自発的に奴隷として従う

昨日の福祉社会学の授業で、自分が変われば社会が変わるか、という内容で議論をしていた。これは、僕の『枠組み外しの旅』の2章を読んでもらった上でのディスカッションだったのだが、なかなか興味深い話になった。

複数の学生が、「社会が変わらない限り、自分一人が声を挙げても、何も変わらないのでは?」と意見を述べていた。その理由を聞くと、支配されている側が、「自分は支配されているんだ」と気づいたところで、支配する側のルールを変えることができない限り、言っても無駄ではないか、という理由である。僕はこれを聴いて、『自発的隷従論』というフレーズを思い出し、黒板に書きながら、学生達の議論に活用してみた。とはいえ、お恥ずかしい限りなのだ、このタイトルの書籍は「積ん読」状態。早速家に帰って、読んでみた。著者のラ・ボエシは1530年生まれのフランス人。だが、500年前に別の文化で書かれたとは思えないアクチュアリティのある記述だった。

「農民や職人は、隷従はしても、言いつけられたことを行えばそれですむ。だが、圧政者のまわりにいるのは、こびへつらい、気を引こうとする連中である。この者たちは、圧政者の言いつけを守るばかりでなく、彼の望む通りにものを考えなければならないし、さらには彼を満足させるために、その意向をあらかじめくみとらなければならない。連中は、圧政者に服従するだけで十分ではなく、彼に気に入られなければならない。彼の命に従って働くために、自分の意志を捨て、自分をいじめ、自分を殺さなければならない。彼の快楽を自分の快楽とし、彼の好みのために自分の好みを犠牲にし、自分の性質をむりやり変え、自分の本性を捨て去らねばならない。彼のことば、声、合図、視線にたえず注意を払い、望みを忖度し、考えをしるために、自分の目、足、手をいつでも動かせるように整えておかなければならない。はたしてこれが、幸せに生きることだろうか。これを生きていると呼べるだろうか。この世に、これ以上に耐えがたいことがあるだろうか。」(ラ・ボエジ『自発的隷従論』ちくま学芸文庫、p70-71)

学生達は、まだ「隷従はしても、言いつけられたことを行えばそれですむ」状態のままでいることの方が多い。だが、日本で働く人の中には、「圧政者の言いつけを守るばかりでなく、彼の望む通りにものを考えなければならないし、さらには彼を満足させるために、その意向をあらかじめくみとらなければならない」人が結構いるのではないだろうか。話題の「忖度」だけでなく、「服従するだけで十分ではなく」「気に入られ」るために真面目に努力して、必死になっている人も、いるのではないだろうか。

だが、これは良くないことだとラ・ボエジは喝破する。その理由は「彼の命に従って働くために、自分の意志を捨て、自分をいじめ、自分を殺さなければならない」からである。いくら仕事だから、とはいえ、肝心の自分自身の「意志を捨て」、「自分の好みを犠牲にし、自分の性質をむりやり変え、自分の本性を捨て去らねばならない」状態が続くのは、文字通り自分に対する「いじめ」であり、自分自身への精神的な自殺である。これは「幸せに生きること」からほど遠いし、「これ以上に耐えがたいこと」はないくらい、しんどい状況である。

では、なぜこのような精神的自殺が簡単に生じるのであろうか。それを「馬の轡(くつわ)」を例に、ラ・ボエジはひもとく。

「どれほど手に負えないじゃじゃ馬も、はじめは轡を噛んでいても、そのうちその轡を楽しむようになる。少し前までは鞍を載せられたら暴れていたのに、いまや馬具で身を飾り、鎧をかぶってたいそう得意げで、偉そうにしている。さきの人々〔生まれながらにして首に軛(くびき)をつけられている人々〕は、自分たちはずっと隷従してきたし、父祖たちもまたそのよう生きてきたと言う。彼らは、自分たちが悪を辛抱するように定められていると考えており、これまでの例によってそのように信じ込まされている。こうして彼らは、みずからの手で、長い時間をかけて、自分たちに暴虐をはたらく者の支配を基礎づけているのだ。」(p44)

