あっという間に・・・

 

7月も気がつけば怒濤のごとく過ぎていった。

6月末も〆切に追われていたが、今月も輪をかけるように〆切があったような気がする。
詳しくは覚えてないが、講演のレジュメやら、査読論文やら、法律の翻訳やら・・・慣れない仕事が多いが、とにかく出来ればやってしまいたい、エイヤッ、と力づくでいろんなことに体当たりしてきた。

思えば事の発端は、数ヶ月前のこと。恩師の先生に、「ちゃんと調査で調べたものにはキッチリと片を付けてから、次に進みなさい」と言われたことに端を発する。それまで、海外に何度も調査に行くが、その割にアウトプットが少なかった。きっちり調べきり、一つの作品に仕上げるまでに、次のことに興味が出てしまい、なので現地で仕入れたネタを、腐らせる、とは言わないまでも、ちゃんと昇華(消化)しきる以前に、放ったらかしていた部分も少なからずある。「10取材して1を原稿に出来たら良い方だ」とは、ジャーナリストの指導教官の発言だが、僕の場合は、「1を原稿にする」ということすら出来ていない取材もあった。なんと、もったいない、というか、罰当たりな。なので、今回は粘りに粘って、その「1を原稿にする」というのを、何とか産み出そう、という産みの苦しみの7月だったのだ。

おかげさんで、結果として、カリフォルニア州の精神保健福祉政策と財源問題をある査読に出し、同じくカリフォルニア州の隔離拘束の最小化に関する法律の翻訳をある雑誌向けに載せてもらう手はずが、とりあえず整った。しんどいが、今月「二つの借金」を一応返済した気分で、今すこしすっきりしている。前者も面白いが、後者の法律の翻訳も結構面白かった。どんな内容か、というと・・・翻訳の前につけた、説明文をはっつけてみよう。

「この法律は、州立精神病院や障害者入所施設などにおける違法な隔離拘束による人権侵害事例を調査してきた公的権利保護・擁護機関(PAI)に所属する弁護士が、人権侵害の再発を防止するために作成に関与した、という点が大きな特徴である。そのため中身も、最も危険な拘束技術の禁止や、隔離拘束後の評価・報告聴取の実施、一つ一つの隔離拘束事例の記録化とその報告義務、集められたデータの情報公開、そして隔離拘束に関する技術指導やトレーニングプログラム開発など、隔離拘束を減らすための具体的な取り組みが定められている。今後の我が国における精神科病院や障害者入所施設での隔離拘束の最小化の取り組みに際して、この法律から私たちが学ぶことが出来る点は多い。」

どうです? 面白そうでしょう? え、マニアックだって? いやいや、真理は細部に宿る、ですよ。今回、この法律を作った弁護士に実際にインタビューしていたので、一文一文の法律を、大変よく噛みしめながら、訳すことが出来て、すごく面白かった。彼女はこういうことを意図しながら、こういう目的で、このセンテンスを書いたんだろうな。そんな推測を交えると、無味乾燥に見える条文も実に彩りをましてくる。というか、この条文自体が、ナース兼弁護士のPAIの弁護士の想いが一杯詰まっており、読み込めば、すごく魅力的な内容である。ご興味のある方は、是非とも9月発売の「季刊福祉労働112号」(現代書館)をお楽しみに。ついでに、110号と111号の二号連続で、そのカリフォルニア州の精神保健福祉政策や訳した法律の概要をご紹介しているので、そちらもよかったら読んでみてくださいませ。

でも、実はまだ7月末〆切(だけれど少しはのばせそうなもの)が二本、残っている。とある教科書に載せる「精神科ソーシャルワーカーの意義」についての原稿と、紀要に載せる予定の「精神障害者の権利剥奪の現状について」。7月に書いたものといい、予定の二本といい、久しぶりに「精神」モードの原稿をあれこれ書いている自分がいる。

夏休みは、このままではまとまった休日が取れなさそうだ。でも、原稿を書きながら、最近、少しずつノって、楽しんでいる自分がいることを発見している。何年か越しに考えていたテーマも、形を変えて、また原稿にしよう、という意欲もわいてきている。これまで現場で見聞きしたことも、調査で色々感じたことも、その多くをため込んで、アウトプット仕切れていない自分がいた。全てをアウトプットすることは不可能だけれど、出来る限り色んな方面から、様々な媒体を使って、とにかく書ける限り書き進めてみよう、そんなことを感じている7月末であった。

「越権行為」にならないために

 

「被害者との同一化によって『告発者』の地位を得ようとする戦略そのものは別に特異なものではない。『周知の被迫害者』とわが身を同一化することによって、倫理的な優位性を略取しようとする構えはすべての『左翼的思考』に固有のものである。『告発者』たちは、わが身と同定すべき『窮民』として、あるときは『プロレタリア』を、あるときは『サバルタン』を、あるときは『難民』を、あるときは『障害者』を、あるときは『性的マイノリティ』を・・・と無限に『被差別者』のシニフィアンを取り替えることができる。『被差別者』たちの傷の深さと尊厳の喪失こそが、彼らと同一化するおのれ自身の正義と倫理性を担保してくれるからである。」(内田樹『私家版・ユダヤ文化論』文春新書 p70

