診断名をカッコにくくる、の先にあるもの

10年以上前、精神病という病気ではなく、生きる苦悩に目を向けよ、というバザーリアの言葉に衝撃を受けた。そのことは、論文にも書いた。診断名をカッコでくくる、という現象学的精神医学の面白さは、『当たり前をひっくり返す』の中でも描いた。だが、診断名をカッコでくくったあと、ではどうするのか、がもう一つぼんやりしていた。

今日ご紹介するのは、その生きる苦悩にどのように焦点化すると、医学モデル的な診断に依存しなくても、精神病状態に関わることができるのか、が理論的にも実証的にも整理された、迫力ある一冊、イギリスの臨床心理士二人による大著『精神科診断に代わるアプローチ PTMF 心理的苦悩をとらえるパワー・脅威・意味のフレームワーク』である。読み始めたら面白くて、他の本を放り出して、読み終えてしまった。

眠れない、幻覚や妄想に囚われる、不安感が強い・・・そういった状態に、世界的に用いられているDSMなどの標準化された診断基準を当てはめるのではなく、Power(パワー)、Threat(脅威)、Meaning(意味)のFramework(フレームワーク)から以下のように問い直すという。

・「どんなことがあなたに起きましたか?」(パワーは人生にどのように作用しているのか)
・「その出来事はあなたにどのような影響を及ぼしましたか?」(そのことは、どのような脅威をもたらしているのか)
・「あなたはそのことをどのように理解しましたか?」(そうした状況と経験の意味はどのようなものか)
・「生き延びるために、何をする必要がありましたか?」(どのように脅威へ反応しているのか)
・「あなたの強み(ストレングス)は何ですか?」(パワーリソース(力を与えてくれるものや人)と、どのようなつながりをもっているか)
そしてこれら全てを統合するために、
・「あなたのストーリーを教えてください」(p32)

これって、岸政彦さん達が主張している「他者の合理性の理解社会学」そのもの、である。そのことはブログにも書いたが、相手の人生に生じた生きる苦悩や不安の最大化状態を、そのものとして理解しようとする試みである。一方、標準的な精神医学であれば、DSMのマニュアルに記載されている内容に沿った話が聞かれ、それ以外の内容は「診断基準に関係ないから」と切り落とされている。でも、睡眠障害や幻覚妄想などが同じ状態であっても、なぜそのような状態に至ったのか、のプロセスは千差万別で、標準化できない。それを標準化できる範囲に切り落として聴くのが診断的な聞き方とするなら、PTMFで焦点化しているのは、それとは全く正反対の聞き方である。相手の実存的苦悩を、相手の内在的論理を、他者に非合理に見えても本人には合理的なプロセスを、そのものとして聴く、ということである。その聞き方は、恐らく生活史の聞き方と通底しているはずだし、というか、精神病状態に至った生活史を伺っていくのなら、上記の質問は必要不可欠になる。

しかも、この聞き取りの際に、生きる苦悩を個人の悲劇と矮小化せずに、その苦悩の背後にある社会構造の抑圧を、そのものとして捉えようとする。例えば、こんな風に。(p92)

DSMの診断基準:「現実にあるいは想像上で見捨てられることを避けるための尋常ではない試み」
現実:何十年もの間、扶養者や家族から強制的に引き離された

DSMの診断基準:「アイデンティティの障害:顕著で不安定な自己イメージあるいは自己の感覚」
現実:家族、親族とのつながり、故郷、祖国の喪失

DSMの診断基準:「慢性的な空虚感」
現実:度重なる喪失、トラウマと力を失うことに寄る悲嘆、絶望感

DSMの診断基準:「不適切な、激しい怒り、あるいは怒りのコントロール困難」
現実:迫害や強制的な同化政策、司法や医療、教育制度での差別によって、さまざまに蓄積されたトラウマ

ここで描かれている対比は非常に示唆的だ。一見すると、DSMの診断基準は、目の前で起きている状況を適切に描いているように思える。だが、「尋常ではない試み」や「慢性的な空虚感」「激しい怒り」・・・がなぜ・どのように生じるのか、の背景を探ろうとしない。そういう状況にあるのだから、この薬を処方すれば、その急性症状は治まる、という発想である。

だが、家族から強制的に引き離れたり、トラウマによる絶望感がひどかったり、生きていく中で差別を繰り返し受け続けたり、という「社会的現象」は、薬を飲んでも消えない。薬を飲んでぼんやりするという「副作用」によって、その苦しみは一時的に負担感が減るかも知れない。でも、鋭敏な感覚が戻ってくると、怒りや悲しみ、不安や恐れは何度も何度もぶり返す。それくらいの圧倒的な体験をしているのである。とはいえ、DSMの診断基準では、その圧倒的な体験にアプローチすることはないので、その「症状」と折り合うことは難しい。

著者達は、こんな風にも書いている。

「ほとんど全ての苦悩の体験の根底には、自分がどう考え、感じ、行動し、人生を送るべきかという(多くは隠された)前提と、基準や理想に従って生活することの失敗(事実であれ、そう思ったのであれ)とのぶつかり合いがあることも見てきました。こういったことは、現実の困難に直面しているのか、目指しているものが非現実的なのかにかかわらず、結果として自分を責めることになり、さまざまな心の痛みを伴う意味に繋がるのです。(略)
診断モデルと対照的に、PTMFは私たち個人の意味づけに関して、その源である社会的な期待やイデオロギーの圧力にまで遡ってみることを推奨しています。」(p94)

