年末進行モード

ようやく昨日あたりから、やっと年末休暇らしくなってきた。

月曜火曜と二日連続東京出張&忘年会というハードなスケジュールも終わった昨日、遠方より友来る。昨年同様、年末に山梨まで遊びに来てくれた友人を、「ほうとう+鳥もつ煮+馬刺し」という山梨3点セットでもてなした後、甲府盆地を望む温泉でじっくり昼風呂を浴び、その後我が家で午後3時頃から昼酒のスタート。途中で奥様も参戦し、アペリティフの果実酒からビール、ワイン3本と飲みまくりながら、しゃべり倒す。彼とは9ヶ月ぶりの出会いなのだが、昨日の話の続きのように話し続けていたら、もう最終のあずさの時間。また来年!と送り出した。
そして今日は文字通り年末モード。昨日の宴の大食器洗い大会をした後、チゲ鍋の残りを朝からつついて、近所のスーパーに。ここのスーパーはお総菜も美味しいのだが、おせち料理の具材もバラバラに小売りしてくれるのが嬉しい。この冬はちょっと働きすぎたので実家に帰る事を諦め、休養モードのわが夫婦は、どちらもおせち料理を作った経験はない。しかも奥様はあまり煮染めは好みではない。個人的には京都出身の人間なので、棒鱈が食べたいなぁ、とも思うが、わざわざ取り寄せて作るほどでもないな、と思い、そのスーパーでとりあえず、数の子や黒豆などの定番品をいくつか買い込む。その後、別の大型店舗のスーパーで刺身やカニ、すき焼き用の肉など、これもまた正月的なラインナップの買い物をし、その後、本屋と酒屋でそれぞれ買い込んで、ついでに蕎麦屋で年越し蕎麦も食べて帰宅。もう明日から三が日まで、外に出ないぞ!と決意。年末年始はノンビリ過ごすのです。
今、年賀状を印刷しながら今年を振り返っていたのだが、僕自身、ものすごく動きが多い一年だったなぁ、と思う。あずさ回数券、って、そう言えば昔は3ヶ月以内に使い切れなくて文字通りの「持ち腐れ」をしたこともあったのに、昨年あたりからは2ヶ月に一度程度になり、今年は一月に一度では済まなくなる。6枚綴りの回数券なので3往復。一月で東京に三往復以上していると、流石にくたびれる。今月は7往復・・・。二回も買っていたのですね。そりゃあ、くたびれる訳だ。それ以外にも、12月には三重に二回、大阪に一回出かけているし、文字通りの「流浪する民」。
このように、動きが多いのは、単なる物理的移動だけではない。ようやく今頃になって、様々な物事への興味関心のレインジが爆発的に拡がっているので、それに応じて爆発的に本を買いまくっている自分がいる。読み切れていないのではあるが、多分去年よりそれでもどん欲に吸収しようとしている。見えている範囲の狭さに気づき、もっと広い世界の中へと漕ぎ出したい自分がいて、こわごわとではあるが、リミッターをかけずに、飛びだそうとしている。そういえば職場の同僚の先生が仰られた事が忘れられない。「私たち大学教員は、大学での研究と学務のお勤めさえ果たせば、それ以外に研究する自由を与えられているのだから、どん欲にやりたい事をやらないと」。本当にその通り。その自由を、「○○すべき」という外的規範で縛っていたのが、今までの自分だった。そして、その外的規範を内面化して、出来ない事の言い訳にしていた。でも、今気づいてみると、その言い訳に基づいて、自分が出来ない事を正当化しているのだから、マッチポンプ的言説。その呪縛から自由になれば、今からでも新たな地平へと漕ぎ出せるのだ。
どこに行くのかは、わからない。でも、何らかの自分なりの作品をそろそろ産み出したい、と願う自分を最近ジワジワ感じている。それが論文なのか、エッセーなのか、単著なのか、未だよくわからない。だが、一皮むけつつある今だからこそ、書けそうな事、書いておきたい事。そのデッサンを、年明けから出来ないか、と夢想している。そのためにも、この正月はたっぷり寝正月で英気を養わねば。
最近のブログは引用とそこから触発されたリプライ、という、学術的形式にゴリゴリと傾いていたきらいがあった。少し来年は、もう少しタケバタ的な論を、引用に引っ張られずに出してみようかな、と思っていたりする。読んで下さっている皆さんからも、「小難しい」というおしかりを受けた。今まで、このブログは自分の閃きと備忘録、考えの整理の場だったが、少し読者をイメージした文章も書けるように、来年はちょびっと方向転換してみたいと思います。
というわけで、明日ブログを書くかわからないので、皆さんよいお年を!

