ほんまもんのエンパワーメント論

目の覚めるような切れ味の鋭いエンパワーメント論を御恵贈頂いた。
著者の北野誠一さんは、日本の障害者運動における理論的支柱のお一人である。僕自身は大学院生の頃、指導教官の大熊由紀子さんからご紹介いただいて以来のご縁で、14年前には、お二人と共にスウェーデンでリンクビストさんのお話しを伺うという素晴らしいチャンスも頂いた。その後、北野さんのフィールドであるカリフォルニア調査に誘って頂き、その後いくつかの編著もご一緒させて頂き、博論を書いた後から30代後半までの10年以上、外弟子的に学ばせて頂いた。支給決定のあり方やパーソナルアシスタンスを学んだスウェーデン調査も、カリフォルニアの権利擁護実践調査が下敷きになった『権利擁護が支援を変える』の骨格も、北野さんがいなければ生まれることはなかった、という意味で、本当に大恩人である。
北野さん(親しみを込めてそう呼ばせて頂いている)は障害者福祉領域で数多くの書籍づくりに携わってこられた。が、実はこの本が北野さんの待望の初単著、である。これまで単著執筆より現場支援を重視してこられた北野さんが、大学教授も卒業され、やっと時間が出来てまとめられた一冊である。興味がないわけがない。この本は、支援におけるステイクホルダー論や法制度における権利擁護課題と、本人と支援者の相互エンパワーメント論が、曼荼羅のような一体化された世界として示されていて、支援の羅針盤のような本である。気になるところを、何点かピックアップしてみよう。
「本人のおもしろい人生をサポートするということは、けっしてふまじめでいい加減なストーリーなのではない。それが楽しい人生をサポートすると書いていないのは、楽しいには、安全をキープしたおぜん立てのニュアンスが感じられるからである。おもしろいということは、人間主体としての投企性の問題である。その危険性を前提とした、賭けたものがなければ、私たちの自立生活は死んでしまう。まさに一期一会の思いで・一時を生きることを、『本人と支援者の相互エンパワーメント』は意味している。」(p47)
この短い文章の中に、人を支えるとは何か、の根源的な価値が詰まっている。慈善的な福祉は、確かに「楽しい」アクティビティを利用者に提供する。でも、そこに「安全をキープしたおぜん立てのニュアンス」が含まれている限り、それは支援者にコントロールされた暮らし、を意味する。こう書くと、「安心や安全を護ることが支援者の第一の役割ではないか」「そうしないと施設のコンプライアンスが護られないのではないか」という疑問が出てくるかもしれない。
でも、北野さんが指摘しているのは、支援とは「施設のコンプライアンス」や「安心・安全」のため「だけ」ではない、という点である。一人の人間が、活き活きと生きる喜びを持って暮らすとき、そこには「おもしろさ」がある。それは、「一期一会の思いで・一時を生きる」という「運命へのチャレンジ」をしている。それが「賭け」であり、「人間主体としての投企性」なのだ。その、ほんまもんの「おもしろさ」を支援することこそが、支援者と本人が紡ぎ出すエンパワーメントという関係性における、最大の魅力なのかもしれない。
では、その時に支援者に求められる立ち位置とは、どのようなものだろうか。
「私たちが必要としているのは、『自分で何とか事態を理解・掌握して、一緒に自分らしく面白く生きてゆきたい』という本人の基本的な希求を、『本人と支援者の相互エンパワーメント関係』において展開できる、本人と支援者の面白い相互変容関係である。(略)本人は、支援専門職にその生き様を決められたり、拘束されることなく、支援者のプロとしての意思決定・表明支援を介して、ますます『自分で何とか事態を理解・掌握し』、支援者のプロとしての技術を介して、ますます『自分らしく面白く生きて』ゆくことになる。」(p95)
ここで大切なのは、支援のゴールが『自分らしく面白く生きてゆきたい』という点にある。安心安全を護る、ことは、そのための手段になれど、目的ではない。現状の支援はともすれば、上位概念にある真の目的を忘れ、「手段の自己目的化」に矮小化されてはいないか? この部分に、北野さんは最大の警鐘を鳴らしているのである。
