ヴァナキュラーに生きる思想家

年若い友人である青木真兵さんが、『資本主義を半分捨てる』(ちくまプリマー新書)という刺激的なタイトルの本を出された。ちくまプリマー新書は、僕も『ケアしケアされ、生きていく』『福祉は誰のため?』の二冊を刊行しているので、馴染みのレーベルである。中学生向けに8万字程度で、読みやすい入門書的な本として書かれているのだが、割と幅広い層に読まれているレーベルである。今回、僕の本の担当編集でもある鶴見さんから早速お送り頂き、一気読みする。

「僕たちは、商品化を自己実現のために欠かせないプロセスとして受け止め、当然のものだと考えてきました。自己実現によって得られる『自己』は、商品価値の高いものである必要がありました。そもそも商品とは市場という他者のニーズによって成り立ちます。誰かが欲しいと思ってくれるからこそ、商品は存在できる。欲しがられない商品は棚から撤去され、人気のない店は閉店に追い込まれます。消費者の立場から見れば、競争によって優れたものだけが残り、質の高い商品を手にできるという利点があるかもしれません。しかし、商品の側に立ってみれば、常に『欲しがってもらえる』よう努力し続けなければならない。
商品に囲まれて育った僕たちは、この『商品の論理』を内面化してきました。つまり、誰かに必要とされなければ価値がないと思い込むようになってしまったのです。そのため、何かを始めたり発言する際、最初に考えるのは『他の誰かがどう思うか』ということになってしまいました。確かに、生きるとは労働力を商品に変えお金を稼ぐことにほかならないのですが、他者ニーズに基づく生という原理を内面化し過ぎてしまうと、妻のように働けなくなったときに、『自分には商品価値がない』と感じ、社会から退場するしかないという思いに至ってしまうのです。市場原理だけで動く社会とは、常に他人の視線を気にし、嫌われれば終わりという、不安定な綱渡りのようなものなのです。」(p40-41)

『他の誰かがどう思うか』

最近の学生たちが感じている不安を見事に射貫くようなフレーズである。なぜ「迷惑をかけるな憲法」を日本国憲法以上に若者達は必死に護っているのか。それは、そうしないと、「他者から選ばれないから」という補助線を引くと、めっちゃクリアに事態が見えてくる。

私たちは自分自身が働くことによって、つまり労働力を商品化することによって、対価を得る。そういう資本主義社会のなかで生きている。そして、資本主義の仕組み自体が、「誰かが欲しいと思ってくれるからこそ、商品は存在できる。欲しがられない商品は棚から撤去され、人気のない店は閉店に追い込まれます」という論理を内包している。そして、この商品は、チョコレートやゲームなどのモノやデータだけでなく、労働力を商品として売っている私たち人間にも当てはまる。私たち一人ひとりも、労働力商品として欲しがられない場合、「棚から撤去され、人気のない店は閉店に追い込まれ」る恐怖と隣り合わせにいるのだ。

「誰かに必要とされなければ価値がない」というのが、「『商品の論理』の内面化」であると青木さんは喝破する。これは、自分自身の価値の有無を、自分以外の評価軸に差し出すことでもある。僕は中学時代から受験勉強を始め、「偏差値」という外部の評価軸に身を捧げるようになってしまった。偏差値の高い学校に行き、社会的評価の高い職業に就くことで、労働力商品としての魅力を上げようと、必死になって頑張ってきた。だが、それは「他者ニーズに基づく生という原理」が僕自身の中でしっかりと刻み込まれたプロセスでもある。すると、他者評価を常に気にし、他者から評価されなくなるような事態に陥ると、「『自分には商品価値がない』と感じ、社会から退場するしかないという思いに至ってしまう」のである。

僕も、子どもが生まれた42才の時に、それとまざまざと向き合うことになる。何度か書いているが、妻に「出張や飲み会に以前と同じように出かけるなら離婚する」と突きつけられ、それまでずっと出ずっぱりだったのに、外の仕事を全部断って家事育児をしていた。その時に感じた「戦線離脱」の感覚は、青木さんのことばを用いるならば、労働力商品からの「戦線離脱」であり、労働力商品としての無価値性への恐怖だったのだ、と今となっては気づく。

ただ、労働力商品の「外」にだって、実は世界はあるのである。

「僕たちは山村に移り住むことで、市場原理では測れない価値に気がつきました。市場原理が他者ニーズによって駆動されているのだとすれば、その正反対の世界がそこに広がっていたのです。他人がどう思うと関係なく、ただ自己ニーズによって存在しているものに山村は満ちていました。」(p41)

青木夫妻が「市場原理では測れない価値」に気がついたのは、奈良県東吉野村という「山村に移り住むこと」であった。ただ、移住しなくても、気づけるルートは色々ある。ぼくの場合は、他ならぬ娘の存在だった。赤ちゃんの娘は、数時間放置したら死んでしまいかねない脆弱性の塊であった。娘は、眠いときに眠り、腹が減ったらおっぱいを所望し、不機嫌になったら泣いて親に不快の解消を求め、という形で「他人がどう思うと関係なく、ただ自己ニーズによって存在している」のだった。そんな娘をケアしながら、僕自身は労働力商品化からの「戦線離脱」と感じながらも、これまで自分自身が支配されてきた「市場原理」とは全く別次元で生きている娘に翻弄されながら、それ以外の世界を少しずつ、学習し始めたのである。

さらに言うと、「市場という他者のニーズ」と、「他ならぬ娘さんという具体的な他者のニーズ」では全く違う。抽象度の高い他者のニーズに応えるためには、世間で評価されているスキルや技能、簡単に言えば労働力商品として換金性の高い何かが求められているはずだ、と絡め取られやすい。でも、目の前にいる娘や妻の具体的なニーズに応えるためには、食事を作ったり、洗濯をしたり、一緒に歌ったり、ボール蹴りをしたり、と関係性を深めることが求められるのだ。それによって、娘や妻の他者性とつながることで、僕自身の唯一無二性も、金や労働力商品化を介在しなくても、担保される。それが、他者比較ではない、自分自身の自信につながる。そんな気づきを、『家族は他人、じゃあどうする?』というエッセイなどに、書きながら考え続けてきた。

そして、それはイバン・イリイチのヴァナキュラー概念と繋がる。

「イリイチによれば、ヴァナキュラーという語は『根づいていること』や『居住』を意味する言語に由来します。ラテン語では家で育て、家で紡ぎ、家でつくり出した、つまり自家産、自家製のものすべてに対して使われていたといいます。ヴァナキュラーな営みとは、生活のあらゆる局面に埋め込まれた『持ちつ持たれつ』に基づく人間の暮らしであり、貨幣による交換や上からの配分に依存した生活とは根本的に異なります。イリイチはまた、ヴァナキュラーな言葉のあり方についても述べています。それは日々の生活のなかで人々が互いに語りかけ、伝えたいことを伝えることを通して自然に広がっていくものだといいます。教えられる言語とは異なり、ヴァナキュラーな言葉は生きた関係性のなかで育まれます。
一方で、学校によって制度化された『教えられる言語』は、しばしば自分の考えではなく、他人の考えを正確に復唱することを模範とします。イリイチは、このような言語観こそ近代の離床した教育や社会構造を象徴していると指摘しました。つまり、ヴァナキュラーとは単に自家製の物を指すのではなく、人々の自己ニーズに基づいて生まれる働き方や言葉のあり方、そして関係のつくり方そのものを示しているのです。」(p101-102)

世の中には、自分の頭の回転の良さを、難しい用語を畳みかけるように用いてひけらかす人がいる。でも、そういう人が用いている言語って、大概「学校によって制度化された『教えられる言語』」である。大量のテキストを読み、英語でもフランス語でも理論書でも読み漁ると、そういうフレーズが増えて行く。だが、それって生成AIなら一瞬でやってくれる時代には、屁の突っ張りにもならない「かしこさ」である。「自分の考えではなく、他人の考えを正確に復唱すること」こそが、プログラムの最も得意とする点だから、である。

「生きた関係性のなかで育まれ」るヴァナキュラーな言葉とは、「伝えたいことを伝えること」である。それは、他者評価を気にして、他者に評価されるように(=他者ニーズに基づいて)話すこととは真逆の営みである。娘さんは、歌いたい時は歌い、踊りたいときは踊る。最近はおっさんもよう知らんXGとかaespa、そしてオッサンも知っているレディー・ガガなどをかけて踊りまくっておられるが、これも「他人の考えを正確に復唱すること」を目指しているのではなく、「自己ニーズに基づいて生まれる」踊りであり、心から湧き上がる何かを表現しておられる。

それはダンス・コンクルールで入賞したいとかそういう他者比較の欲望とは無縁の、純粋なる楽しみとしてのヴァナキュラーなダンスなのである。

では、この本のタイトルである「資本主義を半分捨てる」とはどういうことで、それは本当に実現可能なのか。

「僕たちがなかなか自己ニーズを認め合う関係を築けないのは、個人の努力や性格の問題ではありません。それは現代社会そのものが他者ニーズによって構築され、僕たち一人ひとりの自己ニーズという尊厳がその構造のなかで抑圧されているからです。まさにイリイチが生涯をかけて批判し続けたのは、この『人間が自らつくった制度や装置によって支配される社会』でした。」(p163)

資本主義社会そのものが「他者ニーズによって構築され、僕たち一人ひとりの自己ニーズという尊厳がその構造のなかで抑圧されている」。この認識に立つと、自己ニーズという尊厳をどう取り戻せるか、が課題になる。『人間が自らつくった制度や装置によって支配される社会』とは、広告やマーケティング、AIなど、人間がつくり出した欲望喚起装置に支配され、強迫観念的に追い立てられ、他者の視線に怯えて苦しむ社会のことである。そんな社会は嫌だ! だからこそ、他人の言葉ではなく自分の言葉を取り戻し、自己ニーズという尊厳を保持し続けることが重要なのだ。

その際の入り口が、他者の目を気にせず、気になったとしても「半分捨て」て、「嫌なものは嫌だ!」と言い続けることだと、僕自身は思っている。「常に他人の視線を気にし、嫌われれば終わりという、不安定な綱渡り」は嫌だと思い、労働力商品化とも最低限度のお付き合いはするけれど、必要以上に他者の顔色をうかがうことなく、自分の違和感やヴァナキュラーな言葉を丁寧に用いて暮らす。生活のあらゆる局面に埋め込まれた『持ちつ持たれつ』に基づく人間の暮らしであるヴァナキュラーな営みの部分を、資本主義社会のなかでも、少しずつ増やしていく。

都会暮らしでも、馴染みのお店、店員さんを増やしていきながら、労働力商品という取り替え可能な標準化された店員ではなく、「他ならぬ○○さんと私」のヴァナキュラーな関係性を作っていく。それが、商品購入を介在させた形でも、人間的な・属人的な出会いやつながりになるし、そういう関係性の豊かさが、「資本主義を半分捨てる」営みの先にある。そう思うと、他者と繋がり直すことを通じて、労働力商品の店員であっても、新たな関係性を結び直すのは、「一人ひとりの自己ニーズという尊厳」を取り戻すうえで、大きな一歩になりうるのだ。

『他の誰かがどう思うか』ではなく、じぶんが食べたいから食べ、会いたいから会い、話したいから話す。言いたいから言う。そういうヴァナキュラーな言葉を用い、ヴァナキュラーな他者との関係性を切り結ぶなかで、自律や自尊を取り戻すことができるのだろう。そんなことを思った。

そして、難しいイリイチの概念をわかりやすく解説できる青木真兵さんは、ヴァナキュラーな生き方を知識として解説するのではなく、生きて実践して体得できているからこそ、平易な言葉で大切な何かを伝える事ができているし、その営みこそが思想家青木真兵の真骨頂なのだと感じた。

この本と出会って、多くの人が、自らに巣食う「商品の論理」と葛藤してほしいし、可能ならちょびっとは捨ててみてほしいと、改めて感じた。

*この本の装画とイラストを、パートナーの青木海青子さんが実に素敵に書いている。絵を見ているとほっこりするのも本書の大切な魅力の一つです♪

「頭がいい」の欺瞞に切り込む

友人の勅使川原真衣さんが、またまたエッジの効いたタイトルの新書を出されて、ご恵贈頂いた。『「頭がいい」とは何か』(勅使川原真衣著、祥伝社)。これは「既得権益」に喧嘩を売る本に違いない。そう思いながら読んでいたら、やっぱり出てきた。

「一方で、能力主義を問い直すテーマについて講演などで話すと、必ず出てくる意見があります。
いわゆる勝者側に立つエリートたちからの、『いやいや、日本は競争がまだまだ足りていない』『競争しないと国力が落ちる。いまの日本があるのは高度経済成長期を経て競争を勝ち抜いてきたらでしょう』などの反対意見(というか自説の発表)の数々です。
・・・仰りたいことはよくわかります。
本音のところでは、日本の国力云々よりも、『勅使川原さんは僕らの頑張りを否定するんですか? どんな思いで努力してきたかわかっていますか?』と訴えたいのだということも。能力主義の弊害について語ることが、『自分たちの努力の否定』だと受け取られていることも。」(p137-138)

あ、テッシー、言っちゃったよ、ほんとうのことを!!!!!

