2022年の三題噺

今年もブログの締めくくりは私的な三題噺。大きく動き始めた1年だった。

1,『家族は他人、じゃあどうする? 子育ては親の育ち直し』の刊行

4年ぶり・4冊目の単著は、まさかの子育てエッセイ。エッセイは書いてみたいと思っていたが、まさか子育てエッセイになるとは思っていなかった。かつ、子どもが生まれたあと、家事育児をしながら感じる男性中心主義や男らしさ(マスキュリニティ)、生産性至上主義などをがっつり問い直し、ケア中心の社会に至るためにどうしたらよいか、を地べたから考えるエッセイである。読んで下さった方は、「読みやすけど、具体的な子育ての話と抽象的な話の往復の度合いが激しい」という感想も頂く。現代書館の編集者Mさんとかなりやりとりをして、文章を何度もなんども書き直した。おかげさまで、今まで出した3冊の単著は全く読めなかったうちの母親も「これなら読めた」といってもらえた(^_^)

今年は、この本の刊行に合わせて、色々なイベントもした。平尾剛さんと梅田のジュンク堂で、青木海青子さんとは京都の誠光社で、トークイベントもさせてもらった。あと、メディアにも色々出させて頂いた。朝日新聞の高橋さんとポッドキャストで対談させてもらったことがご縁になって、朝日新聞ポッドキャストに出演してもらい、ファンだった神田さんと対談までさせてもらった(それはwithnewsで前編後編と記事になりました)。「こここ」では僧侶の松本さんと対談させてもらった(「ちゃんとしなきゃ」の呪いをとくには?福祉社会学者 竹端寛さん× 僧侶 松本紹圭さん)。そして、Wezzyでは、男性と家事、というテーマでお話しさせてもらった( 「家事しなくてもしゃあない」で許されていた中高時代 竹端寛さんの場合)。

本を巡る対話を色々重ねる中で、ぼく自身がケアや子育てについて考え直すことが多かったし、書籍化することで、それをネタに対話が深まるのはすごく豊かな経験だった。来年もこういう対話の機会が増えたら良いな、と思っている。

2,子どもの成長に驚く

子どもは年長組。この1年、様々な成長があった。その成長は「○○ができるようになった」と他者比較・能力主義的にまとめたくない。そうではなく、娘の唯一無二性が、どんどん育っている。そんな風に感じるのだ。

こども園ではサッカーのチーム戦!をしていることもあって、夏休みや冬休みは、しっかり父親もサッカーに付き合わせて頂く。ぼくはそもそもサッカーが嫌いで、小学校1年の時に親に入れられたスポーツ少年団を1週間で辞めた苦い思い出があったのだが、娘はそんな父親のトラウマなど気にすることなく、サッカーしよう!と誘って下さる。父は40年ぶりにサッカーのトレーニングシューズを買い求め、大晦日の今日も子どもとサッカーする。公園で子どもが遊ぶのを見ているのではなく、一緒に○○して遊ぶ、というのは、言葉以外でのコミュニケーションで、めっちゃ面白い。

そして、子どもは数字や文字、音楽など、様々な世界に興味を急速に深めている。そして、「自分で○○したい」と強く主張している。ここで親が「危ないからやめときなさい」「言うとおりにしなさい」と押さえ込むと、子どもの自主性が縮こまる岐路なのだと思う。昨日もカレーの具材を子どもと一緒に切っていて、包丁使いが危なっかしいと思うのだが、見守りながら一つ一つ、「自分でもできたよ!」という経験をしてもらいたい、と思う。子どもが自立的・自律的存在として、一人で判断し行動できるように、親がいかに観察して、伴走しながら、子どもが主体的に取り組めるように応援できるか。親がやってしまった方が早いことも多い中で、観察と一呼吸置くことができるか、が大きく問われていると感じる。

そして気づけば後数ヶ月で小学生になる。実は子どもより親が小学校に適応できるか、ドキドキしているのだが。。。

3,ファスティングをしてみる

ファスティングのコーチをして下さる方とご縁があったので、12月に1週間のファスティングに生まれて初めて取り組んでみた。断食である。最初の2日間で、炭水化物を抜き、食べる量を減らしていく。次の3日間は酵素ドリンクのみで過ごす。そして、最後の2日間は、重湯から少しずつならしていく。そんな一週間。実は手でグーをした量が胃の大きさで、一回の食事で咀嚼する量としては、ほんとうはそれくらいが理想的、とも学ぶ。

