2018年の三題噺

2012年の年の瀬から書き続けている、恒例の年末三題噺。今年の三題噺はこんな感じ。

1,姫路での生活が始まる
2,三冊目の単著を世に出せた
3,ダイアローグをじっくり深める

1,姫路での生活が始まる

移動を決めたのは、子どもが産まれ、僕の父母が初孫をすごく喜んでくれたけれど、「甲府は5時間かかって遠い」と言われたことだった。自分が親になって初めて「親孝行したい」という想いが沸き起こった。それだけでなく、現実的な問題として、僕が泊まりがけの出張の折など、毎月のように母に京都から5時間かけて手伝いに来て貰うし、今後も出張をゼロに出来そうにない。ならば、僕たち家族のことだけでなく、手伝いに来て貰う母、そして足腰が弱まり甲府にあまり来れない=頻繁に孫に会えない父のことも考えた上で、関西に帰れるなら帰ろう、という決断だった。13年間お世話になった山梨を去るのは辛かったが、暖かく見送ってもらえたのは、本当に嬉しかった。その事は「あっという間の13年間」として3月に書いた。新幹線と特急で5時間、が、新快速で1時間半になって、おばあちゃんも楽に来てくれるようになった。おじいちゃんもたまに遊びに来れて、大満足である。

で、姫路に引っ越して、4月から兵庫県立大学環境人間学部の教員として、新しい職場での暮らしも始まった。引っ越した後の「想定外」は、新幹線にしょっちゅう乗っている、ということだ。東京行きも何だかんだと月に1度程度あるが、それだけではない。姫路−京都の距離って、京都−名古屋の距離と同じである。元京都人としては、確かに名古屋までなら新幹線に乗る。また、子どもの風呂の時間に間に合うように帰ろうとすると、タクシー感覚で、新大阪から姫路まで乗ることもある。甲府と違って姫路はバス路線が発達していて、夜中でなければタクシーに乗ることはほとんどなくなった。その代わりに、新幹線にしばしば乗るので、ポイントもたまり、3月以後、2回ほどただでグリーンにアップグレードできた。いやはや。

あと、姫路は地方都市だが、普段使うものならだいたい揃うだけでなく、海の幸と山の幸にも恵まれた、すごく暮らしやすい土地である。工学キャンパスの近所にあるJAの直売所で週に1度野菜を買い込み、近所の老舗スーパーには、しょっちゅう活きの良い魚を探しに出かける。まさかスーパーで7000円のトラフグが売っているとは、これも「想定外」だった。まだ買ってないけど。シャコにサワラ、エビに鯛、ハマチに牡蠣、鯖など、瀬戸内海だけでなく、鳥取や下関、福井、宮城など、全国各地から活きの良い魚を仕入れる目利き職人がいるスーパーがご近所で、わが家の魚率が随分高まったのも、大きな変化だ。お陰で娘も魚が大好きになった。赤穂の生牡蠣も、この冬、二度ほど食べた。

それから、1月に内定が決まり、1ヶ月で家を決めて2月末に引っ越し、4月から新天地で授業もスタートし・・・と怒濤の日々だったこともあり、今年はその後、しょっちゅう風邪を引いている。案の定、年末も風邪をしいてしまった。1年に6回も風邪をひくなんて、過去最悪ペース。忙しかったり、家事育児に追われて、合気道もほとんどいけていない。運動不足や体調管理不足、それに住まいや職場での慣れないこと・・・などのストレスが、僕の自覚のない中で重なっているのだろう。加えておっさんになって基礎体力が落ちている。とにかく来年は、体力向上を基本に据えねば、と思う。

