2017年の三題噺

今年も大晦日に三題噺を書くことが出来た。ただ、例年と違い、かなりの大急ぎで書き上げる必要がある。その理由が・・・

1,おちびとの世界を楽しむ

である。1月に子どもを授かってから、僕自身の生き方、考え方が大きく変容している。物理的で卑近な話から始めると、本当に自分のために使える時間が減った。結婚して15年、妻と仲良くやってきて、ある程度の家事分担をしている「つもり」だった。だが、ケアする対象者が一人増える、ということは、極端に言えば、これまでの時間の過ごし方の根本的変容が求められた一年でもあった。でも、それは義務でも嫌々でもない。文字通り「嬉しい悲鳴」と表現するのがぴったりの事態である。

おちびが産まれてからというもの、当然のことながら、我が家の中心はおちびの事が中心に回り始めた。産まれた直後、訳あってGCUという病棟に入っていた時期は、毎日病院と家の往復+わが子の発育のことが気になって、ヘロヘロになっていた。それまでの15年、様々な問題も夫婦だけで乗り越えてきたが、子どもが生まれた後は限界を感じ、子どもが退院するタイミングから1ヶ月ほど、僕の母に「助けて下さい!」とSOSを出した。幸い妻とも仲良くやるし、おばあちゃんとして初孫の最初の困難をしっかり支えて下さった。そして、僕は実の母にこんなに全力で支えてもらっていたのだ、と自分自身が父になって、強く感じた。

その後は、仕事の仕方も大きく変えた。今年は講演も結構断り、また引き受けた場合も、「出張は原則日帰りか1泊2日」というルールを満たすため、あちこちに無理をお願いした。それでも、妻が一人で子どもと向き合っている、いわゆる「ワンオペ育児」の時間は本当に大変そうだ、と僕も家事育児をシェアする中で痛感する。こればっかりは、いくら沢山本を読んでいても、自分がやってみないとわからないことである。お陰で、育児や保育、子育て政策もかなりアクチュアリティを持った関心事になってきた。去年までと違い、本を読む時間も5分の1以下に減って、積ん読が増えるばかりだが、でも子育て支援政策系の本を買いまくっている自分がいる。本当に研究する時間があるかは・・・だが。

ただ、短期決戦の為、幸か不幸か原稿を書くスピードと集中力だけは上がったような気がする。今日も、子どもがお風呂に入る時間前の短時間で仕上げなければならないので、逡巡している余裕はない。書斎のデスクトップに向き合う時間はめっきり減り、食卓のテーブルにノートパソコンを広げて、子どもをスリングに入れたり、子どもが寝ている隙に一気呵成に書き上げるスタイルが確立してしまった。今も大ぐずり大会の後、ねんねしたので、やっと今年の三題噺が書ける次第。

とはいえ、子どもから学びつつあるものは、数限りない。まずは、自分の中での「リベラリズム的価値観」を大きく問い直す一年だった。子どもがいる、ということは、仕事の効率や能率、生産性とは全く別の尺度の存在と共に過ごす、ということである。これまで、僕自身がある程度の仕事が出来てきたのは、そのような「ケアの倫理」から離れた立ち位置からであった。だが、生産性重視の視点とは全く異なる「ケア対象者」と時間を共にすると、それまでの自分がいかに狭隘な価値前提をもっていたか、に気付かされる。

本を読んだり原稿を書いたり講演をしたり、という「する」モードではなく、子どもと共に「いる」「ある」を大切にする、「ある」「いる」モードだからこそ、みえてくるものがある。子どもが生まれてからのこの1年、登山は封印し、合気道もほとんど練習にいけなかった。どちらの趣味も「する」ものだったが、それ以前に、子どもとじゃれあったり、ご飯を食べさせたり、寝静まるまで一緒にいる、という「ある」「いる」モードこそが、狭い意味での生産性はゼロかも知れないが、実に豊饒で何にも代えがたい時間である、ということを、42才になってやっとわかりはじめた。そんな素敵な時間を子どもから与えてもらえるとは、1年前の年の瀬には思いもよらなかった。

