時空を超える「ひとりじゃないよ」

安藤希代子さんからご著書『ひとりじゃないよ—倉敷発・居場所づくりから始まる障がい児の保護者支援』(吉備人出版)をご恵贈頂く。この本は、普段本を読まないお母さんにも読んでもらいたいから、と実に読みやすい文体で書かれている。ざっと読み飛ばそうと思えば、数時間で読み終えそうな本である。でも、僕はあちこちに折り目を付けて、その内容を噛みしめながら味読していた。今日はその「味わい深い箇所」をいくつかご紹介したいと思う。

「私は、自分のせいで子どもの発達が遅れたのなら、逆に言えば、自分さえ努力すれば発達の遅れは取り戻せるかもしれない、と思って、必死になった。発達の遅れを取り戻すためであれば、どんな努力も惜しまない、と悲壮な決意をしたのだ。
今、私が出会うお母さん達の中に、当時の私の姿とダブる方が何人も、いる。みんな、必死なのだ。その必死さの影にあるのは、『自分がわるいかもしれない』という思いだ。『自分が親としてダメだから、この子はこんなことになったのではないか』
これは、自分という存在、親としての存在を、脅かす問いだ。」(p148)

安藤さんは障害のあるお子さんと出会って以来、様々な「支援者」に評価査定され、そのことに苦しんだ記憶がある。だが、それを単に恨み節にしない。自分自身がどのような状況の中で、どのように追い込まれていったのか、の構造をしっかりつかんでいる。そして、「当時の私の姿とダブる方」のためのサポートにつなげていく力を持っている。これが、まず凄い。それだけでない。「自分という存在、親としての存在を、脅かす問い」を前にして、打ち負かされたり、絶望的になったり、諦めたり、しない。自己責任で自分が抱え込んだ経験があるからこそ、他人にもそうせよ、とは言わない。逆にそのような追い詰められる構造を何とかしたい、と思う。でも、あくまでも原体験としての自らの孤独感が、彼女を突き動かす原点となる。

「いい親になりたいのになれない自分のことを、親たちはちゃんと自覚している。だからこそ、自己嫌悪に陥り自分を責め、自分のことが嫌いになってしまうのだ。
そうやって苦しむ親たちを、支援する側は、追い詰めないであげて欲しい。その子育ての不器用さを、責めないであげて欲しい。子どもに向き合えないでいる弱さについて、理解してあげて欲しい。もっと温かい目で見てあげてほしいのだ。
特に子どもの年齢が小さい時ほど、親は傷つきやすい。そういう時期の親をいたわることは、甘やかしではない。親たちのがんばりを認め、ねぎらい、葛藤を理解し、話をしっかり聞いてあげること。それだけで親は気持ちが楽になり、またがんばろうと思える。」(p166)

これは、安藤さんご自身が、「自己嫌悪に陥り自分を責め、自分のことが嫌いになってしまう」経験をしたからこそ、絞り出せるフレーズである。「子どもに向き合えないでいる弱さ」や「傷つきやすさ」に苛まれた経験があるからこそ、支援者による「甘やかし」という査定にも敏感である。原体験に「「いい親になりたいのになれない自分」という罪悪感や自己嫌悪、圧倒的な孤独感を持っているからこそ、その気持ちを持っている他の障害児の母親のことが、放っておけないのである。

「もしできることなら、あの時の自分に声をかけてあげたいと、今でも思う。心配だね、わかるよ。でも子どもはきっと成長していくからね、そしてあなたの気持ちをわかってくれる仲間は、いっぱい、いるからね、と。
今の活動はきっと、過去に救えなかった自分のためにやっているのだろうと思う。誰かの力になろうとすることは、結局、過去に救われなかった自分を救おうとする行為なのだ。」(p144)

