想定外の事態とブリコラージュ

2月14日から15日にかけての大雪、まさか大規模な災害になるとは、当初は思ってもいなかった。
たまたま14日の金曜日は休みを取って松本に遊びに出かける予定だったのだが、朝からの急激な雪で予定を取りやめ、どか雪の中をスーパーに買い出しに出かけた。その時点では、甲府が陸の孤島になり、スーパーやコンビニから生鮮食料品が消えるとは思っていなかった。夕方降り積もる雪の中、1時間かけて車の雪かきをしていたが、まさか土曜朝に車がすっぽり埋まって、掘り出すのに3時間かかると思ってはいなかった。土曜は雪かきの後は家に籠もっていたので、まさか甲府市内ですら交通網が寸断されているとは思わなかった。テレビを付けても雪害の情報は殆どなく、多くの人々が県境や山間の道路・集落で孤立状態であるとは、土曜の段階では知るよしもなかった。まさか14日の大雪で未だに中央線の特急が止まっていて、19日の東京出張までボツになって、家でブログを書くことになるなんて、思いも寄らなかった。
事態の深刻さにやっと気づけたのは、日曜朝に近所に偵察に出かけ、除雪が手つかずの道路、埋もれている家々、あちこちでスリップして動けない車、おにぎりなどがすっからかんのコンビニ・・・などの甲府市内の現実を、目の当たりにした時だった。その後、日曜からせっせとツイッターに情報を投げたり、あるいは収集する中で、各地の大変な実情を掴み始めた。やっと中央のメディアや政府も、月曜日くらいからその全容を掴み始め、報道量も格段に増えた。その後の展開は、皆さんもご存じの通り。政府や県庁に対策本部が設置され、月曜くらいから、甲府の上空を飛ぶヘリの量が格段に増え始めた。
そんな未曾有の「想定外」の事態の中で、多くの人が、自分の現場で、出来ることを懸命にこなそうとしている。自分の家だけでなく、近所の道を必死になって雪かきし続ける。スリップして動けない車を、一緒に押して助ける。気になる要援護者の安否確認に奔走し、食事や薬を届けたり、雪かきを手伝ったりする。フェースブックで各地の被害情報をシェアしたり、ボランティアセンターを立ち上げたり、その現場に駆けつける。被害情報を集め、それを県や国に届ける。帰宅困難者のために、炊き出しなどを行う。・・・様々な現場で、様々な助け合いの営みが、自発的に展開されていた。
であるが故に、中央の政府やマスコミの動きが、後手後手に廻っているのが、目についた。SNSでも批判の声が多く挙がっていたのが、「日曜の首相は、災害対策の陣頭指揮を執らず、友人と天ぷらを食っていた」「マスコミはソチ五輪一色で、被災地情報をほとんどじてない」といった批判だ。
確かに、この二つについては、僕自身も「どうなってるんだ!」と憤りを覚えた。だが、怒りの感情に、ふと別の視点が舞い込んだ。「これって、311の後と変わらないのではないか?」と。
3年前の東日本大震災の後、初動体制の遅れやリーダーシップの不足が指摘されたのは、別の政権与党における首相だった。311の時はさすがに地震報道一色だったが、多くの孤立地域の情報は、被災後数日経たないと、その詳細も報じられなかった。それを、リーダー個人の能力不足や、マスコミの五輪利権などに原因を求めて批判する人も、少なくない。ただ、五輪は別にして、中央の政府やマスコミの対応が、3年前と今回で共通性が高い場合、それを個々の政治家や報道機関の問題に矮小化していいのだろうか。むしろ、中央集権的なシステムの限界、と考えた方が、よりクリアに見えるのではないか。そう思い始めている。
「まさか」という「想定外」の出来事。想定外、とは、普段から想像やシュミレーションが出来る範囲を超える、ということである。ということは、その現場を見ない限り、イメージがわかない、ということである。「事件は現場で起きている!」とは、「現場以外では、その事件のリアリティはわからない」という視点でもある。しかも、「2月8日の東京の大雪被害だって、翌日の9日にはなんとなかった」という直近の記憶が張り付いていたら、それが認知に大きな影響を与え、現場からのSOSに対しても、「今回の雪だって、一晩で止むよ」「災害だなんて、大げさな」という形で、「問題」を「問題」として、認識出来ない。
