学生支援と地域移行支援

パソコンを前に、茫然自失としてしまう。

だって、今朝は結構気分が乗って、学生支援と障害者支援の重層性についてブログを書いていたのに、アップロードする直前の確認画面で、何の気なしに簡単な手順を間違えたため、ごっそり文章が消えてしまったからだ。あの1時間は何だったのか、と思うと、ぐったりする。時間的な損失よりも、その時のノリや息吹が込められた文章はもう二度と戻ってこない、という意味で、ガッカリしてしまうのだ。

まあ、そうはいっても仕方ないので、ごく短く再構成してみよう。

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僕が学生だった頃(10年くらい前)までは、真面目に授業に全部出席している大学生、というのは、そう多くはなかった。ほどほどに付き合いながら、クラブやサークルや色々な学外活動に打ち込む、というのが定番だった。だが、教員になってみて驚くのが、授業は1限でも真面目に出席する学生がすごく多い、ということだ。そしてもっと驚きは、「出席するものの、友達としゃべる」系の学生が多い、ということである。だが、そのどちらも「とりあえず出席はする」という点では共通する。つまり、昔は「授業に出ない」という選択肢が主流派だったのに、今は、授業に参画するにせよサボタージュするにしてもとにかく「授業に出る」という選択肢の方が主流派になったのだ。この変化は一体何故か?

多くの要因があると思うが、それはシフトチェンジ期における不安の解消の仕方の変容、と僕は仮定してみる。つまり、高校生から大学生、子供から大人、へのシフトチェンジ期に、ある時期までは社会との関わりなどを通じての変化を求め、授業にはほどほどしか出ず、自分で何とか解決するために授業外・学外での試行錯誤を繰り返す学生が多かった。だが、最近はこのシフトチェンジ期のアイデンティティの不安に対して、高校以来の旧態依然の様式(とにかく出席してればいい)を固持する事によって、乗り切ろう、という若者が増えているような気がする。それに対して、大学側のアプローチが未だにレッセフェール(どうぞご自由に、自己決定、自己責任で)というスタンスであるが故に、学生側のニーズと大学側の提供資源がうまくマッチせず、そこで大学生の不安がますます増大する、という悪循環に陥っているような気がする。

では、どうすればいいのか? 一つのソリューション案として、僕はある程度の枠組み作りが必要なのでは、と感じている。「とにかく授業に出てくる」ものの、「自分で何とか解決する」ことに不安を覚え、一歩踏み出せない学生の為に、「一歩踏み出す」仕掛けを大学や教員側が提示して行かなければならない、と思う。僕の専門の障害者福祉の分野に置き換えてみると、問題はよりクリアに見える。

日本では残念ながら入所施設や精神病院に20年以上「社会的入院・入所」している障害者が少なくない。そんな彼ら彼女らの中には、適切な地域生活支援の仕組みがあれば、地域で誇りと役割を持って自分らしく暮らしている力を持っている方も決して少なくない。だが、長年の施設生活で自分の内なる想いや願いを諦めきった「施設症(institutionalism)」に陥っている人々は、「さあ自己決定・自己選択ですよ」と言われても、これからの未曾有の不安や恐怖に対峙するより、旧態依然のシステム内で、決まり切った形式で暮らしている方がよけいな苦労をしなくてすむから、と地域生活を望まない人もいるのだ。では、その人々は地域生活は無理なのか? 諸外国の実践が教えてくれるのは、施設や病院から地域に戻る時期(地域移行時=シフトチェンジ期)に厚い人手と充実した地域サービスを整えることによって、移行期の問題は解決可能だ、ということだ。諸外国に限らず、例えばお隣の長野県の知的障害者入所施設「西駒郷」でも30年間施設に入っていた人が、地域に戻るための練習やサポートを受けて、今では地域のグループホームで暮らしている。その際、急激なシフトチェンジにご本人がついて行けるように、数ヶ月の準備期間で少人数の雰囲気になれ、職員が手厚い支援をする事によって、「上げ膳据え膳」が当たり前だったご本人が、自分でご飯を作るようになって、地域へと帰っていくのである。あるいは自分でご飯は作れない人でも、ホームヘルパーやグループホームの世話人さんに平日は作ってもらう、などの選択肢を増やして、当事者が地域で暮らせる仕掛けを支援者が構築していき、それが成功しているのである。

この障害者地域移行支援から明らかなのは、シフトチェンジ期における厚い人手と充実したサービス内容が、旧態依然の様式からご本人が「一歩踏み出す」のを支援している、という構造である。これまでの大学教育は、エリート教育の名残を受けて、レッセフェール(自由放任主義)が基調であった為に、「自分で何とかする」という力のない学生を取りこぼしてきた。だが、時代の変化と共に、「自分で何とかする」、ということのハードルが年々高くなっている。それと共に、「自分で何とか出来ない」から旧態依然の思考行動様式にしがみつく、という学生も増えていると思う。このような学生に対して、大学はレッセフェールであってはならない。「授業に出るけれど、しゃべる」という学生さんも含めて、何らかの枠組みや支援を必要としている学生の数は年々増えているのだ。もちろん教育と福祉は概念も領域も異なるが、こういった「何らかの枠組みや支援が必要な学生」に対しては、障害者のシフトチェンジ期の手厚い支援を真似た「移行支援」があってもよいのではないか、そう考えている。

