには、利用者が入院した際、保護室に幽霊が入ってくると聞いて、本人が安倍晴明のマンガを持っていたので、晴明神社に出かけて500円の御札を買ってきて渡すと、幽霊が消えたと本人に言われ、「薬よりも御札やったんや」(p52)と気づいたエピソードも披露する。

シイタケやたこ焼き、御札まで出てくると、原因と結果を因果論で結ぶ生物医学モデルの対極である、だけでなく、それが専門性なの?と問いを挟みたくなる展開である。ただ、近田さんはここにどのような「専門性」があるのか、を以下のように分析していく。

「大迫氏は、『心配』と対比関係にある『安心』という『人としてのあたりまえ』の感覚を第一優先とし、利用者の興味・関心に焦点をあてながら『実験』や『工夫』を凝らした実践を展開していた。この『人としてのあたりまえ』の感覚が大迫氏の実践の基盤隣、医療制度の規範や枠組みを変容させるような実践へと繋がっていった。そして、変容するなかで、あらかじめ目標を設定するという思考は消失し、代わりに『待つ』行為が重要な価値を持つようになった。
こうした実践を経て『孤独』だった利用者は大迫氏と『一緒』に苦楽を享受することで、現実世界に生きる大迫氏の信頼を得て、希望や意思といった『人としてのあたりまえ』の『ニーズ』を表出できるように回復を遂げていった。」(p61)

たこ焼きやシイタケ、御札は、精神医学の常識で言えば「非常識」である。だが、孤独で他者とつながれていない人と、どうやったら出会えるのか、興味を持ってもらえるのか、信頼関係を構築するか、という「『人としてのあたりまえ』の感覚」に立ち戻ったときに、「利用者の興味・関心に焦点をあてながら『実験』や『工夫』を凝らした実践を展開」するのは、じつは最も真っ当なやり方である。部屋にシイタケの原木を置く、玄関先でたこ焼きをする、保護室に御札を持って行く、というのは、突飛な離れ業ではなく、本人と接点を持つためのロジカルな「『実験』や『工夫』」なのである。

病状の世界に閉じこもって、現実世界との接点を見失って、「苦しいこと」の中から出られなくなっている利用者に対して、大迫さんが用いた専門性は、「希望や意思といった『人としてのあたりまえ』の『ニーズ』を表出」できるように、興味関心の接点をつくった、ということだったのだ。これも、近田さんの分析を読むと、心から納得して理解することができた。

そして、待ちながら本人のニーズを探る支援として、看護師の安里さんの語りも最後に紹介しておこう。夜中にタクシーを無賃乗車した利用者に、スタッフが支援に行った後、タクシー代や本人を家に送り届けるのにかかった費用を利用者に支払ってほしい、と安里さんが利用者に伝えたところ、以下のような展開になったという。

「そしたら『何言ってんだ、クソボケ』みたいな。『誰が金払うか、おまえ』みたいな感じで。もう完璧に甘えてるんじゃねえって。でも、自分に向けてる言葉をこっちに発しているとかいうのが見えてきて。で、普通やったらこう、そこでうちらも、ムカッときたりとかしてたけど、全然ムカつかなくて、きっとこの人は、一生懸命その後考える。考えて、きっといつか払ってくれるっていうのがあったので、うん。そしたら案の定、数日後ちゃんと返してくれるっていう。多分そういうふうに、本人が素になって考える瞬間をきっとこの人は持つだろうっていうふうに思えて。」(p30)

安里さんも、大迫さんと同じように、生物医学モデルではありえない、一見すると非論理的に見えることを言っている。無賃乗車について責任を取るように伝えた安里さんに対して、『何言ってんだ、クソボケ』『誰が金払うか、おまえ』と言い返す利用者。これは、法律用語で言えば事理弁識能力や責任能力がない、と言ってしまいたくなる。でもそのようなラベルを貼ることにより、「問題や異常を積極的に見いだし、“病い”として価値づけることのできるポテンシャル」を遂行してしまうのである。それを、安里さんも良しとはしない。というか、普通なら、そういうことを言われたら「ムカつく」のである。でも、安里さんは「全然ムカつかな」い。なぜならばそこに、精神医療の別の専門性があったからだ。それが「自分に向けてる言葉をこっちに発しているとかいうのが見えてきて」という推論である。

