「能力不足」ではなく「機能不全」

勅使河原真衣さんは新著をバカバカ出しておられる。前回、書評ブログ(「ダメなあいつ」は絶対ダメ!)を書いたのはちょうど1ヶ月前だったのだが、今回は別の本の書評ブログを書く。

「職場の傷つきを個人の『能力』の問題にすると、どんな『いいこと』があるのか?
1,組織の責任回避:組織が責任を持って解決すべき問題にならないですむ。
2,『問題社員』の排除:特定の<弱い><できの悪い>社員を『評価・処遇』することで実質的に排除できる。
3,無限に努力する社員の創出:『問題社員』にならずに『活躍』しつづけるためにはがんばらねばならないという認識を植えつけることができる。」
勅使河原真衣『職場で傷つく』大和書房 p126)

この表記をみて、首がもげるほどうなづいた、だけでなく、ちょうど20年前のことを思い出していた。

20年前、博士号は取れたけど就職が全然決まらず、50の大学に公募書類を出して落ち続けていた時、それでも運良く調査研究の資金を得られて、とある施設に入り込んで調査していた。その施設は業界の人が名前を聞けば誰でも知っている有名な施設で、その支援内容は全国的にも知られており、創設者はカリスマ支援者と言われていた。その施設で、なんか職員間の関係性がよくないなぁ、と思い始めていたので、20名くらいいた支援職員全員にインタビュー調査をしてみたのだ。すると、次の7つのポイントが浮かび上がった。(地域移行後の障害者地域自立生活を支えるスタッフ教育のあり方に関する基盤的研究

  1. 方向性・速度・やる気のズレ
  2. 職員の連携のなさがもたらすもの
  3. 仕事や会議の非効率的・非効果的運営
  4. 職人芸ではまわりきらない
  5. 責任の所在の不明確さ
  6. 部下の育成と自己変革の失敗
  7. 自ら伸びていくことの失敗

この調査をする中で、支援対象者に熱意を持って関わるカリスマ職員が、実は同僚にはめちゃくちゃ厳しい、ということも見えてきた。「自分と同じ給料をもらっているのに(上司なら自分より高い給料なのに)これくらいも出来ないなんて」という声を何度も聞いた。でも、そもそもその上司も、現場支援に愛着があり、管理職としてのトレーニングを受けていないので、どのように責任を取ってよいのかわからない。法人内での人事異動もあるのだが、個々人の機能や持ち味を見極めた人事異動ではないので、「『問題社員』の排除」や「組織の責任回避」的な人事異動になってしまう。だからこそ、結果としてこの組織では「無限に努力する社員の創出」につながり、それが出来ない職員は「能力がない」「やる気がない」と評価されていた。

ただ、この法人も創設者も、みんな「いい人」だったので、上記の報告書に誠実に向き合ってくれた。調査結果をウェブ公開してもいい、と言ってくれたし、この内容について向き合いたいから、法人運営の組織改善の手伝いをしてほしい、とも言われた。なので、この報告書を書き上げた後、数年レベルで法人内でのコミュニケーション改善のお手伝いをしてみた。どうやっていいのかわからないので、ファシリテーションや経営学、職場改善など様々な本を付け刃で読んで、色々会議の在り方を変えようとしたのだが・・・やがて尻すぼみになってしまった。

その時に何が間違っていたのかわからずモヤモヤしたけど、20年後、勅使河原さんの本を読んで図星に書いてあった。

「『職場の傷つき』という本来関係論的な問題も、個人の『コミュ力』の問題にすり替える土俵は整い、皆がうまくやれるよう組織が配慮することは何ら要請されず、個人だけが『うまくやること』を『コミュ力』として、絶えず求められる。」(p136)

20年前のぼくは、さすがに個人の「コミュ力」の問題にすり替えてはいなかった。でも、職場内のでコミュニケーション不全の問題とすり替えていて、その背後に潜んでいた「『職場の傷つき』という本来関係論的な問題」という構造上の問題に、目を向けることが出来なかったのだ。そして、その背景に「能力主義」の問題があるなんて、当時は思いも寄らなかった。

「能力主義はなぜ人を傷つけるのか?
1,断定:本来揺れ動く状態なのに、『あの人は優秀』『あなたが能力が低い』と言い切ってしまうから。
2,他者比較:『○○さんはできているのにあなたはできていない』という無限の背比べ競争を正当化するから。
3,序列化:勝った人はまた勝つために競争し、負けた人も今度は勝てるように競争し、1つでも上位に行きたいと思わせるエンドレスなしくみをつくるから。」(p146)

20年前に向き合ったその法人は、生産性がない、と言われかねない「より集中的な支援が必要な障害者」を一人の生活者として捉え、入所施設で丸抱えするのではなく、地域の中で主体的に生きていけるように支援する、というほんまもんの支援が出来ている老舗法人だった。その意味では、支援対象者に対しては能力主義的なメガネを一切かけてはいなかった。

だが、勅使河原さんの文章を読んで、やっぱりと気づいてしまったのだ。僕がヒアリングした時も、『あの人は優秀』『あなたが能力が低い』という断定が、そこかしこに法人内を漂っていた。また、『○○さんはできているのにあなたはできていない』という他者比較も言葉には出さないけれど、でも実際には漏れ出ていた。職人的に徹底して仕事をしている人も、今から思えば「序列化」のなかで「エンドレス」な戦いをしていたのかもしれない。そういう意味で、支援者間での能力主義は、残念ながら蔓延していたし、違和感を持っていたぼく自身も、それが職場内での能力主義的な問題である、と意識化・自覚化できなかった。ましてや「職場の傷つき」にまで、アプローチできなかったのだ。だからこそ、組織開発のプロである勅使河原さんのこの本は、圧倒的迫力をもって、僕に迫っていた。20年前に見えていなかったのは、このことだったのか、と。

そこで勅使河原さんは解像度の高い整理をしてくれる。

「こうした事案は、『被害者・加害者』のような二項対立的な図式で語りがちかもしれませんが、『正しい・間違っている』でもなければ、『良い・悪い』でも語り尽くせないのです。ただただ、ある状況で、お互いに見えている世界・認識が違う、ということです。その状況で、お互いがかけているメガネが違うことを意識せず、誤って次のことに盲進していくのが、いわゆる『トラブル(傷つき)』の状態といえます。」(p166)