実は僕だって、授業中に学生から「日本は競争がまだまだ足りていない」「競争しないと国力が落ちる」という批判に毎年のように晒されるので、めちゃくちゃよくわかる。それは、競争主義の、その象徴的で最大なものとしての受験勉強の、一定以上の勝者だと自己認識している人にとって、能力主義に問いを挟むこと自体が、「僕らの頑張りを否定するんですか? どんな思いで努力してきたかわかっていますか?」というアイデンティティを揺さぶる大問題であるからだ。ただ、テッシーは容赦しない。

「『もっと競争すべきだ』と主張する勝者のみなさんは、ぜひ想像してみてください。自分が歩いてきた道の後ろには、たくさんの屍の山があったかもしれない事実を。なんなら、あなたが見殺しにした人もいたかもしれないことを。少しどんくさい人を踏み台にして、自分の手柄をあげてきたことを。」(p139)

このジャブは実に痛烈であり、僕自身もヒリヒリする部分がある。僕だって、子育てをする以前は猛烈仕事中毒で、Pubilsh or Perish(出版するか、消え去るか)という業績至上主義に強迫観念的に支配されていた。その時期に、僕は身近な誰かを、象徴的な意味でも「見殺しにした人もいたかもしれない」し、「少しどんくさい人を踏み台にして、自分の手柄をあげてきた」可能性も十分にありうるのだ。それが、胸に迫ってくる。産休明けの元同僚が仕事を休むたびに「ズルい」と思ってしまった愚かな記憶については、僕が能力主義と闘った一冊『能力主義をケアでほぐす』(晶文社)に載せている。

そして、テッシーは「頭がいい」と喧伝される事態について、以下のように宣言する。

「職に就いていなかったり、有形無形の傷付きがあったりして、いま、社会生活を送ることができない人はどうなってしまうんですか? 
『頭がいい』って、もしかして結果論なのではないですか?
たまたま諸条件が噛み合い、うまいことやれている人のことを指しているように思えてなりません。
『頭脳』以外の多面的な要素を兼ねそろえて、武装した強い個人でないと生きられないような社会があるとしたら、そちらのほうにこそよっぽど根深い問題があるのではないでしょうか。」(p66)

「たまたま諸条件が噛み合い、うまいことやれている人」の「結果論」を指して、「頭がいい」と言っている。つまり運のいい人だけじゃん!と喝破しているのである。テッシー、またも言っちゃったよ!

でも、それはマイケル・サンデル先生も同じ事を言っているのである。

「能力主義者は、あなたが困窮しているのは不十分な教育のせいだと労働者に向かって語ることで、成功や失敗を道徳的に解釈し、学歴偏重主義—大学を出ていない人々に対する陰湿な偏見—を無意識のうちに助長している。」(マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(早川書房)p132)

たまたま大学を出る頭脳があり、ヤングケアラーでなく、貧困家庭でもなく、虐待も受けず、歯を食いしばって努力できるほど体力・免疫力・集中力があり、競争の枠組みに嫌悪感を覚えず従順に従うことができ、その結果として、「頭がいい」人は「武装した個人」になれたのかもしれない。でも、「職に就いていなかったり、有形無形の傷付きがあったりして、いま、社会生活を送ることができない人はどうなってしまうんですか?」「武装した強い個人でないと生きられないような社会があるとしたら、そちらのほうにこそよっぽど根深い問題があるのではないでしょうか」というテッシーの問いに対して、「頭がいい」人はまともに応えてくれない。社会構造の問題を「頭の良さ」を使って一緒に考えてくれるのではなく、「勅使川原さんは僕らの頑張りを否定するんですか? どんな思いで努力してきたかわかっていますか?」と、自己肯定を求めるクレームを行う。

これって、現状の枠組みは変えられないと諦めきった上で、その枠組みのゲームがどれだけ欺瞞的で抑圧的であっても自発的隷従した上で、その枠組み内での勝者になること=ゲームのルールや枠組みは決して変えられないと切り捨てること、を意味している。だからこそ、「職に就いていなかったり、有形無形の傷付きがあったりして、いま、社会生活を送ることができない人」のことを、「あなたが見殺し」にしようが、「少しどんくさい人を踏み台にして、自分の手柄をあげてきたこと」をも不問にしてはいないか、と。

これは非常に倫理的な重い問いなのである。

その上で、テッシーがこの間一貫して主張している以下のフレーズは、非常に染み入る。

「『能力』とはそもそも、個人の内側にある絶対的・固定的な存在ではありません。本来の『能力』とは、環境や運、タイミング、人間関係などの組み合わせによって、発揮されたり、されなかったりする『状態』にすぎないのです。つまり、文脈依存的であり、状況ごとに揺れ動くものでもあります。
このあたりの本質を見失ってしまうと、組織も個人も迷走を続けることになります。」(p133)

「頭がいい」とは「文脈依存的であり、状況ごとに揺れ動くもの」である。これの何が問題なのか。それは自分が血の滲むような努力した結果手に入れた結果である、と思い込んでいる既得権保持者=現に「頭がいい」と自傷している人々の存在がものすごく揺さぶられるからである。努力して積み上げた頭の良さだから、それは資産価値であって、目減りするはずがない! この信念というか社会通念が破壊されるのを何より怖れているのは、他ならぬ「頭がいい」とされている人々なのだ。

だが、「頭がいい」のが「文脈依存的であり、状況ごとに揺れ動くもの」である証拠は多様にある。例えば、先日行われた福井県知事選挙の勝者が、選挙期間中に、『日本は単一民族』と語ったことについて、彼と同じ外務省出身の作家、佐藤優は以下のようにコメントしている。

「佐藤さんはコメントで、石田氏が自身と同じ外務官僚出身であるとし、「外交官試験に合格した人で『日本は単一民族国家である』という事実誤認をしている人はいないと思います」と指摘した。仮に外務官僚がこうした発言を繰り返せば、「信用失墜行為で処分されると思います」とも記した。
その上で佐藤さんは、石田氏も、発言が事実誤認という認識は「持っていたと思います」として、それでも発言したのは「選挙に当選するために有利だったからというプラグマティズムに基づくものと私は見ています」との見方を示した。「発話主体の誠実性に欠ける人物であっても県知事に当選できるというのが、日本の民主主義の現状です」と、コメントを締めくくった。」
事実誤認の認識、持っていたとしたら 佐藤優さんの「コメントプラス」

「頭がいい」某氏は、『日本は単一民族国家である』ということが「事実誤認」であると認識していた。だが、それでも発言したのは「選挙に当選するために有利だったからというプラグマティズムに基づくものと私は見ています」と佐藤氏は説く。これは某氏に限った話ではない。東大やアメリカの大学院を出ている優秀な元官僚で、政治家に転身をした人が、おなじような「選挙に当選するために有利だったからというプラグマティズムに基づ」いた発言をしている様子は、ネットで調べたら、すぐにわかる。つまり自らの頭の良さを、「文脈依存的であり、状況ごとに揺れ動くもの」にあわせて、発言もコロコロ変えられるのが、頭の回転の良さなのである。

そして、僕はそんな頭の回転の良さは、嫌である。

それは、自己都合や自己利益の最大化のみを目指した「頭がいい」の使い方であり、そういう使い方をしていると、他人を「見殺しに」するかもしれないし、「少しどんくさい人を踏み台にして、自分の手柄をあげ」るかもしれないからだ。そんな社会は、嫌だ。

では、この「頭がいい」幻想から離れて、どんな社会を目指せばよいのか? テッシーは、以下のように語る。

「本来の私たちは誰もが未熟な人間です。未熟さを補い合って、一緒に生きていくしか道はないのです。
異なる意見や立場をすぐに切り捨てず、いったん立ち止まって考える。その地道な粘り強さを取り戻すことが、ポスト『頭がいい人論』の核心にあります。
人が人として生きるためには、面倒くさいことをちゃんとやる時間が必要だ、と言い換えてもいいかもしれません。
私たちは、みんな少しずつ頭がいいところもあれば、頭が悪いところもあって当たり前。その上で、他者と共に考え、複雑さに耐えながらも、問いを手放さずに生きていく。私はその状態をこそ、『知性』と呼びたいと思います。」(p202-203)

「異なる意見や立場をすぐに切り捨てず、いったん立ち止まって考える」。これは自分が当選するためには事実誤認をしてでも迎合するスタイルの逆である。それは、「他者と共に考え、複雑さに耐えながらも、問いを手放さずに生きていく」ことであり、そのプロセスこそが「知性」だとテッシーは言う。

週末、衆議院選挙がある。自分の選挙区のどの候補者が、「異なる意見や立場をすぐに切り捨て」る形の「頭のいい」発言をしているか。自らの未熟さを認め、「面倒くさいことをちゃんとやる時間が必要だ」と丁寧に議論している候補者は誰か? これはYoutubeの映像とかを見ていたら、ぼんやり浮かび上がってくる。それは、比例区の政党選びにおいても同じである。誰に投票してよいかわからない、と言う人ほど、この本を読んで、「職に就いていなかったり、有形無形の傷付きがあったりして、いま、社会生活を送ることができない人」のことを、「見殺し」にしたり、「少しどんくさい人を踏み台にして、自分の手柄をあげてきたこと」をも不問にする人を「選ばない」というのが、「知性」なのではないか、と思う。

なので、今すぐ買って読むべし(^_^)

二つの「合理性」の衝突

あなたが医療者だとしよう。

病院にてんかん発作で運ばれてきた子どもがいる。その子の親は、外国からの移民で、この国の言葉を理解出来ない。手術や投薬に関する医療同意を取ろうとするも、言葉が伝わらない。医療通訳もいない。それでも何とか合意が出来たと思い、緊急処置後に自宅での服薬指導を再三するのだが、家では全く薬を飲ませていない。発作の度に何度も病院に運ばれてきた際の、血液検査のデータからみても、明らかである。保健師が家に訪問すると、薬がすべて瓶の中に保管されて、飲ませた経緯が見てとれない。その家庭で唯一この国の言葉が話せる移民の子どもに通訳してもらうと、「薬は子どもに有害なので飲ませない」と親は言っているようだ。そこで、医師と保健師は、親は不適切なケアをしており、養育義務を果たしていないから、と虐待通報機関に通告し、子どもを一時保護する・・・。

このような家庭の親が、非倫理的(non ethical)ではなく、「異倫理的(diffeently ethical)であり(p309)、「デカルト主義ではない」(p313)という視点から、この移民の文化的背景を探っていくのが、今日ご紹介する『精霊に捕まって倒れる:医療者とモン族の患者、二つの文化の衝突』(アン・ファディマン著、みすず書房)である。この本の原題は”The Spirit Cathes You and You Fall Down: A Hmong Child, Her American Doctors, and the Collision of Two cultures”である。原題はそのままで良いのだが、副題は本来、「モン族の子どもと、彼女を治療するアメリカ人医師達、および二つの文化の衝突」である。

著者のアンさんが取材したのは、カリフォルニアに移民してきたモン族で、アメリカで出生した、てんかん発作をするリアという少女を巡る物語である。彼女が発作で運ばれてくる度に、地元病院のアメリカ人医師達が誠実に治療しようとする。しかし、このアメリカ人達は西洋合理性に支配されたデカルト主義者であり、生物医学を前提としている。一方、モン族の親やコミュニティの人たちは、てんかん発作を「精霊に捕まって倒れる」と解釈している。何ならシャーマンの気質があるとも見なしている。だから、お祈りや厄除け儀式の方が、薬より大切だというのである。これは、「デカルト主義ではない」文化をもつ人々の、非倫理的(non ethical)ではなく、「異倫理的(diffeently ethical)な対応なのだ。それが、まさにアメリカ文化との「衝突」なのである。

この本が非常に秀逸なのは、作家でエッセイストのアンさんは、カリフォルニアに移り住んで、リアの両親のフォアやナオカオだけでなく、その親戚やモン族コミュニティの様々な人々にインタビューを行い、アメリカ人にとって「他者の合理性」であるモン族人の論理を徹底的にあぶり出している点である。その一方で、バレー子ども病院やMCMCでリリアやその家族に向き合ったアメリカ人医師達にもインタビューを行い、家族の同意に基づいて本人のカルテや裁判所の法廷記録、保健所や児童保護サービスの記録なども読み込んでいる。その骨太なインタビューに基づくと、医療人類学者アーサー・クライマンのいう8つの問いに対して、モン族にとっての答えを以下のように整理する(p332-333)。