「内的説得力のある言葉の関係」へ

今年もあと10日。日々、怒濤のように過ぎ去っていくうちに、早くも年末。

最近、何かしらもう一枚の皮が剥がれかけようとしているようだ。それは、なんて言えばいいのかわからないが、便宜的に「世間を見る意識・世間から見られる事についての意識」の変化、とでも言ったらよいだろうか。
中山元氏のフーコー解説本を「フーコー入門」(ちくま新書)→「生権力と統治性」(河出書房)→「思考の考古学」(新曜社)と読み進める中で、フーコー的思考の面白さと共に、自分の物事を見るスタンスとの異同についても考え始めている。その時代に「見えていた常識」と、その常識の範囲外にあって「怪物的なもの」とされた非常識。その時代の理性の範囲内で回収出来なく、排除されていた視点。フーコーはそれを過去に振り返り、確認する中で、見えていなかった過去と対比する形での現在を形づけようとしている。このフーコーの仕事を丹念に翻訳し、わかりやすい日本語で紹介して下さる中山元氏の著作に導かれながら、考え込んでしまうのだ。「はて、この世界と僕はどのように結びついているのだろうか」と。
狭い範囲における専門、と言うならば、一応は障害者福祉政策や社会福祉学や福祉社会学、NPO論などの範囲をうろついている。だが、それらのテーマについても、決して学びが盤石ではないなかで、思想系の海に、35にもなって、今更飛び込んで行くことについて、ためらいや不安は勿論ある。だが、こないだの同窓会で出会った、学生時代からみすず書店と岩波文庫を持ち歩いていたFくんが、何気なく語った一言が僕の中では忘れられない。
「30代になって、読める内容もあるしなぁ」
そう、教養として20代に哲学・思想にチャンレジしようとして、いつも挫折していたのは、翻訳書が難しい、というだけでなく、自分にとってアクチュアルな関心として迫ってこなかったのだ。だから、池田晶子氏や内田樹氏のような、よい媒介役が書いてくれた内容は理解出来ても、その向こう側にいるヘーゲルやソクラテス、フーコーやレヴィ=ストロースにまでは、到底辿り着けなかった。自分の中でのアクチュアルな問題意識と、先達の哲人達の世界が、重なる事は殆どと言ってなかったのだ。だが、最近それが少しずつ変容し始めている。
そのことを説明するのにうってつけな整理の枠組みを、こないだ読んだ。
阪神・淡路大震災以後の被災者の語りや防災活動をアクションリサーチとして追い続けている矢守氏は、その著作の中で、バフチンの理論に依拠しながら、非常に興味深い整理をしている。
「たしかに、被災者たちが切々と語る体験談は、『権威的な言葉』から遠いように感じられるかも知れない。しかし、(略)『権威的な言葉』とは、権威的な内容をもった言葉ではないし、通俗的な意味で社会的権威をもつ人が発話した言葉でもない。それは『ジャンル』間に結ばれる権威的な対話的定位のもとで発される言葉のことである。したがって、語り部の言葉が、<被災者の方の貴重な体験談>として一方向的に、かつ一度きりに語られるとき、それは、侵しがたい『権威的な言葉』と化していた可能性が十分にある。だから、それは無条件の是認(『みなさんの気持ちがよくわかりました』という感想)か、無条件の拒否(『私たちが求めていたのはそういう種類の話(『震災の語り』)ではないのです』という反応)のいずれかを将来しているのだ。」(矢守克也『アクションリサーチ-実践する人間科学』新曜社、p127)
これは「被災者の体験談」を、「学校で体験談を語る障害者」と変えても、ほぼ同じ問題性がある。語る者自体に「社会的権威」があろうがなかろうが、障害者と健常者という「『ジャンル』間に結ばれる権威的な対話的定位のもとで発される言葉」であれば、その言葉が『権威的な言葉』になる、というのだ。そして、その一方向的・一度きりの「貴重な体験談」という名の「権威的な言葉」であれば、受け手は「無条件の是認/拒否」という二者択一のモードに追い込まれやすい、というのもよくわかる。これは一方向的な「銀行型教育」と、双方向の「課題提起型教育」の違いを明らかにしたフレイレの議論と通底する議論だからだ。(ちなみにフレイレの議論は以前ちょこっと書きました。
そして、フレイレが「課題提起型教育」と示している、双方向な対話というオルタナティブを、バフチンは、そしてそれに依拠する矢守氏は次のように整理している。
「課題解消へ向けた鍵-少なくとも鍵の一つ-は、『震災語りのジャンル』(語り手)と『防災語りのジャンル』(受け手)との権威的な対立構造が支配する『語り部のジャンル』を、『内的説得力のある言葉』が支配する『語り部のジャンル』へと変化すること、別の言い方をすれば、『語り部のジャンル』を、『認知的・表象的理解』に限定されることなく、『関係的・応答的理解』の全般を活用したジャンルへと再構成することにあると言える。」(同上、p129)
