ピコピコマンの年の瀬

 

昨晩、久しぶりに本格的な四川料理を食べる。一年遅れの母親の還暦祝いである。

一昨日から京都に来ている。いつもは朝早く出ていたので、関ヶ原の渋滞にばっちり引っかかり、結構大変な目にあっていた。そのことを職場の図書館で嘆いていたら、大阪出身の司書嬢が「夜帰ったら、ぜんぜん混んでいないですよ」とのこと。半信半疑ながら、確かにそうかも、とも思い、夜7時過ぎに出たら、日付変更線を超える前に、実家に辿り着いたのである。渋滞知らずで帰れるのは、大変ラクチンでよろしい。

で、昨日はネットで見つけた河原町の中華料理店を予約したので、随分久しぶりに、我が家の前から市バスに乗って四条河原町に。30分ほどのショートトリップである。運転しなくてもいいので、気づいたらピコピコマンになっている。これは、パートナー曰く、僕が挙動不審の人物が如く、キョロキョロキョロキョロしていて、あちこち目を動かすので、そう名付けられた。視線を動かすたびに、ピコ、ピコ、と囃し立てられるのであるが、本当にピコピコピコピコ動かしている。それほど、市バス13番には、思い出が深い。そう、幼稚園の頃から一人で乗っていたのだから。

僕が通った八条幼稚園は、お寺の住職が経営しておられ、うちの祖母のお葬式でもお世話になった、我が家にご縁のある下町の幼稚園である。当時主流だった英才教育とやらも行わず、スモッグを着せて伸び伸びと遊ばせる教育方針がよかった、とは、母親の弁。ただ、この幼稚園は、今では送迎バスを持っているが、当時は歩いて迎えに行く範囲でしか、園児を連れていなかった。僕は3歳までは一条だけ北の西大路七条近辺に住んでいたのだが、3歳で今のマンションに移り住む。すると、幼稚園に通う段階では、歩いて行けない。だから、バス停まで親-先生に送り迎えに来てもらうが、その間は定期券を持って市バスに乗る、そんな生活を続けていた。同じマンションから、タムラくんなど何人かの同級生が、同じ市バス13番に乗っていた。思えば、それが自立の始まり、だったのかもしれない。

そうそう、このころ一つ下の親戚、スグル君は、長岡京市に住んでいた。JRで西大路駅から二駅ほど乗った、神足駅まで、市バス13番とJRを乗り継いで一人で、あるいは弟と二人で行くようになったのも、小学生の低学年から。これも、幼稚園時代から市バスに一人で乗っていた、おませなヒロシ君の自慢でもあった。市バス13番は、そういう意味では、ずっと乗り続けていた路線でもあった。

それゆえに、車窓一つ一つの風景を覚えているので、10年ぶりくらいの終点四条烏丸までの乗車は、興奮しない訳がない。本を持って行ったのだが、全然読む暇もないほど、先ほどのピコピコマン。右や左をキョロキョロしながら、あの建物はまだある、あそこは新しく変わったという感慨に30分、浸り続けた。市バス13番の走る西大路通り、四条通は、古くから市電通りとして栄えていた為、昔から栄えていた通りでもある。よって、ここ30年近く定点観察しても、基本的な町並みの違いはない。お寺さんや病院、ワコールや日本写真印刷など大企業のビルは、基本的に30年間、変わらない位置にある。しかし、一方でこの30年間で、大きく変わった風景が、いくつかあることに気づいた。

まずは、コンビニの増減、である。10年前には急激に増えていたのであるが、最近は整理統合もすすみ、コンビニ跡、もちらほら見えた。次に、ガソリンスタンドの数の減少。これも全国的現象だが、薄利多売現象とセルフの増加などによって、二つの通りから、いくつものガソリンスタンドが減っていた。そして、町屋の減少と高層マンションの増加。ここまでは、これまでに実家に帰っていたおりにも、大体気づいていたことだった。

だが、今回一番衝撃的だったのが、銀行数の減少、である。西大路七条角の銀行跡は、もぬけの殻になっていた。西大路四条(西院)の北西角の銀行跡は商業ビルに変わり、南東角の銀行は1階がコンビニに変わっていた。四条烏丸の銀行跡も商業ビルになり、四条河原町の、占い師「河原町の母」が閉店後に島を構えた銀行もつぶれて商業ビルになっていた。銀行という「あるのが当たり前」だったものがなくなっている、ということに、少なからずビックリする、そんな定点観測であった。

さて、そんなノスタルジックな興奮にふけった30分の後は、パートナーのお買い物に付き合って百貨店巡り+僕に付き合ってジュンク堂の書棚巡り。2時半過ぎに四条烏丸について、河原町のレストランの予約は7時から、と4時間半もあったのに、あっという間に時間は過ぎる。いつもこういう街中に暮らしていると、そういう興奮は薄れるのだろうが、普段は野菜と空気の美味しい山梨に暮らしているからこそ、たまの大都会は実に濃密で、ショッピングもワクワクなのである。なるほど、ずっと都会に住んでいると確かに便利だけれど、こういう楽しみ方は都会から一歩離れるからこその味わいだな、と、都会から離れて5年目にして、しみじみ実感する。これも、定点観測の場に舞い戻ってきたからこそ、感じることなのかもしれない。

年の瀬を京都で過ごすのは、実家にいた時以来だから、10年ぶりだろうか。久しぶりの定点観測で、すっかり京都から、あの頃から、離れてしまっている自分、も発見した。思えば、青春時代、京都という街自体に閉塞感を感じていた。大阪と比較した際の、閉鎖性に嫌になっていた。だが、それは京都という街自体の問題というよりも、自己を客観化して眺めることが出来ない、有り余るエネルギーをうまく活用出来ない、自分自身に対する閉塞感であった、と今になって気づいた。京都は、昔毒づいていた程には、悪くない街のようだ。街歩きも楽しく、中華も美味しかった。そんなことを(再)発見した年の瀬であった。

みなさん、よいお年を。

昨日書きたかった(けど書ききれなかった)こと

 

昨日ブログを書いた後、風呂に入っていて、物足りなさを感じた。ブログの文章に関してである。小説家、奥田英郎氏が書いた伊良部シリーズの書評らしきものを書いていて、何か物足りない、と感じていた。それは何か、と考えていて、ふとこないだ読んだべてるの家の向谷地さんの本を思い出す。それで、はたと気づいた。そうか、あれと一緒ではないか、と。

