偽解決と紋切型を越えるために

ある問題が繰り返し生じている。そういう悪循環が生じたとき、その問題そのものだけでなく、悪循環を解決する営み自体をも問題を抱えていることがある。それは、30年前に書かれた本に、以下のように書かれている。

「悪循環とは、ある人が自身の置かれている状況を問題のあるものとみなし、これを解決しようとする行動に出るが、この解決行動自体がとうの問題を生み出してしまうというメカニズムを持ち、しかもこれが反復的に繰り返されるものを言う。」(長谷正人『悪循環の現象学』ハーベスト社、p78-79)

家族療法を学んだ社会学者は、悪循環は問題行動と偽解決とセットである、と指摘する。偽解決とは、「これを解決しようとする行動に出るが、この解決行動自体がとうの問題を生み出してしまう」解決方法であり、問題行動と偽解決の循環メカニズムは、「反復的に繰り返される」ことによって悪循環が構成されていく。こう考えてみると、実はぼく自身のアプローチも、「偽解決」だったかもしれない、と暗澹たる気持ちになっている。

2023年2月25日に放映された、NHKのETV特集「ルポ 死亡退院 〜精神医療・闇の実態〜」をみた。この番組が放映される前から、ルポの舞台である滝山病院に関する様々な記事も出されている。それらをみて、そこで行われているひどい虐待や人権侵害にも唖然としたが、大変悲しいことに、目新しいことではなかった。なぜなら20年前、ほとんど同じ構造的問題を持った事件と出会っていたからだ。

大学院生のころ、埼玉県の朝倉病院で、患者の身体拘束や過剰で不必要な医療処置などを行い、不正請求によって保健医療機関の認定が取り消され、病院が廃院になった。この時はテレビ朝日のスクープ映像によって問題が発覚したのだが、その際、師匠の大熊一夫はそのスクープ映像が取り上げられた番組でコメンテーターとして出ていた。そんなご縁もあり、僕もその後の朝倉病院事件については追いかけ続け、行政の病院監査の杜撰さなどを指摘した論文「日本の精神病院への行政監査の現状と課題」を書いた。院生の頃に必死に書いた論文で、前半は幾分冗長な説明が続くが、その後の宇都宮病院事件から大和川病院事件、そして朝倉病院事件へと続く精神病院での不祥事の連鎖や、それがなぜ生じているのか、その構造的背景も描いていた。そして、残念ながら20年前に書いたこの論文で指摘した内容を、今回はまた「再演」している。

20年前の論文で、僕は行政監査の課題を「繰り返される不祥事」「行政の認識の甘さと書類中心主義」「事前通告」「性善説」「医師の裁量権」「情報の非公開」という六点に整理した。そして、この六点は、今回の滝山病院事件にも全て当てはまる。

まず、朝倉病院の院長は、過去に保険医を取り消された後、再び保険医指定を取り戻し、滝山病院の院長になっていた。そして、透析患者への不適切な治療や、患者の身体拘束、虐待などを容認してきた。これは朝倉—滝山病院事件に限ったことではない。2020年には神出病院事件が起こり、今年はふれあい沼津ホスピタルでの虐待事件が報じられている。不祥事は繰り返し繰り返し起こり続けている。

そして、ETV特集でも、神出病院事件の第三者委員会報告書においても、行政監査の杜撰さや事前通告の問題は指摘されている。監査の日は身体拘束の用具を隠すなどの隠蔽行為は日常的に行われていた、と双方の病院では言われている。これは医師の性善説を「建前」とした監査であるがゆえに、不正がないかをチェックする技量がない行政事務職による書類中心主義の監査であったのが背景にある。さらに言えば、朝倉病院事件でも滝山病院事件でも、過剰な医療による保健医療点数の過剰請求が問題になっているが、そもそもここには医師の性善説が背景にあり、医療内容について踏み込んだ審査が日常的に行われていない、という背景もある。そして、こういう行政の不作為については、情報公開がなかなかなされない、という問題もある。

・・・と書いてみたところで、虚しさがすごく残っている。20年前に指摘しても、今もそのままで、変わっていないじゃん、と。ただ、そのことについて、20年前と今の自分では、スタンスが違う。20年前は、「ここが問題だ、これを変えなければならない!」と熱い想いでこの論文を書いていた。もちろん、今でもその想いを捨て去ってはいない。だが、冒頭に引用した悪循環の話に戻ってみよう。20年前、繰り返される不祥事に対して、それを解決しようとしてこの論文を書いた。だが、20年後も同じ悪循環が反復的に繰り返されている。確かに、虐待や人権侵害をする個々の病院・組織・スタッフの問題性は許しがたい。だが、それを指摘し、告発しても、同じ事が繰り返されるとしたら、その指摘や告発をするぼく自身のアプローチが、「偽解決」になってはいないか。そう思い始めているからである。

