なぜ闘争が「ふれあい」なのか?

「障害者と健全者の関わり合い、それは、絶えることのない日常的な闘争(ふれあい)によって、初めて前進することができるのではないだろうか。」

実に衝撃的な文章である。障害者と健全者の関わり合いとは、「絶えることのない日常的な闘争」だと言う。しかも、その闘争に「ふれあい」とルビが意図的に振られている。これはいったいどういうことか。
引用したのは、『【増補新装版】障害者殺しの思想』(横田弘著、現代書館)のp104である。横田さんは、日本の障害者運動の源流の一つである神奈川青い芝の会のリーダーのお一人である。この本は元々1979年に出されたが、今年、立岩真也さんの解説付きで復刊されたもので、日本の障害者福祉を考える上での古典的名著の一冊でもある・・・。
という書誌情報は知っているが、現物は復刊されるまで、実は読んだことがなかった。横田さんの同士で、同時代に活躍していた横塚さんの名著『母よ!殺すな』の方は、復刊されたものを読んで、ブログにも引用したことがある。その文章の濃さに圧倒されていたが、今回読んだ横田さんの文章も、ぐいぐいと引きつける魅力を持った文章だった。冒頭の引用の後には、次のような文章が続いている。
「たくみな差別構造の利用によって分断化された『障害者』と『健全者』の間を止揚するためには、まず、『障害者』が自らの位置を確認する、つまり、現代資本主義の下にあっては、その疎外された肉体性によって『本来あってはならない存在』とされた位置を確かめ、逆にその位置を武器として『健全』な肉体を与えられたと思い込まされている『健全者』の社会への闘争(ふれあい)を働きかけることではあるまいか。」
実に70年代的な(=学生運動世代的な)臭いのする文体である。だが、この文章には、僕たちが今でも立ち戻って考えるべき本質が詰まっている。障害者たちは「その疎外された肉体性によって『本来あってはならない存在』とされた」とは、ICFなどの概念形成より20年以上前に、障害は社会からの「疎外」によって生じ、「本来あってはならない存在」という形で排除されている、ということを喝破している。かつ、その障害者の「肉体性」をもって(=つまり、顔も名前もある生身の肉体をもった人として)、「『健全』な肉体を与えられたと思い込まされている『健全者』」と出会うことが大切だ、と言っているのである。ただ、これを「闘争(ふれあい)」と言っている部分が、非常に興味深い。なぜ、「たくみな差別構造の利用によって分断化された」両者の出会いが、「闘争」であり、「ふれあい」なのか。それを理解する補助線となる文章を、二つほど検討してみたい。
「私たち『障害者』、特にCP者たちは日常的に『健全者』の『保護』がなければ『生かされない』現実がある。食物を摂ることから排泄まで一切『健全者』の手を煩わさなければ行い得ない現実がある。そうした日常的な現実の繰り返しの中では『障害者』の精神は、ともすれば、『健全者』に屈服し、『健全』に同化しようと思考し、『障害者』を理解してもらうことが『障害者福祉』の正しい姿だと思い込んでいる。『健全』に同化しようとすることは『健全者』によって規定されている『障害者』を認めることであり、自己を自ら『本来、あってはならない存在』と規定することではないのだろうか。事実、多くのCP者たちは、この『同化』への道を歩むことにより、自ら苦しみを深め、自己の『肉体』の否定、つまり、完全な自己否定にまで追い込まれていってしまうのである。」(同上、p117)
書き写しながら改めて感じたのは、実に論理的な文章である、ということだ。
「『健全者』の『保護』がなければ『生かされない』現実」が日常になると、その保護してくれる「健全者」の支配的論理に従わざるを得なくなる。だが、「健全」「障害」という二項対立的切り分けは、「健全」こそ理想である、という価値前提をはらんでいる。そして、この価値前提に従う、ということは、「健全」への「同化」を理想化する、ということであり、かつ「障害者」を「『本来、あってはならない存在』と規定すること」でもある。この「同化」の論理を肯定することは、まさしく障害者が「自己の『肉体』の否定、つまり、完全な自己否定にまで追い込まれていってしまう」ということになるのだ。だからこそ、青い芝の会のメンバーたちは、命がけで、「健全者」の価値前提や支配的論理への「同化」にNOを突きつけてきた。そして、この「同化」への反対闘争(ふれあい)が、最も先鋭化して表現されたものの一つに、養護学校義務化論争へのコミットが挙げられる。
青い芝の会は、1979年から始まった養護学校の義務化を前に、なぜ養護学校が問題なのか、に関する運動方針を立てた。その中に、「同化」を巡る「闘争(ふれあい)」のエッセンスが詰まっている。
「養護学校を語る時、『その子にあった教育』という言葉が切り札のように持ち出されます。教育の目的が知識を授けるためだけにあるのではなく、人格形成、人間同士の相互理解という側面がきわめて重要であることからして、障害児の存在を抜きにした所の普通教育や、障害児ばかりが小さくかたまった所で行われる養護学校教育が、各々の『その子にあった』ものなどとはとうてい言えないことは明らかです。それ以上に見落としてはならない点は、『その子にあった教育』という時、多くの場合、『障害児が入ってくると、普通児の教育の邪魔になる』『障害児とは関わりたくない』という教師や学校当局者の本音が隠されていることです。これはたまに普通学級に入った障害児が、子どもによってではなく、教師や学校当局の物の考え方によって、『お客様』にされ、排除されていくという事実を見れば弁解の余地はありません。」(同上、p168)
