本物の英雄とは?

30年まえの本が、これほどまでにアクチュアリティをもって響いてくるとは思っていなかった。
「『父権復興』を叫ぶ人たちの多くが考えているのは、日本的な父性、あるいは母性的集団とも言うべき日本的軍隊の復活ではなかろうか。今どきの弱い、あるいは身勝手な若者を徴兵によって『鍛えてもらおう』などと考えている人は、自ら父親の強さをもつことを放棄し、それを集団にまかせようとする、極めて母性的な発想を抱いているのである。このことは、われわれ臨床家が常に経験するところであり、自分の子どもを『厳しく鍛え直す』ことを主張する多くの親は、それを自らがやる意思はなく、他人にゆだねようとする姿勢を示し、その弱さ故にこそ子どもの強烈な反発を惹き起こしているのに気付かないのである。このようなことに気付かずに、父権復興のかけ声に乗せられ-かけ声に乗ることがそもそも父性の弱さを意味するのだが-あわてて徴兵制復活などをするならば、日本の誇る中空性の中央に、低劣な父性、あるいは母性に奉仕する父性の侵入を許すことになり、戦争中の愚を繰り返すことになるのみであろう。」(河合隼雄『中空構造日本の深層』中公文庫、p66)
憲法改正や国防軍の設置、といった議論が、衆議院議員選挙の争点の一つになっている。そのことの是非とは別の、メタレベルで、なぜ今頃そういう事を言うのだろう、という問いを持った時、この河合隼雄氏の指摘が、案外重みを持って響いてくる。
私たちの国で、次のリーダーになりたい、選んで欲しい、という人の中に、「自ら父親の強さをもつことを放棄し、それを集団にまかせようとする、極めて母性的な発想」を持つ人が少なからずいるような気がしてならない。彼らは口々に「強いリーダーシップ」を叫んでいる。だが、その威勢は口だけで、どうも自らが率先して実践する、というより、「集団にまかせようとする」発想が見て取れる。
為政者は方向性を示すだけであり、実際に自らが最前線に立つ必要はない。そう思っているのかもしれない。だが、「自らがやる意思はなく、他人にゆだねようとする姿勢」は、相手には丸わかりなのである。だからこそ、「子どもの強烈な反発を惹き起こ」す。これは、首相と政治家・官僚の、あるいは政治的リーダーと国民の関係でも、相関的な事が言えるのではないか。河合氏は痛烈な皮肉を込めて、「かけ声に乗ることがそもそも父性の弱さを意味する」と指摘しているが、アメリカの軍備拡張を進める財団主催の記者会見の場で尖閣諸島の購入を仰った某「太陽」氏など、典型的な「かけ声に乗る」論者のような気がしてならない。「NOと言える日本」なんて格好いいこと言っているけれど、その前に「アメリカが許してくれる範囲の」という形容詞が付いているとしたら、どうだろう。これなども、「低劣な父性、あるいは母性に奉仕する父性」の典型例のように見えてくる。ちなみに「父性」の象徴が「太陽」であるが、未だに若かりし頃の「太陽」にすがろうとした事も象徴的だ。河合氏のこの本は1981年に書かれたが、十分に現代批評でもある。
この論考で、もう一つ、アクチュアルな問いを投げかけられた。
「シラケよりは英雄待望のほうが望ましい、と思う人もあろう。しかし、その『英雄』は真の英雄でなければならない。集団心理によって倫理性を希薄にされ、唯一の神話原型によって正当化された単層構造の集団の動きに対して、それがいかに凄まじいものであれ、せめてわが身ひとつの重みであれ、それに抗するものとして立ち向かうものこそが英雄ではないだろうか。そのとき、集団の動きに抗する個人を支えるものとして、その個人の内奥にいかなる神話が存在するのかが問われることになろう。」(同上、p231)
昨年の東日本大震災以前に日本中を覆っていた「閉塞感」。そして、311後の日本社会が強く感じたのは官僚組織や政治家への幻滅感。その中で、「シラケよりは英雄待望のほうが望ましい」という「英雄待望」論が、我が国でもまた覆い始めている。だが、この時、河合氏は「真の英雄」とは何か、という鋭い問いを投げかけている。「集団心理によって倫理性を希薄にされ、唯一の神話原型によって正当化された単層構造の集団の動き」は、「真の英雄」ではない。それは、個人の内面での自己を獲得する闘いに晒されることなく、集団心理のかけ声に乗せられて、「低劣な父性、あるいは母性に奉仕する父性」を「唯一の神話原型」とみなし「正当化」する「単層構造」だからである。簡単に言ってしまえば「薄っぺらい英雄」なのだ。