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なあんだ、さっきの半分の長さで書けてしまった・・・。

国際免許と地域貢献

ブログの右側にあるカレンダーを見ていると、今月、なぜか月曜日はブログを書いていない。ついでに言えば、木曜日も全く書いていない。別にたいした理由があるわけではないのだろうが、今日は余裕があるので、月曜日のブランクを埋めてみようと思う。

金曜日に出張から帰ってきて、その後大学で仕事をこなし、土曜は講演、日曜日はオープンキャンパスと予定がみっちりだったので、今日は「臨時休業」。朝、奥さまを送って少し仮眠をとった後(至福の二度寝!)、週末から出かけるアメリカ出張に向けて、アポイントのメールを考える。昔、ジャーナリストの師匠が「アポさえ取れたら、取材の半分以上は終わったも同然」と仰っておられたが、確かに特に海外の場合、自分が行きたい場所にねらいを定めても、うまくアポを取って、連絡を付け、日程を固めるまでの行程がめっちゃ大変だ。北欧では、通訳の方にコーディネーションのお世話になることもあったが、自分でそのまねごとをしてみると、改めてその方々のご苦労に敬意を表したくなる。ほんと、骨折り仕事です。でも、ようやく日程がボチボチ固まってきて、今回の調査も面白そうになってきた。ただ、予習がまだ全然進んでいない・・・。あと3日で、さてどこまで追い上げが効くかしら・・・と書いているが、きっと機内と現地でも、にわか勉強は続いているのだろう。

英語のメールを書いて、お風呂と食器を洗った後は、素麺をスルッと食べて、アクセラ号で出かける。今回のアメリカ調査は移動が多いので、レンタカーを借りることにした。そのために、国際免許証の手続きの必要があるのだ。スウェーデンではボルボステーションワゴン(勿論レンタカー)でかっ飛ばしていたが、一方通行の多い大都会、サンフランシスコでちゃんと運転で出来るかが、ちょっと不安。でも、最近は日本語ナビ付き、というのもあるので、もちろんそれを予約する。日本ではナビなど必要に感じず、実際アクセラ号にも付けていない。地図を見て、道を身体で覚える方が、後々楽だ、と古くさくも考えているからだ。でも、さすがに英語圏で、左ハンドルで、慣れない街で・・・となると、断然こういうサポートがあった方が、迷子にならなくて済む。文明の利器に心からの感謝、である。

運転免許センタージム自宅へと運転しながら、昨日のオープンキャンパスで感じたことを、思い出していた。昨日も政治行政学科志望の学生がたくさん来てくださった。僕はまた、模擬面接を担当していたのだが、12時半から3時半くらいまで、ひっきりなしに対応していた、と思う。そのとき、前回も感じたのだけれど、今回もやはり感じたのは、「警察官」「消防官」「役場職員」の志望者の多さ。で、模擬面接なので、「なぜ○○になりたいのですか?」と聞くと、多くの人が判で押したように、「地元で地域に貢献したいから」「人の役に立ちたいから」とお答えになる。で、もう少し突っ込んで、「でも地域に貢献したいのなら、○○にならずとも、福祉系や環境保全系、教育系の仕事などもあるだろうし、フルタイムで貢献しなくても、自治会とかNPOとか、色んな貢献の仕方があるんじゃないですか?」と聞くと、多くの方がまごつかれる。「やっぱり安定しているから」という答えもあるが、「田舎じゃそれ以外の仕事があまりないから」という答えも返ってきた。それで、考えこんでしまったのだ。

テレビを付ければ小泉首相は「官から民へ」「小さな政府へ」「公務員を削減する」・・・と繰り返す。その是非は別として、では地方で、官の仕事が本当に民に委譲されるのか、地域を再生するための、地域で豊かに暮らすための、新たな仕事創りをこの国はどれだけ真剣に考えてやってきたのか?それを考えてしまうのだ。模擬面接の場で、「ええかっこ」している部分もあるかもしれないのだけれど、多くの学生さんが「地元のために何かしたい」「人の役に立つことをしたい」と答えてくださっている。こんな志がある学生が多いのに、なぜその受け皿は公務員、と短絡的直結をするのか? それはその学生さんの考えが浅はかだから、ではなくて、むしろ、実際に地方に行けば行くほど、公務員以外の職業が、やはりかなり危機に瀕しているからではないか? そんな予感がしてしまう。

もちろん、だからといって、では公務員を増やすことが解決策だ、と単純化するつもりもない。ただ事実として、大都市一極集中が叫ばれて久しいが、こうして自分の育った地域で仕事したい、と思っている若者も、少なからずいるのだ。その際に、彼ら彼女らが胸を張って行える仕事が、地元にどれだけあるのか? グローバライゼーションの波の中で、そういう地域の活力がどれだけ減退しているのか? 学生さんが地元で夢を持って働ける職場がどれほどあるのか?・・・それを、学生さんとのやり取りから感じはじめたのだ。

地域で安心して働ける、というのも、地域福祉を考える上で、大きなキーワードの一つだ。せっかく山梨に来たのだから、少し日本の地方(地域)の持つ力、についても、これから考えてみよう、と思う。