1 この問題をなんと呼んでいますか?
→<カウダベ>。精霊に捕まって倒れる、という意味。

2 この問題の原因はなんだと思いますか?
→魂の喪失(ソウル・ロス)。

3 そうなったのはなぜだと思いますか?
→リアの妹のヤーがドアをバタンと閉めてしまい、リアの魂がびっくりして身体の外へ抜け出してしまったから。

4 この病気はなにをすると思いますか? どんなふうになりますか?
→リアがけいれんを起こして倒れる。<ダ>という精霊がリアを捕まえているからそうなる。

5 この病気はどのくらい重いですか? すぐ治るものですか、それとも長引きますか?
→どうしてそんなことを尋ねるのか? 医者ならわかるはず。

6 患者はどんな治療を受けるべきだと思いますか? その治療を受けることでどうなれば一番いいと思いますか。
→リアに薬を与えるのは一週間まで。調子がよくなれば薬をやめるべき。血を採ったり、脊柱から髄液をとったりしないでほしい。モン族の伝統医療、豚や鶏の生け贄、家での治療も必要。リアには健康になってほしいけど、二度とけいれんが起きないようにしてやりたいかどうかは、よくわからない。わたしらの文化では、これはリアを気高くさせるものだし、リアが大きくなったら<チネン>(シャーマン)になるかもしれないから。

7 この病気のせいでおもにどんな問題がありますか?
→傷ついたリアを見るのがつらくて、ついヤーに腹を立ててしまう。

8 この病気で一番恐れていることはなんですか?
→リアの魂が二度と戻らなくなること。

モン族が「異倫理的(diffeently ethical)であり、「デカルト主義ではない」と著者が主張するのは、モン族の人々が、リアのてんかんに対して、別の倫理観に基づき、別の伝統医学的解決策を行使してきたからである。それが西洋合理性と全く対立していても、モン族の合理性には体系化された一貫性があるのである。ゆえに、著者に尋ねられたクライマンは以下のように答えている。

「まず、その『コンプライアンス』という言い方をやめることです。まったく嫌な言葉ですよ。倫理的支配をほのめかすものです。必要なのは上からの命令でなく、対話です。二つ目に、強制モデルではなく、調停モデルを考えること。モン族コミュニティの誰か、あるいは医療人類学の専門家を探して、話し合いに協力してもらうのです。調停の場では、離婚調停と同じように双方の歩み寄りが必要なことは言うまでもありません。これだけは、ということさえ決まれば、ほかの一切で妥協をいとわないことです。三つ目に、モン族の患者と家族がこのケースに及ぼしている影響が大きいのと同じように、生物医学という文化の影響もまた、大きいことを理解する必要があります。自分たちの側にも独自の関心、感情、先入観がひととおりあることを理解できなくて、いったいどうやってほかの文化にうまく対応できるでしょうか」(p334)

本書を読みとおすと、クライマンの指摘はあまりに真っ当であることがわかる。

まず、①コンプライアンス(倫理的支配)ではなく対話を、という点について。そもそもある法律なり医療枠組みを遵守することを強制するのは、特定の文化的価値を共有しているからである。ラオスの内戦において、アメリカ軍やCIAの手先として戦闘したがゆえでに、ラオスを追われ、タイの難民キャンプを経てアメリカに逃げてきたモン族の人たちは、あくまでもモン族的な暮らしをしたいのだ。アメリカに同化したいのではなく、モン族として暮らすために(異化状態のまま)アメリカに滞在しているのである。であれば、「郷に入っては郷に従う」というコンプライアンスを強制する前に、まずは対話をする必要がある。

それは、②強制ではなく調停、ということである。離婚調停の例が非常に象徴的であるように、決定的にわかり合えない、完全同意や一致をすることのない、深い溝が二つの文化の間にある。そのときに、「これだけは、ということさえ決まれば、ほかの一切で妥協をいとわないこと」が両者に求められる。これは、アメリカ人医師達の通常のコンプライアンスを揺さぶるが、異文化の治療をする際には、必要不可欠なのである。

そして、③アメリカ人を支配している「生物医学」も一つの文化である、という認識を持つ重要性をクライマンは指摘している。これはイタリアで精神病院廃絶の道を開いた医師、フランコ・バザーリアが、「病気」ではなく「生きる苦悩」を重視せよ、と語ったことと軌を一にする。生物医学では精神病やてんかんを生物学的な器質的疾患だと捉え、それを治療するために神経作用に伝わる投薬や外科的処置をしようとする。しかし、精神疾患に至る背景には最大化した「生きる苦悩」がある。また、てんかんをモン族的に解釈するなら、それは「精霊に捕まって倒れる」という合理性がある。その相手の合理性を理解することなく、デカルト主義に基づいた医師の「生物医学」的価値観が「倫理的支配」をしていると、患者やその家族との対話可能性や調停の可能性が極端になくなってしまう。そうクライマンが指摘しているのだ。

すると、これまで僕が考えてきた、福祉現場における「他者の合理性の連鎖と蓄積」の話とも一致する。リアの親は、育児放棄やネグレクトをしているのではない。「異倫理的」な立場から、薬草や生け贄、<チネン>による祈祷など、最大限の対処をしているのである。だが、そのことを、アメリカ人医師達が全く理解しようとせず、先ほどのクライマンの8つの質問の一つさえ尋ねようとせず、医療者の聴きたいことだけを聞き、医療者の話したいことだけを話し、それをモン族の人々が理解出来ない場合は「無能力者」とラベルを突きつけたのである。その最たるものが、リアの主治医が保健所と児童保護サービスに送った、以下の所見である。

「投薬に関する親の遵守(コンプライアンス)が乏しいため、本件は明らかに児童虐待、具体的には育児放棄(ネグレクト)の領域に入るだろう。・・・なんらかのかたちで服薬計画の遵守と子どもの発作性障害のコントロールがなされないかぎり、この子は、てんかん重責状態に陥る危険にさらされており、不可逆的な脳損傷と、場合によっては死に至りかねない。私見ではあるが、投薬遵守が確保されるよう、この子は里親に委託すべきだ。」(p73)

恐ろしいのは、この所見は、なぜ投薬遵守をしないのかについての保護者の主張を全く聞かず、デカルト主義の医者の生物医学的合理性のみで構成されている。しかも、その合理性があれば、アメリカにおいては、親からリアは強制的に奪い去られ、里親に託され、親は半狂乱の日々を過ごすことになったのだ。一体それのなにがどのように、コンプライアンスと言えるのか? 文化間対立をした際の、コンプライアンスとは独善の可能性がないか? そうではなくて、対話に基づく調停とは何か? この本は、様々な問いを差し出す。

そして、この本を読みながら、モン族、というのを、精神疾患や自傷他害、薬物依存、ゴミ屋敷、など僕が見聞きしている「困難事例」「問題行動」にも重ねてみたくなる。デカルト主義以外の、「異倫理的」な現実において、本書は非常に示唆に富んでいる、と改めて感じるのだ。

読み応えのある1冊です

「他者の他者性」との人類学的対話

久保明教さんの『内在的多様性批判』(作品社)をとにもかくにも、読み終えた。久保さんは阪大人科という同じ大学・大学院を出ているが、僕など比べものにならないほど賢いことだけはよくわかる。後書きで、社会学の院試に落ちたと書いていたけど、それはほんまかいな!?と思うほどの俊英である。ちなみに僕は社会学の大学院に受かるはずもない&大熊一夫師匠の弟子入りしか興味がなかったので、新設講座に院試で一度落ちた後辛くも滑り込んだのは内緒話

彼は、記号論的な構造主義的整理と、人類学的な存在論的展開の議論を、みっちりとロジックで積み上げていく。人類学的知の素養がない門外漢には途中で挫折しそうになったけど、岡部さんとの研究会の課題図書だったので、何とか、読み終える。

とにもかくにも、というのは、ここ数十年の人類学の学説史的読解の再構成と概念化(p312)が中心になっているので、彼が取り上げた論者のうち、アクターネットワークセオリーのラトゥールだけを何冊か読んだだけの素人の僕には、歯ごたえがありすぎる、というか、峻険すぎる山だった。「馴染みのないものを馴染みのあるものとして、馴染みのあるものを馴染みのないものとして(making the strange familiar and the familiar strange)」(p310-311)に即していうのなら、ストラザーンやデスコラ、ジェルやワグナーといった、全く読んだことない人類学者の論説は、久保さんの解説を経ても、僕には「馴染みのあるもの」にはならなかった。でも、ギアツやレヴィ・ストロース、ラトゥールについては、本書を読んで、ちょっぴり馴染み度が増した。

このブログで引用するのは、自分がわかった断片部分のみである。

「ラトゥールが、ネットワークの網の目の合間にある『まだ計測されておらず、まだ社会化されておらず、まだ計測基準の連鎖に組み込まれておらず、まだカバー、調査、動員されておらず、あるいは、主体化されていないもの』を『プラズマ』と呼んでいることを踏まえれば、野生の思考は、ハイブリッドの増殖を抑制する営為というよりも、潜在的な関係性をある程度限定された範囲において呼び込むような諸関係の構築、プラズマを吸引しながら自らを組み替えていくアクターネットワークの運動として把握することができる。」(p299)

この部分は、めっちゃよくわかり、目から鱗だった。ブリコラージュとは、よくわからないものを拾い集めて、あり合わせの道具で必要とされている何かを創り出す、「ありもの仕事」である。棒きれなり木片は、拾い集めた段階では、何の意味もなさず、主体化も社会化もされていない「プラズマ」である。だが、「これってあれに使える!」と思いついた段階で、「ある程度限定された範囲において呼び込むような諸関係の構築」がなされ、様々なモノの連鎖に組み込まれることによって、「自らを組み替えていくアクターネットワークの運動」の一部になっていく。これは本当にその通り!である。そして、ブリコラージュは「構造よりも変容を基礎におく」(p294)というのも、確かにその通りだ。

構造が定まっている、ということは、その構造を決める設計者としての超越者がいる、ということである。そして「『超越論的なもの』の単一性を前提にする限り、空隙や切断は統合を阻害するノイズやバグでしかない」(p204)。そういう意味では『超越論的なもの』の単一性を前提にした構造や統合にとって、ブリコラージュはノイズやバグでしかない。ただ久保さんはそこからこうも議論を展開する。

「空白や残余や切断こそ他者とのコミュニケーションを可能にする契機であると考えれば、『集合的なもの』の多様性を認めたうえで、それを俯瞰しうる外在的な基準を措定することなしに、異なる集合体との部分的な連接を通じた内在的な他者理解を論理的に肯定することが可能になる。この世界は一つではない。だが複数の独立した世界があるわけでもない。異なる『集合的なもの』は互いに通約不可能だが、それらには無数の空隙が穿たれており、方法論的な主客の反転はその空隙を押し広げることで異なる『集合的なもの』を連接する契機となりうる。」(p204-205)

超越論的なもの=「それを俯瞰しうる外在的な基準」があると、正しさは一義的に決まってしまう。だが、その正しさが一義的に決まらない中でも(外在的な基準を措定することなしに)、「異なる集合体との部分的な連接を通じた内在的な他者理解を論理的に肯定することが可能になる」。それが、拾い集めた様々な断片から、別の意味ある何かを作りあげる「ありもの仕事」としての「ブリコラージュ」なのである。「統合を阻害するノイズやバグ」である「空隙や切断」は、「プラズマを吸引しながら自らを組み替えていくアクターネットワークの運動」にとっての「糊代」であり、「余白」として機能するのである。一義的に使用価値が決まらないからこそ、遊びがある。その遊びや余白が、構造を組み替えるきっかけを与えてくれるのである。

そして、「『集合的なもの』の多様性」に関する以下の部分にも、びびっときた。

「『人はどのように世界を見るのか』という認識論的な問題は、突き詰めれば『見ることのできるどのようなものがあるのか』という存在論的な問題になる。例えば呪術的実践が『一見して非合理な信念』の産物とされてきたのも、呪術の力それ自体は存在しないことが前提にあり、この前提は科学的客観性に依拠する『私たちの存在論』からの帰結である。このように、人類学者がかけている『色メガネ』は、最終的には社会的・文化的・政治的なものではなく、それらがいかに存在しうるかについての基本的なコミットメントや想定であるという意味において存在論的なものである。こうした存在論的な想定を保留することで、民族誌をそれ自身の在り方において現せしめること、それによって自らの想像とは異なるものがそこに存在する可能性を認めることが可能になる。したがって、存在論的転回における『存在論的』という形容詞は、いかなるものがいかに存在しうるかに人類学的関心を向けることを意味しており、『転回』という名詞は(略)『現地の人々の視点を把握すること』から『現地の人々の視点によってよりよく把握されるために自分が既に把握していることを乗り越える方法を探ること』への転換を意味している。」(p260)