私たちは二項対立で考えると、思考が楽なので、ついついそうなりやすい。誰が被害者か、誰が正しくて、何が悪いか。そうやって決めつけることで、「頑張っている自分は悪くない、悪いのは怠けているあいつだ!」と自己正当化しやすい。その一方、「ただただ、ある状況で、お互いに見えている世界・認識が違う」というメガネの掛け替えは、理論的にはわかるけど、問題の当事者になってしまうと、それは受け入れにくい。「あいつにもあいつなりの合理性がある、と認めることは、あの人の努力の足りなさを甘やかすだけではないか、それを許していいのか。僕はこんなに頑張っているのに・・・」。そうなってしまいやすい。

この堂々巡りから脱するためには、どうすればよいのか? 勅使河原さんは、それを自分の組織で考えるためのヒントを、以下のように提示している。

・今どんな人がいて、どんな「機能」を持ち寄り、目標に近づくことができそうか?
・逆にどの「機能」は担える人が見当たらず、穴ができていそうか?
・それを繕うには、その「機能」を外から探すのか?
・今いる人員の中で、「機能」を拡張させられそうな人がいないかどうか?(p244)

彼女は組織が職務上必要としている「機能」を、個人の「能力」の話にすり替えることで、「職場で傷つく」が生まれるとも指摘している(p203)。ということは、職場の機能の問題は、個人の「能力」云々にすり替えず、職場の関係性の問題として、職場が引き受けるべきであり、個人を責めてはならない、というこだ。その上で、職場が「機能不全」を起こした時に、誰が足を引っ張っているか、と問題の個人化・悪魔化を行い、誰かを排除すると、無限ループに陥る。それを回避するには、人ではなく「機能」にフォーカスせよ、と。そして「機能」が上手く噛み合うように、組織をチューニングし続けることが大切だ、と彼女は指摘している。「職場で何らかの組み合わせの不整合が出ている」ならば、「噛み合わせの悪いところ」を発見し、「それは組み合わせでどこまで変えていけそうか?」をすりあわせるしかない、と。(p262-263)

僕は20年前、これは全く分かっていなかった。現場の組織に関わったこともないから、無理もない。でも、その後20年、上記の報告書を見たいくつもの社会福祉法人の中堅・幹部職員から、「うちの法人内の問題・ゴタゴタ・歪み・・・を図星で指揮されている」と言われた。そして、実際複数の法人の組織改革のお手伝いを、それこそ見よう見まねでしてきた。その時この本があったら、と悔やまれてならないし、これからそういう話が舞い込んだ時は、「幹部研修で『職場で傷つく』を読んだ上で、モヤモヤ対話してみませんか?」と提案することが出来そうだ。

そういう意味で、20年間モヤモヤ考え続け、答えの出なかった問いに、大きなヒントを与えてくれる一冊だった。

世界を描くことは、アブラムシを記述すること

二段組みで本文だけで400ページくらいある本を、しかも自分の専門領域ではないのに読み通すのは、簡単なことではない。俊英な岡部さんとの読書会で候補に挙がらなかったら、多分読み通せなかった、けど読んですごく勉強になったのが文化人類学者アナ・ツィンの『摩擦 グローバル・コネクションの民族誌』(水声社)である。同じ著者の『マツタケ』(みすず書房)も面白かったのだが、これも分厚くて、こちらは途中で挫折している。

今回なんとかこの本を読み終わって、改めてこの本は何の本だったのだろうと辿り直してみると、それはアブラムシの本だったのだ。え、なんだって?

「APHIDS(アブラムシ)、すなわちArticulations among Partially Hegemonic Imagined Different Scales(部分的に覇権を握る、想像された異質な諸スケールの結合)である」(p127)

この本ではインドネシアの辺境の熱帯雨林の開発と保護をめぐる様々なアクターの物語が「分厚い記述」で描かれている。地元住民のなかでも、山林開発企業の買収に応じて現金を手に入れたい人もいる一方、環境保護のアクティビストと同調する人もいる。焼き畑農業をやっている伝統的農業における村落共同体と、国や州における官僚的な支配システムにもズレがある。幻の金山騒動では、カナダの鉱山会社や投資家まで巻き込んだグローバルな投資活動が活発化した後、実はそれは贋物鉱山で金は全くとれなかった、というお粗末な結果も描かれている。スカルノからスハルト、その後の政権における政治腐敗が開発独裁とどのように繋がっているのか、も描かれている。一方で、インドネシアの中産階級の大学生達が自然を再発見し、環境保護アクティビストになっていくさまも描かれる。

一見すると、位相が違いそうな様々な記述が書かれているが、このような「部分的に覇権を握る、想像された異質な諸スケールの結合」によって、インドネシアの熱帯雨林地帯におけるグローバル・コネクションの摩擦と連鎖が描かれているのが本書である。そして、アブラムシの記述を見て思い出したのが、アリの話だった。

「以前は、アクター‐ネットワーク‐理論のラベルをはがして、「翻訳の社会学」、「アクタン‐リゾーム存在論」、「イノベーションの社会学」といった具合にもっと精緻な名称を選ぶのもやぶさかではなかったが、ある人から指摘されて考えが変わった。つまり、ANTという頭文字は、目が見えず、視野が狭く、脇目をふらず、跡を嗅ぎつけて、まとまって移動するものにぴったりであると言うのだ。アリ(ant)が他のアリたちのために書く。これは、私のプロジェクトにぴったりではないか。」(ラトゥール 2019a:22-3)

上記はラトゥールの主著『社会的なものを組み直す』の訳者の伊藤さんが引用されているHPから持ってきたActor Network TheoryはANT(アリ)である、という一節である。

アリもアブラムシも、実に小さくか弱い存在である。一匹で世界を変えられるような存在とは真逆である。でも、それぞれのアリやアブラムシが動き続けるなかで、より多くの構造が動き出す。それぞれの個体の間でも、あるいはアリとアブラムシの間でも、異質な諸スケールが「結合」されていくことによって、「部分的な覇権」が生まれてくる。

ムラトゥス山脈西部の山麓にあるマングールという焼き畑農業の移動耕作民の村は、グローバルヒストリーにおいてはアブラムシやアリのような小さくか弱い存在である。だが、この村の開発を巡って、州や国の役人だけでなく、ASEANのジャーナリストやグローバルな環境保護アクティビストとつながり、開発中止のうねりが出来ていく。しかし、この中で、村人達は外部者と一致団結し、大きな物語を作り出したのではない。「異なる位置にいるアクティビストたちが異なるストーリーを語るのは、彼らがマングールの森について明らかに異なった歴史を築いてきたから」(p361)という意味では、一見するとバラバラな、あるいは同床異夢な物語が描かれている。でも、実はこの同床異夢性の中に筆者は「部分的に覇権を握る、想像された異質な諸スケールの結合」というアブラムシの本質を見る。