そして、本人が「支援者のプロとしての意思決定・表明支援を介して、ますます『自分で何とか事態を理解・掌握」し、本人が「ますます『自分らしく面白く生きて』ゆく」のを間近で感じするからこそ、支援者の仕事も「面白く」なってくるのである。そういう意味では、支援の物語、とは、「本人と支援者の面白い相互変容関係」そのもの、である。ならば、ここで問われるのは、支援者が本人と共に「面白い」と思っているのか、ということである。
ここで再び考えなければならないのは、「楽しい」と「面白い」の違いである。「楽しい」というのは、受け身的な空間であっても、瞬間的には生じうるものである。だが、「面白い」というのは、極めて能動的なものである。北野さんも「おもしろいということは、人間主体としての投企性の問題」と言っている。本人も支援者も、能動的に人生に賭ける(=投企する)からこそ、その責任と役割を自発的に担うからこそ、ほんまもんの「面白さ」が生じるのである。つまり「おもしろい」を実現するためには、本人が支援者に管理や支配されないのは勿論のこと、支援者だって、施設管理者や雇用主、施設の論理に従順にならずに、そこから自由になり、本人とともに、本人が「おもしろい」と感じることに、一緒に能動的に賭ける事が出来るか、が問われている。これは、認知症高齢者の支援でも、全く同じである。
北野さんはエンパワーメントを敢えて日本語に置き換えずに用いているが、訳すとするならば、「自分らしく・人間らしく共に生きる価値と力を高めること」(p99)と整理している。一般に訳語として用いられている「能力・権限付与」には、自己責任的な臭いがするとした上で、特に重度の知的障害や認知症の人など、意思決定・表明支援が支援の重要な鍵になる人の場合はなおさらのこと、支援者と本人との「共に」の行為が必要不可欠である、と整理している。だが、その際に問われるのは、「共に」における、支援者と当事者の関係性や、権力関係構造の問題である。北野さんは、こう指摘することも忘れていない。
「支援とは、支援を必要と見なされている利用者に対する介入行為なのであって、それが本人の自己決定・自己選択と同意に基づかない場合には、それは余計なお世話であるのみならず、本人の自由な生活を抑圧する可能性のある不法行為なのである。」(p173)
支援に携わる人々の中で、自らの行為が「本人の自由な生活を抑圧する可能性のある」ことに自覚的な人は、一体どれだけいるだろう? そして、確かに北野さんが言うように、アプローチの仕方を間違えば、支援者は抑圧者になる「可能性」があるのだ。その権力関係の危険性に、どれほど自覚的か、が常に問われている。そして、アプローチの違いによって、次のどちらにもなりうる、という。
「①重度の障害者を『援助を必要とする弱者』『援助者に依存する受け身的な存在』ととらえて、『相互役割期待-成就』関係を形成すれば、まさにそのような依存者として、本人はその期待に答えてしまう危険性が高いこと
②そうではなく、重度の障害者を『意志決定・表明支援を含む支援を必要とする生活主体者』としてとらえ『相互役割期待-成就』関係を形成すれば、まさにそのような、生活主体者としての人生が、『本人と介助支援者との相互エンパワーメント関係の展開』の中で創出される可能性が高いこと」(p161)
重度の障害者は、支援者との関係性によって、依存者にも生活主体者にもなり得る存在である。その際、支援者が重度障害者とどのような「『相互役割期待-成就』関係を形成」するか、が最大の分岐点になる。意志決定・表明に支援が必要な認知症高齢者や重症心身障害者が、『援助者に依存する受け身的な存在』とならずに、『意志決定・表明支援を含む支援を必要とする生活主体者』としてエンパワーメントされていくためには、関わる支援者の志向性や、障害者との関係性自体が、大きく問われる。そこで、北野さんは「権力関係の自覚化」の重要性を指摘する。
「自己実現等でなく、エンパワーメントという言葉を使用するのは、私たちの概念形成の前提に、ステイクホルダー間の利害・利益という力(パワー)の相克があるからだ。きれいごとで何とかなるように見える世界は、基本的にパターナリズムや力(パワー)のイネルティア(惰性・なれあい)に安易に依存した世界だと思って、まず間違いない。」(p95)