呪術的実践は、近代合理性の思考枠組みの範疇を越える。それは『見ることのできるどのようなものがあるのか』の範囲を超えるという意味において、「『一見して非合理な信念』の産物」とされるのである。その一方、人類学における存在論的転回とは、『現地の人々の視点によってよりよく把握されるために自分が既に把握していることを乗り越える方法を探ること』を意味する。近代合理性をいったん脇に置き、それ以外の視点の合理性を理解した上で、自文化中心主義を批判し、それを乗り越える方法を模索する営みでもある。

そして、僕はこの存在論的転回のフレーズを、自分の福祉分野に置き換えたい欲望が強く表れている。例えば非合理とされているゴミ屋敷問題について、僕は以前「「合理性のレンズ」からの自由 : 「ゴミ屋敷」を巡る「悪循環」からの脱出に向けて 」という論文を書いた。10年前は人類学の本を未読で知らなかったのだが、この論考で考えた事は、「『見ることのできるどのようなものがあるのか』という存在論的な問題」そのものである。「病気」という近代合理性科学の枠組みの中で見えることの外側に、「生きる苦悩」というパラダイムがある。そして、「病気」から「生きる苦悩」へと精神疾患のパラダイムシフトをすることで、「病気」カテゴリーの外にある、「自らの想像とは異なるものがそこに存在する可能性を認めることが可能になる」のである、ということも、「「病気」から「生きる苦悩」へのパラダイムシフト : イタリア精神医療「革命の構造」」に書いた事がある。

思えば、『枠組み外しの旅』以来、僕がずっと続けてきたのは、「当事者」とされる人々の視点から、『見ることのできるどのようなものがあるのか』という存在論的な問題に向き合っていたのかも、しれない。自分の価値前提を脇に置き、自分が既に把握していることを乗り越える方法を探ることへの転換を希求した、認識枠組みへの問いだったのかも、しれない。それは、存在論的転回と通底しているのかも、というのが、今回の久保さんの本を読んでの、最大の収穫というか、後押しだった。

ゴミ屋敷、だけでなく幻覚や妄想、強度行動障害、依存症など、「『一見して非合理な信念』の産物」と今でも見なされている。でも、「自らの想像とは異なるものがそこに存在する可能性を認めること」によって、近代合理性の認知枠組みからあふれ出た何かを、そのものとして理解や解釈することが可能になる。強度行動障害の人を羽交い締めしなくても、ゴミ屋敷の家で強制代執行をしてゴミを無理矢理捨てさせなくても、幻覚や妄想を「縛る・閉じ込める・薬漬けにする」で押さえ込まなくても、他者の他者性=対象者の合理性をそのものとして理解することによって、「近代合理性の思考枠組み」を超えるきっかけがうまれる。それから「自らの想像とは異なるものがそこに存在する可能性を認めることが可能になる」。そういう余白というかのり代が生まれてくるのだ。

ゴミ屋敷や自傷他害にも、それを行うアクターにとっての切実な意味や価値がある。その前提に立ち、近代合理性という支配的な枠組みによる査定や評価をいったん脇に置く、その上で、自らの「存在論的色眼鏡」をにも自覚的になること。それが枠組み外しの根本的な重要要素なのだとも思う。

付け加えておくなら、「外在的な基準を措定することなしに、異なる集合体との部分的な連接を通じた内在的な他者理解を論理的に肯定することが可能になる」ことで、それまで「話が通じない」「話にならない」と思われていた相手との、対話可能性が生まれてくる。ゴミ屋敷、だけでなく幻覚や妄想、強度行動障害、依存症など、「問題行動」や「困難事例」とラベルが貼られている状態の人との対話において、大切なのは、相手と自分の間にある「余白」や「遊び」という「部分的な連接」=ネットワーキングである。そこから、相手の内在的論理を掴むことである。これが「他者の他者性」との対話可能性にもつながるのだと、思う。

そういう意味で、僕自身が追いかけてきた認識論的な枠組み外しに人類学的な根拠を与えてくれるような、濃厚な1冊であった。

本気の確信犯!

新年最初の投稿は、いつも魅力的な本をどんどん出されてご恵贈くださる勅使川原真衣さんの新刊の書評から。観察の達人として例に出されたのが、あのコナンである。

「コナンくんは過去のパターンやセオリーではなく、目の前のことをよく観察して、そこから仮説を立てます。その始まりはいつも、『あれれー?』と、気づいたことを半分とぼけながら伝える振る舞いなのです。」(勅使川原真衣『組織の違和感:結局、リーダーは何を変えればいいのか?』ダイヤモンド社、p33)

そう、やっぱりコナンなのだ。実は僕もコナンの観察に基づく関連付けとか、アブダクションの達人であると書いていたので、我が意を得たり、である。かれは、違和感を誤魔化さず、それを相手の本質の理解の前提にする。名探偵テッシーも同じである。

「あれ、さっきまで『イライラ』という言葉を使っていたのに、今、急に表現がかわりましたね?」
「あれ、さっきから何度も足を組み直してますね?」
「あれ、もうペットボトルの水が空っぽですか!」

名探偵テッシーは、犯人を捜すのではなく、組織コンサルタントである。その組織の中でのチームワークの不全感の正体を探り、関係性を変えていく支援や介入を行う事で、組織のパフォーマンスと働く人々の満足感を高めるお手伝いをしている。そのとき、「問題とされる人(Identified Patient: IP)」と向き合う際にも、噂や先入観、他者の評価を鵜呑みにせず、じっくり観察する。その中で、相手の内在的論理を探ろうとするのである。

その上で、職場の中で「出来ない奴」「話のわからない奴」とラベルが貼られる人に対して、以下のように喝破する。

「これまで約2万人の働く人たちと接してきましたが、その経験から私は『ちゃんとやっていない人』が職場にいることが問題なのではなく、その職場の『当たり前』『ちゃんと』『普通』が一体どういう言動なのかを言語化できていないことこそが問題だと確信しています。いけしゃあしゃあとそんなあいまいな言葉で他人に評価目線を注ぐのであれば、こららの言葉をどれほど解きほぐし、いろんなメガネをかけたメンバーにわかるように伝えたのか? これこそを振り返るべきです。」(p62)

実は名探偵テッシーの本領は、人物観察に基づく上記の本質を射貫く発言である。「問題とされる人(Identified Patient: IP)」が問題なのではない。その人を問題・悪魔化することで誤魔化している背後にある、「その職場の『当たり前』『ちゃんと』『普通』が一体どういう言動なのかを言語化できていないことこそが問題だ」という構造を見抜いているのである。僕がテッシーと価値観が似ていると勝手に親近感を抱いているのは、彼女は問題を個人化せず、その背景にある社会構造の問題を射貫く。

その上で、この本についてテッシーは確かラジマガコラムか何かで、「商売あがったり」になるほど自分の仕事の秘訣を公開している、と述べておられたが、確かにこの本の中では、彼女がどんな風に「問題とされる人(Identified Patient: IP)」を観察した上で、その本質を見抜こうとしているのか、のいくつかのネタを公開してくれている。

例えば僕は腕を組んだら右腕が下、手の指を組んだとき左親指が下、の左右脳で、ソーシャルスタイルは人への関心が弱くて、あけっぴろげであるドライバータイプである。このようなタイプ分析を紹介しつつ、それは自分だけではなく、他者を観察していても、発言内容や表情などから読み取ることが可能であると指摘する。本書では簡単な・しかし強力な自己・他者分析ツールをご紹介くださりながら、まずは以下の順でやった方が良い、と指摘する。

①自分の解釈のパターンを知る
②相手の解釈のパターンを知る
③それらを踏まえて、組み合わせる

ここで大切なのは、まずはさっきの解釈枠組みを自分に当てはめて、自分自身のパターンを知ることである。その上で、観察に基づいた相手のパターンを知り、相手と自分の関係性や組み合わせを考える、という重要性である。

そして、関係性をうまく組み合わせるために、以下の視点が大切だという。

・自分の感情に流されず、相手の解釈のクセを淡々と「観察」できているか?
・決めつけず(良い悪い、けしからんなど抜きに)相手の考えをいったん受け止められているか?
・とはいえ、相手の言動が業務の目的にそぐわない場合は、「相手に伝わる言葉で」どうにか働きかけて調整する必要があるが、有効な質問・フィードバック・共感・傾聴など使い分けができているか?(p197-199)

これは相手のことを知った上で、相手との関係性を考える上で、決定的に重要なポイントだと感じる。なぜなら、僕が人間関係で失敗したとき、大体この三要素が出来ていないからである。まず、むかついたり腹がたつ、という感情に流されると、冷静な観察が出来なくなる。その上で、相手の考えを早々に決めつけやジャッジしてしまうから、話が拗れる。そのうえで、「相手に伝わる言葉」ではなく、「自分が言いたい言葉」で相手にフィードバックするから、ますます悪循環が高速度回転してしまう。

ゆえに上記の三点は、自分を知り、相手を知った上で、関係性を好循環に導く上で、決定的に重要なポイントなのだ。

「結局、リーダーは何を変えればいいのか?
それは、相手ではなく、決めつけてしまう自分こそ変える、ということです。
そして、やるのは環境の調整だけ。そのためには、『違和感を持ったら立ち止まる』ということに尽きます。」(p272)

相手ではなく、決めつけてしまう自分こそ変える、これは昨秋以来、ぼく自身が自分の内的自己と向き合う中で、ずっと考え続けていることである。他者との葛藤が最大化した際、他者を悪魔化・問題化しても、何も変わらない。そうであれば、「決めつけてしまう自分」こそ、客観的に観察し、そこにどのような課題や問題があるか、を冷静に観察(自己分析)したほうがよい。それに基づき、自分の変容課題を理解出来れば、他者との関係性が変わる。そして、そういう風に、自分をアップデートすることが、他者との関係性のアップデートの要にあるのだ、と勅使川原さんは、関係性変革の極意を、惜しみなく伝えてくれているのだ。なんて、ありがたい!

その上で、本書を「ダイヤモンド社」で出す意義について、以下のように書いているのが、非常に味わい深い。

「能力主義の代案はなかなか受け入れられません。むしろ、経済的格差の進行を背景に、ますます強固になっている節もあります。
どうしても、勝者の側から意識を変えてもらわないといけない。
だからこそ、今ここで社会的に優位な立場にいる人に向けて、自分の商売道具を公開してでも、ビジネス書、中でもその『総本山』ともいえるダイヤモンド社から発信してみようと思ったのです。」(p276)

本気の確信犯!である。

ダイヤモンド社の本は、確かに「○○力」を伸ばすにはどうすればよいか、に関する本を沢山出しておられて、個体能力主義を重視していると世間で認識されている出版社である。だが、その個体能力主義の本を沢山出来ている出版社で、ご自身の商売道具を惜しげ無く公開しながら、伝えたい関係論的能力主義の本を出すことが出来るのが、テッシーの懐の深さ、というか、本気度合いが伝わってくる。

社会が本当に変わるには、「どうしても、勝者の側から意識を変えてもらわないといけない」のだ。だからこそ、勝者のリーダーに向けて、いかに他者を変えるのではなく、自己認識を変えることが大切か、を説く、ほんまもんのリーダーシップ論を唱えている。しかも、それはテッシーの商売道具を惜しげも無く公開しながら、これを使えばあなたと他者の関係性を変えられる、という秘伝のタレを出しながら、だから私の言うことに、ちょっと耳を傾けてほしいと懇請する。これこそ、本気のリーダーシップ論であり、社会変革論そのものなのだ。

そういう意味で、本気の確信犯の本書は、実に読み応えのある1冊である。

2025年の三題噺

大晦日には毎年振り返りブログを書いている。昨日からボンヤリ始めているのは年の瀬。今年も三つ、書いてみよう。

1.住まいを整える

10月に一軒家に引っ越した。生まれて初めて(正式に言えば3才のころにマンションに引っ越して以来47年ぶり)の一軒家である。なんというか、様々なご縁が重なって、引っ越すことができた。