「多くの環境主義の擁護者が環境学者に問うているのは、データを結合して地球規模の見取り図を作成するために、いかにして互換可能なデータセットを収集できるかである。この見方からすると、現地の視点は技術的な問題として乗り越えるべき課題となる。私のストーリーはそれとは逆のアプローチを切り開く。私たちが互換性のないデータセットに注目したらどうなるだろうか? 換言すれば、社会的な立場やジャンル、実践的な知識が、私たちの集めるデータを形成するあり方に着目したらどうなるだろうか? 互換不可能性を排除するのではなく、その不可能性がどこに差異をもたらすのかを明らかにする必要があるのだ。」(p374-375)

互換可能なデータセットとは、比較可能な数値化されたデータである。気温や湿度、森林面積や開発された大地の面積、土壌汚染の証拠となる各種の有害物質の含有量・・・、これらは何らかの「客観的な評価基準」で比較検討が可能なものである。環境保護などを主張する際も、このような互換可能なデータセットの収集に基づいた議論が、説得力があるとされる。

だが、アナ・ツィン氏は「私のストーリーはそれとは逆のアプローチを切り開く」と述べる。比較可能な数値に縮減されない互換性のないデータセットである「社会的な立場やジャンル、実践的な知識」が、「部分的に覇権を握る、想像された異質な諸スケールの結合」を生み出していく。その有様が「摩擦」や「差異」を生み出す。マングールの環境保護の動きに関して、村人の中でもその歴史的記憶が違って語られる。それは外部のアクティビストや州政府関係者との語りとも異なる。だが、唯一の正解がある、というfact信仰とはこのアプローチは異なる。違って語られる記憶にいかなる摩擦や差異があるのか。それはなぜ・どのようなプロセスで作り出されていくのか、をアクター間の連接(ネットワーク)を手繰りよせながら描いていくのだ。これはアクターネットワーク理論とは言わないANT、アリとアブラムシの結合の物語なのである。

「摩擦はグローバル・コネクションをより強力かつ効果的なものにする。また同時に、意識せずとも、摩擦はグローバルな力のスムーズな動作を邪魔しにくる。差異は混乱を招き、日常的な機能不全や予期せぬ天変地異をもたらしうる。グローバルな力が良く油を注された機械のように動作するというまやかしは、摩擦によって否定される。加えて、差異は時に反乱を揺動する。摩擦は、象の鼻に入るハエになれるのだ。
摩擦に注目することでグローバルな相互のつながりを民族史的に記述する可能性が開かれる。(略)私たちが問うのは、普遍が真実なのか虚偽なのかということではなく、普遍が持つ種々の厄介な関わり合い(エンゲージメント)である。」(p29)

僕がブログを書くのは、本の紹介の意味もあるが、こうやって文章を筆写する中で、筆者の論理構造を追体験する意味も大きい。今回この部分を筆写しながら、アブラムシはハエでもあったのか、と気づかされた。それだけでなく、この本は色々なややこしい話がたっぷり書かれていて、読んでいて疲れるし、どこにいくねん、と思いながら読んでいるのだが、実は社会運動といわれるものは一枚岩では全然なくて、差異は混乱を招くし、スムーズな動きは摩擦によって否定されるのだけれど、そのような動的混乱や反乱、揺動こそが、金融資本主義やグローバライゼーションといった大文字の政治に抵抗する「蟻の一穴」になりうる、ということだ。普遍はシュッとしたスマートな真実なのではない。本書を読んでいても感じるが、「普遍」として歴史的に記述・記憶されるものも、実は「種々の厄介な関わり合い(エンゲージメント)」の極めて薄氷を踏む動的平衡のなかで成り立っているのである。

これと同じ記述を、自分の専門で出来るか、と言われたら、大変心許ない。でも、精神医療の構造を問い直すのなら、こういう形での「種々の厄介な関わり合い(エンゲージメント)」による「摩擦」や「差異」を描く方法もあるのだ、と学ぶことができたのは、大きな成果だ。

類い希なる通訳者

村上靖彦さんの本から、常に刺激を受け続けている。彼は元々現象学者なのだが、大阪に引っ越してきた後、看護や福祉、ケア領域での現象学的質的研究を続けている。中でも『子どもたちがつくる町 大阪・西成の子育て支援』(世界思想社)はめちゃくちゃ面白くて、ブログにも書評を書いたことがある。

今回、その村上さんが、西成や様々な現場で観察してきた支援を哲学としてまとめたのが、『すき間の哲学』(ミネルヴァ書房)である。読み出したら面白くて一気読みしてしまったので、忘れないうちに読書メモを。

すき間とは、村上さんは「世界から存在しないことにされていること」と「法権利の保護の外側におかれてしまい、権利によって守られていないこと」と暫定的に定義する。その上で、次の二つを指摘する。

・法律や制度のすき間にこぼれ落ちて支援を受けることもなく社会から見えなくなっている人たちがいる。しかもこのすき間は突然ぽっかり開くこともある。
・排除を生み出す強い圧力が社会にはある。(p5)

これは障害や貧困の話だけではない。「保育園落ちた、日本死ね」というのは、共働きで子育てをしようとしたら「突然ぽっかり開いた」待機児童という法律や制度のすき間にこぼれ落ちてしまった人が、「私はここにいる!」と異議申し立てをした、「すき間の可視化」だった。そこから、待機児童が問題化し、政策化されてていった。この当時でも、小さいのに預けられる子どもがかわいそうだ、などの「排除を生み出す強い圧力」があったが、幸いにしてその抑圧より共感の回路のほうが圧倒的に強かったため、政策化されてていった。そういう「すき間」の問題に、村上さんも西成との出会いを通じてはまり込んでいく。

「個人が経験する逆境は、しばしば社会構造において生じる排除を背景に持つ。
縦軸の逆境は、横軸の排除と連動する。本人がまず直面するのは足元の困難であり、穴を生み出した横方向の社会構造的な排除は隠されている。社会的排除の横の拡がりと、垂直的な逆境とが交差する地点に人は立たされる。すき間は逆境でもある。」(p94)

