勅使河原真衣さんは新著をバカバカ出しておられる。前回、書評ブログ(「ダメなあいつ」は絶対ダメ!)を書いたのはちょうど1ヶ月前だったのだが、今回は別の本の書評ブログを書く。
「職場の傷つきを個人の『能力』の問題にすると、どんな『いいこと』があるのか?
1,組織の責任回避:組織が責任を持って解決すべき問題にならないですむ。
2,『問題社員』の排除:特定の<弱い><できの悪い>社員を『評価・処遇』することで実質的に排除できる。
3,無限に努力する社員の創出:『問題社員』にならずに『活躍』しつづけるためにはがんばらねばならないという認識を植えつけることができる。」
(勅使河原真衣『職場で傷つく』大和書房 p126)
この表記をみて、首がもげるほどうなづいた、だけでなく、ちょうど20年前のことを思い出していた。
20年前、博士号は取れたけど就職が全然決まらず、50の大学に公募書類を出して落ち続けていた時、それでも運良く調査研究の資金を得られて、とある施設に入り込んで調査していた。その施設は業界の人が名前を聞けば誰でも知っている有名な施設で、その支援内容は全国的にも知られており、創設者はカリスマ支援者と言われていた。その施設で、なんか職員間の関係性がよくないなぁ、と思い始めていたので、20名くらいいた支援職員全員にインタビュー調査をしてみたのだ。すると、次の7つのポイントが浮かび上がった。(地域移行後の障害者地域自立生活を支えるスタッフ教育のあり方に関する基盤的研究)
- 方向性・速度・やる気のズレ
- 職員の連携のなさがもたらすもの
- 仕事や会議の非効率的・非効果的運営
- 職人芸ではまわりきらない
- 責任の所在の不明確さ
- 部下の育成と自己変革の失敗
- 自ら伸びていくことの失敗
この調査をする中で、支援対象者に熱意を持って関わるカリスマ職員が、実は同僚にはめちゃくちゃ厳しい、ということも見えてきた。「自分と同じ給料をもらっているのに(上司なら自分より高い給料なのに)これくらいも出来ないなんて」という声を何度も聞いた。でも、そもそもその上司も、現場支援に愛着があり、管理職としてのトレーニングを受けていないので、どのように責任を取ってよいのかわからない。法人内での人事異動もあるのだが、個々人の機能や持ち味を見極めた人事異動ではないので、「『問題社員』の排除」や「組織の責任回避」的な人事異動になってしまう。だからこそ、結果としてこの組織では「無限に努力する社員の創出」につながり、それが出来ない職員は「能力がない」「やる気がない」と評価されていた。
ただ、この法人も創設者も、みんな「いい人」だったので、上記の報告書に誠実に向き合ってくれた。調査結果をウェブ公開してもいい、と言ってくれたし、この内容について向き合いたいから、法人運営の組織改善の手伝いをしてほしい、とも言われた。なので、この報告書を書き上げた後、数年レベルで法人内でのコミュニケーション改善のお手伝いをしてみた。どうやっていいのかわからないので、ファシリテーションや経営学、職場改善など様々な本を付け刃で読んで、色々会議の在り方を変えようとしたのだが・・・やがて尻すぼみになってしまった。
その時に何が間違っていたのかわからずモヤモヤしたけど、20年後、勅使河原さんの本を読んで図星に書いてあった。
「『職場の傷つき』という本来関係論的な問題も、個人の『コミュ力』の問題にすり替える土俵は整い、皆がうまくやれるよう組織が配慮することは何ら要請されず、個人だけが『うまくやること』を『コミュ力』として、絶えず求められる。」(p136)
20年前のぼくは、さすがに個人の「コミュ力」の問題にすり替えてはいなかった。でも、職場内のでコミュニケーション不全の問題とすり替えていて、その背後に潜んでいた「『職場の傷つき』という本来関係論的な問題」という構造上の問題に、目を向けることが出来なかったのだ。そして、その背景に「能力主義」の問題があるなんて、当時は思いも寄らなかった。
「能力主義はなぜ人を傷つけるのか?