今年50歳を迎えるにあたり、昨年からあと15年で退職、という言葉がよぎるようになった。そして、家を買うなら(=ローンを組むなら)そろそろ潮時ではないか、と思うようになった。結婚した28才の時から20年以上、ずっと賃貸マンションに暮らし続けてきた。年間100万円の家賃だとして、2000万円。都会では無理でも、田舎なら中古住宅は優に購入できるお金である。もちろん、賃貸だったからこそ、移動の自由を確保できた部分もある。でも、そろそろ腰を落ち着けないと、と思っていた。

そういう訳で、娘の小学校区を変えないかご近所で、昨年から家を探し始めたのだが、昨年は父が倒れて一時的に要介護状態になり、それでてんやわんやし、あまり良い物件にも巡り会えなかったので、一度家探しを休むことにした。その上で、今年のはじめから、不動産業者も新たに知り合いに紹介して頂き、心機一転で探し始めたら、娘の小学校区、住んでいたマンションから歩いて数分の場所に、立派な木造住宅の築30年の古民家をネットで見つける。内覧してみたら、古めかしいが、床も柱もがっしりしている。そこで、建築家の光嶋裕介さんにも見ていただき、リフォームプロジェクトが始まる。

光嶋さんに出会ったのは3年前。一方的に名前を知っていたのだが、内田先生と青木真兵さんのイベントで遭遇し、そこから本を贈り合う関係になった。彼の本を何冊も読み進めるなかで、家をリフォームするなら、是非とも光嶋さんに関わっていただきたい、という思いが膨らんでいく。新築を買う程の予算もローンも組めないので、中古物件のリフォーム一択に決めていた。そして、3月末に売買契約を結び、設計してもらったうえで、6月から光嶋さんがタッグを組む中島工務店でリフォーム工事を始めていただく。この夏は、そのリフォームに施主家族として関われたのが、実に面白い経験だった。

夏の暑い盛りの工事なので、毎回麦茶のペットボトルを凍らせて、差し入れで持って行く。チャリで1分、歩いても5分なので、棟梁が来られている日は、仕事に行く前とかすき間時間に可能な限り顔を出した。すると、屋根や床を剥がす工程から、レイアウトを変え、色々なしつらえを決めていくタイミングを、ずっと観察することが出来た。現場監督のBさんも、I棟梁もすごく良い人で、僕の「なぜ?なぜ?」の質問攻撃にも笑顔でお答えくださる。そうやって職人の世界を垣間見ながら、丁寧にリフォームしてくださる作業のプロセスに立ち会えたのが、楽しくなってきた。3ヶ月以上かかったけど、最後は「もう工事が終わるの?」と寂しくなるくらいだった。

そして、妻が「玄関横の松の木を切ろう」と言い出したのも、びっくりした。確かに日本家屋には松が定番だが、通りに面したブロック塀は視界を遮るし、植栽も10年ほど放置されていて、少し荒れた雰囲気もある。最初は本当に自分たちで出来るか半信半疑だったのだが、「お金もかかるから、自分たちで出来ることはしようよ」と妻。そこで、松の木をノコギリで切ってみたら案外スカスカですぐに切れ、鍬を使って抜根作業も行う。これが結構大変で、お手軽な鍬は二つほど駄目にしたが、最後に見つけた筍掘り用の鍬を使えば、なかなか抜けなかった木の根も抜ききる事が出来た。夏の朝は、日差しが強くなる前に家族三人で現地に出かけ、庭仕事をし続けてきたのも良い記憶。そのお陰で、それまでの住まいだったマンション一階の庭も原状復帰でき、敷金礼金がすべて戻ってきたのは、物入りで本当に助かった。

そして10月に引っ越した新居は、実に快適である。書斎には、もともと大熊一夫師匠から20年前に頂いた本棚を囲むように、天井から壁一杯に本棚を作り付けてもらい、収容能力が格段にあがった。引っ越し前に本を大量に間引いた効果もあって、大学生以後初めて、すべての本の背表紙が見える、つまりは二重三重に重ねなくてもよい本棚が出現した。これが精神衛生上、めっちゃ良い。パーソナルスペースの拡張は、心の余白まで生み出している。生まれて初めて「客間」なる畳の部屋もあるのだが、両親が宿泊したり、ゲストが来たときにそこで娘達がダンスしたり、余白の空間があると、そこから色々な物事が動き出す。これも、機能的で合理的で最低限度のスペースであるマンションに暮らしていた頃には、全く想像できなかったことだ。

2.単著が2冊も出せた

偶然のご縁の中で、気がつけば今年は単著が2冊も出ていた。もともと、ちくまプリマー新書の方が先に話を頂いたのだが、去年は父が倒れて、書き下ろしをする余裕がなくなっていた。そこで、晶文社のベテラン編集者で、内田先生のブログ本を沢山出かけてこられた安藤さんから「能力主義とケア」について書いてほしいと言われた際、「内田先生と比較にはならないけど、僕もブログであれこれ能力主義やケアについて書いているので、その内容を徹底的に書き直すなら、本は書けそうだ」とお伝えしていた。すると、安藤マジックで見事にカテゴリー分けをされたブログリストと、それに基づいて並べられたワード原稿が出てきた。これなら書き直せそうと、昨年の夏休みにコリコリと書き直し続けて、2月に出せたのが、『能力主義をケアでほぐす』である。

で、この本を書きながら、改めて能力主義や生産性至上主義と徹底的に向き合うことが出来たので、途中書きあぐねて放置していたちくまプリマー新書とも、向き合い始めた。1章だけ昨年の春に書いて放置していたのだが、正月休みに2章を書き、その後構成を練り直し、3章と4章も6月までに書き終えて、9月には『福祉は誰のため?』というタイトルで出すことが出来た。この本は、大学教員になって20年間、一貫して「福祉学部以外で、福祉について一生に一度だけ学ぶ大学生に、福祉に興味を持ってもらう」というハードルの高い授業設定で試行錯誤してきた僕の、福祉を自分事に思ってもらうための問いかけを、ふんだんに盛り込むことが出来た。

ちくまプリマー新書って、わかりやすく伝えることで定評がある新書ゆえ、様々な入試問題に活用いただいている。前著『ケアしケアされ、生きていく』も小学校6年生の有名進学塾の入塾テストから、中学・高校・大学入試と、幅広くご活用いただいている。そのため、9月には再度重版され、生まれて初めて拙著が1万部を超えた。そういう意味で、今回の本も、ロングテール本というか、長く読まれてほしいなと思って書き上げた1冊である。

本を出した後に、大阪では勅使川原真衣さんと、東京ではジェーン・スーさんと、共に対談イベントもさせていただき、それもめっちゃ盛り上がった。だからこそ・・・

3.陽が極まり陰を深める

引っ越したあたりから、仕事上でも、プライベートでも、人間関係における葛藤があちこちで最大化していった。様々なことでショックを受け、落ち込み、混乱しつつも、それは、ある種の必然のように感じられた。他責的になるのでもなく、かといって自罰的になってもいけない。何というか、陽が極まったからこそ、陰の局面にさしかかったのだと自分でも納得出来た。ひたすら自分自身と向き合おうとしたのが、11月からの二ヶ月だった。一昨日のブログに「タオとの対話」という形で言語化が出来たが、家を整えても、ぼく自身が整っていなかったので、ひたすら自分自身と向き合い、ぼく自身を整え直す日々だった。

自分と向き合い、整え直す上で、妻や娘と新居での生活をゆっくり楽しむことが、かけがえのないものになった。睡眠時間を削らないよう、夜はPCをなるべく見ないようにして、読書を増やす。娘にも本を読み聞かせたり、彼女の欲しい本も買って、一緒に読書タイムをつくる。それだけでなく、引っ越しや繁忙期で合気道になかなか行けない日々が続き、体重も減らないので、バスやチャリ、車に乗らず、毎日出来る限り歩くようにしはじめた。一日4キロ8000歩を目標に、職場や駅、近所のスーパーにも歩いて出かけたり、バスを途中で降りて歩数を稼いだり、するようになった。

そのタイミングで、オーディブルがいいよ、と知り合いに教わったので、自分では決して読まないだろう小説を2倍速で聴くようになった。これが非常によかった。僕は、小説やドラマ、映画が苦手である。嫌いではなく、過度に感情移入する傾向があるからだ。特に主人公が窮地に追い詰められ、辱められそうになると、もう「見てられない」と、子ども時代はトイレに立てこもったり、本を放り出したりしていた。そんな変な子だった。でも、オーディブルは能動的に見なくてもよいし、散歩中に耳だけ傾けるから、嫌なら別のポッドキャストで気を紛らわしたらよい。そう思うと、スルスル没頭できるようになってきた。『コンビニ人間』に始まり、『ミシンと金魚』『ナチュラルボーンチキン』と聴いて、今は『対岸の家事』を聴いている。なんというか、どれもケアや家族関係の複雑さを題材にしていて、50のオッサンになってから出会うと、仕事で考えてきたことともつながり、めっちゃ面白い。オーディブル体験は、確実にクセになりそうだ。

また、庭いじりも陰を深める上で、大事な要素になっている。前のオーナーが20年かけてつくってこられた庭がある。そのオーナーが亡くなられ、パートナーの方はどうも手を付けられなかったようで、10年ほど手が入れられてない状態であった。そこで、田舎出身でそういう作業が好きな僕の母が来た折に、木を大胆に剪定したり、落ち葉と米ぬか、赤土をまぜてわらを敷いて土作りしたり、毎日の野菜くずを土を掘り返して埋めてコンポスト生活を始めたり、している。すると、殺風景な庭の部分にパンジーや水仙、球根なども植えるようになり、園芸店に通う日々も格段に増えた。職場の同僚が「庭いじりは最大の暇つぶし」と言っていた理由も、今ならよくわかる。誰かに評価されるためではなく、コツコツと、土にむきあう。前のオーナーが植えてこられた植栽を見ながら、次に何を手がけようか、と妄想するのも、何だか楽しいし、それは大地との対話のような気もする。

娘も、自分の部屋でのパーソナルスペースがしっかり確保されたので、居間で一緒に家族と過ごす時間以外に、部屋で工作や勉強する時間も増えた。日本家屋なので、娘の存在がかすかに聞こえつつ、僕は今で、この三題噺を書いている。妻も自室が出来たので、妻の時間を過ごしている。こういう感じで、家族それぞれが、集まったり離れたりしながら、家の中での楽しい日々も続けていける。そう思うと、昨年末には想像もしていなかった今年の年末である。いまから、娘と園芸店に行き、今年最後の土いじりをすることにしよう。

みなさん、佳い年をお迎えください。

タオとの対話

年末の振り返り会をしていて、自分自身が葛藤の最大化にあったこの秋から冬にかけて何をしていたか、を言語化していた。その際、ふと口をついて出てきたのが、「雨乞い」のエピソードだった。確かユング関連の本で読んだけど、何だっけ? それを正確に辿るには、生成AIが役立つ。早速教えてもらった『統合の神秘』の日本語訳は持っていないけど、それを引用している本は手元にあったので、引用してみる。

「大変な旱魃(ひでり)があった。何ヶ月もの間、一滴の雨も降らず、状況は深刻だった。カトリック教徒たちは行列をし、プロテスタントたちはお祈りをし、中国人は線香をたき、銃を撃って旱魃を起こしているデモンたちをおどろかせたが、何の効果もなかった。最後に、その中国人が言った。『雨乞い師をよんでこよう』。そこで、別の地域から、ひからびた老人がよばれてきた。彼はどこか一軒の静かな小さい家を貸してくれとだけ頼み、三日の間、その家の中に閉じこもってしまった。四日目になると、雲が集まってきて、大へんな吹雪になった。雪など降るような季節ではなかった。それも非常に大量の雪だったのである。町中は、すばらしい雨乞い師の噂で持ちきりだった。そこでリヒアルト・ヴィルヘルムは出かけて行って、その老人に会い、どんなことをしたのかとたずねた。彼は、まったくヨーロッパ風にこうきいたのである。『彼らはあなたのことを雨乞い師と呼んでいる。あなたがどのようにして雪を降らせたのか、教えていただけますか?』。すると、その小柄な中国人は言った。『私は雪を降らせたりはしません。私は関係ありません』。『では、この三日間、あなたは何をしていたのです?』『ああ、そのことなら説明できます。私は別の地方からここへやってきたのですが、そこでは、万事が秩序立っていたのです。ところがここのひとたちは秩序から外れていて、天の命じている通りになっていないのですよ。つまり、この地域全体がタオの中にないというわけです。ですから、私も秩序の乱れた地域に居るわけで、そのために私まで物事の自然な秩序の中に居ないという状態になってしまったわけです。そこで私は三日間、私がタオに帰って、自然に雨がやってくるまで、待っていなくてはならなかった、というわけなんです。」(C.G.ユング『統合の神秘』 ジーン・シノダ・ボーレン著『タオ心理学』春秋社、p186-187から重引)

