2019年の三題噺

年の瀬恒例の私的三題噺。何を書こうかと思っていたが、今朝の話から。

1,子どもとの世界が拡がる

年の瀬の31日、おかあちゃんはご用だったので、おとうちゃんと二人でお出かけ。妙にバスが大好きで、今日もバスに乗る、というので、バスに乗って駅にお出かけ。新快速に乗り換えて、三宮まで行こうと思ったけど、今日はふと思いついて加古川で下りて、ショッピングモールのおもちゃ屋でトーマスグッズを買う。トーマスのDVDを繰り返し見続け、トーマスの服をやたらきたがる娘さん。帰りは姫路駅の王将で天津飯を食べるのが楽しみだったのに、今日に限ってお休みでがっかりな娘さん。また来年食べようね、と約束して、家でお昼を食べて、ねんねしてくれました。

子どもは二歳児の一年であり、この一年、絶賛自己主張期であった。「いやいや期」と一般には呼ばれているけど、確かに口を開けば「いや」って言うけど、「いやいや期」という名付けは何だか好きじゃ無い。母から分離し、自分自身を確立しようとと、好奇心旺盛になっているお年頃であり、自己主張をとりあえず「いや」というひと言からスタートさせている時期。そう思って、なるべく温かく見守ろうとするけど、父としては、娘を通じて修行の一年だった。

娘と過ごすと、当たり前の話だが、ぜんぜんこちらの思い通りにならない。ペースは娘中心。こちらの時間感覚とか効率性とか、全てなぎ倒される。それに、今でも時に苛ついてしまう。でも、娘が産まれ、娘との生活を大切にしようと決めると、僕自身がいかにそれまで仕事中心で、ワーカホリックで生きてきたか、も改めて思い知る。

姫路の住まいは、歩いて目と鼻の先に大きな公園があり、空いた時間があればとにかく公園に娘と鍛錬にいく。この「鍛錬」という表現は、松田道雄の名著「育児の百科」にたびたび出てくるフレーズ。子どもを外で毎日鍛錬させよ、というシンプルなフレーズは、でもエネルギー有り余る娘を見ていたら、確かに重要だと思う。で、公園にしょっちゅう通うと、娘を通じて四季の変化を感じる。寒椿に始まり、桜のつぼみが硬く膨らみ、やがて梅から桜、そして新緑と繁り、夏には蝉がミンミン鳴いて、やがてコオロギから葉が色づき、落ち葉に今度はどんぐり拾い・・・。以前はそれを山歩きして感じていたのだが、近所の公園を娘の後をついて歩き回るだけで、豊かな四季を感じる。そういう時間を、子どもが産まれるまでは、しっかり持てていなかった。あと、例えば年末からの1週間は仕事をしないと決めて、実際メールも含めてほとんど仕事をしていないけど、そういう風に割り切れたのも、やんちゃな主役が我が家におられるから。お父ちゃんのワークライフバランスを保つためにも重要な存在だと改めて感じる。

2,僕の声を取り戻す・統合する旅が始まる

きっかけは英語、だった。

研究をご一緒させて頂いている深尾葉子先生からお誘い頂き、心理学にも造形の深い英語教師のアメリカ人のSさんと、Zoomで英語ディスカッション、というのを1年半くらい続けている。『精神の生態学(Steps to an Ecology of Mind)』とか『実践 日々のアナキズム(Two Cheers for Anarchism)』などの濃厚な原著を肴に、その内容から拡がるあれこれを英語で議論する、というハードな1時間。その中で、深尾先生から「竹端さんは、すごい難しい表現をスルスルと話すときと、頭をかきむしりながら苦しそうに言葉を探すときの、その落差が激しい」と指摘されていた。

ある程度自分が知っていたり、専門に近い領域の英語は、ストックフレーズが沢山あるので、比較的スルスルと言葉が出てくる。でも、全然違う領域の話をしたい、と思っても、どう表現していいのか、わからない。日本語ならもっとうまく話せるのに、話してみたら小学生レベルの内容しか伝えられないことがもどかしくて、それで頭をかきむしって苦悶しているのだ。そう思い込んでいた。だが、この英語レッスンをする中で、どうやら違うとわかってきた。