ただでさえ出費の多い年末、ディーラーに定期点検に入れると、バッテリーと暖房器具一式の交換が必要、と言われる。7万5000円の出費は痛い、と思いつつ、エンジンがかからなかったり、暖房がコントロール出来ないのもたまらないので、泣く泣くディーラーで交換してもらっていた時のこと。1時間はかかる、と言われて、研究室の書棚から持参したのは、『ゆるゆるスローなべてるの家ぬけます、おります、なまけます』(向谷地生良、辻信一著、大月書店)だった。この本は、ライフスタイルのスロー化を提唱する辻さんと、精神障害者の回復拠点を北海道の僻地、浦河で作り上げてきた向谷地さんの対談本であり、主に辻さんが向谷地さんの魅力を引き出すインタビュー、という趣。向谷地さんの本は殆ど読んできたけれど、対談集が時として面白いのは、著者が自分で書かない(その意識がない、そこに視点が向かない)ことが、引き出されている場合である。今回、その対談集でも、向谷地さんの生い立ちや学生時代までの事が引き出されていて、非常に面白かった。

今、その本は研究室においてきてしまったので、手元にないのだが、その本を読んでいて、全体的に感じたことがある。それは、向谷地さん自身が、自分が精神障害者を治したいとか、何とかするために身を犠牲にするんだ、とか、そういう献身性や正義感とは違う動機でこの仕事をし続けている、ということである。むしろ、精神障害を持つ当事者の人々が何を考え、どう苦しんでいるのか、に寄り添いたい、という一心で、接している。その中で、本人から苦労を奪ってはいけない、と考え、その苦労をうまく背負い直せるような支援をしている、という事が、この本を読んでいても、しみじみ伝わってきた。そう、だいぶ回り道になったが、先に挙げた奥田氏の小説を読んでいて、何となくそのスタンスとの相似性を感じたのである。

以下では少し、奥田氏の短編連作集の構造を、ちょっとだけ分析してみたい。(読んでない方は、以下はネタバレ的な部分もあるので、お気をつけください)

小説の中で描かれるドクター伊良部は、世俗の塊のようなキャラクター(二代目のボン、親は医師会の有力者、ポルシェに乗って、似合わないブランドもので身を固めて)である。しかし、治療に訪れた患者に、趣味で注射を打つけれど、それ以上の治療らしい治療をしようとしない。カウンセリングを求める患者に対しても「聴いても無駄でしょ」など、一見すると、酷い対応をする。しかし、このドクターは、あろうことか、興味本位で患者の仕事の現場についていく。野球選手だったり、作家だったり、サーカスの曲芸師だったり、ルポライターだったり、独特のキャラを持つ登場人物の所属する現場に顔を出し、勝手な事をし始める。そして、ドクターが勝手なことをしでかしている間に、クライアント自身がドクターに引っ張られて、その現場での関係性を変容させたり、何らかの気づきが起こる。そしてその変容が、結果としてクライアントの問題の解決の糸口に繋がる、そんな構造がみてとれる。そして、3作続けて読んでみて、この構造には、一定の真実みがあるのではないか、と思い始めたのである。

昨日も書いたが、精神疾患は、社会の中での生きづらさが身体や精神的な失調という形で現れる部分もある病である。社会で何らかの役割を引き受ける事に疲れ果て、あるいはその役割を維持する事に自信がなくなったり疑問が生じ、抜けられない落とし穴に陥るかのように、周りとの不全感が累積していく。そのうちそれが、鬱や記憶喪失、幻聴や不安障害などの形で身体症状として表面化していく。それに対して対処療法的にその表面化した症状を薬で消す(減らす)ことは出来ても、内面にある不全感や生きづらさに目を向けることをしなければ、表面は一旦鎮火したかに見えても、再び火が燃え広がる可能性は少なくない。

べてるの家の実践の面白いところは、向谷地さんだけでなく、タッグを組む川村医師も含めて、対処療法的な多剤療法に逃げない、というところである。クライアントが病気に逃げ込まないで、苦労を引き受ける主体になれるような支援をする、そのことによって、不全感や生きづらさにこそ、うまく対処出来るようにSST(ソーシャルスキルトレーニング)などの技法を使ったり、「三度の飯とミーティング」というフレーズに代表されるような、当事者のセルフヘルプグループの力を活用する戦略をとっているのである。そして、その対処療法ではなく、問題の核心と対処するやり方への変容を支援する、という部分が、先の伊良部シリーズ構造に似ているような、そんな気がしてきたのだ。

ここで、浦河の実践と伊良部シリーズに共通するのは、クライアント自身が関係性を変容させたり、何らかの気づきが起こる主体である、この部分を奪わない、という事でもあるような気がする。専門家にお任せして、患者は「援護の客体」と矮小化されていない。あくまでも、その問題を引き受ける主体であるけれども、その問題の大きさや、関係性の悪化にくたびれ果てて、一人では解決する気力も落ちている。そんなときに、有無も言わずビタミン剤やブドウ糖という無害なものを注射する伊良部ドクターは、向精神薬で薬漬けにする一部の精神科医より、遙かにマシなのかも知れない。浦河の川村ドクターも、出来る限り薬は減らすのが原則、と言う。その上で、クライアント自身が問題と関われるよう、医師が余計な責任まで取ろうとしないのも、共通点かもしれない。川村ドクターと違い、小説の中に出てくる伊良部ドクターは、間抜けですらある。しかし、このマヌケさが、患者自身をして、医者に頼っても仕方ない、という踏ん切りになるのかもしれない。そして、この踏ん切りが、関係性を変容させる、踏ん張りの原点になっている節も見られる。

素人分析なので、当たるも八卦、の域からは、当然出ていない。だが、こういう事を色々考えさせてくれる、という意味では、非常に面白い比較が出来る奥田本と向谷地本であった。

おいで、おいで

 

年末モードである。

とはいえ、そんなに本気で掃除する暇もないのであるが、今日は卒論指導に出かけた大学で、ついでに掃除のおばさんが出していたモップをお借りして、研究室の汚れをとる。本当はもっと本格的にやらねば、と思うのだが、昨日は合気道の忘年会で飲み過ぎたので、調子が上がらない。年末のお買い物などのmustの事項もあるので、本棚の整理は年明けに延ばして、早々に退散する。