図らずも今回の大雪の対象地域に甲府がなった為、気づけたこと。それは、甲府や山梨の深刻さが、他の場所に伝わるために随分時間がかかった、ということだ。そして、そこには情報量の絶対的な不足、だけでなく、「まさか」「そんなはずはない」という、「想定外」に対する想像力の弱さの問題もある、と思う。逆に言えば、私たちの生活は、それほど「想定内」だけで、日常が廻ってしまっているのだ。
ジャストインタイム方式というのがある。これは、世界最大の自動車会社、トヨタの考えた「無駄を徹底的に排除する思想」だそうで、同社のHPに次のように書かれていた。
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「ジャスト・イン・タイム」とは、「必要なものを、必要なときに、必要なだけ」という意味です。自動車のように3万点にものぼる部品から造られている製品を、大量にしかも効率良く生産するためには、部品の調達などのために、ち密な生産計画を立てる必要があります。その、生産計画に応じて「必要なものを、必要なときに、必要なだけ」供給できれば、「ムダ、ムラ、ムリ」がなくなり、生産効率が向上します。
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この生産性と効率性を重視する思想は、実は現代日本で暮らす私たちにも染みついているのではないだろうか。例えば、大雪の後、スーパーやコンビニの生鮮食料品が空っぽになったり、あるいは月曜火曜のスーパーでは、品薄の商品を求めて渋滞や行列が出来た、というエピソード。そこには、「スーパーやコンビニが自宅の冷蔵庫代わりなので、買い置きは特にしない」というライフスタイルはなかったか。
さらに言えば、「必要なものを、必要なときに、必要なだけ」を実現可能にするためには、物流や道路などのインフラ整備が進んでいなければならない。Amazonの当日配達なども、これらのインフラ整備のお陰、である。裏を返せば、インフラ整備が進んでおらず、人や物の移動が困難だった時代は、冬期における食料や燃料の備蓄は当たり前だった。いや、その備蓄の為に、多大な労力を注ぎ込まない限り、冬は越せない、という時代だった。つまり、少しの自然災害だけで、日常生活に多大な被害が出るため、ボーイスカウトの標語ではないけれど、「備えよ、常に!(Be prepared)」でないと生き残れなかった。毎年のように予想できない想定外の事態と、戦い続けた日々だった。
それが、戦後の高度経済成長、そしてここ20年代の急速なIT化で、「予測可能」とどこかで錯覚しはじめたのではないか?
確かに、インフラ整備や高度情報化社会の中で、「コントロールできる範囲」が確実に増えた。だからこそ、大量生産・大量消費が可能になり、そこから、「必要なものを、必要なときに、必要なだけ」という思考や行動様式が生まれてきた。だが、これらは、昨日や今日が明日、何もなく続くことが前提となる、平時の思想である。突発的な災害や事故など、「想定外」の事態に飲み込まれると、もうコントロール不能になる。でも、そんなコントロール不能なことに直面する機会が少なくなり、自然を制御した、と錯覚すると、想像力が、以前に比べて低下した。だからこそ、本当に想定外の事態に飲み込まれても、杓子定規な前例踏襲的対応を取ったり、あるいはその問題の重要性に気づけなかったりする。あるいは、実際、その現場に直面すると、パニックになって、何も考えられなくなってしまう。
これは、マスコミや官僚、中央の政治家への批判に留まらない。僕自身に内在している「盲点」ではないか、と感じ始めている。
では、どうすればいいのか?