待機児童問題も、子どもを産んだのに働き続ける・ベビーシッターを雇えないあなたがわるい、と個人の問題にされていた。そういう風に自己責任や問題の個人化がされると、足元の困難で必死な本人は反論しにくい。「日本死ね」という悲痛な叫びは、保育園に預けて働きつづけて税金も納めようとするのに、なんなんだよ!という社会構造的な排除に対する怒りの言葉から出てきた。「社会的排除の横の拡がりと、垂直的な逆境とが交差する地点に人は立たされ」た時に、これは私だけのせいなのか!と異議申し立てしたからこそ、可視化したものである。それほど、縦軸の自己責任や問題の個人化の圧力は強いし、そうやって縦穴の間口を拡げることにより、「穴を生み出した横方向の社会構造的な排除」はますます見えなくなっていく。

「すき間は、マジョリティ側の知によって把握可能なものではなく、未知の外国語を学ぶように未知のものと出会い、すき間に置かれた人が持つ未知の文化を学ぶことでマジョリティの知の体系を組み替え、両者がお互いの文化を吟味して誤解を重ねつつも、少しずつ接近することによってでしか可能ではない。そのような総合不可能なすき間へのアクセスを含んだすき間との接続を、メルロ=ポンティは『側面的普遍』と呼んでいる。」(p135)

僕が大学院生のころから、精神病院や地域でのサポート現場で学んで来たのは、まさに「未知の外国語を学ぶように未知のものと出会い、すき間に置かれた人が持つ未知の文化を学ぶこと」だった。教科書がないので、その言葉を話し、その文化を生きる人々の独特の生き方を少しずつ、学び続けてきた。その中で、健常者コミュニティの知の体系なるものの独善性に、少しずつ気づき始めた。

この際、最大の障壁になるのが、「マジョリティの知の体系を組み替え、両者がお互いの文化を吟味して誤解を重ねつつも、少しずつ接近すること」である。相手の言語や文化を理解するのは、表面的には単なる知識の拡張で済まされると思い込みやすい。でも、本当に相手の言語や文化に通じようとするならば、しばしば自らの知の体系の独善性を組み替えることが求められる。これは、自分の実存を脅かしかねないほどしんどい。例えば、イタリアで精神病院を廃絶に導いた医師、フランコ・バザーリアは、こんなことを言っている。

「あらゆる医学的知識の内容は病人を管理し抑圧するためにある、ということを認めなければなりません。病人は主体として治療を受けるのではなく、病人が生産の歯車のなかに戻れるように、治療は行われます。私たちが精神病の問題に向き合うためには、精神医学の知識、精神分析、薬物療法、電気ショック、インスリン療法、脳外科といった、医師たちが利用してきたすべての方法と手段を議論の対象にしなくてはなりません。」(フランコ・バザーリア『バザーリア講演録 自由こそ治療だ』岩波書店p133)

少なからぬ人が精神疾患になるのは、生産の歯車において、しんどく苦しい状態に追い詰められてきたからである。それなのに、「病人が生産の歯車のなかに戻れるように、治療は行われます」という論理をそのものとして放置して良いのか、とバザーリアは問いかける。これは精神医療という社会の「すき間」で、精神障害者の側に立ち続けた「通訳」としてのバザーリアだからこそ見えた風景である。自分たちは、精神病の問題に向き合う時、「マジョリティの知の体系を組み替え、両者がお互いの文化を吟味して誤解を重ねつつも、少しずつ接近する」努力が出来ているか、と。すき間の穴に落ち込んで、社会的な排除も受けている人を、自分たちの言語で自己責任だとか努力不足だとか、あるいは治療不能だとか、そうやって糾弾してはいないか。「未知の外国語を学ぶように未知のものと出会い、すき間に置かれた人が持つ未知の文化を学ぶ」アプローチがとれているか、と。

これは生物学的精神医学が主流になっている今の精神医療にも問われ続けていることだと思う。

「『通訳』を、すき間を探す人、すき間とマジョリティをつなぐことのメタファーと理解して考えてみる。通訳は、声として認識されていなかった声を理解可能なものとする。マジョリティは、マイノリティの困難について教えられたとしても、なぜそれが困難なのか、どのように苦痛なのか分からないことがある。困難や苦痛をマイノリティ本人に説明を求めるのは不当な不払い労働である。そのときマジョリティとマイノリティのあいだに立って通訳する存在は貴重だろう。すき間を発見し理解し反転する可能性として通訳可能性があるはずだ。反転可能性がない限り、すき間はすき間にとどまり続ける。そして『通訳』は語り得ない困難を暫定的な言葉に変換する役割を担う。当事者自身は語る言葉を持たないかもしれない。あるいは当事者に説明させることが暴力になる場合があるからだ。」(p255)

村上さんは、ご自身が出会ってきた魅力的な支援者達は、すき間を発見する人という意味において、ある種の「通訳者」だという。そしてその指摘に、僕も深く頷く。

大学で働いていて、現場支援をしていない僕は、「すき間」と直接で会えるチャンスが少ない。そんな僕でもヤングケアラーや若者支援、不登校やひきこもり、ゴミ屋敷や「複合・多問題な困難事例」など、様々な「すき間」の言語と文化を学び、自らの認識回路を少しずつアップデートしてきた。それは、ぼく一人では絶対に無理であった。僕の知らない言語や文化を知り、すき間を探し、そのすき間の声を僕にも分かるような言語で「通訳」してくれる様々な人々との出会いの中で、学んで来た。以前は圧倒的に「支援者」の属性の人が多かったのだが、最近では「当事者経験を持つ支援者」とか、「当事者経験を経て通訳的な語りをしている人」から、沢山のことを学ばせてもらっている。そういう方々との対話の中で、「すき間のか細いSOSの声」をキャッチする大切さも、少しずつ自分事として理解出来るようになりはじめた。

そして、この視点を持ってみると、実はマジョリティの中にいても、「通訳」的視点が必要な場面がそこかしこにあることが、逆に見えてくる。職場でも、提出物が出せない、教員の指導を聞かない学生のことを、以前は怠けている・サボっている・だらしないと思いこんでいた。でも、多くの「通訳」から学びを深めるうちに、実は目の前の学生たちも、様々な生きる苦悩を抱えていて「すき間」に落ち込んでいるのだ、と気づきはじめることができる。あるいは、授業で発言を求めると、「障害者の問題は自分には関係ない!」と述べるような学生さんは、別のどこかで追い詰められている可能性があるのではないか、という社会学的想像力が働き始める。「社会から見えなくなっている人たち」の「すき間は突然ぽっかり開くこともある」。すると、目の前にいる、一見マジョリティにおもえるこの学生さんも、じつはすき間にぽっかり陥っている可能性がないか?問題が不可視化されている可能性はないか、という問いが浮かぶ。そうやってすき間を探すことが出来る。