台風とケアマネ

台風にはさんざんな目にあった。

実は台風が直撃してきた木曜日の夕方、関西のフィールド訪問を終え、まさに台風が近づく静岡付近を通って甲府に帰ろうとしていたのだ。で、何が甘かった、って京都駅ではその時間、新幹線も動いていたし、運休情報も夜行列車の運休情報しかなかった。なら何とか逃げ切れるだろう、という読みが甘かった。名古屋までは何事もないように進んでいた新幹線が、突如ゆっくり走り始めたのが豊橋付近。やばいかもなぁ、と思って、念のために非常用のお茶を買いに出かけたついでに、車掌室で状況を聞いてみると、「身延線は止まっていますよ」。しもうた。車掌さんが切符を切っている時に聞けば、名古屋から中央線経由で帰れたのに・・・。でも後の祭り。結局豊橋と浜松で1時間以上とまり、2時間半遅れで静岡着。あずさも止まっているので、中央線経由も絶望的だから、と静岡で一泊した。で、翌朝一番の特急列車も運休で、結局金曜日の昼にようやく甲府に帰り着く。身も心もクタクタになった。

まあでも、電車が遅れたおかげで、今回は出張の際に持ち歩く「読むべき資料」がバーベルにならずにすんだ。来週カリフォルニアに出張なので、その下準備でてんやわんやなのだが、ようやくポイントがおぼろげながら見えてきたような気がする。

今回、アメリカの精神障害者の権利擁護の現状と、脱施設政策の実際、そして今度の障害者自立支援法案にも盛り込まれている「ケアマネジメント」が実際にどう展開されているのか、を取材しに出かける。障害があっても地域で自分らしく暮らす仕掛けを作る際には、「地域移行」を政策課題として推し進めることと、地域で必要な社会資源とアクセスが出来るように支える「ケアマネジメント」、そしてそれらを法的にも実体的にも支えるための「権利擁護の仕組み」の3つがなければ、絵に描いた餅になる。日本で予定されている制度改変案を読んでいて一番疑問に思うのが、「ケアマネジメント」は推し進めても、あとの「地域移行」と「権利擁護」を重点政策課題に置いていないから、結局「ケアマネジメント」がお金をいかに効率的に使うか、という「マネジド・ケア」(総額いくら、の中で何とかやりくりしなさい)の発想に矮小化されてしまっている点だ。本来のケアマネは、スウェーデンでもアメリカでも、あくまでも「本人の地域自立生活を支える」というのが主目的であって、本人の社会参加の推し進めるための仕掛けである。決して「予算がこれしかないから、この中で社会参加を我慢しなさい」というサービス予算管理的発想ではない。このあたりのことを、アメリカの実態や、その課題も含めて調査していかないと、と思っている。

今回の自立支援法案をめぐる一連の動きを見ていて思うのは、日本では厚労省案に「対案」を提出するだけの力量を備えた組織なり集団というのが(特に精神保健の場合は)まだほとんどない、ということだ。本来の制度政策研究をする中では、役所の出してきた案を批判するのも勿論大切だが、ではその批判された問題点を克服するにはどうしたらいいのか、の対案を、制度政策レベルで構築していかないと、いつまで経っても問題は解決されない。スウェーデンでもアメリカでも、当事者や支援者、あるいは権利擁護機関などに政策分析能力のある専門家がいて、対案なり政策提言があって、それが制度に豊かに反映される形になっている。そろそろ反対要求一辺倒の方針から、提言・対案を作り、行政と当事者の双方が納得できる策を構築する作業へと方針転換することが、日本の社会政策の分野でも今、求められている。今回のアメリカ調査がそれに直接どれほど役に立つかはわからないけれど、少なくともケアマネを本当の意味で政策的に機能させるための「地域移行政策」と「権利擁護」については、しっかり調べて来ようと思っている。

40分間ライブ

久しぶりに電車の中でパソコンを開いている。。

西大路から乗った、加古川行きの快速電車。そう書いても甲府の人にはピンとこない地名だらけ。そう、今日は京都の実家から大阪のフィールドに出かけるために、JR東海道線に乗っている。そして僕が乗ったのは、京都駅から大阪方面へ一駅目の西大路。そう、あの東大路、西大路、の西大路駅。ここは、僕が大学時代にいつも利用した駅でもある。

僕は大学院生の時に一人暮らしを始めるまでは、ずっと実家から通っていた。高校までは自転車で通える範囲で、予備校は大阪だけれど阪急電車を使っていたので、このJRに頻繁にお世話になることになったのは、大学に入ってから。1,2回生(関西では大学生は回生と言うんだけれど、よそでは言わないようですね)までは大阪まで一度出て、そこから私鉄に乗り換えて大阪空港の近所まで出かけ、3回生以後は昔の万博会場後がキャンパスなので、大阪より少し手前の茨木駅まで乗って、そこからバスに通っていた。どちらにしても、JR西大路駅から普通電車にのって出かける、というのは、ある種「身体化された」パターンだったのだ。

この電車は、車窓がすごく良い。ちょうど今書いている最中に列車は山崎駅にさしかかった。ここはサントリーウイスキー「山崎」のあの山崎、である。そういえば、山梨には「白州」があるし、なぜかウイスキーの産地近くに住んでいることになる。ま、それはさておき、この天王山の戦いが開かれたあたりは、京都と
大阪のちょうど中間なのだが、まだ田園地帯が残っているのだ。