またも内田師の引用から始まってしまった。とにかく今の「マイブーム」なので、早速出た新刊を味読しながら、今日も思わず「ホホー」と唸る部分にドッグイヤーをつけていたら、あちこち耳だらけ、になってしまった。今日はその中でも一番「ホホー」度が高かったこの部分を引いてみる。

そう、障害者問題に関わっていて、自分を一番厳しく戒めなければならないのが、「彼らと同一化する」ことによって「おのれ自身の正義と倫理性を担保」しようとしていないか、という点である。これは二回前のブログで書いたことの繰り返しになるが(「代訴人」と「本人」)、代弁者は、その代弁する対象者の「傷の深さと尊厳の喪失」が深刻であればあるほど、自らの「代弁者」(=「代訴人」)としての地位を確固たるものとする。「こんなに可哀想な人達がいる」と声高に叫ぶことによって、その「可哀想な人達」のことに気づかずにいる無知蒙昧な市民と違って、ちゃんと彼ら彼女らの声を先進的に受け止めている知者としての「代弁者」たる己の地位を、自分の努力でなく、代弁するはずの当の「被差別者」を「利用して」、確立しようとしているのである。そして、この枠組みにひとたびのっかると、「代訴人」という特権的な地位や、その地位に基づき「○○は悪い」という他責的な非難のロジックで糾弾できることの快感に身を委ね、気がつけばその地位にしがみつきたくなる、という人が出てくるのも、理解できなくはない(事の理非は別として)。代弁者は、代弁する人本人に直接「語らせない」限り、一番弱いモノの味方である、という一番強いカードを手にすることになるのである。そこから、本人に直接「語らせる」ことを封印する「代弁者」が出てきてもおかしくない。

だが代弁者が不要だ、といっている訳ではない。そうではなくて、代弁者が、どこまでが「代弁」役割であって、どこからは「本人」の越権行為か、をきちんと理解しているか、が大切になってくる。僕も、恥ずかしながら山梨でいろいろな講演をさせていただく。その時、当事者の代弁者、という形で語るモードに入っていないか、をいつもチェックする必要がある。権利擁護の問題を考える時に大切なのは、権利剥奪状態の当事者の「代わり」に周りのモノがヤイヤイ言うとではない。そうではなくて、本人が言えないとしたら、なぜ言えないのか、なぜ「代わり」のものがヤイヤイ言わなければならないのか、本人が「権利剥奪状態」を「主張」出来るためには、どのようなシステムや支援が必要なのか・・・これらのことを分析した上で、提示していくことであるはずだ。つまりは、本人が言える仕組みになっていないのなら、その機能不全を指摘した上で、どういうことが「本人が言える」ためには必要なのか、を提示すること。これが、本来の「アドボケイト」(=権利擁護者)の役割だと思う。

代弁者は、善なる意志を持って始めたとしても、気がつけば、己が意志を、本人の状況に仮託して語る可能性が高い。常にその部分にこそ「おのれ自身の正義と倫理性」を振り向け、おのれの逸脱にこそ、厳しい目を向け続ける、そういう己自身への「告発」の眼差しをこそ、しんどいけど持ち続ける必要があるのではないか、そんな風に感じている。

学恩の効用

 

「先行研究に何も負っていないまったくインディペンデントな学術研究などというものは存在しない。
だから、先行世代からの学恩に対して十分にディセントであること。
先行研究がどれほど「時代遅れ」に見えようとも「短見」に映ろうとも、その先行研究があったからこそ、どういう知見が「時代遅れ」であり「短見」であるかが後続世代に明らかにされたのである。
研究史外観や先行研究批判というのは、「こんにちは」のあとに、「ひさしくご無礼しておりましたが、今日は近くまで参りましたので・・・」とか「先般はまことに結構なものを頂きまして、今日はその御礼に・・・」とか続けるのとまったく同じことである。
自分のいまの仕事はいつだってある「続きもの」のなかの一こまである。
誰かが私をインスパイアしたのである。
その消息について論及するのが先行研究批判である。」
(内田樹ブログ20060721日「若い研究者たちへ」より)

僕には師は複数人いる。
研究や論文について常に暖かい助言をくださっている師以外にも、人生の様々な局面で導いてくださる師が、ありがたいことに何人かいる。それに加えて、内田樹師は僕が勝手に(一方的片思いで)弟子入りしているもう一人の師。本当に「参りました」の至言が多いが、数日前のブログにも参ってしまった。

