「バカヤロー」と言われた時に

アダム・カヘンの本を最初に読んだのは、2010年に読んだ『手ごわい問題は、対話で解決する』だったとブログを検索してしる。僕はブログを外部記憶装置として活用しているので、めっちゃ助かる(^_^) この本を読んだあたりから、システム思考やU理論の本などを猛然と読み進めていった。

で、検索すると2015年には『社会変革のシナリオ・プランニング』を興奮して一気読みしたことも綴られている。つまり、アダム・カヘンの本はぼくの性分に合うようだ。

今回、最新刊の『共に変容するファシリテーション』(英知出版)も読んだ。以前は仰ぎ見るだけだったけれど、今回は彼が沢山自分の失敗を書いてくれていた&この十数年の間に、ファシリテーターの数を沢山こなしてきた&2017年にダイアローグの集中研修を受けたあとぼく自身のあり方も大きく変容した、こともあり、すごく親近感を持って、この本を読み終えた。

その中で、色々なことを思い出したエピソードは、カナダの先住民の人々とのワークショップを行った際、彼らの代表の1人のマスワゴンがカヘンに述べた、次の一言だ。

「お前さんは信頼できない」

実はぼく自身も、ファシリテーションの現場で「バカヤロー」と叫ばれたこともあるし、「あんたの言っていることは理想論だ」とも言われたこともある。そして、このような、ある種の全否定的な発言と対峙する際、ファシリテーターの全存在が問われているのだ、と思う。

カヘンは、その際のことを、こんな風に述べている。

「多くのファシリテーターはよく考えもせず、参加者たちが『ただ気難しいだけ』と想定してしまうものだが、私はそうではないことを理解した。カナダでは(他の国と同様に)何世紀もの間、先住民が植民地化され、虐殺され、抑圧され、疎外され、白人に騙されてきたのだ。白人達は自分たちのやり方で傲慢に物事を押しつけてきた。このワークショップの参加者は、私がこの垂直型の『正しい答えを私たちが持っている』というアプローチを再現していると考え、それを受け入れる余地がなかったのだ。彼らは、このプロセスを自分たちの状況ややり方に合った方法で実行することを望んでいた。」(p206-207)

僕が「理想論だ」と突きつけられた時のことを今から振りかえると、「垂直型の『正しい答えを私たちが持っている』というアプローチ」を取っていた。僕が持っている「正解」の価値観を押しつけようとしていて、相手は別の「正解」を価値観として持っていたので、僕の価値観の押しつけに我慢ならなかったのだ。そして、「バカヤロー」と叫ばれたのは、あるシンポジウムの終了直前で、「うまく話をまとめられた」と安堵した瞬間だった。その人は、「バカヤロー」に続けて、「俺にしゃべらせろ!」と怒鳴ったのである。どちらの時も頭が真っ白になる、自分の積み上げてきたプロセスが自己否定されるような事態であった。

で、カヘンはその後、どうしたのか。彼が説明を全て終えた後に、仲間のファシリが「お前さんは信頼できない」と発言したマスワゴンに、「今なら信頼できるか」と尋ねた。すると、相手はこう言ったという。

「いいや。しかし、このプロセスは信頼する」

それに対して、カヘンはこんな風にリプライした。

「あなた方に私やそのプロセスを信頼せよとは申しません。次のステップに進み、そしてどのような進捗があるか、次に何を行うかを確認することを提案しています」

その上で、カヘン達のチームは、自分たちが当初計画していたやり方を一部修正し、先住民達の伝統的なスピリチュアルな儀式を最初と最後に用いたり、先住民メンバーによるファシリテーションの時間を増やしたりした。その中で、マスワゴンにも許されるようになった。そのことを、カヘンは以下のように振りかえっている。

「私が、他の文脈で成功したアクティビティを使うことを主張した(それまでに形成された理論や実践をダウンロードしている)際、私はそのときその場所で自分たちが直面している特定の状況に十分に注意を払っていなかった。しかし、マスワゴンの発言で、ファシリテーション・チーム全体がこの状況をより明確に捉えることができ、うまく方向転換することができた。」(p208)

自分の積み上げてきた「正しさ」に縛られず、「そのときその場所で自分たちが直面している特定の状況に十分に注意」を払う。これは容易なことではない。10年以上前、僕の発言に「理想論だ」と反論した相手に対して、僕はあろう事が頭に血が上ってしまい、100人以上の受講生がいるその現場で、言い合いになってしまった。それは「垂直型の『正しい答えを私たちが持っている』というアプローチ」を相手に押しつけることであり、相手は猛反発し、場は荒れ、すごく嫌な雰囲気に場が支配された。まさに問題の一部は自分自身だった。

一方で、「バカヤロー」と言われたのは、その後ダイアローグを学びはじめた後だった。だからこそ、「そのときその場所で自分たちが直面している特定の状況に十分に注意」を払おうとした。残り3分で、会場の完全撤収までも10分くらいしかない、かつ主催者も司会も誰も凍り付いている300人くらいが集まった場において、みんな僕を見ていた。状況をハンドリングするのは、シンポジウムのファシリの僕だけ、だった。だからこそ、その場に意識を集中し、「しゃべらせろ!」と怒鳴った本人にマイクを渡しながら、時間はない中でも本人にも語りかけながら、緊迫した対話を繰り返した。本人の思いのコアを聞き取り、シンポジウムの登壇者がその方と同じ思いであることを伝えると、本人は「わかった、以上!」と締めくくってくれた。緊迫したセッションは3分で閉じることが出来、完全撤収の時間も間に合った。本人は、某大学の名誉教授で、そこで議論された内容について是非とも意見を述べたかったけど述べる場がなかったのでつい激高した、と後で謝ってくれた。

そのことを思い出しながら、以下のフレーズを読むと、味わい深い。

「政治的・心理的に、自分を外側に、そして上に置くこと(「私は無実である」)に慣れている人々にとって、このような責任を引き受けること(「私は無実ではない」)は、不快なストレッチを伴う。したがって、コラボレーションを通じて変容をもたらそうとする際の重要な課題は、自分がいかに問題の絡み合う状況の一部分であるかを理解出来るようになることである。」(p215)

ファシリテーターが、自らの正解にしがみついていると、「問題の一部は自分自身」と引き受けることは出来ない。「あんたの言っていることは理想論だ」と言われた際、ぼくは自らの正義を守りたくて、そして「自分を外側に、そして上に置くこと(「私は無実である」)」に慣れきっていて、それを否定されたことが悔しくて、躍起になって相手を叩き潰そうとしていた。それは、本当にやってはいけない権力行使だったのだと、今になって深く反省する。

そして、その後ダイアローグを学ぶ中で、「バカヤロー」と言われた際、残り三分しかない場でそれを言われたことの意味を引き受けようと思った。「このような責任を引き受けること(「私は無実ではない」)は、不快なストレッチを伴」ったが、そこから逃げてしまったら、意味がないと覚悟した。でも、そうやって緊迫した3分間を相手とコラボレーションする中で、場が変容していくのを実感した。「自分がいかに問題の絡み合う状況の一部分であるかを理解出来るようになる」ことは、ファシリテーターが場の変容にコミットする上で必要不可欠だ、と気づけたのだ。

『共に変容するファシリテーション』を読んで、13年前には出来ていなかった苦労を、この間僕もしてきたのだな、と感じた。そして、ダイアローグをまなび、いま・ここでの場の変容に向けて共にコミットする面白さを感じていたが、それは改めて理にかなっているのだ、とリスペクトする「ファシリ仲間」のカヘンから改めて教わった。そんな読後体験だった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。