帰って、昼飯を食べて、ちょっとお昼寝をしてから、ようやく煤払い、のはずなのだが、その前に、年賀状の印刷に取りかからなければならない。相変わらず、超がつくほど準備が遅い。今年届いた年賀状と宛名ソフトのデータを対照すると、引っ越しなどで、手直しが必要なデータも少なくない。こういうチマチマした(しかし重要な)事を小一時間で仕上げ、しかる後にようやく両面を印刷に回しているうちに、あれま、夕方。せめて、書斎の机と本棚くらいは、と、何とか片づける。乱雑に積み上げた本を並べ直す中で、読んでいない背表紙が、おいでおいで、と呼びかけてくれる。すんません。せっかく買ったのに、手に取らないまま「寝かせ状態」の本が沢山ございました。年始のお休みにでも、ちびりちびりと読ませてもらいます、と謝りながら、本を入れ直す。

そうそう、ここ数週間、にわか小説ファン、になりつつある。奥田英郎が思いのほか、ヒット、であった。直木賞作家だから、ということは、読み始めて初めて知る不勉強ぶりではあるが、受賞作の『空中ブランコ』、その続きの『町長選挙』(共に文春文庫)の伊良部シリーズを、ずんずん読み進めていく。トンデモ精神科医と患者のストーリー、というと、一応その業界に多少の関わりがあるだけに、最初の『イン・ザ・プール』の途中あたりまでは、身構えて読んでいた。だが、そのうちその身構えがすっかりなくなり、安心して笑いながら、でも唸りながら読む。面白いし、月並みな言葉だが、人間がしっかり書けている小説である。

ご承知のように、社会における「標準偏差」からの著しいズレが一個人の中に生じた時、何らかの精神疾患の兆しが生じることが少なくない。特に、日本社会のような同調圧力が強く、かつタイやスウェーデンなど他国に比べても同調スピードが早い国においては、波に乗りきれない、あるいはスピードについていけないばっかりに、社会への拒否反応が精神や身体症状の異変、という形で表出する場合もある。この伊良部シリーズに出てくる「クライアント」も、そういう、どこにでもいそうな、そして自分もそうなりうる「隣人」である。彼ら彼女らの描写が実に鋭く、また、それと対比した際のドクター伊良部の幼稚さ加減と非現実性の対比に、むしろ救われる。真っ当なクライアントに対比して、はるかに「逸脱度が高い」のは、伊良部ドクターの方だ。また、それと共に、思いがけぬストーリー展開と解決策の提示の中に、必ず希望が見えているのがいい。こういうバランスが、上手く配合されているがゆえに、社会派小説ではなく、エンターテイメントとして楽しめるのだ。このシリーズはもうこの三冊で今のところ終わりなので、さて、別のシリーズに手を出そうかしら。

そうそう、この正月は、長い間楽しみに置いておいた村上春樹の「1Q84」も解禁予定。本棚からは他のもう少し堅い本も「おいで、おいで」しているのだが、まずは小説にもう少しどっぷりはまりたい。

ぶれない軸

 

日曜日以外に休みが取れたのは実に久しぶり。ここしばらく、日曜夕方は合気道なので、なるべく日曜日の予定を開けようとすると、結果的に土曜日は仕事で埋まっていた、況や祝日をや、である。

その合気道は、昨晩が年内最後のお稽古。7時半まで長々続く会議にイライラしながら、終了後、すぐさま道場に直行する。20分遅れで練習に合流したので、結局1時間しか稽古出来なかったが、実に楽しい。終了時に先生から来年の月謝袋!を渡され、今年の月謝袋も一緒に返される。5月から始めたので、8ヶ月分のはんこが押されていて、少ししみじみ。この8ヶ月の間に、週1回を週2回に変更し、熱心に通うようになっている自分がいた。そして、稽古納めの昨晩も、足を刺すような寒さの道場で、投げられたり、新たな型に挑戦しているうちに、すっかり汗だらけ、となる。そういう至福なひとときを過ごせるようになったことに、誠に感謝である。

で、帰りがけに、もともとこの合気道の道に導いてくださり、昨年度まで仕事上でもご一緒させて頂いていたツチヤさんから、「仕事も合気道も同じで、軸がぶれていない、というのが大切なんですよね」と言われる。ここ3年ほど続けている仕事の場で「ぶれない」という評価(お世辞?)をして頂いたことに恐縮しながら、改めて「軸がぶれない」とは何か、を考えてみたい。

合気道において、未だによくわかっていないが、コマのように軸足がきっちりとした上で、上手な回転をしていくことが大切だ、と教わる。しかし、コマと違うのは、相手の動きに合わせて重心も移動しながら、しかし身体全体を軸として、姿勢をしゃんとして、その軸に沿った動きが大切だ、というのである。これは、仕事の現場でも、もしかしたら関連性があるような気もする。

例えば、県の障害者福祉に関する特別アドバイザーを引き受けたとき、一緒にアドバイザーをさせて頂いている今井さんと二人で議論して、主軸にしたのは「当事者主体」と「当事者の権利擁護支援」であった。この二つの軸は、常に自分の頭の片隅に置き、講演だけでなく、どんな方々との議論の場でも、ずっと何度も繰り返し言い続けてきたことだった。何か暗礁に乗り上げそうになると、その言葉を思い出し、軸とずれていないか、を考えながら、仕事をしてきた。

ただ、「当事者主体」にしろ、「権利擁護」にしろ、抽象的な概念をそのままにしていても、仕方ない。時と場合によって、相手や状況によって、現実と理念をどのように絡ませるか、が問われる。合気道が組み手と自分の二者関係で軸を作りだすように、現実と理念の二者関係の中で、軸が機能するかどうか、が決まるのである。その際に、自分が現実と理念の間に入って、つまり留め金(=軸)として両方がかみ合うようにぶれなく回すように、バランスを取ることが求められる。だがこのとき、現実を理念に極大化するのでもなければ、逆に理念を現実にこじつけるのでもない。両者の違いを意識しながら、そのかみ合うポイントを探り、理念(=合気道で言うなら型)の軸にそぐう形で、現実の変容(=相手への技が決まる)を実現していく。

ただし、その際にその現場現場によって異なるツボというか、変容ポイントをきちんと見つけて、その部分に効果的に働きかけない限り、どんなに力を入れても物事が動かない、というのも、合気道と特別アドバイザーの実践で似ているような気がする。あくまでも、変容するポイントを体得し、その部分に技がかかるように、練習をすることが求められる。現場への関わりならば、何がそこで求められているのか、を、五感を総動員して把握することが求められているのである。この部分も、普段から練習を重まだ、練習を始めて8ヶ月だけなので、中途半端な分析しか出来ないが、日々学ぶことの多さにワクワクしている今日この頃、と言える。仕事でも、合気道でも、早く「ぶれない軸」が欲しいなぁ