大学院時代、いったいなぜ先行研究をこれほどReviewする必要があるのか、よくわかっていなかった。「この分野にはまともな研究がない」といつも呪文のように唱えていた。だが、その当時、自分自身は「その先行研究があったからこそ、どういう知見が『時代遅れ』であり『短見』であるかが後続世代に明らかにされたのである」という理路にはたどり着かなかった。「まともな研究がない」なんて言う前に、本当にそうか、を調べることをしなかった。そんな無知蒙昧な僕に、先行研究や抽象的議論の大切さを周りで仰る方々はいても、それがどのように大切なのか、を心に響く形で僕に伝えてくださる方はいなかった。だから、気がつけば「先行世代からの学恩に対して十分にディセント」ではないタケバタがいた。

今ようやく「学恩」に対して、少しは「ディセント」になりつつある自分がいる。
最近何度も書いているが、他責的かつタコツボ的に「○○が悪い」というのではなく、「どういう知見が『時代遅れ』であり『短見』であるかが後続世代に明らかにされた」、そのありがたい(反面)教師である先行研究に対して、ご挨拶してから、更なる論を進めていけばいいのである。「まともな研究がない」なんて不遜なことを言う前に、どうして現時点から懐古的に見れば「まとも」に見えない研究が出てきたのか、への謙虚な配慮を、当時の文脈にあわせながらReviewしておくことが、「ディセント」なのだろう。

同じ内田、つながりでは、内田義彦氏も、同じことを言っている。
「現代を、あたかも後代の人の眼によるかのごとく透明にとらえる作業の訓練のためにも、過去を-後代からの透明な眼ばかりでなく-同時代に生きる人の曇った眼を合わせもって捉える必要がある」(内田義彦「生きること 学ぶこと」藤原書店 p104)

内田師は、やはり、すごい。

「代訴人」と「本人」

 

「今の私たちの世界に『神の代訴人』や『神の遺言執行人』を自称する人々はもうそれほど多くはないし、その名乗りを信じる人も少ない。しかし、『死者の代訴人』、『死者の遺言執行人』たることをみずからの倫理的責務であると信じている『善意の人々』は数多く存在する。かつてマルクス主義者は『プロレタリアと第三世界の被抑圧大衆』の前に恥じ入ることで、おのれの『政治的正しさ』を基礎づけ、知的威信を獲得しようと望んだ。今また別の人々は、そのつどの『弱者』(被抑圧者、被迫害者、被差別者)を探し出し、彼らの『代訴人』という立場から正義を要請しようとする。その初発の動機がどれほど善意であっても、その理路はついに存在論的であることをまぬがれない。というのも、そのようなとき、『他者』たちは、まさに『私』の道徳的・知的卓越の『証人』として存在のうちに召喚されているからである。『他者』たちは『「私」を審問する』仕事を通じて、『「私」を基礎づける』作業に功利的に使役されている。『他者』たちは全体性のエコノミーの中にきちんと戸籍登録され、IDカードを発行され、その勤務形態についてことこまかな規則を課されて、『使役』されるのである。」(内田樹『死者と他者-ラカンによるレヴィナス』海鳥社、p188-189)

グサリと胸に突き刺さるフレーズである。
障害者福祉政策を研究している一人の人間として、僕自身のものの考え方が、「彼らの『代訴人』という立場から正義を要請しようとする」枠組みの中にないか? 正直に言うと、ないとは言えないような気がする。だが、内田氏は彼の師のレヴィナスの「他者論」を元に、こう断言する。
「そのようなとき、『他者』たちは、まさに『私』の道徳的・知的卓越の『証人』として存在のうちに召喚されている」
タケバタの「道徳的・知的卓越の『証人』」として、「おのれの『政治的正しさ』を基礎づけ、知的威信を獲得しようと」するその手段や道具として、「代訴人」や「遺言執行人」役割になろうとしてはいないか? そういうスタンスで障害者を「他者」として見立てようとするのならば、障害者とカテゴライズされる人々からすると、タケバタという「私」によって、「『「私」を基礎づける』作業に功利的に使役されている」という疑いを抱かれる可能性がある。実際に、ある知人の障害者は繰り返し、専門職や研究者を「障害者をダシにして生きている」と告発している。その言説の鋭さ、厳しさに違和感を覚えながらも、でも「功利的に使役されている」側からの強い反発の主張と考えたら、それにはごく当たり前の正当性を感じている自分もいる。

ではどうしたらいいのか?この問いに一元的に答えられるマニュアルとか模範解答などないように思う。ただ、現時点で感じているのは、常にこの「代訴人」や「遺言執行人」的役割に自らが陥ることがないか、をチェックする姿勢、であろう。障害者政策で言えば、障害当事者が繰り返し主張してきたことは、「私たち抜きで私たちのことを何も決めないで(Nothing about us without us!)」であった。つまり、「代訴人」や「遺言執行人」に障害者が全てを委ねた覚えは全くない、ということである。「代訴人」や「遺言執行人」ではなく、自分自身が訴えることに耳を傾けてほしい、ということである。障害者に関する政策を形成する過程に、「代訴人」でなく「本人」を入れてほしい、ということである。

