終わらない「死亡退院」

一年前、単科精神科病院である東京の滝山病院での虐待事件が起こった際、ブログでも論評をした。先月末、その続編のETV特集であり、やっと今日録画を見た。事前に滝山病院からの退院支援に取り組む弁護士で精神保健福祉士の相原さんが、「この映像はかなり内容が複雑だと思います」とツイートしていたので、どういう難しさなのだろう、と思って見た。見て思ったのは、確かにわかりにくよなぁ、と思う一方で、この構造を描かない限り、精神科病院の虐待はなくならない、と改めて思った。

映像や相原さんの解説に屋上屋を架さないために、違う視点でこの映像からわかることを述べてみよう。一つは、精神障害者が「二級市民」として劣等処遇されている現実、二つ目は医師の性善説と裁量権が原因究明の障害になり続けていること、そして三つ目は国の無責任状態と民間精神病院の相互依存体質である。

正直に申し上げると、日本の精神障害者は市民権や基本的人権が剥奪された人間だと思う。それは以前のブログでも書いたことである。なぜそうなのか。映像では、滝山病院には透析が必要な患者で精神疾患がある人=合併症患者が沢山入院している、と述べられていた。そして、透析患者だけでなく癌や他の疾病であっても、精神疾患を持っている患者は、他科の入院が拒否される場合が少なくない。だからこそ、「身体症状との合併症で行き場のない患者」が滝山病院を頼りにして、虐待から一年後も、未だに数十人の入院患者がいるのである。

ここには根深い差別が存在している。そもそも、精神疾患を持つから、普通の透析病院で見れない、というのは、理由にはならない。それって、糖尿病だから癌患者は受け入れない、というのがあり得ないのと共通である。でも精神疾患はそれが現実に赦されてしまっている。これは、医療者の中にある精神障害者差別であり、精神障害者は一般市民と区別しても良い、という意味で、二級市民扱いなのである。それが赦されてしまっている状況がそもそも問題である。

いやいや、精神疾患の専門性がない一般科では、精神疾患と透析など他科との合併症治療は無理だ、という論理も成り立つ。だが、それは精神疾患が医療的に治療可能だ、という前提に基づく。しかし、斎藤環さんも精神疾患にはバイオマーカーがないので、生物学的精神医療の前提は崩れた、と述べている。生物学的精神医学の特性が際立つなら、確かに精神科が受け皿にならざるを得ない。でも、精神症状に関して生物学的な治療が前提とされないなら、生きる苦悩が最大化した状態、と整理できる。そして、そういう状態で「苦しいこと」を抱えている人が透析患者でもある、とするなら、そこにどう寄りそうか、が透析治療の専門医にも求められる。さらにいうと、糖尿病ゆえに透析になる人は、生きる苦悩が最大化してそうなる、とするなら、実は透析治療においても、生物学的治療だけでなく、心理・社会的支援が求められるはずなのだ。その点が全く欠けている。それは精神障害者を、普通の市民として認めず、二級市民として扱うことを、この社会が赦しているから生じている現象でもある、と言えそうだ。

ちなみに、生物学的治療だけでなく、心理・社会的支援が必要だ、というのは、プライマリーケアの世界の卓越した書籍(『「卓越したジェネラリスト診療」入門』)でも力説されている。

二つ目の、医師の性善説が原因究明の障害になり続けていることについて。番組の中では、カルテ開示をした12人の患者のうち、7人が褥瘡があり、うち4人は死亡と褥瘡との因果関係がある、と他の医師に指摘された点である。褥瘡はスウェーデンは虐待の大問題として取り上げられるが、日本ではそういう指摘はなされない。不適切なケアの結果としての褥瘡だとスウェーデンでは考えられるが、滝山病院では本人の医療的状態として捉えられ、医療や福祉の怠慢とは行政には指摘されていない。

この点に関連して、滝山病院の朝倉院長が以前経営していた朝倉病院における患者虐待事件に関して22年前に書いた論文の内容が、残念ながら現在でも活かされてしまう。院生の時に書いたこの論文を引用してみる。