バフチンは「権威的な言葉の関係」に「内的説得力のある言葉の関係」を対置させた。前者が、二者間での言葉のジャンルが異なり、その二つのジャンルの間は独立・無交渉であるのに対して、後者の側は、二者間での言葉のジャンルに重なりが生じ、他の内的説得力のある言葉と緊張した相互関係を気づく中で、新しい意味を相互的に構築するという(同上、p122)。矢守氏はそれを、「被災経験を語りたい・伝えたい語り部」と、「防災の話を聴きたい聴き手」の間のズレとして捉えたが、これも障害者問題でそっくりそのまま当てはまる。「社会の中で障害を持って生きることの『生きづらさ』『生活のしづらさ』を知って欲しい障害者」と、「単に授業だから・単位の為に聞いている学生」の間では、「権威的な対立構造」が支配しやすい。その壁を乗り越える為には、お互いの世界観(言葉のジャンル)に食い込むような「関係的・応答的理解」が進むような、「内的説得力のある言葉の関係」を両者の間で結ばない限り、話が自分事として受け手の側に伝わらない。
これは僕自身も納得し、痛感する問題だ。僕はこの6年ほど、障害者や高齢者の福祉政策を、法学部で、10代後半から20代前半の若者に伝えている。福祉学科ではない彼ら彼女らにとって、アクチュアルな問題意識として福祉の課題が自らの「言葉のジャンル」に記銘されてはいない学生が殆どである。そんな中で、こちらが一方的に授業を構築しても、「権威的な言葉の関係」しか築くことは出来ず、結果として受け手は「無条件の是認/拒否」という二者択一のモードに追い込まれやすい。これを避けるには、彼ら彼女らの「言葉のジャンル」や「内的説得力のある言葉」と、自分の提供したい素材との重なるポイントを探し、引き出し、その中で、お互いが揺さぶられながら、緊張した相互関係を結び、変容しながら、一致出来るポイントを探すしかない。一方向の授業より遙かに難しいが、その枠組みの問題性を知っていながら実践しないのは知的誠実さに欠けるので、毎年必死になってそのポイントを探っている。今年の地域福祉論はそのポイントを「生きづらさ」にしたら、自殺、精神障害、ホームレス、子どもの貧困についてもアクチュアルな問題として学生に感じてもらえるようになってきた手応えがある。
実はこの「内的説得力のある言葉の関係」を構築できるのか、という論点は、体験や経験の受容・伝承や普及啓発の場面だけでなく、知の受容そのものにも当てはまると思い始めている。ここで、一番最初のフーコーの議論にようやく戻ってくるのです。(ずいぶん回り道しましたねぇ・・・)
大変お恥ずかしい告白となるのだが、僕の中で、哲学者・思想家とは不幸にして、「権威的な言葉の関係」しか築けない場合が多かった。池田晶子氏や内田樹氏などを、その初期の著作から熱心に読み進めて来たのは、両氏が先達の英知を「権威的な言葉の関係」ではなく、「内的説得力のある言葉の関係」として読み手の私に提示してくれていたからである。それゆえに、僕自身にとって必然性のある、アクチュアルな内容として、響いてきた。思えば今の僕自身の「ものの考え方」に少なからぬ影響を、両氏は与えて下さっている。実際に直接お会いした事はない(池田さんは夭折されてしまった)が、僕は本を通じて(内田先生の場合はブログも通じて)、両者と「内的説得力のある言葉の関係」を築いてきた(と勝手に思い込んでいる)。そして、10年、15年とそういう関係を築いた中で、少しずつ僕自身の中に、メディア(媒介役)としての池田・内田氏が伝えようとして下さったヘーゲルやフーコーなどの息吹が入り込んでいるのを感じるのだ。だから、ここ最近、そういう先達の著作と直接対峙しても、「読めそう」、つまりは「僕の言葉のジャンルと先達の言葉のジャンルに重なりを見いだせそう」(=内的説得力のある言葉の関係を築けそう)と思い始めているのである。
確かに精神障害者の問題を考える研究者が、なぜ35才になるまでフーコーを読まなかったのだ?と問われるかも知れない。それは実は博士課程の学生の時から言われていた。もちろん「監獄の誕生」や「狂気の歴史」は以前から買って持っている。だが、敢えて読もうとしなかった。それは、言い訳的になるかもしれないが、僕自身が「自分の言葉のジャンル」を確立する前に、大思想家の「言葉のジャンル」に触れてしまうと、「自分の言葉のジャンル」が無くなってしまうことを恐れていたからだと思う。社会学の大家の先生が「安易にフーコーやゴフマンを読むと、それに流されやすい」と言われていた事も思い出す。
だから、僕は20代後半の大学院生時代、研究室で文献を読むことよりも、なるべく多くの当事者の方のお話しを伺ったり、現場に通ったりする事にエネルギーを傾けていた。「作業をしない作業所」でのおしゃべり、精神病院への病院訪問のボランティア、当事者会のお手伝い・・・など、精神障害を持つ人の「生の声」に少しでも多く、耳を傾け続けようとしてきた。そして、その「声を聞く」ということは、やがて当事者だけでなく支援者にも拡げ、支援現場の職員の苦悩にも耳を傾け続けてきた。結果的にPSWのことで博論を書いたのも、その時点では当事者の内容そのもので論を書くほどの「自分の言葉のジャンル」を持ち合わせていなかったからかもしれない。それよりも、支援者の支援のあり方であれば、僕自身が「内的説得力のある言葉の関係」を築ける、と思えたのかも知れない。