と、子ども話は尽きないので、そろそろ二つ目の話題に。

2,ダイアローグに目覚める

4月に未来語りのダイアローグの集中研修を京都で受けた。『オープンダイアローグ』の共著者でもあるトム・アーンキルさんと弟のボブさんの二人のファシリテーターから直接学べる機会。他の仕事は断りまくっていたのだが、どうしてもこの研修だけは受けたい、と、毎週京都まで通って、受ける事が出来た。(その詳細はブログに書いた)。

この研修を受けて8ヶ月。僕の中で、大きな内的な変化がある。それは「ダイアローグを生きる」ということを地で実践し始めたのである。

僕はどこかで、肩書きや立場など、ダイアローグ以前の形容詞にこだわっていた部分があったのかも、しれない。でも、未来語りダイアローグの場で学んだのは、そのような「形容詞」を取り除いて、いま・ここで、開かれた対話性の中で展開されるプロセスを、そのものとして味わうことの重要性。そして、そのような動的ダイナミズムをそのものとして受け止める事が出来れば、そこから思わぬ展開の形で場が開けていく、ということ。逆に言えば、そういう「想定外」の世界が怖くて、狭い意味での線形論的・因果論的呪縛に囚われて、ダイアローグの豊饒な可能性に「見切り」をつけてモノローグ的な世界へと貶めていたのが、当の自分だったかもしれない、と気づきはじめたのだ。

そのことに気付いてみると、普段の講義や研修、あるいはゼミや妻との対話においても、色んな意味で質的な変化が生じつつある。「いま・ここで生じることには、意味があるのだ」と思えると、一見すると「無意味」「的外れ」と思えるような発言やコメントに出くわしたときにも、「それが他ならぬこの場で出された事に、どんな意味や価値があるだろう」と関連づけるようになってきた。すると、これまでは対立や誤解が生じやすかった場面でも、そこから意外な対話や別の見立てが産まれはじめ、「想定外」の面白さが産まれてくるようになったのだ。

例えばゼミでの話。ここ数年、卒論指導における僕の悩みは、「僕の指導を無視して無断欠席や引きこもる学生をどう支えたら良いのか」という問いだった。自分と向き合う卒論は学生に取ってはハードルがかなり高いようで、毎年1,2名の学生が「書けません」と言ってきたり、それを言う勇気もなくてゼミに無断欠席をしたり、メールにも返信してこなかったり、という事が繰り返されていた。僕自身は、そういう学生への対処に困っていた。そして、どこかで「きちんと指導に従わない学生」というラベルを貼っていた。

だが、4月に学んだrelational worries(関係性の中での心配事)という視点で眺めると、ゼミ生のことで困っている僕自身の「心配事」にもフォーカスする必要もある。ゼミ生が「心配だ」と相手の責任にばかりしていられない。他ならぬ僕自身の指導の仕方やアプローチに問題があるからこそ、その学生は書けなかったり無断欠席するのだ。そう思えば、僕がその学生との関係性のダンスのあり方を変える必要がある。他人を変える前に自分が変わった方が早いというコミュニケーションパタンの変容が、他ならぬ僕自身に求められるのだ。それが、悪循環の高速度回転から抜け出すための手がかりでもある。

そう気づき始めて、ゼミ生との関係性がうまくいかない予兆が感じられたら、とにかく僕自身のパターンを変えるために、いろんな球を投げてみた。また、相手からのボールを受けて、僕自身も柔軟に受け方を変えてみることを意識的に行っていった。すると、今年は現時点で一人も取りこぼすことなく、卒論を順調に書いているのである。危うい局面は何人も何度もあったのだが、他人を変える前に、僕自身の「構え」を変えることで、場は大きく育っていった。