「医療監視.病院実地指導とも、「犯罪捜査のために認められたものと解釈してはならない」ため、強制力を持たない「調査」になる。一方「犯罪捜査」をするはずの警察は、これらの医療問題にたいしては「医師の裁量権」と「医療の専門性」を理由に通常踏み込んだ捜査はしない。すると現実には、3事件に象徴されるように、医療行為については医療監視や病院実地指導による厳しい「調査」がなされていないため、いかに犯罪性が高いと思われる医療行為であっても、警察などの「犯罪捜査」機関は手も足もでないのである。これでは、精神病院における不適切な医療行為を放置したままである、と言っても過言ではないのではなかろうか。」

22年前の論文で書いたことが全く今も通用する、というのは、論文書きとしては普遍性があることを書けて嬉しいはず、なのだが、この被害実態が全く変わっていないのは、本当に悲しい限りだ。

映像の中でも、薬の過剰投与だけでなく、危篤などの病状悪化の際には、「ICUみたいに人工呼吸をつけ濃厚治療をしお金になる」と病棟スタッフは証言していた。それは、22年前の朝倉病院事件で、口から食べられる患者であっても中心静脈栄養を使いまくって、過剰な医療をして儲けていた構造と全く同じなのである。しかも、滝山病院の第三者委員会の弁護士は、「医療行為の適切性について第三者委員会で検討が付託されていない」「医療行為は捜査機関が調べるべきだ」と述べていた。

でも、同じようや虐待事件があった神戸の神出病院の第三者委員会報告書では、医療行為や病棟看護の不適切性については、しっかり書かれている。なぜ違うのか。神出病院事件の第三者委員会には、看護の専門家が入っていたが、滝山病院の第三者委員会には弁護士だけで構成されている。そもそも、最初から医療行為についてチェックする姿勢も能力も、この委員会にはなかった、とも言える。だからこそ、二つの第三者委員会報告書では、何をどのように問題として取り上げるのか、に大きな違いがあるのだ。これは、第三者委員会の設置を求めた神戸市と東京都の姿勢の違いでもある、と言えるかもしれない。

滝山病院事件において、医療行為の内容は、「医師の裁量権」と「医療の専門性」をもとに、捜査機関でも調べられてこなかった。朝倉病院事件では、不正請求があったから、強制捜査によって捜査された。今回の映像では、滝山病院では不正請求はなかったので、その部分での追求はなかった、と述べられている。医療行為の内容自体を行政監査で問えないこと、犯罪捜査でも虐待の有無や不正請求は調べても医療行為の加害性について問わないことも、大きな問題である。

三つ目は国の無責任状態と民間精神病院の相互依存体質について。今回の映像でも出てきた民間精神科病院協会の代表の山崎氏は、「本来合併症の治療は国公立の病院が引き受けるべきだが、それができていない」と批判していた。それは表面的にはその通りなのだ。ただ、かれは国がそれに反論できないことをわかっていて、だから民間精神科病院が劣悪であっても赦されるべきだ、という論を張っている。何しろ精神科医に拳銃を持たせろ、と言っているくらいなのだから。

これは明らかに、国の無責任状態に乗じて、民間病院が劣悪な処遇をしても赦されるべきだ、という意味で、相互依存的体質である。そして、それは22年前の朝倉病院事件以来、ではなく、僕の師匠大熊一夫が1970年に酔っ払ってアルコール依存と詐病し、精神病院に入院して「ルポ・精神病棟」を書いた時以来から、全く変わらぬ構図なのである。

滝山病院長の朝倉医師の報酬が年間6320万円で、その院長報酬は経常利益の337%であるとか、そもそも22年前の朝倉病院事件で精神保健指定医を剥奪されたのに、5年前に保険医資格を再取得できたから、滝山病院長を引き受けられたとか、これは許認可行政の怠慢である。それは、前述の神出病院の理事長が5年間で18億円という巨額の報酬を得ていたことにもつながる。劣悪な医療環境で虐待事件を起こす病院の経営者層が暴利をむしばんでいたのは、明らかに患者からの搾取であり、病院組織を劣悪なままにし、経営者利益の最大化を目指した姿である。民間病院なのだから経営の自由がある、という反論も聞こえてくる。でも、多額な保険料や税金が投入されているなら、その費用の使い道として不適切である、と保険料や税金の支払い拒否をしてもいいくらいだ。でも、一つ目に戻るが、実は行政だって精神障害者を二級市民と見なしているからこそ、このような重大な人権侵害事案に向き合わない。転退院も積極的に進めようとしない。