2,三冊目の単著を世に出せた

11月に三冊目の単著、『「当たり前」をひっくり返す—バザーリア・ニィリエ・フレイレが奏でた革命』を上梓した。(その序章はブログに)。この三人と、連載原稿を書きながら足かけ3年ほど、対話を続けてきた。バザーリアを読み始めたのは、2012年に、イタリアのトリエステを訪問した頃から。最初の単著『枠組み外しの旅−「個性化」が変える福祉社会』の中で、現象学的還元について考えていたので、バザーリアが精神医療そのものを括弧に入れて、根源から考え直すプロセスが、僕にもしっくり理解できた。その中で、精神科医に課せられた「科学者」と「警察官」という相反する二重の役割を直視せよ、といったどぎついフレーズを、そのものとして受け取って、考えを深めることができた。

ニィリエとフレイレは、大学院の頃から、ずっと気になっていた。実際に晩年のニィリエに2004年の冬、ウプサラでお目にかかって、僕は彼から大きな宿題をもらった気分だった。今回、ニィリエのまとまった論考を書き切ることで、その宿題をやっと果たすことが出来た、と感じている。フレイレに関しては、三砂ちづるさんが、実に読みやすくてフレイレの息吹を感じさせる新訳を2011年に出してくださったことで、やっと彼が伝えようとすることをつかむことが出来た。その三砂さんに拙著をお送りしたところ、訳者から直々にメールを頂いたのも、すごく嬉しかった。

刊行後、色々な人から読後の感想を教えてもらえるのも、また嬉しい限り。本は書くまでは著者のものだが、刊行後は読者のもの、という言葉もある。少しでも多くの人の手に届き、読者の中で、三人や僕とのダイアローグが広まってくれたら嬉しいなぁ、と思っている。僕自身は、やっと本棚を結構入れ替え、心機一転、次の研究テーマに向けて勉強し直す日々が始まる。膨大なアウトプットを終えたので、インプットし直しに、モードも転換し始めた。

3,ダイアローグをじっくり深める

子どもの発語が大分増えてきて、いろんなことを叫んだり、わあわあ言っている。「しぇんべい」「みかん」「しゅわしゅわ」(=炭酸水のこと)など、名詞で欲しいものを表現するだけでなく、「おなかすいた」「眠たい」、といった動詞も、時折言えるようになってきた。なので、子どもが全身で表現しようとすることを、僕自身が想像し、確認し、一緒に考え合う中で、ある種の共同決定をしている。そして、それは僕より遙かに妻の方がうまい。

こういうプロセスのなかで、意思決定支援や共同決定のオモシロさ、難しさを色々感じる。それと共に、非言語表現も含めたダイアローグの重要性を感じる。なんせ、子どもは親の顔を本当にじっくり見ている。こっちがどう思っているのか、だけでなく、「ちゃんと私のことも気にしてよ!」と強く訴えている。ドイツの小学生は、スマホ依存の親に「僕たちをちゃんと見て」とデモを行ったそうだが、子どもにそういうストをされない父にならねば、と思う。

ダイアローグを深めつつあるのは、家族内だけではない。昨年未来語りのダイアローグを集中的に学んで以降、授業でも研修でも、会議の打ち合わせでも、ダイアロジカルなものを大切にしようとしている。すると、少しずつ、いろんな場面でダイアローグが深まる場面が増えてきた。僕自身が話す量を減らし、考え合うプロセスを深める。about-nessからwith-nessへのモードの転換。すべての場面でするっと出来る訳ではないけれど、授業でも研修でも、なるべくwith-nessモードを大切にして、受講者と考え合う時間を増やした。打ち合わせでは、相手が何をしたいのか、を聞き出しながら、何かを作り上げることを試みた。その中で、僕自身がしっかり聴くことができると、あたりまえだけれど、相手との共同作業の質が飛躍的によくなることもわかってきた。他人を変える前に己が変わる、を改めて痛感しつつある。

というわけで、風邪気味なので、今年の三題噺はこれくらいで、今からもう一寝入り。みなさん、よいお年をお迎えください。

今に引き継がれるトラウマ

衝撃的な番組を見た。「隠された日本兵のトラウマ~陸軍病院8002人の“病床日誌”」である。戦争中に戦地で、殺す・殺される、の瀬戸際になるような経験をする中で精神疾患になり、陸軍病院に送られた日本兵たちを巡るドキュメント。そこに出てくる一人一人の発病前と後のエピソードが、非常につらかった。

