オープンダイアローグな4日間

木曜日から日曜日まで、フィンランドのオープンダイアローグにドップリ浸かっていた。『オープンダイアローグ』の著者、ヤーコ・セイックラさんとトム・アーンキルさんの二人のセッションが、木曜日は京都で、金曜夕方から日曜までは渋谷で、行われた。この濃厚な4日間に立ち会った記録を、友人向けにメモ書きしていたら、「それを公開してほしい」というご要望を頂いた。なので、皆さんにお裾分けさえて頂きます。なにぶん僕自身の感想なので、本当に学びたい人は、上述の本などをしっかり読んでくださいませ。

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<①5月13日:オープンダイアローグセッション@キャンパスプラザ京都>
僕は『オープンダイアローグ』の翻訳をされた高木さんにご指名を受けて、日本評論社主催のセミ・クローズドなセッションのファシリテーターとして立ち会う。即興性を大切にして、セッションをガチガチに組まなかったので、わりと緩い感じのセッション。対話がしっくり行き始めた段階で、2時間半のセッション終了、という感じ。
たぶん東京セミナーのかりっとした構造化とは違う、ゆるい枠ゆえに、まとまりも緩かったけれど、でもきらりと光る断片も色々伺えました。
特にメモしておきたいのは、感情を表現するということ。ある夫婦が関係性のしんどさを抱えていた。で、そのしんどさの源流をたぐるうちに、どうやら夫の父親が軍人で気持ちを表現しなかったことがわかってきた。また、お母さんは、ご本人が8歳の時に、「自分は他の男の人と付き合っている」ということを聞いて、ショックだったという。そこで、ヤーコさんが「私はその話を聞いて、心がズンと沈む」と話すと相手は泣き始めた。ヤーコさんも、一緒に泣いていた。そこから物語が動き始めた、と。
専門職は「泣いてはいけない」「巻き込まれてはいけない」と信じ込まされているけど、もっと感情を素直に表現しても良いのではないか。なぜなら、患者と医療者、ではなく、人間対人間、のつきあいであれば、そういう感情を表現するのもごくナチュラルなことだから。そう二人は言っていた。
そして、その時大切なのは「あなたは大変でしたね」と解釈することではない、という部分。「私はそれを聞いて胸が痛みます」と、自分を主語にして、自分の主観性を出した上で、相手の主観的話にコミットすると、お互いが相互作用的に「共進化」し始める、ということ。ようは、専門家と患者、という枠組みに縛られず、本気で本音で人間としてぶつかることが出来るか、という部分。ここが、オープンダイアログの鍵の一つなのかもしれない。そう感じた夕べだった。
<②5月14日:オープンダイアローグワークショップ@渋谷、一日目だん>
「ここで話されていることと、自分の人生とを結びつけていますか?」という問いが、最も本質的に感じられた。先にツイッターでも書いたが、自分を開いて、自己開示をして、相手と本気で対話するというのは、ある種の生き様が問われる話。とても、技法論やマニュアルうんぬんの話ではない。
目の前に、不安や心配で押しつぶされそうな人がいる。その人と接する私も、ある種の押しつぶされそうな気配を感じる。そういうダイレクトな感情を、相手にも伝わる形で、「私は○○だ」と自分を主語にして伝える事ができるか、という問い。そして、自分がそうやって教師とかセラピストとか立場や役割に固着化せず、それを隠れ蓑にもせず、一人の人間として、相手と「いま・ここ」で時間と空間を共有する覚悟を持っているか。それが、生き様が問われている、ということなのだろうと思う。
セミナーの後、森川すいめいさんとも話していたが、例えばホームレスのおっちゃんは、その覚悟がない人とは会話が成立しない。立場や肩書きなんて気にせず、人間として「なんぼのもんか」をしっかり見ているのが、おっちゃん達の強さ。それは、「私はこう思う」というのを、まず差し出す勇気を持っているかどうか、ということを査定する目でもある。
確かにトレーニングも必要だし、技法論的な事もある。でも、やっぱり構えや生き様の部分もあるようにおもう。相手を変える前に、まずは自分が変わる。他者性を尊重する、ということは、自分自身の固有性とかユニークさを尊重することがないと、成り立たない。
「どれだけ会話を深めても、ヤーコはトムになれないし、トムはヤーコになれない。でも共有する部分が多くなり、ダイアローグがより豊かになる。」