そのような構造的問題の連鎖が絡まり合って、滝山病院事件が構成されているのである。

現状分析はわかった。ではどうすれば変えられるのか? そういう声も聞こえてきそうだ。その点に関して、優生保護法による強制不妊手術に対する国家賠償責任を認めさせた弁護団の新里宏二弁護士の声を紹介したい。

「踏みつけられた人の権利なんて『時の壁』で終わり、というのが国の主張でした。そうではない。法は、少数者の権利を守るものです。目の前の被害を救済するために、どう解釈・運用すべきか。法は、私たちに知恵を絞るよう求めているのです」

「法は、少数者の権利を守るものです」。この当たり前のことが、強制不妊手術を受けさせられた障害者だけでなく、精神科病院入院患者にも護られていない。だからこそ、滝山病院事件に代表されるように、「目の前の被害を救済するために、どう解釈・運用すべきか」が問われるのだ。それは、強制入院の違法性を問う国家賠償訴訟をしている伊藤時男さんの声にもつながる。

あと、精神医療がそろそろ生物学的精神医学の敗北を認める必要がある。他の内科と同じようにするなら、生物学的医療知識を持つ(とされる)精神科医の言うことに無批判に従う必要がある。でも医療も本人の生活支援の一部と捉え、チーム支援が前提になると、精神科医の発言も、他の専門職によって評価され、時には批判や修正の対象になる。このような立ち位置の違いを超えた連携や対話こそがないと、こういう滝山病院事件は繰り返し起こり続ける。今回の取材でも、滝山病院の朝倉院長のやり方に異議を唱えても、これは必要なのだから、と過剰な心臓マッサージや投薬が行われ続けたことが、描かれている。これは医師の性善説や裁量権、および医療構造における医師の絶対的権力性が生み出した「鬼子」のようなものである。

以前のブログにも書いたが、「医師が看護師を植民地的支配していたら、それは看護師と患者の関係性にも全く同じように転移する」。滝山病院での虐待構造は、劣悪な看護師個人の問題ではなく、病院全体の植民地的支配、およびそこで患者が人間扱いされていなかった、という構造的問題として捉える必要があるのだ。

朝倉病院事件から20年も過ぎたのに、全く同じパターンの「死亡退院」が、「必要悪」と見なされ、繰り返しが続いている。これは入院精神医療が構造的に生み出す社会的な虐待であり、医療過誤とは言えないのか。医療に踏み込んでその問題性を行政や捜査機関は問わないのか。そのことにずっとモヤモヤしている。そして、こういう社会構造を放置するのはアカン!とは、何度もなんどもしつこく言い続けなければならないと思う。「死亡退院」の内実に隠された悲劇を繰り返さないためには、すべきことがまだまだ沢山ある。

実存に迫るアクターネットワーク理論

6月は2回の学会出張で、一回は久しぶりに対面で口頭発表をしたので、くたびれた。日曜日に福祉社会学会で報告した「媒介子」としての精神疾患 −「病気の治療」から「関係性の変革」へ−」は2万字の報告原稿を書いたので、結構これで大変だった。この「媒介子」というのは、アクターネットワーク理論(ANT)の用語なのだが、僕がこの概念に親しむきっかけとなったラトゥールの主著『社会的なものを組み直す』の訳者、新潟大学の伊藤嘉高さんからご恵贈頂いた単著『移動する地域社会学—自治・共生・アクターネットワーク理論』(知泉書館)を、東京に行く新幹線でやっと読み始める。理論と実践の往還から構成される彼の本は、骨太だけどめちゃくちゃ面白かった。

