7年後の気づき

 

この春は刺激に満ちあふれている、と前回のブログで書いたが、昨日であった一冊からも多いに刺激を受ける。例によって、「作品」に昇華させておかないとショートしそうなので、とにかくこのブログに書き付けながら考えてみたい。

もう7年も前になるが、博士論文なるものを書いている(「精神障害者のノーマライゼーションに果たす精神科ソーシャルワーカー(PSW)の役割と課題-京都府でのPSW実態調査を基にして-」)。その概要は紀要論文として一部短く紹介したものの、単著にはなっていない。最近では博士号を取る人も多くなり、若い世代の単著本も出ている。また、自費出版的に出している人も少なくない。しかし、僕の論文は、正直に言うと、それだけでは本に出来る内容に高まっていなかった、というのと、どういう切り口で再整理したら一般読者に伝わる内容になるか、がよくわからなかったので、単著化は放置し、半ば諦めかけていた。

その博論では、京都のPSW117人に聞き取り調査を行い、「この人は地域を変えている」と思った人に共通する実践内容を「当事者の本音を聞くことに端を発し、当事者の想いや願いを実現するためにPSW自身が変わり、③)一人で抱え込まずに周りの人々を捲込み、仲間の連携を組織的連携に変える中で社会資源を改善・創出し、その中で当事者の役割意識や自信が芽生え、当事者自身も変わる」という5つのステップとしてまとめた。PSWが精神障害者のノーマライゼーションに本当に役割を果たすためには、この5つのステップが必要ではないか、と提起したのが、博論の唯一のオリジナリティだったと思う。

そして、これは、僕自身が山梨や三重の県レベルで、あるいは福祉組織の変革支援に携わる中で、実践者としても使えるステップである、と実感してきた7年間でもあった。現場の本音を聞きながら、まず頭の固い自分自身が変わる必然性を感じ、官民様々な協力者を見つけ、巻き込み、巻き込まれながら渦を創ってきた。それが、多少なりとも自立支援協議会や圏域マネージャーの形で制度化・システム化し、その渦は、僕が操作するのではなく、渦として動きつつある。そんな創発にこの3年間で立ち会う中で、僕もこの5つのステップの流れを意識し、踏み外さずにステップを踏んできた、と思う。それだけでなく、現場向けの講演でこの「5つのステップ」を使って説明しても、説明力や共感力は割合高かった。そんなこともあって、何とかこの「5つのステップ」だけでも、もう少し普遍化して広く伝わるように書き直せないかなぁ、という密かな願望を抱いていた。だが、その方法論は、と言われると、動き出せない自分がいた。

あれから7年後の昨日、ここ最近ご縁を頂いた安冨先生の本を読んでいた。安冨先生は、複雑系理論の叡智を社会科学にも応用し、従来のPDCAサイクルに代表されるような計画制御(線形的制御)の図式では、複雑な世の中の連関の輪を変えていくことが出来ない、とする。その上で、オルタナティブとして、「区々たるものを結び合わせ、流れを創り出すことを目標とする」「やわらかな制御」を提唱している。複雑系科学の叡智を整理した第一章は読み進めるのがやっとだったが、その後に展開された第2章以後、自らの既知の風景が急に新たな未知となるような、爽快な気分で読み進め気がついたら、自分が博論で言語化出来ていなかった事に光が当てられている箇所にも遭遇。思わず歓喜する。そう、この視点が言語化出来ていなかったのだ、と。

「本来やらねばならない職務とは何だろうか。それはコミュニケーションのコンテキストを創り出し、新しいコミュニケーションの連鎖を創り出すことである。人々の不安と不信を和らげ、自分で筋の通った判断を下せるようにすることである。このようなケアを施す活動が組織を維持再生する上で不可欠であるのは、人間の身体を維持するのに免疫系や自己修復といった機能が不可欠であるのと同じ事である。」(安冨歩『複雑さを生きる-やわらかな制御』岩波書店p138

そう、福祉現場で、新しい何かを生み出している人って、「○○障害だから」「社会資源が少ないから」「行政(家族、理事長、本人、支援者)が無理解だから」仕方ない、とエクスキューズをつけて諦めて、その「諦めの回路」に安住する(=歪んだ構造を再生産する安定状態を保つ)ことを良しとしない。むしろ「諦めの回路」に違和感を感じ、その回路を開くような別のコミュニケーションに基づく、新たなコンテキストを創発しようとしている。その中で「新しいコミュニケーションの連鎖を創り出」しながら、「人々の不安と不信を和らげ、自分で筋の通った判断を下せるように」なり、地域での共感者を増やしていっているのである。この「回路を開く」図式は、別の部分では次のように説明されている。

「理念を共有する限られた人物とそのネットワークに集中的に接続し、資源を投入することで、コアとなるコミュニケーションの形態を創り出すことが第一段階の目標となる。ここに人的信頼関係を創り出し、理念を共有し、またそれを発展させ、実践する人々のネットワークを構築せねばならない。ここには社会における固有名あるいは人格をいかにとらえるかという問題が深くかかわっている。あえていうなら、活動の目標のひとつは「特定の人格のエンパワーメント」でなければならない。(略)ここに形成されたコミュニケーションの活性を維持し続け、それによって理念の共有範囲を拡大するとともに、その流れの中で理念そのものを成長させる。この動きを通じてのみ社会に働きかけることが出来る。」(同上、p131)

僕自身の拙い実践の実感としても、また博論現場やその後の調査研究でお会いした多くの変革者にしても、まずは「コアとなるコミュニケーションの形態を創り出すことが第一段階」である、と深く同意する。教科書的なパターン認識ではなく、「人的信頼関係を創り出し、理念を共有し、またそれを発展させ、実践する人々のネットワークを構築」する中で、その地域や実践を変える「芽」が生まれる。その芽を育むためにも、「ここに形成されたコミュニケーションの活性を維持し続け、それによって理念の共有範囲を拡大するとともに、その流れの中で理念そのものを成長させる」事が重要になる。「諦めの回路」のオルタナティブとしての希望のコンテキストを創発させ、「コアとなるコミュニケーションの形態」を練り上げ、暖め、拡げていく中で、それが一定の普遍性を持つようになる。やがて、その普遍性は官も揺り動かし、市町村レベルの小さな制度や国レベルの大きな制度の変更・改正の原動力となる。

そして、その原動力や大きな渦の背後には、「特定の人格のエンパワーメント」が、いつも見え隠れする。重症心身障害を持つ人の地域生活支援を展開してきた西宮の「青葉園」の清水さん、精神障害者の支援観を大きく変えた北海道浦河の「べてるの家」の向谷地さん、国制度になった小規模多機能型の原点にある富山の「このゆびとーまれ」の惣万さん。あるいはイタリアの精神医療改革だけでなく世界的なコミュニティメンタルヘルスのお手本になったトリエステのバザーリア医師。ノーマライゼーションの実践の原点にあるスウェーデンのベンクト・ニイリエ。ぱっと思い浮かぶだけでも、これらの実践者は、ローカルな現場で「コアとなるコミュニケーションの形態を創り出すこと」の中で、結果的に「特定の人格のエンパワーメント」を成し遂げていった。しかも、それは己が成功、という利己的な目的ではなく、自らが関わる対象者のために「本来やらねばならない職務」として、試行錯誤の中で、「諦めの回路」を開くコミュニケーションを創発させ、新たなコンテキストを創造してきた。その運動展開の中で、「理念の共有範囲を拡大するとともに、その流れの中で理念そのものを成長させる。この動きを通じてのみ社会に働きかけることが出来る」ということを実証してきた。

つまり、先に僕が整理した「5つのステップ」に欠けていた視点とは、「コミュニケーションやコンテキストの創発・連鎖による物語の書き換えのプロセス」である、と言えよう。そして、その「物語の語り部」としての「特定の人格のエンパワーメント」は、単に属人的カリスマで終わるのではなく、社会を変える普遍性を持ちうる、という事である。しかも、上意下達的な計画制御ではなく、ストリートレベルのリーダーシップによる「やわらかい制御」によって、現場が変わり、政策も変わる。ソーシャルワークや福祉政策の研究分野ではまだまだ計画制御の議論が主流となっているが、現場の実態はこの「やわらかい制御」の創発こそが、現場を変えてきた。その事に、改めて気づかされた。

この「やわらなか制御」におけるワーカーの裁量のポジティブな活用と福祉政策、ソーシャルワークの変容の可能性については、大きな関係がある。このことはブログではなく、そろそろ論文にしなければならない時期なのかもしれない。はい、頑張ります。

7年の遠回りをしてきたが、決して迂回路や見果てぬ道ではなさそうだ、という実感が、ようやく今、芽生えてきた。

両天秤の統合

 

役割期待、というものは、その人の潜在能力の開花を促進する為にも、逆に個人に強固な鋳型をはめてそこに固着させる為にも、双方に働きうるものである。毒にも薬にもなる。

私自身にとって、「大学教員」という肩書きは、5年前の成り立ての頃は、割と薬として機能していた。大学院生のマインドのまま講師になってしまったので、もっと勉強しなければ、という誘因には十分になった。フィールドワークにどっぷり浸かっていた大学院生時代の反動も多分にあって、ちゃんと理論を勉強しないと、というモードで、以前より大量に本を買い込み、どっどどっどと摂取していった。切迫感もあったが、その事に勿論楽しさも感じていた。自分の不勉強を何とか補うつもりで始めた読書会・参加した研究会等のお陰もあって、院生時代に学んでおくべきだった(でもサボっていた)バックグラウンドの知識は、研究者としての最低限の水準はクリア出来るくらいにはなってきた(つもりだ)。それは必要不可欠なプロセスであった。