この現実から見てみると、障害者自立支援法の政策形成過程でも、あるいは福祉現場の調査をしていても、「代訴人」や「遺言執行人」が跋扈しているのを、本当によく眼にする。問題は、「本人」が訴える力、主張する力を信じることなく、はなから無理と決めつけて、「代訴人」がシャシャリ出てはいないか、という点である。あるいは、「本人」を「功利的に使役」しながら、「本人」の想いや願い、ではなく、「代訴人」の想いや願いの実現のためにアクセクしてはいないか、という点である。「本人」の自己実現の為の法や制度や福祉政策のはずが、気がつけば「代訴人」達のそれとなってはいないか、ということが一番の問題なのだ。

だが、「本人」の「訴え」だけで、必ずしも物事が通らない時もある。例えば国政を左右する国会議員は、国民の「代訴人」として機能しているともいえる。その時、「代訴人」役割を引き受けるものに大切なのは、「代訴人」の自己実現の為ではなく、「代わりとなる」べき「本人」の声をどう政策に反映させるか、という点である。この辺の誠実さが「代訴人」に欠けているから、長年の「代訴人」である政治家に対する不信に結びついている。

だが、これは何も政治家に限ったことではない。この批判の眼を、他責的に、ではなく、常に自分にも「有責的」に引き受け、自覚できるかどうか、が、僕自身がこれから仕事をしていく上でも、一つの分かれ目のような気がしている。

出会いの有り難さ

 

「師が弟子にもたらすもっとも重要な教えとは、何よりも、外部が存在することを教えることである。それは『師の現前』というそれ自体『外部的』な経験によって担保される。
師は、なにごとか有用な知見を弟子に教えるのではない。そうではなくて、弟子の『内部』には存在しない知が、『外部』には存在するという知を伝えるのである。『師』とは何よりもまず『知のありかについての知』を弟子に伝える機能なのである。」(内田樹『他者と死者-ラカンによるレヴィナス』海鳥社、p59

そういえば、僕自身、師との出会いはまさに自分自身の「外部的」な経験そのものだったような気がする。自分がそれまで持っていた、これっぽっちの矮小な世界観が吹っ飛んでしまうほど、師の教えは僕自身の「内部」とは全く異なる「外部」世界だった。それは、世界が拡がる経験、というか、「こんな世界があるのだ」と再発見する旅を誘う導師の役割を師が果たしてくださった、というべきか。

自分がまがりなりにも大学でゼミを持つようになり、今さらながら、自分が師事できた複数の師匠の方々の存在を、心より有り難く思う。中には「師事する」ということに、上下関係を見いだして嫌悪感を抱く人もいるかもしれない。だが、僕自身、自分の大変狭い視野を広げる上で、思いも寄らなかった視点を獲得する上で、10代から20代にかけて出逢えた何人かのかけがえない師に対して、本当に師事できたことを心から感謝している。きっと、自分の今の視点、今の観点、今の物事の捉え方は、そういった師を媒介とした「外部」世界とのアクセスなしには持ち得なかっただろう。

我が師は皆、「『師』とは何よりもまず『知のありかについての知』を弟子に伝える機能」を持っていた。ぼちぼち今度は、僕自身がゼミ生や学生達に対して、このような「伝達機能」を持っているか、が試される時が近づいている。そのためにも、もう一歩、「外部」に歩み出でる必要が僕自身にあるような気がしている。

運命へのチャレンジ

 

ヘラクレイトスの「運命は性格にあり」という箴言に寄せて、池田晶子氏は次のように書いている。

「これはその人の性格が運命的に決まっているということではありません。その性格が、その性格によってその人をつくっているという、気がついてみると、あっと驚くほど当たり前のことなんです、運命は決してどこからか与えられているのではなくて、その人の性格そのものですね。(中略) 別の言い方をすれば、その人はその人がするようにしかできないということです。これは完全な同語反復ですけれども、でも事態は確かにそうですね。誰も自分のするようにしかできない。そうですよね。だから、まさしくこれが運命というそのことなんです。」(「人生のほんとう」池田晶子著、トランスビュー p140)

人生について考える、という時に、私たちが普通思い浮かべやすい「処世術」とは全く違う形で、「人生のほんとう」を考え続けている池田氏の著作はずっと読み続けて来たが、講演録に基づく今回の作品も、また色々な気づきを与えてくれるものだった。

「タケバタはタケバタがするようにしかできない」。でも、これは裏を返せば「タケバタがするよう」なやり方を変えれば、タケバタの「運命」は変わりうる、ということでもある。性格そのものは変えにくい性質かもしれないが、性格の特質を掴んだ上で、その性格の中の活かせる部分をうまく活かそうと働きかけることによって、「運命」の変化へと繋がっていく、そう読み解くことも出来る。そのために必要なことも、ちゃんと池田氏は書いてくれている。