雨乞い師は、雨や雪を降らせるために、直接的に祈りを捧げたり、行列をしたり、銃を撃つことはなかった。雨を降らせるために直接的な働きかけを、何もしなかった。それにもかかわらず、一滴の雨も降らなかった大地が、季節外れの「大へんな吹雪」になった。そこに、ユングの友人のヨーロッパ人が訪ねてゆき、何をしたのかを尋ねると、「雪を降らせることには、関係がない」という。ではこの三日間何をしたのか、と聴くと、「この地域全体がタオの中にない」ことに気付いたので、「私は三日間、私がタオに帰って、自然に雨がやってくるまで、待っていなくてはならなかった」という。

その際、雨乞い師が「ここのひとたちは秩序から外れていて、天の命じている通りになっていないのですよ」と述べたことが、非常に印象的だ。ここで言う秩序とは、人為的な、あるいは道徳的な秩序のことを指していない。「天の命じている通りになっていない」という意味で、「大いなる道」と訳されているタオの通りになっていない、と雨乞い師は述べるのである。だからこそ、「私がタオに帰って、自然に雨がやってくるまで、待つ」ということを彼は行った。すると、自ずから雨が降ったのだ、と。

このエピソードを河合隼雄も引用していると思い、生成AIで出典を調べて、読み直した本には、こう書かれていた。

「ここで注目すべきことは、彼は因果的に説明せず、自分に責任はないと明言した上で、自分が『道』の状態になった、すると自然に(then naturally)雨が降ったという表現をしているのである。ここで、中国人がヴィルヘルムに言うときにどのような用語を用いたかは知るよしもないが、彼が『道』のことを語る点からみて、老子『道徳経』に用いられる『自然』の語を用いたものと推察される。(略)
自然(じねん)は福永光司によると、『「オノツカラシカル」すなわち本来的にそうであること(そうであるもの)、もしくは人間的な作為の加えられていない(人為に歪曲されず汚染されていない)、あるがままの在り方を意味し、必ずしも外界としての自然の世界、人間界に対する自然界をそのままでは意味しない』のであり、『物我の一体性すなわち万物と自己とが根源的には一つであること』を認める態度につながるものである。
こんなことを言うと、まったく非科学的と言われるかもしれない。そのような点については、第三章に論じるが、筆者の実感で言えば、この『雨降らし男』の態度は、心理療法家のひとつの理想像という感じがある。かつて棟方志功が晩年になって、『私は自分の仕事には責任をもっていません』と言ったとのことだが、似たような境地であろう。治療者が『道』の状態にあることによって、非因果的に、他にも『道』の状況が自然に生まれてくることを期待するのである。」(河合隼雄『心理療法序説』岩波書店、p14-15)

ここで河合隼雄は自然(じねん)の考えを、西洋の自然(しぜん)とは違うものであると指摘する福永光司の論を引いている。それは「オノツカラシカル」である、と。「本来的にそうであること(そうであるもの)、もしくは人間的な作為の加えられていない(人為に歪曲されず汚染されていない)、あるがままの在り方」が「自然(じねん)」である。そして、そのような「オノツカラシカル」になっていない状況こそ、人為に歪曲され汚染された状態である、と言える。それが、雨乞い師が「ここのひとたちは秩序から外れていて、天の命じている通りになっていないのですよ」と述べたことともつながる。

この整理と、「治療者が『道』の状態にあることによって、非因果的に、他にも『道』の状況が自然に生まれてくることを期待する」という結論を、どう結びつければ良いのだろうか。そのために、河合隼雄は「似たような境地」として、「かつて棟方志功が晩年になって、『私は自分の仕事には責任をもっていません』と言った」エピソードをあげている。

実はこの部分も書き写していて、うっとなった箇所である。「自分の仕事には責任をもっていません」というのが、何を訴えているのか、を考えた時に、うっとなったのだ。それは一体、どういうことか。

普通、「自分の仕事には責任をもっていません」という人のことを、「無責任」とラベルを貼りやすい。もちろん、板画や民芸運動の牽引役を務めた大家が、責任逃れをしていたとは、想像しにくい。すると、棟方は仕事に責任を持つという考え方自体に、「人間的な作為」で操作するイメージを抱いていたのではないか。そして、自分の仕事=創作とは、そういう人為的な作為を越え、「物我の一体性すなわち万物と自己とが根源的には一つであること」であると捉えると、「自分の仕事には責任をもっていません」というフレーズにも合点がいく。自分が木版に働きかけ、能動的に木を彫るのではなく、木と合気しながら、「オノツカラシカル」状態に至るプロセスにいるだけだ、と。

この話を、「治療者が『道』の状態にあることによって、非因果的に、他にも『道』の状況が自然に生まれてくることを期待する」をパラフレーズしてみてみよう。

「棟方志功が『道』の状態にあることによって、非因果的に、彼の作品にも『道』の状況が自然に生まれてくることを期待する」

棟方志功が「オノツカラシカル」状態になると、なぜだかわらかないけど(因果の連関があるとは思えないけれど)、彼の作品も結果的に「『道』の状況が自然に生まれてくる」かもしれない。これは、雨乞い師が「オノツカラシカル」状態になると、なぜだかわらかないけど(因果の連関があるとは思えないけれど)、その地域も「オノズカラシカル」状態になり、それが季節外れの吹雪につながった。治療家が「オノツカラシカル」状態になると、なぜだかわからないけど、クライアントやその関係者も「オノズカラシカル」状態に鎮まっていく。

ここまで書いてきて、なるほど!と思う。

ぼく自身は、自分ではこれ以上の人為的な操作も介入も出来ないような、でも自分の関係性の中での心配ごとが最大化していたときに、他者を非難や説得することは封印し、ひたすらしていたことは、これだったのだ、と。他責的に・あるいは自罰的になりそうなタイミングで、雨乞い師のように、自分自身が乱れていることに気付いて、自分自身を整えていた。それは何の根拠もない非因果的な直観だったが、後から振り返ってみると、「私も秩序の乱れた地域に居るわけで、そのために私まで物事の自然な秩序の中に居ないという状態になってしまった」状況に置かれていた、と言える。

そのときに、「僕は悪くない」とか「あいつのせいだ」とか、そういう人為的な因果の連関を探したくなる(=問題解決志向の)僕がいなかったといえば、嘘になる。でも、ひたすら、「これはぼく自身の課題であり、僕が試されている」と言い聞かせてきた。この間、ミンデルの本を読み進め、以前の本を読み返し、ユングの言葉に揺さぶられながらずっとしてきたことは、己を鎮めることであった。その中で、この一週間くらいのあいだに、様々な関係性が動き始めた。悪循環の固着状態から、良い循環性へと、流れ始めた。

不遜な言い方を承知で言えば、ぼく自身が「オノツカラシカル」状態になると、なぜだかわからないけど、僕と葛藤が最大化した人々も、「オノズカラシカル」状態に鎮まっていった、のかも、しれない。

これを指して、タオとの対話、とこれまた不遜なタイトルを付けてみる。でも、そうとしか思えないような、自らの影と向き合い、怒りや苦しみも含めて、自分自身を見つめ直し、自己否定もせず、対立や葛藤そのものの存在を認め、それを眺めている時間が過ぎていった。「オノツカラシカル」方法なんてさっぱりわからないから、本を頼りに、本と対話し、それを通じて自分と対話しながら、過ごした日々だった。絶対に他人のせいにしない、でも無理に自分を責めない、という宙ぶらりんのスタンスで、このプロセスを生きてきた。それが、もしかしたら「『道』の状態にあること」の入口に立てたのかも、しれない。

これは、嵐でうねる海の中を、羅針盤なく漂うような状態であった。それは「生きるためのファンタジーの会」で以前課題図書として読んで議論したゲド戦記シリーズの『さいはての島へ』を彷彿とさせる。実際にはこの間、姫路で暮らしていたので、航海はしていない。でも、僕の心の中は、見通しが全く見えない、嵐の真っ只中だった。だからこそ、ただひたすら、己を信じて、「私がタオに帰って、自然になにかがやってくるまで、待っていなくてはならなかった」のだ。そして、ここ数日のあいだに、その「なにか」がやってきている。これが、おそらくタオとの対話の入口なのかもしれない。

これは、他者との対話としての「水平の対話」でもないし、自分自身の振り返りや内省としての「垂直の対話」とも違う。別次元での、「オノズカラシカル」状態に至るまでの、そのプロセスを信じて待つ、タオとの対話のような気がする。

とりあえず今日の・ここまでの気づきを言語化しておきたかったので、今日のブログは備忘録メモである。

葛藤を通じた影との対話

ユングの珠玉の言葉を100も集めたダイジェスト的名著が刊行された。一つ一つの言葉にしびれる。例えば、こんな風に。

「自分自身との出会いとは
第一に自分の影との出会いを意味する。
影とは隘路、狭き門であり、
深い泉のなかへと降りていく者は誰しも、
苦痛を伴うその狭い場所を免れるわけにはいかない。
けれども、
人は自分自身と付き合ってみなければならないのだ。
そうすることで、自分が何者なのかを思い知るのである。」
(大塚紳一郎著『こころと出会うためのC・G・ユングの言葉100』創元社、p80)

大塚さんと言えば、ユングやユング派の重要な書籍を丁寧に原文から訳してくださる、素敵な書き手である(ブログでも以前紹介している)。今回はユングのドイツ語と英語の著作集を一年かけて目を通し、重要な箇所を500ほどリストアップして、100個を選び抜いたという(p14)。それゆえに精選された珠玉の言葉が載っていて、めっちゃ心に響く。

特に先ほど引いたのは、いま・ここ、の僕に最も響く場所。

今、ちょうど自分の影との出会いを深め、苦しんでいる。しんどい。でも、それが隘路であり、狭き門ゆえに、「苦痛を伴うその狭い場所を免れるわけにはいかない」と言われると、勇気をもらえる。「自分が何者なのかを思い知る」ためにも、この影との直面が最重要なのだ。そして、その隣に載っている大塚さんの簡潔明瞭な解説も、心を打つ。

「誰かと本当の意味で友達になったり、恋人になったりするとき、最初に気づくのはむしろ相手の嫌な部分ではないだろうか。こころとの関わりをもつ場合も一緒だ。こころと真剣に関わりを持つようになると、最初に見えてくるのは、普段はペルソナの背後に隠している影、つまり恥ずかしく、情けない自分の姿なのだ。こころはまず、影として姿を現すのである。自分自身の影との出会いはいつだって苦しく、辛いものになるだろう。それでもなお、身を屈めて、その道を通っていかなければならないのだ。友達や恋人との本当の関係がはじまるときと同じように、明るい側面だけではなく、暗い側面とも出会ったときにはじめて、こころというものの存在をリアルに感じることができるようになるのだから。」(p81)

最近、久しぶりに自分自身と深く向き合うようになっている。その直接のきっかけは、人間関係での大失態なのだが、それを掘り下げていくうちに、「普段はペルソナの背後に隠している影、つまり恥ずかしく、情けない自分の姿」が見えてくる。これは、正直きつい。「自分自身の影との出会いはいつだって苦しく、辛いもの」である。「それでもなお、身を屈めて、その道を通っていかなければならないのだ」と言われると、暗闇にともされる一筋の光のような、ヒントを与えてくれる。「情けない自分の姿」を否定せずに直視した先にしか、次の展開は始まらないのだ。

「奇妙なことに、
パラドクスこそが最高の精神的資産なのである。
反対に、一義性は弱さの印である。」(p170)

今直面しているぼく自身の大失態は、実は一義性に関係している。あまりにも、僕の意見が通り過ぎていた。そこに無自覚だった。つまりは、他者の他者性をしっかり拾えていなかった。だからこそ、葛藤の最大化の場面では、表面的には他者と対立しているようにみえて、実のところ、「普段はペルソナの背後に隠している影、つまり恥ずかしく、情けない自分の姿」という影が露わになる。それを直視するのは、しんどい。

でも、ユング派からプロセス心理学に転じたアーノルド・ミンデルが「葛藤」を最後の主題にしたように、葛藤やパラドクスは、最高の精神的資産なのである。一義的になると、複数の声がかき消されてしまう。そこに、権力関係が生じ、一方向の支配ー服従関係が生じる。それを越えていくのには、パラドクス状態に陥ることが、実は最も助け船になるのだ。大塚さんはこう解説してくれている。