このフレーズは、本書のタイトル「ひとりじゃないよ」を象徴するフレーズである。安藤さんが保護者たちのピササポートグループをしているのは、他人事ではない。全くの自分事である。「過去に救えなかった自分」に向かって、「ひとりじゃないよ」「あなたの気持ちをわかってくれる仲間は、いっぱい、いるからね」と、今なら声をかけてあげられる。でも、その過去の私はもうそこにいはいない。だからこそ、いま・ここ、で苦しんでいる、似た境遇にあるお母さん達にバトンを託すために、「ひとりじゃないよ」と声をかけているのである。そして、そのプロセスこそ、「過去に救われなかった自分を救おうとする行為なのだ」と断言する。
なんと、温かみがありながらも、透徹な魂なのだろう。安藤さんは、かつての自分、と目の前の苦しむ母親達、だけでなく、その母親達が「ひとりじゃないよ」と感じて安心する未来や、それに向けて関わる今の私、などの、時間軸を縦横無尽に往復している、でも、根源には、「自分という存在、親としての存在を、脅かす問い」があって、それに対して「ひとりじゃないよ」という圧倒的な「応え」を持っているからこそ、全くブレない。ブレないからこそ、時には大胆な言動も、スッと出てくる。
彼女たちのNPOがこの本の前に作った三冊のハンドブックに関するエピソードをご紹介しよう。寄付集めを募っていたとき、「まとめて買い上げて無料で配りましょう」という提案を何度か受けたという。資金繰りの厳しい小さな団体にとって、またとない朗報にも思える。だが、彼女の反応はきっぱりしていた。

「うちのハンドブックは、お金を出して買ってもらう本です。人は、タダで手に入れたものに価値を感じません。これをタダでばらまく行為は、私たちの本の価値を下げてしまいます」(p190)

「本の価値を下げたくない」
一見すると、ずいぶんお高くとまっているようにも、見える。でも、彼女たちの団体がどのようなミッションやビジョンに基づく活動をしてきたか、を理解すると、その背景が理解できる。本当に必要な人にちゃんと手に取ってもらえるような、そんなハンドブックを作りたい。彼女自身が、仙台から倉敷に引っ越してきたときに、障害のあるお子さんとどこに行けば良いのか、どんな美容院(歯医者、喫茶店・・・)なら親子で受け入れてもらえるのか、に困り果てた経験を持つ。だからこそ、そういう情報を、自分たちの足で稼いで取材して、沢山掲載したい。そういう「価値のある本」を作ってきたという自負があるからこそ、その価値を下げるような行為だけはしたくない。価値ある本として、その価値を理解してもらえる相手に、しっかりと届けたい。それがブレない軸なのだと、感じた。
そして、その軸が遺憾なく発揮されたのが、2018年に倉敷市真備地区を襲った集中豪雨による水害後のことである。発災後すぐの段階で、障害のあるお子さんとお母さんたちの為のしゃべり場(玉島カフェ)を近隣地区で実施し、その後も真備でカフェを継続し、2019年からは、被災者支援に限定しない形での「うさぎカフェ」を真備でも月2回、実施続けている。なぜ、それを続けているのか。安藤さんはこんな風に語っている。

「災害が起きた時に障がい児・者のいる家族を、どうしたら救えるのかの結論にはまだたどり着けていないが、何もせずに漠然と、次の災害までの日々を送るのではなく、平時だからこそできることを、これからも少しずつ積み上げていきたい。」(p246)

これも、徹底的に、他人事ではなく、自分事の視点である。あのとき、被災していたのは、自分と自分の子どもだったかもしれない。かつての自分といま相談に乗っている別の母たち、の時間軸を往復できる彼女の目から見ていると、真備の母親達の苦労に耳を傾けながら、これはかつての私の苦労だったかもしれないし、今後の私の苦労かもしれない、と往復が出来る。だからこそ、「結論にはまだたどり着けていない」からこそ、「平時だからこそできることを、これからも少しずつ積み上げていきたい」と、真備での活動を続けていく。これぞ、ブレない姿勢そのものだ、と感じる。

他にも引用したいところは色々あるが、気になった人は、是非ともこの本を実際に手に取って読んでほしい。そして、言い忘れたが、この本では、こういう保護者活動や居場所づくりを維持発展させ、NPO法人として展開していくためのノウハウや秘訣も、ちゃんと掲載されている。そういう意味では、一粒で二度、だけでなく、何度も美味しい良著である。僕のつたない説明だけでは理解できなかった方は、安藤さんに僕と尾野さんがインタビューさせてもらった雑誌「ボランピオ」の特集号もご一読頂きたい。

リカバリーよりレジリエンス

表題がどちらもカタカナ語で申し訳ない。適切な日本語表記が見当たらないのだ。書きながら、よい日本語訳を考えたいと思う。

リカバリー(recovery)は回復力と訳され、レジリエンス(resilience)は復元力・弾性力などと訳されている。それだけみると、実に似ているようだが、Resilienceというタイトルそのものの本を読んでいて、二つの定義の大きな違いに気がつかされた。

Resilient systems may have no baseline to return to -they may reconfigure themselves continuously and fluidly to adapt to ever-changing circumstances, while continuing to fulfill their purpose. (p17)