「迷惑をかけるな憲法」に従っている学生たちと接していると、マジョリティの規範を必死になって遵守してきた彼女ら彼ら達も、すき間とは縁遠くない、と思っている。気づいたらぱっくりと口を開けているすき間。そんな落とし穴にはまらないように、能力主義を内面化し、自己責任化した世の中で、必死になってリスクヘッジしている若者達。で、運悪くすき間にはまり込んでしまった人も、運が悪かったのだ、と思い込んで、社会的排除や抑圧の問題だと思いたくない。なぜなら、社会構造の問題なら、自分だってその落とし穴にはまり込む可能性があるから。努力して歯を食いしばって頑張っているのだから、自分だけはそんなはずはないと思い込みたい。だからこそ、すき間はなかったことにしたい。

そういう学生たちにとって、僕の授業はそういう「すき間」の事象を取り上げ続けるため、僕が「通訳」としてすき間の声を取り上げ続けるため、不快に思う学生もいるようだ。「自分とは関係のない障害者のことを学んでも、メリットにならない!」と。でも、その時のメリット・デメリットとは、近視眼的なマジョリティの論理である。さらにいえば、薄々気づいている、ぱっくりと開いているすき間の存在を「自分と関係ない」と断言したい・見ないフリをして過ごしたいからこそ、「寝た子を起こすな」と怒りを僕に向けているようにも、思える。

だが、子育てをし始めて、このような「すき間」はむしろそこかしこに埋め込まれている、と感じる。自分がすき間にはまっていないのは、たまたまの幸運が重なっているからだと、すき間の言語と文化を学べば学ぶほど、痛感する。だからこそ、誰もが取りこぼされない社会に向けて、すき間の言語と文化を学び続け、認識をアップデートし続けなければ、と思う。

自分が感じてきたこと、考えてきた、モヤモヤしてきたことを、哲学の言語を用いながら整理してくれる村上靖彦さんもまた、類い希なる通訳者だと思う。

終わらない「死亡退院」

一年前、単科精神科病院である東京の滝山病院での虐待事件が起こった際、ブログでも論評をした。先月末、その続編のETV特集であり、やっと今日録画を見た。事前に滝山病院からの退院支援に取り組む弁護士で精神保健福祉士の相原さんが、「この映像はかなり内容が複雑だと思います」とツイートしていたので、どういう難しさなのだろう、と思って見た。見て思ったのは、確かにわかりにくよなぁ、と思う一方で、この構造を描かない限り、精神科病院の虐待はなくならない、と改めて思った。

映像や相原さんの解説に屋上屋を架さないために、違う視点でこの映像からわかることを述べてみよう。一つは、精神障害者が「二級市民」として劣等処遇されている現実、二つ目は医師の性善説と裁量権が原因究明の障害になり続けていること、そして三つ目は国の無責任状態と民間精神病院の相互依存体質である。

正直に申し上げると、日本の精神障害者は市民権や基本的人権が剥奪された人間だと思う。それは以前のブログでも書いたことである。なぜそうなのか。映像では、滝山病院には透析が必要な患者で精神疾患がある人=合併症患者が沢山入院している、と述べられていた。そして、透析患者だけでなく癌や他の疾病であっても、精神疾患を持っている患者は、他科の入院が拒否される場合が少なくない。だからこそ、「身体症状との合併症で行き場のない患者」が滝山病院を頼りにして、虐待から一年後も、未だに数十人の入院患者がいるのである。

ここには根深い差別が存在している。そもそも、精神疾患を持つから、普通の透析病院で見れない、というのは、理由にはならない。それって、糖尿病だから癌患者は受け入れない、というのがあり得ないのと共通である。でも精神疾患はそれが現実に赦されてしまっている。これは、医療者の中にある精神障害者差別であり、精神障害者は一般市民と区別しても良い、という意味で、二級市民扱いなのである。それが赦されてしまっている状況がそもそも問題である。

いやいや、精神疾患の専門性がない一般科では、精神疾患と透析など他科との合併症治療は無理だ、という論理も成り立つ。だが、それは精神疾患が医療的に治療可能だ、という前提に基づく。しかし、斎藤環さんも精神疾患にはバイオマーカーがないので、生物学的精神医療の前提は崩れた、と述べている。生物学的精神医学の特性が際立つなら、確かに精神科が受け皿にならざるを得ない。でも、精神症状に関して生物学的な治療が前提とされないなら、生きる苦悩が最大化した状態、と整理できる。そして、そういう状態で「苦しいこと」を抱えている人が透析患者でもある、とするなら、そこにどう寄りそうか、が透析治療の専門医にも求められる。さらにいうと、糖尿病ゆえに透析になる人は、生きる苦悩が最大化してそうなる、とするなら、実は透析治療においても、生物学的治療だけでなく、心理・社会的支援が求められるはずなのだ。その点が全く欠けている。それは精神障害者を、普通の市民として認めず、二級市民として扱うことを、この社会が赦しているから生じている現象でもある、と言えそうだ。

ちなみに、生物学的治療だけでなく、心理・社会的支援が必要だ、というのは、プライマリーケアの世界の卓越した書籍(『「卓越したジェネラリスト診療」入門』)でも力説されている。

二つ目の、医師の性善説が原因究明の障害になり続けていることについて。番組の中では、カルテ開示をした12人の患者のうち、7人が褥瘡があり、うち4人は死亡と褥瘡との因果関係がある、と他の医師に指摘された点である。褥瘡はスウェーデンは虐待の大問題として取り上げられるが、日本ではそういう指摘はなされない。不適切なケアの結果としての褥瘡だとスウェーデンでは考えられるが、滝山病院では本人の医療的状態として捉えられ、医療や福祉の怠慢とは行政には指摘されていない。

この点に関連して、滝山病院の朝倉院長が以前経営していた朝倉病院における患者虐待事件に関して22年前に書いた論文の内容が、残念ながら現在でも活かされてしまう。院生の時に書いたこの論文を引用してみる。

「医療監視.病院実地指導とも、「犯罪捜査のために認められたものと解釈してはならない」ため、強制力を持たない「調査」になる。一方「犯罪捜査」をするはずの警察は、これらの医療問題にたいしては「医師の裁量権」と「医療の専門性」を理由に通常踏み込んだ捜査はしない。すると現実には、3事件に象徴されるように、医療行為については医療監視や病院実地指導による厳しい「調査」がなされていないため、いかに犯罪性が高いと思われる医療行為であっても、警察などの「犯罪捜査」機関は手も足もでないのである。これでは、精神病院における不適切な医療行為を放置したままである、と言っても過言ではないのではなかろうか。」