そのために、先に三題噺の最後を出しておく。

3,ダイアローグの中で、鎧がほどける

この一年は、僕の中での「開かれた対話性」がより深まった一年であった。講演や研修会、授業やゼミでも、なるべく開かれた対話性を大切にして、不確実性を楽しみながら、他者の他者性を引き出す場づくりをしてきた。すると、そのような場づくりの中で、様々な相互作用が起こったり、研修が終わった後にとても満足してもらえる機会も増えた。僕が何かについて一方的に教える・説得する、というabout-nessモードをやめて、その場の人びとと一緒に考え合うwith-nessモードに転換するだけで、ずいぶん良い流れが生まれ始めた。そして、それは、他者に対して、だけではなく、自分自身に対しても、であった。

変な話だが、僕も、僕に対して、「他者の他者性」とか「不確実性への耐性」を重視することなく、論理的で知識中心の僕が一方的に突っ走る、about-nessモードであった。だが、「開かれた対話性」を大切にし、一緒に考え合うwith-nessモードを重視し始めた時、僕の中で、十分に聴かれていない、表現されていない何かが表現を始めた。それが、1の絶賛自己主張期の娘に揺り動かされ、2の英語レッスンと結びつき、自分のなかの新たな声として、胎動し始めた。それは一体、どういうことか。

僕は中学1年から、猛烈進学塾に通い始める。そのときのことは、以前のブログにもかいた。だが、そのときには自覚できなかったのだが、僕は12歳で塾に入って以後、受験勉強の能力主義モードにがっりと入り込み、その後研究者として生き残るためにも、さらにその能力主義に磨きをかけてしまったばっかりに、徹底的に新自由主義的合理性を内面化した部分がある。それは、効率的で効果的なやり方以外の道を否定することであり、能力主義的ガンバリズムを当たり前に考えるあり方だった。そして、子育てをし始めて三年間で、そのやり方では全く子育てがうまくいかないことを身に染みて気づかされ、ズタボロになりかけていた。

これと英語がどう関係しているのか。めちゃくちゃ関係しているのである。

実は英語表現の竹端は、分裂している、ということも以前のブログで書いていた。ほんと、僕のブログは僕自身にとっての外部記憶装置ですね。12歳で受験英語に適応するために、流暢なしゃべりを捨てて、日本人的英語表現に「矯正・強制」した時から、僕の中では受験勉強的な合理性を至上とするモードに切り替わってしまった。魂の情動とか、自然に発露する直観よりも、論理的で理性的な何かを尊重した。そうやって多くの本も読み、論理的に考え、その訓練を続けてきた結果、論理的で理性的な「議論」なら、得意な分野なら、英語でもほどほどに出来るようになった。だが、英語は第二言語ゆえに、日本語ほどだませないし、隠し通せない。

僕は例えば他者にインタビューするのはめちゃ得意なのだけれど、自分のことを語るのは得意では無い。だから、ついファシリテーターとして、皆さんの意見を賦活させる役割を引き受ける。でも、こないだZoomで振り返りの会をした時、20年来の友人から「竹端さんの意見や声は出さないの?」と言われて、ドキッとした。そう、僕はその場の皆さんの声を安心安全に出すお手伝いはするけど、肝心の僕の声を出さないまま、できたのだ。出すとしても、論理的で理性的で、つまりは手堅い範囲内でしか、自分を出さないことになっていた。

だが、こないだの振り返り会で、「竹端さんの声も聴いてみたい人もいると思う」と言われて、ぐらつく自分を発見する。実は、大学の授業やゼミでも、なるべく皆さんの意見を賦活させる事を大切にして、僕は自分の意見を言うことには禁欲的だった。「権力者の意見を押しつけてはならない」というルールをかなりしっかりと守っていた。すると、たまに学生さんから「先生の意見も聞いてみたい」というリプライも来る。こないだの振り返り会の参加者からも、「竹端さんが一個人として自分の意見をその場に差し出すことは、別に支配的でもなんでもないのでは」とも言われる。