実に、実にシャープな分析である。支援者と支援対象者、あるいはサービスを求める当事者と支給決定の主体である行政、は、異なるステイクホルダーであり、異なる「利害・利益という力(パワー)の相克がある」。この歴然とした前提に目を向けることなく、「きれいごとで何とかなるように見える世界は、基本的にパターナリズムや力(パワー)のイネルティア(惰性・なれあい)に安易に依存した世界だと思って、まず間違いない」とまで言い切られる。だからこそ、異なるステイクホルダー間の、特にパターナリズムやなれあいの「犠牲者」になりやすい、援助対象者やサービス受給者のエンパワーメントこそが、必要不可欠だ、というのである。ここには、当事者間によるセルフアドボカシーなども、当然に含まれてくるだろう。本人の選択や決定を重視しない介入行為に毅然と「NO!」を突きつけるためには、「ステークホルダーA(サービス利用者)のもの申す市民性・当事者性や市民活動・当事者活動」(p53)としてのセルフヘルプ(自助)グループの存在が必要不可欠である。だが、現在の自助・互助論に対する北野さんの評価も、非常に厳しい。少し長い引用となる。
「私は、アメリカ、カナダ、スウェーデン、イギリス等に調査に行ったが、地縁関係における近隣の助け合い活動を強調している地域にはお目にかからなかった。むしろ、干渉し合わない個人主義を前提とした近隣関係の下での、地域社会内外で、様々な興味・関心・生きづらさを同じくする仲間活動としての『互助』のイメージである。
今後ますます、スマートフォンやパソコン等で様々な興味・関心・生きづらさを共有する仲間とのソーシャルネットワーキングを行う団塊の世代が高齢化してゆくとすれば、『互助』のイメージは、様々な興味・関心・生きづらさを同じくする仲間活動と言えるだろう。
そもそも、『自助』とは、可能な限り地域での自らの生き方・生き様を自己決定・選択してゆくことを目指す、各種のエンパワーメント戦略を意味し、さらにセルフヘルプグループ(SHG)のところで見たように、同じ生きづらさ・困難・障害・病気等をもつ仲間(ピア)の相互支援である『自助-互助』を意味する。
繰り返すが、欧米でも、また我が国のこれからを想定しても、近所の助け合いとしての『互助』より、干渉し合わない個人主義を前提とした近隣関係の下で、様々な興味・関心・生きづらさを同じくする仲間活動としての『互助』が重要となろう。」(p54)
最近の地域包括ケアシステムの議論に、文字通り正面から異議を唱える指摘である。だが、この指摘も、よくわかる。確かに、僕もスウェーデンに半年住んだが、「地縁関係における近隣の助け合い活動を強調している地域にはお目にかからなかった」。また、スウェーデンでのボランティア活動についてもちょこっと調べた事があるが、介助や見守りなどの直接ケアや支援活動よりも、「様々な興味・関心・生きづらさを同じくする仲間活動としての『互助』」活動が中心だった。例えば障害者領域でいうならば、サッカーやヨットなどを障害者と共に楽しむボランティア団体は沢山あっても、障害者の直接的支援は行政がする仕事、と公的責任をはっきり打ち出していたことを思い出す。
また、北野さんは団塊世代まっただ中の1950年生まれだが、団塊の世代が文字通り克服してきたのは、ムラ社会的な共同体の同調・従属圧力であった。繰り返し「干渉し合わない個人主義」と書いているのは、「干渉する集団主義」としての共同体にウンザリしてきた記憶が古くないからだ。そして、その「干渉する集団主義」には、あの日本型福祉の「亡霊」が見事にこだまする。
ご存じの方も多いと思うが、オイルショック以後の1970年代後半から80年代にかけて政府与党によって提唱された日本型福祉とは、欧米型の福祉国家論を切り捨てた上で、「個人の自助努力」「家族・近隣の相互扶助」「民間活力の活用」「ボランティアの推進」などを推進し、上記が機能しない場合の補完機能としての公的責任、という「残余主義的公助」の発想である。スウェーデンでは老人の自殺が多い、などという嘘をまことしやかに喧伝し、「干渉する集団主義」としてのムラ社会の中で、主として嫁や姑という女性がケア労働を無償で行えばよい、という発想が、この日本型福祉社会論の中には伏流している。そして、今の地域包括ケアシステムにおいても、特に「地域での支え合い」という視点で互助を定義する時に、この日本型福祉社会論の「亡霊」が息づいているのではないか、という北野さんの警鐘である。これには、この領域での実践に取り組む際の大切なヒントが隠されている。