単純な話だが、「世間の常識や前例を鵜呑みにせず、考え続けること」「想定外の事態が起きたら、臨機応変に動きながら、その考えを刻々と修正していくこと」しかない、と思う。
これは、僕自身が関わる、障害者の地域自立支援協議会や、高齢者の地域包括ケアシステムの話とも通底する。
このどちらも、トップダウンで国の言うことの「指示待ち」ではなく、その地域で求められている障害者・高齢者の支援方策を、その地域の実情に合わせて、その地域の人々の協働の中で作り上げていこう、というシステムである。国が、障害福祉計画・介護保険事業計画・地域福祉計画との連動の中で考えよ、と大枠を示しているが、その中身は、各自治体の裁量に任されている。そして、各自治体レベルでは、この「裁量」をどう活かしたらいいのか、に試行錯誤しており、うまく活かせている自治体と、そうではない自治体にわかれる。そして、上手く活かせている自治体ほど、先ほど述べた、「世間の常識や前例を鵜呑みにせず、考え続けること」「想定外の事態が起きたら、臨機応変に動きながら、その考えを刻々と修正していくこと」が出来ている。これは一体どういうことか?
「事件は現場で起きている」。ゆえに、解決策は、標準化や規格化が可能ではない。その地域のローカルな文脈に合わせた形で、その現場で成功する解決策を導き出すしかない。つまり、「正解」はなく、「成解」を見出すしかない、というのが、地域福祉のリアリティである。(これについては、以前のブログにも、『枠組み外しの旅』にも、書いた事がある) そして、それはそっくり、災害時の対応にも当てはまる。
「必要なものを、必要なときに、必要なだけ」というのは、「何が必要か」がわかっている、つまり必要なものが規格化・標準化されている限りにおいて、通用する思想である。常に同じパターンの繰り返しであるが故に、「必要・不必要」の基準も「規格化」が可能であり、その規格外のものは全て「無駄」として切り捨てることが可能である、という視点である。それは、効率化と合理化を進める限りにおいては、正しい。想定内の事態に備える、という「リスク管理」的には、合理的である。だが、「何が正しいかわからない」というデインジャーの事態に遭遇したとき、その範囲を超える。(この点については、内田樹先生が何度も指摘している)
今回の雪害だけでなく、東日本大震災にしても、原発災害にしても、生じてしまった問題にどう対応すべきか、について、唯一の「正解」はない。それは、少子高齢化にどう備えるか、災害時要援護者をどう見守る体制を作るのか、という問いでも同じである。たった一つの「正解」がない問題とは、標準化や規格化が不能な問題、とも言える。ということは、合理化や効率化、あるいはこれまでの法制度はこうだったからその枠内でという前例踏襲主義の考え方では、うまくいかないということだ。そこで必要になるのは、これも内田先生からの孫請けになるが、レヴィ=ストロースの言うブリコラージュ、つまり目の前にある素材を使いながら、その場で出来ることを片付けていく、という「ありあわせの料理」で何とかするしかない。
ただ、過去数十年の、標準化・規格化・効率化・合理化が進んだ現場で、この「あり合わせの料理」をする力を備えた人材が減りつつある、とも思う。地域住民レベルでは、「行政サービスがちゃんとしろ!」という「消費者」モードになると、自分たちの街を自分たちの手で作り上げる、という自主活動が、どんどん先細りつつある。町内会・自治会・消防団活動の低迷は、その顕著な例である。また、地方自治体も、合併前後で、効率性を重視して人を減らしすぎて、いざという時に人海戦術が出来ないのは、今回の雪害でも見られた。また、旧芦川村や旧三富村、旧増富村など、未だに孤立していたり、あるいは除雪の進んでいない山間部地域は、限界集落に近い過疎地域であり、災害時要援護者が沢山いる、だけでなく、合併後にそれまでのきめ細かい住民サービスから取り残された地域であり、今回の雪害後も、その被害の実態が把握されない、情報が伝わってこない、という悲鳴が、SNSを通じて聞こえてくる地域である。