「ごく普通の人」が、徴兵されたがゆえに、人を殺したり、自分が殺されかけたり、という恐ろしい経験をしてしまう。その中で、ごく普通の精神や感性を持つが故に、つまりはこういう異常な経験を異常だと受け止めるだけの感性を持っているが故に、自傷や発狂などの形でしかその苦しさを表現できない状況に構造的に追い込まれた人々の病状を克明に記録した病床日記が、戦後の焼却命令にもかかわらず、病院長の一存でドラム缶に入れて病院内に隠され、保存された。その記録を元に番組が作られている。

この番組を見ながら思い出していたのは、内田樹が書く村上春樹のエピソードだ。

「村上春樹はいっさい中華料理を食べない。食べることができない。
中国にかかわるある種のオブセッションかもしれない、と村上春樹はどこかで書いていた。
「飲み込むことができない」というのは、きわだって象徴的なふるまいである。
中国についてのある経験(それは彼自身の経験でさえない)が名付けられ、理解され、類別され、忘却されることを拒んでいる。
その「名付けられ、理解され、類別され、忘却されることを拒むもの」が「父」の soul であったと、それが無言のまま遺贈された、と。そう「息子」は感じている。
その「遺贈された空洞」が村上文学の「核」のひとつを形成していると私は思っている。」(壁と卵(つづき)

これはエルサレムでの村上春樹のスピーチの分析である。ちなみに村上はこう語っている。

「私の父は昨年、90歳で死にました。父は引退した教師で、パートタイムの僧侶でした。京都の大学院生だったときに父は徴兵されて、中国の戦場に送られました。戦後生まれの子どもである私は、父が朝食前に家の小さな仏壇の前で、長く、深い思いを込めて読経する姿をよく見ました。
ある時、私は父になぜ祈るのかを尋ねました。戦場で死んだ人々のために祈っているのだと父は私に教えました。
父は、すべての死者のために、敵であろうと味方であろうと変わりなく祈っていました。
父が仏壇に座して祈っている姿を見ているときに、私は父のまわりに死の影が漂っているのを感じたように思います。」(上記の内田訳)

今回見た映像と、この村上春樹のエピソードが重なった。なるほど、これがinter-generational trauma(世代間に引き継がれるトラウマ)かもしれない、と。テレビの映像では、戦争後、人格が変わって帰還した父が母に暴力的に接するのをつらく思っていた娘が、父のカルテを読んで、父の暴力の背後に戦争トラウマの強烈な体験があることを初めて知り、慟哭する場面がある。それは、父が暴力という形で表現する何かに対して、受け入れらず、反発していた娘が、初めて父のつらさを知り、亡くなった父とカルテを通じて和解していくプロセスにも思えた。

同じように、村上春樹が「いっさい中華料理を食べない。食べることができない」という一種のオブセッション(強迫観念)を抱えていたのは、彼が「父のまわりに死の影が漂っている」のを敏感に感じ取っていたからも、しれない。つまり、「父が朝食前に家の小さな仏壇の前で、長く、深い思いを込めて読経する姿をよく見」るなかで、父が語らずとも身体で表現している痛みや苦しみ、を村上少年は感じ取り、それがオブセッションとして「中国料理は食べられない」という「飲み込むことができない」何かを父から受け取った。これは、父の感じたトラウマを子が継承する、というinter-generational traumaそのものである。そして、この話は、トロントに出張に出かけたときに聞いた話ともつながる。