「レジリエントなシステムは、戻るべきベースラインを持っていないのかもしれない。レジリエントなシステムは、不断に己を最構成しなおし、常に変化する環境に水のごとく適応するなかで、目的の達成にむけて動きつづける」

実は日本語訳の本を読んでいた時に全然読み流していたのだが、英語をゆっくり読んでいて、気づいた点が、この部分である。リカバリーは、ベースラインに戻ることを意味する一方、レジリエンスは、自らを再構成して、新たな環境に適応すると。この二つは、全く違う概念である、と気づかされる。つまり、リカバリーは「以前の状態に戻ること」を指し、レジリエンスは「過去と違う現在に再び適応するように自らのあり方を変えること」である。リカバリーは過去と地続きの現在を前提にして、過去のベースラインに戻れるという考え方である。その一方、レジリエンスは、戻るべき過去から切断された今を起点に、その「いま・ここ」に適応するために、自らのあり方を水のように流動的に変えていく、という考え方である。

いつも対話をしてくださっている阪大の深尾先生と、彼女の友人のStephenさんとの昨晩のZoom対話でこの件を取り上げてみたら、Stephenが「レジリエンスはproactでありad-hocismに通じていて、リカバリーはreactであり、既に知っている何か(something what you kew)に繋がっているね」と指摘してくれた。reactって、リアクション(reaction)の動詞形であり、何かが起こった後に反応することである。一方、proactはproが先に、という意味を持っていて、先んじて行動する、先手を打つ、などと辞書に書かれている。そして、ad-hocというのは、その場限りの、という意味である。

この議論を整理すると、リカバリーというのは、ある出来事が起こった後に、対応を考えることであり、しかもベースラインに戻る、という表現にもあるように、既に知っている過去に戻ることが念頭に置かれている。一方、レジリエンスというのは、起こってしまった現実に対して、そこで自身のあり方を変えながら、その場その場で流動的に先手を打ち、目的達成に向けて、不断に自らの方法論を変えていく、ということである。

なぜこの定義の違いを長々書いたのか。それは、こないだから書いている、新型コロナウィルス騒動において、僕たちが求められているのは、リカバリー型思考ではなく、レジリエンス型思考ではないか、と思い始めているからである。

リカバリーとは、過去のベースラインに戻ること、と書かれていた。それはある種、前例踏襲主義にも通じている。安定した、慣れ親しんだ過去に戻ろう、という考え方である。だが、例えば精神疾患に罹患するというのは、人間関係で極限状態にまで追い込まれ、ストレスが我慢できる限界を超えて、急性症状が発現する状態にならざるを得なかった、ということである。でも、病気になった後に、元のベースラインに戻る、とは、病気の前の仕事や学校に行けていた状態に戻る、だけでなく、そのときの高いストレス状態に戻ることでもある。ベースラインには、プラスもマイナスもくっついている。であれば、そのような過去に戻るのではなく、病気という形での身体表現に耳を傾けて、自らの高ストレスな環境や人間関係をこそ柔軟に変えていった方が、その後の生き心地は良いのではないだろうか。すると、リカバリーより、求められるのはレジリエンス志向ではないだろうか。

これを今の社会に当てはめたら、どのようなことが言えるだろうか。

コロナウィルスのピークを1,2週間で収束させて、4月には元通りの生活に戻りたい。オリンピックも観客を入れて通常のように開催したいし、インバウンド経済もそれに合わせて順調に回復したい。オリンピックを通じての経済成長を成し遂げたい、という当初目標を完遂させたい・・・。これらは、2019年までに予期していた未来、である。だが、全世界的に拡がるパンデミック的な事象に出くわしている、2020年3月9日の「いま・ここ」の時点で、上記の想定は、大きな変更を迫られている。というか、学校は一斉休校したし、大相撲は無観客試合をしている。だけでなく、世界各地で感染者や死者が出たり、などというニュースを読む中で、昨年までに想定した2020年のベースライン、そのものが崩れ去りつつある、ということも、薄々多くの人が感じ始めている。

つまり、元あった状態に戻すための努力を後追い的にしているというリカバリー的発想が、機能しなくなりつつあるのが、この2020年の春なのかも、しれない。いや、本当はいつだって元あった状態の復元は無理なのだが、それが極大化された状態で突きつけられたのが、今かもしれない。すると、僕たちに求められているのは、「不断に己を最構成しなおし、常に変化する環境に水のごとく適応するなかで、目的の達成にむけて動きつづける」というレジリエンスの考え方なのかもしれない。