では、本物の英雄とは何か。それは、自らの中心に、自らが闘いながら勝ち取った訳ではない、他者から借りてきた理論や主義をおかない、という厳しさを抱えた人である。口先では攻撃的な物言いをするものの、実際に自らが変わる努力をすることなく、それを集団や他者に押しつける、「低劣な父性、あるいは母性に奉仕する父性」との決別を意味している。他者を変えようと説得的言語をペラペラ饒舌に話す前に、まず自らが変わることによって、納得の言語を持つ人の事である。その例として、ふと浮かんだのが、宮崎駿の作品。宮崎アニメが日本の中であれほど熱狂的に受け入れられているのは、彼が描き出すナウシカや千、ソフィーが、「集団心理によって倫理性を希薄にされ、唯一の神話原型によって正当化された単層構造の集団の動きに」対して、「わが身ひとつの重みであれ、それに抗するものとして立ち向かうもの」であったから、とも言えないだろうか。あの主人公達の中に、「真の英雄」の姿を見て取ることができるのではないだろうか。
「われわれはもっとみずからの神話を探る努力を致さねばならないのではないだろうか。そして、われわれをあのいまわしい戦いに駆り立てた神話は一体何であったかについても、もっと詳細な分析と検討が必要ではないだろうか。」(同上、p230)
偽物の、よそから借りてきた、あるいは単純化された英雄神話を待望していても、何も変わらない。それは、自らが神話を探す努力をすることなく、チャンネルを変えるように英雄を使い捨てていく、という、劇場型の論理を超えることがないからである。政治家は、有権者の求めることをくみ取ろうと必死だが、劇場型の論理を有権者が求めていると、その論理に居着いてしまい、みな、口先だけの威勢の良さを競うようになる。いざ、それが実際の暴動や軍事的な動きに発展した時には、当然、他の人から借りた論理だから、その責任を他者になすりつけ、自らの正当性を担保しようとする。そのような「他責的」な言説に、重みはない。なぜなら、、「わが身ひとつの重みであれ、それに抗するものとして立ち向かうもの」の気迫がそこにはないからである。
今、大切なのは、一見するとマスコミに受ける言説、つまりは「集団心理によって倫理性を希薄にされ、唯一の神話原型によって正当化された単層構造の集団の動き」と距離を置くことである。自らも含めた日本人という集団がどのような「神話」に「駆り立て」られて、原発事故や被災地への対応をしてきたのか、をつぶさに、反省的に見つめ直すことである。その上で、まずこれまでの自らの振る舞いをどのように変えることが必要であるか、そのためには強固で支配的に見える「単層構造」(=という名の常識)とどう戦う必要があるのか、をわが身に問い直すことである。そのような、「神話」の問い直しと、自らの「神話」を求めた戦いに、歩み始めなければならない。ソファーでテレビを見ながら他責的に他者批判をしている、「高みの見物」では、何も変わらない。そんな劇場型の動きと決別し、自らがプレーヤーとして、自らの言動に責任を持って、まず自分から変わり、未知という名の暗闇の中に飛び込んでいく覚悟が出来ているか? 政治家の発言に求める覚悟とは、そのあたりなのかもしれない。だが、それを査定する有権者自身も、まず己にその覚悟があるのか、が問われている事も、忘れてはならない。

みんな!殺すな

先月末、夫婦が知的障害がある長男と無理心中を図ったと見られる事件があった。その事について報じた朝日新聞福島版の中で、遺書の一部が引用されていた。その中で、「一人残しても、また皆様にご迷惑かけるだけなので」という表現が引っかかり、今朝それについてツイートしたところ、思わぬ反響があった。まずは、僕のツイートから。

生きている事が「迷惑」なのか? 「迷惑」をかけるなら、「死んだ方がまし」なのか? 地域でふつうに暮らすこと、に対する、構造的な圧力が未だに強い現在の社会構造的な問題でもあるが、それでもやはり「母よ!殺すな」の問題でもある。 http://mytown.asahi.com/fukushima/news.php?k_id=07000001211130009
これに関して、予想外の二つのコメントがあった。
「倫理の問題ということですか?私には、この母親に向かって、殺すなとは言えません。もちろん仕方ないとも言えません。申し訳ないという気持ちです。」
「わかる、わかるがでも夫婦の犯行でも「母」だけが持ち出されるのに違和感。フェミニスト含め母たちは女に子どもを殺させる社会についても問うてきたのに。」