この語りが教えてくれるのは、教師-学生、支援者ー対象者という切り分けた境界を越えて、つながることが出来るか、という問い。これが「共進化」の鍵なのだと改めて感じた。
<③5月13日:オープンダイアローグセミナーメモ その3>
昨日のセミナーでもう一つ印象的だったのが、「水平の対話」と「垂直の対話」。水平とは、会話している人々の間での横での対等なやりとり。そして、垂直とは、内なる声との対話。
そもそも、権威主義的な関係であれば、水平の対話がままならない。そのなかで、不満や違和感という内なる声が出てきても、「どうせ」「しゃあない」と蓋をしてしまう。すると、垂直の対話の回路も閉ざす。つまり、権威主義的な関係性であれば、水平方向にも垂直方向にも閉ざされた、二重の意味でのモノローグになるのだ。
だからこそ、その関係を変えるために、まず自分自身の内なる声に耳を傾けることが重要なのだろう。これは、言語的表現に限らない。ある対話環境の中で胃のむかつきや圧迫感、身体のだるさや哀しみ、不安などを感じたら、その身体表現が何のお知らせなのか、をちゃんと内なる声として主題化した方が良い、ということだ。そういえば、これって昔読みふけったアーノルド・ミンデルのプロセス心理学でも同じ事を言っていたな、と思い出す。
そう、内なる声としっかり対話が出来た上で、相手(集団)との対話を始めると、軸が定まる。だからこそ、それが権威的な関係でも、あるいはそうでないものであっても、その雰囲気そのものとの対話が可能になるのかもしれない。そして、このことに自覚的である事は、対話のファシリテーターとして、決定的に重要なのかもしれない。
「他人と対話する前に、自分の内なる声をしっかり聞いて、受け止めていますか?」と。
この「構え」が技法以前に決定的に大切なような気がする。
<④5月15日:オープンダイアローグセミナー感想その4>
木曜日からの移動続きの疲れがピークになったのか、昨日は10時半頃に寝落ち。結局朝7時まで寝ていたので、朝ランも断念。でも、すがすがしい朝。
昨日のセッションですごく心に残っているのが、「集合的モノローグ」という話。トムがチェーフォフの演劇を用いながら話していた事で、人が沢山集まっても、みんな自分の言いたいことや立場の話しかしていないと、それは集合的モノローグだ、と。多職種連携の会議でも、そんな集合的モノローグになっていませんか、と。
そういえば、参加していてつまらない会議って、集合的モノローグになっているのですよね。それは、「つまらない」という内なる声と、そこでなされている議論がアクセスしないから、結局モノローグで終わってしまう。
それから、ダイアローグは創造的なものであるとも言っていた。そう、何かお互いが知らない新しい価値なりアイデアが生み出される瞬間は、そこに存在する歓びのようなものがある。これは、文字通り創造的瞬間。そういう歓びは、自分が「いま・ここ」にしっかりとコネクトしている(結びついている)からこそ、生み出されてくるもの。裏を返せば、集合的モノローグとは、みんながその場にいるのに、「いま・ここ」とは時制の異なる自分の「過去」「未来」の世界(内なる声)に埋没して、そこには「いない」状態なのかもしれない。
未来想起型ダイアローグなんかで、ファシリテーター役割に求められるのは、集合的モノローグから、ほんまもんのダイアローグに転換するための、「いま・ここ」へのチューニングなのだろう。それは、ファシリテーター自身が、ちゃんと自分の内なる声に従って、「いま・ここ」につながった上で、他の人が「いま・ここ」に繋がれるように、意図して「1年後、もしあなたの状況が劇的に改善されたら?」という「未来」の質問をして、みんなをその世界に誘うのかもしれない。そして、当事者や家族がその未来語りを共有し、専門職もその話の世界に調和していくなかで、「その未来語りをしている」という「いま・ここ」にみんなが乗ってくる。それが、トムが何度も言っていた「フロー」(流れ)に乗る、とういことなのだと思う。この流れに棹せず、うまく流すのを支えるのが、ファシリテーター役割なのかもしれない。
だからこそ、ファシリテーターは、その事例と関係のない人で良い、むしろ関係のある人なら、その人はそこに既に巻き込まれているから良くない、ということなのだろう。ファシリテーターに求められているのは、柔軟に流れに合わせて、その流れ全体に同期しながら、人々の語りの促す、ということなのかもしれない。
