身体拘束を減らす4つの視点

昨晩はクローズアップ現代の身体拘束特集の番組に出演した。ご一緒頂いたのは、訪問診療などを通じて入院を最小化させる実践を続けておられる精神科医の上野秀樹さん。上野さんの『認知症 医療の限界、ケアの可能性』はすごく学びが多く、授業の課題図書にしたこともある一冊。僕は出演依頼を受けた時、自分一人は荷が重いと思ったので、上野さんと一緒じゃないと辛いなぁと正直に申し上げた。そして、上野さんも僕となら出演してもよい、と仰られたようで、二人セットだった。この問題は、それだけヘビーな話題である。

気重な理由。隔離拘束が現に沢山起きている日本において、それを批判すると、必ず現場で縛っている・閉じ込めている医療スタッフから批判されることは、目に見えている。でも、だからといって、その自由の剥奪をそのまま放置しておいてはならない。とはいえ、本来現場の人が怒るべきは少ない人員配置基準や多すぎる病床なのに、テレビでコメントしたら、「自分たちはこんなに頑張っているのに、あいつの発言は理想論だ」「現場をわかっていない」「おまえがやってみろ」・・・といった、近視眼的批判にさらされる。実際、ツイッタなどでは、そういうつぶやきも目にした。だから、気が重かったのである。

いかに、多くの視聴者に、単に誰かが悪者、ではなく、精神医療の構造的問題を理解してもらえるか。僕も上野さんも、その点をすごく時間をかけて考えていた。上野さんは、念入りに準備された番組用の考察の一部をブログに昨晩早速アップしておられたので(今朝6時の列車で敦賀に戻ると仰っておられたのに、恐ろしいほど仕事が早い!)、僕もここで示しておきたい。(→以後は、番組でどこまで触れられたのか、のメモ書き)

<身体拘束を最小化するための4つの視点>
1、現場での「開かれた対話」
身体拘束が現になされている患者さんについて、なぜ拘束が必要なのか、その期間をどうやったら減らす事ができるか、を、本人も交えてオープンに話し合うこと。「問題行動」とされている現象がいつ・どうして生じるのか、どうやったら減るのか、も、みんなでオープンに話し合うこと。

→この部分は、「問題行動」とされている現象が「悪循環」である、と伝えることは出来た。暴力や暴言、徘徊や制止によらない言動には、ご本人なりの訴えや理由がある。その理由を探ることなく、表面的な現象だけを捉えて、「不穏」「精神症状」などのラベルを貼って、その根拠に基づき、隔離や拘束をする。これは、問題行動に対する「偽解決」であり、悪循環の高速度回転そのものである。

ここから先は番組ではなせなかったのだが、その高速度回転を止めたければ、まずは「問題」とされるご本人にじっくり話を聞き、ご本人がどのような不安やしんどさ、悲しさや怒りなどを持っているのか、を理解しようとする試みからスタートするのが必要だ。その上で、「問題」とされる現象はいつ・どのような場面で・何がきっかけで生じるのか、を徹底的にアセスメントする必要もあるだろう。それが出来れば、ではどうすれば身体拘束を減らせるか、の具体的な方法論の模索も始まるはずだ。また、身体拘束の最小化には、ご本人や家族の理解と協力も欠かせない。家族や本人とも、そのことについてオープンに話し合う機会を持つことができるか、も問われている。

番組では、実際に上記の実践を積み重ね、身体拘束の最小化に成功した松沢病院の事例が報告されていた。松沢でされていたことは、まさにこの部分である。

2,チーム医療と医師のリーダーシップ
「身体拘束を減らす・無くす」と、医師が率先してリーダーシップをとらないと、スタートしない。VTRの松沢病院の実践のように、「身体拘束をしないことによるリスクがあるかもしれない」という合意形成を取る必要もあるかもしれない。だが、「縛る・閉じ込める・薬漬けにする」のは自由の制限であり、医療ではない、というリーダーシップを医師が率先して宣言する必要がある。その上で、松沢の実践のように、身体拘束が必要な理由、を一つずつ組織的に潰していく必要がある。

→病棟で縛っている看護師(とおぼしき人びと)から、「現場のことをわかっていない」「やってもいないものが口出しするな」的な批判を、僕は20年近く、浴び続けてきた。それが、現場の悲鳴であることはよくわかる。だが、逆に現場の人びとは、自分自身がどのような構造に置かれているのか、に盲目的になっているのではないか、とすら、思うこともある。そのことについて、精神病院をなくしたイタリアで、素晴らしきリーダーシップを発揮した医師フランコ・バザーリアは次のように語っている。