「キャラクターを生きている人間は、必ずその物語を生きざるを得ないのですが、その巻き込み巻き込まれ関係から、巻き込まれつつそれを見ているという、そういう生き方ですね。つまり、自分の人生を自分が生きているのを、芝居をしているのを見るような感じで生きるのかな。」(同上、p154)

そう、ここで必要なのは、「物語」への「巻き込み巻き込まれ」を「見る」自分の存在だ。
「見る」ことが出来る、からといって、だから人生全てをコントロール出来る、なんて不遜なことは思わない。コントロールしようにも、思いも寄らぬ方向から、知るよしもなかった様々なことが、次々とおそってくる、というのが「世の常」であるからだ。でも「巻き込まれつつそれを見ている」のかどうか、は、人生の様々な結節点への対応として、大きな分かれ目になると思う。

「つまらない物語に巻き込まれて、それを本当だと思い込んでいるよりも、この方がずいぶん面白いと思います。」(同上、p154)

「巻き込まれ」た時に、その「巻き込まれつつ」ある状況をじっくり考えることなく、「それを本当だと思い込」むことの問題性は大きい。「○○だからしかたない」と私たちが他責的修辞で語る時、しばしば私たちは「巻き込まれ」た事象を自明のものとして受け入れている。だが、「巻き込まれつつそれを見ている」自分がいれば、事態は別の方向に進みうる。「巻き込まれつつ」あることは事実であっても、それを「見ている」自分が考えることによって、諦めずに考え続けることによって、「しかたない」と諦念する以外の他のやり方、が見つかるかもしれないからだ。そういう意味では、その昔読んだ内田義彦先生の「運命へのチャレンジ」という言葉は、決して昔物語ではない。「誰も自分のするようにしかできない」ということは、繰り返すが、「自分のするよう」の在り方を変えていけば、「出来ること」も変わっていくのだ。

このことを、現実的問題に当てはめても、そう思う。障害者の分野では、4月に出来た「障害者自立支援法」という一つの「物語」を巡って、諦めや失意など、関係者は様々な気持ちを持っている。昨日、福祉施設で働く介護職の現任者講習の講師を務めてきたのだが、現場の方々からは「いろいろしたくっても、とにかく書類やら雑用やらが多くって、時間がなくって・・・」という言葉も聴く。だが、そういう現状を「言い訳」にしているのも、もしかしたら「自分のするようにしかできない」という意味で、運命への諦念であり、諦めでないか。キツイ言い方をしてしまうと、「つまらない物語に巻き込まれて、それを本当だと思い込んでいる」部分はないか? 本当に時間は全くなくて、本当に新たな時間を作りようがないのか? 

自立支援法がこうだから、制度がこうだから、つまり「○○だからしかたない」と言っているのは、「つまらない物語」を「本当だと思い込んでいる」姿に私には映ってしまう。自立支援法なり、社会保障費の削減なり、そういう現実に「巻き込まれつつそれを見ているという」自分がいれば、そこから考えることが出来れば、この現状の中からでも、次の一手、別の一歩、を歩み出すことは不可能ではない。現に、私がこれまでお逢いした多くの福祉関係者の中で、「この人はオモロイ」と思う人の多くは、現状を「しかたない」とせずに、その現状を変えるために、「巻き込まれつつ」ある自分を冷静に分析した上で、どう様々な組織・機関・人を「巻き込」んでいこうか、を意識的であれ、無意識的であれ、考えている人々だった。このスタンス、つまり「運命へのチャレンジ」をしていこうという姿勢に、現場を変えていく力がある、私はそう感じている。

身と心の大掃除大会

 

週末、わるいもんを出し切っていた。

ここしばらくあれこれ仕事が重なり、口内炎だけでなく、身体のあちこちからSOSのサインが出されていた。挙げ句の果てに、他責的になりかけている自分がいた。“I am right, you are wrong.” この文法だけは使いたくない、と思ったのに、他人のメールやら電話やらに思わずこの他責的修辞句を吐き捨てている自分がいた。いかんいかん、刺が出過ぎている。こういう時は、荊を抜きに行く「湯治」がよろしい。というわけで、生まれて初めて伊豆に行ってみた。

今回の最大の発見は、甲府から伊豆って、意外と近い、ということだ。
あちこち寄り道しながらでも、往復で260キロほど。名古屋に行くより近いのである。
ただ、箱根の山越えと、帰りの富士山の麓を通る時は、まさに「イニシエーション」のごとき、辛い道であった。何が辛いって、全く道が見えない。そう、行きも帰りも、雲が低く垂れ込めていた為、山の中腹の「スカイライン」は、景色が全く見えないだけでなく、数m先が見えない、という霧の立ちこめた状態だったのだ。

