二つの「合理性」の衝突

あなたが医療者だとしよう。

病院にてんかん発作で運ばれてきた子どもがいる。その子の親は、外国からの移民で、この国の言葉を理解出来ない。手術や投薬に関する医療同意を取ろうとするも、言葉が伝わらない。医療通訳もいない。それでも何とか合意が出来たと思い、緊急処置後に自宅での服薬指導を再三するのだが、家では全く薬を飲ませていない。発作の度に何度も病院に運ばれてきた際の、血液検査のデータからみても、明らかである。保健師が家に訪問すると、薬がすべて瓶の中に保管されて、飲ませた経緯が見てとれない。その家庭で唯一この国の言葉が話せる移民の子どもに通訳してもらうと、「薬は子どもに有害なので飲ませない」と親は言っているようだ。そこで、医師と保健師は、親は不適切なケアをしており、養育義務を果たしていないから、と虐待通報機関に通告し、子どもを一時保護する・・・。

このような家庭の親が、非倫理的(non ethical)ではなく、「異倫理的(diffeently ethical)であり(p309)、「デカルト主義ではない」(p313)という視点から、この移民の文化的背景を探っていくのが、今日ご紹介する『精霊に捕まって倒れる:医療者とモン族の患者、二つの文化の衝突』(アン・ファディマン著、みすず書房)である。この本の原題は”The Spirit Cathes You and You Fall Down: A Hmong Child, Her American Doctors, and the Collision of Two cultures”である。原題はそのままで良いのだが、副題は本来、「モン族の子どもと、彼女を治療するアメリカ人医師達、および二つの文化の衝突」である。

著者のアンさんが取材したのは、カリフォルニアに移民してきたモン族で、アメリカで出生した、てんかん発作をするリアという少女を巡る物語である。彼女が発作で運ばれてくる度に、地元病院のアメリカ人医師達が誠実に治療しようとする。しかし、このアメリカ人達は西洋合理性に支配されたデカルト主義者であり、生物医学を前提としている。一方、モン族の親やコミュニティの人たちは、てんかん発作を「精霊に捕まって倒れる」と解釈している。何ならシャーマンの気質があるとも見なしている。だから、お祈りや厄除け儀式の方が、薬より大切だというのである。これは、「デカルト主義ではない」文化をもつ人々の、非倫理的(non ethical)ではなく、「異倫理的(diffeently ethical)な対応なのだ。それが、まさにアメリカ文化との「衝突」なのである。

この本が非常に秀逸なのは、作家でエッセイストのアンさんは、カリフォルニアに移り住んで、リアの両親のフォアやナオカオだけでなく、その親戚やモン族コミュニティの様々な人々にインタビューを行い、アメリカ人にとって「他者の合理性」であるモン族人の論理を徹底的にあぶり出している点である。その一方で、バレー子ども病院やMCMCでリリアやその家族に向き合ったアメリカ人医師達にもインタビューを行い、家族の同意に基づいて本人のカルテや裁判所の法廷記録、保健所や児童保護サービスの記録なども読み込んでいる。その骨太なインタビューに基づくと、医療人類学者アーサー・クライマンのいう8つの問いに対して、モン族にとっての答えを以下のように整理する(p332-333)。

1 この問題をなんと呼んでいますか?
→<カウダベ>。精霊に捕まって倒れる、という意味。

2 この問題の原因はなんだと思いますか?
→魂の喪失(ソウル・ロス)。

3 そうなったのはなぜだと思いますか?
→リアの妹のヤーがドアをバタンと閉めてしまい、リアの魂がびっくりして身体の外へ抜け出してしまったから。

4 この病気はなにをすると思いますか? どんなふうになりますか?
→リアがけいれんを起こして倒れる。<ダ>という精霊がリアを捕まえているからそうなる。

5 この病気はどのくらい重いですか? すぐ治るものですか、それとも長引きますか?
→どうしてそんなことを尋ねるのか? 医者ならわかるはず。

6 患者はどんな治療を受けるべきだと思いますか? その治療を受けることでどうなれば一番いいと思いますか。
→リアに薬を与えるのは一週間まで。調子がよくなれば薬をやめるべき。血を採ったり、脊柱から髄液をとったりしないでほしい。モン族の伝統医療、豚や鶏の生け贄、家での治療も必要。リアには健康になってほしいけど、二度とけいれんが起きないようにしてやりたいかどうかは、よくわからない。わたしらの文化では、これはリアを気高くさせるものだし、リアが大きくなったら<チネン>(シャーマン)になるかもしれないから。

7 この病気のせいでおもにどんな問題がありますか?
→傷ついたリアを見るのがつらくて、ついヤーに腹を立ててしまう。

8 この病気で一番恐れていることはなんですか?
→リアの魂が二度と戻らなくなること。

モン族が「異倫理的(diffeently ethical)であり、「デカルト主義ではない」と著者が主張するのは、モン族の人々が、リアのてんかんに対して、別の倫理観に基づき、別の伝統医学的解決策を行使してきたからである。それが西洋合理性と全く対立していても、モン族の合理性には体系化された一貫性があるのである。ゆえに、著者に尋ねられたクライマンは以下のように答えている。

