未来を描くプロセスの共有

3月も半ばになって、やっと落ち着いてブログを書ける。今日ご紹介するのは、10日ほど前に釜石で講演するために7時間半!の移動時間で一気読みしたアダム・カヘンの『社会変革のシナリオ・プランニング』(英知出版)。カヘンの翻訳本は全て読んできて、その感想はブログに書いたこともあるし、論文にも引用したことがあるが、今回の本を読んで、彼の言うシナリオ・プランニングの本質が、やっとつかめたような気がする。

「シナリオ作成に特に役立つ結論の一つは、確実なことと不確実なことのリストである。チームにこう聞こう。私たちのシステムを動かしている力のシステム構造のレベルを見たとき、未来に確実に起こることのうち最も重要なことは何だろう? 未来に起こるかどうか不確実だがもっとも重要なこと、そして、それぞれの両極は何だろう? 確実なことは、その名のとおり、全シナリオに存在することになる。一方、不確実なことはシナリオを区別する重要要因になる。(略) システム全体の今の現実について完全なモデルはつくれないように、未来の確実性と不確実性も正確に測ることはできない。今の現実を規律をもって偏見なく観察し、根底にあるシステム構造を体系的に忍耐強く吟味することをとおして、確実なこと・不確実なことについてチームで合意に達することしかできない。」(p86-87)
この部分で僕の頭はだいぶクリアになったのだが、カヘンの本を読んだことのない人には「なんのこっちゃ?」の引用なので、少しこれを僕が関わる現実と重ね合わせながら、読み解いていきたい。
シナリオ・プランニングは未来について「これから起こる可能性があると思うこと」(p29)をストーリーとして、複数考え出すことである。彼はそれをアパルトヘイトが終わる90年代最初の南アフリカで、あらたな社会的統合を目指したワークショップを成功させる中で発展させていったが、これは僕が関わる自治体レベルでの地域包括ケアシステム構築でも十分応用可能である。
たとえば、中山間地で高齢化率が50%を超えるといわれる、ある集落を例に挙げてみよう。そこは、スーパーまで車で30分以上かかるし、急斜面の山間で60代が「若者」だと言われる集落である。子育て世帯もいることにはいるが、集落の中では赤ちゃんの姿を見なくなってもう10年以上たつ。地域包括支援センターの職員達は、このまま行けば「消滅集落」ではないか、と思って、その集落の持続可能性をどうするか、を考えていた。こういう状況だとしよう。
その時に、集落の町内会長や民生委員といった「顔役」だけでなく、子育て世代や「若者」と言われる60代の人など、その集落の主立ったキーパーソンに、その集落という「システムの中や周辺で起きていることや起こりそうなことのうち何が重要か、システムの未来にどんな希望や恐れをもっているか」(p68)をヒアリングする。このヒアリングは、包括だけで行うのではなく、その集落の「持続可能性」を考えて変化を起こしたいと願う住民有志と数名のコア・チームを組んで行った方がよい。その中で、行政や包括が知らない、様々な生の現実が語られる。「このままだと10年後には集落は消滅しそうだ」という悲観的な「起こる可能性」が語られる一方、「いや、みんなで助け合いを続けるから、案外20年くらいは持つかも」という楽観的な「可能性」や、「そういえば、街場に出ていた子ども世帯が、定年退職して週末には集落に帰って田んぼを耕している。その子や孫世代が移り住めば、この集落はあんがい続くかも」といった、想定外のストーリーが語られる。あるいは、2年ほど前から集落の外れの空き家を、その集落出身ではない都会の若者が借りて、田舎暮らしを楽しみ始めている、こういう若者世帯が子どもを生んだら、案外集落の賑わいも少しは残るかも・・・という希望的な「起こる可能性」が語られるかもしれない。
こういった情報をコア・チームで整理して、誰の発言か分からないような形でまとめて文章化する。その上で、「集落の未来を考える会」を開き、その集落の将来を心配する主立った人々に集まってもらう。立場も年齢も人生経験も価値観も異なる人々なので、最初から意見が一致する事なんてないだろう。その際に重要なのは「メンバーが普段のものの見方を超えて、新鮮な目でみること」(p70)である。「そんなの無理だ」「この集落ではできっこない」という発言は、これまでの経験則に基づく先入観だが、しばしば「顔役」の人々は、そういう発言をしやすい。この集まりでは、「どうせ」「しかたない」と最初から決めつけずに、「心を開いて、探求し、学ぶことが必要だ」(p70)を参加者全員にルールとして徹底してもらう。
その上で、この参加者全員で「たくさんの発想と選択肢を考え出す拡散の局面、それらを時間をかけて徹底的に考え、話し、”醸成”する創発の局面、何が重要か、何に合意するか、次に何をするか結論を出す収束の局面」(p83)の三つの局面を繰り返しながら、ワークショップを繰り返し、内容を練り上げていく。