もともと最近食べ過ぎで、ベルトが1穴緩めなければならず、胃もたれしたり、でも食べる量を減らせず・・・と生活習慣が悪化していた。だが、自分では自制できなくて、どうしたものか、と思っていたので、渡りに船だった。断食期間より、準備食の2日目が一番きつくて、眠気が出たり、イライラしたり、としていた。でも、それを乗り越えると、嘘のように凪の日々で、酵素ドリンクのみの3日間は、仕事をしていても、身軽に動けた。75キロ以上あった体重が、最終日には70キロちょっとまで下がり、その後、72キロ前後で推移している。すごくありがたい。

で、このファスティングのあと、食事に関しての認識が深化した。食べ過ぎなら、食べる量を減らせば良い。酵素もとれるから、朝は生野菜をジュースにしたら良い。それを学んで、せっせと毎朝、生野菜とリンゴやバナナ、豆乳でジュースにして、朝ご飯はそれだけにしている。空腹感も出てくるが、ファスティングでなれてきたので、「ああ、あのいつものやつ」と思いながら、昼ご飯までかわしていくこともできる。それで、昼夜は楽しく食べ、飲んでいる。そういう生活ができるようになったのは、大きな成果だ。

体重が増えたら、たまに一日野菜ジュースのみで終わると、元に戻るとも言われたのが、大きな収穫。75キロから戻せない、と思い込んでいたので、サッカーもそうだが、思い込みを外せると、ことのほか嬉しい。

というわけで、今年も家事育児の合間に、あれこれしていて、本当にあっという間の一年でした。皆さん。よいお年をお迎えください。

「他者を貶めることがない」社会に向けて

年末に原稿を書きながら、読み始めたらめちゃくちゃ面白くて一気読みした本がある。それが、江原由美子さんの『持続するフェミニズムのために – グローバリゼーションと「第二の近代」を生き抜く理論へ』(有斐閣)である。この間、フェミニズムに関してモヤモヤしていた事が、まさに主題化されていた。それは「1%のフェミニズム」、またの名を「リーン・イン・フェミニズム」に関してである。

少し前に話題になった、政治学者のナンシー・フレイザー達による『99%のためのフェミニズム宣言』(人文書院)に僕も衝撃を受けた。そのことについて、江原さんはこんな風にまとめている。

「ナンシー・フレイザーの『第二波フェミニズムとネオリベラリズムの関係』に関する見方は、人の心をつかむよくできたストーリーである。第二波フェミニズムが求めた『女性の解放』=『自由の希求』が、皮肉にも歴史の仕掛けた『罠』の中で、フェミニストをネオリベラリズムを推し進める加担者にしてしまったというストーリー・・・。」(p70-71)

『リーン・イン』を書いたフェースブックのCOO、シェリル・サンドバーグは、「ガラスの天井」を越えて、子育てをしながらも、GAFAのトップの1人になった、という意味では、世界を変えた女性の1人である。2018年に日本語訳が出た当初、この本を読んで、女性リーダーの台頭を手放しで喜んでいた。だからこそ、『99%のためのフェミニズム宣言』を読んだ時に、ぼく自身の盲点を射貫かれるようで、衝撃を受けたのである。シェリル・サンドバーグは確かに『女性の解放』=『自由の希求』の体現者でもある。でも、彼女は子どもたちのケアを有色人種のナニーに任せて、猛烈に働いているではないか。それはまさにネオリベラリズムを推し進める加担者の1人ではないか。そんな1%のリベラル・フェミニストの影で、「貧困の女性化」により有色人種のナニーを初めとした99%の女性たちには光が当たらないままではないか。このフレイザーの提起は、「人の心をつかむよくできたストーリー」であって、ぼくもフレイザーの意見に同調していた。

フレイザーは問いかける。「承認」と「再配分」の政治において、第二波フェミニズムはマイノリティの「承認」にエネルギーを割き、権力や財の「再配分」に注力してこなかったではないか? だからこそ、80年代から隆盛を極めはじめたネオリベラリズムと結果的に軌を一にして、1%の成功者の女性を承認する代わりに、99%の「貧困の女性化」に対応せず、財の再配分がなされてこなかったことを放置したではないか?「女性の解放」は、結果的には男同様に働ける女性にとっては「自由の希求」だったかもしれないけれど、男性中心主義的働き方が変わっていない、という意味では、何も変容していないではないか?