1,断定:本来揺れ動く状態なのに、『あの人は優秀』『あなたが能力が低い』と言い切ってしまうから。
2,他者比較:『○○さんはできているのにあなたはできていない』という無限の背比べ競争を正当化するから。
3,序列化:勝った人はまた勝つために競争し、負けた人も今度は勝てるように競争し、1つでも上位に行きたいと思わせるエンドレスなしくみをつくるから。」(p146)
20年前に向き合ったその法人は、生産性がない、と言われかねない「より集中的な支援が必要な障害者」を一人の生活者として捉え、入所施設で丸抱えするのではなく、地域の中で主体的に生きていけるように支援する、というほんまもんの支援が出来ている老舗法人だった。その意味では、支援対象者に対しては能力主義的なメガネを一切かけてはいなかった。
だが、勅使河原さんの文章を読んで、やっぱりと気づいてしまったのだ。僕がヒアリングした時も、『あの人は優秀』『あなたが能力が低い』という断定が、そこかしこに法人内を漂っていた。また、『○○さんはできているのにあなたはできていない』という他者比較も言葉には出さないけれど、でも実際には漏れ出ていた。職人的に徹底して仕事をしている人も、今から思えば「序列化」のなかで「エンドレス」な戦いをしていたのかもしれない。そういう意味で、支援者間での能力主義は、残念ながら蔓延していたし、違和感を持っていたぼく自身も、それが職場内での能力主義的な問題である、と意識化・自覚化できなかった。ましてや「職場の傷つき」にまで、アプローチできなかったのだ。だからこそ、組織開発のプロである勅使河原さんのこの本は、圧倒的迫力をもって、僕に迫っていた。20年前に見えていなかったのは、このことだったのか、と。
そこで勅使河原さんは解像度の高い整理をしてくれる。
「こうした事案は、『被害者・加害者』のような二項対立的な図式で語りがちかもしれませんが、『正しい・間違っている』でもなければ、『良い・悪い』でも語り尽くせないのです。ただただ、ある状況で、お互いに見えている世界・認識が違う、ということです。その状況で、お互いがかけているメガネが違うことを意識せず、誤って次のことに盲進していくのが、いわゆる『トラブル(傷つき)』の状態といえます。」(p166)
私たちは二項対立で考えると、思考が楽なので、ついついそうなりやすい。誰が被害者か、誰が正しくて、何が悪いか。そうやって決めつけることで、「頑張っている自分は悪くない、悪いのは怠けているあいつだ!」と自己正当化しやすい。その一方、「ただただ、ある状況で、お互いに見えている世界・認識が違う」というメガネの掛け替えは、理論的にはわかるけど、問題の当事者になってしまうと、それは受け入れにくい。「あいつにもあいつなりの合理性がある、と認めることは、あの人の努力の足りなさを甘やかすだけではないか、それを許していいのか。僕はこんなに頑張っているのに・・・」。そうなってしまいやすい。
この堂々巡りから脱するためには、どうすればよいのか? 勅使河原さんは、それを自分の組織で考えるためのヒントを、以下のように提示している。
・今どんな人がいて、どんな「機能」を持ち寄り、目標に近づくことができそうか?
・逆にどの「機能」は担える人が見当たらず、穴ができていそうか?
・それを繕うには、その「機能」を外から探すのか?
・今いる人員の中で、「機能」を拡張させられそうな人がいないかどうか?(p244)
彼女は組織が職務上必要としている「機能」を、個人の「能力」の話にすり替えることで、「職場で傷つく」が生まれるとも指摘している(p203)。ということは、職場の機能の問題は、個人の「能力」云々にすり替えず、職場の関係性の問題として、職場が引き受けるべきであり、個人を責めてはならない、というこだ。その上で、職場が「機能不全」を起こした時に、誰が足を引っ張っているか、と問題の個人化・悪魔化を行い、誰かを排除すると、無限ループに陥る。それを回避するには、人ではなく「機能」にフォーカスせよ、と。そして「機能」が上手く噛み合うように、組織をチューニングし続けることが大切だ、と彼女は指摘している。「職場で何らかの組み合わせの不整合が出ている」ならば、「噛み合わせの悪いところ」を発見し、「それは組み合わせでどこまで変えていけそうか?」をすりあわせるしかない、と。(p262-263)
僕は20年前、これは全く分かっていなかった。現場の組織に関わったこともないから、無理もない。でも、その後20年、上記の報告書を見たいくつもの社会福祉法人の中堅・幹部職員から、「うちの法人内の問題・ゴタゴタ・歪み・・・を図星で指揮されている」と言われた。そして、実際複数の法人の組織改革のお手伝いを、それこそ見よう見まねでしてきた。その時この本があったら、と悔やまれてならないし、これからそういう話が舞い込んだ時は、「幹部研修で『職場で傷つく』を読んだ上で、モヤモヤ対話してみませんか?」と提案することが出来そうだ。
そういう意味で、20年間モヤモヤ考え続け、答えの出なかった問いに、大きなヒントを与えてくれる一冊だった。