山梨に来ると、田園やぶどう畑がすっかりおなじみの風景になったが、それまで京阪神で暮らした僕にとっては、田園は年を大事に消え去っていく風景。だが、この京都と大阪の中間地帯には、結構昔からの農家や集落、そして今は青々とした稲作風景が垣間見られる。春は山崎の神社の桜も見られるし、秋から冬の稲作後の風景も「いとわびし」である。また、JRからちょうど西側の車窓では、見事な夕陽を拝むことも出来る。電車の中では本を読んだり、必死になってレポートを書いていることもあったけれど、なぜかこの山崎付近ではぼんやり車窓を眺めて、思考回路のスイッチを止めていることが多い。そして、この風景を眺めながら、のスイッチオフの状態が、気分のリフレッシュにたいそう役に立っていた。

スイッチオフ、と言えば、大阪に出張の際によく利用する身延線も、ぼんやり眺めるには実に良い車窓である。富士川沿いにうねうね山道を越えていくのだが、昔の軽便鉄道の規格をそのまま使っている為もあってか、とにかく急カーブの連続。すると、「特急電車」と言えども、時速20キロくらいでえっちらおっちらと曲がっていく。横を走る車がびゅんびゅん抜いていく、現在にしては珍しい、のんびり「特急」である。甲府-静岡に2時間がかかる。それでも新横浜まわりより少し早いので、時間帯が合えばこちらを利用する。この身延線の緑あふれる風景も、本来読むべき宿題の書類達を忘れさせてくれるに充分な風景だ。こうして「出張の際には読めるだろう」と毎回欲張って本や書類を一杯入れていくのだが、その半分以上!?が単なるバーベルの役割を果たしてくれているのである。とほほ。でも、富士宮から富士にかけて見える富士山は、やはり毎回見とれてしまう。

かように僕は電車旅が嫌いではない。というか、告白するとその昔は「てっちゃん」(=いわゆる鉄道オタクってやつ)だったのです。でもオタクとしてはあんまり気合いの入っていない輩だったので、そのうち興味が写真に移ると、電車の写真さえ撮らなくなって、集めたコレクターグッズも他人にあげたり捨てて
しまう、というあまちゃん。どうも何か1つのことをずっと「集める」「所有する」という執着心があまりないようだ。そんなオタクの風下にもおけないタケバタではあるけれど、いまだにやっぱり列車で旅をするのは好きだったりする。

山梨に来て、車生活になって、日常的に列車に乗ることはなくなった。だが、一度出張すると、それが東京であれ、大阪であれ、列車で割と長い間旅をすることになる。移動は確かにしんどいけれど、でも車窓はやっぱり楽しい。特に、新幹線より在来線を旅する方がいい。正直新幹線は早すぎて、車窓をぼんやり眺めていても疲れてしまう。一時期毎月のように東京-大阪を往復していたが、本当にそのときに新幹線に飽きてしまった。だが、今乗っているこの快速電車や、あるいは身延線のように、のんびり走る列車は、やっぱり飽きない。

などととりとめもなく書いているうちに、電車は新大阪を過ぎ、今は淀川を渡っている。この鉄橋の音を聞くと、そろそろパソコンの電源を落とさねばらならない頃合い。そう、大阪駅に近づいた。というわけで、今日はすっかり「40分間ライブ中継」をしているうちに、ブログも書き終えてしまった。では、現場に行ってくるか。

予言の自己成就とタケバタの「予言」

予言の自己成就(by マートン)について考えている。

大阪から帰る際に読んでいた「いそぐときほど、ゆっくりと」(ザイヴァート著、技術評論社)と、今読んでいる「健全な肉体に狂気は宿る」(内田樹・春日武彦著、角川書店)では、良いイメージ・悪いイメージの両方から、この問題を論じていた。前者はタイムマネジメントに関する本で、一生の、年間の、1週間の、そして1日の目標をイメージして、そのイメージを実らせる為に、仕事と余暇、家庭、健康などをバランスよく配分していくことを勧めてくれている。後者の対談本では、悪い予想をイメージとして浮かべれば、その浮かべられたイメージに拘束されてしまって、その結果イメージ通りの悪い結末になり、「やっぱりだからうまくいかないんだ」と変に安心してしまう、その回路の事について議論されていた。

僕自身も、確かに良いことも、良くないことも、予言の自己成就的側面が結構人生において、あると思う。特にこの週末に考えていたのは、「良くないこと」の予言の自己成就。だいぶ意識化して、コントロールできるようになってきたけれど、それでもある問題に対して、「どうせ・・・」「このスケジュールなら・・・なんてムリ」などと決めてかかる事がある。そして、それが本当になりそうになると、イライラが増し、確定的状況になると、「やっぱりそうだったんだ」「なんて僕はついてない」などと一人爆発していたりする。だが、これは典型的な予言の自己成就の帰結。内田・春日両氏によれば、自分が「できない」というイメージを膨らませていくと、そのイメージを実現するために躍起になって、「できない」局面を構築さえしていき、なんとかそれを成就させるために必死になる、とのこと。そういう文脈で自分の問題を考えると、「できればいいな」と思いながら、最初から「できない」ことを予期して、「できない」自分への心理的負担を減らすために、あらかじめ出来ない時点での怒りや悲しみを前もって発生させている局面がある。これは自分だけの問題でもそうだし、相手が絡む問題でも、相手をそういう感情的渦の中に巻き込んで、そういうことを実現させていると思う。そして、書きながら気が付いたのだが、これは自分がコントロールしにくいと「思いこんだ」課題に固有の問題だと思う。