だが、あれは「准教授」という肩書きに変わったあたりからだろうか。自分の中で、分裂気味な気持ちが生じ始めた。3年前から県の仕事にも携わり、現場へのコミットを再び深くするようになってきた。その中では、現場に通じる言葉を模索しながら獲得してきた。単にダメだ、ダメだと批判するだけではなく、相手が納得して自分から変わる言葉を探そう、と必死になってきた。その一方で、日本語の理論の言葉では不十分感を深く感じ、英語圏の本を囓るようになったのは、ちょうどこの頃からだ。以前は「福祉は文化依存的であり、他国の本に学べるところは少ない」と読んでもいないのに嘯いていたが、日本語の本に不全感を感じて読み始めたイギリスやアメリカの文献の中には、文化的差異を超えて現場を捉え直すヒントに満ちた、心に訴えかける良書が少なからずあった。

そうやって、現場の実践へのコミットと理論的良書の理解、の両天秤の負荷が良い具合に双方高まる中で、その両者にバランスを取る自分自身の主体性が問われるようになってきた。天秤は常にグラグラ揺れ、現場へのコミットに傾いたかと思うと、理論的言語に傾き直したり。そんな、右往左往の中で、両者を統合する自分自身は一体何を目指して、何をしたいのか、が不鮮明になってきた。その中で、「准教授」という外部からの役割期待が、眼前が開かれない暗闇の中でのとりあえずの羅針盤として活用出来た故、それに無意識にすがるうちに、自分の直感や感覚的言語、が抑圧され始めた。思っている事をそのまま口に出す、文章に書く、という事が憚られ、とにかくロジカルで説得力ある何かを書こう、と気張ってしまっていた。

そして、回顧録的になるが、そのころから、このブログの文章が急激に長くなり始めたような気がする。論理でゴリゴリ、が別に論文世界で十分に出来ていた訳ではないが、そういう志向性を持って動いている一方で、澱のように溜まった感情的な言葉を相補的に放出する手段として、このブログが機能した。表面的には「本の引用を基に考えたこと」という論理の世界がブログの中心的テーマとなっていたが、「本の引用」に頼らない、情動性を重視した発言も、少しずつ、このブログの中に潜ませるようになってきた。

なぜそういう回顧をするのか。そう、この2010年3月というタイミングで、その両天秤の統合、が自分の中で生まれ始めているからである。役割期待という外在的論理ではなく、主体タケバタとして、理論の世界と実践の世界を、稚拙であっても両方引き受けた上で、何かを伝えたい。そういうモードになりつつあるのだ。そうすると、今までなら届かなかった言葉が、心にビンビンと届いてくる。

It is advisable therefore to forget that you have been living for these “x” years. You are entitled to feel as if you were born today. You are allowed to start things all over again, without necessarily tracing the thing that has been burdening you until yesterday.
“Try to forget” SATURDAY, MARCH 27, 2010
 THE QUALIA JOURNAL by Ken Mogi
http://qualiajournal.blogspot.com/2010/03/try-to-forget.html

今朝のツイッターで知った、茂木健一郎氏のエッセイ。読んでいて、まさしく一条の光が差し込むような文章だった。春の陽射しに背中を押されて、というのもあるのだろうが、「今朝、生まれた」という感覚が、心の中でじんわり沸いてきた。すると、ここに書かれているように、新しい何かを始められそう、というワクワク感も同時に沸いてきた。以前なら、「そんなに簡単に人に影響されたらいけない」「洗脳と間違われるのでは?」という外的規範(=役割期待)に縛られていた。だが、今朝、そう感じたのなら、その感覚を大事にしよう、と思い始めている自分がいる。だからといって、今まで学んだり考えたりした全てのものを捨て去るわけでもないし、それは出来ない。今までの積み重ね(these “x” years)を大切にしながらも、それだけに囚われない「新たな今日」を生きてみよう、と思い立ったのだ。

こんな風に気付き始めている時期には、これも論理的説明の枠組みから越えるが、シンクロニシティが加速度的に起き始めている。手にとって、読んでみたものから、多くの刺激を同時多発的に受ける。

「たぶん、私は世界という絵本のページをやっと開いたところなんだ。そう思える。これまで私は世界という絵本を持っていたけど、それは本棚に飾ってあったのだ。そのページをやっと四十歳になって、開き始めたのだと思える。(略)知覚とは、可能性なのだ。私の心が変われば目が変わる。私という認識の世界はこの程度だ。知覚は大嘘つきだ。真実は何ひとつわからない。この大発見は私にとってコペルニクス的転回だった。そうなのだ、世界とは果てしもなく、不確実なものだ、という認識。そこに立てた時に、いきなり、芸術の扉が開いた。」(田口ランディ「アートの呪縛」『根をもつこと、翼をもつこと』新潮文庫、p246-247)

以前ご紹介した、2月末から3月頭に訪れた香港でインスパイアされた、真木悠介著『気流のなる音』の中で出てきた「人間の根元的な二つの欲求は、翼をもつことの欲求と、根を持つことの欲求だ。」という記述。この記述をみた時から、以前読んだ筈の田口ランディの本のタイトルがちかちか点滅していた。帰国後書棚を見渡してみても見つからないので、ネットで取り寄せて、読み始めてびっくり。読み手の主体性が変容しているから、今の自分にとって共感出来る部分が多い。なのに、読んだ内容を、殆ど覚えていない。多分メッセージとして根底的部分は意識化に潜んでいたからこそ、今回チカチカと点灯した、のだと思う。

そう、僕自身も「世界という絵本のページをやっと開いたところ」である。開こうとしたり、閉じてみたり、を繰り返していた。その時々の「知覚」に左右され、本棚を眺めるだけだったり、手に取った気になったり。その「知覚」や「認識の世界」の変容の可能性を相対的に理解出来るようになった時、僕の中でも「いきなり、何かの扉が開いた」ような気がする。ただ、まだ何の「扉」が開いているのかはわからないけれど。

そして、この「扉」が空いている時には、色んな風が入り込んでくる。

「自らの歩みと、その魂の植民地化のプロセスについて、自分自身で見つめなおし、取り出す作業は決して容易なものではない。そうした苦痛を伴いつつ、自らが囚われてきたものを明らかにする作業は、同時に『生きるために』身に帯びてきたさまざまな『呪縛』とそれを可能にしてきた心の『蓋』をこじ開けることになり、『蓋』の上でかろうじて安定している精神を揺り動かす危険をはらむ行為でもある。通常、そのような行為は、自己の精神や生活を脅かすものであると考えられ、また自分の魂を押し込め、苦しめている『蓋』こそが自らの精神を支えてくれている、と感じられることから、人々は『呪縛』を継続し、『蓋』にしがみつくことで『安定』を維持しようとする。それが呪縛の構造であり、また魂の脱植民地化が困難な理由である。」(深尾葉子「魂の脱植民地化理論の新展開」東洋文化90号、p18)

木曜日に開かれた、深尾先生がスピーカーとなった社会生態学のセミナーへ参加する為に、生まれて始めて東大の赤門をくぐった。以前なら、東大という表層や肩書きに感化されやすかったろうが、この日は、場所の問題ではなく、そこで繰り広げられている議論に大きく見開かれた。その内容は、もう少し消化してからこのブログに書くつもりだが、その日に刷り上がったばかりの深尾論文を帰りの「スーパーあずさ」の中で読んでいて、この部分が深く印象に残る。なるほど、僕の今行っていることは、「魂の植民地化のプロセスについて、自分自身で見つめなおし、取り出す作業」なんだな、と。

確かに「心の『蓋』をこじ開けること」は楽ではない。特にこの3月は、香港での気づきに始まり、深尾先生やこの研究会の主宰者である安冨先生との出会い、ツイッターでの開花、など、激変期にある。それは、ある意味での「不安定期」なのかもしれない。田口ランディの先述のエッセイの中では、「パズル遊び」というタイトルで、その「不安定期」に発病したり、インド帰りのようにぼーっとしてしまう人の話が書かれている。確かに、深尾先生も繰り返し、「過剰摂取による『智恵熱?』にお気をつけになって」とメールで書いてくださっている。僕自身、それを振り解く為に、ツイッターも書いてみたり、妻と飲みながら語らったり、このブログにまとめたり、という形でバランスが取れているから、何とか激変期に波乗りが出来ているような気がする。逆に言えば、そういうバランス均衡の作用が働かなかったら、波に溺れてしまう可能性は少なくない。その事について、先のエッセイはこうも教えてくれる。

「直感や感覚を特化させた時に心の全体像はバランスを失う。思考や感情に比べて直感や感覚が突出していると、他の部分に空白の仮想領域が出現する。その仮想領域を埋めるのがパズル、そんな感じがする。(略)あの遠い夏、熱狂したパズル遊びを、私はいま、確かに作品のなかでしているのかもしれない。」(田口ランディ、同上、p290-291)

そう、「心の『蓋』をこじ開け」て見えてきた世界を、ちゃんと「作品」として捉え直さないと、「蓋が開いたまま」で「身も蓋もない」事態になりかねない。僕にとっての「作品」とは、現場の実践へのコミットであり、理論的分析を絡めた文章を書く事である。つまり、今まではどちらかにバランスがずれていて、その統合が難しかった両者に、今気づきつつあること、「今日生まれた」何か、を還元出来るか、が問われている、と思う。そして、それが出来ている先達がいる、という事も、心強い。

「この経験を通じて、『自分らしさを生かす』ことの、よりグローバルな意義に気がついた。私という『個人』の『人生の充実』はもとより、学術的な研究においてだけでなく、実践・社会的なコンテクストにおいても、『当事者の自己展開を支援すること』の重要性を強く認識したのである。」(千葉泉「『自分らしさ』を中心に捉える-私が中南米の歌をうたう理由-」東洋文化89号、p62-63