「看護師が抱いている恐怖は、医師の恐怖よりはるかに大きなものだからです。医師はたとえば解雇されたとしても、開業医として他の仕事をみつけることができます。しかし、もし看護師が病院に逆らって解雇されてしまえば、職を失ったままになってしまいます。これがプロレタリアートとブルジョアの違いです。つまり、変化に対する看護師の抵抗は、職を失うことへの恐怖であり、これは痛いほどよくわかります。」(『バザーリア講演録 自由こそ治療だ!』岩波書店、p250)

これは「○○なので縛らざるをえないのだ」という発言の裏側にあるのは、「もし看護師が病院に逆らって解雇されてしまえば、職を失ったままになってしまいま」う、という恐怖である。オカシイと思っても、「明日の生活のためには、我慢して現状肯定するしかない」と諦めを内面化してしまう論理でる。つまり、おかしいことをおかしいと言えない状況に構造的に追い込まれているのだ。それは、ものすごく大きな恐怖を日常化して、「しかたない」と「なかったこと」にしている、とも言える。だからこそ、昨晩の番組のように、そのような「恐怖」を思い出させ、と向き合わざるを得ないような番組に直面すると、本来は「そうだそうだ、現場のここが課題だ、よく取り上げてくれた!」と声をあげてもよいはず、なのに、逆に「現状は何も分かっていない」と、番組内容を感情的に否定する論理が先に出る。これは、直面化した見たくない恐怖を鎮静化させたい対処行動、なのかもしれない。

バザーリアはこうも言う。

「看護師は自分自身が暴力による抑圧や虐待の一端を担っている、ということを理解することから始めなければなりません。看護師は病院の院長の手のひらで踊らされているわけですが、医師が患者の抑圧者として看護師を利用するとき、労働者階級は二つに分断されることになります。なぜなら、病人も看護師も同じ階級に属しているからです。こうして看護師を患者の拷問者に仕立て上げることで、病院は運営されています。これは支配者達が常々用いるメカニズムです。この仕組みは、工場でも見られます。集団のリーダーは、同僚達をお互いに敵対関係に置くことによって彼らを管理しています。これは、私たちには馴染み深い分業の論理です。分業を通じて、被支配階級を統治するのです。これは人びとを飼い慣らすことにほかなりません。」(同上、p247)

本当に現場を変えたければ、まずは「看護師は病院の院長の手のひらで踊らされている」ことを、客観的事実として認める必要がある。だって、支援が必要な60人の人を、「夜間だから」という理由で2人で見ることが、どだい無理な話なのだ。そもそも、国の定める最低限の人員配置基準が低すぎるのだ。そして、最低限、なのだから、そこから人手を増やしてもよいはずなのに、「経営が成り立たない・赤字だ」という「もっともらしい理由」で人手を増やさない経営者もいるのだ。そのような制度や組織的な矛盾や抑圧の「手のひらの上で踊らされている」のが、現場なのである。まず、悔しいけれど、ここを認める事が出来るか、が問われている。

更に言えば、人手が足りないから縛らざるを得ない、というのは、人手不足を解消するために、物理的な暴力に頼っているという点で、「看護師は自分自身が暴力による抑圧や虐待の一端を担っている」ということでもある。ここは、否定しようのない事実である。これを認めて、「それは嫌だ!」と訴えないと、物事は変わらないのだ。「こんなの、私が学校で習った医療ではない!」「もっと患者さんに寄り添った、ほんまもんの医療をしたい!」「そのために、ちゃんと現場スタッフの人手を増やしたり、縛らない実践をしたい!」と声をあげ、変革の第一歩に踏み出せるか、が課題なのだ。

だが、それが出来ない現場をバザーリアは「人びとを飼い慣らすことにほかなりません」と喝破する。そう、「人手不足だから、縛らざるをえない」と発言することは、病院経営者に「飼い慣らされている」のである。この「支配者達が常々用いるメカニズム」そのものが、現場の医療スタッフの尊厳を踏みにじっている。ここにこそ、「それはオカシイ」とNOを突きつける必要があるのだ。そんなことをいっても、すぐに世の中は変わらないから、と諦念していると、それは「看護師を患者の拷問者に仕立て上げることで、病院は運営されています」という論理に、消極的に加担することにすら、つながるのだ。