「問題なのは、秩序の見直しが必要な場合や、状況が大きく変化している場合に、中間項がさまざまな存在と連関することで媒介子化し、さらにそうした多なる媒介子同志が連関することで、新たな一としての中間項が構築されていく循環の不在である。
そこで、移動する地域社会学は、とりわけ本書第11章で行ったように、ある出来事に対して、地域社会の構成員であるアクター(住民)が発する不安や反論を極力尊重する。それらを契機にして、制度や専門知のように私たちの生活に横たわる固定制や不動性を構築する事物の連関(ネットワーク)を明らかにすることで(脱ブラックボックス化)、その固定制や不動性のさらなる分節化を促そうとする。」(p278)

この部分を書き写しながら、ぼく自身がアクターネットワーク理論にはまっていく理由が、よくわかった気がした。

僕が福祉現場で出会うのは、「秩序の見直しが必要な場合や、状況が大きく変化している」状況である。いま、国は重層的支援体制の構築なるものを推進しようとしている(それについては僕が関わった「「包括的な支援体制」の整備が市町村の努力義務になっているなんて知らなかったという人へのガイドブック」も参照)。なんで包括的な支援体制が必要か、というと、もともと「家族を含み資産」と考えた福祉的支援がいよいよ崩壊し、セクショナリズムを越えて支援体制を再構築しないと、地域支援が維持できないからだ。独居高齢者や老老介護の家庭とは、家族内での支え合い(媒介子としての連関)が不全となり、「見守りや支援が必要な家族ユニット」として中間項化している。そういうご近所では助け合いも限界を迎え、小地域単位で限界集落化(=中間項化)しているのである。

その時に、地域支援で求められているのは、伊藤さんが書くように、「中間項がさまざまな存在と連関することで媒介子化し、さらにそうした多なる媒介子同志が連関することで、新たな一としての中間項が構築されていく循環」をどう作り出すか、である。でも、これは極めて難しい。

なぜなら、端から見ていると衰退・自滅していくように思えても、既存の秩序を「当たり前」と思ってきた地域住民にとっては、その秩序を揺るがす「ある出来事に対して、地域社会の構成員であるアクター(住民)が発する不安や反論」が生まれてくるからだ。市町村合併や小学校や病院の統廃合、だけでなく、町内会や自治会のやり方を変える、PTAの連絡や回覧板をLINEに変える、など、技術的合理性や持続可能性があると思える改革であっても、既存の秩序を変えられる側にとっては、感情的な反発が先立ち、受け入れられないことがある。

その際の伊藤さんの整理は、非常に示唆深い。

「地域社会の構成員であるアクター(住民)が発する不安や反論を極力尊重する。それらを契機にして、制度や専門知のように私たちの生活に横たわる固定制や不動性を構築する事物の連関(ネットワーク)を明らかにすることで(脱ブラックボックス化)、その固定制や不動性のさらなる分節化を促そうとする。」

制度や専門知がこうなっているから、仕方ない。そういう説得の仕方は、住民には納得が出来ないし、時には反発する。11章では青森の自治体病院再編に関するケース分析が書かれているが、その中で、行政や医療関係者の意図した持続可能性や合理性に住民が反発したことを巡って、以下のような考察が展開されている。

「住民の不安や疑念を無知によるものとして片付け、専門知を『厳然たる事実』として押しつけるのではなく、住民からの不安や疑念に基づき、『議論を呼ぶ事実』として、再編がもたらす健康上の効果と影響を可視的なデータとして示すことで、住民が『批判的に近づく』ことができるようにすべきではないか。具体的には、本章で行ったような受診行動と健康上の問題に関する調査を実施し、住民からの『反論』を集め、病院再編を支える専門知の『厳然たる事実』を常に『議論を呼ぶ事実』に引き戻す経路を確保することが必要である。そうすることで、地域間の利害関心と地域住民と医療従事者の利害関心を翻訳(変換)する政治プロセスと政治的決定を生み出すことができるだろう。」(p272-273)