確かに、ぼく自身が経験してきた苦悩も、「どうしたいのか」と「どう失敗した・うまくいかなったのか」の「ぶつかり合い」がある。そして、○○したい、という基準や理想には、新自由主義的価値前提とか、消費者主義とか、偏差値至上主義、親や先生に褒められたい・評価されたい・・・など、様々な「社会的な期待やイデオロギーの圧力」がある。それをそのものとして炙り出すことが、すごく大切なのだと実感する。

最近、スキーマ療法の本も読み漁っていて、個人の認知枠組みを変える威力はすごいな、と思っていた。そういう認知枠組みを変えるフレームワーク(認知行動療法:CBT)の威力を認めつつ、著者達は以下のように警鐘をならす。

「CBTには有用な側面もありますが、そのほとんどが、社会的文脈の役割を軽視し、問題と解決策を主に個人の中に置くことで、診断的思考を支持し、維持するものです。」(p114)

たとえば前回のブログに書いたが、ぼく自身の早期不適応スキーマとして、他者評価や他者比較を自動思考的にしてしまう、というスキーマがある。そして、その認知の歪みを理解し、それをどう変えていくのか、がCBTやスキーマ療法で問われている。だが、その社会的文脈を掘り下げるなら、僕は団塊ジュニアで、僕の両親は団塊世代だった。父親は出張が多く、戦時中に父親を亡くし、母子家庭で育って、「もう家事はしたくない」と思って結婚し、家事育児を専業主婦の母親に丸投げした。そして母親は、3歳下の弟が生まれたあともワンオペ家事を続けて一杯いっぱいだった。そんな母親を見ていて、「お兄ちゃんだからしっかりしなければ」と刷り込まれた3歳のひろっちゃんは、親の目線を内面化して、ちゃんとする、きちんとする、しっかりする、を頑張って守ってきた。これが「他者評価や他者比較に縛られる僕」の社会的文脈であり、男性稼ぎ主型モデルがもたらした弊害でもある。この専業主婦モデルのパワーが竹端家にどのように働き、いかなる脅威をもたらしたのか、を見ることなく、「僕の認識を変えればよい」になると、それは自己啓発本の世界になる。だが、そこで、昭和的頑張りズムが団塊ジュニア世代にどのように作用したのか、という社会構造の歪みと個人の歪みの相互作用を、そのものとして捉えることに、このPTMFの意味や価値があるのだと改めて思う。

そして、社会構造がどのように個人の認知に作用しているのか、について、以下のように指摘している。

・脅威とパワーのネガティブな影響の蔓延について、それを認識することへの抵抗が社会の全てのレベルにおいて存在する。
・脅威と脅威への反応を切り離し、「医学的な病」のモデルを維持することには、個人、家族、職業、組織、コミュニティ、ビジネス、経済、政治などの多くの既得権益が絡んでいる。
・このような影響が相まって、自分の経験を自分の言葉で意味づけるための、社会的に共有された思考の枠組みが奪われている。(p110)

「どうせ」「しゃあない」「世の中はそういうものだ」・・・こういう諦念の中には、「脅威への反応」である場合が少なくない。あるいは、薬物やアルコールの濫用、リストカットやオーバードーズ、不眠症や幻覚妄想などの「医学的な病」も「脅威への反応」と言えるかもしれない。だが、「脅威とパワーのネガティブな影響の蔓延」を、そのものとして認識することは恐ろしい。なぜなら、自分はそういうものに襲われている、と思うと、生きているのが不安になるからだ。だからこそ、「どうせ」「しゃあない」と蓋をして、見ない振りをしたくなる。しかし、それに目を背け、蓋をしても、蓋をしきれないほどの不安やしんどさがあふれかえってくる。だからこそ、薬物やアルコールの濫用、リストカットやオーバードーズ、不眠症や幻覚妄想などの「医学的な病」という形で「脅威への反応」をするのだ。

その際に、そういう「脅威への反応」をなぜしてしまうのか、を分析し、蓋をそのものとして見つめ直す必要がある。「自分の経験を自分の言葉で意味づけるための、社会的に共有された思考の枠組み」を取り戻す必要があるのだ。僕は東日本大震災の直後、一次的存在論的安定の蓋が取れてしまい、気が狂いそうになった。その直後からブログを書きながら、最初の著書『枠組み外しの旅』に結実していくのは、呪縛的に機能した脅威への反応としての思考枠組みの蓋を外し、自分の経験を自分の言葉で意味づけるための、新たな別の思考枠組みを構築するための、命がけの旅だったのだ、と思う。それをすることで、僕は気が狂う一歩手前で、戻って来れた。これは、まさにぼく自身に降りかかっているパワーを分析し、そこにいかなる脅威があるのか、を読み解いた上で、そうした状況と経験の意味はどのようなものか、を価値付け直した。それを、ぼく自身が取り組んで来たストーリーに紐付けて著作化した、という意味では、今思えばあの本はPTMF的な本だったのだ、と気づいてしまった。

だからこそ、このPTMFのフレームワークは、僕を強くエンパワーしてくれるし、色々これから考えて行く上での補助線になりそうだ。もっと色々書きたいけど、とりあえず今日はこのくらいにして、興味を持ったら、是非ともこの本を買って読んでみて欲しい。

スキーマと子育て、枠組み外し

最近、スキーマ療法の本にはまっている。きっかけは、中核的感情欲求という考え方に出会ったことだ。日本でスキーマ療法を広めた伊藤絵美さんの本には、このように紹介されている。