そして精神病院や入所施設の構造的問題を「全制的施設」として整理した社会学者、アーヴィング・ゴフマンの名著『アサイラム』も、博論の時には結局読まないままであった。真面目に同書を読んだのは、3年前に立教大学での「ノーマライゼーション論」を非常勤講師で担当した時だった。これも遅すぎるのかも知れないが、僕の中では、その時の内的必然性があった。ある程度、地域移行やノーマライゼーションの問題を考え詰める中で、ようやくゴフマンと出会ったことで、安易に彼の言葉や理論に流されずに、しかしきっちりと彼の理論を受け止める主体に僕自身が成長していたのだと思う。
そういうプロセスを経て、今年の暮れになって、フーコーと出合う内的必然性を感じている。他の人には到底お勧め出来ないが、僕自身の軌跡にとっては、結果的に今で出会ってよかったのだと思っている。20代後半に、多くの精神障害の当事者の方と、大学院生という「大したこと無い肩書き・立場」で出会っていたからこそ、その言葉のジャンルと『内的説得力のある言葉の関係』が築けた後だからこそ、フーコーを読めそうな気がしている。もし順序が逆であれば、今はじっくり時間をとって何度も現場に通うなんて余裕はないし、変にマクロな言葉に毒されてしまうと、ミクロの当事者のお一人一人の語りなんて聞けない高慢ちきな「学者先生」になっていたかもしれない。すると、35才にもなって、という年齢的な卑下やためらう必要もない、とようやく思えるように(いま)なった。
いやはや、相変わらず亀のようなのろさです。

「創発的価値の生成」への賭け

「絶対的なものはある。ただし、それは複数ある。」

これは佐藤優氏の至言である。彼は「国家と神とマルクス」(角川文庫)の中で、マルクスに基づく資本主義理解と、国体の護持の為の国際外交論、そして神学者としてのキリスト教理解を融合させながら、自分自身の論を進めている。国家主義者、キリスト教主義者、マルクス主義者と、主義者を見た時、確かにこのうち二つは重なっても、3つ全部が重なる事は滅多にない。それは、対象をただ信奉する(鵜呑みにする)「主義者」とは違い、絶対的なものの内在的論理を徹底して掴もうとする努力をしているからである。そのうえで、「複数ある」と宣言する辺りが、非常に説得力がある。
さて、僕自身も、去年辺りまでなら、この佐藤氏の至言は、「そういうものなのかな」というボンヤリした理解だったのだが、今年になってそれは共感を伴いつつある。その導き手のお一人が、新刊をご恵贈下さった。非常に興味深く読み終えた終章で、次のようなフレーズに出会った。
「社会をよりまっとうな方向に動かしていくためにすべきことは、創造的な出会いを通じて、一人一人が自分自身の真の姿に恐れず向き合う勇気を持つことである。暗黙知の十全な作動が価値を生み出すのであり、そのためには創発の作動を疎外するものに勇気を持って目を向け、取り除かねばならなない。個々人のこの努力を背景として、人々は創造的な出会いを積み重ねることが可能となり、それが社会の要素たるコミュニケーションの質を高める。組織もまた同じように、自らの真の姿に直面し、それを改め、社会という生態系のなかにふさわしい地位を見出す必要がある。それは個々人の創造性の発揮を促すことではじめて可能となる。」(安冨歩『経済学の船出-創発の海へ』NTT出版、p258)
この3月、大きく自分の認識がパラダイムシフトをする過程で運命的に出会った「魂の脱植民地化」というフレーズ。この言葉を聞いたのが、阪大の深尾先生との出会いであり、深尾先生に導かれて、共同研究者の安冨先生の主催するセミナーに訪れたのが同月末。その後、安冨先生が書かれた『ハラスメントは連鎖する』『生きるための経済学』『やわらかな制御』と読み進めていった。そして、そこに書かれている世界観が、従来のPDCAサイクルに代表される操作主義的な計画制御(線形的制御)の図式の内在的論理とその限界を指摘した上で、そうではないオルタナティブな視点を、複雑系科学の知を補助線としながら展開しておられることに興奮せざるをえなかった。
率直に申し上げて、僕自身、哲学や思想に関しての理論的な学びは、浅い。それよりも、求められるままに、現任者研修等を通じて福祉現場で働く人の変容や成長の支援に携わったり、あるいは自治体の障害者福祉政策の変容のお手伝いを、この5,6年、続けていた。だが、無鉄砲では臨めないので、折に触れ、お手本を求めて経営学・社会学・社会福祉学・臨床心理学等の理論書・啓蒙書・教科書を独学・後付的に読み進めていったのだが、それらの本の中で書かれている「科学的知識」と、現場で求められている智慧の解離の溝は深かった。本を読んでも読んでも埋まらないどころか拡がる解離を前に、ある時から少しずつではあるが自分の頭で考え始めた。そして、今年、自分事として取り組み初めている事が、安冨先生が言うように、「創造的な出会いを通じて、一人一人が自分自身の真の姿に恐れず向き合う勇気を持つこと」なのかもしれない。