「どれほど手に負えないじゃじゃ馬」も、一度飼い慣らされると、その飼い慣らされた状態を「楽しむようにな」り、その状態に「たいそう得意げで、偉そうにしている」ところまで進む。同じように、ずっと隷従するのがデフォルトになった人々は、隷従する状態こそ、地球は丸いのと同様、絶対不変で「定められている」ものだと「信じ込まされている」し、その信念体系こそが、「自分たちに暴虐をはたらく者の支配を基礎づけている」のである。

僕はどの授業でも、様々な価値前提を問い直すような内容を取り扱っている。例えば、スウェーデンでは家族内の体罰も法律によって禁止されている映像を見せた後、日本にもそれは可能か、と尋ねることがある。すると少なからぬ学生は、「日本ではそんなのできっこない」「世の中の当たり前を変えるのは簡単ではない」と答えることがる。だが、これは自らが進んで、「轡を噛む」「首に軛をつけられる」状態そのもの、である。このことをこそ、ラ・ボエジは「自発的」に「奴隷」のように「付き従うこと」としての「自発的隷従」と呼んだのではなかったか。それは、500年前のフランス社会だけでなく、実に今の日本社会にもしっかり根付いている構造的課題である。

これを乗り越えるために、何が必要か。ラ・ボエジは、実に当たり前だが、なかなか簡単には得られない、あるフレーズを指摘する。それが「自由」について、である。

「自由な者たちは、だれもがみなに共通の善のために、そしてまた自分のために、たがいに切磋琢磨し、しのぎを削る。そうして、みなで敗北の不幸や勝利の幸福を分かちもとうと願うのだ。ところが、隷従する者たちは、戦う勇気のみならず、ほかのあらゆることがらにおいても活力を喪失し、心は卑屈で無気力になってしまっているので、偉業をなしとげることなどさらさらできない。圧政者どもはこのことをよく知っており、自分のしもべたちがこのような習性を身につけているのを目にするや、彼らをますます情弱にするための助力を惜しまないのである。」(p49-50)

現代日本社会で、圧倒的な「圧政者」はいない。だが、日本社会の抑圧的システムそのものが、人々の自由を奪い、人々が「戦う勇気」を捨て、「卑屈で無気力」になるように、「ますます情弱にするための助力」をしているのではないか、と思う。空気を読む、忖度する、学校や労働現場でキツイ管理をする・・・これらの中で、圧政的システムに隷従する「習性」がついていく。大学生を眺めていても、この「習性」がついている学生の比率が、年々高まっているように思う。「じゃじゃ馬」は減ってきて、「卑屈」や「無気力」が高まることは、ある種、文句を言わずに黙って働く労働者を前提とした勤労国家日本型システムの「成果」そのものであるが、一方では日本社会の多くの人々が「飼い慣らされたシステム」へ隷属している、ということでもある。

だからこそ、「もう隷従しないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ」(p24)という彼の指摘は決定的に重要である。「隷従しないという決意」は、隷従するシステムそのものから抜け出す決意である。少なくとも、そこで魂が殺されない、という宣言でもある。これは、惰性化した習慣から一歩踏み出すだけでなく、その習慣を変え、「共通の善のために、そしてまた自分のために、たがいに切磋琢磨し、しのぎを削る」ための第一歩である。一人で始めても、簡単には社会は変わらない。だが、だからといって隷属していては、そのシステムが強化されるだけである。であれば、まずは「もう隷従しないと決意」することが大切なのだ。そして、失われた「自由」を求め、まずは自分の快楽や好み、望み、意志を取り戻すことこそ、必要不可欠なのだ。それが、自分自身の「魂の脱植民地化」であり、日本社会が暮らしやすい社会に変わるための、重要な第一歩なのだと感じている。

授業前に読んでおけば、こういうことが伝えられたのに、と思いながら、メモ書きしておく。