「1,愛してもらいたい、守ってもらいたい、理解してもらいたい。
2,有能な人間になりたい、いろいろなことがうまくできるようになりたい。
3,自分の感情や思いを自由に表現したい、自分の意思を大切にしたい。
4,自由にのびのびと動きたい。楽しく遊びたい。生き生きと楽しみたい。
5,自律性のある人間になりたい。ある程度自分をコントロールできるしっかりとした人間になりたい。」
伊藤絵美『つらいと言えない人がマインドフルネスとスキーマ療法をやってみた。』医学書院、p146)

この5つの概念とは、この6年間、娘を育てるなかで、試行錯誤しながら、大切にしてきたことだった。また、お世話になったこども園の理事長先生から、繰り返し学んできたことであった。たとえば、こんなふうに。

「誰かにやってもらって、完結して満足する子どもはひとりもいません。子どもは、自分でやりたいのです。でも、あらゆることが未熟でうまくできず、お手伝いが必要ですそれは受け入れますが、そのお手伝いは自分でできるようになるまでのひとときの方策なのです。ということは、親には『子どもがひとりでできるように手伝う』という工夫と知恵が求められているわけです。つまり、手伝いは『過小でもダメ、過剰でもダメ』ということです。」
赤西雅之『親のねがい。保育者のことば。 手をとり合って、子どもを育てる』郁洋舎、p93)

この記述を中核的感情欲求に当てはめてみよう。子どもが「自分でやりたい」というとき、2「いろいろなことがうまくできるようになりたい」し、4「自由にのびのびと動きたい」し、5「ある程度自分をコントロール」したい。「でも、あらゆることが未熟でうまくできず、お手伝いが必要」だ。ただ、親はこの際、3「自分の意思を大切にしたい」という子どもの思いを大切にし、「『子どもがひとりでできるように手伝う』という工夫と知恵が求められている」。そして、そのような関わりを親がすることによって、子どもは「1,愛してもらいたい、守ってもらいたい、理解してもらいたい」という中核的感情欲求が満たされるのだ。

6歳児の親として率直に申し上げると、この5点を子育てで重視するのは、「言うは易く行うは難し」である。「手伝いは『過小でもダメ、過剰でもダメ』」とは、頭ではわかっていても、実際にそれを親として実行しようとすると、色々な壁が立ちはだかる。僕の場合は、「ちゃんとしなさい」「しっかりしなさい」と言ってしまったことが何度もあった。でも、幸いに3年間、こども園で娘がしっかり遊びながら、「自由にのびのびと動きたい。楽しく遊びたい。生き生きと楽しみたい」という中核的感情欲求を満たされる関わりをしてもらった。また、親もこども園の様々な行事に参加し、一緒に遊ぶようなチャンスをもらえた。だからこそ、「手伝いは『過小でもダメ、過剰でもダメ』」ということが、少しずつ身体で理解できるようになってきた。

そんなプロセスを経た後だからこそ、この中核的感情欲求という概念には、「あ、こんなふうに概念化されているんだ!」と驚きだったし、この5つの欲求が満たされない時、「認知構造」という意味合いを持つ「スキーマ」の領域で、心の傷や損傷を受ける、という説明も、深く頷くことができた。

「1,人との関わりが断絶されること
2,『できない自分』にしかなれないこと
3,他者を優先し、自分を抑えること
4,物事を悲観し、自分や他人を追い詰めること
5,自分勝手になりすぎること」(『つらいと言えない人が・・・』p146)

娘が通ったこども園で、赤西先生は毎月「保護者学習会」を開催してくださっていた。それは、保護者の「初心者マーク」で、教習も受けないまま子育てをしている新米保護者に、子育ての軸や基盤を伝えてくれる、ありがたい学習会だった。ただ、彼がその学習会や、グループ懇談会などの場で伝えてくれる内容は、親にとっては、時にはかなりきつかった。なぜなら、彼はこう断言するからだ。

「子どもをみたら、家庭環境や親と子の関わり方がすべてわかる。」

つまり、こども園で子どもが過ごす様子を観察する中で、親がどのように子どもに関わっているのか、夫婦の間でコミュニケーションがとれているか、親はどのような価値観を大切にしているのか、が見えてくるというのだ。そして、実際にグループ懇談会の場で、様々な子どもの行動の背景にある、親や家庭環境の状況や課題をズバリと指摘し、涙を流すママ友たちもみてきた。そして、彼が指摘していたのは、上記の5つの部分で、保護者が傷ついている・課題を抱えていて、それが子どもにも反映されている、という指摘であった。

理事長先生の職人芸的な世界をすごいな、と思っていつも参加していたのだが、実はそれは子どもたちのスキーマ領域における傷つきの理解と、そこに影響を与えている保護者のスキーマ領域における課題との相関関係の指摘だ、と、「スキーマ療法」を知ることによって、見えてきた。そして、この際に重要なのは「早期不適応スキーマ」である。伊藤絵美さんの別の本には、「人生の早期に形成され、形成された当初は適応的であったかもしれないが、その後のその人の人生において、むしろ不適応的な反応を引き起こすスキーマ」として定義され、以下のよう特徴があるという。

「・全般的で広範な主題、もしくはパターンである。
・記憶、感情、認知、身体感覚によって構成されている。
・その人自身、およびその人とその人をとりまく他者との関係性に関わっている。
・幼少期および思春期を通じて形成され、その後精緻化されていく。
・かなりの程度で非機能的である。」
伊藤絵美『スキーマ療法入門』星和書店、p29)