<⑤5月15日:オープンダイアローグWSメモ その5>
今日は会場内の仕切られた場所で実際のミーティング行われ、全ての参加者の音声が聞こえ、また映像にはヤーコさんが映し出されることで、オープンダイアローグの実際を感じるセッションだった。昨年9月にケロプダス病院では生のセッションに参加させてもらったが、その時はフィンランド語がわからなかったので、雰囲気を垣間見るだけだったので、今日の音声とつなぎ合わせながら思った感想を。
「大事なことは最初の1,2分で生じる」と言われていたが、1回目のセッションは、期せずしてその通りになる。冒頭では当事者に名前をお尋ねた際、自分が乗っ取られた幻聴の名前を話し始めた。なので、最初は訳がわからなかった。でも、ヤーコはその意味を聞き、悪魔の名前だ、という説明を聞くところから話がスタートした。
後で考えると、たぶん名前やその意味を最初にヤーコが聞くとき、こういう風に「乗っ取られた名前」を言う人もいるのだろう。そして、それは支援者に対して、「さあ、どうする?」という突きつけなのかもしれない。でもヤーコは当然のように、その乗っ取られた人の名前や意味を聞き、またボブやジミーなど、様々な乗っ取る人の話もスーッと聞いていく。日常の中でこの人はそういう多様な声に出会っているのだから、「その声のある日常」として接しているのが、非常に印象的だった。
とはいえ、そこには家族も参加している。家族には、「その声のある日常」についてどう感じているのか、を尋ねていく。事実確認でも、尋問でも、解釈でもない。あくまでも、「声のある日常」とはどういうものか、をもう少し詳しく本人から教わりたい、そしてそれを家族はどう感じているのかも知りたい、というアプローチだった。そういう意味で、専門性が日常性とスーッと結びついている感じがした。だからこそ、本人も家族も初対面のヤーコに対して、彼らの日常を沢山話してくれているようだた。
また、「あなたの話を聞いていて僕に思い浮かんだことは」とか、「僕がその場面だったから、こんな風に感じる」とか、「僕の経験では」という形で、自分の意見をあくまでも「いま・ここ」に結びつけて話をしているのも、印象的だった。
「相手を変えよう・治そう」というアプローチは、どうしても操作的になる。そして、それは特に困難を抱えている人にとっては、自分達のしんどさや不安、大変さを理解されることなく一方的・教条的なアプローチに映る。当然、反発も起こる。でも、「今日の話から○○を私は学んだ」というヤーコのフレーズに象徴されるように、自分が相手から学ばせてもらう、というのは、文字通りの双方向に感じた。支援者の聴き方が変わる・違うからこそ、その家族世界以外には開かれていない、「閉ざされた煮詰まり感」が少しずつその場に表現されていくのも感じた。
相手を変える前に自分が変わる、というのを、ヤーコは常に実践しているのだなぁ、という姿勢を垣間見た瞬間だった。
<⑥5月15日:オープンダイアローグWS感想 その6>
ある福祉現場の参加者の方から、会の終了後、「今回の経験をどう活かせば良いのでしょうか?」というお尋ねを頂いた。僕自身も一参加者なので、よくわからないし、そんな事は軽々しく言えない。でも、僕自身が活かせるなら、ということで、こんな事をお伝えした。
「まず、誰かへの直接支援の現場で、いきなりこれを使おう、とは思わない方が良いと思います。それは、百害あって一利なし、だから。そうではなくて、自分の職場の中で、例えば同僚とか、連携する同業者に対する自分のアプローチを変える。そういう練習から始めてみるのも、一つかもしれません」
これはヤーコとトムの本でも、繰り返し書かれていることだ。「相手を変えるのは難しい。それより、自分が変わることの方が簡単だ」と。逆に言えば、自分を変えることも出来ない人が、他者の変容に立ち会えることは無理だ、という厳しい警句とも言える。このセミナーで学んだことを、自分の日常世界にどう取り込むことが出来るのか。これが、専門性と日常性を切り分けない、専門性を日常性の中に取り入れる、という事の真意なのだと思う。
