枠内での思考の限界

昨晩、ツイッターを眺めていると、とある人がこんなことをつぶやいていた。

「インプットとアウトプットの間に、物事を精査して、それ以外の可能性も考慮する、という比較検討の視点が日本人には足りない。Aと言われたら、Aのことしか考えられず、Aしかできない。」
昨晩、この方のツイートに対して、「それってシンキングデバイドですね」と応答していたのだが、今朝ふと考える。一般的日本人が、他国民と比べて何も考えていない(めちゃくちゃ考えている)といった極論は、単なる暴論にすぎない。どこの国の人だって、人間の基本的な振る舞い能力に、そう大きな偏差があるわけがない。ただ、考えるエネルギーをどう振り分けるか、については、個体差だけではなく、文化的偏差があるのではないか。では、日本に住む人が考えるエネルギーをどこに選択的に集中し、それ以外のどこがおろそかになっているのだろうか? その結果として、「Aと言われたら、Aのことしか考えられず、Aしかできない」人が沢山この社会にいる、という事態になっているのだろうか?
一つの補助線として、同調圧力、が挙げられる。これは山本七平(イザヤ・ベンダサン)の『空気の研究』に代表される日本人論に必ず出てくる議論である。震災後の「自粛」「不謹慎」論の横行なども、この同調圧力の典型例と言われる。ただ、もう一歩踏み込んで、なぜその同調圧力に多くの人がはまり込んでいくのか。考えるエネルギーは、そこでは使われないのか。
このことに対して、例えばこんな仮説を提示してみよう。
同調圧力という枠組みを前に、その枠組み自体を疑うのではなく、枠組みの中でどう適切に振る舞うのか、という戦略を必死になって考えている、と。
「Aと言われたら、Aのことしか考えられず、Aしかできない」のは、Aという前提を疑うのではなく、Aを所与の前提として考え、そのAの中でのハイパフォーマンスを最初から考える方が、日本社会での振る舞い方としては適合的である、ということではないか。これは、その社会への基本的信頼性が高く、その枠組み自体は疑わずとも生きていけるという前提の基でのみ機能しているバーチャルなプラットフォームではないか。そして、それを山本七平なら「空気」と呼んだのではないか。
一昔前、ミニバンがはやったころ、どの会社も同じようにミニバンの後続機種を出した。同じようなものを、同業他社が普通に出しても、そのまま売れる。今だって、洋服の世界では「今年のトレンド」なるもので機能しているのかもしれない。このような「共通のプラットフォームにおける微妙な差異」に考えるエネルギーを注ぎ込む事で、日本の高度消費社会は飛躍的にそのサイクルを回し、内需拡大にもつながり、景気の浮揚に貢献してきた。枠組み自体は疑わなくとも、枠内での差異を考えるだけでいいのだから、ある種かなりミニマルな(下手をしたらトリビアルな)差異の検討というオタク的展開に終始できた。それをある人は閉塞感と呼び、他の人は「しかたない」としてきた。
だが。年間3万人の自殺が10年続き、その閉塞感がきわまったところに未曾有の東日本震災や原発事故が起きてしまう。「想定内」というフレーズが、社会への基本的信頼感が、カタストロフィと共に、部分的に崩壊しつつある。ベルリンの壁の崩壊後のソ連や東欧は、社会主義から資本主義へとパラダイムそのものを替え、大きな試練を強いられた。そのときと似た、しかし、日本のパラダイムの場合は、これからどう別のパラダイムに向かうかわからない、そんな「想定外」の穴が、社会的信頼感というプラットフォームに開いてしまった。その中で、「Aと言われたら、Aのことしか考えられず、Aしかできない」でもよかった、幸福な時代は、もしかしたら、後退しつつあるのかもしれない。
ハッキリ言って、枠組み自体を一つ一つ疑うことは、「非効率」である。それに、消費を減退させる。「本当にこの服(車、ゲーム、本、電化製品・・・)を買う必然性があるのだろうか?」と疑わないことを前提に、買い換える事を前提に、日本社会の消費サイクルは回っている。いや、コマーシャルも含めて、そう需要を喚起してきた。だが、そのコマーシャルを映す媒体であるテレビ自体から人びとが離れていくことは、「大きな物語」という枠組み自体の、決定的な崩壊期でもある。
ただ、多くの日本人が、「Aのことしか考えられ」ないパラダイムから、まだ離れることは出来ない。いや、そのパラダイムはまだ支配的であり、そのパラダイムを疑わないことが、生存戦略上有利、と考えている人が多い。ただ、本当にそうなのか? パラダイム自体の根本的補修や、部分的掛け替えなどの大規模なメンテナンスを本気でしないと、オゾンホールのように、社会的信頼感への穴は、どんどん大きくなり、この日本社会の先達が作り上げた安心・安全のプラットフォームは構造的欠陥→構造的崩壊の危機をもたらさないか。
そんな危惧をしている。