22年前の論文で書いたことが全く今も通用する、というのは、論文書きとしては普遍性があることを書けて嬉しいはず、なのだが、この被害実態が全く変わっていないのは、本当に悲しい限りだ。

映像の中でも、薬の過剰投与だけでなく、危篤などの病状悪化の際には、「ICUみたいに人工呼吸をつけ濃厚治療をしお金になる」と病棟スタッフは証言していた。それは、22年前の朝倉病院事件で、口から食べられる患者であっても中心静脈栄養を使いまくって、過剰な医療をして儲けていた構造と全く同じなのである。しかも、滝山病院の第三者委員会の弁護士は、「医療行為の適切性について第三者委員会で検討が付託されていない」「医療行為は捜査機関が調べるべきだ」と述べていた。

でも、同じようや虐待事件があった神戸の神出病院の第三者委員会報告書では、医療行為や病棟看護の不適切性については、しっかり書かれている。なぜ違うのか。神出病院事件の第三者委員会には、看護の専門家が入っていたが、滝山病院の第三者委員会には弁護士だけで構成されている。そもそも、最初から医療行為についてチェックする姿勢も能力も、この委員会にはなかった、とも言える。だからこそ、二つの第三者委員会報告書では、何をどのように問題として取り上げるのか、に大きな違いがあるのだ。これは、第三者委員会の設置を求めた神戸市と東京都の姿勢の違いでもある、と言えるかもしれない。

滝山病院事件において、医療行為の内容は、「医師の裁量権」と「医療の専門性」をもとに、捜査機関でも調べられてこなかった。朝倉病院事件では、不正請求があったから、強制捜査によって捜査された。今回の映像では、滝山病院では不正請求はなかったので、その部分での追求はなかった、と述べられている。医療行為の内容自体を行政監査で問えないこと、犯罪捜査でも虐待の有無や不正請求は調べても医療行為の加害性について問わないことも、大きな問題である。

三つ目は国の無責任状態と民間精神病院の相互依存体質について。今回の映像でも出てきた民間精神科病院協会の代表の山崎氏は、「本来合併症の治療は国公立の病院が引き受けるべきだが、それができていない」と批判していた。それは表面的にはその通りなのだ。ただ、かれは国がそれに反論できないことをわかっていて、だから民間精神科病院が劣悪であっても赦されるべきだ、という論を張っている。何しろ精神科医に拳銃を持たせろ、と言っているくらいなのだから。

これは明らかに、国の無責任状態に乗じて、民間病院が劣悪な処遇をしても赦されるべきだ、という意味で、相互依存的体質である。そして、それは22年前の朝倉病院事件以来、ではなく、僕の師匠大熊一夫が1970年に酔っ払ってアルコール依存と詐病し、精神病院に入院して「ルポ・精神病棟」を書いた時以来から、全く変わらぬ構図なのである。

滝山病院長の朝倉医師の報酬が年間6320万円で、その院長報酬は経常利益の337%であるとか、そもそも22年前の朝倉病院事件で精神保健指定医を剥奪されたのに、5年前に保険医資格を再取得できたから、滝山病院長を引き受けられたとか、これは許認可行政の怠慢である。それは、前述の神出病院の理事長が5年間で18億円という巨額の報酬を得ていたことにもつながる。劣悪な医療環境で虐待事件を起こす病院の経営者層が暴利をむしばんでいたのは、明らかに患者からの搾取であり、病院組織を劣悪なままにし、経営者利益の最大化を目指した姿である。民間病院なのだから経営の自由がある、という反論も聞こえてくる。でも、多額な保険料や税金が投入されているなら、その費用の使い道として不適切である、と保険料や税金の支払い拒否をしてもいいくらいだ。でも、一つ目に戻るが、実は行政だって精神障害者を二級市民と見なしているからこそ、このような重大な人権侵害事案に向き合わない。転退院も積極的に進めようとしない。

そのような構造的問題の連鎖が絡まり合って、滝山病院事件が構成されているのである。

現状分析はわかった。ではどうすれば変えられるのか? そういう声も聞こえてきそうだ。その点に関して、優生保護法による強制不妊手術に対する国家賠償責任を認めさせた弁護団の新里宏二弁護士の声を紹介したい。

「踏みつけられた人の権利なんて『時の壁』で終わり、というのが国の主張でした。そうではない。法は、少数者の権利を守るものです。目の前の被害を救済するために、どう解釈・運用すべきか。法は、私たちに知恵を絞るよう求めているのです」

「法は、少数者の権利を守るものです」。この当たり前のことが、強制不妊手術を受けさせられた障害者だけでなく、精神科病院入院患者にも護られていない。だからこそ、滝山病院事件に代表されるように、「目の前の被害を救済するために、どう解釈・運用すべきか」が問われるのだ。それは、強制入院の違法性を問う国家賠償訴訟をしている伊藤時男さんの声にもつながる。

あと、精神医療がそろそろ生物学的精神医学の敗北を認める必要がある。他の内科と同じようにするなら、生物学的医療知識を持つ(とされる)精神科医の言うことに無批判に従う必要がある。でも医療も本人の生活支援の一部と捉え、チーム支援が前提になると、精神科医の発言も、他の専門職によって評価され、時には批判や修正の対象になる。このような立ち位置の違いを超えた連携や対話こそがないと、こういう滝山病院事件は繰り返し起こり続ける。今回の取材でも、滝山病院の朝倉院長のやり方に異議を唱えても、これは必要なのだから、と過剰な心臓マッサージや投薬が行われ続けたことが、描かれている。これは医師の性善説や裁量権、および医療構造における医師の絶対的権力性が生み出した「鬼子」のようなものである。

以前のブログにも書いたが、「医師が看護師を植民地的支配していたら、それは看護師と患者の関係性にも全く同じように転移する」。滝山病院での虐待構造は、劣悪な看護師個人の問題ではなく、病院全体の植民地的支配、およびそこで患者が人間扱いされていなかった、という構造的問題として捉える必要があるのだ。

朝倉病院事件から20年も過ぎたのに、全く同じパターンの「死亡退院」が、「必要悪」と見なされ、繰り返しが続いている。これは入院精神医療が構造的に生み出す社会的な虐待であり、医療過誤とは言えないのか。医療に踏み込んでその問題性を行政や捜査機関は問わないのか。そのことにずっとモヤモヤしている。そして、こういう社会構造を放置するのはアカン!とは、何度もなんどもしつこく言い続けなければならないと思う。「死亡退院」の内実に隠された悲劇を繰り返さないためには、すべきことがまだまだ沢山ある。