「干渉し合わない個人主義を前提とした近隣関係の下での、地域社会内外で、様々な興味・関心・生きづらさを同じくする仲間活動としての『互助』というイメージ」という時、ムラ社会的共同体が個人に干渉して1人1人の主体性を潰すことがない、という前提がある。特に、一見すると声の弱い障害者や高齢者などは、この部分が護られないと、「手の掛かる人は入所施設か精神病院で面倒を見よう」という風潮も、「亡霊」のように、何度も蒸し返される。ここは、残余型ではなく、生存権保障として、ちゃんと「公助」が1人1人の生活保障をすべきである。この部分に「互助」や「自助」を担わせてはならない。
その「公助」による生活支援の保障の上で、「様々な興味・関心・生きづらさを同じくする仲間活動」としての「互助」が展開されるべきだ、というのが北野さんの主張である。その前提がないと、「可能な限り地域での自らの生き方・生き様を自己決定・選択してゆくことを目指す、各種のエンパワーメント戦略」としての「自助」は成り立たない。「自助努力」とは、「公助」の放棄でも、「互助」への丸投げでもない。「公助」という土台がしっかりしているからこそ、「エンパワーメント戦略」としての「自助」や、「様々な興味・関心・生きづらさを同じくする仲間活動」としての「互助」が活き活きしたものになるのだ。この部分が、今の日本では、特に行政や企業という「金を出す側」のステークホルダーの意向によって本末転倒なものになってはいないか、というのが、北野さんの問いかけである。
「あまりに介護保険制度の維持に汲々とする余り、『生活支援』なるものの、重要性と専門性を見誤っていると言われても仕方あるまい」(p58)
同書の中でも触れられているが、大学教員を早期退職して、この数年間、お母様の介護をしてこられた経験にも裏打ちされた北野さんの指摘は、誠に深く、重い。地域包括ケアシステムの展開のお手伝いをしている僕自身としても、何のための自助・互助・共助・公助なのか、をもう一度、原点に戻って考え直すきっかけになる一冊であった。「制度の維持に汲々とする」ことが、「互助」活動のインセンティブになってはならない。すると、団塊世代が必死になって抜け出してきた「干渉する・同調圧力の強いムラ社会」が復活するだけだ。そうではなく、同じ価値観や志向性を持つ仲間との協働活動としての「互助」に関わる中で、「生活主体者」としての「エンパワーメント」がなされ、「自助」が豊かになるはずである。「公助」はそのために、ちゃんと責任と役割を果たすべきで、介護保険という「共助」(僕はこれを「共助」と言うのは好きではないし、拙著でもそう書いたが)を護るためのみの、「互助」「自助」の方向付けは、「反エンパワーメント実践」につながりうる。最後に、北野さんの「反エンパワーメント」の定義をご紹介して、本論を閉じたい。
「その人間関係・社会関係において、他人や社会に仕切られ、自分自身をコントロールされてしまっているというミジメな実感や実態」(p164)
「反エンパワーメント」は認知症や重度の障害を持っている個人への支援というミクロ関係だけでなく、地域の中での「見守り支援」というメゾ・マクロ関係においても、残念ながら十分に起こり得ることである。そして、そのような日本型福祉の「亡霊」を地域包括「ケア」という言葉で表現しても、「きれいごとで何とかなるように見える世界」の背後には、「パターナリズムや力(パワー)のイネルティア(惰性・なれあい)に安易に依存した世界」が存在している。だからこそ、「ケア」から「エンパワーメント」への枠組み転換が必要不可欠なのだ。それを、長々書きながら、改めて強く感じた一冊であった。
追伸:エンパワーメント支援の迫力やリアリティから読み始めたい人は、3章以後を先に読んで、最後まで読み終わってから1章2章を読みすすすめた方が、頭に入りやすいかも、しれません。

自律性を支援するには

昨日、ゼミ生の皆さんと飲み会だった。彼ら彼女らの語りに耳を傾けながら、ある一冊の本を思い出していた。

