読み始めたら圧倒的な迫力で、著者渾身のメッセージがビシバシ伝わってきたのが、毛利真弓さんの『刑務所に回復共同体をつくる』(青土社)である。彼女は日本ではじめて官民協働の刑務所での回復共同体(Therapeutic Community: TC)の立ち上げ支援をした心理専門職である。
このTCについては、坂上香さんによって『プリズン・サークル』として映画化されたので、ご存じの方も多いだろう。僕もコロナ下でオンラインで観てブログを書き、坂上さんの著作もブログで取り上げた。昨年1月には岡山の上映会でもう一度見て、坂上さんとも対談させて頂いた。その映像の中で、現場で訓練生と向き合う毛利さんの姿は非常に印象的であり、その甲高い声もまだ僕の中で残像として残っている。
ただ、彼女はその後大学教員になったと知っていたので、この経験を活かして研究者に転職されたのだろうと思っていた。そして、彼女の博論を元にした本著を見つけ、読むのを楽しみにしていた。読み始めて、序章からのけぞった。なぜなら、彼女は自発的に辞めたのではなく、TC現場に「出入禁止」!となったと書かれていたからだ。
「極めつきは、受刑者の前で刑務官に意見を述べた民間スタッフが次々と現場出入禁止になったことである。出入禁止を命じるのではなく、あくまで民間側が自分たちの判断で自粛したという形にさせるというのも嫌な感じが残った。実は私も、その出入禁止になった一人である。そして一年半後、現場には戻してもらえずそのまま退職した。ものを言えない雰囲気が作られていき、みんなが叱られないように頭を低くし、忖度して目立ったことをしないようにし始める。
それは、私がアミティで体験し、作りたいと思ったものとは真逆の場であった。刑務所で対話の場を作ることは、ある意味最も対等な対話が難しい場所で対話の場を作るという、非常に困難な、いわゆる『無理ゲー』への挑戦に近かったと思う。」(p14-15)
これを読んで、正直なところ、やっぱりそうだったか、とも思った。
僕は以前、オープンダイアローグが日本に広まった初期の頃、「精神病院の中でのダイアローグは無理だ」と東大講堂で言い放って、物議を醸したことがある。精神病院においては患者と医療者の非対称性が強く、「縛る・閉じ込める・薬漬けにする」ことが可能な病院のなかで、「利用者と対等に話しましょう」なんて簡単なことではないと思っていた。患者を治せない病院では、職員や病棟組織にもトラウマ状態が連鎖する「トラウマの並行プロセス」に置かれるからである。そして、こないだ矢原さんが書かれた本を読んで、刑務所内でもまず必要なのは職員同士の対話なのだと思った。そして今回毛利さんの本を読んで再度気づかされたのは、刑務所内での対話不全な組織環境の構造的問題である。その歪みが最も弱い部分で最大化され、毛利さんも「出入禁止」となったのだ、と。
「刑務所の組織は男性社会で、弱音を吐くことが許されないのは当然のこと、努力したことをほめてもらえる機会はほとんどなく、1つの失敗は単なる失敗と受け止められ叱られる。そしてそれらの評価は即、職務配置(どの部署でどんな仕事をするのか)に反映され、自分がどう評価されているかが自他に瞭然になる。大きなヒエラルキーの中にいて、下の者が上の者に物を言うなど許容されない。何より、彼らにも刑務官人生の中で傷ついたり失敗したりして自分なりに処遇スタイルを確立してきたというプライドがある。そんなところに、官民協働だかなんだか知らないが法務省の方針というお墨付きを得た民間の支援員達がポッと現れたら、自分たちのパラダイムを変えられるのではないかという脅威を感じるのも当然だろう。専門資格を持っているという支援員が新しい刑務所についての処遇理論や理念を話していたら、自分たちのこれまでの処遇を否定されるような思いを抱いたかもしれない。そのおそれは、変わることへのおそれと、変わることはこれまでの自分たちを否定することと同義だと誤解してのおそれだ。当の刑務官達は『おそれなんか抱いていなかった』と言うかもしれない。でも本当におそれを抱いていなければ執拗にたたきに来たり、いちいちマウントを取りに来たりする必要などなかったはずだ。本当に力のある人たちは『俺は偉い、お前はだめだ』と言って優位性を保とうとしたりしない。」(p244-245)