最初は「どうせ」「しかたない」といった消極的意見が出ていた人々にも、「そう決めつけないで、これまで集めた情報をもとに、他の可能性も考えてみませんか」という「拡散」モードでの議論をお願いする。すると、楽観的な情報を元に、「こんなことも出来るかも」「あんなことも起こりうるかも」というアイデアが色々浮かび上がる。ワークショップを開きながら、それらのアイデアを「時間をかけて徹底的に考え、話し、熟成」させるなかで、いくつかの未来予想図であるシナリオの断片が「創発」してくる。その創発された断片を整理しながら、いくつかの「起こりうるシナリオ」として、整理していく。そして、その整理された複数のシナリオを、改めて参加者全員で検討し、どのシナリオに向けて自分たちは進むべきかを考える。

このプロセスを経て、産み出された複数のシナリオには、「未来に確実に起こること」と、「未来に起こるかどうか不確実だがもっとも重要なこと」の双方が載っている。例えば、こんな風に。
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シナリオ1 この集落は、高齢化率が50%で、このまま15年後には高齢化率が70%になる。山間の集落だが、田畑の維持や獣害対策でさえ、大変な状況になる。その中で、人々には諦めムードが拡がり、要介護高齢者は入所施設への移住が進む。そして、集落維持が出来なくなり、やがて20年後には最後の住民が街場の町営住宅に移住し、200年以上の伝統のある集落に終止符を打つ。
シナリオ2 この集落は、高齢化率が50%で、このまま15年後には高齢化率が70%になる。山間の集落だが、田畑の維持や獣害対策でさえ、大変な状況になる。なんとかその状況を変えようと、週末に田畑の世話に来る、団塊の世代の集落の「子ども」たちが、移住するように働きかける。しかし、集落の昔からのしきたりや行事・役の重さに耐えかねた「子ども」達は、その重荷がある間は移り住みにくい、と消極的になる。また、町内会でも「帰ってくるなら伝統に従え、それが無理な人は無理に帰ってこなくても良い」と頑なになり、結局出戻り組は想定の半分以下になる。なんとか20年後も集落は存在しているが、その先にあるかどうかは不透明なままだ。
シナリオ3 この集落は、高齢化率が50%で、このまま15年後には高齢化率が70%になる。山間の集落だが、田畑の維持や獣害対策でさえ、大変な状況になる。今回のワークショップを通じて、集落の閉鎖的な雰囲気が、定住者や出戻り組の促進の壁になっている事に気付く。そこで、最近移り住んだ若者や、週末に帰ってくる「子ども」達も参加してもらうワークショップを開く中で、彼ら彼女らから出された、「重すぎる組や役の負担」を思い切ってバッサリ減らすことを集落一致で決める。その後、若者のアイデアにより、定住や農業での自活支援を行政の支援を受けて集落の自治組織が全面になって行い、5年後から少しずつ、移り住む住民が増えてくる。町内会長も思いきって60過ぎの「出戻り組」が引き受け、小規模多機能のデイ・ショートを集落自前で作り、集落内での雇用も産み出す。またホームページなどを使って農業やアートをしたい若者達の移住を促進し、7年後には集落待望の「赤ちゃん」が誕生する。
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この3つのシナリオをもとに、住民達がワークショップで話し合い、自分たちがどのシナリオに向けて、どう行動変容すべきか(しないでおくべきか)を、お互いが納得いくまで話し合い、次の行動に移す。
ちなみに、上記のシナリオは、僕の架空のものだが、シナリオ3については、例えば地域再生のお手本と言われる「やねだん」の取り組みで実現していることだし、「限界集落」に週末世帯がいる、というのも、山梨県内で実際に見聞きすることだし、『限界集落の真実』でも語られているリアリティである。
そして、シナリオ・プランニングの最も興味深いことは、この1~3のシナリオを、キーパーソンやステークホルダーへのヒアリング、および彼ら彼女らの集まったワークショップで分かち合い、価値観の相違を超えて、「これから起こる可能性があると思うこと」を共有するプロセスである。そこには、対立し、いがみ合った過去の歴史を乗り越え、相互にコミュニケーション出来る土台を創り上げ、価値の違いを相克する「未来への共有点」を探り出す。まちづくりや街おこしで最も苦しい部分は、一言でいってしまえばこの「価値観の相違」だが、これを乗り越えるために、お互いの価値観やこれまでのライフ・ヒストリーを否定するのではなく、「起こりうる未来」という点での価値の共有を目指す。その中で、共通の目的に向けて、1人1人がどう変わるべきか、何から始めたら良いか、を参加者全員で整理し、1人1人が納得していく。
この未来を描くプロセスの共有こそ、地域ケア会議や、課題だらけの街の再生にも、十分に使える方法論であり、部分的には僕もアドバイザーとしていくつかの自治体で仕掛けて来たことの延長戦にあるな、と思った。だからこそ、このシナリオ・プランニングは使える!と興奮しながら読み終えたのだ。いくつかの自治体で、このプロセスを試してみたい、と頭の中の妄想は既に膨らんでいる(^_^)

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。