そういったことも重なって、こないだ、英語でこんなことを言い始めていた。

「僕は親になった事で、自分に対して責任を取ろうとしている。自分の思いを、自分の声で話そうとし始めている。師匠に弟子入りしたのが98年で、20年が経つ。僕にとっては師匠は今でも尊敬すべき唯一無二の師だが、そろそろ師匠から独立して、師匠とは違う道を歩み始めたのだと思う。それが、ダイアローグやファシリテーションを大切にした場づくりだ。それってあたかも、自分が親になって、子どもでいた時代を卒業し、自分や子どもに対しての責任を持つようになった事と相似形だと感じている。」

こういうことを、頭をかきむしらず、バリバリの日本語英語でもなく、スムーズに落ち着いて表現する事ができはじめた。娘と過ごす日々の中で、僕自身の情動が突き動かされ、開かれた対話性を自らの魂とも発動させることによって、僕の声を取り戻す・統合する旅が始まったのだと、思う。

そう思うと、生産至上主義的にはあまりぱっとしないし、ほとんど論文も書けていない、一年だった。でも僕の中で、12歳くらいから抑圧してきた魂と、30年後の今になって和解し始めた、というか、情動と理性をつなぎ合わせることを試行錯誤の中で結びつけ始めた1年だったのかもしれない。対外的には大した変化はなかったが、対内(胎内?)的にはものすごく沢山の何かが動き始め、つながりはじめ、転換し始めた一年だったのかも、しれない。そしてそれは、来年以後の僕にとっては、計り知れないほどの大きな一歩を踏み出す上での、大切な内的作業だったのだと思う。

従来の1年の振り返りは、「○○した」というdoingの振り返りが殆どだったのだが、今年に限ってはどうあったか、というbeingの振り返りだった。そして、それが今の僕にはぴったりきている。そういうことを、子どもが昼寝している間に書き終えられて、良かった。さて、これから年末の買い出しに行かねば。

みなさま、よいお年をお迎えください。

構造ではなく、構造化のダイナミクス

大学院の福祉社会学特論では、悪循環を乗り越えるためにはどうしたらよいか、を主旋律に、『悪循環の現象学』(長谷正人著、ハーベスト社)を読んだ後、深尾葉子先生の『黄砂の越境マネジメント』を読みすすめてきた(本の紹介は以前のブログに)。そして、12月23日(月)には、Zoomで著者の深尾先生と大学院生がダイアローグする機会を作った。非常に実りある対話の場だった。

この中で僕にとっても印象深い内容だったのが、構造と構造化を巡る議論であった。深尾先生の論考から、まずその違いに関する部分を抜き出しておこう。

「村において観察可能であったのは、村人同士が各々個別に展開する労働交換や情報の交換によって形成される『関係』のネットワークのみで、それは常に変化し、形を変えて存在し続ける。そこから抽出できるのは、構造そのものではなく、構造化のダイナミクスであり、動的なモデルであった。」(p291)
「人為的要因と自然的要因が複雑に相互作用し、非線形性によって支配される複雑な現象を理解するには、あらかじめ『フレーム』によって対象と『時間』を区切り、限定された因果関係で理解しようとする手法は、大きな齟齬をもたらす」(p294)

僕自身の反省を込めて書くのだが、僕自身、ある時点まで優れた研究とは何らかの構造を明らかにすることだ、と思い込んできた。博士論文で明らかにした社会変革を可能にするソーシャルワーカーの「5つのステップ」も、構造まではいかないけど、その種の法則的なものを明らかにした、つもりでいた。

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<精神障害者のノーマライゼーションを模索するPSWの五つのステップ>

ステップ1:本人の思いに、支援者が真摯に耳を傾ける
ステップ2:その想いや願いを「○○だから」と否定せず、それを実現するために、支援者自身が奔走しはじめる(支援者自身が変わる)
ステップ3:自分だけではうまくいかないから、地域の他の人々とつながりをもとめ、個人的ネットワークを作り始める
ステップ4:個々人の連携では解決しない、予算や制度化が必要な問題をクリアするために、個人間連携を組織間連携へと高めていく
ステップ5:その組織間連携の中から、当事者の想いや願いを一つ一つ実現し、当事者自身が役割も誇りも持った人間として生き生きとしてくる。(最終的に当事者が変わる)
(竹端寛 2003 「精神障害者のノーマライゼーションに果たす精神科ソーシャルワーカー(PSW)の役割と課題―京都府でのPSW実態調査を基にー」大阪大学大学院人間科学研究科博士論文)

