「越権行為」にならないために

 

「被害者との同一化によって『告発者』の地位を得ようとする戦略そのものは別に特異なものではない。『周知の被迫害者』とわが身を同一化することによって、倫理的な優位性を略取しようとする構えはすべての『左翼的思考』に固有のものである。『告発者』たちは、わが身と同定すべき『窮民』として、あるときは『プロレタリア』を、あるときは『サバルタン』を、あるときは『難民』を、あるときは『障害者』を、あるときは『性的マイノリティ』を・・・と無限に『被差別者』のシニフィアンを取り替えることができる。『被差別者』たちの傷の深さと尊厳の喪失こそが、彼らと同一化するおのれ自身の正義と倫理性を担保してくれるからである。」(内田樹『私家版・ユダヤ文化論』文春新書 p70

またも内田師の引用から始まってしまった。とにかく今の「マイブーム」なので、早速出た新刊を味読しながら、今日も思わず「ホホー」と唸る部分にドッグイヤーをつけていたら、あちこち耳だらけ、になってしまった。今日はその中でも一番「ホホー」度が高かったこの部分を引いてみる。

そう、障害者問題に関わっていて、自分を一番厳しく戒めなければならないのが、「彼らと同一化する」ことによって「おのれ自身の正義と倫理性を担保」しようとしていないか、という点である。これは二回前のブログで書いたことの繰り返しになるが(「代訴人」と「本人」)、代弁者は、その代弁する対象者の「傷の深さと尊厳の喪失」が深刻であればあるほど、自らの「代弁者」(=「代訴人」)としての地位を確固たるものとする。「こんなに可哀想な人達がいる」と声高に叫ぶことによって、その「可哀想な人達」のことに気づかずにいる無知蒙昧な市民と違って、ちゃんと彼ら彼女らの声を先進的に受け止めている知者としての「代弁者」たる己の地位を、自分の努力でなく、代弁するはずの当の「被差別者」を「利用して」、確立しようとしているのである。そして、この枠組みにひとたびのっかると、「代訴人」という特権的な地位や、その地位に基づき「○○は悪い」という他責的な非難のロジックで糾弾できることの快感に身を委ね、気がつけばその地位にしがみつきたくなる、という人が出てくるのも、理解できなくはない(事の理非は別として)。代弁者は、代弁する人本人に直接「語らせない」限り、一番弱いモノの味方である、という一番強いカードを手にすることになるのである。そこから、本人に直接「語らせる」ことを封印する「代弁者」が出てきてもおかしくない。

だが代弁者が不要だ、といっている訳ではない。そうではなくて、代弁者が、どこまでが「代弁」役割であって、どこからは「本人」の越権行為か、をきちんと理解しているか、が大切になってくる。僕も、恥ずかしながら山梨でいろいろな講演をさせていただく。その時、当事者の代弁者、という形で語るモードに入っていないか、をいつもチェックする必要がある。権利擁護の問題を考える時に大切なのは、権利剥奪状態の当事者の「代わり」に周りのモノがヤイヤイ言うとではない。そうではなくて、本人が言えないとしたら、なぜ言えないのか、なぜ「代わり」のものがヤイヤイ言わなければならないのか、本人が「権利剥奪状態」を「主張」出来るためには、どのようなシステムや支援が必要なのか・・・これらのことを分析した上で、提示していくことであるはずだ。つまりは、本人が言える仕組みになっていないのなら、その機能不全を指摘した上で、どういうことが「本人が言える」ためには必要なのか、を提示すること。これが、本来の「アドボケイト」(=権利擁護者)の役割だと思う。

代弁者は、善なる意志を持って始めたとしても、気がつけば、己が意志を、本人の状況に仮託して語る可能性が高い。常にその部分にこそ「おのれ自身の正義と倫理性」を振り向け、おのれの逸脱にこそ、厳しい目を向け続ける、そういう己自身への「告発」の眼差しをこそ、しんどいけど持ち続ける必要があるのではないか、そんな風に感じている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。