高木俊介さんは『オープンダイアローグ』の訳者解説の中で、仏教の「往相」と「還相」の話を引き合いに出している。「往相」が専門性を学ぶ時期であるとするならば、専門性を身につけた後、日常世界の中で専門性を前面に出さずに仕事をする構えを導き出すのが「還相」である、と。そういう意味では、ワークショップで学んだ時間を「往相」とするならば、それを日常に生きる、普段の仕事の場面で、まずは同僚や同業者など、比較的害のないところで、そのスタンスを「日常の構えとして生きてみる」ということが「還相」に近いのかもしれない。そして、それは行きつ戻りつ、を繰り返すプロセスなのかもしれない。
これは実は、僕自身のこれまでの生き様と重なる部分も少なくない。僕は、大熊一夫師匠や大熊由紀子さんなど、何人かの方々に弟子入りし、知識や経験のみならず、先達の生き様を学ばせて頂いてきた。特に、大熊一夫師匠には、文字通り「内弟子」として、大学院生の頃、行動を常に共にさせて頂き、ご飯をご一緒し(ごちそうになり)、師匠があちこちに出かけるのにずっとくっついていった。その中で、師匠の生き様を文字通り習得しようと、必死になった。そして、師匠のもとを離れ、大学教員として、ある種の「真打ち」になってしまった後も、折に触れ考えるのが「師匠だったらどう考えるだろう」という点である。大学院生として師匠に弟子入りしていた頃が「往相」だとしたら、大学教員になった後の僕は、「還相」モードに入った。でも、師匠に学ばせて頂いたり、今回のような新たな叡智を学ぶ時には、学び手として再び「往相」に戻る。そして、明日以後の日常の中で、今日の学びをどう生きることが出来るか、の模索が始まる。
一日目、トムから「あなたの人生にどうコネクトしていますか?」という問いがなされた。その問いは、ワークショップでの学びを、あなたの日常の中で、どう生きますか、活かせますか、という問いなのだろうと思う。僕自身は、授業やゼミの場面で、あるいは会議や事例検討会などでも、もっと「いま・ここ」に結びつこうと思う。なるべくそこに参加する多くの人の声との多声性やポリフォニーと響き合う水平の関係を大切にしながら、一方で自分の「内なる声」との対話という垂直の関係も、常に意識しようと思う。特に、「焦っている」「いらだっている」「操作的・支配的になろうとする」という、不安や否定的な声を蓋したり、見ないふりをすることなく、もっとその声に素直を聞き、その声とも対話しようと思う。これが、WSという往相で得た学びを、明日以後の生活という「還相」において生きるための、僕にとっては大切なポイントなのだと思う。
そのためにも、力んだり、勢いづいたり、必死になっている時ほど、「少し落ち着け」と自分に語りかける必要がありそうだ。もっとリラックスして、自分の声と相手の声に耳を傾けてみようよ、と。ネガティブな思い込みに支配されず、水平と垂直の関係性をもっと大切にしてみようよ、と。そういう実践の積み重ねが、少しずつ、自分の「還相」と結びつくように、生きてみたい。
帰りの「あずさ」の中で、そんなことを感じた。

内なる「他者」との出会い

昨年、「困難を抱える人への『支援』とは」というテーマで、「ヒューマンライツ」7月号に、以下の文章を寄稿した。講演などで語っていることを割としっかり考えてまとめた文章なので、ここに再掲しておく。
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<「内在的論理」を掴む>
私は、佐藤優氏の著作を好んで読み続けている。「外務省のラスプーチン」とも言われ、背任容疑や偽計業務妨害容疑で逮捕され、その後、執行猶予付きの判決が確定し、外務省職員から作家に転身した、あの佐藤優氏である。あまりに多作なので全てを読むことは出来ないが、彼の主要な作品や自伝シリーズなどは、なるべく読むようにしている。彼の分析が非常にシャープなのは、膨大な読書量もさることながら、相手の内在的論理を掴む、という点で、秀逸だからである。彼は、その要点を以下の様に語っている。
「ヘーゲルの分析手法の特質は視座が移動することだ。ヘーゲルは、特定の出来事を分析する場合、まず当事者にとっての意味を明らかにする。対象の内在的論理をつかむことと言い換えてもよい。その上で、今度は、対象を突き放した上で、学術的素養があり、分析の訓練を積んだ”われわれ(有識者)”にとっての意味を明らかにする。更に有識者の学術的分析が当事者にどう見えるかを明らかにするといった手順で議論を進めていく。当事者と有識者の間で視座が往復するのだ。この方法が国際情勢を分析する上でも役に立つ。」(佐藤優『地球を斬る』角川学芸出版 p266-7)