そうそう、世間は気が付けばクリスマス。我が家では、今年も恒例の「鳥一の丸焼き」を購入して、その後立ち寄ったいそべ酒店では、シャンペンに赤ワイン、それに県内産ブドウを使ったグラッパまで、仕入れた。しっかり呑む前に、今から頂き物のゆずを風呂に放り投げて、ゆず風呂でほっこりする予定。その後は、いつもより早いスタートの、ミニパーティー、である。極楽な休日となった。

聴かれること、の幸せ

 

ある日の夜中のこと。仕事でクタクタになって、やっとの思いで家に帰って来た日のことである。パートナーがとある研修で受けてきた、という一枚の図を見せてくれた。「ライフライン」と示されているその図には、何も書かれていない縦軸と横軸、そして、横軸の右端に近い部分に印、が示されているだけだ。その図を元に、自分の人生を描いてご覧なさい、というものである。妻の書いた内容を眺めながら、大学時代のことを思い出していた。

その昔、確か大学1,2年生の頃、僕が在籍していた人間科学部は、社会学、教育学、心理学系統から成り立つ学際的な学部の走り、と言われた学部だったが、その基礎教養科目として、各系統のオムニバス講義のようなものがあった。そのオムニバス講義で、臨床心理学の授業だったとき、担当の先生が配布した紙には、おとぎ話か何かの場面が10個描かれていた。その絵と、A3のシートを配られた後、先生からは「一つの絵を選んで、時間内(30分くらい?)で自分なりにストーリーを書いてみなさい」と指示される。タイトルとペンネームをつけたそのストーリーは、列ごとに回収され、別の列の誰か、と交換して配られる。配られた他人のストーリーに対して、自分なりに解釈を裏側に書き込んで、また回収。それを二セットやって、書いた作者に戻される、というものであった。

もう15年も前の事なのに、その内容は結構おぼえていたりする。神父の前で男女が結婚式を挙げている場面を選んで、僕が書いたのは、三者三様の複雑な内面模様だった。やっと結婚出来るわ、と、安堵する美人妻。本当に俺でいいのか、と悩むぶさいく男。そんな二人を、「さて、これからどうなるのやら」と見守る、なぜかイタリアあたりから逃亡したやくざな神父。その三者の心理劇を即興で書いていた。

そのストーリー自体は、どこにでもありそうな、陳腐な内容だが、面白かったのが、匿名の二人の評者による読み解きであった。何を書かれたかの詳細はおぼえていないが、文体や内容を分析しながら、「異性にモテたいことに対するコンプレックスがある」「ロマンチストとリアリストがない交ぜである」「現状を冷たく分析する傾向がある」「ねちっこい性格」といった事は、案外的をついた指摘だなぁ、と納得しながら読んでいた事を思い出していた。

回り道をした。そう、ライフライン。

自分自身も、即興で縦軸に%、横軸に年齢を置き、今までの人生の浮き沈み、をグラフ化してみる。これだけでも仕事帰りで疲れた真夜中なのに、やけに熱中する。ただ、書くだけが、第一義的に大切なのではない。この書いた紙を通じて、相手から何かを引き出すこと、それを通じて対話すること、が、大切なのである。

その研修を受けたパートナーによると、答えたくない質問には答えなくてもいいけれど、「なぜ」と、単純に聴くことが大切だそうな。解釈は、質問者ではなく、書いた本人に任せるとよい。実際、僕自身もその後聴かれてみて、ぽろぽろと、言葉が出てくる。特に、しまい込んでいた何かが。「これってどういうことなん?」と対話する相手に促されて、改めて自分自身をリフレクションする。一人で振り返っているとタコツボに入りそうだが、他人に説明しようとすると、記憶を辿ったり、何らかの合理的解釈をしようと試みる。その中で、思ってもみなかったことが、次から次へとわき出して、口に出されていく。きっと、こういった教育分析的な何かを受けてみたかったんだろうなぁ、と思いながら、話しても話しても、「もうちょっとだけいい?」と、言いたいことが出てくる。いつも勝手な事を言い続けているようでいて、意外と蓋をしていたことがあるのですね。そういえば、これって「じっくり聴かれる快感」だよなぁ、とも思う。

僕は、ジャーナリストに弟子入りした事もあり、質的調査にずっと関わって来たこともあり、仕事柄、インタビュー的なことは、良くやる。上手なインタビュアーかどうかはアヤシイが、博論だって117人への聞き取り調査をまとめたものだし、来月発売のある業界誌では、新春対談の司会役もさせてもらった。インタビュー相手の懐にどこまで入れるか、は別として、構造化面接ではなく、スノーボール型、というか、話を聴きながら、ずんずんその奥まで探っていこう、というタイプのインタビューは割と好きである。で、結果として、ある施設での職員悉皆調査をしていた時、「何だかカウンセリングを受けているみたい」と言われたことも、何度かあった。おそらく、上記で書いたような、教育分析的なメンターの役割を、その相手に果たすことが出来たからだろう、と思う。

でも、僕自身は、なかなか「聴かれる」ことがない。おしゃべりだから、もちろんあちこちでぺらぺら喋っている。だが、それはこちらから話題をふる事が多く、質問に答える、とか、質問から引き出される、という事ではない。悪い癖で、「一聴かれたら十答える」性格なので、3つくらいしか聴かれていないのに、気づいたら30分過ぎている。すると、だいたいそれくらいで時間切れとなり、向こうは「沢山聴いた」と思っているのだろうが、僕自身は「あんまり聴いてもらっていない」という不完全燃焼状態で残るのだ。こう書いていて、結構鬱陶しい奴だ、と改めて思わなくはないが

で、先述のライフラインの分析では、実に久しぶりに、というか、初めてくらい、本当に「聴いて」もらった。人は「聴かれる」事を求めているのだな、と改めて思った。結局、僕は2時間ほど、ずっと「聴いて」もらっていた。そして、それだけ「聴かれる」中で、自分自身の解毒が出来、蓋をしてていた(心理学的に言えば抑圧していた、とでもいえるのかもしれないが)何かを空けることが出来た。