著者の千葉氏は、研究者という「蓋」と、その「蓋」により抑圧されてきた聴覚的センス(マプーチェ語を話したり、チリの伝統民謡をギターで弾いて歌ったり)という「自分らしさ」を統合させることによって、「歌って弾ける大学教授」が誕生した、という。僕自身、研究者という「蓋」の下に眠っているどんな「自分らしさ」と統合すべきか、何となく直感で感じている。多分それは、昨日の県の障害者自立支援協議会の部会の現場、あるいは今日の重症心身障害者の地域生活を考えるシンポジウムの双方で求められる「議論を捉え治し、新たな光を与え、一つの方向にまとめる産婆術的対話」なのだと思う。それなら、僕にも出来るし、以前からやってきた。この「自分らしさ」と、これまでの「蓋」の統合の中で、新たな「作品」を理論的にも実践的にも還元していくこと。これが、僕の中での「魂の植民地化」を脱する手段だと思う。

さて、そろろそ今日の現場に向かうとしよう。

「三食教」からの自由

 

久しぶりに休日の日曜日。ソファーでうたた寝をする快楽。それは、何もしないことの快楽でもある。

何かをすることが、良いことだ、とか、生の充実だ、と思いこむようになって久しい。特に、僕の中では強迫観念的に「予定を埋めねば」と、20代の前半頃、思っていた。予定を入れて、どこかに行き、何かをすることが、自分が生きている存在証明そのものである、と思いこんでいた。

その理由は、事後的には色々思いつく。例えば、小学校5,6年生の頃、クラス全体で蔓延したイジメの渦中にあって、全くその2年間の記憶が無いほどの喪失感を持ったから。あるいは、中学時代の塾や進学校といわれた高校時代を通じて競争社会にどっぷり浸かったから。and so on. しかし、そのどれを経験しても、そうならなかった可能性もある、と考えてみると、結局何だかんだ言っても、自分で「何かをすること=良いこと」という幻想を無自覚に選び取り、没入していった事だけは、事実であると事後的に思う。そして、その没入から、ちびりとではあるが、脱出し始めている。

脱出の一番のきっかけが、「三食教」の自覚。

昨日、大学生の頃しょっちゅう話し込んだ友人のTさんが、松本から千葉への移動の途中、甲府に寄ってくださった。実に12年ぶりの再会。スターバックス小作、と場所を変えながらお互いの一回りの年月を総括する中で、ダイエットの話をしているときに、ふとTさんから出てきたフレーズ。なるほど、三食食べなくちゃいけない、っていうのも、一つの宗教というか「三食教」なんだね、と。それを聞いて僕も一言、「三食というより、僕の中では三食でした」と。三食をきちんと食べる事に真剣になる、ということは、ある意味、そのリズムへの囚われ。一昨日もその話を県庁の人としていて、「三食ちゃんと食べないと身体に良くない、っていうじゃないですか?」と聞かれたが、その時ふと感じて言葉にしたのは、「ダイエットに関しては、教義は色々。三食ちゃんと、も教義の一つ。自分に合えば選べばいいし、合わなければ選ばなければいいのでは?」と。そう、そうやってようやく他人から「三食教」への改心を言われても、その教義から自由になりつつある。おかげで体重は、この2ヶ月間で80.8キロから74.4キロと6キロ減りました。

で、この「三食教」からの離脱期に、人から薦められて手に取ったある本に、この話題と重なる事が書かれていた。

「以前、人間達は二、三回、食事をしていましたし、それも手作りのローティー・パンと少し野菜料理があればそれを。いまでは二時間毎に食べ物がいりますし、食べることで人々は暇がないほどです。」(ガーンディー『真の独立への道』岩波文庫、p40

インドがイギリス文明に支配されている現状に警句を発したガーンディーの明言。これを読んでいて、強い既視感を覚える。そう、以前香港で読んでいた、ドン・ファンの教えにそっくりだからだ。

「いつも昼すぎ、夕方六時すぎ、朝八時すぎには食うことを気にしとる。腹がへってなくても、その時間になると食う心配をしとる。おまえの型にはまった精神を見せるには、サイレンのまねをするだけでよかった。おまえの精神は合図で働くように仕込まれとるからない。」(見田宗介『気流のなる音』ちくま学芸文庫、p116)

ガーンディーは、宗主国イギリスからの独立を求めて血気盛んな青年とのやりとりの中で、イギリス人を排斥するのではなく、拒否すべきはイギリス文明である、と説く。ドン・ファンは、アメリカ文明の型から自由になれない文化人類学者カスタネダに対して、その型から自由にならない限り、ドン・ファンが見えているものは見えない、と説く。

どちらも、人間そのものの否定ではなく、人間を強固な鋳型にはめる西欧文明への批判を強める。あなたが「正解だ」と思っている事は、唯一絶対の真理ですか、と。そうではない可能性があるのに、その可能性に盲目になり、自身が信じている体系に無自覚に囚われていませんか、と。「三食教」もしかり。その体系に無自覚な囚われ状態なのか、そうではない可能性をきちんと考えるのか? そう、日本だって、その昔は一日二食や一食だったのだ。昨日Tさんをお連れした小作で食べた「ほうとう」だって、粗食時代のエネルギー源だからこそ、カボチャに里芋にニンジンに、と炭水化物が一杯入った「馬力を出す食事」なのである。それを、車しか使わない今、ぺろりと食べたら、そりゃ、太る。

で、シンクロするときはシンクロするもので、同じくソファー読書に選んだ別の本でも、気づいたら同じ内容が書かれている。

「だから僕たちは考えなければ駄目なんだよ。君たちが皆で現実だと考えているもの、世間だって法律だって食うことだっていいよ。なぜそれが現実と考えられるに至ったのか、よく考えてごらんよ。原因を知らずに結果だけ動かすことと、原因ごと動かすのと、どっちが力だと思うかね。」(池田晶子著『無敵のソクラテス』新潮社、p34)

夭逝した哲学の巫女による、ソクラテス問答集の現代版。筆者の死後、このたびその問答集を集めた「完全版」が出たので、以前のハードカバーは持っていても、ついつい手に取る。いつもの論理のドライブの鮮やかさにはまっていくうちに、気が付けば、「三食教」を相対化する文言に出会う。そう、「三食食べるのがよい」という事にしろ、「なぜそれが現実と考えられるに至ったのか」について考えずに、無批判に受け入れていたのだ。そのくせ、ダイエットしたいとか体重が減らないだとか、は、「原因を知らずに結果だけ動かすこと」そのものなのだ。そして、「三食教」から自由になることは、単に体重が減少することだけでなく、その「三食教」を称揚する資本主義社会の様々な仕掛けの内情まで垣間見える、という意味で、「原因ごと動かす」営みであるのかもしれない。

しかも、上記に挙げた3冊が共通するのが、どれも「対話編」である、ということ。ある教義なり思考なり文明なりにどっぷりと浸かって固着している状態にある時に、別の考えを単に書いて伝える、という一方通行では、固着化された何か、は開かない。固着化された相手の今から対話を始め、一枚一枚、思いこみの薄皮をはがしながら、「なぜそれが現実と考えられるに至ったのか」の大元へと辿り着く。説得ではなく納得を産み出すプロセスには、このような産婆術的対話が必須である。そして、その対話に納得していくうちに、気づいたら己の立ち位置が根本的に変容する。

ダイエットが出来ない自分の意志の弱さを単に個人的問題として責める事は適切ではない。そうではなくて、人々が3食きっちり食べてくれる事で消費が廻り、経済が廻る、というこの資本主義経済至上主義の文明の中にあって、その文明を無自覚に賛同し、文明の維持を(無意識に)称揚させられている、という現実への自覚があるか、が問われている。これはサプリメントによるダイエットでもしかり。

ガーンディーの本は、ダイエットの薦めでは決してない。だが、現代文明がもたらした「三食教」から自由になるためのヒントとしてなら、ダイエットに通底する事は書かれている。

「私はたくさん食べます、消化不良になります、医者のところへ行くと、錠剤をくれます。私は治ります。またたくさん食べて、また錠剤をもらいます。こうなったのは薬のせいです。もし錠剤を使わないとしたら、消化不良の罰を受け、二度と過食しないようにしたでしょう。医者が間に入ってきて、過食を助けてくれたのでした。それで身体は楽になりましたが、心は弱くなってしまいました。このようにして最後には、心をまったく抑えられないような状態になってしまいました。」(ガーンディー、同上、p78)

このガーンディーの発言を、単に個々人の医者の批判と捉えてはならない。資本主義経済の中で、製薬会社や病院の利益との相関関係として現れた、医師の立ち位置への批判、つまりは資本主義文明の片棒を担ぐ存在としての医者役割の批判、と捉えるべきだ。そうみてみると、私たちは胃薬や医者を、「三食教」を補強し、「三食教」へと依存させる、亢進役として用いてきた。薬も医者も、使い方を誤れば毒になる。その典型例として、「三食教」があるのかもしれない。

冒頭に戻ると、「何かしなければならない」というのも、「三食教」と同じ、一つの思いこみ。その思いこみから自由になると、意外と身体も心も楽になる。そんな楽さを、少しずつ、身につけ始めているのかもしれない。

ツイッターと呪縛からの解放

 

ここ最近、新たな出会いや展開の波に乗っている。いろんなご縁に見開かれ、防衛的反応ではなく、自然と楽しむモードに切り替えてみたら、スルッとあれこれが受け止められる。しかも、様々な気づき、にリンクが張られている、ということにも気づき、何だか今自分がそれらを一体として受け止める事が出来る時期に来ているのだな、と実感する。

まず、その具体例として、twitter。以前お知らせしたが、先々週の学会先でアドレスを取得し、先週の勉強会打合せでその話をしてみたところ、同席していたジュンコさんがツイッターメンターとなって下さって、一気に世界が拡がる。興味ある人のフォロワーを芋づる式に探る中で、先週の段階で2人しかフォローしていなかったのだが、一気に30人ほどをフォローし、フォロワーも何だか付いてくださる。

この間読み囓った入門書によれば、ツイッターは主に仲間との交歓、情報の取得、新たな出会い・やり取りの創発、といった内容に強いそうだが、僕自身は現段階では主にを志向している。呟きを発信する、と気張らなくても、リリーフランキーのぼやきにニヤリとしたり、茂木健一郎のアフォリズム(なぜかいつも英語)にフムフムと頷いているうちに、このブログと同じで、引用やら解釈なら、をしたくなってくる。そんなときに呟きを整理してみると、ちょびっとカタルシス。例えば、こんな感じ。

takebata 抵抗勢力ではなく、「負の関心」と捉えたら、「正の関心」への転換戦略を考えられる。 RT @kenmogi Resistance to new things can be used to create the fuel to carry on with the reform.