書き写していても、彼女の文章の気迫を感じる。彼女が刑務所という構造から排除されざるを得なかった(=出入禁止になった)背景論理や、マウント被害にあった現実に肉薄していく。そして、彼女の書いていることに、思い当たることがありまくる。それはぼく自身も、毛利さんほどではないが、批判の矢面に立ったことがあるからだ。
クローズアップ現代という番組で病院での身体拘束の問題がテーマになった際、ゲスト出演した。身体拘束に批判的なコメントをした後、ツイッターでは軽い炎上状態になり、「自分たちはこんなに頑張っているのに、あいつの発言は理想論だ」「現場をわかっていない」「おまえがやってみろ」と罵詈雑言を浴びせられた(これもブログに書いた)。四半世紀前、大学院生の頃、生まれて初めて担当した非常勤の授業で、「身体拘束やミキサー食は人権侵害だ」と述べた後、精神病院で夜勤をしている准看護師達から強烈に反発を喰らったのも同じ構造である。どちらも、毛利さんの言葉を用いるなら、「変わることへのおそれと、変わることはこれまでの自分たちを否定することと同義だと誤解してのおそれ」なのである。そして、現状肯定にはこのような「おそれ」がつきまとう。
「変わることはこれまでの自分たちを否定すること」というのは、学生たちと話していても感じることだ。授業で能力主義の構造的問題を議論していると、「それは受け入れがたい」という学生に出くわす。なぜかと深掘りしてみると、能力主義の「批判」は、自分自身の受験勉強の「否定」に思えるからだ、と。だから、最近では授業の冒頭で、「批判」と「否定・非難」の違いを必ず述べるようにしている。ぼく自身は存在や経験を「否定や非難」したいのではない。そうではなくて、現状とは違う、よりましな、別の可能性を探りたくて「建設的批判」をしているのだ、と。(これは僕のオリジナルではなく、人類学者のグレーバーが「別の可能性も想像できる」という意味で「批判的」と使っているのを真似ている。)
ただ、その現場「しか知らない」人は、しばしば「別の可能性」が想像できない。そのようなインプット経験もない。しかも知っている現場が、「弱音を吐くことが許されない」「下の者が上の者に物を言うなど許容されない」マッチョで懲罰的な究極の縦型組織だったら、どうなるだろう。すると、刑務官自身も心を落ち着けて働けず、ビクビクおびえながら仕事を続けるようになる。ちょうど新聞記事にもなったが「仕事にやりがいはない」と感じる刑務官だって増えていくはずだ。
先ほどの引用の直後に、毛利さんはこうも書いている。
「非常に感情を消費する仕事であるうえに、こうして何も迷いのないふりをして堂々としていることを求められるのは、心に強い負荷がかかるのだと感じた。傷付きを負った対象者を扱うことで自身も傷つく二次被害と、彼ら自身の傷つきの双方があるにもかかわらず誰にも扱われない、『トラウマを受けた組織の影響を受けている人たち』という言葉が頭に浮かんだ。」(p245)
これも精神病院と共通している。本来、病院は通過施設であり、治療をし回復すれば地域に戻すことが求められている。だが、現実の精神病院の多くが、長期に社会的に入院させ続けてきた。実際に病院に長期間入院させることによって「施設病」状態になっても、入院させ続けるしかないと思い込んで、抱え込んできた。「家族丸抱えか施設丸投げ」の二項択一構造に国自身も加担してきた。地域の中で精神障害のある人の回復を支える支援は日本の中でもあちこち芽生えているのに、厚労省は脱・精神病院やコミュニティメンタルヘルス推進に向けた政策誘導する仕組み作りは、本当にずっと放置されてきた。
厚労省と同様の放置が、法務省でもあったのだと、毛利さんの論考を読んでいて感じた。本来、刑務所も通過施設であり、受刑者を再犯しないように更生させて地域に戻すことが求められている。でも、秩序を護ることのみが重視され、受刑者の更生についても、「反省の色が見えない」(p285)などのパターナリスティックで主観的・情緒的判断が主になっている。毛利さんもこの言葉を言われて出入禁止が継続したので、この主観的評価は職員相手にもなされている。ということは、これはろくでもない刑務官個人とか、良くない個々の刑務所組織、といった単独の問題ではない。日本の矯正行政において、どのように受刑者の傷付きや生育歴に向き合うか、その上でいかにして受刑者の生き直しを支援するか、というアプローチを全く取ってこなかった。そういう組織風土が醸成されてきたのであり、それを温存していた法務省の政策的瑕疵なのである。