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だが、僕の見つけた5つのステップも、深尾先生の議論に当てはめてみれば、「『関係』のネットワーク」を表現したものであり、「常に変化し、形を変えて存在し続ける」プロセスの記載であり、それは「動的なモデル」としての「構造化のダイナミクス」であった。で、構造のようながっちり固まったものではないがゆえに、このステップは、自画自賛じゃないけど、コミュニティワークの一つのプロセスとして、今でも使える何かが描かれていると思っている。

そういえば、博論を書いた後の2005年、ある福祉施設の職員間のコンフリクトを7つのポイントで整理したのだが、こないだ全く別の福祉施設の幹部職員がこの文章を読んで、以下のような感想を寄せてくれた。

「15年前の先生の論文を拝読し、まるで私たちの法人のことが書かれているのではないかという錯覚を覚えました。まさに職員の誰かが口にしそうな内容がたくさん記されていて、きっと、みんな同じように思っていることがあるのだろうなと、感じました。」

この感想を読んでいると、どうやら僕も頭では構造に憧れながら、実際に表現しているものは「構造化のダイナミクス」だった。だからこそ、なかなかこの種のものは査読論文には掲載できなかったのだけれど。

で、月曜日のダイアローグで特に僕が興味深かったのは、先に引用した「あらかじめ『フレーム』によって対象と『時間』を区切り、限定された因果関係で理解しようとする手法」という部分である。人間が関わる様々な事象は因果の連鎖で結びついているのに、その一部をフレーミングすることによって、「限定された因果関係」で「構造」を記述することの危険性について、深尾先生は指摘しておられる。この話を聞きながら、精神医療でも「病気」「症状」という形で専門職が判断することで、「生きる苦悩」という複雑な因果関係の連鎖の一部にフレーミングし、そこに投薬や隔離拘束で落ち着かせよう、という精神医療の治療「構造」が重視される。だが、その動的な現象を構造で理解すること自体が、時間と因果関係の限定性をもたらし、「人為的要因と自然的要因が複雑に相互作用し、非線形性によって支配される複雑な現象」としての、生きる苦悩の最大化としての精神症状という構造化のダイナミクスの理解には不適切なのではないか、と深尾先生におたずねしてみた。

すると深尾先生は、癌だって同じですよね、と応答する。癌が他ならぬその人に生じている、という複雑なダイナミクスを理解することなく、症状のみに着目して、それを消し去ろうとすることは、構造の理解と消去を目的にしているけど、その構造化のダイナミクスという因果の連鎖に着目しないから、それは近代的合理主義の範囲内の、切り分けた発想や視点になってしまうのではないか、とおっしゃった。

その話を聞きながら、僕はフランコ・バザーリアの発言を思い出していた。

「狂気とすべての病は、私たちの身体がもつ矛盾の表出です。身体といいましたが、それは器質的な肉体と社会的な身体のことです。病とはある社会的な脈絡のなかで生じる矛盾のことですが、それは単なる社会的な産物ではありません。そうではなくて、私たちを形作っている生物学的なもの社会的なもの心理的なものといった、あらゆるレベルの構成要素の相互作用の産物でもあるのです。(略)たとえば癌は歴史的・社会的な産物です。なぜなら癌は、この環境において、この社会のなかで、この歴史的な瞬間に生み出されていて、また生態学的な変化の産物でもあり、つまりは矛盾の産物だからです。」(『バザーリア講演録 自由こそ治療だ』岩波書店 p108)

癌も精神病も、「私たちの身体がもつ矛盾の表出」であり、「ある社会的な脈絡のなかで生じる矛盾」である。ストレスフルなライフイベントが続くなかで、社会的なつながりが断たれ・閉ざされるなかで、リラックスできる余裕が失われるなかで、失業や別離など大きな喪失があるなかで、生きる苦悩が最大化するプロセスのなかで、癌や脳卒中、心筋梗塞、糖尿病、精神疾患などの「五大疾病」に陥る。この五大疾病は、もちろん医学的に治療の対象となるのだが、「いま・ここ」で他ならぬその人が罹患している、という意味では、「この環境において、この社会のなかで、この歴史的な瞬間に生み出されていて、また生態学的な変化の産物でもあり、つまりは矛盾の産物」なのである。その「矛盾の産物」という複雑なダイナミクス=因果の連鎖を、そのものとして理解しようとせず、投薬や外科的手術のみですべてを解決することは、原理的に不可能なのである。