こんな風に、他者からのメッセージを、自分なりのコンテキストに落とし込む作業の面白さを実感しているものだから、昨日読み終えた本に同じ事が書いてあって、びっくりする。

「我々人間はメッセージからコンテキストを創発する能力を持っている。お互いに与え合ったメッセージからお互いに新しいコンテキストを創発することができる。こうして接続されたコンテキストは元々お互いが持っていたコンテキストの足し算とは別のものである。この足し算以上のものが生まれるところに、コンテキストの接続の意義がある。」(安冨歩・本條晴一郎『ハラスメントは連鎖する』光文社新書、p270)

これは、前々回に書いた「魂の脱植民地化」に関しの議論の「基本文献」として勧められた、ハラスメントの構造について分析された本である。正直、この本を読むのには時間がかかった。文体は分かりやすい。内容も筋道がはっきりしている。読みたくないのではない。だが、自分の課題意識と深くつながる論考をしている為、時間を置きながら、休み休み読んでいなかいと、受け止めきれない、と感じていたのである。こういう読書は初めてだ。だからこそ、途中で一旦読むのを止めて、ツイッターにのめりこんでみた。で、昨日読むのを再開して、最後まで読み進めてみた時に、出会ったのが、上記の一言。ハラスメントの対極にあるコミュニケーションとして、「受容と提示からなるエンターテイメント」(p260)を指摘しているのだが、そのエンターテイメントとしてのコミュニケーションの構造を分析した上記の論考は、そのまま、ツイッター論にもつながる。先にも少し書いたが、「お互いに与え合ったメッセージからお互いに新しいコンテキストを創発する」事によって、「コンテキストの足し算とは別のもの」が生まれる、そんな「コンテキストの接続」の場として、ツイッターが機能している。ちょっとだけしか遊んでいないのだけれど、現時点では、そんなことを感じる。

もちろん、何となくしかわからないけれど、この種のソーシャルメディアには、当然負の側面も存在する事が容易に想像出来る。その一つとして、エンターテイメントからハラスメントへの転換、という事態も考えられる。その点について考える為にも、先の新書が頼りになる。

「ハラスメントとは、『人格に対する攻撃』『人格に対する攻撃に気がついてはいけないという命令』の二つの合わせ技であり、情動反応の否定とラベル付けの強制によって実行される。そしてハラスメントにかかった状態、つまり呪縛された状態とは、『謂われなき劣等感』を押しつけられた上で、『劣等感に気づかないように設定した自己像』を守ろうとする状態である。」(同上、p185)

同書は、「メッセージは身体の情動反応を通過して、コンテキストになる」という前提で議論を進めている。様々なメッセージは、自分の感情や生理的感覚を通過させる中で、自分なりのコンテキストとして解釈される、という立場だ。その立場から見ると、「情動反応の否定」、というのは、自分自身の中をくぐらせてメッセージを独自に解釈してはならない、というキツイ事態になり、つまりは「人格に対する攻撃」となる。その上で、他者の情動反応に基づくコンテキストの自己内部化の強制、という形で「ラベル付け」が行われると、その状態に呪縛され、そこから一歩も出れなくなってしまう。その呪縛から解き放たれる為には、まずは情動反応の「肯定」と、ラベル付け「からの自由」の二つがキーポイントとなる。その上で、情動反応に基づくメッセージのコンテキスト化と、その相手のコンテキストを認めつつ、創発的なコンテキストの交歓の中で、「足し算以上」の新たな何か、を生み出そうとする。

僕が誤読でなければ、それはツイッター上で行われている過程でもあり、だからこそ、僕のような多くの新規参入者が爆発的に増えているような気もする。そう、既存のメディアが(グーグルでさえも)ツイッターにかなりおびえている、というのも、それは、メッセージ交換における質的転換の可能性をツイッターが秘めているから、とも言えるのかもしれない。そして、それ自身、様々な閉塞感に苛まれていた、自分自身が求めていた事でもあった。

タケバタのブログは写真もなくていつも長文ですね、とあきれられる。その理由は、もちろん言いたい事が山ほどあるからだけれど、それに付け加えて、これまで外的規範に遠慮して禁欲的だった、情動反応をダイレクトに通過させた自分なりのコンテキスト化、の魅力にはまっているからである。色んなインプットをする中で感じること、考えること。それを、学問の枠組みの中で禁欲的に表現するだけでなく、その枠組みの外で自由にあれこれと脱線的にズンズンと書き進め、その中で思考をスパークさせ、拡げていきたい。そう思ってブログを書いていると、今日も気づけば1行40字がデフォルトのテキストデータで80行を越えている。どんどん、そのコンテキストの中身が膨らみつつあるのだ。

これまでは、主に他者のテキスト(書籍)とのメッセージの交歓、が、このブログを長く書き進める誘因となってきた。もちろん、それは読んでいる時の自分の状態とリンクする形での動的なものだったのだけれど、ツイッターはその相手のコンテキストも動的であるが故に、躍動感が更に増す。だからこそ、140字という制限は、ライブ感を保つための上限なのかもしれない。そして、ある程度の思考がまとまったらこのブログで、普段の創発的状態を導くためにはツイッターで、というのが、今のところ、自分に適しているのかもしれない。

実は本当はハラスメント論についてもあれこれ書きたかったのだが、長くなりすぎたので、それはまた、今度。

今日も京都て

 

もとい、今日も今日とて流浪の民、である。今日も京都からの帰り道。しかも、今週も学会からの帰り道。

今日は立命館大学で開かれていた、日本NPO学会で大会発表してみた。この学会の理事で大会校の幹事であるサクライくんは、大学時代のボランティア仲間。そのボランティア団体で、彼は集団を統括するマネジメント、僕は渉外的な仕事をしながら共同代表的なポジションにいた。15年後の今、彼はボランティア論で単著も出す立派な研究者になっている。片や僕は、相変わらず渉外?的に、学会的にも研究的にもディシプリンも定まらず、うろうろ動き回る日々。敢えて言えば、お互い「らしいね」となるような気もする。

そんな彼とも再会したり、大学院時代の後輩や知り合いにも出会えたり、だけでなく、この学会の僕のフロアは、なかなか面白い発表の場だった。アドボカシーという共通の切り口はあるものの、テーマはソーシャルメディア、河川環境、国際協力NGO、そして精神医療オンブズマン制度、と実に多様。切り口も異なる。そんな多種多彩な場であったが、討論者と司会者の二人の先生による各人への切り口がなかなか鮮やかで、僕自身も様々な事を学ばされる。

特に、切れ味鋭い討論者のK先生が「面白かったよ」と終わった後で仰ってくださり、嬉しくもビックリ。これまでの僕の学会発表の中でも、精神医療分野のNPOに関する内容の時はしばしば、読者フレンドリーではないこと?も影響し、あまり関心も寄せられない、ひどい時には誰からも質問されない事があった。今回も会場からの質問は無かったけれど、討論者からの質問はどれも発表内容の穴を付いてくださるだけでなく、内容をしっかり理解された上での、改善点に直結するご指摘。こういう鋭い質問を受けた事が久しぶりで、一匹狼としては、京都まで来た甲斐があったなぁ、とほっこりする。今回はフルペーパーを準備する中で、コンテキストが異なる読者にも理解される様な努力はしたつもりだったが、こうして届いて欲しい方に届くことほど、喜ばしいことはない。

で、先述のサクライくんには、「昨日の懇親会は凄く評判がよかったよ」と言われ、この学会なら出てもよかったかなぁ、とちょっぴり思ったのだが、実は昨日は別の「懇親会」に出ていた。しかも、京都ではなく、福島で。

昨日は福島県の自立支援協議会の人材育成部会主催の研修会に呼ばれて、郡山に出かけていた。1月にDPIのタウンミーティングでお世話になった際、「ジャパネット」さん、と命名され、その早口が聞きたい、とまた呼ばれたのだ。確かに早口で興奮すると、オクターブがあがり、例の「さらにぃ、みなさーん!」のキンキン声になる。だが、これまで皆さん遠慮して、そう思っても言わなかったのだが、ユーモアあふれるミヤシタさんから命名されて気づく。以来、講演の際の「つかみ」で使わせて頂いているが、笑いがとれて、大変よろしいのです。

で、昨日わざわざ京都の学会を一日サボってまで郡山に出かけたのは、こういうオモロイ現場の人との懇親会の場は、多くの学びの場でもあるから。昨日も、一次会、二次会とインフォーマルな場でのオシャベリの中で、福島でどんな風に相談支援のネットワークを構築して来たのか、の裏話を色々伺う。で、このネットワークって、今日の学会発表で河川環境に関する市民ネットワークについて発表されていた、東工大の飯塚さんによる「キーパーソン連結型」そのものだよな、とも振り返ってみて整理出来る。