だからこそ、遅まきながら刑法改正に伴い、2025年7月から拘禁刑を導入し、対話実践なども入れようと、刑務所改革が始まっている。その中で、どういう方向性を目指せば、受刑者の更生可能性があるのか。それについても、本書の中でふんだんに触れられている。
まず、犯罪についての私たちの認識を改める必要があると毛利さんは述べる。
「犯罪をする人全員に当てはまることではないが、犯罪行動は、自分のしんどさを抱えられずに外(誰かもしくは何か)に解決を求める行為である。したがって、まずは、言葉にする前のしんどさを抱える力を伸ばすところからだった。もちろん抱えることができても、今度は握りしめていたものを手放すこと(語ること)も難しい。そしてそれが難しいのは、罪を犯した人たちだけではなかった。」(p13)
もしかしたら正義漢の強い人にはこの表記だけでも許せないかもしれない。犯罪者を甘やかしている視点ではないか、と。誤解なきように付け加えたいが、毛利さんは犯罪を正当化するためにこのような論理を述べているのではない。そうではなくて、犯罪行動とは何か、なぜ・どのように生じるのか、というパターンや構造を理解し、個々の受刑者がそこに陥った背景構造も理解した上で、そのことに向き合わない限り、ほんまもんの意味での再犯防止には繋がらない、という非常にロジカルな視点である。薬物依存領域で「ダメ、ゼッタイ」がダメなのと同じように、厳罰主義では何も変わらないのである。
では回復共同体は受刑者達を甘やかしているのか? 実際のやりとりを見ていると、単なる刑務作業より、ある意味かなりキツいやりとりが行われていた。
「個人としても、社会にいれば『あいつは嫌い』と言って口もきかなかった存在と話をする貴重な経験ができる。実際にTCの訓練生から他人の悪口を聞くことも多かったが、『嫌っているのはあなたの心で相手のせいじゃないですよ。なんで嫌いか考えてみてください』と言うと、偉そうだった父親を思い出すとか、いい顔ばっかりしているのが嫌いだったが自分も周囲に評価されたい気持ちが強いのにそれを認めていないだけだったなどと考え、結局は自分の問題だったと気づく。TCは『方法としてのコミュニティ』とも言われるが、コミュニティ内でリアルタイムに起こるいざこざを通して、自分を知り、他人を知り、感情と行動をコントロールしつつ、適切に自分の考えや気持ちを相手に伝える方法を学ぶことに重きを置いている。」(p153)
僕にもあなたにも、「嫌いな奴」はいるだろう。そして、大体「あいつは嫌い」というとき、あいつのどこが嫌いなのか、と相手に矢印が向いているだろう。でもTCでは、「嫌っているのはあなたの心で相手のせいじゃないですよ。なんで嫌いか考えてみてください」と矢印が相手ではなく、自分に向けられる。しかも「コミュニティ内でリアルタイムに起こるいざこざ」を元にして、そこから自分自身を見つめ直す作業をさせるのである。これはめちゃくちゃキツいことだ。そしてこの見つめ直しは、先ほど引用した「言葉にする前のしんどさを抱える力を伸ばす」ことや、「握りしめていたものを手放すこと(語ること)」につながる。さらに言うと、こういう「しんどさを抱えること」や「握りしめていたものを手放すこと」が不得意なのは、受刑者に限らない。専門職や一般人、あなたも私も、みんなこれに慣れていない。回復共同体(TC)では、訓練生だけでなく、ワークを行うスタッフ達にも、この力が問われていた。そういう意味では、支援者が訓練生を教え導く、のではなく、共に自分を見つめ直し、相手に伝え合うコミュニティが徐々に形成されていったのだと、読んでいて感じた。
また、日本の刑務所TCが参考にしたアメリカのアミティの教材では、こんなことも述べられていた。