この方法は、国際情勢を分析するだけでなく、福祉や支援対象者を分析する上でも非常に役立つ。本誌は自治体や企業の人権担当の方にも広く読まれている、とのことだが、例えば自治体や企業への「クレーマー」「モンスター○○」とラベルを貼られた人々を分析する上でも、大きく役立つかもしれない。それは一体、どういうことか。
私たちは、事実と価値を混同しやすい。事実だと思い込んでいる事の中に、価値判断が沢山含まれている。例えばシングルマザーが生活保護を申請しようとした時に、「若いんだからもっと働けば良いのではないか」という価値判断が、生活保護のワーカーの前提としてあるかもしれない。だが、シングルマザーも千差万別。確かに就労が十分に可能な人もいれば、本人が疾病や傷害を持っていたり、DV等を受けて養育費をもらえなかったり、あるいは職歴が乏しく子沢山でバイトの掛け持ちで生活がまわらない、という個別の事情がある。それを斟酌せず、「甘えだ」「若いんだから働けるはずだ」と決めつけるのは、事実ではなく、価値判断である。
一方、相手の内在的論理を掴む、とは、「特定の出来事を分析する場合、まず当事者にとっての意味を明らかにする」ことが、その要点である。この際、大切なのは、自分自身の価値前提を、一旦括弧にくくり、虚心坦懐に「相手にとっての意味」を掴もうとすることである。生活保護を申請しに役所の窓口を訪れたシングルマザーの「内在的論理」を掴もうとするなら、彼女がなぜ「働けない」のか、就労の収入だけで暮らしていけないのか、どういう気持ちで申請に訪れているのか、どのような懸念や不安を抱いているのか、子ども達の状態はどうなのか・・・という「当事者にとっての意味」を徹底的に理解する必要がある。この際、自らの価値観を入れると、既に解釈が入ってしまうため、相手の内在的論理を十分理解することは出来ない。自分の価値観は「横に置いておいて」、とりあえず、徹底的に「相手の論理」を、例え自分の生き方と違うものであっても、理解するのが戦略的に重要なのである。
その上で、「対象を突き放した上で」、この社会の文脈の中で、その内在的論理はどう受け止められるか、を分析する。その際、自らの分析にどのような価値前提やバイアスが掛かっているか、に自覚的になる必要がある。どんな人であれ、中立公平な視点、などというものはない。行政担当者なら、「行政として」という立ち位置で、知らず知らずのうちに分析している。その自らの内在的論理に自覚的になりながら、相手の論理を分析する。相手の価値と、自分の価値を、対比させて考える。さらに、こちらの「分析が当事者にどう見えるかを明らかにする」ことも重ねる中で、あなたと私の間で「視座が往復」させる。これが内在的論理の肝だ、と佐藤氏は述べている。
この分析方法は、本誌のテーマである「困難を抱える人の支援」を考える際に、役に立つ、どころか必要不可欠な視点である、と考えている。
<非合理の合理性>
自分自身の価値観と大きく異なるように見える相手のことを理解する、のは簡単ではない。ホームレスやひきこもり、「ゴミ屋敷」の主、精神障害者・・・などのように、世間からマイナスの偏見や先入観のレッテルが貼られている人々、あるいは行政の窓口や企業のコールセンターに過剰なエネルギーで苦情を言いつのるモンスター顧客のことを、どうやったら「理解」出来るのか。このような問いを持っている読者もいるかもしれない。
相手の内在的論理を掴む際に大切なのは、事実と価値判断を分けて考えることである、と先に述べた。さらに言えば、相手にとっての合理性と、自分自身にとっての合理性を分けて考えた方が、うまく分析が出来るかもしれない。つまり、自分自身の価値前提や合理性から一旦自由になって、相手の価値前提や合理性を、相手の眼差しから眺めてみる、ということが大切なのだ。
具体例で考えて見よう。家の中だけでなく、庭先や道路沿いまで、ゴミで埋まっている家がある。「ゴミ屋敷」と福祉業界ではラベリングされている。近年では、マンション内ゴミ屋敷、という現象もある。授業で「ゴミ屋敷」問題を取り上げ、冒頭で学生達に、「なぜゴミ屋敷が生まれるのか?」と聴くと、「ゴミが好きだから」という答えが返ってくることもある。そこで僕から、「君はゴミは好きなのかな?」と再度尋ねると、「私は嫌いです」と答える。このやりとりから、「ゴミ屋敷」の主は、自分自身とは全く異なる思考回路の持ち主である、という偏見や先入観が見えてくる。だが、本当に「自分自身とは全く異なる思考回路の持ち主」なのだろうか?