これは本当になるほどな、と思うのだ。自分の街から病院がなくなる、と言われると、住民は不安になる。そして、「住民の不安や疑念を無知によるものとして片付け、専門知を『厳然たる事実』として押しつけ」られると、感情的な反発は強まり、火に油を注ぐことになる。その際、臭いものに蓋をするのではなく、一時的な反発だからと「忘れる」まで時間を待つのでもなく、「住民が『批判的に近づく』」支援をした方がいい、と伊藤さんは「大胆」な提案をする。病院再編は、医師数の確保や赤字経営の脱却など、何らかのデータに基づく合理性が、その根拠にある。だが、住民は「気軽に通院できていた病院がなくなったら、何かあったときにどうしてくれるのだ?」という別の直観に基づいて、反発している。であれば、「住民からの不安や疑念に基づき、『議論を呼ぶ事実』として、再編がもたらす健康上の効果と影響を可視的なデータとして示す」ことが大切なのだ。その中で、「病院再編を支える専門知の『厳然たる事実』を常に『議論を呼ぶ事実』に引き戻」し、「受診行動と健康上の問題に関する調査を実施し、住民からの『反論』を集め」、このプロセスを通じて、住民と専門家が台頭に対話出来るような支援を行う。これこそが、「地域間の利害関心と地域住民と医療従事者の利害関心を翻訳(変換)する政治プロセスと政治的決定」につながるのだ。

でも、じゃあそれは誰がするの?という問いが浮かぶ。そこに伊藤さんは、社会学者や社会調査士が「媒介子」になれる可能性を示している。

「大学の医師数や病院勤務医数など本章で見てきたようなデータに加え、今日であれば、再編による受領行動の変容を示すレセプト情報等データベース(NDB)から、心筋梗塞や脳卒中、重度熱傷などの二次救急医療の二次医療圏内完結率を示すことはもちろんのこと、二次医療圏内で迅速に治療できることによる予後の効果を『具体的に』示すことが、住民の議論と反論と理解を喚起する指標となるだろう。これは早川洋行(2012)が指摘するような行政文化に対して、社会学者が住民との『媒介子』となって変容させる一つの方法ともなるだろう。」(p273)

行政や病院側と地域住民の利害関心が異なり、対立している状態というのは、前者のデータを一方的に示されることによる、感情的な反発である。後者は、別の感覚的な不安から、前者のデータに納得できないのだ。そうであれば、「心筋梗塞や脳卒中、重度熱傷などの二次救急医療の二次医療圏内完結率を示すことはもちろんのこと、二次医療圏内で迅速に治療できることによる予後の効果を『具体的に』示す」というかたちで、住民側の不安に直接答えるデータを提示する必要がある。それを病院側がしてくれたら有り難いが、出来ない場合もある。その場合、間にたつファシリテーターやコーディネーター的な存在が必要であり、それは社会学者や社会調査士が担える、と伊藤さんはいうのだ。

このことを読んでいて、社会学者の新原道信さんの言う「社会のオペレーター」を思い出していた。

「“社会のオペレーター(生活の場に居合わせ、声を聴き、要求の真意をつかみ、様々な「領域」を行き来し、〈ひとのつながりの新たなかたち〉を構想していくひと)”が育っています。「3.11」の後、地域の方たちとの間で何か出来ないかと考え、立川の昭和記念公園に隣接する砂川地区で、〈地域との協業〉を続けてきました。ゼミ生たちは、立川プロジェクトという調査研究・地域活動グループをつくって、砂川地区の団地の運動会や夏祭り、防災ウォークラリー、子ども会の八ヶ岳キャンプといったイベントのみならず、毎月の役員会など地域づくりの舞台裏にも参加させてもらい参与的な調査研究をしてきました。」

新原さんは、「生活の場に居合わせ、声を聴き、要求の真意をつかみ、様々な「領域」を行き来し、〈ひとのつながりの新たなかたち〉を構想していくひと」を社会のオペレーターと名付けているが、これはまさに、住民の声を聞きながら、病院や行政への不安・不満の背景という「真意」をつかみ、病院データベースを用いながら、「様々な「領域」を行き来し、〈ひとのつながりの新たなかたち〉を構想していくひと」そのものである。