また、それは妻との関係性でも同じである。夫婦二人から、子ども中心の三人生活になり、夫婦からチームへ、と変容する途上で、互いの価値観の違いが最大化し、何度も衝突する場面があった。だがそれは、妻も僕も、子どもとの間での「心配事」が最大化する場面で、お互いがぶつかることが多かったのだ。それに気付いて、妻とぶつかりそうな場面では最近やっと、「このことについて、お互いはどんな心配事を抱えている?」と互いに尋ね合うようにしてみた。そして、その心配事を共有することが出来れば、相互不信も減り、納得出来る部分も増えて、コンフリクトは鎮まっていった。

そういう意味では、ダイアローグを単にスキルとして学んだのではなく、生き方の中で、日々模索するための叡智として受け取ったのだ、と気づき始めている。もちろん、まだまだ初心者マークではあるが。

3,「無理しない」ワークライフバランスへ

子どもをスリングに入れながら、必死にラップトップを叩いて出来上がった原稿が入っている編著が12月に刊行された。『「無理しない」地域づくりの学校-「私」からはじまるコミュニティーワーク』(ミネルヴァ書房)である。これは去年の三題噺にも書いた、岡山や京都での取り組みを書籍化したものである。

今年はこの本のタイトルにもある、「無理しない」に、少しずつ舵を切り始めた一年でもあった。この「無理しない」とは、物理的に無理しない、という意味ではない。「すべきだ・しなければならない」というshould, mustのモードではなく、「したい」というwould like toで生きる、ということである。

家事や育児は、確かに時間が取られるし、手荒れはするし、大変ではある。でも、わが子の笑顔を見ていれば、その大変さは一気に吹き飛ぶ。そういう意味では、「したい」である。同じように、仕事だって、できる限り「すべきだ」モードのことは減らしたり他の人にお願いし、僕自身が本当に「したい」ことに集中しないと、時間が圧倒的に足りない。そういう部分で、他人の思惑に絡め取られたり忖度して、「すべきだ」で生きていても、全く面白くないし、気も乗らない。それは、僕自身の活き活きとした魂を毀損することでもある。

そう思うようになると、なるべく「無理しない」をベースに仕事や家事、育児も含めたワークライフバランス全体を再設計する時期に当たっているのだと思う。ちょうど今年は42才の後厄の一年だったが、この後厄というのは、今にして思うと、これから10年20年を、より「無理しない」で、自分自身の、そして大切な家族や仲間との間での、「したいこと」に集中するための、シフトチェンジの時期ではないか、と思い始めている。

30代までは、誰かに何かを認めてもらうための、「僕が僕が」という強烈な自己主張の時期であった。見苦しいとバカにもされてきたが、当の本人は生き残る為に必死でもあった。でも、40代になり、そんなに自己主張しなくても、色んな物事がくっついてくるようになった。逆に力を抜けば抜くほど、いろいろなことがつながってきたり、会いたい人に会えたり、出会いたい場面に出会えるようになってきた。無駄な力みや強ばりが取れるほど、技が決まる、という合気道の精神が、やっと少しずつ、仕事や生き方の場面でも、つながってきたのかもしれない。

そういう意味では、今年は合気道の稽古自体にはほとんど行けなかったけれど、普段の生活の中で、力を抜く、無理しない、緊張しない稽古をし続けてきたのかも、しれない。

お陰でおちびは順調に育ち、そろそろ合気道の練習にも行けそうなタイミングとなってきた。合気道も家事育児も仕事も、どれも「無理しない」で、持続可能な形で、しかも「すべき・ねばならない」ではなく、「したい」で続けて行く。そんな2018年になれたら、もっと楽しいな、と感じている。

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今年は子育てメインでブログの更新が月1ペースでしたが、お読み頂きありがとうございました。

皆さん、よいお年をお迎えください。

たけばたひろし

6年前の「予言」

「障害者権利委員会一般的意見 (2017)第5号 19条:自立した生活及び地域への包容」を読んだ。この障害者権利委員会の委員を務める石川准先生のサイトによると、この委員会とは「各締約国の条約実施をモニタリング(監視)する専門機関であり、各国から提出された報告書に基づいて条約実施状況を審査し、改善勧告を出す役割を果た」すとされている。この委員会では既に四つの条文に関する一般的意見が公刊されている。今回、この委員会では障害者権利条約第19条を取り上げて、どうすべきか、のガイドライン的な意見書を整理した。