こども園という「人生の早期」の段階で、親から中核的感情欲求が満たされていないと、「『できない自分』にしかなれないこと」「他者を優先し、自分を抑えること」といった否定的な感情を抱く。それは、「幼少期および思春期を通じて形成され、その後精緻化されていく」ものである。自分の中で「パターン化された思考」であり、その「パターン化された思考」枠組み=スキーマに支配され、「その人自身、およびその人とその人をとりまく他者との関係性」が規定されていく。

小難しく書いたので、僕の場合でみてみよう。

僕は子育てをしているとき、子どもが言うことを聞かないとき、制止をきかずに勝手な行動をするときに、無意識・無自覚に「ちゃんとしなさい」「しっかりしなさい」と叱ることがあった。このような無意識・無自覚に出てくる言葉は「自動思考」である。そして、この自動思考が生まれてくるのは、「パターン化された思考」枠組み=スキーマである。

僕の場合、中核的感情欲求の傷付きとして、おそらく「3,他者を優先し、自分を抑えること」「 4,物事を悲観し、自分や他人を追い詰めること」が当てはまる。それは、第三領域の早期不適応スキーマである「ほめられたい」「評価されたい」スキーマ、および第四領域の「完璧主義的『べき』スキーマ」が、支配的だったと改めて気づかされる。

これは子育てをしながらつくづく痛感しているのだが、団塊世代の父親は出張が多く家事は一切しなかった。母親は、専業主婦でワンオペ家事をし、3歳下の弟のお世話も大変だった。だからこそ、僕は小さな頃から、お兄ちゃんとして「ちゃんとしなきゃ」「きちんとしなきゃ」を深く内面化した「良い子」だった。そんな少年ひろしくんの「幼少期および思春期を通じて形成され、その後精緻化されていく」「ちゃんとする」「きちんとする」は、学校や勉強への適応面でプラスになった。結果的に大学教員になれたのは、このスキーマゆえだったとも思う。

でも、この早期不適応スキーマは、僕の心をむしばんだ。そのことに気づかされたのが、東日本大震災後の危機だった。ボランティア・NPO論を教え、自分も阪神淡路大震災でのボランティア経験があり、「被災地に行かなければならない」と思い込んでいた。でもその一方、政府の審議会の仕事は佳境を迎え、原発爆発に恐れおののいて、「行きたくない」と強烈に思っている自分もいた。あの時期、全速力でアクセルとブレーキを同時に踏み込み、気が狂いそうになっていた。そのとき、必死になって正気でいるために書いていたのが、ブログ「存在論的裂け目」である。

このときから、自らを縛る思考枠組みや暗黙の前提とした規範を、気が狂いそうになりながら見つめ直し、疑い始めた。たまたま前の年に「魂の脱植民地化」概念と出会っていたこともあり、自分自身の魂が植民地化されているのは、自分を縛る「すべきだ」「しなければならない」という思考枠組みだと気づいた。そして、それを観察し、決別するために、とにかく原稿を書き続け、翌年は初の単著となる『枠組み外しの旅—「個性化」が変える福祉社会』(青灯社)という本を書き上げた。

そして、振り返ってみると、僕が外そうと文字通り命がけで格闘した枠組みは、「早期不適応スキーマ」でもあったのだ。その当時、不勉強でそれを知らないまま格闘してきた。また、「早期不適応スキーマ」はあくまでも個人が親世代との関係性の中で引き受けたスキーマだが、僕が問うた「枠組み」=「魂の植民地化」は、家族内関係がそのような「早期不適応スキーマ」として連鎖するような、そのような抑圧的な社会システムへの問いだった。そういう意味では、アプローチや登ろうとする山は、すべて一致している訳ではない。だが、この「早期不適応スキーマ」という言葉と出会えたことで、自分が必死でもがいてきた「枠組み外し」とは、「早期不適応スキーマ」から距離をとる、という意味で、スキーマ療法的な世界に近かったのだ、と、今頃になって気づかされた。

そして、子育てをしていて改めて感じるのは、冒頭に述べた中核的感情欲求を、まずは親自身がしっかり学び、自らがその中核的感情欲求を満たされてきたか、をセルフモニタリングすることの重要性である。率直に言えば、この部分を、全く傷つけられていない人はたぶん少ないと思う。みんな、なにがしかの傷を抱えている。それは、僕や妻だけでなく、ゼミ生や娘のママ友を見ていても、そう思う。伊藤絵美さんも、まずは自らのセルフケアから始めた、といっていた。

だからこそ、子育ての最初の方で、この中核的感情欲求の重要性を学び、自らの心の傷や、「早期不適応スキーマ」を理解することで、子どもの中核的欲求を大切にしやすくなっていく。親が『子どもがひとりでできるように手伝う』ためには、子どもに関わる親が、自らの子ども時代から「早期不適応スキーマ」を見つめ直し、それを無意識・無自覚に子どもにすり込まないように、批判的に意識化していくことが大切なのである。

そして、ぼくはそれを、文章を書くプロセスの中で、考え続けてきた。そういう意味では、昨年上梓したエッセイ『家族は他人、じゃあどうする? 子育ては親の育ち直し』(現代書館)の中でも、そうとは書いてはいないけど、ぼく自身の「早期不適応スキーマ」の問い直しがずいぶんなされている、と今更ながら気づかされる。

そういう意味では、僕にとっては、先にスキーマ療法の世界を知るのではなく、「いま・ここ」で出会えたのは非常に意味や価値がある、と感じている。伊藤絵美さんは、支援者向けのセルフケアのワークブックなども書いておられるので、引き続き読ませてもらい、学びを深めてみたい。