「自分は『こうしたい』と言っているのに、もう片方の自分が『それじゃ駄目だ』と言っている。それがパラドクスだ。二人の自分が対立しているのである。その葛藤は苦しいものだが、人生そのものに関わるようなあたらしい、そして意味のある方向性は、このパラドクスに耐えることでしか生まれない。」(p171)

葛藤や対立は、出来れば避けたいものである。でも、葛藤には意味や価値がある。苦しいけれど、あたらしい・意味ある方向性がその葛藤の中で見えてくる。「このパラドクスに耐えること」というのは、葛藤や対立する他者に対してではなく、自分自身を問い直し、捉え直すきっかけを与えてくれる。

「わたしたちが
子どもたちに関して変化させたいと思うことはすべて、
自分自身に関して変化させた方がよいものではないか。
まずは注意深く、そう吟味してみた方がよいでしょう。」(P185)

子どもを、学生とか支援対象者とか部下と言い換えても、同じ事がいえると思う。権力を保持する側が、権力行使出来る相手とどう関わるか。通常は、パワーを持つ強者が、弱者に対して指導や命令、助言などを通じて、相手を説得し、相手に行動変容させようとする。でも、葛藤場面において、その葛藤課題は自分自身との影との向き合いなのだとしたら、変わるべきは相手ではなく自分自身となる。すると、他者を変化させたいという不遜な欲望よりは、自分がどう葛藤を変容課題として受け取り、その問いを吟味できるか、こそが問われるのだ。

大塚さんも、以下のように指摘している。

「わたしたちが子どもたちに期待し、要求するそうした内容はすべて、実際には子どもたち以上に、大人にとって切実な課題ばかりではないだろうか? 子どもだけに要求するのではなく、まずはそれを自分自身の人生のなかで、できるうかぎり果たしていくということ。それこそが、わたしたち大人が子どもたちに対して果たすべき最大の責任であり、また最良の教育なのである。」(p185)

8才の娘の子育てをしている父にとって、「実際には子どもたち以上に、大人にとって切実な課題ばかりではないだろうか?」という問いは、グサグサ突き刺さる。娘に指導や助言をしたふりをしているけど、それは娘以上に父にとっての切実な課題の可能性は、充分にある。率先垂範とは、「子どもだけに要求するのではなく、まずはそれを自分自身の人生のなかで、できるうかぎり果たしていくということ」なのだ。それこそが父(教育者、上司、おっさん・・・)として果たすべき最大の責任である、というのは、本当にしっくりくる。

「ですから、大切なのは
親が間違いを犯さないということではありません
—そんなことは人間には不可能でしょう。
そうではなく、
間違いを間違いとして認めるということです。」(p188)

いま、「謝ったら死ぬ病」に罹患している人が増えているという。これは「間違いを間違いとして認める」というシンプルなことが出来ない、ということである。色々な理由が考えられるが、例えば「正解幻想」が強くて、立場上間違えられないと思い込み、「親が間違いを犯さない」という幻想を引きずっている可能性がある。これは無謬性への過信である。あるいは間違いを認めると自我が崩壊する危険性がある。その場合は、いくら虚勢を張っても、かなり脆弱な心理状態である。いずれにしても、よろしくない。

大塚さんは、この文章の解説を以下のように締めくくる。

「子どもにとって重要なのは親の成功や達成ではなく、生きる姿勢そのものなのだ」(p189)

深く同感する。結局「生きる姿勢」そのものが問われているのである。いくら表面的に成功や達成のフリをしたところで、生きる姿勢がインチキであれば、すぐに見破られる。本物の葛藤と向き合い、表面的なキラキラが通用しないドロドロとした領域で、自分の生き様を問い直し、成功や達成に還元されない生きる姿勢というプロセスを磨き続けられるか。これらが問われている。

「他者を認めることができなければ、
その分だけ自分自身のなかにいる『他者』の存在権も
認めることができなく—逆もまた然りだ。
内的な対話の能力は、
外的な客観性のひとつの尺度なのである。」(p206)

忙しい時ほど、内的な対話をおろそかにしがちになる。しかもそういう時に限って、自分の中にいる「他者」は訊いてほしい、認めてほしい、存在を承認してほしいと、私に問いかけをしてくる。そして、忙しくて自分と対話出来ず、対外的な仕事に必死になるほど、ますます「自分自身のなかにいる『他者』」も怒り出す。そのうえで、リアルな他者を認める事が出来なくなり、葛藤が最大化する。だからこそ、「内的な対話の能力は、外的な客観性のひとつの尺度なのである」という喝破に深く頷くのだ。急がば回れ。忙しい時ほど、自分自身の内なる他者と対話をする時間を確保しなければならないのだ、と。

もっと沢山引用したいが、是非この本は手元に置いて、皆さんも自分が気になる箇所と対話してみてほしい。僕は二読、三読するなかで、この本を通じて内的対話を深めていこうと思う。

おしつけとよこならびを越えて

話題の人文書でもある、精神科医の松本卓也さんの『斜め論—空間の病理学』(筑摩書房)を読んだ。著者の主張する斜めとは、次のフレーズに象徴されている。

「オープンダイアローグにおける『水平のダイアローグ』と『垂直のダイアローグ』の協同は、ガダリのいう『斜め横断性』、すなわち超越的審級によって個人が支配される垂直(おしつけ)性と、標準からの変異を平準化する水平(よこならび)性の両者を乗り越えようとする次元とかなり近い位置にあるのかもしれない。」(p43)

本書の最も興味深い点は、抑圧を「超越的審級によって個人が支配される垂直(おしつけ)性」だけではなく、「標準からの変異を平準化する水平(よこならび)性」にもあると見なし、そのどちらでもない「斜めの関係性」こそが、抑圧からの解放や主体性の快復に結びつく、という整理である。そして、それを上野千鶴子のフェミニズムや信田さよ子のアディクション・アプローチと接続させていく。それは、二人とも学生時代に全共闘運動世代で、社会変革を求める運動の中に内包されていた男性中心的な「垂直(おしつけ)性」にうんざりしていたからだ。

「一方の上野千鶴子は、自分の死をかけて『一度限りの決定的な』決断を下す革命の挫折を経て、『その後』を生き延びるための思想としてのフェミニズムにたどり着いたのであった。
他方の信田さよ子は、上から(垂直的に)降りてきた言葉しか話すことができず、それゆえ空虚な『我々』という主語を弄することしかできないマジョリティ男性たちに背を向け、マイノリティグループ—水平的に運営されるアルコール依存症者の自助グループや、DV被害者の女性のグループカウンセリング—のなかで新たに発明される言葉に関心を持つようになった。そして、水平的な自助グループやグループカウンセリングにつなぐためになされる、ちょっとした垂直性を行使する『指示』を再発明したのである。」(p132)

抑圧的な体制を変革するために闘うのが、「自分の死をかけて『一度限りの決定的な』決断を下す革命」だとすれば、全共闘運動の挫折後、ゲバ棒とヘルメットを捨て去り、スーツを着て「企業戦士」として別の枠組みに「自分の死をかけて」闘おうとする男性達に、「超越的審級によって個人が支配される垂直(おしつけ)性」を上野千鶴子は見て取った。だからこそ、決死の覚悟は横に置き、「『その後』を生き延びるための思想としてのフェミニズム」を編み出していった。

一方、信田さよ子は全共闘運動でも会社人間でも、「上から(垂直的に)降りてきた言葉しか話すことができず、それゆえ空虚な『我々』という主語を弄することしかできないマジョリティ男性たちに背を向け」た、アルコール依存症の患者支援に取り組む中で、「深く考えると酒が飲みたくなる」=つまり内省をしてしまうと余計に酒が飲みたくなる(p110)という垂直(おしつけ)性の弊害に気付く。そこから依存症者の自助グループにおいて「水平方向において『新しい言葉」を獲得する」(p122)重要性に気付く。それは、フェミニズムが家父長制の言語以外の言葉を模索したプロセスとも共通している。

そして、松本氏が先の引用で指摘した「ちょっとした垂直性を行使する『指示』」の重要性は、べてるの家で開発された当事者「研究」における「ちょっと、垂直」(p160)とつながっていく。

「垂直的な上下関係のない仲間どうしによるピアカウンセリングを重視した障害者運動や、やはり垂直的な権威を持つ専門家への依存を批判した自助グループは、総じて『垂直から水平へ』と表することができる方向に向かったとみることができるが、当事者研究はそのような方向転換を行うことによって、かつて批判の的になった『研究』を自分たち当事者の手に取り戻そうとしているのである。」(p161)

研究においては、調査する者・される者が分かれて存在することにより、調査者が対象者を対象化・客観化・平準化し、それが対象者の疎外に結びついていた。だが、当事者研究は、『垂直から水平へ』という自助グループ的なベースがあるがゆえに、研究対象者の仲間を疎外する方向には動かない。ただ、それでも序列化や平板化が生じかねないので、「ちょっと、垂直」が大切だと松本氏は指摘する。

「ハイヤーパワーのような垂直性を置かない当事者研究においては、研究の成果を世代間継承することが強調される。先行世代の研究の成果が垂直的に引き継がれていく必要があるというのである。
ただし、それは過去の当事者研究が絶対化されることではない。むしろ、先行世代の研究を継承しつつ検証しつづけることが求められるのであり、それはカリスマ的な当事者をつくらないこととほぼ同義である。言い換えれば、それは研究を『一度限り決定的』な結論を導き出すものとして捉えるのではなく、『そのたびごとに』更新される一種の永続革命として捉えることにほかならない。
このような当事者研究のあり方は、水平性のたえざるメンテナンスにもとづく、ちょっとした垂直性の重視、と要約することができるように思われる。
グループの中で、メンバーの誰かが他のメンバーの意見を抑圧して上に立とうとすることがないように、日々のミーティングのなかでそのたびごとの対応を続けること。そのようにして確保された水平性のなかで、垂直的でありながらも抑圧的でない世代間継承を可能にすること。」(p164)

長く引用したのは、この箇所にめちゃくちゃ重要だと僕が感じることが多数含まれると、書き写しながら感じたからである。

まず、アルコホリックアノニマス(AA)に代表されるような自助グループは、「ハイヤーパワー」(神のような超越的存在)を仮定し、その前では自分たちは無力である、という垂直性から、底付き体験を経て、自分たちが再生されていくプロセスがつくられていた。だが、当事者研究では、ハイヤーパワーはないものの、「先行世代の研究の成果が垂直的に引き継がれていく」ことによる、「ちょっとした垂直性の重視」が大切だと松本さんは指摘する。そして、それを「カリスマ的な当事者をつくらないこと」と喝破している。これはめちゃくちゃ重要な指摘である。

様々な社会運動で内ゲバ的な対立が生じているのは、カリスマ的なリーダーの登場により、水平的な場を希求して集まってきた場において、気がつけば「『一度限り決定的』な結論」が決められてしまう支配—服従関係が生じてしまうからである。これは、全共闘運動の挫折や、各種の社会運動の停滞にも共通しているのではないか、と僕は感じている。その限界を超えるためには、「水平性のたえざるメンテナンスにもとづく、ちょっとした垂直性の重視」が大切だ、というのは、松本さんの慧眼だと思う。

そして、「先行世代の研究を継承しつつ検証しつづけること」というフレーズで僕が思い出すのは、内田樹先生がしばしばご自身の事を「祖述者」と述べておられる部分である。

「私は白川先生から「祖述者」という立ち位置の重要性を教わった。
 白川先生は人間の知性がもっとも活性化するのはある理説の「創始者」ではなく、その「祖述者」の立ち位置を取るときであると考えていた。先生はそれを孔子から学んだのである。」(「こんなことを書きました」

創始者=オリジネーターは、「カリスマ的な」リーダーである。だが、その立ち位置に立ってしまうと、「メンバーの誰かが他のメンバーの意見を抑圧して上に立とうとする」プロセスが立ち現れ、結果的な「超越的審級によって個人が支配される垂直(おしつけ)性」に場が支配される。そうならないためには、「先行世代の研究を継承しつつ検証しつづける」「祖述者」の立ち位置を保つことが大切である、と内田先生は言う。先行研究をリスペクトしつつも、その継承者である自分たちで共に学び合い研究するプロセスを通じて、「水平性のたえざるメンテナンス」を行う。「そのようにして確保された水平性のなかで、垂直的でありながらも抑圧的でない世代間継承を可能にする」からこそ、当事者研究は応用可能性が高いとも言える。

すると、冒頭の引用箇所を再度検討してみたくなる。

「オープンダイアローグにおける『水平のダイアローグ』と『垂直のダイアローグ』の協同は、ガダリのいう『斜め横断性』、すなわち超越的審級によって個人が支配される垂直(おしつけ)性と、標準からの変異を平準化する水平(よこならび)性の両者を乗り越えようとする次元とかなり近い位置にあるのかもしれない。」