11月にトロントで反抑圧主義的ソーシャルワークについて調査に出かけた折、現地の人から繰り返し、trauma-informed approachというのを聴いた。これは、調査でお世話になったトロント大学の坂本いずみさんによると、「トラウマというレンズを通じてものをみる」という考えた方である。トラウマの継承、という視点で社会問題を捉え直すと、個人的な問題の背後にある社会的抑圧がよりよく見える、という視座である。例えばカナダでは薬物依存が大きな社会問題になっているが、依存症の人の少なからぬ割合がエスキモーやイヌイットなど、先住民の子孫であり、土地の剥奪や子供の同化政策(誘拐のような形で親から引き離し寄宿舎に入れるなど)で、多くの心的な傷(トラウマ)を受けた。そして、それが親子間で引き継がれたため、無気力や諦めが蔓延し、それが貧困や薬物・アルコール・暴力などへの依存という現象を引き起こす、という視点である。トラウマのレンズを通じて眺めると、個人的な弱さの問題に見える依存症の背後に、社会的な排除や抑圧という根本要因が見えてくる、という整理である。

これを村上春樹の例で当てはめるなら、村上春樹は「父が仏壇に座して祈っている姿」から、語られざる中国での経験や痛み、苦しみを敏感に受け取る。それをどう処理してよいかわからないから、中華料理が食べられない、という形で身体表現化される。その一方で、「ねじまき鳥クロニクル」の中で明示的かつ執拗にノモンハン事件を取り上げることで、彼なりの意識化を果たそうとしているようにも感じられた。つまり、「名付けられ、理解され、類別され、忘却されることを拒むもの」を親から遺贈されるという形でinter-generational traumaを抱えた村上春樹は、表現行為の中で「トラウマのレンズを通じて眺める」ことに成功し、「中国についてのある経験(それは彼自身の経験でさえない)」であり「遺贈された空洞」を再言語化・再文脈化できたのかも、しれない。

だが、その一方で、「トラウマ」から距離を置くことができず、他者に贈与もできず、解釈もされないまま、精神病院の中で一生を終えた兵士は少なくない。20年ほどまえ、公立精神科病院でフィールドワークをしていた大学院生の時に、その病院にも戦地から帰ってきてそのまま入院している人がいる、という話を聞かされた。その時は深く考えることもなく「お気の毒に」としか、感想を持てなかった。だが、そのような他人事としての忘却と関心のなさが、ご本人をトラウマの世界に閉じ込め、戦争神経症の世界から出られない元凶の一つなのではないか、とも感じている。戦地で兵士として闘わざるを得なかったが故に、人を殺す・人に殺されかけるような境遇へと追い込まれ、それに耐えられずに精神が失調してしまった。これは、ミクロレベルでは暴力の加害者であっても、マクロレベルでは国家による暴力の被害者でもある。メゾレベルでは上官や連隊内での暴力の被害・加害もあったかもしれない。そのような社会的な要因を見ることなく、個人のトラウマや病気の問題に矮小化してきたからこそ、その病は癒えなかった可能性はないだろうか。

トラウマの課題は、個人や家族内の問題と見られやすい。だが、今回の映像を見ながら、その元凶となる戦争や、国家が兵士として一般市民を総動員していった背景、強制的に入隊させられた軍隊での過酷な現実や、戦地でのおぞましい日々など、本人や家族の個人的問題では全くない、社会構造が個人に抑圧を与えた歴史を考えていた。そして、そのようなトラウマを押しつけられた個々人が、戦後日本社会で、狂気に陥ったり、あるいは病院に入院せずとも家族に暴力をふるったり、あるいは狂ったように働いたり・・・というプロセスがあり、そのトラウマについて子孫や他人に語れず、苦しみを抱え続けてきた歴史があった。そして、戦地に実際赴いていない世代は、語らず黙する先代の苦しみを尊重することなく、その傷みやつらさに向き合う、共感することなく、前だけを向いてきたのではないか。それが、日本が戦後70年経っても、第二次世界大戦をしっかりと謝罪や総括出来きれず、近隣諸国との争いを未だに抱えている元凶にもあるのではないか・・・。こんな妄想すら、浮かんできた。

そういう視点で捉え直すと、日本社会には直視できていない、成仏も出来ていない社会的なトラウマがうようよあるように、思えてくる。反抑圧主義ソーシャルワークや修復的対話の議論をしっかり学びながら、この問題をじっくり考え続けてみようと思っている。