この飯塚さんの整理は、市民団体の連携の形の多くが、各市民団体のキーパーソンによる連携である、と、多摩川流域の事例研究から整理しておられたが、福祉分野の連携がまともに機能する場合も、確かに各団体のキーパーソンがつながっている事が、コアな連携になっている。昨日の福島では、スズキさんとミヤシタさんというキーパーソンの二人の飲み会が、昨日の一次会に集まった10数人を初めとした障害者福祉のネットワークの原点にあった、とお二人から伺った。このコアメンバーによる結びつきは、確かに障害の分野においても、確実にネットワークを広げていく。ただ、この「キーパーソン連結型」の連携の危うさは、そのキーパーソンが居なくなればオシマイの壁、がある点であろう。

この「○○さんが居なくなればオシマイの壁」というのは、何もNPOに限った訳ではない。私が大学院生の時からずっと追いかけているソーシャルワーカーの世界だって、一人職だったり、あるいは複数配置された現場でも、ある人に高い力量があったりすると、生じやすい問題である。カリスマワーカーと呼ばれ、地域のある種の顔役にもなって、どんな問題でも解決に導く職人としての力を持っているワーカーが、いろんな現場にいる。そういう人って、頼りがいがあるのだけれど、その人「しか」いないと、その人がいなくなれば、その地域の福祉レベルは急にガクッと下がってしまう。本来福祉のシステムとして検討すべき課題が、属人的な機能・要素に還元されてしまう脆弱性や危うさを、僕自身は問題意識として感じていた。そして、その危うさは、次の一文へとつながる。

「日本では、『お伺いをたてる』という卑屈な役割関係を踏まなければ生きていきにくい医療との関係を呪う人もいれば、逆にその支配力に依存し保護される事を求め続ける人もいる」(山本深雪「『心の病』とノーマライゼーション」ノーマライゼーション研究1993年年報:103

○○さんが居なくなればオシマイ」という状態に、特に権力の非対称性が指摘される精神医療分野でおかれてしまうと、それは容易に「オシマイ」にならないための「お伺い」という戦略が創出する余地を残す。精神障害を持つ人のこの「お伺いを立てる」という論理のハラスメント性と、にもかかわらず、その論理の中に絡め取られてしまう実態を鮮やかに説き起こす山本深雪さんの文章は、17年前に書かれたと思えないほど、残念ながら現在性を持ってしまっている。病院内にあっては、文字通り「その支配力に依存し保護される事を求め続ける」中での長期入院の選択、院外にあっては、「『お伺いをたてる』という卑屈な役割関係」に関する葛藤、その中での、専門職による「○○さんが居なくなればオシマイ」という状況構築の危険性と、権力性の保持。こういった問題は、決して過去物語になっていない。そういう状況をどう超えられるのか、も、今回発表したアドボカシー課題と直結しているし、郡山でも議論された相談支援の今日的課題でもある。

まだ、きちんと整理出来ていないが、このあたりに次の研究課題をもらって、今日も甲府への旅路を急ぐのであった。

内なる植民地化

 

金曜日にお会いした深尾先生に、おずおずとメールで感動した旨を送ってみたら、早速返信頂いただけでなく、このHPを見てくださったり、お仲間をご紹介してくださったり、そして読みたかった論文をお送り頂いたり、の展開が続いている。突然の展開にびっくりしながら、温かく迎えてくださる先生の心意気に感謝し、そしてその展開を楽しんでいる自分がいる。

さて、甲府は昨晩大雪になったが、その最中、昨日はようやく時間が出来たので、深尾先生に送って頂いた論文(深尾葉子著「魂の脱植民地化とは何か呪縛・憑依・蓋」『東洋文化』89号、p6-37)を読む。真っ赤になるほどあちこちに線を引いて、書き込みをしながら、あるフレーズに強い既視感をおぼえる。

「植民地は、ある一定の集団が、別の集団に対して、一方的に支配権、決定権を持っている状態を指し、それらが集団的にも個人的なレベルでも行使される。植民地的状況(ここでは、広義に、国家的植民地のみならず、個人間の支配被支配関係も含む)のもとでは、被支配側は、しばしばいわれなき劣等感を押し付けられる。(略)このようにして、自分自身の属性が、否定的なまなざしで他者から眺められ、そのような処遇を受け続けることによって、魂は傷つけられ、その発露をゆがめられる。」(深尾論文より。以下、今日のブログエントリーで特に出典記載なく引用するものは、全て上述の『東洋文化』に掲載された深尾先生の論文である)

この文章を読みながら、僕自身が研究テーマとして追いかけている、精神科病院や入所施設の問題も、我が国の「内なる植民地化」にあたるのではないか、と強く感じた。そして、自分がこの「魂の脱植民地化」問題について、実は入所施設や精神科病院から地域に戻って来られた方々への聞き取り調査の中から、気付き始めていた論点である、ということも、みえてきた。

精神科病院や入所施設は、元々、治療が支援が必要な障害者の為に作られた施設である。本物の植民地とは違い、搾取や疎外が、元々の目的とされた訳ではない。むしろその逆に、「良かれ」と思って作られた施設である。だが、病院や施設での利用者の声を分析し続ける中で、どうやら実質的には「植民地」と通底する何かがある、と深く思うようになってきた。

『入院してもう5年。「保護者いないから単独では退院はあかん」と医師から言われる。このままがまんしないといけないのか。』
『看護師、ヘルパーに偉そうに言われたり、ひっぱられたりします』
『しょっちゅう保護室にいれられている。保護室の使われ方に疑問を感じるが、どこに聞けばよいのかわからない。』
『病院にはケースワーカーがいない。看護師にきくと、退院については主治医にまかせているから、と取り合わない』
『薬を山ほど飲まされる。「減らして」と言うと増やされた。』

これらの声は、精神科病院への訪問活動を続ける、NPO大阪精神医療人権センターに、大阪府内の入院患者から寄せられた声として、同センターのニュースに掲載されたものである。どの「声」も、50年前ではなく、今世紀(20037月~200511月:25ヶ月分)の「声」である。この「声」を分析し、一つの論文(竹端寛「『入院患者の声』による捉え直し-精神科病院と権利擁護-」横須賀・松岡編著 『支援の障害学に向けて』現代書館、2007年)にまとめる中で、精神科病院の中が、本当に「異国」状態(=深尾先生の言葉を使うなら「魂の植民地化」状態)であると強く感じた。そして、この論文を書くキーワードにもなった、忘れられないある入院患者さんの声がある。

「病気に疲れ果てた。退院したくない。」

これをさもしい自己決定と早合点するなかれ。「病気に疲れ果て」る事(A)と、「退院したくない」こと(B)の間には、そのままで論理的な因果関係としての結びつき(AB)は弱い。その間に何かがある(A→□→B)、あるいは「病気に疲れ果て」る以前に大きなストレス(=深尾先生の論文では「ハラスメント」という使い方をされている)がかかって、そのスパイラルの中で結果的に「退院したくない」となる(■→→■’→B)か、どちらにせよ、単純に個人的な「病気」の問題ではなく、そこに何らかの人為的、社会構造的な問題があるのではないか。そう思って、論考を進めてきた。その論考は、先の深尾先生の考察を用いるならば、精神科病院での「一方的に支配権、決定権」が「行使される」状態が継続する中で、「自分自身の属性が、否定的なまなざしで他者から眺められ、そのような処遇を受け続けることによって、魂は傷つけられ、その発露をゆがめられ」た結果、「退院したいくない」という(表面上の)「選択」に結びついた、とは言えないか。そして、この(表面上の)「選択」、については、もうじき発売されるある雑誌に、ちょうど次のように書いていた。

『「○○したい」という表明。それが、そのまま自分の本心からの想いや願いの表現である場合もあるが、一方で、抑圧された何かをそのまま口に出せずに、その代わりの表現として口にしている場合もある。「薬を飲みたくない」という場合、(略)、単なる服薬拒否ではなく、副作用や過剰投与の心配、あるいは医療機関への不信感などの表明である場合もある。これは、強制治療への不満の表明にも同様の事が言える。当事者の「○○したい」を尊重しつつ、その背景にある、前景化しない(諦めさせられている)想いや願いがないかどうか、を探る支援。このような権利擁護支援を展開するには、どうしたらいいだろうか?』(竹端寛「セルフアドボカシーから始まる権利擁護-方法論の自己目的化を防ぐために-」『季刊福祉労働』126号)

これを書いた頃、まだ「魂の脱植民地化」というフレーズには出会っていなかったが、深尾先生の論考に割と近い線で書いているのかもしれない、と改めて感じた。「前景化しない(諦めさせられている)想いや願い」が抑圧されている現状をどう変えるか、という論考をしていたのだが、そもそも「前景化しない」ということ自体、「魂の植民地化」に近いのかも知れない。深尾先生は、その定義を次のように書いている。

『他人に何かを押し付けられたり、強制されたりするだけでは、「魂は植民地化」されない。その相手のパースペクティブを自分自身の中に取り込んで、自分本来の情動や感情に逆らいながら、自らを制御し、行動を形成し、他者への働きかけを行う場合に、その魂は「植民地化され」ているのである。』

「相手のパースペクティブを自分自身の中に取り込んで」「自らを制御し、行動を形成」すること。これを先の精神科病院の論考に当てはめるなら、これまでの治療や支援過程(相手のパースペクティブ)で「病気に疲れ果て」てきたのに、それを「自分自身の中に取り込んで」、「退院したくない」という「制御」に結びつけていないか。つまり、人為的、社会構造的な問題を、個人の問題として引き受け、「退院したくない」と内面化して処理しようとしていないか、という事である。ただ、もっと言えば、それを外部の権利擁護機関に電話してくる、という点で、ご本人の中での内なる葛藤がきっとあるのではないか、とも見て取れる。