ただ、急ぎ断っておきたい。ETV特集や神出病院事件の第三者委員会報告書は、すごく大切で、重要な指摘をしている。報道機関による虐待報道もすごく大切だ。そういう優れた仕事にケチを付けたいのではない。そうではなくて、僕はこのETV特集を見たときに、「20年前と変わっていない」と思ってしまった。20年前に書いた論文で指摘した構造的問題がそのままではないか、と。そこから、深く自分に問い返すのだ。「それが問題だ」と指摘する、タケバタヒロシ自身の批判や指摘の仕方自体が、「これを解決しようとする行動に出るが、この解決行動自体がとうの問題を生み出してしまう」解決方法であり、偽解決ではないか、と。再び『悪循環の現象学』に戻ってみたい。

「例えば『金銭は諸悪の根源である』と言う人々は、自分もまた『諸悪の根源』であるところの『金銭』と日常的に関わっているにもかかわらずに、こう語ることによって自分だけは『諸悪』と関係ない人間であるかのような顔をするだろう。それは、まさに社会学者の顔だったのである。このように、紋切型の普及は、社会学的な認識が人々に共有されていることによって陳腐化されてしまっていること、つまりは社会学もまた紋切型の一種になっていることを示しているのである。」(p142)

精神病院への批判は、これまで繰り返し繰り返し書き続けてきた。例えばウェブで読めるものだけでも、「誰のため、何のための「改正」? 精神保健福祉法改正の構造的問題」とか、「精神病棟転換型施設を巡る「現実的議論」なるものの「うさん臭さ」」などあるし、紙媒体にも何度も書いてきた。あるいは、一年前のETV特集については、「隔離収容とコロナ危機」というブログ記事も書いた。盛んに精神病院を批判し続けてきた。でも、こうやって批判するぼく自身の文体や内容が、「紋切型」ではないか、と思い始めている。

「○○は諸悪の根源である」と語るとき、自分自身はその「諸悪の根源」であるところの「○○」とは関係ない、高みの見物をしているという前提がある。このことを長谷さんは、自戒を込めて「透明人間」の失敗だと語る。

「社会学者は家族療法家のように振る舞うことに失敗し、むしろ神経症を促進するような役割を担ってしまった。なぜか。それは社会学が『透明人間』の視点から社会を観察し、分析し、批判してきたからである。『透明人間』とは、観察者としての自分だけが当該社会のなかに含まれないという前提で、社会を観察する者のことであった。つまり、社会学は、社会学という学問や社会学的な認識が現実には存在していないかのようにして、社会を分析してしまった。このことが近代社会の病理に対する社会学の処方箋を狂わせたと言えよう。結論的に言えば、透明人間の視点から為された社会学は、第一に『不器用さ』を分析する側にではなく、『不器用さ』を促進する側にたってしまったし、第二に紋切型を分析対象とすることなく、自ら紋切型となって神経症的悪循環を作り出してしまったのである。」(p138-139)

「隔離拘束は諸悪の根源である」とは書いていないが、似たような事は「クローズアップ現代」に出演した後のブログ「身体拘束を減らす4つの視点」などでも指摘し続けてきた。この際、ぼく自身は、確かに「透明人間」的な書き方だったかもしれない。自分は現象を客観的に観察している観察者であり、観察者は現場に影響を及ぼさない、と思い込んでいた。だが、精神病院に対するジャーナリストや研究者による批判は、確実に当の精神病院に影響を与えている。それは師匠の大熊一夫が半世紀前に書いた『ルポ・精神病棟』の中でも、精神医療従事者からの反論として掲載されている。つまり、批判の声が全く現場に届いていないから何も変わっていないのではなく、その声が現場に届いているにもかかわらず、現実が変わっていない・固定化されているという前提で物事をみる必要がある。

その上で、長谷さんの指摘する「透明人間の視点から為された社会学は、第一に『不器用さ』を分析する側にではなく、『不器用さ』を促進する側にたってしまったし、第二に紋切型を分析対象とすることなく、自ら紋切型となって神経症的悪循環を作り出してしまったのである」という点について、分析する必要がある。

この際の「『不器用さ』を促進する」を、悪循環の再演と捉えると、どのような事が言えるだろう。精神病院における不祥事の告発や批判が「透明人間の視点から」なされた場合、当の問題を繰り返し反復させる。そして、精神病院への批判が「自ら紋切型となって」=偽解決になって、精神病院での虐待や人権侵害という「神経症的悪循環」を生み出している。このような仮説を抱いたら、どのようなことが言えるだろうか。