前提として書いておきたいのは、「ゴミが好きな人」は、ほとんどいない、ということである。ではなぜゴミが溜まるのか。そこには、千差万別の理由がある。Aさんは、二世帯住宅を建てたが、退職後に妻に離縁され、子どもは寄りつかず、病気になり、生きる意欲を失うと共に、ゴミが溜まってきた。Bさんは、同居していた兄弟が亡くなった後、少ない年金で暮らせず生活保護の申請に行くも、持ち家の売却を迫られ保護申請をせず、生活手段として使えるものを拾い集めている。Cさんは、仕事をクビになり、アルコール依存になる中で、部屋が荒れ放題になってきた。これらのエピソードに共通するのは、「ゴミが溜まる」のは、生きづらさが増幅する中での結果であって、「ゴミを溜める」というのが目的ではなかった、という点である。この内在的論理を、しっかり押さえておく必要がある。
これは、「ゴミ屋敷」へのアプローチにも、大きく関わる部分である。これまでの「ゴミ屋敷」問題へのアプローチの仕方として、町内会や近隣総出で「ゴミを片付ける」けど、数ヶ月したらまた「ゴミが溜まり」、近所とご本人の対立は深まる、という悪循環の形が少なくなかった。これは、「ゴミを捨てればそれで良い」という周囲の関わり方が、本人の内在的論理を全く無視したものであるから、だとも言える。「ゴミ屋敷」の主にとって、「ゴミを溜める」のが目的ではない。「ゴミを溜める」形でしか自己表現が出来ないほど、追い詰められたり、自暴自棄になったり、孤独や生きる苦悩が深まっているのである。つまり、それらの孤独や不安、寂しさなどに寄り添うことなく、「ゴミ屋敷」の主の内在的論理を理解せずに「ゴミを捨てる」行為は、本人と周囲の間に亀裂や分断を深めるだけ、なのかもしれない。
では、どうすれば良いのか。まずは、ゴミを溜める、ご本人なりの理由や合理性を伺うことである。ゴミを溜める人には、それなりの理由(=合理性)がある。それは、世間から見れば「非合理」に見えるかもしれないが、本人なりの正当性や必然性がある。その「非合理の合理性」を追求することが、最も「合理的」な解決策を見出す入口である。さらに、支援現場に携わった経験のある人なら、この「非合理の合理性」に、ある共通点があることも見えてくる。社会的に排除され、役割や誇りが奪われ・喪失した人ほど、ゴミを溜めたり、アルコールやギャンブル、家庭内暴力などに依存したりしやすい脆弱性を抱えている、ということである。これらの共通点を、「社会的環境との相互作用の中で、脆弱な個人が排除された結果として表出する課題」と受け止めるか、「心の弱い人・性格が歪んだ人の自己責任」と受け止めるか。これは、事実ではなく、価値判断である。だが、非合理の人に対して、「あなたは非合理だ」と同語反復的に糾弾することと、同じ人に「あなたの中の合理性には理解できる部分もある」と共感することと、どちらが、何に対して有効だろうか?
<誰の何をどうしたいのか?>
「心の弱い人・性格が歪んだ人の自己責任」と、「社会的環境との相互作用の中で、脆弱な個人が排除された結果として表出する課題」という二つの価値判断。これは、「誰の何をどうしたいのか?」という問題と結びついている。
「心の弱い人・性格が歪んだ人の自己責任」というラベルは、その裏側に、「そう査定する私自身は、心は弱くなく、性格も歪んでいない」という査定基準が潜んでいる。つまり、「あたなが悪い」という裏側には「私は悪くない」という価値判断が入っている。それ自体が悪いとか良いとか言いたいのではない。だが、他人は、「あなたが悪い。私は悪くない」と最初から決めつけている人の意見に、虚心坦懐に耳を傾けるだろうか。その上で、行動変容を考えるだろうか。私なら、自分の価値前提や合理性に耳を傾け、理解してくれる努力をしない相手の言うことは、信用できないだろう。それは、自分自身の価値前提や信念を認めない、つまり自己否定されている、と感じるからだ。
もちろん、「ゴミ屋敷」の近隣住民は、その悪臭やゴキブリなどで、大変な迷惑を被っている。それを我慢しなさい、と言いたいのではない。ただ、本当に解決したければ、「ゴミ屋敷」の主が、溜まったゴミを何とも出来なくなってしまった内在的論理を理解することからしか、始まらない。どのような悪循環の「結果」としてゴミが溜まったのか。その理解があればこそ、悪循環を超えて、好循環に漕ぎ出すきっかけが見つかるのだ。ある人は、いつも声かけをしてもらったり、バス旅行に誘ってもらえるのが、孤独から抜け出すきっかけ、かもしれない。別の人は、じっくり話を伺った上で、本人の気持ちの整理をしながら、毎週定期的に自宅訪問を繰り返して、ちょっとづつ片付ける方が良いのかもしれない。ご本人なりの「合理性」を認めた上で、それ以外の「合理性」もあり得る、と本人が納得した上で、支援する人と共に、別の合理性を探すことで、悪循環から抜け出す事が可能なのかも知れない。