ガイドブックに載っている箱根の山越えも、富士山麓も、緑豊かな美しい光景。しかし、運転している目の前は、真っ白な世界。例えると「三途の川」として描かれるような風景だが、僕自身、まだあの世には行きたくないので、慎重に、ゆっくり運転する。それでも、3時間ちょっとでたどり着くのだから、案外近いのね。

今回は、「海の見える客室で、露天風呂つき」というガイドブックの文句に引かれ、熱海にほど近い、網代温泉のお宿に泊まる。塩分を含んだ濃厚なお湯は、手荒れ(洗剤負け)の治療に丁度良い。海に浮かぶ初島を眺める絶好のポイントで、海をボンヤリ眺めていると、何ともクサクサしたものがスコーンと抜けていく気分。結局、5回も入ってしまった。うち1回は、夕食をたらふく食べて、8時半には床につき、夜中1時頃目覚めて、の深夜風呂。海の音を聞きながら闇夜の世界に同一化するのは、大変よろしい。翌朝の「貸し切り露天風呂」も、開放感溢れる感じでよかった。

そうやって、身体から毒素を出しながら、ゆっくり荊を取っていくと、いつしかシンプルな気持ちが生まれてくる。自分が「こういう大人にはなりたくない」と思っていた他責的で唯我独尊的尊大さを持つ姿に気がつけば近づいていたこと、「こういう大人」というカテゴライズは、いつでも自分に置き換え可能な、決して他人事ではない「今ここにある危機」であること。しかも「こういう大人」を他責的に非難している時点で、その非難の文法こそ「他責的」で「尊大」な「こういう大人」と同じフレームワーク内にあること・・・。湯船に浸かりながら、我が身が最近隘路に陥りかけていた、その無理さ加減が、汗と共にジワジワ現前に現れてくる。そうか、クサクサしていたものの正体は、忙しさや他者との関係という外的要因よりも、むしろこの内面からの腐食だったのかぁ・・・。伊豆の海はそんなことを優しく教えてくれた。

帰ってあまりに疲れていた為か、今日はこんこんと一日眠り姫状態。ようやく起きあがり、今、キノコと鳥の手羽元をグツグツ煮込んだ薬膳スープ(我が家の名前は「毒素出しキノコスープ:略して毒キノコスープ!?」)を作っている。睡眠とともに、心と体のグタグタも取れ、ようやく少しはすっきりし始めた。薬膳スープでさらにドバッと汗をかきかき、今週末の「身と心の大掃除大会」の締めくくりとしよう。

来週は月曜日の現場訪問に始まり、講演や出張、そして週末には調査も入っている。忙しくなりそうだ。わるいもんが取れた身体で、たまった仕事をコツコツ片づけていこうかしらん。

ささら型と想像力

 

昨日は授業の合間に近所の看護学校で一コマ「特別講義」。

なにやら「社会福祉演習」ということで、班毎にそれぞれ「生活保護」「老人福祉」「母子家庭」「身体障害者」などテーマを決めて調べてまとめているのだが、そのまとめに向けてアドバイスとなるような講義をしてほしい、とのこと。実は学生さん達の「中間レポート」が送られてくる前に授業のレジュメを送ってしまい、その後当日朝になって学生のレポートを読んで、「こりゃまずい」と追加資料を作る。何がまずいって、学生さんの聞きたいニーズと自分の話す予定に結構大きな「開き」があったのだ。聞き手の側にとったら、せっかくレポートを書き上げる途中で「関連する講義」って言われて、自分たちが調べたことと全然関係ない講義をされたら、僕だったら聞く気が失せる。なのでとりあえず、「中間レポート」の内容に関連する資料を20分くらいででっち上げ、1限の授業後、あたふたと車を走らせる。

現地に着いたのが、お約束の11時過ぎ。既に学生さん達は待っているご様子なので、早速教室に伺う。マイクを向けて学生さんの「ノリ」を調べながら場を温めているうちに、気がつけば45分経過。まだ、本論に入っていない。こりゃあ大変、とそこから超特急で話しをしていく。最後の方で、こんなことを口走っていた。

看護師の皆さんが「専門性」を口にするとき、そこにはある種の危険性を伴う。それは誰にとっての、何のための「専門性」か、という点である。その昔、丸山真男という思想家が「日本の思想」という本の中で、「ささら型」と「タコツボ型」のモデルを提示してくれた。「タコツボ」って、いったんタコさんがそこに入ると、出てくる事が出来ない。皆さんが目指そうとする認定看護師、とか、専門性、とかが、そういう「タコツボ」になってはいないか?取れて満足して給与も上がって、でも気がつけばその「枠組み」に居着いてしまって、もともと何のために専門性を高めたかったのか、という点を忘れてしまはないか? そこで丸山先生は、「タコツボ型」と比較するために、「ささら型」というモデルを提供してくれた。これは、帰るべき共通基盤、というか、根っこがあって、そこから様々な専門性に向かって分化していく、という木の根っこから幹、各枝葉、へと分化していく様を基にしたモデルである。