癌や精神疾患という、顕在化した「疾患」。だがそれは「常に変化し、形を変えて存在し続ける」ものの、一つの表現形態に過ぎないのかも、しれない。すると、精神症状を消す薬を飲めばそれでおしまい、なのでもない。そうやって一部のみを止めてしまうと、他の部分に「変化し、形を変えて」顕在化するかもしれない。

誤解なきように言い添えておくと、治療が必要ない、と言っているのではない。ではなく、「この環境において、この社会のなかで、この歴史的な瞬間に生み出されていて、また生態学的な変化の産物でもあり、つまりは矛盾の産物」が「いま・ここ」で他ならぬその人に現れている意味を考え、「あらゆるレベルの構成要素の相互作用の産物」として受け止めることによって、その因果の連鎖に、別の働きかけをすることが可能でありうる、ということを言いたかった。それが、構造化のダイナミクスの面白さである。そして、前回のブログで引用したバザーリアの、次の言葉に行き着く。

「医師は単なる専門技術者でもエキスパートでもありません。薬を処方するのは医師の仕事ですが、患者と別の関係性を築くことによって、患者の暮らしに意味を与えることが医師には出来るのです。」

バザーリアは、現象学的精神医学を勉強していた時代は、精神疾患の構造を明らかにしようとしていたのかもしれない。でも、精神病院の院長になって、悲惨な収容主義の実態を目の当たりにしてから、構造の理解ではなく、構造化のプロセスに足を踏み入れた。精神病院の実態を変えるための、動的プロセスの中に関与することによって、「患者と別の関係性を築く」プロセスに身を投じた。それは、「あらかじめ『フレーム』によって対象と『時間』を区切り、限定された因果関係で理解しようとする手法」との決別を意味していた。でも、そのことによって、「人為的要因と自然的要因が複雑に相互作用し、非線形性によって支配される複雑な現象」としての施設収容という全体像を捉え、その収容主義を廃絶するための舵を切ることができた。そういう意味で、彼は構造化のダイナミクスを自ら展開させていった人である、とも言える。

深尾先生の著述は黄砂や黄土高原がフィールドであり、一見すると、精神病院や精神疾患とは全く違う内容にみえる。でも、それは「構造」のみを眺めた時に感じる「ちがい」である。しかしながら、深尾先生は優れた構造化のダイナミクスの記述であるがゆえに、その骨法は、全く別の領域において、何かを考える際の大きな補助線となる。これぞ、ほんまもんの意味で普遍的な理論であり、普遍的な記述である。あらためて、その学恩に感謝したいと思って、ながながと自分のフィールドにひきつけて感想をかいてしまった。

関係性の変容は可能か

季刊福祉労働165号に、実に考えさせられる二本の論文が掲載されている。

一つ目が、フランコ・バザーリアの「健康と労働」についてのブラジル講演と質疑応答。岩波からでている「バザーリア講演録」に含まれなかった部分で、僕がぜひとも読みたかった部分でもある。その中で、印象的なフレーズをいくつかご紹介する。

「私の理解では、ブラジルでは精神病が大きなビジネスになっています。狂人たちを食い物にして生計を立てているプライベートの診療所があります。狂人が多ければ多いほど儲かるようになっているのです。これはとくに労働者を破壊する道です。これでは労働者は、自分の不自由さや苦悩を自覚することができませんし、こうした苦悩と闘うことができません。こうなると狂気で金儲けする商人たちのおかげで、精神病者は減るどころか増えてゆきます。そして、こうした悪事に荷担する専門技術者たちは、当然のことですが労働者階級が必要としている同盟者などではありません。」(p149)

これは、ブラジルを日本と入れ替えても、全く同じ事が言える。9割の入院病床が「プライベート」であるがゆえに、世界一、入院している患者の比率が高いのが日本である。まさに「狂人が多ければ多いほど儲かるようになっている」のである。