その今回の一般的意見 第5号の翻訳はネットにまだ出回っていないのだが、DPI日本会議が訳したもの(中西由起子さん監修)が、12月に開催されたDPI障害者政策討論集会で資料として出されていた。僕はその文章を、人づてに手に入れる事が出来た。それを読んでいたら、日本の脱施設・脱精神病院政策の根幹にも触れるような内容が記載されていた。

そもそも、業界内では知られているが、門外漢の方には知られていない、この障害者権利条約の位置づけを軽くおさらいしておこう。国際条約は、憲法よりは下位だが、国内法よりは上位に位置づけられている。すると、条約に批准する際/批准した後では、憲法は変えなくてよいが、条約と相反する法律ならば、変更する必要がある。日本が女性の地位向上や女性の労働環境の整備・向上に努めたのは、女子差別撤廃条約という権利条約を批准した後である。子どもの権利条約など、様々な権利条約が作られているが、障害者権利条約に関しては21世紀になった後の2006年に国連総会で採択され、日本国政府も2014年に批准した。

この条約は、条約制定過程から障害当事者が積極的に参加した、当事者参画の条約として画期的であるのだが、それゆえ、障害者権利条約第19条では、まさに障害当事者が求めてきた、そして保護者や専門家が消極的だった、次の文言が書き加えられた。(訳文は外務省訳を用いている)

「第十九条 自立した生活及び地域社会への包容
(a) 障害者が、他の者との平等を基礎として、居住地を選択し、及びどこで誰と生活するかを選択する機会を有すること並びに特定の生活施設で生活する義務を負わないこと。
(b) 地域社会における生活及び地域社会への包容を支援し、並びに地域社会からの孤立及び隔離を防止するために必要な在宅サービス、居住サービスその他の地域社会支援サービス(個別の支援を含む。)を障害者が利用する機会を有すること。」

Inclusionを「包摂」とせずに「包容」という訳にしたあたり、何だか政府訳ではぼやかしが見え隠れするが、19条の最も革新的部分はa項に書かれている、「特定の生活施設で生活する義務を負わないこと」である。これは、障害が重いから、親亡き後で面倒を見る人がいないから、火の始末が不安だから・・・といった理由で、入所施設や精神科病院のような「特定の生活施設で生活する義務を負わないこと」がはっきりと謳われているのである。

この19条a項と対になるb項目では「必要な在宅サービス、居住サービス」を提供することが義務づけられている。だが、このブログで何度も何度も指摘してたように、日本は世界で最も障害者をいまだに入所施設や精神化病院に収容し続けている国である。この19条とは真逆のスタンスの国である。であるがゆえに、この19条をどう履行するのか、は日本の障害者福祉政策にとって、大きな課題でもあるのだ。

そして、今回の「障害者権利委員会一般的意見」においては、この19条を完全実施する上でのポイントが、実にわかりやすく整理されている。この意見は、今後の日本の障害者施策の向かうべき方向も示されているので、幾つかのパラグラフを引用しながら、その内容について考えてみたい(以下のカッコ内は、先述のDPI日本会議訳による一般的意見書第5号)。

「パラグラフ49.19 条による障害者の尊重義務は、締約国が施設収容を段階的に廃止する必要があることを意味する。締約国はどんな新規の施設も建ててはならず、居住者の身体的安全の保護に必要な最も緊急な対策の範囲を超えて古い施設を改造してはならない。施設は拡大すべきではなく、新規の居住者は退所した人の所に入居すべきでなく、自立生活の外見(アパートまたは単体の家)はあるが施設を中心に展開される、施設が分岐した「サテライト」型の生活環境は作るべきではない。」