カオスの状態の中から、新たな動きや展開を見据えて、誰かの言うことを鵜呑みにせず、自分の頭で考え続けて、より柔軟性を持って、臨機応変に、行動をどんどん変えていく。

これは、緊急時の動き方の基本のようにも、思える。ただ、救援現場にいるわけではない、日常生活を送る自分自身に言い聞かせたいのは、ハイになって、テンション高く、あってはならない、ということだ。

僕たちは、危機の時ほど、そこから逃れようと必死になる。ハイになったり、テンションを高めて、非常時を切り抜けようとする。非常時対応としては、大切なのかもしれないし、現に様々な現場で休みを返上して対応してくださっている方々には、心から敬意を表する。

だが、そういう持ち場にいない僕まで、ハイになったり、テンションを高める必要はない。不安なときほど、落ち着くことが大切だ。「いま・ここ」の不確実な状況を落ち着いて眺め、カオスの状態の中から、新たな動きや展開を見据えて、より柔軟性を持って、臨機応変に、自分が新たに出来ることやしたいことをやってみて、行動をどんどん変えていく。思考停止に陥らず、考え続ける。そういうあり方が、少なくとも僕自身に求められているのだと思う。

ここまで書いていて、昨年の香港ではやったあの言葉を思い出していた。

「心を空にしよう。水のように形をなくすんだ。水になれ。友よー」
(“Empty your mind. Be formless, shapeless, like water” “Be water my friend.”)

これは香港が生んだ世界的スター、ブルース・リーの言葉であり、香港デモを象徴することばである。

心を空にしよう、というのは、「あれをするはずだった、こうなるはずだった、そんな筈は無かった・・・」という想定内の思い込みから自由になれ、とも解釈する事が出来る。その上で、水のように形をなくすことで、思い込みや前例から自由になることで、自分の有り様を柔軟に変化させ、それが結果的に想定外の事態に柔軟に対応し、適応していくことが出来る主体へと変化できる。

僕が学んできたオープンダイアローグでも、「いま・ここ」での対話、や不確実性に耐えることの重要性が指摘されてきた。すると、ベースラインに戻るリカバリーのための対話、ではなく、不確実な「いま・ここ」に適応していくための、レジリエンスに基づいた対話、が必要とされているのかも、しれない。

で、レジリエンスをどう日本語にするか、だが、復活力でも弾性力でもない、柔軟に動き変わる力、とか、臨機応変に形を変える力、とか、そんな風に言えるだろうか。「○○力」って言えたらしっくり来るのだけれど、思いついた人があれば、教えてください。

不安を鎮めるための対話

世の中が、ピリピリしている。

所用で日中に神戸まで出かけた折に、他人のくしゃみに敏感になっている自分を発見する。つり革や手すりを持たないように、まめに石けんつけて手洗いするように、なるべく他人と濃厚接触しないように・・・普段は意識していなかったことに気をつけるだけで、くたくたになる。

トイレットペーパーが買い占められた報道を受けて、製紙会社が「倉庫に沢山あります」とツイートしているのを見た後でも、「我が家の在庫が無くなりそうなので買いに行ったら、近所のスーパーでもドラックストアでも売り切れていた」と妻が言うのを聞くと、落ち込む。そろそろ花粉症だという今の時期に、ティッシュを使うのを節約しなければならないと思うだけで、気が滅入る。

こないだから合気道の稽古で基本を学び直し、教わった気の結び方を稽古で反復したいと思った矢先に、稽古で使う学校の武道場が三月後半まで使用不可と知り、がっかりする。

こういう細かい日常の変化や不如意が折り重なるだけで、心身がぐったりする。激務という訳ではないのに、日常を過ごすだけで、へとへとになる。

そんな折だからこそ、対話が大切なのだ、と思う。不安をそのものとして表現するための対話が。何かを決めるための対話、ではなく、違いを知るための対話、が。

前回のブログにも書いたが、全国一斉臨時休校の「要請」が首相からなされた翌日の先週金曜日(2月28日)に、僕と同じように不安を感じていた中村さんと大美さんとZoom対話をした。それは、何かを決めるための対話ではない。互いがこの間感じている不満やモヤモヤを、そのものとして言語化するための対話の場だった。中村さんや大美さんと、意見を一致させることを目的とした訳ではない。それとは逆に、お互いがどんなことを感じているのか、という「違い」を、そのものとして分かち合うための対話だった。不思議なことに、そういう「違いを理解する対話」をするなかで、ソワソワした感覚が少し鎮まっていくようだった。