あと、だからこそ、医師のリーダーシップが必要不可欠なのだ。看護現場が変えたくても、なかなか変えにくい現状がある。だからこそ、現場の医師が、縛るのを最小化しよう、なるべく開放型の医療を目指そう、身体拘束しないことで生じるリスクについてご家族に理解をしてもらおう、もっと患者さんと寄り添う医療をしよう、と率先してリーダーシップを取る必要があるのだ。「馴染み深い分業の論理」を打破するためには、医師こそ、まずは看護や医療スタッフとの協同やチーム医療に率先して関われるか、も問われているのだ。

3,スタッフの質的向上
1や2をするなかで、「認知症だから」「問題行動をするから」縛るしかない、というのは、医療スタッフ側の経験不足や先入観に基づいている事が見えてくる。すると、身体拘束をしない実践をしている他病院の経験から学び、自病院でも拘束を最小化するためにどうしたらよいのか、を学び合う事も必要になる。そのためには、ユマニチュードなど、縛らない医療を実践している諸外国のやり方も学び、取り入れながら、スタッフのケアの質的向上をする必要がある。

→「井の中の蛙、大海を知らず」。「やってもいない者が口出しするな」と仰る方ほど、実はご自身の病棟や病院の実践「しか」知らない場合も、残念ながら見受けられる。「あなたは現場の苦労を知らない」と批判されることもあるが、ではその方々は、他の現場の試行錯誤を知っておられるのだろうか、と問い返したくなるときもある。

松沢病院の実例を出すと、「あれは公立で潤沢な予算があるから」という反論もある。だが、そもそも抑制廃止は、八王子の民間精神病院、上川病院の総婦長だった田中とも江さん達の『縛らない看護』からはじまり、それが介護施設での「身体拘束ゼロ作戦」に繋がったことを、ご存じだろうか。田中さんの名著、『縛らない看護』に目を通したことはあるだろうか? あるいは、現状の病院の中でも、たった数時間で寝たきりでやる気のなかったお年寄りの意欲を回復させる支援をしていることがテレビで沢山放映されたユマニチュードについて、テレビで見たり、書籍や雑誌を読んだりしたことがあるだろうか。

「人手不足だから、しかたない」と聴く耳を持たないことによって、逆に様々な変化の可能性からも耳目を塞いでしまっていては、まったくもったいない限りである。

4,人手不足を解消する取り組み=病床を大幅に減らすこと
問題行動や暴言、暴力という形で表現せざるを得ない人の支援には、人手がかかる。であれば、人手を増やすしかない。一方で、日本の精神科病床は、人口比で見れば、諸外国の3~5倍以上ある。医療費の上昇を伴うことなく、一番合理的に底上げしようと思えば、病床を3分の1から5分の1に減らす事。その上で、1~3の取り組みを行えば、確実に身体拘束は減少する。逆に言えば、この4番目を目指すことなく、1~3だけで問題を根本的に解決することはできない。

→散々書いてきたが、最も本質的に必要とされているのは、ここである。本当に良いケアをしようとすれば、今の精神医療の現場は、明らかに病床が多すぎ、各病棟での人員配置基準が低すぎる。医療費を増やさなくても、病床をたとえば3分の1に減らし、スタッフを再教育した上で、例えば残りの3分の1を病棟で、後の3分の1を地域支援のスタッフに「転換」する事が出来れば、それだけでも身体拘束は随分減るし、地域支援の層も厚くなる。病棟転換型居住施設、なんてつまらない議論をする前に、精神病床で働く職員の質的「転換」こそ、求められているのだ。

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とまあ、こんな内容を25分番組で話せるはずもなく、どれも一言、エッセンスでしか伝えられていない。でも、武田キャスターは、秒単位の短い場面場面で、なるべく上野さんや僕の発言を引き出し、この問題を知らなかった一般視聴者にも伝わるような番組構成をしてくださった。事前にクローズアップ現代前キャスターの国谷裕子さんによる『キャスターという仕事』を読んでいたが、僕も出演してみて、この番組が代々大事にしてこられた、25分という時間の中での真剣勝負、というのは、すごく伝わってきた。ディレクターや制作チームの皆さんと、キャスターとゲストが、何度も打ち合わせを重ねる中で、短い時間でもなるべく沢山の本質を伝えようと奮闘されていることが、よくわかった。

そういう意味では、めちゃ気重だったけれど、出演をすることで沢山の学びが与えられた番組だった。