再び、滝山病院を巡るETV特集に戻ってみたい。あの報道の中で、この種の病院は「必要悪」だと何度も語られていた。透析が必要な精神科の患者を受け入れてくれる病院はなく、遠方からも入院要請があると。そして、院長とされる音声でも、自嘲気味に、死亡退院が多いのも仕方ないといった発言をしていた。それは、「透明人間」ではなく、アクチュアルなタケバタヒロシとして、見覚えのある話だった。

精神疾患と人工透析を併発した直接面識のある人のこととを思い浮かべると、その「必要悪」という言葉が、重くのしかかる。アルコール依存症で透析をしながらも、こっそり隠れてアルコールを飲み続け、失踪したり、家族にも暴言を振るい続けてきた。家族は見放さなかったが、「打つ手無し」と一般の透析病院から見捨てられかけていた。家族の働きかけがあって、何とかその病院での治療は継続し、結果的にそこで亡くなったが、もし病院からの強制的退院が通告されたなら、滝山病院やそれに類する病院に入院するしかなかっただろう。すると、あの人も、映像内に出てくる人と同じような処遇をされたかもしれないのだ。

社会的なルールを守れない。それは、アルコール依存症で腎臓も肝臓も壊れかけていて、人工透析で何とか保っているのに、隠れてアルコールを飲み続けた彼も、まさにそうだった。でも、今から思うと、彼は「苦しいこと」をアルコールを飲む形でしか表現出来ない状況に構造的に追い込まれていた。「苦しみ」として昇華できず、アルコールを飲みつづけ、友人や仲間、仕事も亡くし、家族にも愛想を尽かされながらも、でも必死で飲んで「苦しいこと」を表現しようとしていた。だが、それは理解されず、一般の透析病院でも見放されてきた。

それはなぜか? ぼく自身も含めて、この社会では、一般的なルールを守れない人の内在的論理を理解しようとするアセスメントがなされず、「ダメな人」「困った人」「周囲に迷惑をかけるひと」とラベルが貼られ、社会的に排除されているからである。そして、そういう人に医療が必要な場合、引き受ける病院は限定的であり、それが「必要悪」とされた滝山病院のような収容所を温存させることになる。事実、ETV特集の中では、生活保護のワーカーが率先して入院に切り替えていた様子も報じられていた。その患者さんは、透析治療を無断で辞めたから、滝山病院への入院だとも報じられていた。

ここから、透明人間ではなく、この社会の一員として、分析しなければならないことがある。「周囲に迷惑をかけてはいけない」という不文律の、しかも強固な日本社会の価値前提をあなたも私もシェアしている。そして、その不文律を破った人は、排除されても仕方ない、と思い込んでいたり、そういう人を処遇する場も「必要悪」だと思い込んでいる。この価値前提がぼく自身にないか、が問われているのだ。

これは、様々な神経症的悪循環の連鎖である。まず、この社会で「頑張って迷惑をかけずに生きている」と思い込んでいる人は、自分とは違う「迷惑をかける、注意しても聞かない他者」の事が容認できない。だから、そういう人は劣等処遇されても仕方ない、と無意識・無自覚に思い込みやすい。また、そういうメンタリティを持ったまま、「困難事例」「問題行動」とラベルが貼られた人を支援すると、「あいつが悪い=私が悪くない」と思い込みやすい。この二項対立に支配されると、患者への劣等処遇や虐待、人権侵害も、「私は悪くない」と容認されてしまう。そして、その二項対立に支配されているのは、個別の看護師や病院に限ったことだろうか? 「迷惑をかけ続ける人は自業自得だ」という二項対立的発想に、ぼく自身もあなたも罹患していないか? すると、滝山病院への批判の眼差しは、「必要悪」だと容認している、日本社会に暮らすぼくたちの認識前提そのものにも問い返さなければならないのでは、ないだろうか?