看護師を目指して勉強している皆さんが、この看護学校に入った時、その理由の一つとして、「困った人を助けたい」「人の役に立つ仕事をしたい」という純粋な動機があった人も多いと思う。その動機、というか、根っこの部分が、仕事を始めて組織にドップリ浸かり、専門性を高めて業界用語に詳しくなるうちに、気がつけば「職場のしきたり」「昇進街道」「病棟内でのヒエラルキー」「給与と立場の向上を求めた転職まっしぐら」・・・といった様々な「タコツボ」の中に入ってしまう。すると、もともと持っていた根っこの部分、何か人を助けたい、とか、お役に立ちたい、という気持ちが、「あのころは何もしらなかったから」「青かったから」「理想と現実は違う」と矮小化されて、ヘタをすれば自分の中で抹消されていく。こういう過程で、専門家主導という問題が生じ、その中から医療専門職による患者支配、いわゆるパターナリズムの温床が育まれていくのである。

その際、看護職にとって大切なのは何か、それは常に「あなたがその立場だったら」と想像すること。たとえば幻聴に苦しむ、ってどういう気持ちなんだろう? 自分で自分のことがコントロールできず、暴れてしまうとき、どんなことを感じているのだろう? いきなり白衣を着た屈強そうな男が数人やってきて、自分の腕を掴んで注射を打とうとしたら、自分ならどうするだろう? 自分がもし何十年と雑居部屋に「住む」ことになったら、世の中を肯定的に眺めていれるだろう? 月に8万円弱の生活保護費や障害年金だけで、甲府で一人暮らしをする、ってどういうことだろう?・・・

これれのことを、教科書では、「病識がない」「急性期の興奮状態の患者には注射も必要」「生活保護受給者の中には不正に受給する人もいる」「所得保障に問題がある」・・・などとサラリと書いている。

でも、その対象者である患者さんお一人お一人にとって、それらの現実は、決してサラリと流すことの出来ない、重い現実だ。それを「専門性」の御旗のもとで、専門職がよいと思う処置を一方的に押しつけていたら、それは果たして自分の根っこに合致する看護なのか? 確かに教科書ではそういう処置をするべきだ、こういう制度になっている、と書いてあっても、対人間のお仕事。その相手が、どんな風に思っていて、その人がどういうサインを出していて、何を望むのか、と想像力を働かし、出来る限り当事者主体となって、アセスメントなり処置なりをしていく、つまり根っこの「この人の役にたちたい」という部分を専門性という「知ったかぶり」で閉ざすことなく、常にそこにアクセスしながら、最新の専門的知識や技術を活用して、「ささら型」の根っこの部分を活かすための、看護なり支援なりをする、それが大切なのではないか。それが出来ていなかったら、それはあくまでも「他人事」看護なのではないか?

こんなに綺麗にまとめて言えたわけではないが、おおよそこういうことを話したあと、感想をお聞きすると、僕のヘタな話しでも、少しは皆さんの中に何かが届いたようだ。「自分たちがやっていた中間レポートが、いかに表面的で、他人事として、○○が悪い、と他責的なレポートだった」という学生さんの感想が、一番嬉しかった。自分事と他人事、ささら型とタコツボ型、というキーワードだけで、感受性豊かな彼ら彼女らには、ビビッと届いているのだ。こういう応答能力、というのは、人を看る現場ではすごく大切な能力である。お話ししている最中も、多くの学生さんから真剣な眼差しや、真っ直ぐに僕の話に向かってくれている、というオーラのようなものをヒシヒシ感じていたので、そういうコメントをいただけたことはたいそう嬉しい。

今の皆さんの素直さ、真っ直ぐな姿勢を、「専門性」や「職場経験」で減退させず、どうか5年後10年後も持ち続けてほしい、そう願いながら、看護学校を後にしたのであった。

シュトルムウントドランクな日々

 

シュトルムウントドランクな日々、なんていうと、ドイツ語を少しは知っているのか、と思われる。

自慢じゃないが、ドイツ語はからきしダメ。一応大学の時、第二外国語で取ってみたモノの、例の人称代名詞に合わせた定冠詞の変化、って奴について行けずに、最初からアウト。カントやウェーバーやフロイトを原書で読めたら、なんて淡い期待も、強い動機にならなかったので、全く興味を示すことが出来なかった。

大学一年の文法の授業は、最後テストも嫌になって、ちょうど震災後のボランティアにのめり込んでいた次期でもあり、放棄。ご丁寧にもドイツ語の先生がわざわざ自宅まで電話をかけてくださって、「どうされますか?」なんて聞いてくださったのに、高楊枝で「来年また受けます」とあっさり辞退。教員になってみて今ようやく気づくのは、あのときわざわざ電話をくださった先生のマメさに脱帽、である。当時はあんまりすきじゃなかったけど、別に教員の義務でも何でもないのに、わざわざ手をさしのべてくださった、N先生の懐の深さを、一回り立ってようやく気づいているようだから、何だか僕も当時は余裕がなかったんだよなぁ・・・。N先生、すいません。