このフレーザーの批判に対して、江原さんは丁寧に反論していく。その詳細は本書を読んでほしいのだが(僕はほぼ全てのページに赤線を引き、ドッグイヤーだらけになった)、特に心惹かれた部分を引用する。

「『リーン・イン』フェミニズム批判には、フェミニズム批判とは別に、『個人的自立のための資源や増大する選択肢、能力主義的達成』を思考するという女性に対する批判も読み取れる。(略)フェミニズムに対する『個人主義』的だという批判は、そもそも、女性が『個人』であろうとすること自体を身勝手と非難する近代家族の『家父長的ジェンダー観』に基づく価値判断を基礎としている。そして、そのような『身勝手な女性』の集まりであり、『恥知らずにもそのように身勝手な女の生き方を奨励する』フェミニズムを批判する人々も、多く同調者としてしまうのだ。しかし、男性ではなく『個人主義』的な女性のみを『身勝手』と批判することは、まさに近代社会における女性抑圧構造の一部なのである。」(p161)

シェリル・サンドバーグが男性だとしたら、「個人主義」なり「身勝手」と批判されただろうか。この江原さんの問いかけにも、グサッときた。そう、男性は家事育児をしない前提が日本では保たれているから「加点モデル」で、女性は家事育児をすることが前提だから「減点モデル」なのである。シェリル・サンドバーグにもその「減点モデル」を当てはめて、「家父長的なジェンダー観」に基づいて査定をしていなかったか? 少なくも、彼女を責めるなら、彼女の夫や他の共働き男性も、同じように責められてしかるべきではないか。この「なぜ女だけ批判に値するのか?」というのは、あまりにその通りである。

次に、承認と再分配についての江原さんの解釈にも、深く頷く。

「多くの場合、マイノリティは、何を主張する場合にもまず、自分たちがマジョリティと「同じ資格で存在』していることを、マジョリティに『承認』させなければ、その声を『聞いてもらうことができない』位置にいる。だからこそ、たとえ主要な主張が『再分配』であっても、『承認の政治』をも問わざるを得ないのである。」(p172)

これは、障害者運動を追いかけてきたぼくとしては、すごく良くわかる。障害者の分離教育や入所施設・精神病院への隔離が当たり前だった時代、自立生活を望む障害者達は、「母よ!殺すな」と訴え、強烈な自己主張をしてきた。以前ブログで紹介した横田さんは、こんな風にも言っている。

「障害者と健全者の関わり合い、それは、絶えることのない日常的な闘争(ふれあい)によって、初めて前進することができるのではないだろうか。」

日常的な闘争(ふれあい)をしないと、まず承認すらしてもらえない。その声を聞いてもらえないと、自分たちが求める再分配にたどり着かないのである。それはフェミニズムや他のマイノリティの社会運動にも共通することである、というのは、すごくよくわかる。

その上で、もう一つだけ引用しておきたいのは、右翼ポピュリズムとフェミニズムの対立と和解の可能性についての、江原さんの指摘である。

「おそらく白人男性労働者たちは、かつては自分たちこそ、地域の中心的支え手であるというマジョリティ意識をもっていたのではないか。自分たちの政治的立場を代弁してくれる政党もあり、さまざまな問題を解決する能力をもち、自信を持っていた。けれども、産業空洞化等により地域の産業は変化し、自らの経済状況も悪化した。かつて自分たちの政治的主張を代弁してくれた政党は、今は自分たちに関心を寄せないどころか、かつては中心にいた自分たちを差し置いて、マイノリティの方に頭を向けている。白人労働階級は、かつては政治の中心だったのに、今や『周辺化』されてしまいかねない状況に置かれているのだ。この状況に対する抵抗感が、自分たちをマイノリティに重ねて考えることを妨げる。マイノリティの奴らとは違う。自分達は『本流』なのだと。『右翼ポピュリズム』に傾倒する者は、まさにこの点において、マイノリティと自分とを重ね合わせることを拒否するのである。」(p141)