そう考えていくと、かつて相模原での障害者連続殺人事件に関してブログ(不幸な二項対立に陥らないために)に書いた児玉真美さんの悲痛な叫び声も聞こえてくる。

「障害を社会モデルで捉えるように、親の様々な思いや行動もまた、社会モデルで捉えてもらうことはできないでしょうか。『親は一番の敵だ』で親をなじって終わるのではなく、『親が一番の敵にならざるを得ない社会』に共に目を向けてもらうことはできないでしょうか。」(児玉真美『殺す親 殺させられる親』生活書院p264)

こういう事件が起こるたびに、入所施設や精神病院に入れる家族が悪い、という紋切型の批判も出てくるし、かつては僕も似たようなことを書いたことがある。でも、『親が一番の敵にならざるを得ない社会』に共に目を向ける、ということは、滝山病院問題に戻れば、「滝山病院が必要悪として温存されてきた日本社会」そのものに、共に目を向ける必要があるのだ。そして、そのような「必要悪」構造の悪循環を解消するための方法論が模索されないと、「周囲に迷惑をかける人の行き場所」という「ニーズ」は社会的に残り続け、それが滝山病院的な収容所の温存に繋がる。これは精神科だけでなく慢性期の老人病棟の中にも、同種の構造が残り続けていると思う。そして、それを必要としている家族や社会があるのだ。

個別の病院や医療従事者の権利侵害を免責するつもりはない。法を犯す行為に対して、厳正な処罰は必要不可欠だ。でも、個々の病院を糾弾するだけでは、偽解決であり、悪循環は増幅していく。10年後も20年後も、同じような問題を起こす病院の問題は、繰り返し出てくる。それは、『ルポ・精神病棟』が書かれて半世紀後にも、同じ構造が残っていることからも、明らかだ。

では、どうすればよいか。それも、以前のブログ(『チッソは私であった』と向き合って)で書いた緒方正人さんのことを思い出す。

「私自身も今では車も運転し、船も木造からFRP(強化プラスティック)になって、情報を新聞やテレビから得、電化製品の中にあるわけです。確かに私自身が水銀を流したという覚えはないですけれども、時代そのものがチッソ化してきたのではないかという意味で、私も当事者の一人になっていると思います。しくみ全体が、そういうふうに動いてきているということがあると思います。かつては、チッソへの恨みというものが、人への恨みになっていた。チッソの方は全部悪者になっていて、どっか自分は別枠のところに置いていた。しかし、私自身が大きく逆転したきっかけは、自分自身をチッソの中に置いた時に逆転することになったわけです。水俣病の認定や補償や、医療のしくみを作ることではすまない責任の行方が、自分に問われていることを強く感じていました。」(緒方正人著『チッソは私であった』、河出文庫、p73)

緒方さんは、チッソ被害者の1人である。裁判でも戦い、「チッソの方は全部悪者になっていて、どっか自分は別枠のところに置いていた」という意味では、「透明人間」的だった。だが、かれは自分がチッソ化した時代の中で、チッソの恩恵にあずかっている、という当事者性を自覚してしまった。そうすると、「水俣病の認定や補償や、医療のしくみを作ることではすまない責任の行方が、自分に問われていることを強く感じ」たのだ。

「透明人間」から脱するためには、「問題の一部は自分自身である」と捉え直す必要がある。使い古されたが、今でも大切なフレーズである。問題行動と偽解決の連鎖を解消したければ、問題行動を指摘する己自身のアプローチが、偽解決ではなかったか、を検証し、コミュニケーションパターンを変えて行く必要があるのだ。

2年ほど前、こんな文章を書いた。

「精神病院やそこで働く人々が、そのような「問題行動」「処遇困難事例」 に対して、率直に自らが治療できていないと認められない場合、トラウマ症状の人が引き起こすのと同じ解離現象が生じるのではないか、という妄想すら浮かぶ。解離現象は、圧倒的なトラウマ経験をした人が、そのトラウマの直面やフラッシュバックを避ける為に自己の 一部を解離させる現象であるが、精神病院やそこで働く人々も、支援者自身や支援組織のトラウマへの直面を拒否するために、支援者自身の人格の一部を解離させて、直視せずに・な かったことにしている可能性はないか。精神病院における度重なる人権侵害や暴力の背後 には、そのような支援者や支援組織の「解離性障害」の可能性すら感じてしまうのだ。」(「支援者の脱施設化の思想 : トラウマ化された病院を越えて」

今回の滝山病院問題を見て、この時に書いた内容を改めて思い出す。トラウマ化された支援者や病院が、その「不器用」な構造から抜け出せない。それを外から正義の論理で批判しても、支援者や支援組織が「罹患」している、組織病理としての「解離性障害」を乗り越えることは出来ない。そして、透明人間としてそれを客観的に語ると、その悪循環は増幅される偽解決になる。その偽解決を超えるためには、組織的・構造的トラウマをどのようにしたら乗り越えるのか、別のやり方がありうるのか、を精神病院の中の人と共に考えることなのではないか、と思う。

これから何が出来るかわからないが、「自ら紋切型となって神経症的悪循環を作り出してしまった」ことを認めた上で、それ以外の方法論を模索したい。そう感じている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。