もっとも重要な箇所が、このパラグラフ49に凝縮されているように、僕には感じられた。「特定の生活施設で生活する義務を負わないこと」を実現するためには、「施設収容を段階的に廃止する必要があることを意味する」のである。日本の入所施設や精神科病院は私立がほとんどであるため、その経営者団体の「既得権」に遠慮して、日本ではこの「段階的廃止」の議論は全くなされていない。だが、入所施設や精神科病院への社会的入院・入所を受け入れる限り、「特定の生活施設で生活する義務」はいつまでもつきまとう。脱施設・脱精神科病院という「出口戦略」だけでなく、入所施設や精神科病院への入所・入院そのものを減らす・無くすという「入口」を止めないと、社会的入院・入所の数は一向に減らないし、専門職も「施設があるのだから」と安易にその選択肢を選んでしまうことになる。

実際、スウェーデンでは1994年にLSSという障害者への地域生活の権利を付与する権利法(行政にとっては施策実施義務を伴う義務法)を策定したが、その後も入所施設の閉鎖には至らなかったので、知的障害者の入所施設や特別病院を閉鎖する特別立法を1997年に制定し、1999年12月31日まで全施設の閉鎖を目指した。その期限内には実現しなかったが、僕がスウェーデンに滞在した2005年に調べた際には、2003年には全施設を閉鎖した(そのことは以前のレポートに詳細を記載した)。そして、スウェーデンの第二の都市、イエテボリ市の郊外にある観光名所の島にある元・入所施設を訪れると、身寄りがいない一部の知的障害者がそこに暮らし続ける事を選択したが、そこは定員6人のグループホームになっていて、もちろん自分自身の部屋もキッチンもバストイレもある、平屋の集合アパートのようになっていた。。

また、イタリアでは前回のブログでもご紹介したフランコ・バザーリアの尽力により、公立の単科精神病院への新規入所を禁じる180号法が1978年に制定され、1999年3月までに司法精神病院を除く全ての公立精神病院が閉鎖された。また、身寄りのない住人は、「オスピテ(客人)」という形で元精神科病院内の施設を改造した住居に暮らす人もいるが、年々その数は減っている。そして施設収容の経験のない新患の精神障害者は、自分たちが元々暮らしていたアパートや居住施設で暮らし続けている。

つまり、入所施設や精神科病院といった「特定の生活施設」があるからこそ、障害者がそこでの生活を「義務づけられる」という隔離収容の歴史が続くのである。その歴史を終焉させたければ、そのような場を「段階的に廃止する必要がある」のだ。

ちなみに「施設を中心に展開される、施設が分岐した「サテライト」型の生活環境は作るべきではない」というのは、これも以前シノドスで指摘したが、「病棟転換型施設」はもってのほかだ、ということである。

「50.締約国は保護義務として、家族や第三者が地域社会で自立して生活する権利の享受に対する直接的、間接的な妨害を防ぐための措置をとることが求められる。締約国は保護義務として、自立した生活及び地域社会への包容の権利の完全な享受を揺るがす家族や第三者、サービス提供者、土地所有者、一般サービスの提供者による行為を禁止する法律や施策の導入や履行を求められる。
51.締約国は、公的あるいは民間の資金が、あらゆる施設化された形態で既存又は新たな施設の維持、改良、設置や建設に費やされないことを確保しなければならない。さらに締約国は民間施設が「地域生活」に見せかけて設置されないことを確保しなければならない。」

日本の知的障害者の地域移行が進み始めたのは21世紀に入ってからであるが、その初期段階の成功例としてあげられるのが、長野県立西駒郷である。ここでは、支援者の山田優さん達の尽力のお陰で、500名規模の入所施設において、半数以上の利用者が地域移行を実現した成功モデルである。僕はその評価検証事業に関わった。だが、そんな西駒郷ですら、最重度の人の施設は「立て替え」をしてしまった。その背後には、親亡き後のわが子の心配を案じる家族の強い意向が働いた、という。家族だけを批判するつもりはむろんないし、20世紀の日本型福祉は「家族丸抱え」が定番だったので、「地域移行」と聞くと、「やっと施設にお世話になることが出来たのに、また我が家に戻されるのか!?」と感情的に反発した親御さんがいたことも理解する。19条b項に定める、重度障害者向けの介助や居住支援が圧倒的に不足していたのだ。