暗黙知や創発、という言葉は、デカルト的心身二元論の世界では扱いきれない領域である。それであるが故に、組織的に科学の世界からはネグレクトされてきた。『デカルトからベイドソンへ』を著したバーマンはそれを、世界の脱魔術化と呼んだが、ベイドソン的世界観や非線形の科学が焦点化しつつあるのは、脱魔術化された計画制御でははみ出してしまう、しかし現実社会ではネグレクトすることの出来ない叡智。バーマンはその世界を「再魔術化」と呼んだが、魔術という言葉でひとくくりにすると誤解が大きい。むしろ、心身二元論を越えた、でも以前の神秘主義や錬金術とは違う、魂と科学の有機的融合、とでも言えようか。こう書くと、ニューエイジ系や新興宗教系と誤解・勘違いされそうなのだが、大きく違う。古来引き継がれて来た自然科学・社会科学・人文科学の体系的叡智を批判的に継承した上で、脱魔術化以後にネグレクトされた魂の問題ときちんと引きつけようとしているのが、安冨先生の一連の仕事なのである(と僕は勝手に理解している)。まさに、「絶対的なものはある。ただし、それは複数ある」とうい視点なのだ。
「もし、飢餓もなく、道具もいつも安く手に入り、情報も氾濫しているとしたらどうであろうか。当然のことであるがこの場合には、商品をいくら供給しても創発は起きない。商品の消費が価値を生まなくなっているのである。欠乏しているのは、商品ではない。商品も情報も過剰な時代に不足しているのは、人々の創発への構えのほうなのである。それを開くことが、価値を生み出すために不可欠である。」(同上、p166)
「今の学生は受け身的」「自発性が足りない」といった言説はよく聞かれる。たが、それは属人的要素の問題ではない。安冨先生が書くように、商品も情報も道具も過剰であれば、「創発への構え」がふさがれているのである。これは、「学びへの構え」と言い換えてもよいだろう。その構えを「開くことが、価値を生み出すために不可欠」という指摘も、深く納得出来る。潜在能力を活かす出会いがなく、学びに対して斜に構えている学生に、自分で探し求める面白さが伝わった時の顔つきの変容ぶり。あるいは、当事者や支援者ときちんと向き合い、試行錯誤しながら新しいシステムを構築する中で福祉政策に携わる面白みに気づいた自治体職員の輝いた表情。そういうダイナミックな気づきや変容を間近で見る中で、逆に現在の教育システムや官僚制に内在する「創発の構え」が塞がれた現実がよく見えてくる。そして、僕の仕事も「構えを開き、価値を生み出す」支援だったのかもしれない、と思い始めている。
そして、「構えを開き、価値を生み出す」のは、何も他人に向けて、だけではない。
「ホイヘンスの共感実験系が、二つの柱時計と接続部分とから構成される一つのシステムであったように、人間の身体も多くの部分が相互に接続されることで構成されている。その全体が、ある一定の人間の身体たるにふさわしいratioを共にしている限りにおいて、身体自身の本質に属することになる。」(同上、p246)
「同期」現象を発見した科学者のホイヘンスは、二つの振動数の異なる柱時計を同じ部屋に置いておくと、両者が自然と同じ振幅数になることを発見した。この共感実験は、二脚の椅子を背中合わせにして、背もたれを渡すように二枚の厚板を起き、それぞれの板から柱時計をぶら下げていると、「共感」し出した、という。そこで人為的に力を加えて「共感」を崩すと、椅子がガタガタ揺れた、という。つまり、二つの振動数の異なる柱時計は、椅子と厚板と共に、一つのシステムとして構成され、「共感」し、「同期」したのであった。このホイヘンスと同時代に生き、親交もあったスピノザの「エチカ」の中に、ホイヘンスの理解を通じて初めてアクチュアルな理解が可能になる箇所がある、と安冨先生は言う。その一つが、人間の身体における同期性を導き出した上記の部分である。
これは、自己の体重変容を成し遂げた今であれば、実感を持って納得できる。これまで、いくら脳みそで「ダイエットしよう」と思っても、三食きちんと食べなければ、という「食毒」状態の時代には、その身体に深く埋め込まれた「食毒」のratioに支配され、決して大規模な体重減少はままならなかった。だが「三食教」こそが呪縛である、と気づいてみると、物事は大きく展開する。「食べなければ」という型にはまった精神から自由になることは、そう簡単ではなかった。だが、「炭水化物の摂取量を減らす」「前の晩に食べ過ぎたら、翌朝食べない・減らす」という単純な原則を実践し続ける中で、身体のratioのリズムが変容し、体重はググッと減少し、1月の80.8キロから、今朝は69.8キロへ。そして、この実際の体重の変容に、精神も魂も大きく衝撃を受け、体重変容後のratioに心も同期しつつある。それが、自分自身のここ最近の変化、と思うと、安冨先生の「エチカ」の解釈も、深く頷ける。