オープンダイアローグにおいては、補論1でも述べられているように、治療を求める人と、その人が参加を求める家族や友人などの社会的ネットワーク、そして治療チームの人々が一堂に会して、対話を行う。その際、「本人のいないところで対話をしない」という原則によって、「水平のダイアローグ」が保たれる。だが、この場では、二種類の「垂直のダイアローグ」も同時並行的になされている。まずは、他者の話を聴きながら、自分の中でその他者の語りをどう受け止めるのか、という自己内対話が行われている。それだけでなく、例えば患者が幻聴のことを話した後に、支援者同士で、本人の目の前で、「今あなたが話してくださったことについて、私たちで会話をしたいのですが、良いですか?」と本人に許可を取ってから、支援者同士の会話を本人の目の前で行う。これを「リフレクティング」というのだが、松本さんは「「リフレクティング」という技法によって、垂直的な関係がいわば「弱毒化」された形で再導入されている」(p252)と指摘している。これも慧眼だと思う。

「水平のダイアローグ」だけだど、「標準からの変異を平準化する水平(よこならび)性」の弊害が起きかねない。だが、そこに「弱毒化」された垂直性である「リフレクティング」が入ることにより、「先行世代の研究の成果が垂直的に引き継がれていく」契機が入る。だが、対等な場でのダイアローグという前提があるので、「超越的審級によって個人が支配される垂直(おしつけ)性」を排除する。これが、水平でも垂直でもない、斜めとしての支援関係の可能性を物語っているのだ、という松本さんの指摘にめっちゃ頷く。

先日読んだ深田耕一郎さんの「障害者運動と社会学──コミュニティとアソシエーションの最適解、あるいは解放と技法の弁証法」という論考の中で、障害者運動は1970年代は「解放の社会学」と結びついたコミュニティ志向であったが、その後90年代から「生の技法」に代表されるアソシエーション志向に変化していった。だが、重度訪問介護の制度化以後、その障害者運動の方向性が問われている、ということが指摘されていた。ちょっと暴論になるが、超越者の前ではみな対等ではないか、というのがコミュニティ志向だとするなら、全共闘運動世代が介助者となった「解放の社会学」には、多分に「垂直(おしつけ)性」が残っていた。その後、自立生活運動が事業所化されていくプロセスは、その「垂直(おしつけ)性」を振り払っていったのだが、介護事業所としての「水平(よこならび)性」に巻き込まれていった、とも言えるかもしれない。

その中で、障害者就労で公務員のようなホワイト企業に働きたい若手障害者は、平準化されたCILという事業所に魅力を感じず、特例子会社の方がより魅力的に感じる、という実態が生じている。

そうであるならば、何らかの形での「斜め」性を取り戻せるかが、21世紀の障害者運動に求められているのかも、しれない。動員や黙って従え的な「垂直(おしつけ)性」はもっての他である。でも、単なる事業所であれば平板化という「水平(よこならび)性」」になる。そうではなくて、「先行世代の研究の成果が垂直的に引き継がれていく」という形で、障害者運動の世代間継承がどうなされていくのか、そこから新たな障害者運動に関する当事者研究が生まれていくのか、という問いが浮かんでくる。

このように、この『斜め論』は、これからのケアや社会運動のあり方を考える上でも重要な補助線になる1冊だと感じた。

追記:おしつけとよこならびを越えるためには、リーダーではなく、ファシリテーターが時としてその場に必要だとも思う。垂直的な抑圧に対しては、「それは違う」と異議申し立てをするが、水平的な平準化にも抗するために、多様な声をそのものとして拾うファシリテーター。そういう存在が、斜めの関係を担保する上でも、大切だと思う。これは、対等な話し合いの場を構成する上でも、鍵となる存在だと思うし、松本さんは語っていなかったが、オープンダイアローグを機能させる上での鍵でもあるとも思う。

重荷を背負うバトン

公私ともに大変お世話になり、めちゃくちゃ学ばせて頂いている勅使川原真衣さん(てっしーさん)から、またもや新刊を頂いた。彼女の本は、次々に出るが、今回の本も僕にとって大きな滋養になる一冊である。今回もガツンとやられた。

「『成功』をいかに定義し、希求しようとも、それが個人主義的な人間観に基づき、またその能力や資質のある者、努力する体力と時間のある者の選抜を前提とする限りにおいて、『成功』はごく一部の限られた人だけが豊かに生きられる、ライフハック術になってしまう様を見てきた。
私が考えているのは、個人が『成功』なんてしなくったって、ないしは、『失敗』してしまっても、皆が心穏やかに生を全うできるシステムである。そう、社会システムの『成功』を希求している。そのために、耳には心地がいいが、実際は個人に対して選別的で排他的な概念には目を光らせている。」(勅使川原真衣『人生の「成功」について誰も語ってこなかったこと 仕事にすべてを奪われないために知っておきたい能力主義という社会の仕組み』KADOKAWA p215)

色々な意味において、この文章にガツンとやられている。

まず、僕自身は20年前に大学教員になった時から、ライフハック系の本を100冊以上読んできた。それは、博士論文を書き上げた段階で論文の数が少なく、その後2年間、就職浪人をして50の大学から不採用通知をもらい続けてきたので、30才で常勤職に就いた後に、生産性を上げなければ、と必死になったからだ。言葉を選ばずに言えば、成功する為に努力しなければならない、と必死だった。その意味では、「『成功』はごく一部の限られた人だけが豊かに生きられる、ライフハック術」であると、僕も長らく思い込んでいた。

ただ、スウェーデンに半年住んだり、北欧型の社会民主主義を学ぶ中で、「個人が『成功』なんてしなくったって、ないしは、『失敗』してしまっても、皆が心穏やかに生を全うできるシステム」が本当に大切だと、これも20年以上思い続けている。そこに、てっしーさんは、「社会システムの『成功』を希求している」と書いてくれた。確かに! 選別的で排他的な個人の成功であれば、1%の成功者になれない99%は、失敗者であり、不幸になってしまう。でも、個々人の成功や失敗に関係なく、皆が心穏やかに生を全うできるシステムこそが、「社会システムの『成功』」だとするならば、それを求めたほうが絶対によい。これは、子育てをし始めてのこの8年ほどの間に、痛感するようになってきた。でも、こうやって言語化してもらえると、心強い。

さらに、「耳には心地がいいが、実際は個人に対して選別的で排他的な概念には目を光らせている」というのは、てっしーさんは流石!である。僕は、これまでも沢山の耳心地のよい言葉にうっかり乗せられてきて、後で反省をすることが多かった。30代は読みまくっていたライフハック系の本の影響で、「無駄を嫌う」「効率至上主義」(p127)が内面化していた。それで「できる男」のフリをしていい気になってきた。でも、それが「個人に対して選別的で排他的な概念」に嵌入していたと気づかされ、この文章を読んでヒリヒリ・イテテ、となった。

他の箇所で、「耳には心地がいいが、個人に対して選別的で排他的な概念」を問い直す部分も引用してみよう。

ノーブルかどうかではなく、単に運にちがいがある私たちなのだから、幸運な者は不幸の者の重荷の一部を背負いましょうよと。
 強運な人と不運な人
 恵まれている人と残念な人
というのは、場面場面の話ではあるが、確かにある。しかしこれは、本人の努力とか才能の話だけではない。歴然とした差があっても、これはまったくもって偶然性によるものだ。
 まぐれを本人が総取りしていいわけがない。ラッキーパンチはあなたの所有物ではないのだから。
 だから思う。不運な人を強運な人が手伝う。金銭的だったり、時間を共にすることだったり、方法はいろいろある。決して『高貴なる者による施し』ではないのだ。」(p192-193)

これは「ノブレス・オブリージュ」に対する強烈な問い直しである。

ノーブルかどうかではなく、単に運にちがいがある私たちなのだから、幸運な者は不幸の者の重荷の一部を背負いましょうよ」というのは、なんとも爽快で、気持ちの良い提言だろう! そして、「王様は裸だ!」のような、ほんまの話を射貫いている。

「強運な人と不運な人」とか「恵まれている人と残念な人」な二分法って、「強運」&「恵まれている」カテゴリーにある人ほど、自分が努力した賜物だと思い込みやすい。頑張って努力したリターンなのであって、結果の平等を保障されたら、頑張って努力した人が報われないではないか!という主張をしばしば耳にする。だが、能力主義を教育社会学の視点から徹底的に問い直してきた&組織開発の現場で様々な人の運不運な人生を見続けてきたてっしーさんは、「歴然とした差があっても、これはまったくもって偶然性によるものだ」と喝破する。

だからこそ、「まぐれを本人が総取りしていいわけがない」と一刀両断するのである。1%の成功者は99%の失敗者の富も含めて総取りしてよい、というのは、アメリカ流の強欲資本主義の考え方だが、それは「まぐれによる総取り」にあたる、とまで言われると、胸がすく思いがする。

その上で、たまたま強運だったり恵まれている状態にある人は、「社会の成功」に導くために、積極的に働きかけようよ、と提案している。それが「不運な人を強運な人が手伝う。金銭的だったり、時間を共にすることだったり、方法はいろいろある」という部分だ。これも、僕自身にとって、イテテの内容である。

僕自身は、気がつけば大学教授の仕事をし、本も何冊か書かせてもらい、娘や妻と楽しく暮らしている。これは、まさに強運であり、恵まれている状況である。この現在の自分自身の状況を、「持てる者」として認識していたか、というと、中身は30代のガツガツした「もっと、もっと!」とか「成功しなければ」という強迫観念の残りカスのようなものが、まだくすぶっていたと最近気づく。それが、僕自身の葛藤の最大化につながっているのは、昨日のブログにも書いたとおりである。「幸運な者は不幸の者の重荷の一部を背負いましょうよ」というんは、文字通り僕自身が向き合う必要の課題を、ピンポイントで指摘して下さっているのである。なんとも、ありがたいことか!

その上で、本書の「成功」は、「成長」ではなく、「成熟」であるとも喝破している。

「自身の限界を知ること。時に失望すること。それら『失敗』も含めて『成熟』だと私は思う。本書が言わんとしていることは、『成功』とは何か、であるが、私の解釈は徹頭徹尾、世に言う『成長』ではなく、後退や退化、らせん状に旋回してしまうことなども含めた『成熟』である。
そしてその『成熟』に、他者比較及び競争は要らない。『成長』はなぜらせんを描かず単線的で直線的なのかと言えば、量的拡大と速さを競っているからである。」(p258)

勅使川原真衣さんの書く文章は、基本的にめちゃくちゃ読みやすいし、それはこの本もそうである。でも、ブログのために、彼女の文章を書き写しながらいつも感じるのは、一つ一つの文章が選び抜かれた言葉に基づいている、という点である。

本書の最大の批判は、「『成長』はなぜらせんを描かず単線的で直線的なのかと言えば、量的拡大と速さを競っているから」という部分である。「もっと、もっと!」という「成長」は量的拡大と速さを競うという意味において、単線的で直線的なものである。それは、偏差値とか長者番付に代表されるように、ある指標で人を序列化することが出来る。どこの大学に入った、とか、金をいくら持っているか、で、人々を格付けし、より多くをもらい、より「良い大学」に入るための競争を煽っていく。少子化の現在における中学受験の過熱化の背景にも、「量的拡大と速さを競っている」不安ビジネスが跋扈している。

こんな時代「だからこそ」、他者比較及び競争は要らない「成熟」こそが大切なのだ。

僕は20代の頃から、「らせん階段的な拡大」という表現に憑かれている。同じ所を何度も巡るようで、気づいたら以前とは位相が違う。それは、正比例的な成長ではなくて、同じようなプロセスを何度か巡りながら、内側に深く深く掘り抜いていく、という意味で、「成熟」に近いような気がしてきた。

50才を迎えた今年、「「自身の限界を知ること。時に失望すること。それら『失敗』」にも、沢山出会っている。何というか、自分自身のポンコツさ加減にあきれ果て、嫌になることもある。でも、それも含めて「成熟」への道なのだと気づかされると、てっしーさんに応援してもらった気分になる。だからこそ、「幸運な者は不幸の者の重荷の一部を背負いましょうよ」というのは、僕自身が「取れる責任」だと改めて感じる。それは、僕が不幸や不運、残念な状態であったとき、幸福で強運な人々に、沢山助けてもらってきたし、重荷を代わりに担いで引っ張り上げてもらった歴史と重なる。

今度は重荷を背負う側のバトンが回ってきた。その覚悟をもって、若い人たちと協働し、共に創り上げる共創を目指すこと。これが「社会の成功」の鍵だと、本書を読みながら改めて感じた。