で、ドイツ人のM先生とは、すごく仲良くなったのだけれど、なぜかいつも英語で話していた。先生は当時日本に来て間もないころで、日本語での会話が得意でなく、授業も英語とドイツ語の併用であった。で、当時英会話を上達させたかったタケバタは、ドイツ人のM先生と授業以外でお逢いした折、よく英語でお話をしていた。先生は少し哀しそうな顔をしながら、「僕に話しかけてくれるのは嬉しいけれど、ドイツ語もちゃんと勉強してね」と柔らかで聞き取りやすい英語でよく話されていたものだ。M先生、ごめんなさい、結局英会話は先生のおかげもあって多少ましになりましたが、ドイツ語は結局さっぱりでした。

ついでにドイツ語で謝るならば、二年生でうけたF先生の読解。先生が授業の最初に、「僕の授業は出席を取りません。テスト一発勝負です。まあ、そうは言ってもテストだけで受かる人はほとんどいませんが・・・」なんて仰られたのが悪かった。当時からの腐れ縁Nからの「よし、出るの辞めよう!」という悪魔のささやきに感化され、レポート提出(それもドイツ人の哲学者・文学者について日本語文献で良いから読んでまとめろ、というきわめて甘いレポート)という最低のノルマは友人に聞いてゴマカシ、テストはその友人が作成した教科書の訳文を丸暗記して臨んだ。すると・・・ノートを貸してくださった友人はテストに受からず、私と悪友Nはなんとパスしてしまう・・・。F先生にも、そして友人にも、ごめんなさい。

そうやって手抜きをしまくっているうちに、ドイツ語は全くご縁がないまま、過ぎ去ってしまった。

そう、僕はどうも自分が「ほんとうに必要だ」というリアリティが持てないと、なかなか勉強に本腰が入らないたちなのだ。

その点、僕らより一世代前の先生方は、院試で第二外国語必修だったので、ドイツ語やフランス語を当たり前のようにお出来になられる方々が多い。この大学に赴任した折りも、M先生から当然のごとく、「フランス語かドイツ語の文献購読の授業を持ってほしい」と言われ、「すいません、僕の入試の年から第二外国語ははずされました」と平謝り。そう、先生方のような博識は、僕のようなズボラな人間は継承していないのです。すいません。そういう意味で、40代以後の先生方の博識と、私のような小僧っ子とでは、なんだか知識のレベルや深みが全く違う、と就職した後になって愕然とすることが多い。

と、ドイツ語恨み辛みを書いていると、とんでもなく、回り道した。そう、シュトルムウントドランク、疾風怒濤な一週間だったのだ。(前置きが長すぎて、何の話しか危うく忘れそうだった)

月曜日、東京で口頭試問より恐ろしい会議での発表。精神病院のこの15年、というテーマで、当事者団体のお歴々の前で発表していたのだ。ゴマカシの効かない真剣勝負だったので、実はこの1ヶ月、内容やら資料の作り方まで、すごく頭を悩ませてきた。それが、なんとか無事に終わったのだ。やれやれ。とはいえ、その2日前は大阪出張していたり、6月末は〆切に追われ、とキリキリ舞だった。

今日もその続きで、小論文の添削。公務員志望者のバックアップ講座で先週の木曜日、1時間しゃべり倒して、その後その内容で論文を書いて貰い、それを採点する、というお仕事。僕の前の担当が、すごく誠実なT先生で、「採点に6時間かけた」と仰られると、こちらも適当にスルーすることは出来ない。真面目に小論文をチェックし始めると、その昔、赤ペン先生のごとく、小論指導をしていた塾講師時代の血がついつい騒いでしまい、じっくり読んで、コメントをバリバリ書いている。午後2時頃から初めて、途中お客様の来訪などでとぎれながらも、結局終わったのは午後7時すぎ。内容よりも「型」になれていない学生さん達に、「型」というか、論文のスタイルを伝授するためのコメントを書いていたら、すっかり日が暮れてしまった。そう、この「型」の理解って、わかってしまえば簡単なんだけれど、それを我がモノに出来るまでの日々が辛いんだよねぇ・・・。

そう、それってドイツ語の文法と同じなんだけどなぁあ・・・。

結局、ドイツ語であれ、小論文であれ、興味を持って集中して「型」に取り組めば、あっという間に理解できる。逆に言えば、興味なくダラダラやっても、全然身に付かない。そんなことを感じた採点後の夕べであった。今、勉強が面白いのも、「興味ある」し「必要だ」という動機付けがあるから、「型」の学習も楽しいのである。そう、疾風怒濤の日々でも、多少はモノを考えながら、ルーティーンのお仕事と格闘する毎日であった。