そういう課題に関して、ムリして張り合おう、という発想がそもそも間違いなのだ。「○○に決まっている」と決めつけるのは、自分がコントロールしにくいその状況をコントロールした気分になっている、強がりの弁に過ぎない。そんなことにエネルギーを注がなくとも、回避するための方策を積極的に採ることが出来る場面もあるだろうし、そういう方策がとれる状況ではなくとも、少なくともそういうマイナスのイメージに支配されないよう、他のことにエネルギーを注いだ方が随分ましだ。それに予言するから成就するのであって、予言しなければ、色んな未知の不確定要素が飛び込んできた時に、その場その場で新たな再解釈をした上で、新たなソルーションを求めることが出来る。予言をしてしまうから、その後の新たなファクターも予言の範囲内に納めようとしてしまうのだ。ならば、ネガティブなことについては、予言をせずに、その後の「時の流れに身を任せる」ほうが、本当に求める結論への近道なのだと思う。

逆に言うと、ポジティブなことについては、もっと予言の自己成就を狙ってもいい。先述のタイムマネジメントの本などは、まさにこれをマニュアル化したもの。10年後の自分はどうなっていたい、そのために5年後にはどうなりたい、だから1年後にはこれを達成したい、そのためにこの1ヶ月、この1週間、そして今日は・・・これって僕が受験生を教えていたとき、彼ら彼女らに繰り返し伝えてきた「逆算法」だ。なるほど、他人様にはちゃんとそうやって伝えてきたのね、タケバタ君は。では、ご自身には?

紺屋の白袴。医者の不養生。だから、また本を買ってみたりしているのである。ここ最近、自分の仕事をどのように形にしていけばいいのか、に少し焦っている。そんなときだからこそ、「いそぐときほど、ゆっくりと」というキャッチフレーズが目に飛び込んできた。でも、今この文章を書きながら思い出したのが、「焦っている余裕があるのは、やっていない証拠」。これは誰の言葉かって? ハイ・・・この言葉も、何を隠そう私タケバタ自身が受験生に何百回と言ってきた言葉であります。

「どうしたらいいでしょう?」「ムリなのかなぁ」なんて焦っているのは、まだ余裕のある人の言葉です。本当に実践している人は、そんな迷ったり焦ったりしている余裕すらなく、目の前の課題に没頭しているはずです。だから、悩んでいる暇があったら、実行しなさい。

僕は今、自分の「予言」にグサリときている。

観念の虜

大阪から帰ってきた。グッタリ疲れる。

長野に一泊二日で出かけ、いったん甲府に戻ってきてから、今度は大阪に一泊二日。どちらも一泊だが、気分的には三泊四日くらい疲れている。挙げ句の果てに、甲府からの良くないニュースも重なり、電車が甲府に着いた頃にはイライラつんつん。これはよろしくない、と思い、入れ替わりに会社の同僚と遊びに出かけるパートナーを送った後、コイン洗車場へ。7月初旬の納車以来、3回目の洗車。一月半で2300キロほど走っていて、結構乗り回しているのだなぁ、と思いながら、虫や鳥の糞などが付いてしまったアクセラ号を洗車機にかける。その後は、から拭き。夕方で日差しは和らぐが、くまなく車体を拭いて、こびり付いた汚れを重点的に拭き取っていると、汗が噴き出る。中古車時代にこのような愛情は全く注がなかったのだが、新車と思うとなぜかこれほど気合いが入るのが不思議。

で、ホイルもついでに拭いていて、あーあ、発見したよ。バッドニューズの元凶である、奥さま曰く「下をこすった」傷を発見。下じゃなくて、横じゃん。前輪左タイヤが結構こすれて白くなっている。あの変化は相当ズリズリやったようだ。それだけでなくホイルの傷に、それから前輪の泥よけ部分がちらっと曲がっている。何でも路地に入ろうとしたら逆の一通で、でも後ろにも前にも車が来ていて、無理矢理路肩を越えようとしたら、段差を引っかけたそうな。その現場を通るが、結構な大きい段差。おいおい、ちゃんと見ておくれよ・・・とほほ・・・と腹は立つが、まあ致命的な傷でもなく、何より彼女は無傷なので、まあいいか。奥さまは出かけていてよかった。多分彼女がそばにいれば、絶対にチクチク嫌みを言って、喧嘩にでもなったろうに。