当初はご恵贈頂いた本の書評を書こうかと夢想したのだが、今の僕にはその全体像を描ききる力はない。よって、その断片から受け取った、私自身の「同期」部分の一部を書いただけで、これ程長い文章になってしまった。最後に、この本の中で一番気に入っているフレーズ(の一つ)を引用しておきたい。
「ある仕事が創発的価値を生成するなら、その仕事は有効である。」(p105)
僕は今、幸運な事に今の仕事の中で、「創発的価値の生成」に賭け続けていられる。そのことへの感謝と、いくつになっても、どの仕事であっても、この「創発的価値の生成」こそ、最優先に仕事をしていたい、と強く願っている。

フーコーという補助線

久しぶりに何もない土曜日。昨日は終電で帰ってきたので11時過ぎまでぐっすり眠り、昼からのんびり読書。こういう平安なる一日が、最近はなかったなぁ、と反省。

お供の音楽は、芸事の導師さまが教えてくださったRCAのLiving Stereo限定復刻版60枚組。日本では売り切れでアマゾンでは2万円が付いていたが、アメリカのアマゾンではまだ在庫があって、送料込みで1万5000円弱。LP録音の最高峰・最良の弾き手・曲目を一枚250円で楽しめるのは、何という贅沢。今年に入ってから、同僚のH先生が、芸事に詳しい導師としてクラシックの世界の奥深くに誘ってくださっている。デュプレやグールド、ペレイラにカザルスといった特定の音楽家の作品しかよく知らず、チェロやピアノの協奏曲が多かった僕にとって、たとえばサンソン・フランソワのショパンに出会ったこと、幻想協奏曲の魅力を知れたこと、あるいは上記の60枚組で未知の楽曲・弾き手とご縁が出来たことは、誠にありがたい限り。自分の使っていない領域が拡がる思いだ。
という前ふりを書いていたら、今日主題化したい内容と結びついていることに、今気づいた。さて、今日のフックはいつもの内田樹さんから。
「日常的な経験からも分かるとおり、私たちは決して確固とした定見をもった人間としてテクストを読み進んでいるわけではありません。(略)テクストの方が私たちを『そのテクストを読むことができる主体』へと形成してゆくのです。」(内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書p125)
これは今の自分には深い納得が出来る。テクストを楽曲と変えたら、僕自身のここしばらくの変容そのものを体現しているからだ。
「私たちは決して確固とした定見をもって人間として楽曲を聴き進んでいるわけではありません。楽曲の方が私たちを『その楽曲を聴くことができる主体』へと形成してゆくのです。」
僕自身、先達である導師さまに薦められ、自分の興味関心のレインジにはまる楽曲を聴き進めるなかで、「楽曲の方が私たちを『その楽曲を聴くことができる主体』へと形成」してきたのである。これはワインでも同じで、ワインの導師様であるMさんにずっと8年ほどお世話になり、Mさんからワインを買い続けているからこそ、自分の中での「ワインを楽しむことができる主体」が創り出されてきたのだと思う。このようなご縁と繋がりによる豊穣な何かとのアクセス、ほど愉悦的なものはない。
・・・と書いてみて、この文体そのものが、実は内田先生のエクリチュールを結構拝借しているなぁ、と改めて感じる。特にこの「愉悦的なものはない」なんて書き方、以前の僕はしなかった。実は昨日、大学時代の仲間と久しぶりに新宿で飲んでいたのだが、このブログをたまに読んでくれている友人が二人ほどいて、そのうちお一人の麗しきNさんから「タケバタはどんどん学者っぽい文章になっているなぁ」と言われた言葉が引っかかっていた。彼女は企画戦略を練る部署で企業戦略を端的に一枚で伝えるための仕事をしている、という。その立場から見ると、僕の文章は確かに回りくどいし、ブログに用いる語彙もどんどん抽象的なものが増えてきている。言われるように「学者的」なのかもしれないが、それは半ば意識的に、内田樹氏のような知性に憧れ、それを勝手に文体として真似て学ぼうとしているからなのかもしれない。
で、文章がうろうろしているが、実はその内田樹氏の思考プロセスと近似している内容を、別の著者によるフーコーの入門書の中に見いだした。
「この読もうとする主体の中に存在する<盲目性>に、フーコーは固執し続ける。眼の構造には、眼自体を見ることができないという盲点があるが、読むという行為にもある読み得ない<盲点>が存在する。それが意識されないことによって、そもそも読む対象として構成されず、気づかれない領野が存在するのである。」(中山元『フーコー入門』ちくま新書 p17)