実存に迫るアクターネットワーク理論

6月は2回の学会出張で、一回は久しぶりに対面で口頭発表をしたので、くたびれた。日曜日に福祉社会学会で報告した「媒介子」としての精神疾患 −「病気の治療」から「関係性の変革」へ−」は2万字の報告原稿を書いたので、結構これで大変だった。この「媒介子」というのは、アクターネットワーク理論(ANT)の用語なのだが、僕がこの概念に親しむきっかけとなったラトゥールの主著『社会的なものを組み直す』の訳者、新潟大学の伊藤嘉高さんからご恵贈頂いた単著『移動する地域社会学—自治・共生・アクターネットワーク理論』(知泉書館)を、東京に行く新幹線でやっと読み始める。理論と実践の往還から構成される彼の本は、骨太だけどめちゃくちゃ面白かった。

「問題なのは、秩序の見直しが必要な場合や、状況が大きく変化している場合に、中間項がさまざまな存在と連関することで媒介子化し、さらにそうした多なる媒介子同志が連関することで、新たな一としての中間項が構築されていく循環の不在である。
そこで、移動する地域社会学は、とりわけ本書第11章で行ったように、ある出来事に対して、地域社会の構成員であるアクター(住民)が発する不安や反論を極力尊重する。それらを契機にして、制度や専門知のように私たちの生活に横たわる固定制や不動性を構築する事物の連関(ネットワーク)を明らかにすることで(脱ブラックボックス化)、その固定制や不動性のさらなる分節化を促そうとする。」(p278)

この部分を書き写しながら、ぼく自身がアクターネットワーク理論にはまっていく理由が、よくわかった気がした。

僕が福祉現場で出会うのは、「秩序の見直しが必要な場合や、状況が大きく変化している」状況である。いま、国は重層的支援体制の構築なるものを推進しようとしている(それについては僕が関わった「「包括的な支援体制」の整備が市町村の努力義務になっているなんて知らなかったという人へのガイドブック」も参照)。なんで包括的な支援体制が必要か、というと、もともと「家族を含み資産」と考えた福祉的支援がいよいよ崩壊し、セクショナリズムを越えて支援体制を再構築しないと、地域支援が維持できないからだ。独居高齢者や老老介護の家庭とは、家族内での支え合い(媒介子としての連関)が不全となり、「見守りや支援が必要な家族ユニット」として中間項化している。そういうご近所では助け合いも限界を迎え、小地域単位で限界集落化(=中間項化)しているのである。

その時に、地域支援で求められているのは、伊藤さんが書くように、「中間項がさまざまな存在と連関することで媒介子化し、さらにそうした多なる媒介子同志が連関することで、新たな一としての中間項が構築されていく循環」をどう作り出すか、である。でも、これは極めて難しい。

なぜなら、端から見ていると衰退・自滅していくように思えても、既存の秩序を「当たり前」と思ってきた地域住民にとっては、その秩序を揺るがす「ある出来事に対して、地域社会の構成員であるアクター(住民)が発する不安や反論」が生まれてくるからだ。市町村合併や小学校や病院の統廃合、だけでなく、町内会や自治会のやり方を変える、PTAの連絡や回覧板をLINEに変える、など、技術的合理性や持続可能性があると思える改革であっても、既存の秩序を変えられる側にとっては、感情的な反発が先立ち、受け入れられないことがある。

その際の伊藤さんの整理は、非常に示唆深い。

「地域社会の構成員であるアクター(住民)が発する不安や反論を極力尊重する。それらを契機にして、制度や専門知のように私たちの生活に横たわる固定制や不動性を構築する事物の連関(ネットワーク)を明らかにすることで(脱ブラックボックス化)、その固定制や不動性のさらなる分節化を促そうとする。」

制度や専門知がこうなっているから、仕方ない。そういう説得の仕方は、住民には納得が出来ないし、時には反発する。11章では青森の自治体病院再編に関するケース分析が書かれているが、その中で、行政や医療関係者の意図した持続可能性や合理性に住民が反発したことを巡って、以下のような考察が展開されている。

「住民の不安や疑念を無知によるものとして片付け、専門知を『厳然たる事実』として押しつけるのではなく、住民からの不安や疑念に基づき、『議論を呼ぶ事実』として、再編がもたらす健康上の効果と影響を可視的なデータとして示すことで、住民が『批判的に近づく』ことができるようにすべきではないか。具体的には、本章で行ったような受診行動と健康上の問題に関する調査を実施し、住民からの『反論』を集め、病院再編を支える専門知の『厳然たる事実』を常に『議論を呼ぶ事実』に引き戻す経路を確保することが必要である。そうすることで、地域間の利害関心と地域住民と医療従事者の利害関心を翻訳(変換)する政治プロセスと政治的決定を生み出すことができるだろう。」(p272-273)

これは本当になるほどな、と思うのだ。自分の街から病院がなくなる、と言われると、住民は不安になる。そして、「住民の不安や疑念を無知によるものとして片付け、専門知を『厳然たる事実』として押しつけ」られると、感情的な反発は強まり、火に油を注ぐことになる。その際、臭いものに蓋をするのではなく、一時的な反発だからと「忘れる」まで時間を待つのでもなく、「住民が『批判的に近づく』」支援をした方がいい、と伊藤さんは「大胆」な提案をする。病院再編は、医師数の確保や赤字経営の脱却など、何らかのデータに基づく合理性が、その根拠にある。だが、住民は「気軽に通院できていた病院がなくなったら、何かあったときにどうしてくれるのだ?」という別の直観に基づいて、反発している。であれば、「住民からの不安や疑念に基づき、『議論を呼ぶ事実』として、再編がもたらす健康上の効果と影響を可視的なデータとして示す」ことが大切なのだ。その中で、「病院再編を支える専門知の『厳然たる事実』を常に『議論を呼ぶ事実』に引き戻」し、「受診行動と健康上の問題に関する調査を実施し、住民からの『反論』を集め」、このプロセスを通じて、住民と専門家が台頭に対話出来るような支援を行う。これこそが、「地域間の利害関心と地域住民と医療従事者の利害関心を翻訳(変換)する政治プロセスと政治的決定」につながるのだ。