もちろん、それだけで、翌日から全く生活が変わった訳ではない。相変わらず、忙しい日々で、腹が立つことも少なくない。でも、「聴かれる」ことの力、を実感すると、ちょびっとだけ、人生の楽しさが増えたような気がする。「まだ喋ることがあるの?」、と尋ねられることもあるけれど、そりゃもう、ナンボでも出てくるものですよ。

『業務外』の豊かさ

 

ゆがみやこり、ズレは、バランスを失うことから生じる。それは、身体的なものであれ、精神的なものであれ。いや、心身二元論、ではなく、一方のアンバランスは他方に直結している、と言った方が正しいのかもしれない。

ここしばらくの凝り、は、首を冷やして寝ていたからであって、タオルを首に巻いて寝るようになったら治った、という表面的なものを超えた、心身の凝り、だったような気がする。もちろん、その前提にハードな日程があった訳で、今日は二週間ぶりの休日。合気道のお稽古しか予定がない、幸福な一日。木曜のゼミを終えた後、茗荷谷奈良新座、とツアーを終えて帰ってきて、久しぶりに10時間眠ると、少しからだがほぐれる。だが、一昨日メールをくださった、今子育て中のKさんは、子どもさんが生まれる以前は、業務中、「1ヶ月先の自分の居場所がわからない生活だった」そうで、上には上がいるものである。とはいえ、単に物理的な忙しさを超えた何かが、凝りにつながっていたことは、間違いない。そのことを考えるきっかけを与えてくれたのが、次の一冊だった。

「『業務内』のことがらが、上記のように、あまりにも機微に触れる(=ヤバすぎる)ことがらの連続で、それを書くことができなかったので、まるでそれを埋め合わせるかのように、敢えて『業務外』のことだけに絞って書き綴っていたのだ。今、読み返してみて思うのは、不思議なことに、『業務外』の記述に『業務内』のことがらがしっかりと反映されているのである。あるいは、もっと直裁的に、共振(シンクロナイズ)していることがある。」(金平茂紀『報道局業務外日誌』青林工藝舎、p3

この本を手に入れたのは、大学の「季節的業務」の為に、三重の出張の後、二泊三日で静岡に泊まっていた時のこと。同僚と業務を終えた後、寿司屋で昼酒を一杯引っかけ、昼寝本を探しに駅ビルの本屋で見つけた。確か朝日の書評でちらりと書かれていたような気がするが、全く記憶から抜けていた一冊。金平さんって、確かTBSの特派員かなんかだよなぁ、と、割と甲高い声の映像がかすかによぎった程度だったのだが、中をぱらぱらめくって、そこで紹介されている小説、音楽、演劇の濃厚なこと、濃厚なこと。むむむ、と思って、ホテルで読み始めたら、これが実に面白い。彼が報道局長だった2005年から2008年にかけてのウェブ上の連載は、まとめてみたら二段組300ページの本なのに、最後まで読んでしまった。

合気道を始めてからか、自分の矮小さ、というか、器の小ささを痛切に感じるようになってきた。もっと、いろんな可能性があるのに、自分が追い求めてきた内容が、実にタコツボ的な世界である、という、閉塞感のような何か。合気道は、その殻を、文字通り身体を使って破っていく手段であるような気がする。そうやって、少しは「脱皮」してみると、今度は自分の興味関心自体の偏りや決めつけ、矮小さが見えてきた。それを破りたくて、自分が知らない世界・ジャンルを教えてくれるメンターを探しながら、幾つかの「書評本」も読みあさる。その中で、米原万里の『打ちのめされるようなすごい本』(文春文庫)と共に、自分の可動域を拡げる素材を提供してくれたのが、金平さんのこの「業務外日誌」。同じ時期に手にした佐藤優と立花隆の「書評本」(『ぼくらの頭脳の鍛え方』)が、何だか真面目腐ったインテリジェンスの臭いがぷんぷんで途中で投げ出した分、この二冊のオモシロさが、むしろ際だつ。たぶん、佐藤・立花本は、米原さんの書評で知って読んだ高田理恵子氏の『文学部をめぐる病い』(ちくま文庫)につながるような、教養主義的、旧制高校的「臭さ」が臭っているのだろう。米原・金平本は、そんな気負いや衒い、スノビッシュさがないのが良い。

金平氏のこの書評本から今の僕が学んだ最大のこと。それは、「埋め合わせるかのように、敢えて『業務外』のことだけに絞って書き綴っ」た、という姿勢。僕自身、彼に比べたら超ミクロではあるが、昨今、大学や現場の「よしなし事」に関わる(=『業務内』の)中で、ストレスやらイライラがワインの澱よろしく溜まっていた。しかも、ワインつながりで言えば、ワインの師匠であったミムラ店長が突然「ご卒業」されてしまい、我が家からワインのストックもつきていた。今までは、ワインを美味しく飲んで翌朝にはため込まなかった何か、も、何だかここ最近、消えてくれなくなりつつあった矢先である。そう、消えない、といえば、確実に脂肪も消えてくれないのだが。

そんな変容期に金平氏の本に出会い、自分が『業務内』を『埋め合わせる』だけの『業務外』の豊かさを持っているかなぁ、と改めて点検してみたのである。答えは、否。ワーカホリック一歩手前、であった。危ない、アブナイ。

おそらく、合気道が楽しいのも、『業務内』のアンバランスへの『埋め合わせ』が出来る場だから。そのことに気づかされ、米原・金平本に載っていた小説やエッセイなど、注文しまくる。どれも、今まで手に取ったことのない、新ジャンルばかり。ここしばらくで言えば、品川のホテルで筑紫哲也の『旅の途中』(朝日新聞社)の深みをワイン代わりに転がし、奈良へ往復する新幹線では奥田英朗『イン・ザ・プール』(文春文庫)にケラケラ笑い、今朝は一昨日京都駅前の本屋で買い求めた、川上未映子の『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』(講談社文庫)を読んで、ウネウネとした論理と感覚の収束と発散に新境地を発見する。どれも、自分の昨今の『業務内』には欠けていた、異なる世界の、異なる言語の、異なる領域。こういう未開の分野に出会えるよい『仲人本』に助けられて、何とかアンバランスの凝り、から少しは抜け出せそうだ。