この「読むという行為にもある読み得ない<盲点>が存在する」という記述に出会ったときに、僕は数日前に読んだ内田先生による以下の文章を強く思い出さずにはいられなかった。
「つねづね申し上げているように、情報というのは実定的なものには限られない。
実定的な情報のピースを並べて、「絵」を描くことは可能だし、「当然このことについて報道されていてよいはずの情報」が組織的に欠落している場合にも、そこで何が起きているかを推察することは可能である。
要は「文脈を読み当てる」ということである。」(内田樹「なぜ日本に米軍基地があるのか?」
彼は「毎日新聞」を読む中で、公安調査庁が「どういう情報ソースを基におまえは文章を書いているのか?」と疑わせる程の確度の深い『街場の中国論』を叙したと書いている。その事が、新聞報道を読むだけで(ということは特定の深い情報源にアクセスせずに)なぜ可能になったかの理由を書いている上述の部分で、「文脈を読み当てる」と書いている部分が興味深い。つまり、書かれていること、だけでなく、「組織的に欠落している」「当然このことについて報道されていてよいはずの情報」に気付き、そこから推察することで、「文脈を読み当てる」ことが可能だと書いている。これは、読む対象(=書かれていること)にのみ没入するのではなく、「読み得ない<盲点>」があるということに気付き、そこに配慮や眼目を注ぐ、ということに他ならない。そして、「読み得ない<盲点>」も含めて、誰がどのような事を言ったか・言わなかったか、というコインの両面をパズルのように組み合わせ、その推察の中から「文脈を読み当てる」という思考であり、それをフーコーは「系譜学」として高めていったのである。
実はこのことは、内田先生自身が、フーコーに寄せた文章で次のように書いている。
「フーコーはそれまでの歴史家が決して立てなかった問いを発します。それは、『これらの出来事はどのように語られてきたのか?』ではなく、『これらの出来事はどのように語られずにきたか?』です。なぜ、ある種の出来事は選択的に抑圧され、黙秘され、隠蔽されるのか。なぜ、ある出来事は記述され、ある出来事は記述されないのか。その答えを知るためには、出来事が『生成した』歴史上のその時点-出来事の零度ーにまで遡って考察しなければなりま
せん。考察しつつある当の主体であるフーコー自身の『いま・ここ・私』を『カッコに入れて』、歴史的事象そのものにまっすぐ向き合うという知的禁欲を自らに課さなければなりません。そのような学術的アプローチをフーコーはニーチェの『系譜学』的思考から継承したのです。」(内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書p86)
『これらの出来事はどのように語られずにきたか?』
この問いから、「出来事の零度」にまで辿って考察する内田先生の「推察」のスタイルこそ、自分の眼鏡を押しつけず、相手の眼鏡で「文脈を読み当てる」作業そのものであり、系譜学的思考そのものなのかもしれない。そして、その「読み当て」た「文脈」の確度が深いからこそ、あれだけの説得力と読者層を獲得しているのだと思う。そういう思想家内田樹氏の方法論的秘密に、フーコーという補助線を使って、少しだけ迫れたような気がした。

琉球弧と「あいだ」としての沖永良部島

気がつけば12月。師走だけでなく、11月も突っ走っていた、と回顧的に思い出す。このブログに書いていないのは、先週の旅日記。1週間前、鹿児島にいたのだ。

ちょうど親戚の法事の為に、沖永良部島に出かけることになっていた。直行便はないので前回は那覇から往復していたのだが、そういえば鹿児島には小学校時代からの友人が住んでいて、最近結婚したばかりだ。鹿児島には是非とも訪れみたい。でも、沖縄は好きなので、何とか1日でも寄りたいなぁ・・・。そんなよこしまな欲望に魅せられて、航空運賃は高く付いたが、鹿児島→沖永良部→那覇を巡る3泊4日の旅に出かけた。
沖永良部島は、実に興味深い位置づけをしている。その地政学的意味について、今まで考えようとしたこともなかった。だが、こないだ佐賀で「陶磁器から知る、アジアの中の日本」に目覚めたあたりから、文化の伝播における地政学的な遠近の問題に関心をもちはじめた。そこで、今回の旅のお供には、直前に東京駅丸善で買い求めた次の二冊を携えていったのだが、実にキーブックとしては役に立った。
『沖永良部100の素顔-もうひとつのガイドブック』(東京農大出版会)
『沖縄・奄美と日本』(谷川健一編、同成社)
実は旅の直前にもう一冊、フックになる本を読んでいたことが、次の二冊に向かわせるきっかけだったのかもしれない。
「この弧状なす列島の民族史をめぐって、いま、再審のときが訪れようとしている。(略)たとえばそれを、わたしはとりあえず、『ひとつの日本』から『いくつもの日本』への転換と呼んできた。この列島の、縄文以来の民族史的景観にたいして、『ひとつの日本』というフィルーターを自明にかぶせてゆく歴史認識の作法は、すでに破綻している。いたるところに、『ひとつの日本』の裂け目が覗けはじめている。いま、『いくつもの日本』への道行きが、避けがたい課題と化して浮上しつつある。」(赤坂憲雄著『東西/南北考-いくつもの日本へー』岩波新書)