だが、そうだからといえ、今からの施設の建て替えは、入所施設の永続化をもたらす。「居住地を選択し、及びどこで誰と生活するかを選択する機会を有すること並びに特定の生活施設で生活する義務を負わない」という19条の理念を真っ当に実践するなら、施設の建て替えは「家族や第三者」による「地域社会で自立して生活する権利の享受に対する直接的、間接的な妨害」となるのだ。これを、そのまま許していてはならないし、「入所施設に依存しない地域生活支援体制」を断固として国は創り上げる必要があるのだ。

そして、このような政策転換には、国の積極的関与が必要とされる。

「57.締約国は脱施設化のための戦略と具体的な活動計画を採用しなければならない。それには、構造的な改革を実施し、地域社会における障害者のための施設及びサービス等の利用の容易さを向上し、地域社会における障害者の包容に関する社会のすべての人の意識を向上させる義務を含む。
58.脱施設化は、包括的な戦略の一部として入所施設の閉鎖や施設入所規定の削除を含む体系的な移行も必要とする。したがってそれには、予算と時間枠を伴った個別の移行計画を含むいろいろな個別支援サービスと包容的支援サービスの設定に加え、地方自治体を含む政府のすべてのレベルや部署における改革や予算、姿勢を確保する、調整がされた政府横断アプローチが求められる。」

この「脱施設化のための戦略と具体的な活動計画」に関して、厚労省なら「障害福祉計画の中で具体化させています」とシラをきるかもしれない。だが、2000年代前半の障害福祉計画では、入所施設からの地域移行の目標数値を少ないながらも積極的に掲げていたが、その達成が毎回無理な現状が重なると、元々が控えめな数値目標なのに、どんどんそれすら後退している現実がある。それは「構造的な改革」を伴わない「戦略」と「活動計画」だからである。

ではどうしたらよいのか。それは、前述のパラグラフ58に書かれているような、「予算と時間枠を伴った」、「個別の移行計画」(ミクロ)だけでなく、個々の「入所施設の閉鎖」(メゾ)、そして入所施設や精神科病院に集中的に投下されてきた財源を地域生活支援の基盤整備に振り替える、という意味での「地方自治体を含む政府のすべてのレベルや部署における改革や予算、姿勢を確保する、調整がされた政府横断アプローチ」(マクロ)のレベルの改革が求められるのだ。

そのために、政府は具体的に何をしたらよいのだろうか。それは、「Ⅴ 国内レベルでの履行」に書かれたパラグラフ98が、網羅的に記述している。特に地域移行に関係する部分を拾い出してみよう。

「98.(g) 障害者のあらゆる形態の孤立、隔離及び施設収容を廃止するために、適切な予算と特定の時限がある脱施設化のための明確で対象を絞った戦略を採択する。現在施設にいる心理社会的及び/又は知的障害のある者や障害児に特に留意しなければならない。
(m)独立した監視組織の役割に留意して、既存の施設や居宅サービス、脱施設化戦略や地域社会における自立生活実施を監視する仕組みを作る。
(n)19条に基づいて想定された監視と実施は、障害者の自分たちを代表する組織を通じた完全な協議と参加において実行されるべきである。」

(g)項では、脱施設・脱精神科病院を進める上での特別立法の必要性を求めている。(m)項目は、名ばかりの施策実施でお茶を濁さないために、「脱施設化戦略や地域社会における自立生活実施を監視する仕組み」を求めていて、(n)項ではその際に「監視と実施は、障害者の自分たちを代表する組織を通じた完全な協議と参加において実行されるべきである」と規定し、障害当事者がこのプロセスにしっかり参画出来る体制作りが必要不可欠であることも提起している。