正直に告白すると、15年ほど前の僕は、「その子にあった教育」なる「幻想」を、鵜呑みに、とは言わないまでも、自分で検証することなく、「そういうものかもしれない」と思っている節があった。養護学校に関して、世界の潮流と反する分離主義に関しても、「その子にあった」という「幻想」は、教育領域が不勉強な僕にとって、「もっともらしく」聞こえていた。だが、横田さんのこの文章は、そういう甘っちょろい「幻想」を木っ端みじんに砕く。それは、「教育の目的が知識を授けるためだけにあるのではなく、人格形成、人間同士の相互理解という側面がきわめて重要である」という指摘に尽きる。そう、義務教育においては特に、「人格形成、人間同士の相互理解」の側面は、非常に重要な教育目標なのである。障害者と健全者を最初から分けてしまうと、日常的に「ふれあう」ことがない。実際、僕の授業でも、障害者の福祉課題を話しても、ぴんとこない、他人事と考えている学生が少なくない。それは、小中高と、障害者と「ふれあう」ことを通じた「相互理解」の経験がないから、である。だからこそ、日常的な「ふれあい」を求めた、養護学校義務化=養護学校への障害者の隔離への反対の「闘争」が必要不可欠になるのである。この論理が、昔の僕には理解できていなかった。
また、「その子にあった教育」なる「幻想」の欺瞞性として、「『障害児が入ってくると、普通児の教育の邪魔になる』『障害児とは関わりたくない』という教師や学校当局者の本音」を横田さんが指摘している点も興味深い。二枚舌的に、一方で、「少人数できめ細かい指導を」と言いながら、「指導の邪魔になる」「障害児とは関わりたくない」という教育関係者の「本音」が潜んでいないか、という指摘である。そういえば、スウェーデンの幼稚園では、障害児がいるクラスの方が人気がある、と以前聞いたことがある。それは、障害児がいるクラスには、先生がもう一人クラスに加配されるので、クラス全体にきめ細かい指導ができるから、という理由である。「きめ細かい指導」というのなら、学校や学級をわけるのではなく、障害児一人に教員一人を加配して、普通学級の中で二人担任制にして学べば、障害児にも健常児にも、きめ細かい指導ができる。かつ、学校を建設・維持するコストだって馬鹿にならないことを考えたら、こっちの方がよっぽど合理的である。そういう面で、「その子にあった教育」の、ある種のご都合主義的な部分が見えていなかった。
ただ、一方で、特別支援学校に通う学生が、特に高等部を中心として、全国的に増えているという現実がある。今の特別教育を推進するシンクタンク的役割である国立特別支援教育総合研究所では、だから特別支援学校の新設校や分校設置を、と提言している。しかし、これは『その子にあった教育』の「幻想」を利用した、現状肯定の論理ではないか? そもそも、発達障害の学生が増加する原因として、高度消費社会において、第一次産業や第二次産業が衰退し、第三次産業が異常に求められる日本社会において、「空気を読み」「社会の同調圧力に従順な若者」が学校現場でも強く求められる結果、そのキツイ標準化・規格化の論理から外れた人々を、安易に発達障害とラベリングしている部分はないか。そして、標準化・規格化の論理に合わない学生を「障害児」と分けることで、『障害児が入ってくると、普通児の教育の邪魔になる』『障害児とは関わりたくない』という本音を『その子にあった教育』なる「幻想」にくるんでごまかしていないか。そして、このことを問い直す時、それは健常者の頑強なる常識や価値前提を問い直すことそのものであり、それは健全者と障害者の「ふれあい」であるが、同時に異なる価値前提どうしの「闘争」ではないか。
「その子にあった教育」とは、障害の有無にかかわらず、一人一人の個性や障害特性を認めた上で、人間的な成長を促すことであり、障害をもったままでのありのままの自立を認める、という意味では、同化とは反対の、異化を認める、ということである。でも、現実に行われているのは、障害児と健全児を違う存在として同じクラスでともに学ばせる異化ではなく、障害児は健全児と分けて、健全児学級、障害児学級と、同じカテゴリーの人だけで「同化」させる戦略である。これは、入所施設や精神病院の隔離収容の論理と全く同じである。本当に、「その子にあった教育」を、幻想でなく、まっとうに求めるとしたら、論理的必然として、同化ではなく異化が目指されなければならず、それは一人一人が異なる存在として、「人格形成、人間同士の相互理解」が教育の現場でなされなければならない、ということである。まかり間違っても、教師や学校の「効率化」のために、障害児が排除されたり「お客様」扱いされてはならない、という当然の論理になるのだ。
ここまで書いてきて、映画にもなった「みんなの学校」の木村校長先生が言っていた「すべての子どもの学習権を保証する」という意味が、横田さんの40年近く前の文章を通じて、アクチュアルに胸に響いてきた。そして、それは40年前だけでなく、今だって、単なる「ふれあい」だけではすまされない、「闘争」の現実があるということも、改めて感じた。(ちなみに、この映画「みんなの学校」も、めちゃくちゃよい作品です。元になった番組を見て、僕は何度もうるっときています。)