大学院生の頃から、精神病院でのフィールドワークを始めた。その後、病院から出て地域支援に転じたソーシャルワーカーの事が気になり、いつのまにかソーシャルワーカーや支援者の聞き取りを沢山してきた。その一方で、魅力的な障害者運動の当事者リーダーたちと出会い、沢山のことを学ばせてもらってきた。今でも、福祉現場の支援者エンパワメントの研修を沢山していて、オモロイ支援者とがっつり議論する機会も多い。
だが、こういう現場で聴いた事を、ほとんど論文や本の形で言語化したことはなかった。相手の語りを自分の価値観やフレームの中に落とし込んで、そのフレームの「具体例」として説明するのは、他者を搾取するようで嫌だった。でも、それ以外の方法でどうやって表現して良いのかわからなかった。だからこそ、制度や政策の論文を書いたり、障害者福祉の理念や歴史に関する本を書いてきた。それ以外に書きようがないと思い込んできた。
今回、岸政彦さんが編者となった『生活史論集』(ナカニシヤ出版)を読み進める中で、こういう語りの方法があったのだ!と気づかされた。この本の中では、聞き手である研究者の分析枠組みの傍証として、当事者の語りが出てくる訳ではない。むしろ逆である、と岸さんは言う。
「私たちが沖縄的共同性について、あるいは『沖縄的なもの』について考えるときには、ある種の『沖縄的合理性』について考えなければならなくなる。沖縄の人びとは、私たちと同じように、そしてさらに世界中の人びとと同じように、限られた条件のもとでよりよい人生を生きようと懸命に努力しているのだ。沖縄の人びとはただ単に、割り当てられた『規範』のようなものを再生産するだけの機械ではない。沖縄の人々は、なにごとかをなしているのである—私たちと同じように。そこには理由があり、同期があり、そして『利益』がある。行為はただ規範を再生産し記号や象徴を交換するだけの退屈なものではない。そこには利害があり、切れば血の出るような切実な『合理性』があるのだ。」(p217)
この「沖縄」を「ゴミ屋敷」や「精神病院入院経験者」、「魅力的な支援者」と入れ替えても、同じ事が言えそうだと僕は感じている。世間の標準なるものから距離がある・外れたとラベルが貼られている人も、その人なりの「利害があり、切れば血の出るような切実な『合理性』がある」。それを、当事者以外の研究者が当てはめる「規範」の枠組みの中で描くことは、なんだか違うんじゃないかな、と思って、聴いた声を書くことはできなかったのだ。でも、岸さんが以前から提唱している「他者の合理性」の理解社会学に関しては、ぼく自身もその可能性を模索していて、当事者の語りを入れずに、理論的な考察として、「「合理性のレンズ」からの自由 : 「ゴミ屋敷」を巡る「悪循環」からの脱出に向けて」という論文にしたことがある。
そして、今回この本に出てくる様々な語りを読みながら、「限られた条件のもとでよりよい人生を生きようと懸命に努力している」語りの迫力に胸を打たれた。それは「切れば血の出るような切実な『合理性』」が語られているからであり、そのように語りを紡いでいく聞き手がいるからである。岸さんは、聞き手が大切にしていることを、以下のように整理している。
「生活史とは、出来事と選択と理由の、連鎖と蓄積である。そしてその連鎖と蓄積を通じて、人生そのものに『意味』というものを付与していくのである。私たちは自分の経験、出来事、他者、場所などに、常にさまざまな意味付けををおこなう。それは希望に満ちたものでもあるだろうし、絶望的なものであるかもしれない。私たちの人生の中心には意味があり、その意味をめぐって私たちの人生は展開する。意味によって人は生かされていて、そして生きていることで意味が生み出されていく。」(pxx)
実は、社会運動には様々な「規範」がある。ぼく自身は、障害者運動の「規範」をある程度理解している(つもりだ)。でも、「規範」的な文章を書くのであれば、別に僕がしなくても、当事者運動のリーダーたちや現場の当事者と共に運動の最前線にいる研究者たちが書いた方が、遙かに説得力がある。だが、規範に頼らず文章を書くには、何らかの自分語りも必要になる。しかし、それをすると、当事者の声を自分語りの材料に使ってしまいそうで、それは危うい。だからこそ、単著の一冊目『枠組み外しの旅』は当事者運動から自分がいかに学んできたのかを規範ではなく「僕」を主語として語った。子育てでインタビューもままならなかった時期は、オートエスノグラフィー的な『家族は他人、じゃあどうする?』を仕上げた。
でも、今振り返ってみると、『枠組み外しの旅』だけでなく、『家族は他人、じゃあどうする?』も「出来事と選択と理由の、連鎖と蓄積」の記述だった。「そしてその連鎖と蓄積を通じて、人生そのものに『意味』というものを付与していく」プロセスを記述した、とも言えそうだ。妻や子どもという「他者」と生を共にする。その「出来事と選択と理由の、連鎖と蓄積」のなかに、いかなる内的合理性があるのか。子どもについむかっとしたり、「ちゃんとしなさい」と怒鳴ってしまう時に、どのような「連鎖と蓄積」があるのか。自分自身の体験を振り返り、それを反省的に記述するプロセスの中で、いかなる常識の「連鎖と蓄積」に絡め取られてきたのか、そこから離脱するのがいかに難しいか、を検討してきた本とも言えそうだ。これも岸さんの語りを借りるなら、子育てという「意味によって人は生かされていて、そして生きていることで意味が生み出されていく」プロセスを観察し、言語化したのが、昨年出した上記のエッセイだった、と言えそうだ。
僕自身は、脱施設化やオープンダイアローグを研究してきたが、これは旧来の精神医療に対する強烈なアンチテーゼ、という意味で、規範性を強く帯びている。ただ、規範性を持った書き方では限界がある、という苦しさも抱えていたし、それは2ヶ月ほど前に「偽解決と紋切型を越えるために」というブログにも整理した。
だからこそ、今回の『生活史論集』を読んでいて、勇気づけられた。僕が聞いてきた様々な声を、こういう形で語りとして伝える方法論があるのだ、と。ぼく自身の規範や枠組みに押し込めるのではなく、当事者の内在的論理の「出来事と選択と理由の、連鎖と蓄積」を積み上げて行く。その中で、「狂うとはどういうことか」、とか、「心の病を抱える人を支えるとはいかなることか」、などを、語り手の語りを通じて紡いでいくことが出来そうだ、と思い始めている。規範がダメだ、といっているのではない。ある規範を大切にしている人が、どのような「連鎖と蓄積」のなかで、その規範を大切にしてきたのか。その人間的な「出来事と選択と理由」を探っていくことのほうが、尊重したい規範の迫力が伝わってくるのではないか。そんな仮説を抱いている。
そろそろインタビュー調査を再開したいな、と思っていた矢先だったので、本当に沢山の刺激や学びを受けた。次の論文では、「他者の合理性」の「連鎖と蓄積」をあぶり出す、この切り口で何かを書いてみたい。