で、不思議なのが怒りの感情なるもの。今日はその他にも良くないニュースがあって、怒りのエネルギーは続いていたのだが、車を磨いて、その後ジムで一時間、体脂肪燃焼モードでバイクをこいでいるうちに、その怒りのエネルギーとしんどさと、マイナスの気分まで吹っ飛んでしまう。あの感情はいったい何処に行ってしまったのだろう? クルミを集めたことを忘れるリスのようだ。論理的に考えれば、致命的な傷ではなく、誰だって失敗することはあるし、あげくの果てに奥さまはまだアクセラ号に慣れていない。ならば仕方ない、とすっと思えればいいのだが、イライラの観念の虜になっている間は、「ちゃんと注意してよ」「どんくさいなあ」・・・など相手の立場を考慮しない身勝手な罵詈雑言が頭の中を飛び回る。しかし、身体をフルに使って観念の虜を体内から追い出してしまえば、先述の論理的な説明をすっと受け入れられる。この自分が「虜の中にいる」という意識化と、それを抜けるための「ワークアウトの技法」をきちんと構造化すると、きっとストレスフルな日々でも何とか対応できるんだろうなぁ、と思う。ダイエットだけでなく、メンタルヘルスの為にも、やっぱジムなりテニスなりは続ける方がいいんだなぁ、と再認識する。

すっかり暗くなり、お月様もきれいだなぁ、と思いながら、ジムからの帰りに石和のお祭りに遭遇。そういえば今年は夏祭りや花火大会に一度も行っていない。明日は石和で花火大会なのだが、奥さまはテニスの練習なので、それも行けない。実はこれにまつわる話が二つ目のバッドニューズなのだがあまりにもトリビアルなので書くことはしない。実にくだらない事で腹を立てているよなぁ、と思いつつ、くだらないことだからこそ、ロジカルに考えずに腹を立てているのかも。なんだお前、まだまだしぶとくネチネチ腹立っているのか、と思われるかもしれないが、これは虜の意識化の二つ目の戦術。題して「ネタにして忘れる」。ブログはこういう感情消費の題材にもなっているんだよなぁ。

そうそう、感情消費と言えば、先日会った方が、2ちゃんねるの掲示板で、感情消費の題材になって(単純に言えば誹謗中傷の的になって)困っている、とこぼしておられた。ネット上での感情消費は、このブログのように、自身のサイトで、記名式で、自身が責任を取る形での感情消費なら良いのだが、ああいう匿名サイトでの、無責任な中傷という形での感情消費は、される側はたまったものではない。気にしなければいい、というのは、あくまでも他人事であり、もしも自分のことが悪く書かれたら、相当しんどいだろうなぁ。心よりその先生に同情の意を申し上げる。無責任な誹謗中傷の垂れ流しは、明らかに観念の虜への埋没だ。そしてそういう行為を続けても、結局のところ、書けば書くほど、ストレスが溜まり、墓穴を掘っていくだけと思う。僕自身は体育会系では全くないのだが、「悪口書くより身体を使ったほうが、身も心もすっきりするよ」とこの件ばかりは声を大にしていいたい。

現場考

研究者にとっての現場とは?

出張先からの帰り、甲府まで乗せていった仲間から言われて、以来、ぼんやり考えている。
水木と長野に出張だったのだが、調査の出張(今回はその打ち合わせ)の際に楽しいのは、仲間の研究者と、夜、一杯飲みながら、色々議論が出来ること。今回も志を同じくする仲間と車中で、現場で、夜ご飯を食べながら、議論が続いていた。その際、研究者にとってどれだけ現場に通えば、「現場のことがわかっている」ということになるのか、という話題になった。そこで出てきたのが、冒頭の疑問だ。

僕の関わっている福祉の世界では、理論的な研究ももちろん大切なのだけれど、実際に何らかの支援を行っている人と、その支援を受けている人、が存在している。その支援が行われている場のことを「現場」と呼んで、「現場発の研究」「現場をないがしろにした研究」などという言葉が使われる。ただ、この際問題になるのは、ではいったいどれほど現場に関われば、「現場がわかっているか?」ということだ。

福祉の本を色々買ってみて思うのは、現場でずっと関わってこられた研究者の本は、自分が関わった現場の普遍化を目指されるのだが、それが十分に普遍化出来ていない場合もある。逆に理論派の先生の本の中には、現場で全く使い物にならない理屈ばかりこねている本もある(もちろん例外的に秀逸な論もあるが、それは「例外」の範疇に入ると思う)。理論と現場の往復の中から、「現場にも響く理屈」「理論にも響く実態」がうまく反映されているものは、なかなかない。かく言うタケバタだって、どれだけそういう論文が書けているか、と言われるとアヤシイ・・・。

また論文レベルでなくとも、「現場がわかる」とはどういうことか、にも疑問がある。例えば現場で20年働いて来られて研究者になられた方が、「私は現場でずっといたので」と仰る。だが往々にして、その1カ所の現場のことはご存じかもしれないけれど、他の現場の事をどこまでご存じで、ご自身の現場をどれだけ相対的に見ておられるのか、というと、結構独善的な方もおられる。しかし一方で、例えば研究者だけれど現場に精通している、という人でも、ざっと現場に一二日入っただけで、さもその現場を知り尽くしているような顔をしている人もいる。僕は、どちらかと言えば後者に近い。あちこち見に行くけれど、どこも1,2日のことが多く、たまに長く関わっても、所詮は毎週通っても半年だけの定点観察、という感じだと、「それで現場の何がわかるのですか?」と現場の人に言われたら、ほとほと困ってしまう。だが、では毎日現場にいる人が、その現場の事象を普遍化することが出来るか、というと、それもまた違う場合がある。

