類い希なる通訳者

村上靖彦さんの本から、常に刺激を受け続けている。彼は元々現象学者なのだが、大阪に引っ越してきた後、看護や福祉、ケア領域での現象学的質的研究を続けている。中でも『子どもたちがつくる町 大阪・西成の子育て支援』(世界思想社)はめちゃくちゃ面白くて、ブログにも書評を書いたことがある。

今回、その村上さんが、西成や様々な現場で観察してきた支援を哲学としてまとめたのが、『すき間の哲学』(ミネルヴァ書房)である。読み出したら面白くて一気読みしてしまったので、忘れないうちに読書メモを。

すき間とは、村上さんは「世界から存在しないことにされていること」と「法権利の保護の外側におかれてしまい、権利によって守られていないこと」と暫定的に定義する。その上で、次の二つを指摘する。

・法律や制度のすき間にこぼれ落ちて支援を受けることもなく社会から見えなくなっている人たちがいる。しかもこのすき間は突然ぽっかり開くこともある。
・排除を生み出す強い圧力が社会にはある。(p5)

これは障害や貧困の話だけではない。「保育園落ちた、日本死ね」というのは、共働きで子育てをしようとしたら「突然ぽっかり開いた」待機児童という法律や制度のすき間にこぼれ落ちてしまった人が、「私はここにいる!」と異議申し立てをした、「すき間の可視化」だった。そこから、待機児童が問題化し、政策化されてていった。この当時でも、小さいのに預けられる子どもがかわいそうだ、などの「排除を生み出す強い圧力」があったが、幸いにしてその抑圧より共感の回路のほうが圧倒的に強かったため、政策化されてていった。そういう「すき間」の問題に、村上さんも西成との出会いを通じてはまり込んでいく。

「個人が経験する逆境は、しばしば社会構造において生じる排除を背景に持つ。
縦軸の逆境は、横軸の排除と連動する。本人がまず直面するのは足元の困難であり、穴を生み出した横方向の社会構造的な排除は隠されている。社会的排除の横の拡がりと、垂直的な逆境とが交差する地点に人は立たされる。すき間は逆境でもある。」(p94)

待機児童問題も、子どもを産んだのに働き続ける・ベビーシッターを雇えないあなたがわるい、と個人の問題にされていた。そういう風に自己責任や問題の個人化がされると、足元の困難で必死な本人は反論しにくい。「日本死ね」という悲痛な叫びは、保育園に預けて働きつづけて税金も納めようとするのに、なんなんだよ!という社会構造的な排除に対する怒りの言葉から出てきた。「社会的排除の横の拡がりと、垂直的な逆境とが交差する地点に人は立たされ」た時に、これは私だけのせいなのか!と異議申し立てしたからこそ、可視化したものである。それほど、縦軸の自己責任や問題の個人化の圧力は強いし、そうやって縦穴の間口を拡げることにより、「穴を生み出した横方向の社会構造的な排除」はますます見えなくなっていく。

「すき間は、マジョリティ側の知によって把握可能なものではなく、未知の外国語を学ぶように未知のものと出会い、すき間に置かれた人が持つ未知の文化を学ぶことでマジョリティの知の体系を組み替え、両者がお互いの文化を吟味して誤解を重ねつつも、少しずつ接近することによってでしか可能ではない。そのような総合不可能なすき間へのアクセスを含んだすき間との接続を、メルロ=ポンティは『側面的普遍』と呼んでいる。」(p135)

僕が大学院生のころから、精神病院や地域でのサポート現場で学んで来たのは、まさに「未知の外国語を学ぶように未知のものと出会い、すき間に置かれた人が持つ未知の文化を学ぶこと」だった。教科書がないので、その言葉を話し、その文化を生きる人々の独特の生き方を少しずつ、学び続けてきた。その中で、健常者コミュニティの知の体系なるものの独善性に、少しずつ気づき始めた。

この際、最大の障壁になるのが、「マジョリティの知の体系を組み替え、両者がお互いの文化を吟味して誤解を重ねつつも、少しずつ接近すること」である。相手の言語や文化を理解するのは、表面的には単なる知識の拡張で済まされると思い込みやすい。でも、本当に相手の言語や文化に通じようとするならば、しばしば自らの知の体系の独善性を組み替えることが求められる。これは、自分の実存を脅かしかねないほどしんどい。例えば、イタリアで精神病院を廃絶に導いた医師、フランコ・バザーリアは、こんなことを言っている。

「あらゆる医学的知識の内容は病人を管理し抑圧するためにある、ということを認めなければなりません。病人は主体として治療を受けるのではなく、病人が生産の歯車のなかに戻れるように、治療は行われます。私たちが精神病の問題に向き合うためには、精神医学の知識、精神分析、薬物療法、電気ショック、インスリン療法、脳外科といった、医師たちが利用してきたすべての方法と手段を議論の対象にしなくてはなりません。」(フランコ・バザーリア『バザーリア講演録 自由こそ治療だ』岩波書店p133)

少なからぬ人が精神疾患になるのは、生産の歯車において、しんどく苦しい状態に追い詰められてきたからである。それなのに、「病人が生産の歯車のなかに戻れるように、治療は行われます」という論理をそのものとして放置して良いのか、とバザーリアは問いかける。これは精神医療という社会の「すき間」で、精神障害者の側に立ち続けた「通訳」としてのバザーリアだからこそ見えた風景である。自分たちは、精神病の問題に向き合う時、「マジョリティの知の体系を組み替え、両者がお互いの文化を吟味して誤解を重ねつつも、少しずつ接近する」努力が出来ているか、と。すき間の穴に落ち込んで、社会的な排除も受けている人を、自分たちの言語で自己責任だとか努力不足だとか、あるいは治療不能だとか、そうやって糾弾してはいないか。「未知の外国語を学ぶように未知のものと出会い、すき間に置かれた人が持つ未知の文化を学ぶ」アプローチがとれているか、と。