「自律的であることは、自己と一致した行動をすることを意味する。言いかえれば、自由に自発的に行動することである。自律的であるとき、その人はほんとうにしたいことをしている。興味をもって没頭していると感じている。たしかな自分から発した行動なので、それは偽りのない自分である。統制されているときはそれとは対照的に、圧力をかけられて行動していることを意味する。統制されているとき、その行動を受け入れられているとは感じられない。そういう行動は自己の表現ではない。なぜなら、統制に自己が従属しているからである。まさに疎外された状態だと言ってよい。統制されたり疎外されたりすることなく、自律した偽りのない自分であることが、生活のあらゆる場面で大切だ。」(デシ&フラスト『人を伸ばす力-内発と自律のすすめ』新曜社、p3)
僕の3,4年のゼミは、自分の頭で考えること、を大前提にしているゼミであり、自発的で、議論にも積極的な学生達のあつまりだ。そして、少なからぬゼミ生が、これまでいわゆる「よい子」であった、と思われる。ただ、「よい子」というのは、世間の基準における評価が高い、ということと、しばしば一致している。すると、世間の基準に自分を合わせてきた、という意味での評価の高さは、下手をすれば「親や周りの人々、世間の『統制』を受け入れてきた」ということにつながりかねない。それが気になって、飲み会の時にそれとなく聞いてみると、ぽろぽろ目に涙を浮かべるゼミ生も、やっぱり出てくる。そんな折に、ちょうど読んでいた本の一節を思い出したのだ。
内発的動機付け」研究の権威である社会心理学者のエドワード・デシの考えを、ニューヨークタイムズ元編集者がわかりやすく伝える形で整理した共著には、「支援する」側が学ぶべき至言にあふれている。冒頭における「自律」と「統制」の」違いも、その一つ。ゼミ生だけでなく、いわゆる「よい子」の中には、これまで「統制に自己が従属している」人生を送ってきた人も少なくない。ただ、大学生となり、親や教師、コーチや彼氏・彼女の言うことに「違和感」を感じ始めたとき、僕のゼミの門をくぐる。それは、何だかオカシイ、という不全感を感じ始めているからかも、しれない。そういうゼミ生達をこれまで何人もみてきた。そして、彼ら彼女らの内在的論理を一言で表現するのが、先の表現を用いるならば、「統制」や「疎外」された状態、である。
一方で、ゼミ生のなかには、そもそも最初から我が道をスクスク歩んでいる学生の一群もいる。何だか奔放にやっているようにみえるが、発表やコメントをさせると、すごくシャープで切れの良い発言をしてくれる。彼らの言動を見ていると、「自分から発した行動なので、それは偽りのない自分である」と思える。他方、涙を見せる学生とは、これまでの行動に、自己評価ではなく、他者評価の軸が強く影響している、と思われる場合が少なくない。それは、「自己と一致した行動」ではなく、「他者の評価と一致させる行動」である。しかし、原則的に、人は他者の意見を完全には理解できない。ということは、「他者の評価と一致させる」というのは、実は到達不可能な幻想であり、その幻想を追い求める、ということは、いつまで経っても「見果てぬ夢」である。「見果てぬ夢」を追い求めるうちに、いつのまにか自己は他者に統制されたり、あるいは「自分のほんとうにしたいこと」から疎外され、しぼんでいく。そんなときに、僕のゼミで、スクスク歩む「自律的」な仲間と出会うことは、一種の衝撃であるようだ。かつて、「僕は自分のことがわからなくなりました」と混乱したゼミ生もいたが、これは、統制・疎外された状態から、ほんまもんの「自律」に移行する「移行期混乱」なのかもしれない。
ただ、それに気づいても、変容は簡単ではない。
「変化への出発点は自分を受け入れ、自分の内的世界に関心をもつことである。たとえば、自分はなぜ食べ過ぎるのか、自分はなぜ妻に向かって怒鳴るのか、自分はなぜ子どもと一緒に時間を過ごさないのか、自分はなぜこれほどタバコに依存しているのか、などと考えることである。もともと、何年も、何十年も以前にその行動を獲得したのは、その行動が困難な状況に対処するための最良の方法であったからだと思われる。何かの行動をする理由をみつけるのは、出発点としては有益であるが、非難をする機会になってはならない。変化の過程は、人が非適応的な行動をする理由に気づくことで促進されると同様、その行動について自分自身や他者を非難することによって妨げられるのである。」(同上、p266-267)