ただ、バザーリアは現状を告発して終わり、とはしない。かれは、精神症状として表出化しているものを、単なる病気ではなく「自分の不自由さや苦悩」の最大化した姿である、と捉える。不眠や幻覚妄想状態に陥った背後には、家族や親しい友人・同僚との関係が行き詰まることや、人生に絶望し先の見通しが立たなくなるなどの、「自分の不自由さや苦悩」の最大化がある。本来の快復=リカバリーのためには、「こうした苦悩と闘うこと」が必要不可欠なのである。しかしながら、その「苦悩」を理解し寄り添うことをせずに、「狂気で金儲けする商人」の「病気だから入院しましょう、薬を飲みましょう」という喧伝が支配的になると、「精神病者は減るどころか増えてゆ」くのである。では、医者はどうすればよいのか。バザーリアは、反精神医学ではないので、精神病を否定していないし、薬物投与も認めている。しかし、こう主張する。

「医師は単なる専門技術者でもエキスパートでもありません。薬を処方するのは医師の仕事ですが、患者と別の関係性を築くことによって、患者の暮らしに意味を与えることが医師には出来るのです。したがって、私たちの仕事には、根本的に政治的な意義が含まれています。専門技術と政治といった分業体制を越えたところに、医師の仕事はあるのです。」(p146−147)

「患者と別の関係性を築くことによって、患者の暮らしに意味を与えること」

すごく大切なことだが、3時間待って3分診療、という仕組みでは、そもそもこういう「別の関係性を築くこと」ができない。よって、薬物投与中心になり、「患者の暮らしに意味を与えること」が出来ない。これは結果的に「専門技術と政治といった分業体制」を消極的であれ肯定することであり、「狂人が多ければ多いほど儲かるようになっている」「労働者を破壊する道」を消極的にであれ政治的に選択している、ということなのである。

そんな構造的なことを、一専門職が変えられる訳がない、と思い込んでいる人もいるだろう。バザーリアは、そういう人に向け、次のように呼びかける。

「社会構造が変わらないのだとしたら、施設で働く一人として、あなた自身が変わるべきです。あなたの仕事や実践を変えてゆき、患者の自覚を促し、あなたの批判的な手立てを発展させながら、あなた自身が変わってゆくのです(私たちは他人を批判することには長けているのに、自己批判はあまり得意ではありませんが)。」(p151)

「社会構造が変わらない」と「他人を批判する」前に、「施設で働く一人として、あなた自身が変わるべきです。」 至極シンプルで、まっとうなメッセージである。彼は、新自由主義的な自己責任の文脈でそう言っているのではない。「自分の不自由さや苦悩」の最大化した人と向き合う際、単に病院に閉じ込めたり、縛ったり、薬漬けにするのではなく、それ以外の「患者と別の関係性を築くことによって」、つまりこれまでの「あなたの仕事や実践を変えてゆ」くことによって、「患者の暮らしに意味を与えること」が初めて可能になる、と40年前の1979年6月に発言しているのである。

晩年のバザーリアは、別の可能性を明確に主張する、現実も見据えた理想家だった。だからこそ、こういう発言をしている。

「私たちはいかなる革命も望んではいません。望んでいるのは、私たちを取り巻く関係性を根本から変えることなのです。」(p147)

彼は、「関係性を根本から変える」ために、1961年に大学医局を追い出されてゴリツィアの精神病院長になってから、20年かけて、彼自身の「仕事や実践を変えてゆき、患者の自覚を促し、あなたの批判的な手立てを発展させながら、あなた自身が変わってゆくのです」というプロセスを歩み始める。縛る・閉じ込める・薬漬けにする、の論理を否定し、白衣を脱ぎ、最も重度と言われた患者を地域に退院させ、トリエステに移った後に精神病院自体を閉鎖するなど、彼「自身が変わってゆく」ことで、「私たちを取り巻く関係性を根本から変えること」を可能にしたのだ。それが、精神病院なしで成り立つイタリア社会の「革命」を作り上げる原動力になった。しかも、彼は革命を志向するのではなく、「社会構造が変わらないのだとしたら、施設で働く一人として、あなた自身が変わるべきです」というのを愚直に積み重ねていったのである。これが、彼自身の「当たり前をひっくり返す」実践であり、「他人を変える前に、自分が変わる」ことによって、結果的に彼と周囲の関係性、彼が関与する社会の関係性の変革も成し遂げる成果を導き出していったのである。