どれも、僕がきちんと情理を尽くして説明していなかった故の誤解である。そして、それに対してコメントを書こう、と思っていたところで、ある他のことに思い至ったので、久しぶりにブログを書いてみることにした。
まず、誤解の多い、『母よ!殺すな』について。
これは、女性にのみ責任を押しつけるつもりで書いたのではない。障害者福祉業界では有名な横塚さんの『母よ!殺すな』(生活書院)のタイトルをそのまま用いたのである。業界内では有名だけれど、このタイトルをご存じない方のほうが多い、という単純な事実を忘れていた。だから、誤解を解くためにも、僕の本からこの本を取り上げた部分を引用しておく。
「1970年、横浜である殺人事件が起こった。障害児二人を育てる母親が、二歳の女児をエプロンの紐でしめ殺したのである。当時のマスコミは母親の犯行を日本の福祉施設の不備故に起きた「悲劇」であると報じ、地元では母親への減刑嘆願運動が起こった。これ対して、神奈川県の脳性マヒ者の当事者会「神奈川青い芝の会」は、強い異議申立をする。当時のその会の中心人物の一人であった横塚はその理由をこう振り返っている。
『普通、子どもが殺された場合その子どもに同情があつまるのが常である。それはその殺された子どもの中に自分をみるから、つまり自分が殺されたら大変だからである。しかし今回私が会った多くの人の中で、殺された重症児をかわいそうだと言った人は一人もいなかった。(略)今回の事件が不起訴処分または無罪になるか、起訴されて有罪となるかは、司法関係者を始め一般社会人が、重症児を自分とは別の生物とみるか、自分の仲間である人間とみるか(その中に自分をみつけるのか)の分かれ目である。障害者を別の生物とみたてて行う行政が真の福祉政策となるはずが無く、従って加害者である母親を執行猶予付きでよいから、とにかく有罪にすることが真の障害者福祉の出発点となるように思う。』(横塚二〇〇七、八〇-八一頁)
殺された障害児よりも殺した母親の方に同情が集まり、減刑を求める動きが拡がった。この動きに対して、「とにかく有罪にすることが真の障害者福祉の出発点となる」という強烈な主張は、当時の日本社会の支配的言説(=ドミナントストーリー)と真っ向から対立するものであった。だが、その論旨は明快である。障害児だから殺されても仕方ないかどうかは、「重症児を自分とは別の生物とみるか、自分の仲間である人間とみるか(その中に自分をみつけるのか)の分かれ目」である、という。この二つの人間観、価値観自体が大きな争点である、という問題の捉え直しである。だからこそ、施設を増やすべきだ、国家の問題だ、と論点をすり替え、彼女を無罪放免してはならない、という主張なのである。」(竹端寛『枠組み外しの旅-「個性化」が変える福祉社会』青灯社、p144-145)
僕が伝えたかったのは、横塚さんが書くように、「その殺された子どもの中に自分をみ」ているか、という問いであった。この無理心中された親子そのものを裁いたり評価したり、を第三者である僕が出来るはずもないし、その意図もない。ただ、こういう事件をマスコミが取り上げるとき、「殺された障害児よりも殺した母親の方に同情が集ま」るような表現がなされ続けている。これは、40年経っても全然変わっていない。母も父も辛かっただろう。でも、その子だって辛かったはずだ。
「一人残しても、また皆様にご迷惑かけるだけなので」
遺書に綴られた言葉の中で、一番引っかかるのは、この部分だ。重い障害を持つ人は、「皆様にご迷惑かけるだけ」の存在なのだろうか。そうではないはずなのに、そう思い込んでしまった、思い込まされてしまったご両親。であったとしても、そこで両親の「取るべき責任」は、子どもと共に自死を選ぶ、ということだったのだろうか・・・。
そう考えているうちに、ふと、こういう言葉が浮かんだ。
「みんな!殺すな」
母も、父も、障害を持つこの二人の子どもも、誰だってもっと生きたかったはずだ。なのに、両親が無理心中に追い詰められてしまう社会、そしてその時、「迷惑をかけるから」と、障害のある子どもが道連れにされる社会。それにこそ、NO!を突きつけたい。だからこそ、「みんな!殺すな」なのである。もちろん、これは父親や母親だけの問題、家族だけの問題、ではない。だが、自殺や無理心中という形で「殺す」ことを選ばざるを得ない社会だけは、まっぴら御免だ。改めてそう感じている。