僕自身も、以前はしばしば「食べ過ぎ」て今より10キロ以上太っていたから、よくわかる。『枠組み外しの旅』でも書いたが、その肥満化のプロセスは、何者でもなかった大学院生から、収入の乏しい非常勤講師を経て、大学教員として組織に順応するに至る、20代から30代中盤までの10年以上の間、自分のストレスという「困難な状況に対処するための最良の方法」であった。それは、自律的、というより、ある種の統制された状況であった。「枠組み外しの旅」を書くきっかけとなった東日本大震災後の混乱の中で、僕自身はある種の崩壊の危機にもいた。そして、「世間の目」に統制されり反発を覚えたり、そこで疎外されるよりは、「内的世界に関心」を持とうという追い詰められた動機によって、自分自身を呪縛する囚われから自由になるプロセスであった。
一方、ゼミ生達をみていると、その統制や反発、疎外に気づいているものの、「その行動について自分自身や他者を非難することによって妨げられる」状況に陥っている人も、いるような気がする。低い自己肯定感が前提となって、「そうなってしまうのは、私が悪いからだ」と決めつけてしまい、自分自身への非難を行う事で、悪循環に陥ってしまうのである。すると、支援する側に求められるのは、その悪循環構造からの離脱支援である。これは、言うは易く行うは難し、である。だが、同書の中には、そのヒントも載せられている。
「われわれのほんとうの仕事は、彼らが自分自身の意思で自主的に活動に取り組むよう促すことであり、それによって将来、われわれが側についていて援助の手をさしのべなくても、彼らが自由に活動できるようにすることである。」
(p124)
ここはすごく大切な部分である。支援をする両親や教師、管理職や支援者は、支援と支配を、時として無自覚に混同しやすい。自律を促すのではなく、統制の管理下におきたがる。そこに対して反抗をしてくる対象者には、より強い統制や圧制によって、無理矢理自分の支配下におこうとする。これは、自律の芽を摘む行為そのもの、である。
ほんまもんの自律支援とは、「彼らが自分自身の意思で自主的に活動に取り組むよう促すこと」である。今は支援の手がないとうまく立ち上がれないゼミ生達も、疎外や統制された状況でなければ、つまり「その行動について自分自身や他者を非難すること」のない、安心できる環境であれば、「非適応的な行動をする理由に気づくことで」、自分から変わる事が「促進」される。これはつまり、「将来、われわれが側についていて援助の手をさしのべなくても、彼らが自由に活動できるようにすること」に直結する。
この変化を、自律に向けた第一歩と喜べるか、自らの支配・統制下からの離脱と恐れるか? それは、実は支援をさしのべる側が支配者になっていないかどうか、の試金石でもあるのだ。
「真の自己は内発的自己から始まる。すなわちわれわれの生得的興味と潜在能力、そして新しく経験したことがらを統合しようとする、生命体としての傾向が出発点なのである。真の自己が洗練されていくにつれて、人はより大きな責任感を発展させていく。自律、有能さ、関係性に対する欲求から始まって、人は、他者に何かをしてあげようとする意欲や、何かが必要とされているかに応じて行動しようとする意欲を発達させる。こうした価値や行動を統合することによって、より責任感を強め、同時に、個人的自由の感覚をも保ち続けることができるのである。」(p155-156)
時に自己評価の低い学生と出会うこともある。その際、教師タケバタに求められているのは、彼ら彼女らの「内発的自己」を信じて、それが促進するのを励まし、その芽がスクスクと伸びるのを応援することである。自分の「統制」に応じた時だけ評価する「愛情留保的アプローチ」(p156)ではなく、「個人的自由の感覚をも保ち続ける」ことができるように、応援しつづけることなのかもしれない。それが、統制や疎外、反発などで、低い自己評価状態という悪循環に陥っている学生たちが、その悪循環から脱出する一つのきっかけになるのかも、しれない。