でも、じゃあそれは誰がするの?という問いが浮かぶ。そこに伊藤さんは、社会学者や社会調査士が「媒介子」になれる可能性を示している。

「大学の医師数や病院勤務医数など本章で見てきたようなデータに加え、今日であれば、再編による受領行動の変容を示すレセプト情報等データベース(NDB)から、心筋梗塞や脳卒中、重度熱傷などの二次救急医療の二次医療圏内完結率を示すことはもちろんのこと、二次医療圏内で迅速に治療できることによる予後の効果を『具体的に』示すことが、住民の議論と反論と理解を喚起する指標となるだろう。これは早川洋行(2012)が指摘するような行政文化に対して、社会学者が住民との『媒介子』となって変容させる一つの方法ともなるだろう。」(p273)

行政や病院側と地域住民の利害関心が異なり、対立している状態というのは、前者のデータを一方的に示されることによる、感情的な反発である。後者は、別の感覚的な不安から、前者のデータに納得できないのだ。そうであれば、「心筋梗塞や脳卒中、重度熱傷などの二次救急医療の二次医療圏内完結率を示すことはもちろんのこと、二次医療圏内で迅速に治療できることによる予後の効果を『具体的に』示す」というかたちで、住民側の不安に直接答えるデータを提示する必要がある。それを病院側がしてくれたら有り難いが、出来ない場合もある。その場合、間にたつファシリテーターやコーディネーター的な存在が必要であり、それは社会学者や社会調査士が担える、と伊藤さんはいうのだ。

このことを読んでいて、社会学者の新原道信さんの言う「社会のオペレーター」を思い出していた。

「“社会のオペレーター(生活の場に居合わせ、声を聴き、要求の真意をつかみ、様々な「領域」を行き来し、〈ひとのつながりの新たなかたち〉を構想していくひと)”が育っています。「3.11」の後、地域の方たちとの間で何か出来ないかと考え、立川の昭和記念公園に隣接する砂川地区で、〈地域との協業〉を続けてきました。ゼミ生たちは、立川プロジェクトという調査研究・地域活動グループをつくって、砂川地区の団地の運動会や夏祭り、防災ウォークラリー、子ども会の八ヶ岳キャンプといったイベントのみならず、毎月の役員会など地域づくりの舞台裏にも参加させてもらい参与的な調査研究をしてきました。」

新原さんは、「生活の場に居合わせ、声を聴き、要求の真意をつかみ、様々な「領域」を行き来し、〈ひとのつながりの新たなかたち〉を構想していくひと」を社会のオペレーターと名付けているが、これはまさに、住民の声を聞きながら、病院や行政への不安・不満の背景という「真意」をつかみ、病院データベースを用いながら、「様々な「領域」を行き来し、〈ひとのつながりの新たなかたち〉を構想していくひと」そのものである。

また、こういうのは工学系の人も得意である。新潟つながりで言えば、都岐沙羅パートナーズセンター理事・事務局長の斎藤主税さんは、地域のこれからを話し合う場では地域カルテを作り、中学校区単位での人口動態の変化や社会資源をまとめた地域カルテを作るのを支援している(新潟市のはこちらに)。住民と行政や専門家が、共にこれからの将来を話し合うための共通の認識土台を作るのは、まさに社会のオペレーターの役割であり、「媒介子」としての専門家役割でもある、といえそうだ。そして、本当はこういう部分に、生活支援コーディネーターなども関われると、大きな可能性はある。

だいぶ寄り道したが、伊藤さんの本に戻ろう。

アクターネットワーク理論の日本への紹介者としても有名で、理論肌にも思える伊藤さんは、実は吉原直樹さんのお弟子さんとして、バリやマカオ、仙台など様々な地域でのフィールドワークを続けてきた。そして、アクターネットワーク理論に基づいて、彼のフィールドワークを捉え直しているのがこの本の後半部分であり、それがものすごく面白かった。ただ、彼がこういう形で理論と実践の統合が出来たのは、彼の変わった遍歴にも一端がある、という。

「大学院修了後には、海外留学を経て、最初の常勤ポストを山形大学医学部に得たこともあり、2008年からは10年間にわたって、主に医療をフィールドとした研究に取り組むことになった。しかし、そこで、医師を絶対的頂点とするヒエラルキーのなかで、自分の社会学の『枠組み』がほとんど通用しない現実に直面させられることになった。ハード・サイエンスに根ざすとされる営みと、時としてそれらと対抗的に扱われる社会学の営みの関係をどのように考えればよいのか。今日でも科学的エビデンスの位置づけをめぐる両者の軋轢がしばしば表面化しているが、その際に筆者が思い起こしたのがANTであった。
そこで、勤務先の環境のこともあり、しばらくの期間は、地域社会学から医療社会学や科学社会学に軸足を移し、ANTの可能性を追求することになった。そして、ANTのポテンシャルを知る中で、ANTの方法には、日本の地域社会が築き上げてきた独自の視座と方法をさらに彫琢できる可能性があることにも気づかされた」(p281)

僕も精神医療に関わっているから、彼の苦悩がめちゃくちゃわかる。昔、精神神経学会の権利擁護部会のシンポジウムに招待されて新潟に出かけた際、発表が終わった後、知り合いの精神科医がやってきて、「あんたの話に誰も興味がない!」と宣言されて、びっくりした記憶がある。曰く、「大学の医局は生物学的精神医学一色なのだから、きみのような心理社会的な話は受けるはずがない。事実、この会場は小規模だし、来ているのはマイノリティだけだ!」と。

今から思えば実に失礼なことを言われたのだが、その時は割とおちこんだ。でも、僕は一回だけだったけど、伊藤さんはそういう環境に10年も!いたのである。生物学的医学は数値化出来るエビデンスが絶対のハード・サイエンスである。一方、住民の反発や感情にはエビデンスがないと一蹴されやすい。そういう環境の中で、ハード・サイエンスと地域住民の間には媒介子として入る(=社会のオペレーターとしての)社会学者の位置づけを、伊藤さんは見いだした。それが「住民の不安や疑念を無知によるものとして片付け、専門知を『厳然たる事実』として押しつけるのではなく、住民からの不安や疑念に基づき、『議論を呼ぶ事実』として、再編がもたらす健康上の効果と影響を可視的なデータとして示すこと」であり、それを可能にしたのが、アクターネットワーク理論だった。だからこそ、医療社会学や科学社会学を自家薬籠中のものとして、「移動する地域社会学」をさらに彫琢させていったのが、この伊藤さんの大著だと、あとがきを読みながら、しみじみ感動していた。

僕が心を動かされる本は、卓越な情報処理が網羅的になされている・理論分析が鮮やかなだけの本「ではない」。情報処理や理論分析の背後に、著者の実存が乗っかっている時、深い余韻や感動が残る。この本も、間違いなくそういう余韻や感動を与えてくれた一冊だった。