この論点は、実は精神科病院だけに限った事ではない。大阪府立大学の三田優子さんが中心となり、僕もお手伝いさせて頂いた、長野県の大規模県立入所施設「西駒郷」から、地域に戻られた知的障害のある方々へのインタビューでも、次のような事が聴かれた。

「あのね、今もうこういう暮らしが楽しいから、二度と帰れって言われても嫌だ」
「グループホームに来て、ああ幸せだなあって思って。4人部屋だったもんで。西駒におるときに。小さな部屋に4人部屋でね。」
(『「長野県西駒郷の地域移行評価・検証に関する研究事業」報告書』)

入所施設から地域の暮らしに変えてみて、初めて地域のリアリティがわかる。比較対象を得る事になる。上記の声のお二人は共に20年間、入所施設で暮らしておられた方々だが、地域で暮らすようになって、別世界を知って、初めてこれまでの自身の住んでいた入所施設という世界の特殊性に気づく。自分がこれまで住んでいた居住区間が、「小さな部屋に4人部屋」であること、その不便さは、「グループホームに来て」、一人部屋を持つ、という比較体験があって初めて、「ああ幸せだなあ」という形での気づきとなる。これは、「魂の植民地化」の自覚(=つまりは「脱植民地化」)とも通底する、とは言えないだろうか。だからこそ、「二度と帰れって言われても嫌だ」という「魂」の叫び、が出てくる、とも言えるだろう。

深尾論文に触発され、何だか小論文のように長々書いてきた。これを終える前に、一つ、忘れてはいけない大事な論点にも触れておきたいと思う。

このブログを、精神科病院や入所施設で職員として現に働いておられる方も読んでおられる、と聞く。そういう方々に対して、僕は職員個々人への糾弾の為に、この文章を書いている訳ではない。逆に、施設や病院には、善なる意志を持って、個人的に良くしたい、と思って働いておられる方々も、少なからずおられる。ただ、「植民地化」されたシステムの維持の為に、結果的にそこで働く労働者の「魂の植民地化」も進んできたのが現実だ。

その事を指して、「病院・施設は悪い」と糾弾するだけでは、「脱植民地化」ではなく、別のイデオロギーなり権力による「植民地化」につながりはしないか、とも危惧している。深尾先生は論考の最後で、『魂の自由は、「呪縛」からの解放によってのみ獲得されうる』と書かれている。「呪縛」を、一方的な「○○すべし」の押しつけ、とするならば、「病院・施設」イデオロギーも「呪縛」だが、「地域で暮らすべし」と「べし化」することも、一つの「呪縛」とならないか。そうではなくて、「○○したい」(=地域で暮らしたい)を実現する為に、これまでの日本の障害者福祉政策にかけられてきた「呪縛」をどう解きほぐせるか、このような論点で取り組まないと、物事はうまく進まない、と思う。

その事を、これも偶然先週の金曜日の夕方、京都の書店で手にとって再読した僕の心の師の一人、内田樹氏も適切に表現している。

「死者であれ、制度であれ、イデオロギーであれ、死に際には必ず『毒』を分泌します。かつては社会に善をなしていたものが、死にそびれると生者に害をなすようになるのです。それをどうやって最小化、無害化するか、それを考えるのは、社会人のたいせつな仕事の一つなのだとぼくは思います。」(内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』角川文庫、p212)

「脱植民地化」の議論の際には、一方で必ずこの「毒」の「最小化、無害化」を意識しなければならない、そう強く感じている。

食毒から、魂の脱植民地化へ

トンネルを抜けると、本当に雪国だった。

京都からの帰り道。二軒茶屋で開かれた「国際ボランティア学会」に出席すべく、金曜から京都に来ていたのだが、学会のラウンドテーブルが終わるや否や、夕刻5時半からの合気道のお稽古目指して、タクシーに駆け込み、国際会館京都名古屋塩尻甲府、と疾風怒濤の帰り道。昨日は遅くまで飲んでいて、新幹線で昼ご飯を食べた後、乗り過ごさないためにメールを書いた後、名古屋からの「しなの」で爆睡。で、起きてみたら、外は真っ白なのである。あれまあ、びっくり。国内にいても、この気温差は疲れる。もちろん、先週香港に居たので、なおのこと。そりゃ、電車で爆睡したくもなります。

で、この旅で大きな収穫だったのは、「魂の脱植民地化」という言葉に出会えた事。阪大の深尾先生の研究発表の中で、環境問題も社会的な文脈のコンテキストの中で読み込まねばならない、という議論に興味を持ち、懇親会で質問していたら、出てきた。まだ、ちゃんとその言葉を理解している訳ではないので、あくまで印象的感想しか書けないのだが、私たちのパースペクティブや行動は、テレビや習慣、「○○すべき」という規範など、様々な外因性のものに「植民地化」され、情報化が進む中でその「植民地化」と個々の「植民地」の隔絶度合いが、個人の中である種の解離状態を引き起こすくらい、深刻なものになっている。しかも、その「植民地化」された状態について個々人が無自覚なので、何だかしんどさを抱えながらも、解離状態に気づかない。自身の「植民地化」された状態に気づけなければ(相対化出来なければ)、当然の事ながら、他の類型の「植民地化」された状態にある人の事も理解出来ないし、ましてや態度変容を迫る、なんて事は出来ない。少しアルコールが入った場面で先生の話を聞きながら、そんな風に解釈してみた(だから、この説明は完全に僕の読み込みである)。

そして、昨日から、この「魂の脱植民地化」というフレーズが、頭の中でワンワン鳴り響いている。そう、僕自身の「魂」の「植民地化」とは、以前書いていた、香港で相対化し始めた、「目の前の一点にしかすぎない」「明晰さ」への固執につながるのではないか、と。また、それを穿つ<明晰さ>とは、見田宗介氏によれば、「生き方を解き放つ」、固着された自分自身の視点から普遍的な世界へと開かれた「窓」であり、それが「魂の脱植民地化」ではないか、と。

別に他責的に「誰かに乗っ取られた」という意味で、「植民地化」と使っているのではない。そうではなくて、自分が納得して、その通りだよな、と思いこんでいて、かつ「自分らしさ」と思いこんでいる、自分の中での支配的な言説なり視点なりの少なからぬ部分が、ストックフレーズや手垢にまみれた思想の焼き直し・刷り込みに過ぎないのではないか、ということである。しかも、それを主体的に選び取った、と思いこんでいるけど、どこかで「選び取らざるを得ない」場面に構造的に追い込まれていませんか、とも、この「植民地化」から読み取れる。

深尾先生は、中国の黄土高原での砂漠化と、その対策としての植林を例に挙げ、人為的に砂漠化し、その反転として植林しているけど、そのどちらにも、「自然のご都合」というものを無視した「人為的な良きこと」が支配的に流れていて、それって結果的には「不自然」ではありませんか、と仰っている(ような気がした)。この場合、「魂の脱植民地化」とは、人間のあれやこれやの思惑・都合に「植民地化」されるのではなく、「自然のご都合」を考慮の対象にして、計画的植林ではなく、里山的な「自ずから」の世界を大事にする、というメタファーが当てはまる、と僕は受け取った。整然と規格化され、雑草抜きまで暑い中している植林地は、結果的に自然の快復力を奪っていませんか、と。

話がワープするが、前々回紹介した見田宗介の本の中で、ドン・ファンは次のように呟いているのを紹介している。

「いつも昼すぎ、夕方六時すぎ、朝八時すぎには食うことを気にしとる。腹がへってなくても、その時間になると食う心配をしとる。おまえの型にはまった精神を見せるには、サイレンのまねをするだけでよかった。おまえの精神は合図で働くように仕込まれとるからない。」(見田宗介『気流のなる音』ちくま学芸文庫、p116)

この「型にはまった精神」。レコーディングダイエットの著者、岡田氏は「太る努力」と言っていたもの。僕自身も、一ヶ月前に主治医の漢方医、N先生から「食毒」とラベリングされるまで、真面目に「努力」を続けてきた。「その時間になると食う心配」を律儀にし続けた。「その時間」の前から、食事の確保だけは「お腹がへったら大変だから」と胃の一番(@ATOK16)に考えていた。しかし、この「胃の一番」と思いこんでいた姿勢は、実は胃自身にとっては負担感の相当強い事態だったのだ。だから、過剰な食料接種を何とか処理しようと、せっせと皮下脂肪にため込んで、メタボまっしぐらとなり、かつ身体は重く、疲れる、という悪循環に陥っていた。この「食毒」の悪循環と、「砂漠化植林やせ細った大地の継続」というパターンに、ある種の類型・同型を見いだしつつあるのだ。

回りくどい言い方になったが、つまり僕自身、「食べなきゃ」という「型にはまった精神」を「所与の前提」として受け入れて、信じ込んでいて、この呪縛を解くことへの抵抗感は相当強かった。だが、ここ1ヶ月、炭水化物の量を減らす、という簡単な事で、体重が3キロ程度減り、それを維持し続ける中で、どうやら「食べなきゃ」が、「魂の植民地化」だったのではないか、とうすうす感じていた。そんな矢先、だったので、ご発表の中で触れられた「呪縛を解く」という深尾先生のフレーズに、我が事として反応し、その後の押しかけ議論の中で伺った「魂の脱植民地化」が、今の自分にぴったり来るフレーズとして立ち上がってきた、のだと思う。

そして、一歩引いてみると、この「型にはまった精神」という名の「魂の植民地化」は、僕の言動の、思考の、かなりの部分を占めているのではないか、と疑い始めている。「急激に気づきすぎると、病気になるよ」と深尾先生は仰っておられたが、確かに、この「植民地化」への疑いは、休み休みしないと、自己解体のすれすれの域かもしれない。でも、今は面白そう、なので、楽しめる範囲内で、休み休み、「型にはまった精神」という「植民地」を眺めてみたい。