だが、これらのことは、実は日本政府の審議会レベルでは、かつて検討された事がある内容である。それが、内閣府障がい者制度改革推進会議の総合福祉部会で2011年8月に整理した「骨格提言」の中に記載されている(その解説も一応貼り付けておきます)。それが、p49以後の「Ⅰ-6 地域生活の資源整備」に書かれた「「地域基盤整備10ヵ年戦略」(仮称)策定の法定化」である。この部分を少し長くなるが、引用しておく。

「【結論】
○ 国は、障害者総合福祉法において、障害者が地域生活を営む上で必要な社会資源を計画的に整備するため本法が実施される時点を起点として、前半期計画と後半期計画からなる「地域基盤整備10ヵ年戦略」(仮称)を策定するものとする。策定に当たっては、とくに下記の点に留意することが必要である。
・ 長期に入院・入所している障害者の地域移行のための地域における住まいの確保、日中活動、支援サービスの提供等の社会資源整備は、緊急かつ重点的に行われなければならないこと。
・ 重度の障害者が地域で生活するための長時間介助を提供する社会資源を都市部のみならず農村部においても重点的に整備し、事業者が存在しないためにサービスが受けられないといった状況をなくすべきであること。
・ 地域生活を支えるショートステイ・レスパイト支援、医療的ケアを提供できる事業所や人材が不足している現状を改めること。
○ 都道府県及び市町村は、国の定める「地域基盤整備10ヵ年戦略」(仮称)に基づき、障害福祉計画等において、地域生活資源を整備する数値目標を設定するものとする。
○ 数値目標の設定は、入院者・入所者・グループホーム入居者等の実態調査に基づかなければならない。この調査においては入院・入所の理由や退院・退所を阻害する要因、施設に求められる機能について、障害者への聴き取りを行わなければならない。」

この部分の作成に、同部会の構成員として僕自身が関わったので、はっきり言えること。これは、冒頭に紹介した権利条約19条のa項とb項を日本で現実的に履行するための戦略であった。そして、今回の「障害者権利委員会一般的意見 (2017)第5号 19条:自立した生活及び地域への包容」を読んでいて、嬉しくもあり、悲しくもある、複雑な気持ちを抱いた。2011年の段階で最善と考えた「地域基盤整備10ヵ年戦略」は、その6年後に「障害者権利委員会」が提起した内容とほぼ同じものである。つまり、6年前に智恵を絞って整理したこの内容は、十分に今でも機能する内容であり、普遍性が高い「戦略」であるというのが「嬉しい反面」である。だが、これは以前シノドスに書いたが、この「地域基盤整備10ヵ年戦略」も含めた「骨格提言」そのものを国は無視して、この6年の間、全く何も実践していない、という部分では、実に「悲しい反面」である。

ということは、これからこの「一般的意見第5号」にどう対処すべきか、「国内レベルでの履行」において、日本ではどのように進めていけばよいのか、に関しては、僭越ながら僕たちが6年前に整理した「地域基盤整備10カ年戦略」を厚生労働省は採択せよ、と迫ればよいだけ、である。しかも、この内容は、知的障害者福祉協会や日本精神科病院協会、重症心身障害児(者)を守る会、といった、入所施設や精神科病院、重度障害者の家族会も構成員となった委員会でガチンコで議論され、総意を得た内容である。利益相反になりがちなステークホルダー間での意見が一致した内容である。厚労省が一番苦手とする、このような意見のとりまとめをした「戦略」であり、権利条約の国内履行において必要不可欠なこの「戦略」を、国がネグレクトするのは、サボタージュ、以外の何物でもない。

「障害者権利委員会」の「一般的意見」を眺めながら、6年前に「骨格提言」の中で「予言」しておいたことが今も機能していることを、再確認できた。そんな今だからこそ、改めて多くの人に「骨格提言」を読み返してもらいたいなと、深く感じた。