そして、今朝の朝日新聞を拡げたら、普天間問題について語る米上院議員のダニエル・イノウエ氏の記事が目に飛び込んできて、金平氏ならずともシンクロニシティを感じる。先ほど読み終えた、『旅の途中』のエピローグは、この日系人議員のエピソードから始まるのである。僕の世代はキャスターとしての筑紫哲也しか知らない世代だが、彼のエッセイを読んでいて、そのジャンルを超えた造形の深さにも、そこから出てくる味わい深い文体にも、心を打たれる。と同時に、キャスターとしての氏の独特な視点、「多事争論」という名コーナーに代表された鋭い切り口は、単に政治や経済、といった新聞がお得意(=つまりは『業務内』)の分野だけではなく、彼自身が陶芸や音楽、写真や映画といった幅の広い『業務外』への関心を持ち、人に逢い、滋養を吸い続けたからこそ、出てくるのだなぁ、という、鉱脈の源泉を垣間見た気がする。そこが、米原氏や金平氏にもつながる何か、なんだろうと思う。

20代後半、大学院生の時には割と禁欲的で、一つの視点・観点を確立するまでは、少なくとも博論を終えるまでは、乱読という名の逃避を恐れて、自己規制を働かせた(なんせ、高校時代から試験前になると決まって読書が進んだ、手痛い記憶の持ち主なので)。その禁は就職が決まった5年前に解いたつもりだったが、それでも自分を振り返ると、どうも専門に近い、『業務内』の本ばかりが書棚に目立つ。それとは全く違う、全くの『業務外』に出会いや驚き、風通しの良さを感じる余裕がないまま、最近まで来てしまった。で、ストレスやイライラを、食事で解消しきれなくなった時に、何とか合気道に出会い、また、幾つかの「当たり本」に出会い、何とか押しつぶされずに生き延びられそう、である。(希望的観測、だけれども)

そうそう、積ん読本の一冊であった、よしもとばななの『なんくるない』(新潮文庫)を『業務内』でグッタリ疲れた先週読んで、随分滋養をもらう。影響を受けやすいから、また沖縄に行きたくなる。冬休みに出かける候補地にしよう。そうやって、『業務外』でわくわくすることが、『業務内』のわくわくにも反映するはず。って、すぐ、功利的にしか考えられないのが、けちくさい関西人なんだけれど、明日からまた『業務内』の「そら、せっしょうな」日々が再開する。せめて今日は、『業務外』でのびのびと。夕刻の合気道では、杖の練習に勤しまねば。

支配と支援

 

昨日は5年ぶりに新潟。山梨のSさんからご縁を頂き、新潟の地で、福祉施設の利用者からの苦情を聞く役割をするボランティアさん(第三者委員)の研修にお呼び頂いた。

新潟は、直線距離はそんなに遠くはないのだが、列車なら東京まで出なければいけないので、車同様4,5時間かかる。以前から書いているように、電車の中でくらいしかまともに本を読めない、という不勉強ぶりなので、もちろん電車を選択。朝一の「かいじ」に乗って、新聞を読んでまどろむ頃(ちょうど勝沼あたり)から、熟睡。そして、だいたい30分ばかり(相模湖とか高尾あたり)で目覚める、というのがいつものパターンである。その爆睡の後、おもむろに仕事なり読書なりに取りかかると、はかどる。大阪や名古屋方面行きなら、「ふじかわ」号で富士宮あたりまで寝て、というパターンだろうか。そう、車だったら居眠り出来ないもんね。

で、昨日は新潟に出かける途中、新宿駅のサザンテラス口を出たところにあるスターバックスに立ち寄る。今月が博論提出のよんちゃんの作戦会議。車内では、彼女からその日の朝に届いた原稿に目を通す。面白い。

僕自身も博論を書いているとき、同じ講座の仲間達に月に一度、勉強会を開いて頂き、自分の原稿の出来具合をいつもピアの立場から批評してもらっていた。それが、本当によい伴走役となり、何とか仕上げた思い出がある。以来、伴走役のお手伝い(恩返し)が出来るチャンスがあれば、と思っていた。それが山梨に来て以来、出身講座の東京組の伴走役に。今回は、まお嬢に続き、二人目の伴走役。8合目まで辿り着き、ご本人は苦しそうだが、もう先は見えている。朝一の「かいじ」が新宿に着くのは9時過ぎ。昨日は遅れて15分頃到着だった。で、会場に間に合うためには10時過ぎには出なければならない。45分間のエールを送って、足早に大宮経由で上越新幹線の人に。

行きの電車で読み終えたのは、以前から気になっていた「イチャモン研究」。ちょうど、来年入ってくるゼミ生の一人が、クレーマーのことを考察したい、と仰るので、これをご縁に買ってみた。読めば読むほど、新潟の講演へのよい予習本だ、と思えるようになってきた。

『学校における保護者対応の問題は、一般的な消費者問題やクレーム対応と異なり、原則として保護者との継続的な信頼関係を維持しながら、「子どもの最善の利益の実現」「子どもが元気に学校に登校できる環境を回復する」ためのサポートを目的とするものでなければなりません。その観点から、保護者のしんどさの原因・背景を理解しながら、まさに学校が、是々非々で対応出来るようにすることをサポートすることが、サポートチームの重要な役割になります。』(峯本耕治「問題の背景・原因を見立てること(アセスメント)の大切さ」 小野田正利編著『イチャモン研究会-学校と保護者のいい関係づくりへ』ミネルヴァ書房、p201)

学校における保護者からの「要望」が、時として「苦情」、あるいは「イチャモン(無理難題要求)」になる。そして、近年、この「イチャモン」カテゴリーに入るものが急増する現状に対して、阪大の教育学のご専門である小野田先生が中心となり、教師やソーシャルワーカー、精神科医や臨床心理士、弁護士などで研究会をつくって議論してきた、その議論の内容をまとめた書籍。小野田先生は、院生時代に何度かお話させて頂いた事があるが、ざっくばらんなご性格の先生。なので、以前からその内容が気になっていたのだが、読んでみて、学校現場の問題の深刻さを感じると共に、小野田先生が学校現場をよくしたい、というパッションを持ちながら、このイチャモン研究を続けておられることがよくわかった。

で、引用した峯本さんは弁護士の立場で、教育委員会のサポートチームにも関わり、学校のイチャモンに側面的な支援をされておられる方だそうな。現場の支援をよくしておられる方だけに、実に説得力のある議論である。その中でも「保護者との継続的な信頼関係を維持」することと「子どもの最善の利益の実現」の両立を目指そうとする。その中で、「保護者のしんどさの原因・背景を理解しながら、まさに学校が、是々非々で対応出来るようにする」という原則が生まれてくるのだろう。