そのことを思い出して、改めて気づいたことがある。それは、「不安を不安として口にすること」の大切さである。

ピリピリした緊張感、落ち込んだ気持ち、がっかり感やくたくたが折り重なった状態・・・。そういった感情や心持ちの変化は、「どうせ」「しかたない」という蓋をして、閉じ込めている場合が少なくない。でも、それは間違いなく蓋をした自分自身の中で、澱のように重なっていく。しんどさやネガティブな感情がとぐろのように渦巻いていく。そして、そのとぐろのような感情に耐えられなくなると、ウツになり、心身に不調を来す。あるいは逆に、時に感情を他者に向けて反転させることにもつながる。ドラッグストアでマスクやトイレットペーパーがないと店員をなじる、咳をしている他の乗客に怒鳴る、ヒステリックにSNS上で他者を罵倒する・・・。内側にこもっても、反転して他者を攻撃しても、いずれにしても、不安や心配事の渦は増幅するばかりだ。

そのとき、相手をなじる前に、自分を責める前に、自らの不安を不安として、口に出してみることが、大切かもしれない。

「自分は○○で不安だ(心配している、落ち込んでいる、気が滅入っている、憂うつだ・・・)」

不安や心配事を、そのものとして表現する。こんなことを表現するなんて、軟弱なんじゃないか、馬鹿にされないか、愚かではないか、わがままじゃないか、我慢した方がいいのではないか・・・なんて、「自主規制」する必要はない。いや、こういうしんどいときこそ、自主規制は逆効果だ。心配事や不安、落ち込み、憂うつな気分を、自分を主語として、どんな風に感じているのか、をちゃんと表現した方がいい。

かくいう僕自身も、週明けの晩、再び不安がもたげて、いつも対話させて頂いている深尾葉子先生と、30分ほどZoom対話の時間を作った。お互いが近況報告するだけなのだけれど、その中で、僕自身が感じているしんどさやピリピリ感、不安感を話すだけで、ずいぶん楽になった。安心して話せる環境で、ちゃんと聞いてもらえる相手に向かって、自分の心配事を話すだけ。別にアドバイスも助言も結論もない。というか、それを求めてはいない。そうではなくて、「いま・ここ」の不安を、そのものとして言語化して、受け止めてもらえる。それだけで、ずいぶん僕の不安は宥和されたのだ。

「自分は不安に感じている。」

そう表現するだけで、その不安がなくなるわけではない。でも、言ってみてはじめて「あ、やっぱり僕は不安だったのだ」と改めて気づく。そして、それを肯定的に受け止めてもらえることで、「不安に感じてもいいんだ、その不安を不安として話してもいいんだ」、と落ち着いて安堵し、自分を納得させる。すると、ピリピリ感や不安、モヤモヤなど、そのものとして言語化すると、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ではないが、膨張した幽霊のような恐ろしい感覚は鎮まり、不安感という枯れ尾花が、そのものとして見えてくる。それが、身も心も、落ち着かせてくれる。

日常のルーティーンやこうすれば良いという「正解」がそのものとして機能しない、非日常的な世界。そこでは、不確実性が増大し、不安も心配事も急激に増える。その中で、無理に不安や心配事を抑圧したり、なかったことにすると、さらにその無視や抑圧によって、自分自身を苦しめたり、その暴力的エネルギーが反転して他者への攻撃にも繋がる。

だからこそ、今の時期に必要なのは、自他を攻撃するのではなく、不安を不安として口にすることである。そして、一人で表現するのは簡単ではないので、他者に向かってそれを話してみることや、他者の不安をじっくり聴くことである。そういう開かれた対話の中で、何かの結論=正解を決める必要は無い。いや、正解がわからないのである。だからこそ、相手の不安と自分の不安の違いを理解することが、すごく大切なのだ。「違いを知る対話」は、発散と収束で言えば、発散の対話である。明らかに不確実で不確定なことが多い状況ほど、まずはいきなり正解を求める収束の対話ではなく、不安や心配事などをとにかく互いに発散させる。その中で、発散がなされ、身も心も静まっていく。

今の時期に、僕は自分の不安を閉じ込めたり、押さえ込もうとしたくない。でも、不安に身も心も覆い尽くされたくはない。そんな中で出来ること。それが、不安をそのものとして認めて、それを伝え合う対話であり、結果的にそれが不安を鎮める対話に繋がるのではないか。そんなことを感じている。