この記述を書き写しながら、それは廃藩置県後に没落した武士階級の「周辺化」と類似していると感じた。西南戦争に駆り立てた怒りや「右翼ポピュリズム」にも、同種の劣等感のようなものがあったのかもしれない。だが、江原さんはこのような整理で終わらない。こういう「マイノリティとして差別された経験」の共有から、「白人男性労働者」とフェミニストは、分かち合いの可能性がある、と指摘するのである。

「このような『属性ゆえに貶められる」という経験は、差別という社会構造が生み出すマイノリティに対する意味づけをマイノリティ自身に課すことで、差別という社会構造の責任をマイノリティ自身の属性に責任転嫁する差別行為を経験することだ。このような『周辺化』の経験は、属性やその属性に対するアイデンティティの強さにかかわらず、多くの人々が経験しているのである。つまり『共有されたアイデンティティ』が弱まってきたとしても、『貶められたアイデンティティの回復』ではなく、『貶められた経験』を共有できる可能性は広くあるのだ。異なる属性をもつ人々の間でも、『経験の共有』は可能である。アイデンティティの回復そのものを求めるのではなく、『貶められた経験を共有』することで、『他者を貶めることがない』社会の実現のために連帯することができるはずだ。このような連帯を可能にするためには、『アイデンティティの非本質化』という第二波フェミニズムの『文化主義』的方法論が、有効に機能するはずである。」(p195)

仕事や誇りを奪われたラストベルトの白人男性労働者たち。それは、「周辺化」されることで、蔑まれ、馬鹿にされ、その差別を内在化させることで、怒りをもつ。そして、そのやり場をフェミニズムや女性蔑視に向ける。一見すると、そんな右翼ポピュリズムと和解可能性などなさそうに見える。でも、マイノリティ同士で「貶められたアイデンティティの回復」を巡って競い合うと、それは「内ゲバ」になってしまう。そうではななくて、「貶められた経験」という共通体験で、繋がることは可能なのだ。差別され、理不尽な目にあってきたのは、家父長制の下で虐げられた女性であり、この30年で見捨てられた白人男性労働者であり、日本で言えば非正規雇用で食いつないでいる「ロストジェネレーション」だったりする。そういうマイノリティが、「『貶められた経験を共有』することで、『他者を貶めることがない』社会の実現のために連帯することができるはずだ」。

この指摘はまさにそうだし、ぼく自身が障害者運動にずっとシンパシーを持ちづけてきたのも、「『他者を貶めることがない』社会の実現のために連帯」することだったので、なるほど!と唸った。そして、それぞ実現するためには、『アイデンティティの非本質化』、つまり「女だから」「貧しい白人男性労働者だから」「非正規雇用だから」という「○○だから」というアイデンティティを「非本質化」することである。それは、女性運動や障害者運動が培ってきた伝統であり、グローバライゼーションの時代の今こそ、その論理を使えるのではないか。

この江原さんの提起は実に心強い。

それ以外にも、グローバライゼーション=ネオリベラリズムとイデオロギー的な理解をするフレーザーに対し、エスピン・アンデルセンの福祉レジームを用いながら、アメリカのようは自由主義以外の社会民主主義レジームの北欧や、あるいは日本のような家族主義のレジームは、グローバライゼーションの展開が別様である(北欧では再分配の政治は常に生き延びているし、日本では承認の闘争をし続けない限りジェンダーギャップ指数がいつまでも再下位であり続ける)という指摘など、刺激的な論考が多いのだが、ちょっと長くなったので、ご興味がある方は直接本書を手にして欲しい。