民俗学には全く門外でも、「いくつもの日本」というフレーズには、なにやら魅力的な響きを感じた。僕自身、これまで「ひとつの日本」を暗黙の前提としていたことに、このフレーズに出会って気づいた。そして、中国-朝鮮-九州を巡る陶磁器の伝播の形を直接目にする機会を通じて、東アジアの連続性と、その連続性の中での、様々な土着との融合による変容過程についても、焼き物の色彩・文様の変遷を通じて目にしてきた。その「予習」があったので、鹿児島→沖永良部→那覇と巡る旅の中でも、連続性と変容という「いくつもの日本」が感じられるかもしれない、という予感があったのかもしれない。それは、琉球弧という文言で、実感を伴い始めた。
「琉球弧とは、日本列島西南端の九州島から南約1,260kmの洋上に199余の島々が花緑のように分布し、地理学上で「南西諸島」「琉球列島」などと総称される。現在の行政区分上では北半分の薩南諸島38島は鹿児島県に、南半分の琉球諸島161島は沖縄県に所属する。ちなみに南西諸島という呼称は明治時代中期以降の行政的名称で、それ以前は「南島」や「南海諸島」「西南諸島」と呼称されてきたが、ここでは広く地理学・地学的名称として、国際的に認知される「琉球弧」という名称を使用する。」(小田静夫 「琉球弧の考古学」 より)
不勉強な僕は今回の旅で初めて知ったフレーズなのだが、確かに言われてみれば、鹿児島と台湾の間には、沢山の島々が「花緑のように分布」している。鹿児島から沖永良部にむかう飛行機のなかでも、その島々の多さには目を奪われた。現在は沖永良部島とそのすぐ南の与論島までが鹿児島県、沖永良部から晴れていれば薄く島影が見える沖縄本島からは沖縄県、という位置づけになっている。だが、「100の素顔」でも指摘されているが、沖永良部島の言語・文化的ルーツは薩摩ではなく琉球である。そして、先の沖縄戦の時には米軍は上陸しなかったが、島の人によると海上からの砲撃を沢山受けたという。戦後、米軍統治下で島のレーダー基地建設も米軍によって進められ、実際に米軍も駐留したが、1953年の奄美群島の返還の際、日本に返還された。だが、その当時、北緯27度線以北(徳之島以北)の返還論というデマも飛び交い、薩摩・琉球の常に間の位置づけで揺らいできたのが沖永良部島だと言う。
この沖永良部島での丸一日の滞在は、実に印象深かった。
前日に訪れた鹿児島中央駅は、新幹線の開業と共に再開発されたらしい駅ビルが建っていて、BeamsだのZaraだの、山梨にはない、東京のブランドショップが建ち並ぶ。あまり東京に行かないうちの奥様は、香港以来となるZaraで早速お洋服をお買い求めになっている。店員さんの話し方が薩摩弁であることを除けば、ここが立川(札幌、大津・・・)であっても不思議ではない、郊外の大規模都市の駅ビルである。ある種、日本(ヤマト)的世界の縮図としての鹿児島中央駅の駅ビルである。
そして、翌日に訪れた那覇は、大都会なのだけれど、街並みや風情は台北や香港に似ている。沖永良部から那覇に向かうセスナ機では、沖縄本島西海岸をかなり低空で飛んでいたのだが、普天間や嘉手納などに広大な土地の米軍基地を抱えている。その敷地の広さ、芝生や職員住宅の広さと、その敷地の外の地元民の住宅の密集ぶりの対比の中に、今なお植民地状態に近い沖縄、という位置づけが、意識しなくても目に飛び込んでくる。ここは、間違いなく日本的世界の縮図とは違う。
であるがゆえに、鹿児島と那覇の「あいだ」に浮かぶ沖永良部島は、まさに「あいだ」であり、独自の様相を見せていた。奄美諸島にあって、薩摩藩によるサトウキビの強制植え付けの経験が少ないが故に、独自の商業農業として、ユリやフローラルなどの高収益作物の植え付けが明治期から盛んであった。今は、ジャガイモやマンゴーなども収穫している。そういう先取性と、南国ゆえのノンビリ・ゆったりした暮らし。しかし、過疎地域に共通する職不足故、高校卒業後は職を求めて島外に移り住む子ども達が多く、高齢化率が上昇している(今は3割)。ヤマトと琉球の、魅力も問題点も、それぞれ混ざり合う境界として、しかし独特の魅力を持つ独立した島として、沖永良部は存在していた。
で、一番印象深かったのが、親戚の叔父さんが持っている山にピクニックに出かけた時の事。山に自生するシークルブ(島みかん、沖縄ではシークワーサー)を収穫してご覧、といわれ、楽しいミカン狩りをしていたのだが、ミカン狩りを終え、休憩場所となっている小高い丘に登ってみると、緑の山の向こうには、真っ青な海と地平線。そして、その向こうにうっすら浮かぶ沖縄本島。日々の喧噪など全く忘れて、その緑と青、そしてシークルブのオレンジのコントラストを堪能していたのであった。