そう思えば、このゼミ生とのやりとりは、僕に実に多くの何かを気づかせてもらえる大切な機会であり、そのゼミ生の自律性が深まることを通じて、僕自身の自由や自発性が促進される、という意味で、相互エンパワーメントの世界なのだな、と実感した。そんな飲み会であった。

「知性」って、ワクワクすること

この連休中は、前半が風邪を引いて本を読みながらダラダラすごし、後半は原稿を書いていた。なので、比較的いろんなジャンルの本に目を通していた。その中で、『日本の反知性主義』(内田樹編、晶文社)を読んでいると、ワクワクする表現が沢山出てくる。反知性主義に関して、ではない。「反知性主義」を語る、ということは、「知性とは何か?」を語ることでもある。エッジの効いたオモロイ著者達が、「知性とはなにか?」を語るのを読んでいると、こちらもワクワクしてくる。まずは編者の内田先生の定義から。

「『自分はそれについてはよく知らない』と涼しく認める人は『自説に固執する』ということがない。他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて『得心がいったか』『腑に落ちたか』『気持ちが片付いたか』どうかを自分の内側をみつめて判断する。そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に変えることができる人を私は『知性的な人』だとみなすことにしている。その人においては知性が活発に機能しているように私には思われる。そのような人たちは単に新たな知識や情報を加算しているのではなく、自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替えているからである。知性とはそういう知の自己刷新のことを言うのだろうと私は思っている。」(内田樹、p21)
大学院生の頃、大熊一夫師匠に教わった最も大切なことの一つが「分かったふりをしない・知らないことは知らないと言う」ということであった。「わかったふり」をすることで、目の前の問題を問題として認識出来なくなる、と。ギリギリと考え続けるためには、他人の説明や本を鵜呑みにせず、目の前の事象がなぜ生じているのか、について、「なぜそうなのか?」をギリギリ考え続けることが必要不可欠だ、と学んだ。
これを内田流の表現で言い換えるなら、「自説に固執」しない、ということだ。「これも、あれも知っている!」と知識のストックの多さを自慢するのは、所詮「クイズ王」に過ぎない。残念ながら、どんなクイズ王でも、スマホの検索機能には、ストックの面では勝てない。インターネット時代においては特に、知識の多寡ではなく、「自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替え」る、という意味での、「知の自己刷新」こそ、「知性」そのものである。
そして、拙著『枠組み外しの旅』を書くプロセス自体も、自慢げに響くかもしれないが、「自分の知的な枠組みそのものを作り替え」る営みであった。とにかく、安易に「わかったふり」をしたくなかった。様々な著者や、自分が過去に書いた文章と対話しながら、「『得心がいったか』『腑に落ちたか』『気持ちが片付いたか』どうかを自分の内側をみつめて判断する」作業を、虚心坦懐に行ってきた。時には学者のルールや世間の常識から逸脱しているように思えることでも、自分の内側と対話を重ね、「知的枠組みを作り替える」という意味での「知の自己刷新」に必死になって取り組んで来た。その中で、風穴をあける体験が出来たのではないか、と感じている。そして、これもおこがましい表現かもしれないが、その「知の自己刷新」の体験こそが、「ギリギリ考え抜く」ことそのもの、なのかもしれない。
次は、作家の高橋源一郎さんの定義。
「『歪み』を見つけること、そして、その『歪み』を描くこと。それが『知性』だ。『歪み』が見えることを、『知性』がある、っていうんじゃないかな。」(高橋源一郎、p124)
内田・高橋定義に共通するのは、「知性」を感覚的言語で表現している、という点。IQや情報のストック、あるいは情報処理能力をさして、「知性」と述べてはいない点である。高橋さんは、「知性」を「『歪み』の認識」として表現している。これは「多数派が作る社会の『歪み』」を認識することだ、とも述べている。