繰り返しになるが、「心の弱い人・性格が歪んだ人の自己責任」という価値判断を、たとえあなたが持っていたとしても、「困難を抱える人」と接する際には、一旦その価値判断から自由になる必要がある。この社会のマジョリティが持っている弱肉強食・自己責任、という新自由主義的な価値判断で、落ちこぼれだ、と烙印を押され、自らもそう位置づけてしまった事により、「困難を抱える人」という状態から抜け出せない人もいる。その人に、「あなたは困難な人だ」とラベルを貼ることで、自分の価値観を相手に押しつける事になり、相手はあなたに対して「そういう価値観を押しつける人」として、忌避や激怒、反発などの感情を抱かせることになる。そこから、感情癒着状態となり、問題は膠着する。私は、「モンスター顧客」などと言われる人の内在的論理の中にも、この相互関係がある場合も少なくないのではないか、と感じている。
そこで大切なのは、誰の何をどうしたいのか、という問いである。「私の信念を揺るぎないものにしたい」のであれば、相手を糾弾するだけで、十分である。だが、「相手の行動を変容させたい」のであれば、このアプローチは全く非合理的である。人は説得されても、自分自身が納得しない限り、行動は変容しない。相手の納得を導く為には、自分の価値前提は置いておいて、相手の価値前提を理解し、その相手の価値前提が受け入れられる何かを一緒に構築し、少しずつ、問題や争点、悪循環になっている現状から移動できるような手助けをすることが、最も合理的である。「私は正しい」と言いたければ、「あなたは悪い」と言うだけで良い。でも、「あなたに変わってほしい」のなら、まずは私自身の相手に対するアプローチを変えなければ、相手も変わらないのだ。
他人を変える前に、自分が変わる。
月並みな結論だが、本気で他人や社会を変えたければ、この大前提に戻るしかない。ただ、それは自分を押し殺したり、卑屈になったりせよ、という訳ではない。相手の内在的論理を理解し、「対象を突き放した上で」「われわれにとっての意味を明らかに」して、その「分析が当事者にどう見えるかを明らかにする」という、あなたと私の「視座の往復」を、他ならぬ読者であるあなた自身が出来るか、が問われているのである。これは、国際情勢の困難、だけでなく、ある支援対象者の困難、を読み解く上でも、必要不可欠だと私は感じている。それが、私自身にとっての「他者」との出会いであり、この私の中での「内なる『他者』との出会い」という試行錯誤こそ、もっとも価値あることだ、と感じている。

サイロを破壊せよ

文化人類学者が新聞記者になれば、先進国での「おかしな振る舞い」をこのように普遍化して描いてみせることが出来る。これが、『サイロエフェクト』を読み進める中で感じたワクワクであり、読後は「僕もこういう仕事が出来ればなぁ」と思いを新たにさせられた。サイロとは、あの牛舎の側にある、干し草を溜めておく塔のこと。日本語で言えば、組織における「タコツボ化」の弊害を説いた本、と言える。

「サイロには弊害もある。専門家チームに分けられると互いに敵対し、リソースを浪費することもある。互いに断絶した部署や専門家チームがコミュニケーションできず、高い代償をともなう危険なリスクを見逃すこともある。組織の細分化は情報のボトルネックを生み出し、イノベーションを抑制しかねない。何よりサイロは心理的な視野を狭め、周りが見えなくなるような状況を引き起こし、人を愚かな行動に走らせる。」(ジリアン・テッド著 『サイロ・エフェクト-高度専門家社会の罠』文藝春秋、p28)
これは、イヴァン・イリイチが半世紀前から警告していたことであるが、現実にこの専門職支配が広がる中で、弊害が増えている。ipod一つに絞ってデジタル音楽端末で勝利したアップルと、タコツボ化した事業部門間の競争ゆえに3つもデバイスを作って自滅したソニーの対比。あるいは「手堅い銀行」と言われたUSB銀行やJPモルガン銀行が、サイロ化した目立たない周辺部局による複雑な金融取引で大損する一方、そのサイロの弊害を冷静に分析し、儲けたヘッジファンドがいたこと。フェースブックはソニーやマイクロソフトのサイロ化を「他山の石」として警戒し、常にサイロ化を突き破るような組織的な仕掛けをし続けていること。また、医療技術が優れても「共感がない」と批判されたことに端を発し、脱サイロ化に向けて患者のニーズに基づく組織改編を成しとげたクリーブランド・クリニック。それぞれのエピソードも、十分に面白い。だが、それよりも興味深いのが、この文化人類学的記者の視点である。
「ブルデューは異文化に身を投じることで、人生に対する新たな視点を手に入れた。新たな世界に身を投じることは、異なる社会の理解を可能にしただけでなく、自らの文化を新たな視点で見直すことにつながった。そこから引き出せる重要な教訓は、ブルデューのような境界を越える勇気を持ったインサイダー兼アウトサイダーになると、無自覚のまま継承していた分類システムのくびきから逃れることができるということだ。それは視野を広げ、普段はその存在すら意識しないような自らを形成する文化的パターンについて、目の覚めるような理解をもたらしてくれる。
