昨日は5年ぶりに新潟。山梨のSさんからご縁を頂き、新潟の地で、福祉施設の利用者からの苦情を聞く役割をするボランティアさん(第三者委員)の研修にお呼び頂いた。
新潟は、直線距離はそんなに遠くはないのだが、列車なら東京まで出なければいけないので、車同様4,5時間かかる。以前から書いているように、電車の中でくらいしかまともに本を読めない、という不勉強ぶりなので、もちろん電車を選択。朝一の「かいじ」に乗って、新聞を読んでまどろむ頃(ちょうど勝沼あたり)から、熟睡。そして、だいたい30分ばかり(相模湖とか高尾あたり)で目覚める、というのがいつものパターンである。その爆睡の後、おもむろに仕事なり読書なりに取りかかると、はかどる。大阪や名古屋方面行きなら、「ふじかわ」号で富士宮あたりまで寝て、というパターンだろうか。そう、車だったら居眠り出来ないもんね。
で、昨日は新潟に出かける途中、新宿駅のサザンテラス口を出たところにあるスターバックスに立ち寄る。今月が博論提出のよんちゃんの作戦会議。車内では、彼女からその日の朝に届いた原稿に目を通す。面白い。
僕自身も博論を書いているとき、同じ講座の仲間達に月に一度、勉強会を開いて頂き、自分の原稿の出来具合をいつもピアの立場から批評してもらっていた。それが、本当によい伴走役となり、何とか仕上げた思い出がある。以来、伴走役のお手伝い(恩返し)が出来るチャンスがあれば、と思っていた。それが山梨に来て以来、出身講座の東京組の伴走役に。今回は、まお嬢に続き、二人目の伴走役。8合目まで辿り着き、ご本人は苦しそうだが、もう先は見えている。朝一の「かいじ」が新宿に着くのは9時過ぎ。昨日は遅れて15分頃到着だった。で、会場に間に合うためには10時過ぎには出なければならない。45分間のエールを送って、足早に大宮経由で上越新幹線の人に。
行きの電車で読み終えたのは、以前から気になっていた「イチャモン研究」。ちょうど、来年入ってくるゼミ生の一人が、クレーマーのことを考察したい、と仰るので、これをご縁に買ってみた。読めば読むほど、新潟の講演へのよい予習本だ、と思えるようになってきた。
『学校における保護者対応の問題は、一般的な消費者問題やクレーム対応と異なり、原則として保護者との継続的な信頼関係を維持しながら、「子どもの最善の利益の実現」「子どもが元気に学校に登校できる環境を回復する」ためのサポートを目的とするものでなければなりません。その観点から、保護者のしんどさの原因・背景を理解しながら、まさに学校が、是々非々で対応出来るようにすることをサポートすることが、サポートチームの重要な役割になります。』(峯本耕治「問題の背景・原因を見立てること(アセスメント)の大切さ」 小野田正利編著『イチャモン研究会-学校と保護者のいい関係づくりへ』ミネルヴァ書房、p201)
学校における保護者からの「要望」が、時として「苦情」、あるいは「イチャモン(無理難題要求)」になる。そして、近年、この「イチャモン」カテゴリーに入るものが急増する現状に対して、阪大の教育学のご専門である小野田先生が中心となり、教師やソーシャルワーカー、精神科医や臨床心理士、弁護士などで研究会をつくって議論してきた、その議論の内容をまとめた書籍。小野田先生は、院生時代に何度かお話させて頂いた事があるが、ざっくばらんなご性格の先生。なので、以前からその内容が気になっていたのだが、読んでみて、学校現場の問題の深刻さを感じると共に、小野田先生が学校現場をよくしたい、というパッションを持ちながら、このイチャモン研究を続けておられることがよくわかった。
で、引用した峯本さんは弁護士の立場で、教育委員会のサポートチームにも関わり、学校のイチャモンに側面的な支援をされておられる方だそうな。現場の支援をよくしておられる方だけに、実に説得力のある議論である。その中でも「保護者との継続的な信頼関係を維持」することと「子どもの最善の利益の実現」の両立を目指そうとする。その中で、「保護者のしんどさの原因・背景を理解しながら、まさに学校が、是々非々で対応出来るようにする」という原則が生まれてくるのだろう。
この原則は、すごくわかりやすいし、納得の出来る原則である。
教育と医療、福祉に共通するのは、「支援と支配のジレンマ」であろう。これまでの「専門家支配」による権力関係が問題視され、当事者主体の対等な支援に向けた模索が叫ばれてきた。実際、当事者の声に基づかない、支配者側(教師、医師、指導員)による権力行使と、自らの無謬性、問題があった際の矮小化(当事者への問題の押しつけと個人化)などの問題性は、フレイレの「被抑圧者の教育学」や、フリードソンの「医療と専門職支配」、オリバーの「障害の政治」など、様々な形で指摘されてきた問題である。