追伸:何となく、ついったー始めてみました。呟き、は、なるべくはき出そう、と。よかったら、そちらもごひいきに。

波長を合わせる

 

先日、職場を定年退職される先生方の歓送会が開かれた。その際、たまたまお隣の席におられたのが、二人のスポーツの先生方。お二人は、トップレベルのアスリートを指導する監督でもいらっしゃる。こんなチャンスはなかなかないので、トップアスリートの養成について、色々伺う。これが大変面白い。

コーチングにおいては、他者(アスリート)を納得させて態度変容へと導く必要がある。しかも、ある程度の半強制的な指導が効く小学生や中学生ではなく、自主性の尊重や、その裏返しとしての枠組みへの反発も抱く大学生相手である。お二人とも、ご自身のコーチングの手法について、押しつけではダメだ、ときっぱり仰る。彼ら彼女らのやる気を導き、チームの中で高め合うための雰囲気をどう醸成するかが鍵だ、というお話には、深く頷く。昨日たまたま手に取った本は、その飲み会の席でのお話の「復習」の内容に思われた。

「教えるとは、納得させ、行動を変えさせ、さらにその行動をこれから先もずっと続けさせることです。一人の人間にそれだけの変化を起こさせるためには、教える側の言っていることを心の底から納得してもらう必要があります。それを言葉でやろうというのですから、相当なインパクトのある表現でなければダメだと言うことです。」(平尾誠二・金井壽宏著『型破りのコーチング』PHP新書、p86

ラグビーの元日本代表と博学の経営学者の対談。金井先生の本から多くのことをこれまでもインスパイアされてきたが、今回の平尾さんとの対談も非常に面白かった。上記の発言は、その平尾さんのもの。伝える側の発言を「心の底から納得してもらう必要がある」からこそ、コーチの側の言葉も大きく問われる、ということ。僕自身も、教員として、あるいは福祉現場に置いて、コーチングを求められる場面があるが、「相手の納得に基づく態度変容」という部分は全く同じ。であればこそ、言葉を磨け、という平尾さんの発言は、軽い言葉しか紡ぎ出せない私には、ずっしりと重く響く。

ただ、当然想定される反論に、教わる側の能力に関する問いがある。相手が頑固だ、理解する力がない、人間的に未成熟だと、その能力に疑いの眼差しを挟んだ上で、だからこそコーチする側ではなく、コーチを受ける側の問題である、という視点だ。これは、スポーツの世界だけでなく、教員の世界でも、このような言説は一定の真実性を持っている。また、学生による授業満足度調査などについても、その学生の資質への疑いを差し挟む声が聞こえるのも、同類型に思える。この点についても、平尾さんは次のように言う。

「相手の受信機の精度を高めるには、どうしたらいいのでしょうか。これは簡単です。こちら側の受信機の性能を上げればいいのです。もう少し具体的に言いますと、まずは選手の話をよく聞くこと。この監督やコーチは自分の話をきちんと聞いてくれるとわかれば、選手のほうからいろいろ話をしてくれるようになります。そうしたら、その話を流さず効いて、こちらが伝えたい部分にかすったと思ったら、『いまのはいい話だ、もう少し聞かせてくれ』とか『いいところに気が付いた、じゃあこういう場合はどうだ』とか敏感に反応して、そこに選手の興味を集中させるのです。興味を持てば、選手のほうからこちらの話に自然と耳を傾けるようになります。受信機の精度が上がるとは、こういうことなのです。」(同上、p129-130)

相手を変えたければ、まず自分が変われ。このテーゼを深めた平尾さんの発言は、大変説得力がある。「相手の受信機の精度」に問題がある場合、単純に「あなたが悪い」と言って解決する場合もあれば、問題がこじれる場合もある。以前ならそれは「なにくそ」という反発心を伴った努力の正の誘因になったが、今では反発が内面化し、「じゃあやめた」という諦めにつながる場合も少なくない。そういう受信機の精度自体の問題について、以前の叱り方は通用しなくなっている。

そんな場合、平尾さんはまず、コーチ(発信機)の側が、選手(受信機)の話をじっくり聞き、信頼関係を構築する必要がある、という。両者の信頼関係の醸成の中で、相手が聞き取ることが出来る(チューニングの範囲内の)波長に合わせる事が可能になる。そのチューニングが済んだ時点で、相手とこちらの波長が合う、穴が空きそうな場面にさしかかった所を逃さず、相手にも聞き取ることが出来、こちらも伝えたい内容を、スッと差し出す。そうすれば、相手に受け取れる範囲内で、問題の捉え直しが始まり、その捉え直しの主体であるコーチの側の意見にも「聞く耳」を持ち始める。受信機側の単なる糾弾ではなく、受信出来る波長を探しだし、その波長の中で、少しずつ聞きとれる領域を広げるコールサインを送っていく。そのプロセスの中で、受信機の根元的な変容や、質的転換がもたらされる。

名監督の至言は、教員として、福祉現場のコーチとして、行政のアドバイザーとして、送信機の立場に置かれた僕自身にとっても必要な不可欠な視点だった。

根と翼(香港雑記、後編)

 

旅の楽しみの一つに、「旅行のお供本」がある。日常から離れた空間では、テキストから読み取る主体(である僕)の内面の変化が生じていることが少なくない。すると、普段ではなかなかスッと頭に入らない内容から、多くの異化作用をもたらされ、時としてそれが自身の変容にダイレクトに直結する場合もある。

例えば大学生の海外初の一人旅に選んだイギリスに持っていたのは、1年生の頃随分お世話になったウェーバー研究者の先生による分厚い研究書(『マックス・ウェーバーと同時代人たちドラマとしての思想史』)と、ハイデッカーや鈴木大拙、ヘーゲルや西田哲学を老子と対決させた『老子の思想』(講談社学術文庫)だった。その当時の自分には(いや今でも)消化できない程の大作だったが、そういう本を、冬の閑散とした湖水地方のB&Bの、暖炉の前でボンヤリ読んでいると、数ミリは飛び立つことが出来そうな気がした。ただ、その当時は根無し草のように、アイデンティティや自信の根拠が自分の中で希薄だったので、数ミリ浮き上がるだけでも、このままどこに行ってしまうのだろう、という漂白感のような漠とした不安が渦巻き、単に落ち込んでいたような気もする。

あれから15年、仕事や社会的関係ではすっかり根が着いたが、今度は、浮遊するチャンスが少なくて、どこかで消耗感や焦燥感のような何かがくすぶっていた。そんな事情には全く自覚的ではなかったのだが、香港へ旅立つ朝、何気なく書棚からナップサックの中に放り込んだ一冊から、随分多くの気づきをもらった。

「人間の根元的な二つの欲求は、翼をもつことの欲求と、根を持つことの欲求だ。」(真木悠介著『気流のなる音』ちくま学芸文庫,p167)

確か田口ランディの初期のエッセイ集に同様のタイトルがあったと思うのだが、社会学の大家の出世作を遅まきながら初めて「旅のお供」にして、本当によかった。なぜなら、それはようやく今になって、読者である僕自身が、「二つの欲求」の具体的な中身が読み取れる主体になったから、と感じる。特に、全く予期せずに読み始めた故に、読みたかった内容と事後的にわかる喜びは一塩であった。

人類学者カルロス・カスタネダがメキシコインディアンであるドン・ファンに弟子入りして10年間で学んだことをまとめた4冊の著作を引き金に、3年間の海外生活を終えて帰国する直前の著者が自身の枠組みを書き留めた一冊。「あらかじめ私自身のうちにあったモチーフや問題意識が、ドン・ファンとの出会いを触媒として」「結晶」化した、ドン・ファンの「魅惑的なトリックやヴィションやレッスンに仮託した、私自身の表現」(同上、p45)。であるが故に、その後の『現代社会の理論』『社会学入門』(見田宗介の名で岩波新書)から多くを学んだ読者としては、筆者のコアな原点に触れられて読み物としても面白かっただけでなく、研究や生き方のパースペクティブについて大いに触発されたり、また問題意識の掘り下げ方についても、沢山のことを学んだ。その全部は書き留められないが、断片的にメモをしておこうと思う。

「とくに自分の明晰さはほとんどまちがいだと思わねばならん。そうすれば、自分の明晰さが目の前の一点にしかすぎないことを理解する時が来る。」(ドン・ファンの言葉、同上、p99
「「明晰」とはひとつの耽溺=自足であり、<明晰>は一つの<意志>である。<明晰>は自己の「明晰」が、「目の前の一点にすぎないこと」を明晰に自覚している。<明晰>とは、明晰さ自体の限界を知る明晰さ、対自化された明晰さである。」(同上、p100

思えば僕自身は、自分自身の「明晰さ」にしがみついていたような気がする。何かを学ぶときも、その知識を受け取る自分自身の枠組みが「ほとんどまちがいだ」だなんて可能性を考える事はほとんどなかった。他の可能性の考慮に心も頭も開かれず、「目の前の一点にすぎないこと」とだけ、向き合おうとしていた。根無し草時代の漠とした不安の反転として、根を張ることに必死で、根絶やしにつながるような「一つの耽溺」の意識化を極端に拒否していた。そういうモードであれば、いくら勉強しても、読める範囲が自身の「明晰さ」を補強するものだけに限定され、「耽溺=自足」を「対自化」するような言説は意図的であれ、無意識であれ、排除していたようにも思える。そして、次第に在る程度の知識はオタク的に身に付くが、その知が「目の前の一点」と立場を異にする「他者」に通じず、不満やいらだち、焦燥感に苛まれていた。それがここしばらくの自分の心模様であった。