これは人類学者に限った話ではない。自らのサイロから飛び出す意欲を持ち、思いもよらない形で人生を形作っていたサイロを破壊しようとすれば、必ず新たな気づきが得られる。」(同上、p188-189)
ブルデューといえば、以前ブログにも書いたが、この文化人類学者で社会学の大家は「必然性という囚われからの自由」を、自身のライフワークとしていた。サイロとは、その専門性に裏打ちされた目の前の世界を「これしかない」「これは絶対大丈夫・間違いない」と信じ込む「必然性という囚われ」によって、作り上げられていく。この時、インサイダーだけでは、その「必然性」を自明なものとするし、アウトサイダーだけであれば、インサイダーにはその批判は届かない。「境界を越える勇気を持ったインサイダー兼アウトサイダー」というのは、インサイダーから「仲間」と見なされる範囲に踏みとどまりながら、自身の頭の中身は「境界を越える勇気」を持ち、自分自身が「無自覚のまま継承していた分類システムのくびきから逃れ」るだけでなく、組織の「分類システム」そのものの問題に向き合おうとする人のことを指す。
それは、「自らの文化を新たな視点で見直す」ことになるのだが、「普段はその存在すら意識しないような自らを形成する文化的パターン」を炙り出すゆえに、その文化の人々にとっては、異端扱いされる。非常識だと言われたり、わかっていないと断罪されるかもしれない。そのような文化的障壁を越えて、扉を開け、風を入れ、組織的な澱みを新たな視点で問い直すことが出来るかどうか、が「サイロの弊害」を超えてイノベーションを加速化させる上で不可欠な要素である、と著者は指摘する。それは僕自身も多いに賛同する視点である。
「報道機関が(記者ではなく)読者のモノの考え方に応じて仕事の方法を見直したら、メディアはどう変わるだろうか。メーカーが(営業マンやデザイナーではなく)消費者の価値観に応じて組織体制を見直したら、今と同じ商品を売るだろうか。要するに、重要なのはビジネスプロセスやサービスの見方を上下左右にひっくり返してみると、組織のモノの考え方が変わるかもしれない、ということだ。あるいは、どのような成果が生まれるかわからなくてもリスクを取ろうという姿勢が組織に浸透していれば、同じ効果が期待できる。」(同上、p280)
外科と内科、政治部と社会部、企画と営業、企画総務課と福祉課、などの「分類システム」は、病院や新聞社、メーカー、自治体などの組織が、その仕事を効率化・専門化するために作った「サイロ」である。それは、一つの案件のみに専心するのであれば、十分に役立つサイロであった。だが、人々のニーズは複雑・複合化している。従来は、サービスの対象者に分類を当てはめていたが、一人一人の対象者の立ち位置から、分類システムそのものの有効性を問い直すことが、サイロ・分類システムの弊害や煮詰まりを超える上で、必要不可欠なのだ。大学で言うなら、文科省の中央集権的な分類変更に振り回されるのではなく、学生一人一人のパフォーマンスの最大化の為に、教職員組織や学部変成、シラバスがどう変容すべきか、を現場レベルから問い直すことである。それは、自分に関わりのある組織を思い浮かべると、もちろん容易ではないことがわかる。
でも、地域包括ケアシステムの構築で、僕自身がいくつかの自治体からアドバイザーとして呼ばれる時に、僕に求められる役割とは、結局の所、「インサイダー兼アウトサイダー」なんだろうな、とこれを読みながら、強く思う。役所の、包括支援センターの中だけでは、何かが変だ、と思っても、その「分類システム」に疑いをもつことさえ、できない。だから、僕のようなアウトサイダーが、インサイダーから呼ばれ、イン
サイダーの話をじっくりうかがう中で、「普段はその存在すら意識しないような自らを形成する文化的パターン」を指摘したり、自分で気付いてもらう支援が大切なのだと思う。その上で、「プロセスやサービスの見方を上下左右にひっくり返してみると、組織のモノの考え方が変わるかもしれない」という体験をしてもらい、そこから、自分たちで創り上げる組織体制や組織改編のお手伝いをしているのかもしれない。僕が呼ばれる時って、何らかの部分で「情報のボトルネックを生み出し、イノベーションを抑制しかねない」状況が生み出されている。だから僕がすべきなのは、下手に空気を読まず、分類システムに順応せず、「上下左右にひっくり返して」、変なものは変と言い続けることなのだと思う。
そういう意味で、僕は昔も今も変わらないサイロ破壊者的アドバイザーなのだな、とずっと思う。結局現場の職員のみなさんにずっと伝え続けていること。それは「自らのサイロから飛び出す意欲を持ち、思いもよらない形で人生を形作っていたサイロを破壊しようとすれば、必ず新たな気づきが得られる」よ、という「枠組みはずしの旅」のススメ、なのであった。