この原則は、すごくわかりやすいし、納得の出来る原則である。

教育と医療、福祉に共通するのは、「支援と支配のジレンマ」であろう。これまでの「専門家支配」による権力関係が問題視され、当事者主体の対等な支援に向けた模索が叫ばれてきた。実際、当事者の声に基づかない、支配者側(教師、医師、指導員)による権力行使と、自らの無謬性、問題があった際の矮小化(当事者への問題の押しつけと個人化)などの問題性は、フレイレの「被抑圧者の教育学」や、フリードソンの「医療と専門職支配」、オリバーの「障害の政治」など、様々な形で指摘されてきた問題である。

ただ、この指摘を曲解し、支配関係を反省するために、現実に起こっていることが、支配から支援への転換、ではなく、支配関係の転倒、ではなかったか? 教師にクレームやイチャモンをつける保護者の中には、サービス購入者(納税者)の権利だ、という権利行使の範囲を曲解し、恐喝的な行為に至る親もいるという。それに対して、是々非々での対応が出来ずに保護者の言いなりになってしまい、その結果、精神的なストレスが溜まって病気休職や、下手をすれば死の選択に至る教師もいる。これは、支配と被支配の関係が転倒しただけである。この問題は、「患者様」「利用者様」と呼ぶことにしている医療や福祉の業界にも通底すると思う。つまり、支配関係そのものを反省する訳でなく、表面的!?にその支配関係の上下を入れ替えることで済まそう、という、事なかれ主義の臭いすら感じるのは、僕だけだろうか。

そして、附言するならば、クレーマー化する保護者だって、支配関係の転倒を望むのではなく、実は何らかの支援を求めている、と捉えることは出来ないか。「保護者のしんどさの原因・背景を理解しながら」と書かれているのは、支配関係ではなく、支援の関係を求めている保護者の存在である。つまり、支援対象者の増大に対して、見て見ぬふりをすること、が、現場の問題を余計にこじらせている、とも言えないか。

そういえば、1960年代に、アメリカの社会学者(アミタイ・エチオーニ)が、教師、看護師、ソーシャルワーカーの共通性を指して、準専門職(semi-profession)と整理していた。医師や弁護士といった正統な専門職(full-profession)と違い、当時の教師、看護師、ソーシャルワーカーには専門性が低く、センスの良い一般人の中には十分にその仕事が代替出来るのではないか、という整理であった。

あれから半世紀。教師も看護師もソーシャルワーカーも、専門性を高めることに熱心になってきた。だが、それは医師や弁護士といったfull-professionに近づきたい、というあがきだったのか、当事者により近い立場での、医師や弁護士とは違う形での専門性だったのか、どちらだったのだろう? 教師の事はよくわからないが、専門看護師や福祉士の国家資格化などを見ている限り、どうも事態はfull-professionへの憧れの側面があるような気がしてならない。つまり、専門性を高めることは、つまりはより多くの権力性を確保し、現場での支配的地位を確固たる者にしたい、という流れと、どこかでつながっているところは、ないのだろうか? 

僕自身は、まだきちんと固まった考えではないけれど、教師・看護師・ソーシャルワーカーは、特に局所的なおつきあいではない、生活全般にわたる現場力が求められる領域故に、当事者により近い立場での、医師や弁護士とは違う形での専門性を持つべきではないか、と漠然と感じている。それは、支配的な専門性ではない、支援としての専門性であろうか。そんなことを考えていたら、帰りの電車の中で、ぴったりなフレーズに出会った。

「『当事者自身が自分を助けることを助ける』のが、援助者の基本的なスタンスということになる」(向谷地生良『技法以前-べてるの家のつくりかた』医学書院、p24)

多くのことを学ばせて頂いている精神科のソーシャルワーカー、向谷地さんの最新刊に、またもや学ばされる。大学教員という教師当事者としても、その通り。学生のエンパワメント支援とは、『当事者自身が自分を助けることを助ける』か、である。特に、高校まで○×枠組み、正解幻想や指示待ち人間化している学生さん達に、解毒剤的に僕がし続けてきたのは、彼ら彼女らに責任と権限を持たせ、こちらは期限と目標だけ定め、あとはお任せする、というスタンスだ。新入生研修であれ、4年生の卒論指導だって、基本的に変わらない。学生自身が持つ潜在的な力を信じ、それを引き出すための支援をする、つまりは「自分を助けることを助ける」支援なのである。それを向谷地さんは、「当事者主権としての『自助』」とも仰っておられるが、確かにそういう側面もあるだろう。

支配関係ではなく、支援の関係へ。弁護士や医師とは違う関係性を当事者と築くために、教師や看護師、ソーシャルワーカーはどうあるべきか。こうウネウネ書いてきて、もちろん結論は見いだせないが、今日の所、向谷地さんの次のフレーズを、結論の漸近線として示しておこうと思う。

『援助者の「神の手にならない」というわきまえと、それを体現する援助の

semi-professionゆえの「わきまえ」と「形」が、実は支配とは違う何か、を導き出すのかもしれない。

リンゴの便り

 

週末から週明けにかけての、鳥羽、関学、津のツアーを終えて大学に戻る。週末の西宮で、あるいはアマゾンや丸善で注文した本がわんさか届いている通知のついでに、学務課から「リンゴが届きました」というお知らせが。山形のシゲヨシさんが送って下さったのだ。

以前も書いたが、このスルメブログで私のことを色々知って下さり、こないだは山形まで講演に呼んで下さった。現地の皆さんとの議論からも沢山学ばせて頂いたのだが、さらには「リンゴの便り」まで。縁あって、今年から彼はリンゴの木のオーナーだそうだ。初収穫のお裾分け。ありがたいかぎり。早速御礼のお手紙を書こうと思ったら、入っていたお手紙に「私の勝手な都合で、無理無理食べてもらうことになりますので、返事は返礼は一切拒否いたします」と、こちらを気を遣って書いて下さる。なので、このブログで、勝手にこちらも御報告。蜜がつまっていて、メチャクチャ美味しいです! 仕事しながらペロッと一個、食べてしまいました。ごちそうさまでした。

さて、昨日は三重で、今日は大学で、精神障害を持つ当事者の方々の語りに耳を傾ける。どちらも国事業として行っている精神障害者地域移行支援特別対策事業の一環で、ピアサポーターとして活躍しておられる方々である。その話を2日連続聞いているうちに、専門性って何だろう、とずっと考えていた。