構造的暴力と有責性

精神科医の高木俊介さんは、「統合失調症への病名変更の立役者」であり、病院中心型の精神医療を変えるため、重度の精神障害者を多職種チームで訪問しながら在宅で支えるACT-Kを主催している、改革派精神科医の旗手の1人である。オープンダイアローグを日本に紹介した第一人者としても知られており、縁あって彼との関わりが深まり、2017年にはACT-Kで行われた集中研修にも参加させていただき、ACT-Kのチームの皆さんとも仲良くなった。

そんな高木さんは中井久夫も見田宗介も読み込む大の読書家であり、著作も沢山出しておられる(何冊か頂いたこともある)のだが、ブログで紹介するのは初めて。今回の本は、精神医療の構造的暴力が、現場の中の人(精神科医)によって、それこそ社会学的な視点で描かれて、実に印象深かった。例えば、「暴力」に関して。

「私が使命感に燃えて往診し、暴力的に入院させてきた患者が何人もいるのであるが、10年後にその病院を去る時に、一人ひとりの患者に挨拶していった。その時には、私が『暴力』で治療した患者、つまり力で押さえ込んできた患者のうち、良くなって喜ばれた患者は退院して目の前にいない。残っている患者の多くが、私が勤務を離れた慢性病棟の病室の隅で、人を拒否して時に暗く険しい表情でうずくまっている患者になってしまっていた。あるいは、病棟の中で一番扱いに困る患者になってしまっていた。
その時まで、ずっと同じ病院にいながら、自分は見ないようにしていた、あるいはすべて患者の病状のせいにして済ませていた。それらに気づいた時、私は愕然となった。この人たちは自分が作ったのだ。人が自分の暴力性に気づくことの難しさというものを、私は自分自身で体験したのである。治療という正当な『力』を行使しているつもりが、それは自分の力ではなく、病院というシステムの中にある力で、その力に自分自身が振り回されていたのだ。力を操るという自分の意気込みは、すべて病院の力であり、自分は精神病院という『全制的施設』が振るう力の操り人形にすぎなかったのだと気づいたのである。』(高木俊介『危機の時代の精神医療 変革の思想と実践』日本評論社 p83-84)

精神科医には、権力が付与されている。自傷他害の恐れのある患者に対して、本人の同意を得ることなく強制的に入院させることのある権限が付与されているのだ。そして、ここで描かれているのは、家族の要請に基づいて往診し、自傷他害の恐れがありと判断した患者を、病院チームが「暴力的に入院させてきた」事例である。強制入院経験のある多くの当事者は、この拉致監禁のような「暴力的な入院」そのものがトラウマ経験になった、と語る。だが、家族が困り切っていたから、とか、他の代替手段がなかったから、などの理由で、強制入院は未だに日本では多く行われており、そのうちの大半が、行政命令ではなく、家族の同意に基づく入院という玉虫色の「医療保護入院」である。(この構造的問題は以前、シノドスに書いた)。

当時の高木さんは、「患者さんの治療のために」という使命感をもって、自分が率先して往診していた。だが、病院を離れる際、「『暴力』で治療した患者」のうち、病院を退院出来ていない患者の大半が、「人を拒否して時に暗く険しい表情でうずくまっている患者になってしまっていた。あるいは、病棟の中で一番扱いに困る患者になってしまっていた」ことに気づく。

この時、高木さんが他の精神科医と違ったのは、「この人たちは自分が作ったのだ」と気づいた点である。専門家は、特に経験年数を経れば減るほど、無謬性に取り込まれる。専門性を持っている玄人の俺が間違うはずがない。治らない患者は、患者の気質や病気・病状の酷さ故に治らないのだ、と。これは、一見すると専門家によるアセスメントや見立てのようでいて、実は自らを免責し、患者に責任を押しつける、責任回避の論理を「科学的合理化」するプロセスでもある。医療過誤の中には、このプロセスがしばしばありそうだが、それはなかなか明るみに出ない。なぜなら、医師と患者には治療情報に対する圧倒的な非対称性があり、かつ精神科医と精神障害者では、社会的に付与された「立場性」にも恐ろしいほどの格差があるからだ。だからこそ、精神科医の「科学的合理化」は信奉され、患者の命がけの抗議や意義申してては「病状のせい」「興奮や幻覚・妄想状態」とラベルが貼られ、さらなる強制医療の犠牲になりやすい。

高木さんは、ご自身が病院を退職するとき、「自分は見ないようにしていた、あるいはすべて患者の病状のせいにして済ませていた」重大な真実に気づいてしまった。それは「この人たちは自分が作ったのだ」という、自らの有責性である。相手に責任を押しつけている間は、病気のせい、に出来てしまう。だが、自分に責任があるとなると、なぜ・どのように責任があるのか、という解釈フレームががらりと変わる。

「治療という正当な『力』を行使しているつもりが、それは自分の力ではなく、病院というシステムの中にある力で、その力に自分自身が振り回されていたのだ。力を操るという自分の意気込みは、すべて病院の力であり、自分は精神病院という『全制的施設』が振るう力の操り人形にすぎなかったのだと気づいたのである。」

これは、文字通り地と図が反転するようなパラダイムシフトであり、ルビンの壺の「壺」が「顔」に見えるようなゲシュタルトの転換の瞬間であった。それまで、往診して、強制的に入院させることは、「治療という正当な『力』の行使」であり、患者さんんには申し訳ないけれど、治療という良いことをするために、「しかたのないこと」だと思い込んで来た。そして、善意に基づく自らの行為を、そのような形で自己正当化してきた。