フェミニズムは全ての人を解放する思想である、というフレーズを改めてかみしめた良書で、この一年で読んだ本の中でも、最も心揺さぶられる本の一つであった。

「二人の協定」と互いの成長

子育てをしながら、いろいろな父ちゃん母ちゃんの話を聞いていると、どうもパートナーとの対話をじっくりされていない、する場合でも限定的な対話の方が、結構いるような気がする。仕事に家事育児まであったら、パートナーとの会話は二の次、三の次、になるようだ。

でも、実は仕事も家事育児も大変だから「こそ」、パートナーとの対話が必要不可欠なのだと思う。それを痛烈に感じさせる一冊を、ゆっくり読んだ。

「誰だって、自分の成長を育んでくれる関係、パートナーが自分という人間を丸ごと理解してくれる関係を望むだろうが、そういう関係を育てるには長い時間と手間がかかる。些細な物事に常に関心を払い、同時に将来を見据え、パートナーがどんな成長を望んでいるかに絶えず目を向けておく必要がある。その努力が絶えれば、カップルとしてなんとか関係を続けることはできても、理想の関係になることはできない。」(ジェニファー・ペトリリエリ著『デュアル・キャリア・カップル』英治出版、p258)

この本は、共働きで子育てにも向き合う多くのカップルにヒアリングをし、人生の移行期の課題を探った一冊である。パートナーがフルタイムで働いているか否かには関わりなく、パートナーが仕事と子育てと人生をどのように豊かに送っていくのか、を考える上で、様々な「よそ様のご家庭の実情」がわかって、そのエピソードを読むだけでも、実に示唆深い一冊である。

その中で、特に大切なのが「パートナーがどんな成長を望んでいるかに絶えず目を向けておく必要がある」というフレーズ。子育てに忙しく、仕事もなんとかこなさなければならない、と思うと、パートナーの成長は優先順位の3番目以下に下落しやすい。正直、子どもが小さかった頃は、そんな風に感じていた時もあった。でも、パートナーと意見が分かれて、口論になるような事態を振り返ってみると、だいたいにおいて、「パートナーの成長」を気にかけられないときだった、と思い出す。子どもの成長を見守りながらも、自分自身も成長したい。そして、それは自分だけでなく、パートナーも全く同じはず、である。

だが、性的役割分業が大分減ってきた、とはいえ、ケア領域を「女の仕事」と思い込む男性も少なくないので、家事育児の時間は妻に偏りやすい。すると、夫は自分の成長に投資する時間や余裕を残す一方で、家事育児を押しつけられた妻の側は、その物理的・心理的余裕がないまま、置いてけぼりになりやすい。その不均衡が不満になり、夫と妻の間での認識にずれが残り続けていると、不満や認識のずれが爆発し、言い争いになりりやすい。「相手がわからずやだ」と避難したくもなる。

その際、この著者が言うように、「些細な物事に常に関心を払い、同時に将来を見据え、パートナーがどんな成長を望んでいるかに絶えず目を向けておく必要がある」。自分がどんな成長を望んでいるのか、は、頭の中で常に考えているから、わかる。でも、パートナーがどんな成長を望んでいるのか、は、絶えず聞いてみないと、わからない。しかも、自分自身の成長課題も、状況に合わせて変化するのと同じように、パートナーの成長課題も変化する。仕事に家事育児と精神的に追い詰められていると、自分のことでいっぱいいっぱいになって、つい、パートナーの成長課題にまで気を配れない。でも、そんなときこそ、相手は「わかってくれない」「気を配ってもらえない」とイライラしがちで、それは「些細な物事」に現れやすいのだ。ぼく自身もその「些細な物事」の変化に気づかず、何度もドンパチしたことがある。

それを回避するために、著者は「二人の協定づくり」をしている、という。それは、二人で意識化したい・常に確かめ合いたい価値観と限界、不安について話し合い、共通した基盤を見つけるのである。そこにはこんなことが書かれていた。(p65-69)

価値観・・・何を幸せと感じ、何を誇りと思うのか? 何に満足を感じるのか? いい人生とはどんな人生か?
限界・・・地理的限界(どこに住むのか、転勤するか)、時間的限界(どこまで仕事に時間がとられても許されるか、出張はどれくらいOKか)、在・不在に関する限界(別居や配置転換はどれくらい許容されるか)
不安・・・仕事や育児に対しての、あるいはパートナーとの関係性の中での不安が高まらないうちに、率直に話し合うことが出来るか