例えば精神病院って、「多数派が作る社会の『歪み』」の象徴的空間、かもしれない。そこに排除されること、そこから出られないことが何を意味するのか。なぜ日本では30万人以上の人が、その空間に未だにいるのか。それを「必要悪だ」「しかたない」「受け皿がない」と分かったふりをせず、なぜそうなのか、本当に仕方ないのか、を考え続けることが「歪み」を見つけることにつながる。また、私たちが、「どうせ」「しかたない」と見ないことにしている・蓋をしていることの中にこそ、この社会の「歪み」が多く内包されている。沖縄の基地移設問題や、原発再稼働問題にしても、「わかったふり」をせず、「多数派が作る社会の『歪み』」をどう自分事として認識するか、が「知性」には問われている。
もう一人、今度は映画監督の想田和弘さん。
「知性とは、自分の頭で吟味し、疑い、熟考する能力や態度のことである。それは『結論先にありき』の予定調和や、紋切り型でお仕着せの思考を拒絶する。知性の発動に『ショートカット(近道)』はあり得ない。それがゆえに、知性が充分に働くには時間と労力が必要である。同時に、時間と労力をかけて考えても考えても、なんの地平も開けず、したがって何の結果も得られない可能性もある。そういう『空振りのリスク』を潔く引き受け、知的投資をドブに捨てる覚悟の上で、それでも誠実に”発見”や”気づき”を希求すること。それが真に『知的な態度』なのではないか、と思う。」(想田和弘、p243-244)
これも内田先生の受け売りになるが、「知性」とは、市場原理主義のタームとはだいぶ違う。四半期決算で回収できないもの、それが「知性」である。つまり「時間と労力が必要」なのである。しかも、時間と労力を投資することが、見返りやリターンに直結するとは限らない。「そういう『空振りのリスク』を潔く引き受け、知的投資をドブに捨てる覚悟の上で、それでも誠実に”発見”や”気づき”を希求すること」という部分は、すごくわかる。「発見」や「気づき」は、「想定外」のものであるから、だ。
市場主義や会社経営においては、「これだけ投資したら、このようなリターンがあります。リスク分散はこうやっています」というロジックは、説明責任として必要不可欠なことである。なるべく、「想定内」にすることが求められる世界である。それでも、株価の暴落や敵対的買収など、「想定外」の事態は起こる。しかし、一般的には「想定内」で考える事が、クールなことだ、と誤解されがちである。でも、ほんまもんの事業も投資も、そして学びも、実は「『結論先にありき』の予定調和」ではない。それは複雑系の世界であり、予測可能性とは、安冨先生の言葉を借りれば「計算量爆発」の帰結に陥るからである。(さらに言えば、本当に「知性」のある経営者なら、「想定外」の事態に心が開かれている柔軟性がある)
つまり、「知性の発動に『ショートカット(近道)』はあり得ない」のである。「こうなるはずだ」と「自説に固執」せず、「多数派が言うことの歪み」に自覚的になりながら、「時間と労力」をかけて、手を抜かずに「自分の頭で吟味し、疑い、熟考する」こと、それが「知的な態度」なのである。テキパキと処理能力を高めるよりも、時間がかかっても、ウロウロしながら、「空振りのリスク」を潔く引き受けながら、それでも「歪み」に敏感になり、自分の身体が「腑に落ちる」まで「ギリギリ」考え続けること。それが「知性」なのだろう。そして、こういう営みをする中で、自らの「知の枠組み」の「作り替え」が少しずつ、生じるのだと思う。
僕自身は、多くの先達から学び、「知の枠組み」の「作り替え」作業の面白さや、ワクワクさ、に気付いてしまった。だから、予定調和や「想定内」の世界に身を置くことは出来ず、「空振りのリスク」を覚悟の上で、「知性」の世界を希求する旅に出続けている。
そう、「知性」って、お高くとまることでも権威主義的に小難しい知識をひけらかすことでもない。もっとワクワクするし、イノベーティブなことなのだ。そう思うと、「反知性主義」って、ずいぶんつまんなさそうだよなぁ、とつくづく感じてしまう。でも、他人をとやかく批判している暇はない。自分自身の「知的枠組みの自己刷新」を目指して、この連休もギリギリ考え続けたい、と思う。