これは生物学的精神医学が主流になっている今の精神医療にも問われ続けていることだと思う。

「『通訳』を、すき間を探す人、すき間とマジョリティをつなぐことのメタファーと理解して考えてみる。通訳は、声として認識されていなかった声を理解可能なものとする。マジョリティは、マイノリティの困難について教えられたとしても、なぜそれが困難なのか、どのように苦痛なのか分からないことがある。困難や苦痛をマイノリティ本人に説明を求めるのは不当な不払い労働である。そのときマジョリティとマイノリティのあいだに立って通訳する存在は貴重だろう。すき間を発見し理解し反転する可能性として通訳可能性があるはずだ。反転可能性がない限り、すき間はすき間にとどまり続ける。そして『通訳』は語り得ない困難を暫定的な言葉に変換する役割を担う。当事者自身は語る言葉を持たないかもしれない。あるいは当事者に説明させることが暴力になる場合があるからだ。」(p255)

村上さんは、ご自身が出会ってきた魅力的な支援者達は、すき間を発見する人という意味において、ある種の「通訳者」だという。そしてその指摘に、僕も深く頷く。

大学で働いていて、現場支援をしていない僕は、「すき間」と直接で会えるチャンスが少ない。そんな僕でもヤングケアラーや若者支援、不登校やひきこもり、ゴミ屋敷や「複合・多問題な困難事例」など、様々な「すき間」の言語と文化を学び、自らの認識回路を少しずつアップデートしてきた。それは、ぼく一人では絶対に無理であった。僕の知らない言語や文化を知り、すき間を探し、そのすき間の声を僕にも分かるような言語で「通訳」してくれる様々な人々との出会いの中で、学んで来た。以前は圧倒的に「支援者」の属性の人が多かったのだが、最近では「当事者経験を持つ支援者」とか、「当事者経験を経て通訳的な語りをしている人」から、沢山のことを学ばせてもらっている。そういう方々との対話の中で、「すき間のか細いSOSの声」をキャッチする大切さも、少しずつ自分事として理解出来るようになりはじめた。

そして、この視点を持ってみると、実はマジョリティの中にいても、「通訳」的視点が必要な場面がそこかしこにあることが、逆に見えてくる。職場でも、提出物が出せない、教員の指導を聞かない学生のことを、以前は怠けている・サボっている・だらしないと思いこんでいた。でも、多くの「通訳」から学びを深めるうちに、実は目の前の学生たちも、様々な生きる苦悩を抱えていて「すき間」に落ち込んでいるのだ、と気づきはじめることができる。あるいは、授業で発言を求めると、「障害者の問題は自分には関係ない!」と述べるような学生さんは、別のどこかで追い詰められている可能性があるのではないか、という社会学的想像力が働き始める。「社会から見えなくなっている人たち」の「すき間は突然ぽっかり開くこともある」。すると、目の前にいる、一見マジョリティにおもえるこの学生さんも、じつはすき間にぽっかり陥っている可能性がないか?問題が不可視化されている可能性はないか、という問いが浮かぶ。そうやってすき間を探すことが出来る。

「迷惑をかけるな憲法」に従っている学生たちと接していると、マジョリティの規範を必死になって遵守してきた彼女ら彼ら達も、すき間とは縁遠くない、と思っている。気づいたらぱっくりと口を開けているすき間。そんな落とし穴にはまらないように、能力主義を内面化し、自己責任化した世の中で、必死になってリスクヘッジしている若者達。で、運悪くすき間にはまり込んでしまった人も、運が悪かったのだ、と思い込んで、社会的排除や抑圧の問題だと思いたくない。なぜなら、社会構造の問題なら、自分だってその落とし穴にはまり込む可能性があるから。努力して歯を食いしばって頑張っているのだから、自分だけはそんなはずはないと思い込みたい。だからこそ、すき間はなかったことにしたい。

そういう学生たちにとって、僕の授業はそういう「すき間」の事象を取り上げ続けるため、僕が「通訳」としてすき間の声を取り上げ続けるため、不快に思う学生もいるようだ。「自分とは関係のない障害者のことを学んでも、メリットにならない!」と。でも、その時のメリット・デメリットとは、近視眼的なマジョリティの論理である。さらにいえば、薄々気づいている、ぱっくりと開いているすき間の存在を「自分と関係ない」と断言したい・見ないフリをして過ごしたいからこそ、「寝た子を起こすな」と怒りを僕に向けているようにも、思える。

だが、子育てをし始めて、このような「すき間」はむしろそこかしこに埋め込まれている、と感じる。自分がすき間にはまっていないのは、たまたまの幸運が重なっているからだと、すき間の言語と文化を学べば学ぶほど、痛感する。だからこそ、誰もが取りこぼされない社会に向けて、すき間の言語と文化を学び続け、認識をアップデートし続けなければ、と思う。

自分が感じてきたこと、考えてきた、モヤモヤしてきたことを、哲学の言語を用いながら整理してくれる村上靖彦さんもまた、類い希なる通訳者だと思う。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。