そして著者は、人生の転換期は、二人が一緒に生活を共にしはじめ「どうしたらうまくいくか?」を模索する「第一の転換期」、中年期にさしかかり「ほんとに望むものは何か?」を自らに問いかける「第二の転換期」、子どもが巣立ったり退職期にさしかかることによって「いまのわたしたちは何者なのか?」を振り返る「第三の転換期」があり、それぞれの時期に「二人の協定」を見直せるか、も問いかけている。

ぼくとパートナーの場合、「どうしたらうまくいのか?」の最初の協定づくりそのものが、大プロジェクトだった。価値観や生き方が全く異なる他人と暮らしはじめ、大いに戸惑うことだらけで、その違いが最大化して、些細なことでもめることが何度も何度もあった。そのたびに、お互いの不安をさらけ出しながら、何を大切にしたいのか、を何度もなんども話し合った。面倒に感じることもあったが、それをしないと離婚の危機は「いま・ここ」に迫っていたので、仕方なくし続けた部分もある。だがそうやって、二人で確認する中で、「二人の協定」は明文化されていないものの、共有されるようになっていった。ただ、限界については曖昧で、その分、ぼくは仕事が集中してくると、家にいないことが多くなったが、そのぶん、たまに二人で旅行に行って埋め合わせる、などでお互い了解していた。

ただ、子どもが生まれたのは42歳で、ちょうど二人とも中年期にさしかかっていたので、「ほんとに望むものは何か?」を再定義する必然性に迫られた。特にシビアな問いになったのが、地理的限界、時間的限界、在・不在に関する限界である。

放っておいてたら死んでしまう小さな命を前にして、「どこまで仕事に時間がとられても許されるか」は大幅に変更が必要になった。少なくとも子どもが小さい間は、自分自身の成長課題より、家事育児にリソースを注ぎ込まないと、二者関係から三者関係への移行期混乱は乗り越えられない。自分では仕事を減らして家事育児に注力しているつもりでも、パートナーから見れば、「なんでそれもしてくれないの?」と怒りが爆発することもある。そんな中で、子どもが生まれる以前は出張しまくっていたが、それをほとんどなくす、という大幅な仕事の仕方の転換が求められる。出張が自分の生活や成長の一部になっていた、と錯覚していたので、そのモードをやめるのは、ある種、自分の身を切られるような辛さだった。でも、子どもと妻との三人の生活を豊かにするためには、必要な「成長の痛み」だった。その上で、二人の親は関西で、当時僕たちは甲府に住んでいて、あまりに実家が遠いことへの心配や不安もあり、二人で話し合って、ぼくの職場を姫路に変えることにした。妻は専門職なので、甲府でも姫路でも、すぐに仕事に就けた。

この第二の転換期でも、子どもが生まれて最初の数年は、本当に何度も何度もぶつかり合い、話し合った。それまで15年ほど一緒に暮らし、何度も話し合い、「二人の協定」がしっかりできあがっていたものだと思っていたが、子どもが生まれて三者関係に移行すると、「二人の協定」は全く新たに書き直す必要があったのだ。

だからこそ、この本は、すごく味わい深く、自分たちの試行錯誤(七転八倒!?)のプロセスを言語化してくれるようで、実に味わい深く読んだ。そして、冒頭にも書いたが、「パートナーの成長」をどれくらい意識化出来るかが問われている、というのは、本当に胸に響いた。気がつけば、視野狭窄気味になり、自分の成長やそれにまつわる不安でいっぱい一杯になる。子どもの成長については夫婦で日常的に話し合うが、その話し合う二人の、お互いの成長を、そこで話題にすることは、意識化しないと出てこない。ぼくはそれを忘れている場面が多い、と痛感させられた。そして、この本を読み始めてから、何度かパートナーの成長について話題にし、それを一緒に考え始めている。

そういう良い変化を与えてくれる良書でもある。パートナーがフルタイムで働いているかは関係なく、カップルとしての成長を考える上で、重要な一冊になりそうだ。