精神科病院には、長期入院患者が沢山いる。国の発表では平成23年までに7万2000人の社会的入院患者を地域に戻ってもらうという数値目標を立てたが、諸外国と比較すると、その見積もりは低すぎる、と僕自身は感じている。ただ、この7万2000人という低い数値目標でも、現段階では達成しにくい。その理由として、よく挙げられるのが「精神病院が候補者をなかなか出してこない」「ご本人が退院に対して消極的である」などの理由が挙げられる。

確かに、日本の9割の精神科病院は民間病院であり、患者を出したら、次の患者を入れないと、という経営論理が働くという理由もわかる。また、ご本人が「一生ここに置いて下さい」と仰る、あるいはこれまで病院や地域の側もかなり地域移行の支援をしてきたから、今残っている人は専門職がこれまでどれだけ関わっても無理だった人たちです、という話もよく聞く。

しかし、である。昨日と今日のピアサポーターの方々の話では、どうも上述のような「専門家」の指摘する「限界」こそ、限界があるのではないか、と感じてしまう。例えば、ご本人が「一生ここに置いて下さい」と言うケース。中には、追い出される事に恐怖を感じて、「私たちはここにいる権利がある」と居住権を主張される方もあるそうだ。だが、それを持って、「だから仕方ない」としていないか。なぜ「一生ここに置いて下さい」と居住権まで主張するのか。その背景に何があるのか、と当事者のピアサポーターの方に聞いてみると、ずばり「諦め」だという。精神疾患の初期、家族関係が悪くなり、あるいは両親とも死別し、帰る場所がない、という人がいる。保証人もなければ、長期間の入院で生活力も低下している。そんな人達は、地域に戻って暮らすという夢を持ち続けていては病棟生活が苦しくなるばかりだから、欲求を低次元にして(=つまり地域生活を諦めて)、病棟での生存戦略を生み出されていかれた方が少なくないのではないか。だからこそ、「ここに置いて下さい」とか、以前拙著で触れたが「病気に疲れ果てた。退院したくない」という呟きになる。だが、専門家は、この「病気に疲れ果てた」と「退院したくない」との間にある、様々な諦めや退路を断った惨めな気持ちに本当に寄り添えてきたのだろうか。

そんなとき、同じ病を経験しながらも、地域で暮らしておられる方々の存在は、入院者にとって、特に退院を「諦め」てしまっている人にとって、非常に大きな灯火になっているようだ。例えば、最初お会いした際、「絶対退院したくない」と頑なだった方でも、継続的に関わり続ける中で、ピササポーターに心を開かれ、今では「出来ればアパートに住んでみたい」と仰られるようになった方もいる、という。

ここからは何ら科学的裏付けのない僕の妄言だが、そもそも10年20年という時間をかけて、地域生活や自分自身の夢の実現を諦め続けてきた方に、1ヶ月や2ヶ月の関わりで、気持ちを変えてもらう、という発想こそ、尋常ではないのではないだろうか。PTSDの研究で明らかなように、強い衝撃や被害経験は、それが短時間であっても、その後の人生にネガティブな影響を長期間、多大に渡って引き起こす。精神疾患でしんどい想いをする、という、人生の一大事。かつ、その後病棟で、社会から隔絶されて、精神症状が落ち着いても退院する見込みもない。このようなトラウマ的な経験を長期間した方々に、「さあ退院ですよ」と言われても、信じられないし、信じたくない、という人もいるのではないだろうか。妄言を続ければ、下手に「退院」を真剣に考えることで、せっかく低次の欲求で我慢することにしてきた「折り合い」(=諦め)のフタを外す、つまりは「パンドラの箱」を開けることにつながり、病気の再発や、以前のしんどさや、でも再びのかすかな希望や、とはいえ長年の入院生活が無駄だったのかといった様々な想いが爆発的に出てきそうだからシンドイ、だから「一生置いて下さい」ではないのだろうか。この、語られない何か、に専門職はどれだけ耳を傾けてきたのだろうか、と感じる。

だからこそ、当事者という専門性をもったピアサポーターの存在は大きい。期間や病状は違えども、精神病院に入院した経験、退院して暮らす時の不安さ、退院した後の取り戻した感覚、など、対等な立場で、長期入院者が「フタをしていた知りたいこと」を、先にフタを開けて知っている人から聞けるのだ。この経験があるから、もう一度頑張ってみてもいいのかな、という希望に、火がつくのである。火がついた後の支援は、専門職の「餅は餅屋」だ。だが、その火をつける支援は、もしかしたら専門職より、同じ障害を経験した人の方が、うまく出来うる部分もあるのかもしれない。それは、自立生活運動をしてきた身体障害の人は経験してきた事だけれど、ようやく国事業になって、精神障害を持つ人も同じだ、という認識が、制度としても全国的に共有される様になってきたのだ。

そうなってくると、僕も含めた、障害者の支援に関わる人材も、大きく態度変容を迫られる。精神障害は自立生活運動が出来る人とは違う、といった、無根拠な決めつけは通じない。当事者がその専門性を持って、病院や入所施設で諦めざるを得ない、あるいは地域で閉じこもらざるを得ない方に、火を再びともしてもらう支援をする。ならば、専門家は、その火に水をかけるのではなく、更に薪をくべて、火が消えないように、その火をより強固なものにし、地域でその灯された火を絶やさない支援が必要なのだ。なのに未だに「うちの患者さんは○○だから」と決めつけて、水をかけて古い考えに縛られていていいのか。

リンゴの便り、に入っていたシゲヨシさんのお手紙の中に、「福祉を必要とする方々の心の奥を知ることで、今の日本の福祉レベルでは解決出来ない状況を思い知らされることがあります。それでもなんとか工夫すること、新たな発見をすることが、少しですが福祉レベルを上げることだと思っています」と書かれていた。まさに、その通り。そして、私自身は、触媒、というか、ファシリテーター役として、そういう当事者の声を聴き、専門職の呟きに耳を傾けながら、一方で当事者の専門性や専門家の変容について、整理して伝え続ける役割をすることが「福祉レベルを上げる」ための、ささやかな、自分なりの貢献なのだろうと思う。

山形と三重と山梨、違う現場だけれど、通層低音が同じな方々とセッションが実現したことが、有り難い。リンゴを頬張りながら、豊かな気持ちになる夕べであった。