そこを近田さんは、以下のように分析している。

「精神医療従事者のなかには、こうした利用者の暴言を精神症状の悪化と意味づけ、薬物療法をはじめとする別の対処方法を選択する人もいると思われる。しかし、このときの安里氏は、利用者の暴言を心理的葛藤の形態の1つとして捉えることが可能になっている。こうした見え方の変化は、さらに『素になって考える瞬間をきっとこの人は持つだろうっていうふうに思えて』や『きっといつか払ってくれる』とあるように、内省による行為の変化を信じることを可能にする。」(p31)

暴力や暴言といった「反社会的行為」を、病気と見なし、「縛る・閉じ込める・薬漬けにする」という「対処方法」がとられることが、旧来の精神医療ではすごく多い。でも、それでは問題は何も解決せず、問題がさらに悪化したり、本人の状態が悪くなったり、社会的な入院が増えたりするばかりだ。それは、適切なアプローチではない。

ACT-Kのチームの皆さんは、その前提に立った上で、「ではどうすれば別のアプローチが出来るか」を必死に模索する。そして、安里さんは、精神医療の別の専門性として、「利用者の暴言を心理的葛藤の形態の1つとして捉えること」が出来た。その専門性があるからこそ、「『素になって考える瞬間をきっとこの人は持つだろうっていうふうに思えて』や『きっといつか払ってくれる』とあるように、内省による行為の変化を信じることを可能にする」のである。これが、地域の中で「問題行動」「困難事例」「反社会的行為」とラベルを貼られる言動をする人を支える「専門性」のダイナミズムにあると、近田さんの本を読んで改めて理解することが出来た。

最後に、この素敵な著作をまとめた近田さんのことを触れておきたい。

この本を読んで初めて知ったのだが、彼女はあの「浦河べてるの家」で有名な浦河町出身で、浦河赤十字病院の精神科病棟が看護のスタートだったという。その時、当時の病棟医だった川村敏明さんの影響力もあって、「『病棟の規則をつくることは簡単だが、一度、つくってしまうとなくすのが難しくなる』という信念のもと、医療専門職として“すべきこと”と“してはいけないこと”を見極めるための話し合いを常に欠かさなかった」(p4)という。

「その後、医療専門職との技量を高めるべく浦河赤十字病院を離れた私は、患者の精神症状を薬物療法や行動制限で過剰にコントロールしようとする医療専門職の姿を目にすることで、日本の精神科医療が抱える問題を知ることになる。」(p5)

つまり、彼女は普通の精神科医療の専門職とは、全く違う出会い方をした。最初に「専門職としての“幸せ”な経験が、精神科看護師としての私の原点」(p5)にあったのだ。その後に、浦河赤十字病院病院精神科の実践が「当たり前」ではないこと、いかに日本の精神科医療の他の現場が抑圧的なのか、を「専門性を高める」プロセスの中で知ってしまったのである。すると、浦河赤十字病院と他の閉鎖病棟の違いを見る中で、「精神医療の専門性」とは一体何か、という根本的な疑問を抱く。そして、イタリアの精神医療に出会い、ACT-Kと出会う中で、そこで働く専門職へのインタビューを重ねる中で、「医療専門職として“すべきこと”と“してはいけないこと”を見極める」プロセスを積み重ねていった。その上で、彼女なりに「精神医療の専門性」とは一体何か、の「問い」に答えを本作では示してくれた。それが、「「治す」とは異なるいくつかの試み」という副題に現れていると思う。

いやぁ、めっちゃ読んでいてオモロイ一冊だし、是非ともオススメです。

*ちなみに、ACT−Kでは看護師を募集中と高木さんから聞いた。この実践に興味がある人は、是非とも近田さんの本を読んだ上で、アクセスしてみてほしい。こういう「「治す」とは異なるいくつかの試み」が出来る医療者が増えてほしいと切実に願っている。