私たちの暮らしは、表面的には、標準化や規格化が進んでいる。だが、それは円滑に機能する部分だけであり、それ以外の部分は多様な不合理で、規格外で、標準化不能な領域を孕んでいる。例えば、独居高齢者、老老介護・認認介護・老障介護家庭、引きこもり、「多問題」家族などは、「標準化」「合理化」という尺度から眺めれば、ある種の「規格外」の存在であるが、その数は増えているし、こういうカテゴリーに属する人の中には、災害時要援護者になる人も少なくない。であるからこそ、標準化・規格化された領域だけで考えるのではなく、規格化や標準化不能な領域での人々の支援の有り様から、逆に私たちの標準化・規格化「幻想」の枠組みの問題も見えて来るのかもしれない。
長々まとまりなく書いてきたが、この文章自体にも一定の「正解」があるのではない。僕自身が自分の盲点を自覚化し、「世間の常識や前例を鵜呑みにせず、考え続けること」「想定外の事態が起きたら、臨機応変に動きながら、その考えを刻々と修正していくこと」を、実践し続けていきたい。そして、僕が関わる場で、現場の人々と考えあいながら、何らかの成功する解決策を見出したい。そんなことを改めて感じた雪害であった。

バイアスやストーリーの自覚化

僕が、一日で一番本を熱心に読む場所は、もしかしたらお風呂もしれない。

そう言うと、かならず尋ねられる。「本がシワシワになりませんか?」
ご心配なく。日本の本の紙質は非常に良いので、新刊本なら、間違いなくパリッとしている。この前、状態の良い1989年印刷の古本を読んでいたが、それでも何ら問題はなかった。たまに赤ペンまで持参して、風呂の中で線を引いたりコメントするも、大丈夫。その昔、居間の本を片付けない僕を懲らしめようとした家人にイタズラされて、その時読んでいた本を洗濯機に隠されたことに気づかず、そのまま「洗ってしまった」こともあったが、さすがにシワシワになるも、乾かしたらその本は読めたくらいだから。(とはいえ、赤ペンの線は消えましたが・・・)
なぜ、風呂読書が好きなのか。それは、この情報化社会の中にあって、風呂空間だけは、完全に外界と遮断が出来る、ということ。いや、もちろんお風呂にテレビや携帯を持ち込める時代とは知っているが、僕はそれはしない。湯気の中、ある種、胎内に回帰するような空間の中で、ネットや騒音などのノイズを遮断して、本とじっくり対話する時間。当たり前だが、図書館や他者から借りた本は持ち込めないので、自腹本ばかり。そして、自腹本なら、「読むべき本」ではなく、「読みたい本」をお風呂読書のお供にする。
昨日も、気づけば1時間半、ある本の世界にすっかりはまり込んでいた。最相葉月さんの新刊『セラピスト』(新潮社)。ベストセラーの『絶対音感』の著者だ、とは知っていたが、縁あって初めての彼女の著作に触れる。そして、その世界にはまり込みながら、僕自身が精神医学や臨床心理に興味を抱く部分と、彼女の執筆動機が似ている事に気づく。
「自分のことって本当にわからない-。そう。自分のことって本当にわからない。」(p320)
僕自身は、高校生の頃、河合隼雄の名著『こころの処方箋』(新潮文庫)に出会い、中学時代から北杜夫のエッセイ好きもあって、臨床心理や精神医学に興味があった。で、入った大学では臨床心理のコースもあったのだが、心理学実験には苦手な統計が必須であることと、あるユング派セラピストの教官に「君は黙って相手が話し出すのを待つことが出来る?」という問いかけに答えられず、社会学系に切り替えた思い出がある。でも、ずっと興味関心は持ち続け、本書に出てくる河合隼雄や中井久夫、ユング派の論考、木村敏・・・などの著作は読み続けてきた。また、一冊目の拙著『枠組み外しの旅』は、副題が「個性化が変える福祉社会」というタイトルに象徴されるように、本を書き進める中でユングの「個性化」理論を取り入れた事から、思わぬブレークスルーを頂く事が出来た。でも、「自分のことって本当にわからない」というのは最相さんと同じで、時折そんなことを、ブログにも書き付けている。 (「内奥への旅」「人生の正午にさしかかり」・・・)