想定内を超える瞬間

いつもは「聞き手」なので、「聞かれること」はあまり得意ではない。

昨日はとあるタウン誌のインタビューを受けた。こちらも色々お話を伺いたかった、あるNPO法人の理事長さんとの対談である。
相手に聞かれたことを丁寧に答える、というのが、インタビューの基本なのだろう。でも、僕の場合、ついつい勝手にしゃべってしまう。それは、自分が聞き手として、「自分が聞きたいこと」「相手に言ってほしいこと」を自分の枠組みの範囲内で聞き続けてきた、という自らの愚かさを知っているから、かもしれない。だから、意識しなくても、普段より緊張して、その結果、普段より遙かに沢山しゃべる。そして、通常のインタビュアーなら、その普段より沢山しゃべる内容に圧倒され、結局こちらの持ちネタというか、もともと持っていたストーリーの枠内に収まる。すると、僕自身がみれば、想定内のアウトプットがもたらされる、ということが、少なくなかった。
饒舌なのに想定内、これほど自分にとって、つまんないものはない。
だが、昨日の聞き手のMさんは、「聞き手の私」をしっかりもち、がっつりぶつかってくださる。しかも、僕のようにしばしば「なんでですか?」と問い返すことなく、基本は笑顔で頷く。しかし、肝心なところで、大切な捉え直しや合いの手を入れてくださる。そこで、饒舌に想定内のストーリーになりかけていたのが、ふと、立ち止まって、考えて、想定外のところに踏み込み始める。
「聞き手」を続けていて、面白い、と感じる瞬間は、「語り手」が自らの想定内を超える瞬間。聞き手とのやりとり(本当の意味でのdia-logue)という相互作用を続ける中で、語り手がふと、量子力学的跳躍を果たす瞬間。そこから、語り手自身が思いもしなかったことを、蜘蛛の糸でも掴むかのように、語り出す瞬間。そこに出会えると、対話の質が随分深まり、聞き手の方もいつしかその相互作用の中で、聴ける内容も深まっていく。
昨日のインタビューでは、聞き手の側のハンドリングがうまかったので、また語り手の私と話が合う部分も少なくなかったので、その相互作用の中から、普段の僕が記憶の納屋か倉庫にしまい込んでいた、いくつかの懐かしい在庫を取り出していただく事ができた。僕自身も久しぶりに見る、過去の記憶や経験の断片。しばらくの間考えてもいなかったことなので、埃を払いながら、話をしながら、その懐かしい在庫の現代的意味を問い直そうとする。あるいは、今考えつつある断片との融合の中で、まだ見ぬ何か、を紡ぎ出そうとする。
聞き手がうまいと、そういう導きに誘われ、気づけば、想定外の場所に、連れて行って頂ける。
その瞬間、饒舌はひとたび止まり、うーん、と考え込む瞬間にたどり着く。攻撃的!?おしゃべりな僕にはあまりない、エアポケットのような瞬間。しかし、その瞬間と出会えるから、まだ見ぬ何か、語ってこなかった、今から語られようとする何か、が未然形として、前のめりに示されていくのだ。これこそ、自分の殻を破る瞬間だし、対話的環境がエキサイトする瞬間である。
そういう、至福なインタビューだったので、2時間しゃべりっぱなしで、ノドがからからになってしまった。
僕だったらあんなにしゃべられたら2頁の記事にまとめられないが、そこは優秀なる記者さんが横でじっと聞き耳を立てておられたので、取材チームのお二人は実に名コンビ。今から、どんな記事になるか、楽しみである。