だが、それは「暴力」という権力行使だとラベルを貼り替えると、全く違う世界が見えてくる。自らの善意や「治療のため」という信念は、「強制入院を正当化する病院システム」を維持するために用いられていたのだ。そこから高木さんは、「力を操るという自分の意気込みは、すべて病院の力であり、自分は精神病院という『全制的施設』が振るう力の操り人形にすぎなかったのだ」という事に気づく。自分が主体的に治療している、と思い込んでいたが、それは「精神病院という『全制的施設』」が、その暴力的な管理支配を維持し正当化するための「力の操り人形にすぎなかった」のである。暴力的な精神病院システムの温存のために、自らの善意が搾取され、でもそのことに気づかず、自らの「使命感」を長らえさせてきたのだ。

恐らく、その構造的な暴力や、自らがその構造的暴力の手先になっていることに気づいた医療者は、高木さんだけではなかっただろう。だが、そのことに気づいても、「生活のため」と蓋をして暴力行使をし続けていると、滝山病院のようになってしまう(この問題についてはブログにも書いた)。あるいは、自分には何も出来ないと、そっと現場を離れて、口を紡ぐ人も沢山いたと思われる。

高木さんが違ったのは、「この人たちは自分が作ったのだ」と気づき、それを今回の本のように、自らの有責性を明るみしたことである。それだけでなく、「自分は見ないようにしていた、あるいはすべて患者の病状のせいにして済ませていた」構造への有責性を引き受け、その後ACT-Kを主催し、暴力行使を最小化しながら、入院をなるべくしない地域精神医療のシステム構築にその後の人生を賭けてきた点である。

この本を読んでいて、改めて高木さんの発見は、イタリアで精神病院廃絶に向けた立役者になった精神科医フランコ・バザーリアのそれと一致すると感じた。

「病気ではなく、苦悩が存在するのです。その苦悩に新たな解決を見出すことが重要なのです。・・・彼と私が、彼の<病気>ではなく、彼の苦悩の問題に共同してかかわるとき、彼と私との関係、彼と他者との関係も変化してきます。そこから抑圧への願望もなくなり、現実の問題が明るみに出てきます。この問題は自らの問題であるばかりではなく、家族の問題でもあり、あらゆる他者の問題でもあるのです。」 (ジル・シュミット『自由こそ治療だ』社会評論社、p69)

バザーリアは、治療すべき客観的対象だと思われていた「精神病」という「病気」を、「生きる苦悩」が最大化した状態だ、と置き直した。それは、精神医療におけるパラダイムシフトである。「病気」であれば、治らないのはその「病気」のせいである。医者の責任は最小化される。一方、「苦悩」が根源だと見立てやアセスメントを変えると、「彼と私との関係、彼と他者との関係も変化」する。その人の「苦悩」の一部が、強制的に入院させられたことへのトラウマや傷つきであるならば、その「苦悩」という「問題の一部」の責任は、強制入院を認めた・暴力的な権力行使をした精神科医自身にも降りかかってくる。だが、そういう形で自らの有責性を認めることで、「この問題は自らの問題であるばかりではなく、家族の問題でもあり、あらゆる他者の問題でもある」という構造的理解が、精神科医に出来るようになるのだ。

(このことについては、論文「「病気」から「生きる苦悩」へのパラダイムシフト : イタリア精神医療「革命の構造」でじっくり論じたので、ご興味のある方は、ご一読いただきたい。)

高木さんの本に戻ろう。高木さんは、上記のプロセスを以下のように総括している。

「私たち精神医療従事者にとってもっとも解決困難なものが、今も昔も、精神医療そのものが生みだしてしまう暴力であろう。収容所環境—密室環境というものはどうしても暴力を生みやすくなる。さらに、その環境の全体が、E・ゴフマンの言う『全制的施設』となっている。その中で、私がそうだったように、治療者としての役割に誇りを持っていながら、勘違いしてしまう。『力(force)』のつもりで行使したものがいつの間にか『暴力(violence)』に変容している。そういうことを精神医療の現場は生み出す。
それに対抗するように、患者自身がその支配システムに抗議を行うための暴力、対抗暴力がある。そういう暴力に対して、私たちは精神医学の言葉でそれを『無効化』する。彼の怒り、抵抗、抗議—それが正当な抗議でも、『衝動性』『拒否性』『易怒性』といったレッテルを貼って治療の対象にしてしまう。このような患者の感情の否定、無効化は、精神病院の中だけでなく地域の中の処遇でも起こるものだ。精神障害者と私たち支援者との関係性の中で起こる問題である。」(p88)

支援対象者と支援者の「支配ー服従」関係の中で生じる暴力。それは、精神障害者に限った話ではない。「問題行動」「困難事例」「多問題家族」と地域でラベルを貼られ、支援者の指示・誘導に従わないクライアントは、人格障害などのラベルが容易に貼られ、「暴力」と「対抗暴力」のぶつかり合いになりやすい。その中で、支援者も当事者も共に傷つき、支援拒否に至り、地域で問題を拗らせ、強制入院など不幸な結末に陥る場合もある。

この時、「『力(force)』のつもりで行使したものがいつの間にか『暴力(violence)』に変容している」という現実に、治療者や支援者がどれだけ自覚的か、が大きく問われる。そして、「彼の怒り、抵抗、抗議—それが正当な抗議でも、『衝動性』『拒否性』『易怒性』といったレッテルを貼って治療の対象にしてしまう」という構造的暴力にも、しっかり意識化・自覚化が出来ているか、で変わる。それは、バザーリアの言葉を借りるなら、「病気ではなく苦悩に向き合う」ということである。病気なら「治療する・される」の関係性は、非対称になりやすい。だが、「彼の苦悩の問題に共同してかかわるとき、彼と私との関係、彼と他者との関係も変化」するのだ。