では、そういうことが、日本では出来ているのか。

それを振り返った際に、この雑誌の別の論考が、深く胸に突き刺さる。大阪府立大学の三田優子さんによる「津久井やまゆり園入所者への『意思決定支援』 何のため? 誰のため?」という論考である。

「私は以前、ある精神障害者に『大学では共感・傾聴などという言葉を使って専門職を育て、感情的になってはいけない、支援対象者の感情に巻き込まれるなと教えているのでは? 感情的な専門職は嫌だけど、感情が働かない、鈍感な人に何かをしてもらいたいとは思わない。形式的にうなずいて共感を示すような演技は不要で、ただ私の苦しみに心を動かし、『大変だったね』とひと言でも言ってくれる専門職に会いたい。言葉がなくても、私のために泣いてくれるだけでは救われるということを学生に伝えてほしい』と言われた経験がある。頭を殴られたような衝撃を受け、同時に『私もそんな人に会いたいのだ』と思った。」(p22-23)

「感情的な専門職は嫌だけど、感情が働かない、鈍感な人に何かをしてもらいたいとは思わない」「ただ私の苦しみに心を動かし、『大変だったね』とひと言でも言ってくれる専門職に会いたい」というのは、確かにその通りである。ではなぜ、三田さんはこの言葉を聞いて、「頭を殴られたような衝撃を受け」たのだろうか。

それは、『私もそんな人に会いたいのだ』と三田さんに言わしめるほど、「そんな人」が少ないからでは、ないだろうか。「共感・傾聴」は出来て、「感情的になっては」いない専門職は少なくないのだろう。だが、「形式的にうなずいて共感を示すような演技」で終わっている人が少なくないのではないか。そして、それを発言した精神障害者が見抜いて、三田さんに伝えたからこそ、彼女は「頭を殴られたような衝撃を受け」たのではないだろうか。

つまり、三田さんに語りかけた精神障害者が求めているのも、バザーリアが求める「私たちを取り巻く関係性を根本から変えること」そのもの、ではないだろうか。では、「感情を働かせる」「私の苦しみに心を動かす」、そんな専門職とはどのような存在だろうか。

三田さんは、重症心身障害者の地域生活支援の拠点「青葉園」の創設者でもある清水明彦さんにインタビューしたゼミ生の卒論を用いながら、こんな風に整理している。

「支援者の心の中を特に見る重度障害者と『一緒にいる』というのは、物理的に同じ空間にいるだけでなく、相手を主体として認めながら、心の対話を重ねてきたということだ。また、一方的に障害者側だけの意思を確認するのではなく、支援者・障害者お互いの意思確認と交流、感情の蓄積があったと語っている。障害の軽いという呼ばれ方をされる人たちもこのような体験をしているだろうか。私自身も、こんな風に認めてもらえたらどんなに嬉しいだろう、としみじみ思う。」(p25)

「感情を働かせる」「私の苦しみに心を動かす」支援者とは、「一方的に障害者側だけの意思を確認するのではなく、支援者・障害者お互いの意思確認と交流、感情の蓄積」を行う支援者だと三田さんは言う。「支援対象者の感情に巻き込まれ」ないように必死になる状態から、「あなたの仕事や実践を変えてゆき、患者の自覚を促し、あなたの批判的な手立てを発展させながら、あなた自身が変わってゆくのです」というプロセスに漕ぎ出すことができるか、が問われている。

支援対象者を変える前に、支援者自身の「仕事や実践を変えてゆ」くことによって、支援対象者「と別の関係性を築くことによって」、支援対象者の「暮らしに意味を与えること」が、支援者にも可能になる。そして、それが現に出来ていないからこそ、「頭を殴られたような衝撃を受け、同時に『私もそんな人に会いたいのだ』と思」わせるような実態が発生している。

そんなグサリと刺さる二つの論考だった。

そして、だからこそ、僕は自分が変わり、自分と周囲との関係性の変容を模索するために、未来語りのダイアローグのファシリテーターとして、授業や研修などでも、自分を取り巻く関係性のあり方を変えようとしているのだ、と改めて再確認していた。