村上春樹と「神話の力」

まさか自分が「物語」にどんどん惹かれていくとは、よもや思いもしなかった。

仕事場の書架はもちろん、自宅の本棚にも、小説は実に少ない。入り込んだらその世界にずっと浸るのだが、なかなか小説世界に入り込む(その世界に馴染む)のに時間がかかるのか、食わず嫌いなのか、その両方だと思うのだが、小説を読むことは少なかった。例外的に村上春樹だけは小説もエッセーもほぼ全てを何度か読み直すほどのファンだが、同じく物語性の強い漫画も含め、ほとんど手をつけていない。また、映画もドラマも、ほとんど見ない。
では、嫌いなのか、というと、そうでもないような気がする。逆に小さい頃は感情移入しすぎて、疲れたのだ。特に、テレビドラマで主人公が恥ずかしい経験をする時など、先読みしすぎて、いたたまれなくなってトイレに隠れる、なんて変な子どもだった。ドラマがそれだけわかりやすくて陳腐だったのかもしれないし、僕の感覚が、今より少しは鋭敏だったのかもしれない。あと、受験勉強時以来、ドラマや映画は時間がかかるので、見始めたら効率が悪い、という効率第一主義にはまっていた部分もなきにしもあらず、かもしれない。
いずれにせよ、一番小説が吸収できそうな10代20代を通じて、村上春樹以外の物語世界にはほとんど馴染まなかった、という、物語経験についてはいささか寂しい記憶が残っている。生きること、自分の世界観の範囲を広げることに必死で、ノンフィクションや新書、研究所などを貪り読んでいたから、小説まで手が回らなかった、とでも言っておこうか。
それが、30代も後半になって、一冊のキーブックと出会えた。
「この種の冒険の第一段階では、英雄は、彼がなにがしかの支配力を持っていた住み慣れた世界を離れ、別の世界の入り口へとやってきます。湖の岸とか海辺ですね。そこでは深淵の怪物が彼を待ち受けている。で、ここで二つの可能性があります。ヨナのタイプの物語では、英雄は怪物に飲み込まれて奈落の底へ落ちていき、のちによみがえる-死と再生のテーマのバリエーションですね。意識界の人格は、ここでいかんともし難い無意識のエネルギーの支配下に入り、試練と啓示に満ちた恐ろしい夜の海の旅をしなければなりません。それと同時に、どのようにしたらこの闇の力と折り合いをつければいのかを学ぶ。そして最後に腹から出てきて新しい生き方に到達するわけです。」(ジョーゼフ・キャンベル&ビル・モイヤーズ『神話の力』早川文庫、310頁)
この本は、『リーダーシップの旅』をぱらぱらと読み直しているときに、野田氏と金井氏の双方が薦めていたので買い求めたのだが、しかし内心「神話?僕が?」とかなり偏屈な先入観を持っていた。
だが、上記のフレーズにさしかかった時、これが村上春樹の世界観と見事に通底する、というのがよく分かった。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』における「やみくろ」であり、『ねじまき鳥クロニクル』における「井戸」。あるいは『海辺のカフカ』における森。どれも「いかんともし難い無意識のエネルギーの支配下」の世界である。そこで、「やみくろ」の場合は象徴的に「闇の力と折り合いをつけ」ようとする。あるいは「井戸」の場合なら、「恐ろしい夜の海の旅」をする。そういう世界を繰り返し村上春樹は書き続け、読者の僕は貪るように読み続けた。それが、神話世界と通底する、なんて思うこともなく。
そして、ちょうど買いそびれていた村上春樹のインタビューをネットで注文して読み始めると、共通することが語られていた。
「どうして『壁抜け』ができたかというと、僕自身が井戸の底に潜っていたからです。深く潜って、自分をどこまでも普遍化していけば、場所とか時間を超えて、どこか別の場所に行けるんだという確信を得られた。つまり主人公の『僕』が井戸の底に降りて意思の壁を抜けるというのは、作者である僕自身が実際にその壁を抜けたことのアナロジーなんです。空間と時間を移動する視線を獲得できたことは、小説家としてとても大きいことでした。」(『考える人』2010年夏号p26)
「住み慣れた世界を離れ、別の世界の入り口へとやって」くる。このとき『神話の力』によれば、別世界や怪物を殺してしまうパターンと、そのなかに飲み込まれ「奈落の底に落ちてい」くパターンの二つがある、という。村上春樹の小説世界は、基本的にいつも後者。アノニマスな無名の青年が、わけのわからない世界に引きずり込まれていく。『スプートニクの恋人』におけるギリシャの島も、ある種の異界だ。村上春樹はそうやって、時間と空間の限定性を超えて、普遍的無意識としての物語世界の元型にアクセスし、そのなかでの「試練と啓示に満ちた恐ろしい夜の海の旅」を提示し続けるから、英語で読んでも日本語で読んでも違和感なくその物語世界に入ることが出来、かつ世界的な読者層を持つ作家として成功を収めたのだと感じる。
「境界線を越える、そこから冒険が始まるということです。守られていない、新しい領域へ入っていくのです。限られた場所、固定された生活習慣、決められたルールなどを後にしなければ、創造性を発揮することはできません。」(『神話の力』p331)
通常の生活の中で、「境界線を越える」という事がなかなか出来ない。だからこそ、その代償行為ではないが、すぐれた物語に接することで、人は「限られた場所、固定された生活習慣、決められたルール」び「壁抜け」が出来、「空間と時間を移動する視線」としての「創造性」を獲得することが出来る。
「われわれは独力で冒険を挑む必要さえない。あらゆる時代の英雄たちが先に進んでくれたからだ。もはや迷路の出口はすべて明らかにされている。われわれはただ英雄が開いた小道をたどりさえすればいい。」(『神話の力』p264)
そう、物語世界を読み進めることは、「英雄が開いた小道をたど」ることなのだ。今までそんなことを考えたこともなかったが、何度も村上作品を読み直すうちに(そのうちの何冊かの長編は英語版でも読んでみた)、『神話の力』で提示された内容が、僕にとっては村上春樹という媒介を通じて、すーっと身に染みてきたのである。
そして、ひとたび村上ワールドに浸るその象徴的な意味を、『神話の力』という補助線によって知ることが出来た今、他の「神話」にも、俄然興味が生まれてきた。そうしてみると、僕の本棚は、本当に「神話」が少ない。とりあえず「トニオ・クレーゲル」を読み、一昨日は「風と共に去りぬ」を観た。どんどん色んなタイプの「神話」と出会いたい。そんな10代の少年のような事を感じている、36歳の「読書の秋」の予感である。