他にも引用したい素敵なフレーズがちりばめられているのだが、長くなったので、もう一カ所のみ、引用したい。

「今世紀になってますます加速する中間的共同体の崩壊によって、親密な人間関係は同一世帯の中にまで切り詰められ、家族の葛藤は行き場を失って家庭内に煮詰められる。社会の問題であった暴力は、いまや家庭内の問題となる。社会性を獲得するモデルは親子関係と夫婦関係にしか求められず、世代間の仕切りは失われ、社会と家族の間の防壁もあいまになる。
社会の成長の終焉は、個人の成長をも神話にする。『成長する人間』は理念型としての『人格』を形成していくが、その成長を失えば個人はそれぞれの発達段階に応じた『特性』の束に過ぎないものとなってしまう。精神医学において人格障害という診断が下されることが激減したように、社会からもその構成員の『人格』という概念が消滅していくのだ。
同時に『人格』に取って代わった『特性』は、社会的な評価としての『能力』で計られ、数値化されていく。こうして発達障害こそが、社会への不適応、社会からの逸脱、コミュニケーションを阻む『欠陥』として、教育の過程で、社会化の過程で絶えず見いだされる現代精神障害という地位に押し出されてきた。
これが今、私たちが立ち竦んでいる場所なのだ。」(p222-223)

高木さんは、臨床の中から見えてくる社会の構造的変化のダイナミズムを、社会学的に記述する能力にも長けている、と改めて思う。20世紀の終わりから21世紀の初めにかけて、確かに「人格障害」という名前はニュースや書籍のタイトルでしばしば目にした。だが、その名称が話題にならなくなるのと同時に、「発達障害」ブームが今に至る形で席巻している。それは、バブル崩壊以後の「社会の成長の終焉」と共に、「成長する人間」としての「人格」の終焉なのかもしれない、という高木さんの指摘は、実に深い投げかけである。そういえば最近、「人格の陶冶」という言葉も、とんと聴かない。

一方で、中間的共同体の崩壊の中で、夫婦関係や親子関係以外の関係性が見失われていくに従い、「発達特性」と「発達障害」が有徴化されるようになってきた。これは、社会の閉塞感、社会的規範の先鋭化、逸脱への監視や許容力のなさ、が個人に転嫁されたものだと考えると、わかりやすい。その人の「人格」や「個性」と言われていたものが、「能力」で計られ、情緒障害、適応障害、多動障害などの形で、欠陥として指摘される。それは、発達障害とラベルを貼られた児童生徒の急増や、そこにリンクする形での放課後デイサービスや療育事業の隆盛を見ていてもわかる。娘の通う学校でも、そのようなお子さんが沢山いる。

「これが今、私たちが立ち竦んでいる場所なのだ」と高木さんが指摘する時、「この人たちは自分が作ったのだ」という有責性を、僕には感じた。それは、他者や個人に責任を押しつけて、治療してあげるという善意や、批評家としてラベリングするような「高みの見物」をするのとは、正反対だ。この社会において、抑圧的な構造・システムにも関わる構成員の一人として、この社会的排除のシステムにどう抗っていけばよいのだろう、という意味で、コミットメントや責任を分有する感覚である。そして、このような開かれの感覚にこそ、次の時代を考えていくヒントがあるような気もする。

ろくでもないこと「も」起き続ける日本社会において、自分自身の有責性を自覚して、現場で出来ることからし続けること。それが、高木さんからもらったバトンかもしれない。

「バカヤロー」と言われた時に

アダム・カヘンの本を最初に読んだのは、2010年に読んだ『手ごわい問題は、対話で解決する』だったとブログを検索してしる。僕はブログを外部記憶装置として活用しているので、めっちゃ助かる(^_^) この本を読んだあたりから、システム思考やU理論の本などを猛然と読み進めていった。

で、検索すると2015年には『社会変革のシナリオ・プランニング』を興奮して一気読みしたことも綴られている。つまり、アダム・カヘンの本はぼくの性分に合うようだ。

今回、最新刊の『共に変容するファシリテーション』(英知出版)も読んだ。以前は仰ぎ見るだけだったけれど、今回は彼が沢山自分の失敗を書いてくれていた&この十数年の間に、ファシリテーターの数を沢山こなしてきた&2017年にダイアローグの集中研修を受けたあとぼく自身のあり方も大きく変容した、こともあり、すごく親近感を持って、この本を読み終えた。

その中で、色々なことを思い出したエピソードは、カナダの先住民の人々とのワークショップを行った際、彼らの代表の1人のマスワゴンがカヘンに述べた、次の一言だ。

「お前さんは信頼できない」

実はぼく自身も、ファシリテーションの現場で「バカヤロー」と叫ばれたこともあるし、「あんたの言っていることは理想論だ」とも言われたこともある。そして、このような、ある種の全否定的な発言と対峙する際、ファシリテーターの全存在が問われているのだ、と思う。

カヘンは、その際のことを、こんな風に述べている。

「多くのファシリテーターはよく考えもせず、参加者たちが『ただ気難しいだけ』と想定してしまうものだが、私はそうではないことを理解した。カナダでは(他の国と同様に)何世紀もの間、先住民が植民地化され、虐殺され、抑圧され、疎外され、白人に騙されてきたのだ。白人達は自分たちのやり方で傲慢に物事を押しつけてきた。このワークショップの参加者は、私がこの垂直型の『正しい答えを私たちが持っている』というアプローチを再現していると考え、それを受け入れる余地がなかったのだ。彼らは、このプロセスを自分たちの状況ややり方に合った方法で実行することを望んでいた。」(p206-207)