「まず、その『コンプライアンス』という言い方をやめることです。まったく嫌な言葉ですよ。倫理的支配をほのめかすものです。必要なのは上からの命令でなく、対話です。二つ目に、強制モデルではなく、調停モデルを考えること。モン族コミュニティの誰か、あるいは医療人類学の専門家を探して、話し合いに協力してもらうのです。調停の場では、離婚調停と同じように双方の歩み寄りが必要なことは言うまでもありません。これだけは、ということさえ決まれば、ほかの一切で妥協をいとわないことです。三つ目に、モン族の患者と家族がこのケースに及ぼしている影響が大きいのと同じように、生物医学という文化の影響もまた、大きいことを理解する必要があります。自分たちの側にも独自の関心、感情、先入観がひととおりあることを理解できなくて、いったいどうやってほかの文化にうまく対応できるでしょうか」(p334)

本書を読みとおすと、クライマンの指摘はあまりに真っ当であることがわかる。

まず、①コンプライアンス(倫理的支配)ではなく対話を、という点について。そもそもある法律なり医療枠組みを遵守することを強制するのは、特定の文化的価値を共有しているからである。ラオスの内戦において、アメリカ軍やCIAの手先として戦闘したがゆえでに、ラオスを追われ、タイの難民キャンプを経てアメリカに逃げてきたモン族の人たちは、あくまでもモン族的な暮らしをしたいのだ。アメリカに同化したいのではなく、モン族として暮らすために(異化状態のまま)アメリカに滞在しているのである。であれば、「郷に入っては郷に従う」というコンプライアンスを強制する前に、まずは対話をする必要がある。

それは、②強制ではなく調停、ということである。離婚調停の例が非常に象徴的であるように、決定的にわかり合えない、完全同意や一致をすることのない、深い溝が二つの文化の間にある。そのときに、「これだけは、ということさえ決まれば、ほかの一切で妥協をいとわないこと」が両者に求められる。これは、アメリカ人医師達の通常のコンプライアンスを揺さぶるが、異文化の治療をする際には、必要不可欠なのである。

そして、③アメリカ人を支配している「生物医学」も一つの文化である、という認識を持つ重要性をクライマンは指摘している。これはイタリアで精神病院廃絶の道を開いた医師、フランコ・バザーリアが、「病気」ではなく「生きる苦悩」を重視せよ、と語ったことと軌を一にする。生物医学では精神病やてんかんを生物学的な器質的疾患だと捉え、それを治療するために神経作用に伝わる投薬や外科的処置をしようとする。しかし、精神疾患に至る背景には最大化した「生きる苦悩」がある。また、てんかんをモン族的に解釈するなら、それは「精霊に捕まって倒れる」という合理性がある。その相手の合理性を理解することなく、デカルト主義に基づいた医師の「生物医学」的価値観が「倫理的支配」をしていると、患者やその家族との対話可能性や調停の可能性が極端になくなってしまう。そうクライマンが指摘しているのだ。

すると、これまで僕が考えてきた、福祉現場における「他者の合理性の連鎖と蓄積」の話とも一致する。リアの親は、育児放棄やネグレクトをしているのではない。「異倫理的」な立場から、薬草や生け贄、<チネン>による祈祷など、最大限の対処をしているのである。だが、そのことを、アメリカ人医師達が全く理解しようとせず、先ほどのクライマンの8つの質問の一つさえ尋ねようとせず、医療者の聴きたいことだけを聞き、医療者の話したいことだけを話し、それをモン族の人々が理解出来ない場合は「無能力者」とラベルを突きつけたのである。その最たるものが、リアの主治医が保健所と児童保護サービスに送った、以下の所見である。

「投薬に関する親の遵守(コンプライアンス)が乏しいため、本件は明らかに児童虐待、具体的には育児放棄(ネグレクト)の領域に入るだろう。・・・なんらかのかたちで服薬計画の遵守と子どもの発作性障害のコントロールがなされないかぎり、この子は、てんかん重責状態に陥る危険にさらされており、不可逆的な脳損傷と、場合によっては死に至りかねない。私見ではあるが、投薬遵守が確保されるよう、この子は里親に委託すべきだ。」(p73)

恐ろしいのは、この所見は、なぜ投薬遵守をしないのかについての保護者の主張を全く聞かず、デカルト主義の医者の生物医学的合理性のみで構成されている。しかも、その合理性があれば、アメリカにおいては、親からリアは強制的に奪い去られ、里親に託され、親は半狂乱の日々を過ごすことになったのだ。一体それのなにがどのように、コンプライアンスと言えるのか? 文化間対立をした際の、コンプライアンスとは独善の可能性がないか? そうではなくて、対話に基づく調停とは何か? この本は、様々な問いを差し出す。

そして、この本を読みながら、モン族、というのを、精神疾患や自傷他害、薬物依存、ゴミ屋敷、など僕が見聞きしている「困難事例」「問題行動」にも重ねてみたくなる。デカルト主義以外の、「異倫理的」な現実において、本書は非常に示唆に富んでいる、と改めて感じるのだ。

読み応えのある1冊です

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。