結局は普遍と具体、理論と現場、という二つのベクトルに自覚的で、現場発でも、理論発でも、逆側のことも常に視野に入れながら、考え続けることが出来るかどうか、が、現場と理論との往復にとって一番の架橋となるのだろう。実際にケアに従事している人、ケアを受けている人、とタケバタでは、現場の意味づけが違っている。とりあえず、僕にとって現場とは、福祉的課題が実際に発生している場、と考える。そして、その場でのタケバタのスタンスは、大変月並みだけれど、発生している課題は根本的にはどのようなものか、を抽出し、解決の糸口を探り、時には現場の人々に返せる何かをアウトプットしていくことだ、と今は考えている。

採点とテニスと減量

ようやくテストの採点が終わる。

今日、出席点とレポートの点数をつきあわせていた。教員になってつくづく思うのだが、レポートの判定って、実は出席と結構相関が高い。学生時代は「あんなレポート課題で、本当に判断出来るの? 教員が適当につけているんとちゃうん?」と思っていた。だが、自分が採点する側になって、レポートをざっと採点し、点数の高いA以上のものから、不可(D)のものまでずらっと並べて、それを出席点とつきあわせると、特にCや不可のDと出席回数とは、見事に一致する場合が多い。つまり、「出席していなければ、ちゃんと書けない」という、ごく当たり前の事なのだ。もちろん例外的に、少し休む回数が多い人でも、ちゃんとこちらが伝えたかった勘所をつかまえ、その上で自分の意見をバシッとまとめてくる人もいる。でも、これはごく例外的。多くの場合、「このレポートではいかんやろう」と判断した人の出席回数は、他の人に比べて著しく悪かったりするのだ。だから、大学教員の単位認定にも、一定の合理性があるのですよ と、ひとり言ってみたくもなるのであった。

午後3時頃、ようやく採点を終えて、あたふたと研究室の片づけと帰る準備。明日から長野と大阪のダブル出張が続くので、いろいろ資料を持って帰る。来月頭のアメリカ出張の予習の資料(もちろん英語)もたんまりある。「これを全部読むのかよぉ・・・」と思うと、ちょっと暗澹たる気分なのだが、ブーたれていても仕方ない。とにかく、大阪行き片道5時間は、今回は睡眠も飲みもなしで、ひたすら資料漬け、のはずである。サボらないか、自分が一番心配なのだけれど・・・。

で、夕方5時半から、近所の公営テニスコートで奥さまとテニス。彼女は先月から、会社の仲間に誘われて始めたのだが、僕も久しぶりに先週からラケットを握る。実に5年以上ぶり、くらいだ。僕の実家のマンションは川沿いにあり、その河川敷の公園に無料のテニスコートがある。我が家は僕以外みなテニス家族なので、僕も家族に教えてもらって、河原でその昔、たまにテニスをしていた。サッカーも野球もするのは大嫌いなオタク系少年!?だったタケバタくんも、テニスと水泳だけは、なぜか好きだった。多分、自分のペースで出来るのが、向いているんだろう。その後、大人になってランニングも好きになり、今ではジムにも通っている。要するに、集団行動で人に気を遣いながら、下手くそな自分を恥じながら、人前で足手まといになるのが嫌なのだ。その点、自分の世界に入れるスポーツは、へたっぴでもマイペースで出来るからいい。こういうマイペースは、小さな子供の頃にしっかり根付いていたのだった。

テニスを久々に再開して、最初のうち、ラケットにボールが当たること、早く打てること、いかに枠内に返すか・・・など自分のことしか考えていないテニスだった。今までならそれでよかったのだが、わがパートナーは当然のごとく「ちゃんとストロークできるように、わたしのいるところに返してよ!」と宣う。で。そこではっと気づいた。「そうだ、自分勝手じゃだめだ。相手がいるんだから!」 こんなことに今頃気づくようでは、本当に情けない。でも、そうやって気づいたら、何だか無駄に力んでいたのも消えて、うまく当たるようになってきた。で、不思議とストロークもうまく続くし、これまでサーブなんて全然出来なかったのに、なぜか今日はゆっくりだけれど入るようになった。自分のスタンスが変わると、運動の姿勢にもこうも変化が出るのだ、というのは、これはこれで大きな発見だった。

で、今、風呂に入る前にこの文章を書いているのだが、今日の最大の楽しみはこれから。何、ビールかって? それもあるけど、その前の「体重計!」。じ、じつは、夏バテで食事が細ったこともあり、昨日計ったら3キロほどやせていたのだ! 夏バテも少しはいいことしてくれるじゃん。まあ、まだ肝臓は万全ではないので、アルコールも控えめにして、運動もして、よく噛んで食事の量もちょっとセーブして(というか今まで食べすぎでした・・・)、これは一挙に夏、やせてしまうといいじゃん、なんて都合の良いことも考えております。

さて、何キロかしら・・・!?