また、こういうのは工学系の人も得意である。新潟つながりで言えば、都岐沙羅パートナーズセンター理事・事務局長の斎藤主税さんは、地域のこれからを話し合う場では地域カルテを作り、中学校区単位での人口動態の変化や社会資源をまとめた地域カルテを作るのを支援している(新潟市のはこちらに)。住民と行政や専門家が、共にこれからの将来を話し合うための共通の認識土台を作るのは、まさに社会のオペレーターの役割であり、「媒介子」としての専門家役割でもある、といえそうだ。そして、本当はこういう部分に、生活支援コーディネーターなども関われると、大きな可能性はある。

だいぶ寄り道したが、伊藤さんの本に戻ろう。

アクターネットワーク理論の日本への紹介者としても有名で、理論肌にも思える伊藤さんは、実は吉原直樹さんのお弟子さんとして、バリやマカオ、仙台など様々な地域でのフィールドワークを続けてきた。そして、アクターネットワーク理論に基づいて、彼のフィールドワークを捉え直しているのがこの本の後半部分であり、それがものすごく面白かった。ただ、彼がこういう形で理論と実践の統合が出来たのは、彼の変わった遍歴にも一端がある、という。

「大学院修了後には、海外留学を経て、最初の常勤ポストを山形大学医学部に得たこともあり、2008年からは10年間にわたって、主に医療をフィールドとした研究に取り組むことになった。しかし、そこで、医師を絶対的頂点とするヒエラルキーのなかで、自分の社会学の『枠組み』がほとんど通用しない現実に直面させられることになった。ハード・サイエンスに根ざすとされる営みと、時としてそれらと対抗的に扱われる社会学の営みの関係をどのように考えればよいのか。今日でも科学的エビデンスの位置づけをめぐる両者の軋轢がしばしば表面化しているが、その際に筆者が思い起こしたのがANTであった。
そこで、勤務先の環境のこともあり、しばらくの期間は、地域社会学から医療社会学や科学社会学に軸足を移し、ANTの可能性を追求することになった。そして、ANTのポテンシャルを知る中で、ANTの方法には、日本の地域社会が築き上げてきた独自の視座と方法をさらに彫琢できる可能性があることにも気づかされた」(p281)

僕も精神医療に関わっているから、彼の苦悩がめちゃくちゃわかる。昔、精神神経学会の権利擁護部会のシンポジウムに招待されて新潟に出かけた際、発表が終わった後、知り合いの精神科医がやってきて、「あんたの話に誰も興味がない!」と宣言されて、びっくりした記憶がある。曰く、「大学の医局は生物学的精神医学一色なのだから、きみのような心理社会的な話は受けるはずがない。事実、この会場は小規模だし、来ているのはマイノリティだけだ!」と。

今から思えば実に失礼なことを言われたのだが、その時は割とおちこんだ。でも、僕は一回だけだったけど、伊藤さんはそういう環境に10年も!いたのである。生物学的医学は数値化出来るエビデンスが絶対のハード・サイエンスである。一方、住民の反発や感情にはエビデンスがないと一蹴されやすい。そういう環境の中で、ハード・サイエンスと地域住民の間には媒介子として入る(=社会のオペレーターとしての)社会学者の位置づけを、伊藤さんは見いだした。それが「住民の不安や疑念を無知によるものとして片付け、専門知を『厳然たる事実』として押しつけるのではなく、住民からの不安や疑念に基づき、『議論を呼ぶ事実』として、再編がもたらす健康上の効果と影響を可視的なデータとして示すこと」であり、それを可能にしたのが、アクターネットワーク理論だった。だからこそ、医療社会学や科学社会学を自家薬籠中のものとして、「移動する地域社会学」をさらに彫琢させていったのが、この伊藤さんの大著だと、あとがきを読みながら、しみじみ感動していた。

僕が心を動かされる本は、卓越な情報処理が網羅的になされている・理論分析が鮮やかなだけの本「ではない」。情報処理や理論分析の背後に、著者の実存が乗っかっている時、深い余韻や感動が残る。この本も、間違いなくそういう余韻や感動を与えてくれた一冊だった。