だが、海外の学会や、少し毛色の異なる学会で発表し始める頃になって、理解されないことの根元的理由が、他者ではなく、己自身にあることに気づき始めた。わかってくれない、と他責的に憤るよりも、自分の論理が通じない他者に説明する為に、自分自身が変わる必要があること。そして、相手に届く言葉を用いることは、決して変節や転向といった妥協とは異なること。むしろ、本物の書き手は、ジャーナリスト・小説家・研究者のジャンルを問わず、そのような「相手に届く言葉」で、自らの考えを伝えるプロであることも、ようやくおぼろげながら見えてきた。コンテンツ(=根)を、変える必要はない。ただ、相手にそのコンテンツを届ける為には、相手に届きやすい文体やロジックは何か、を探す必要がある。そのためには、自身の根が多くの根の「一点にしかすぎないこと」を理解する必要がある。その上で、他の根との相異を理解し、相手の根に届きうる形態で伝える為にも、「翼を持つこと」が重要である。そんなことを、再確認していた。

「とざされた世界のなかに生まれ育った人間にとって、窓ははじめ特殊性として、壁の中の小さな一区画として映る。けれどもいったんうがたれた窓は、やがて視角を反転する。四つの壁の中の世界で特殊性として、小さな窓の中の後景を普遍性として認識する機縁を与える。自足する「明晰」の世界をつきくずし、真の<明晰>に向かって知覚を解き放つ。窓が視角の窓ではなく、もし生き方の窓ならば、それは生き方を解き放つだろう。」(同上、p121)

香港で感じ始めた解放感は、単に一時的なリフレッシュではないのかもしれない。確かに、火曜に日本に戻ってまだ1週間も立っていないが、すっかり日本の「お忙し」(=ビジネス)モードにどっぷり戻っている。ラマ島までの無料クルーズや、現地の夕焼け空とチンタオビールに合う海鮮料理、なんて、すっかり忘却の彼方に行きつつある。(今必死で記憶の倉庫を開いて、探し出してきた。) だが、この『気流の鳴る音』の波長に、他ならぬ今の自分が感応している。その中で、以前から何度か予感的に書いていたが、はっきり自分の「視角」の「反転」を感じる。壁の中の「特殊性」と、窓の外の「普遍性」が自分事としてリアリティを持つ。それに気づくことは、同時に、今までの自分が「窓」を閉じた上で自己の特殊性を普遍化しようという「構造的ゆがみ」を抱えていたことも、よくわかった。そういう無理をしているから、疲れるし、ストレスも溜まるのである。だって、生き方が「解放」されていないのだから。

困ったら、聞けばいい。自分の枠組みが歪みかねない程の『他者』との出会いこそ、見かけ上は「煩わしい」ものに見えて、実のところ自分の枠組みをより豊かなものにしてくれる最大のチャンスなのだ。ドン・ファンも同じ事を言っている。

「チャンスとか、幸運とか、個人的な力とか、とにかくなんと呼んでもいいが、そいつは独特のものなんだ。わしらのまえに出てきて、摘むように招くひどく小さな小枝のようなものさ。ふつうだと、わしらはいそがしすぎたり、他のことに気を奪われていたり、でなければただおろかで不精すぎたりして、それが自分の一立方センチメートルの幸運だっってことに気づかないんだ。」(同上、p107-8)

思えば、どれだけ「小枝」を見過ごし、邪険に取り扱ってきただろう。それはあたかも、次の(時として変容も伴う)幸運よりも目の前の矮小な体系性に閉じる(=それを盲目的に信仰する)、ディスコミュニケーションの塊としてのオタクを思い起こさせる。別にそれでよい人は、そうしたらよい。だが、僕はそれを選ばないだけだ。自分に共感的な同質性集団ではない「他者」と向き合うこと。それが、今の暗礁を乗り越える、最も有効で、かつ最もやりやすい、だが今まで頑なに避け続けた方法論なのである。気づいてみれば、なぁんだ、ということ。でもそういう歪みに気づけ、窓の外に目が向けられるようになっただけで、随分楽になった。

職場で、フィールド先で、どういう他者と出会えるか。やっとこさ、根と翼の両方を「欲求」出来る主体になったのかもしれない。この本と、35歳の今、旅先の香港で出会えて、本当に良かった。

香港旅日記(その1?)

 

2月末から3月初旬にかけての6日間、スイッチを切ってきた。向かった先は香港。春休みを頂いて、パソコンは持参せず、とにかく現地でボンヤリしよう、と日本を脱出した。

日本に出る直前は、いっつも〆切前の仕事で追いまくられて、身も心もボロボロになりやすい。今回もご多分にもれず、前回のブログにも書いたように、3月のNPO学会のフルペーパーに、8月の海外学会(EASP)のアブストラクト作り、の二つの〆切を前に、必死になっていた。それに加えて腹風邪を引いたり、体調は優れなかったのだが、とにかく25日のキャセイパシフィック航空に何とか乗り込む。今回はいつもと違って午後遅い便にしたので、朝4時とか5時のバスに乗らなくて良かったのが、不幸中の幸い。飛行機でアルコールもパスし、本にも集中出来ず、ダラダラ寝たり本を読んでいる内に、香港に到着。だが、そんな出立前のトホホ、な顛末も、今グーグルカレンダーを見ながら辛うじて思い出すくらい、現地でのステイは充実していたのである。

何がよかったって、まず、エイジアンモンスーンの気候で、最高気温が28度、最低でも22度と半袖。ただし、湿度も9割越えと蒸す為、室内はとんでもなくクーラーが効いていて、ジャンパーは欠かせない。しかし、街歩きの最中には、ポロシャツでちょうど良い、そんな気候に気持ちがウキウキする。当然、日本帰国後の寒さは、身に応えるのだ(今日だって、セーターですもんね)。気温に左右されやすいなんて、幼稚ではあるが、しかしファンダメンタルなものでもある。

次に、香港旅行の定番、お買い物と食べ歩き。普通は3泊4日でも飽きる、と昨冬先に訪れたマオ嬢は言っていたが、僕たち夫婦にはさにあらず。正直、5泊6日でも足りない、というほど、楽しかった。我々はチムサーチョイの地下鉄駅から徒歩5分、という抜群のロケーションのホテルに滞在したのだが、香港は地下鉄やバスを使えば、大体行きたいところにいけるし、かつタクシーも安い。非常にコンパクトな(=というか狭い)街故に、高層マンションがニョキニョキ立ち並んでいる土地柄。そういうところで、アーケードを眺めながら掘り出し物を探し歩くのが楽しい(麻のジャケットをゲットできたのはうれしかった)。そして、休憩先で食べたケーキやエッグタルトなんかも、すこぶる美味しい。かなり毎日歩き回ったのだが、一方で飲茶も餃子も海鮮料理も四川料理も、どれもパクパク美味。それだけなら豚になってしまうので、今回はちゃんと日本からコンパクトな体重計も持参! 朝食を抜くか、果物だけにとどめ、レコーディングダイエットもまめに続けた結果、ちゃんと76キロ台をキープし続けられた。アブナイ、あぶない。

いつのころからだろうか? スウェーデンに滞在することが決まった時以来だから、もうかれこれ7,8年になるだろうか。我が家の定番として、旅に出る前に、現地のガイドブックやその土地にまつわるエッセイなどを5,6冊以上、買い込むことにしている。その理由の一つとして、行く前から旅の気分を高めていく、というのもあるのだが、現地で改めて感じたのは、「複数の視点」の大切さである。

一般のガイドブックに載っているお店、というのは、定番のものもあれば、その店から何らかの見返りがあって掲載されているものもある。しかも、取材は複数のソースに基づいているのは良いのだけれど、何というかオリジナリティがあまり無い。ま、逆に言えばガイドブックには「ベタ」が求められ、多くの読者にとって、逸脱しない事が安心感になっているかもしれない。確かにそうなのだが、パックツアーでもなく、「他の人がしているから○○したい」があまりない我が家のニーズと、定番ガイドブックはどうもずれる。そんなとき、オルタナティブな視点を提供してくれるのが、著者名のクレジットがしっかりしている単行本だ。今回、予習本としては『転がる香港に苔は生えない』(星野博美著、文春文庫)が、現地では『お値打ち香港・マカオ改訂版』(山下マヌー著、メディアファクトリー)が、そのお供にぴったりだった。

星野さんの本では、広東語を主に話すローカルな香港人たちの人生の断片を垣間見ることができる。分厚い本だけれど、第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞もうなづける、香港人の縮図が楽しめる一冊。実際に現地で、中国からの元密航者と思しき貧しき労働者の横を、バブル景気で大金持ちになってチムサーチョイのブランドモールで買いまくる中国からの旅行者軍団が通り過ぎていく風景を目にした折に、ふと星野さんの本に出てくる彼・彼女の光景を思い出すのであった。目の前に単に見えている景色に、どういう意味合いがあるのか、を解釈する上で、彼女のルポは格好の補助線となる、濃厚な一冊だった。

それに対比して、マヌー氏の本はタイトルからもわかるようにガイドブック。ただ、大手のガイドブックと違い、自分の目で確かめて納得した内容だけを厳選した、と筆者が言うように、かなりその信頼性はある。実際、前回のバリ旅行でその視点に共感した我々は、今回彼のお勧めのエアラインをネット予約し、ホテルに泊まり、食事も食べたが、どれも確かによかった。自分の視点や感性と似た部分(同じ方向性)を持つ著者の枠組みにお世話になってみるのも悪くない、と思わせる一冊だった。香港で滞在中、ずっとワクワクさを持続できた理由のひとつに、この本との出会いはあるかもしれない。1冊の本を鵜呑みにするのではなく、複数のガイドブックを重ね合わせる中で、一番安心してお供にできたのがマヌー本であった。

で、実はそんなことは入り口で、香港に脱出したからこそ!?、現地でいろいろ考えたこと・気づいたことはもっとあったのだが、それはまた項を改めて。