で、ここ数年、そうやって本を読み続け、自分自身の考えも時折書き続けながら、自分自身や自分の心を巡る問題を眺め続けてきた。同じように、最相さんも、このテーマに取り組み始めた時、臨床心理学者の木村晴子氏から、「この世界を取材するのであれば、あなたも自分を知らなければならない」と言われた。そのことを考え続け、後に河合隼雄氏のご子息で同じく臨床心理学者の河合俊雄氏に尋ねると、こんな答が返ってきたという。
「自分はこう見てしまうといったバイアスや、相手にこういうことをしゃべらせたいという自分なりのストーリーを自覚するということでしょうか」(p319)
自分の「バイアス」だけでなく、「自分なりのストーリー」の「自覚化」。
ああ、と繋がった感覚。それは、この正月からずっと読み続けている、ユング心理学出身で、今では独自のプロセス指向心理学を体系付けたアーノルド・ミンデルの最新邦訳の中にも、この「自覚」がキーワードになっているのだ。
「自覚は戦わない。自覚は戦いに気づき、またその場で起きているさまざまな出来事に気づくが、何かと同一化したり、それらに評価を下したりはしない。自覚があれば、あなたはみんなの自発的な行動に気づくことができ、そこからみんなにとっての最善の道となる思いがけないプロセスが展開するだろう。」(ミンデル『ディープ・デモクラシー』春秋社、p55)
最相さんも、あとがきの中で、僕と同じように「沈黙が苦手」と告白する。「あのう、といわずにただ黙っていることがいかにむずかしいかと思う」(p331)というのは、僕自身にもそのまま当てはまるリアリティである。ただ、彼女が中井久夫へのインタビューから学んだのは、次の視点であった。
「言葉によって因果関係をつなぎ、物語をつくることで人は安住する。しかし、振り回され、身動きさせなくなるのもまた言葉であり、物語である―。中井久夫のそんな言葉が取材中、頭を離れなかった。それは、ノンフィクションといいながらも、自分の見立てやストーリーからはみ出るものを刈り取る行為を意図的に、あるいは無意識のうちにしていることを自覚化していたからである。」(最相、同上、p332)
「言葉によって因果関係をつなぎ、物語をつくることで人は安住する」
だからこそ、この「安住」打ち破られた時、別の「因果関係」に基づく「物語」が打ち立てられる。例えば、「聴覚障害を乗り越えた」「奇跡の」作曲家として売り出されていた佐村河内氏が、実は別の作曲家に作曲を依頼していた問題に関して、マスコミは今度は「偽装だ」「耳は聞こえていたのに」という別の「因果関係」に基づく「物語」で、彼を糾弾する。マッチポンプ的に、ある人を取り上げ、落とす。この国の政治家や芸能人、スポーツ選手などの有名人に、マスコミが行ってきているのは、このような定型的な物語への「安住」と、それが破綻した時に別の物語へと作り替える事で、少なくとも、物語の作者のマスコミと、聴き手の視聴者が「安住」する共犯関係の構築である。しかし、この共犯関係の最大の問題は、「自分の見立てやストーリーからはみ出るものを刈り取る行為」への「無自覚」さ、である。自分の「バイアス」や、「自分なりのストーリー」の癖の無自覚である。
この「無自覚」の何
が問題なのか。それは、ミンデルの議論を「逆さ」にすればわかる。「何かと同一化したり、それらに評価を下」すことに一生懸命になると、「みんなの自発的な行動に気づくことができ」ず、気づけば他者と「戦い」をはじめることになり、「みんなにとっての最善の道」を描くプロセスを歩めない、と。これって、中国や韓国との敵対的感情のマッチポンプ、とも共通項がありそうだ。
ソクラテスではないけれど、「汝、自身を知れ」とは、自らの「バイアス」や「ストーリー」を自覚化せよ、ということだと、つくづく思う。
「自分はこう見てしまう」「相手にこういうことをしゃべらせたい」という、普段主題化されない、ある種の支配的欲望。これに無自覚であれば、自分が選択的に「見てしまう」情報のみを、「ツイッターではみんなこう言っている」と「事実認識」として受け止め、「○○さんもこう言っているではないか」と、自分の聞きたいことを「しゃべらせ」、それを「因果関係」の「物語」でつなぎ、その世界に「安住」してしまう。しかし、そんな狭隘な「因果関係」だけではうまくいかないから、時として、「振り回され、身動きさせなくなるのもまた言葉であり、物語である」のだ。では、どうすればいいのか?