僕が「理想論だ」と突きつけられた時のことを今から振りかえると、「垂直型の『正しい答えを私たちが持っている』というアプローチ」を取っていた。僕が持っている「正解」の価値観を押しつけようとしていて、相手は別の「正解」を価値観として持っていたので、僕の価値観の押しつけに我慢ならなかったのだ。そして、「バカヤロー」と叫ばれたのは、あるシンポジウムの終了直前で、「うまく話をまとめられた」と安堵した瞬間だった。その人は、「バカヤロー」に続けて、「俺にしゃべらせろ!」と怒鳴ったのである。どちらの時も頭が真っ白になる、自分の積み上げてきたプロセスが自己否定されるような事態であった。

で、カヘンはその後、どうしたのか。彼が説明を全て終えた後に、仲間のファシリが「お前さんは信頼できない」と発言したマスワゴンに、「今なら信頼できるか」と尋ねた。すると、相手はこう言ったという。

「いいや。しかし、このプロセスは信頼する」

それに対して、カヘンはこんな風にリプライした。

「あなた方に私やそのプロセスを信頼せよとは申しません。次のステップに進み、そしてどのような進捗があるか、次に何を行うかを確認することを提案しています」

その上で、カヘン達のチームは、自分たちが当初計画していたやり方を一部修正し、先住民達の伝統的なスピリチュアルな儀式を最初と最後に用いたり、先住民メンバーによるファシリテーションの時間を増やしたりした。その中で、マスワゴンにも許されるようになった。そのことを、カヘンは以下のように振りかえっている。

「私が、他の文脈で成功したアクティビティを使うことを主張した(それまでに形成された理論や実践をダウンロードしている)際、私はそのときその場所で自分たちが直面している特定の状況に十分に注意を払っていなかった。しかし、マスワゴンの発言で、ファシリテーション・チーム全体がこの状況をより明確に捉えることができ、うまく方向転換することができた。」(p208)

自分の積み上げてきた「正しさ」に縛られず、「そのときその場所で自分たちが直面している特定の状況に十分に注意」を払う。これは容易なことではない。10年以上前、僕の発言に「理想論だ」と反論した相手に対して、僕はあろう事が頭に血が上ってしまい、100人以上の受講生がいるその現場で、言い合いになってしまった。それは「垂直型の『正しい答えを私たちが持っている』というアプローチ」を相手に押しつけることであり、相手は猛反発し、場は荒れ、すごく嫌な雰囲気に場が支配された。まさに問題の一部は自分自身だった。

一方で、「バカヤロー」と言われたのは、その後ダイアローグを学びはじめた後だった。だからこそ、「そのときその場所で自分たちが直面している特定の状況に十分に注意」を払おうとした。残り3分で、会場の完全撤収までも10分くらいしかない、かつ主催者も司会も誰も凍り付いている300人くらいが集まった場において、みんな僕を見ていた。状況をハンドリングするのは、シンポジウムのファシリの僕だけ、だった。だからこそ、その場に意識を集中し、「しゃべらせろ!」と怒鳴った本人にマイクを渡しながら、時間はない中でも本人にも語りかけながら、緊迫した対話を繰り返した。本人の思いのコアを聞き取り、シンポジウムの登壇者がその方と同じ思いであることを伝えると、本人は「わかった、以上!」と締めくくってくれた。緊迫したセッションは3分で閉じることが出来、完全撤収の時間も間に合った。本人は、某大学の名誉教授で、そこで議論された内容について是非とも意見を述べたかったけど述べる場がなかったのでつい激高した、と後で謝ってくれた。

そのことを思い出しながら、以下のフレーズを読むと、味わい深い。

「政治的・心理的に、自分を外側に、そして上に置くこと(「私は無実である」)に慣れている人々にとって、このような責任を引き受けること(「私は無実ではない」)は、不快なストレッチを伴う。したがって、コラボレーションを通じて変容をもたらそうとする際の重要な課題は、自分がいかに問題の絡み合う状況の一部分であるかを理解出来るようになることである。」(p215)

ファシリテーターが、自らの正解にしがみついていると、「問題の一部は自分自身」と引き受けることは出来ない。「あんたの言っていることは理想論だ」と言われた際、ぼくは自らの正義を守りたくて、そして「自分を外側に、そして上に置くこと(「私は無実である」)」に慣れきっていて、それを否定されたことが悔しくて、躍起になって相手を叩き潰そうとしていた。それは、本当にやってはいけない権力行使だったのだと、今になって深く反省する。

そして、その後ダイアローグを学ぶ中で、「バカヤロー」と言われた際、残り三分しかない場でそれを言われたことの意味を引き受けようと思った。「このような責任を引き受けること(「私は無実ではない」)は、不快なストレッチを伴」ったが、そこから逃げてしまったら、意味がないと覚悟した。でも、そうやって緊迫した3分間を相手とコラボレーションする中で、場が変容していくのを実感した。「自分がいかに問題の絡み合う状況の一部分であるかを理解出来るようになる」ことは、ファシリテーターが場の変容にコミットする上で必要不可欠だ、と気づけたのだ。

『共に変容するファシリテーション』を読んで、13年前には出来ていなかった苦労を、この間僕もしてきたのだな、と感じた。そして、ダイアローグをまなび、いま・ここでの場の変容に向けて共にコミットする面白さを感じていたが、それは改めて理にかなっているのだ、とリスペクトする「ファシリ仲間」のカヘンから改めて教わった。そんな読後体験だった。