ただ、この指摘を曲解し、支配関係を反省するために、現実に起こっていることが、支配から支援への転換、ではなく、支配関係の転倒、ではなかったか? 教師にクレームやイチャモンをつける保護者の中には、サービス購入者(納税者)の権利だ、という権利行使の範囲を曲解し、恐喝的な行為に至る親もいるという。それに対して、是々非々での対応が出来ずに保護者の言いなりになってしまい、その結果、精神的なストレスが溜まって病気休職や、下手をすれば死の選択に至る教師もいる。これは、支配と被支配の関係が転倒しただけである。この問題は、「患者様」「利用者様」と呼ぶことにしている医療や福祉の業界にも通底すると思う。つまり、支配関係そのものを反省する訳でなく、表面的!?にその支配関係の上下を入れ替えることで済まそう、という、事なかれ主義の臭いすら感じるのは、僕だけだろうか。
そして、附言するならば、クレーマー化する保護者だって、支配関係の転倒を望むのではなく、実は何らかの支援を求めている、と捉えることは出来ないか。「保護者のしんどさの原因・背景を理解しながら」と書かれているのは、支配関係ではなく、支援の関係を求めている保護者の存在である。つまり、支援対象者の増大に対して、見て見ぬふりをすること、が、現場の問題を余計にこじらせている、とも言えないか。
そういえば、1960年代に、アメリカの社会学者(アミタイ・エチオーニ)が、教師、看護師、ソーシャルワーカーの共通性を指して、準専門職(semi-profession)と整理していた。医師や弁護士といった正統な専門職(full-profession)と違い、当時の教師、看護師、ソーシャルワーカーには専門性が低く、センスの良い一般人の中には十分にその仕事が代替出来るのではないか、という整理であった。
あれから半世紀。教師も看護師もソーシャルワーカーも、専門性を高めることに熱心になってきた。だが、それは医師や弁護士といったfull-professionに近づきたい、というあがきだったのか、当事者により近い立場での、医師や弁護士とは違う形での専門性だったのか、どちらだったのだろう? 教師の事はよくわからないが、専門看護師や福祉士の国家資格化などを見ている限り、どうも事態はfull-professionへの憧れの側面があるような気がしてならない。つまり、専門性を高めることは、つまりはより多くの権力性を確保し、現場での支配的地位を確固たる者にしたい、という流れと、どこかでつながっているところは、ないのだろうか?
僕自身は、まだきちんと固まった考えではないけれど、教師・看護師・ソーシャルワーカーは、特に局所的なおつきあいではない、生活全般にわたる現場力が求められる領域故に、当事者により近い立場での、医師や弁護士とは違う形での専門性を持つべきではないか、と漠然と感じている。それは、支配的な専門性ではない、支援としての専門性であろうか。そんなことを考えていたら、帰りの電車の中で、ぴったりなフレーズに出会った。
「『当事者自身が“自分を助けること“を助ける』のが、援助者の基本的なスタンスということになる」(向谷地生良『技法以前-べてるの家のつくりかた』医学書院、p24)
多くのことを学ばせて頂いている精神科のソーシャルワーカー、向谷地さんの最新刊に、またもや学ばされる。大学教員という教師“当事者“としても、その通り。学生のエンパワメント支援とは、『当事者自身が“自分を助けること“を助ける』か、である。特に、高校まで○×枠組み、正解幻想や指示待ち人間化している学生さん達に、解毒剤的に僕がし続けてきたのは、彼ら彼女らに責任と権限を持たせ、こちらは期限と目標だけ定め、あとはお任せする、というスタンスだ。新入生研修であれ、4年生の卒論指導だって、基本的に変わらない。学生自身が持つ潜在的な力を信じ、それを引き出すための支援をする、つまりは「“自分を助けること“を助ける」支援なのである。それを向谷地さんは、「当事者主権としての『自助』」とも仰っておられるが、確かにそういう側面もあるだろう。
支配関係ではなく、支援の関係へ。弁護士や医師とは違う関係性を当事者と築くために、教師や看護師、ソーシャルワーカーはどうあるべきか。こうウネウネ書いてきて、もちろん結論は見いだせないが、今日の所、向谷地さんの次のフレーズを、結論の漸近線として示しておこうと思う。
『援助者の「神の手にならない」というわきまえと、それを体現する援助の“形“』
semi-professionゆえの「わきまえ」と「形」が、実は支配とは違う何か、を導き出すのかもしれない。