それも、中井久夫の発言の中に、ヒントが隠されている。
「言語は因果関係からなかなか抜け出せないのですね。因果関係をつくってしまうのはフィクションであり、治療を誤らせ、停滞させる、膠着させると考えられても当然だと思います。河合隼雄先生と交わした会話で、いい治療的会話の中に、脱因果的思考という条件を挙げたら多いに賛成していただけました。つまり因果論を表に出すなということです。」(p270)
「脱因果論的思考」とは、なかなか言い得て妙な表現である。「因果関係」を一つの「フィクション」と認識する、ある種の「メタ認識」のこと、ともいえる。「自分はこう見てしまう」「相手にこういうことをしゃべらせたい」という、自分の世界認識に通底する支配欲を認識する「メタ認識」である。この「メタ認識」があると、自分が強く「因果関係」として結びつけやすい要素「以外」の、別の物語、別の可能性が、生まれてくるのかもしれない。そういえば、それを河合隼雄自身が、茂木健一郎との対話の中で、次のように語っていた。以前のブログでも引用しているが、もう一度。
「近代科学は、ご存じのように、関係性を絶って、客観的に研究する。しかし、われわれのほうは関係性がなかったら、絶対、話にならない。だから、その関係のあり方をすごく大事にしていく。それから生命現象というものは、物理の力学のように、これだけ質量があって、位置がこうで、というふうに定義できないんですね。また物理は、目で見えていること以外のことを絶対扱わない。しかも、ほかにどんな可能性があるか、それに気づこうとしない。それに気がついて、そこに注目して、ユングなんかはやったわけですね。」(河合隼雄・茂木健一郎『こころと脳の対話』新潮文庫、p16)
「原因」と「結果」とは、様々な「関係性」の中から、「目で見えていること」の一つを選び取った、複数ある物語のうちの一つ、である。しかし、「関係性」の中から展開される「生命現象」に関しては、一つの「因果関係」以外の、別の「可能性」があり得る。それを、安易に「因果関係モデル」(=客観性)の中に閉じ込めず、生命現象そのものとして眺める事は出来ないか。これが、河合の問いかけである。これは「奇跡の音楽家」「詐欺的行為」などの表面的レッテルで「わかったふり」をして、その「物語」世界に「安住する」、その己の認知のバイアスを認識する「メタ認知」であり、「脱因果的思考」である。
風呂読書が大切なのは、電話やネット、社会的しがらみや立場主義といった、「つながり」によるバイアスから、いったんは自由になれること。その上で、自らの内奥に潜む、自らの「バイアス」「ストーリー」を自覚化しやすい空間である、ということかもしれない。だからこそ、毎日風呂に浸かってどっぷり汗をかきながら、本の世界に浸りながら、実は自分の「物語」世界を「自覚化」する旅に、出ているのかもしれない。