 

お盆休みの効用

夏バテ、でへたばっていた。

始まりは火曜の夜。秋刀魚の開きが売られていて、それを山梨県産の美味しい白ワインと共に頂いていた。これはあの食品メーカーのフジッコが作っているワイナリーの白ワインなのだが、なんかの大会でも賞を貰ったほど、だそうで、結構すっきりした辛口でよかった。で、奥さまが半分残した秋刀魚を無理して食べた、のがいけなかった。その後、どんどん胃がむかついてくる。こりゃあ単に油っこさに胃がやられたから、寝たらなおる、わけではなかった。翌朝も、大学で仕事をしていても、ずっと気持ち悪さと胃の不全感は直らない。夕方ジムに行っても、やっぱりだめ。もしかしたら夏バテなのかも・・・。ジムのエアロバイクに乗りながら考えていると、確かに「初めての甲府の夏」×「ずっとクーラーの効いた部屋での座り仕事」×「毎晩ビールやワインで晩酌」×「夜はクーラー付けっぱなし」・・・すでにこれだけで夏バテ要素が十二分にある。そして、浅い睡眠まで付け加わると、もう完全な「夏バテ」のいっちょあがり、である。

あれま、と思い、昨日と一昨日の夜は、ほとんどアルコールを抜きにした(といっても奥さまが飲まれるので、コップ一杯は飲んじゃったのだけれど)。今日は大学が停電しているので、家で休養。そういえば、今年はお盆も全くなく働く予定。お盆休みって、夏バテでへたばった時期にあるなぁ、と考えると、日本の式のリズムの合理性にも深く納得してしまう。

で、お盆というと、一昨日の夜、友人から電話。「今年は実家に帰ってこないの?」というお誘い。「ごめん、まだ仕事がいっぱいあって、今年は帰れそうにないよ」と返事しながら、四方山話。彼とは、小学校5年生の頃、からだから、足かけ20年近い友人である。高校までは同じで、大学で僕が社会科学、彼は自然科学、にすすみ、今や彼は現場、僕は教育機関、という違う境遇だ。色%E

お盆休みの効用

夏バテ、でへたばっていた。

始まりは火曜の夜。秋刀魚の開きが売られていて、それを山梨県産の美味しい白ワインと共に頂いていた。これはあの食品メーカーのフジッコが作っているワイナリーの白ワインなのだが、なんかの大会でも賞を貰ったほど、だそうで、結構すっきりした辛口でよかった。で、奥さまが半分残した秋刀魚を無理して食べた、のがいけなかった。その後、どんどん胃がむかついてくる。こりゃあ単に油っこさに胃がやられたから、寝たらなおる、わけではなかった。翌朝も、大学で仕事をしていても、ずっと気持ち悪さと胃の不全感は直らない。夕方ジムに行っても、やっぱりだめ。もしかしたら夏バテなのかも・・・。ジムのエアロバイクに乗りながら考えていると、確かに「初めての甲府の夏」×「ずっとクーラーの効いた部屋での座り仕事」×「毎晩ビールやワインで晩酌」×「夜はクーラー付けっぱなし」・・・すでにこれだけで夏バテ要素が十二分にある。そして、浅い睡眠まで付け加わると、もう完全な「夏バテ」のいっちょあがり、である。

あれま、と思い、昨日と一昨日の夜は、ほとんどアルコールを抜きにした(といっても奥さまが飲まれるので、コップ一杯は飲んじゃったのだけれど)。今日は大学が停電しているので、家で休養。そういえば、今年はお盆も全くなく働く予定。お盆休みって、夏バテでへたばった時期にあるなぁ、と考えると、日本の式のリズムの合理性にも深く納得してしまう。

で、お盆というと、一昨日の夜、友人から電話。「今年は実家に帰ってこないの?」というお誘い。「ごめん、まだ仕事がいっぱいあって、今年は帰れそうにないよ」と返事しながら、四方山話。彼とは、小学校5年生の頃、からだから、足かけ20年近い友人である。高校までは同じで、大学で僕が社会科学、彼は自然科学、にすすみ、今や彼は現場、僕は教育機関、という違う境遇だ。色々話し込んでいて感じたのは、今の彼が、小学校の頃の様な、謙虚な自信と夢を持った、誠実さのある男に戻ってきた、ということ。小学校時代から色んな議論を彼としてきた僕にとっては、中学校以後、才能を開花させた、と言えばそれまでだが、何だか言動が派手になり、突っ走る姿にどこか「ついて行けないよなぁ」と感じるものがあった。しかし、お互い30ニなって、電話越しで話している彼は、物腰もすごく穏やかで、でも自分が抱いている夢を実現さえたい、という熱い気持ちをきちんと胸に秘めている、10才で出逢った時の「少年」と同じスタンスに戻っていた。

「お互いみずがめ座のA型やから、根は慎重なんやで」とボソッとつぶやく。確かに僕も彼も同じ2月生まれだ。だが、別に歩んでいく道も違い、その歩幅や指向性も当然違う。にもかかわらず、彼が出逢った頃の真っ直ぐさ、を今も持っている事が嬉しく、また彼から反射された僕の姿勢も、どうやらまだ真っ直ぐさが失われていなさそうだ、ということに気づけて、こちらも嬉しかった。お盆休み、とは、こうした「振り返り」と「夏バテ休暇」を与えてくれるもんだなぁ、とありがたく思っているうちに、すっかり2時間半近く、話し込んでいた。