「自分自身をかわいそうと思うこと(自己憐憫)と、心から後悔することは違います。多くの人にとって、これを区別するのは難しいことです。あなたが本当に変化しようと思うならこの区別を正しくすることが非常に大切です。
自己憐憫は逃げようのない罠になりますが、心から後悔することは、それができるなら自由と解放につながります。
多くの人が心からの後悔のサイクルの途中でひっかかり、後悔が自己憐憫へと麻痺し、ついには自己破滅、恨み、自己破壊的行動を育んでいるのです。
あなたが自分自身をかわいそうと感じたときのことを思い出してください。」(p190)
これも結構キツいワークである。
受刑者が出所後再犯するプロセスの中には、「後悔が自己憐憫へと麻痺し、ついには自己破滅、恨み、自己破壊的行動を育んでいる」部分が多分にあるだろう。「自分はかわいそうなんだんから○○しても許されるだろう」というのは、その認識枠組みを一度持つと「逃げようのない罠」になる。自分はかわいそうなんだから悪くない、というパターンもあり得る。犯した犯罪に対しての「心からの後悔」は、矢印が自分に向くしんどい作業である。自分や他人を深く傷つけた言動を振り返り、それと向き合うのは、先ほどと同じで徹底的に自分の心と向き合うことである。刑務作業をしていても、あるいは独房に閉じ込められたり、刑務官から説教されていても、「心からの後悔」は生まれない。後悔と自己憐憫の違いを考えるワークに向き合わないと、こういう感情は生まれてこないのだ。
「少なくともこれからの人生を自分でコントロールできる、自分次第だと思えた人は、強い。もちろん自分のしたことを忘れてはいけないが、これからの人生では、被害者でも加害者でもなく、犯罪者でも前科者でもなく、一人の人として自他を傷つけない生き方を選ぼうとすることができるようになる。罪を犯した人生からの回復にまず必要なのは、被害者の痛みを知らせることや、刑務所でしんどい思いをさせて事件の重大さを痛感させることではない。学習と成長の場と、自分の人生の主導権を取り戻す機会だ。自己憐憫を引きずったまま主導権を取り戻せなければ、『自分が』被害者に傷を与えたという本当の意味での責任は自覚できない。」(p193)
日本の刑務所で回復共同体を手探りの中から作り上げてきた第一人者の毛利さんだからこそ、「罪を犯した人生からの回復にまず必要なのは、被害者の痛みを知らせることや、刑務所でしんどい思いをさせて事件の重大さを痛感させることではない」と断言する。これは非常に重要なことである。懲罰は再犯防止に直接的な効果がないとはっきり述べている。その上で、自己憐憫に引きずられることなく、「学習と成長の場と、自分の人生の主導権を取り戻す機会」が作れるかどうか、が回復可能性や心からの後悔につながると述べる。それが犯罪からの「自由と解放」につながるのだ、と。
そして、これは刑務所で働く刑務官にも、同じ事が言えるだろうし、むしろそういう職場に変わっていく必要があると、本書を読んで痛感した。マッチョで上意下達で上司の命令はゼッタイな組織であれば、そこで働く個々人の刑務官の「学習と成長の場と、自分の人生の主導権を取り戻す機会」がない。そんな現場では、受刑者に対しても、同じように上意下達でマッチョで懲罰的な言動が繰り返される。これがトラウマの並行プロセスである。だからこそ、先進他国で常識とされているダイナミックセキュリティ(動的保安:刑務官と受刑者との信頼関係の構築、積極的な処遇の展開が、刑務所の保安にとっても大きな役割を果たすことができるという考え方)を、刑務所組織で学び、その風土を取り入れていくために、矯正職員自身が成長する機会を取り戻すことが大切だ。それを通じて、刑務官ひとりひとりが、まずは自分自身の「声」を取り戻せるかが鍵なのだろうと、この本を読んでいて感じた。
最後に、素敵なフレーズを引用しておく。
「また、是非自分のことを語る経験もしてほしい。私たちは皆、何かしらの当事者性を持っている。そして以外と、人に自分のことをじっくり聞いてもらう機会はない。話してみると、思いもよらぬ傷を思い出したり、傷つけられて二度と回復しないと思っていたしこりが変化したり、これが自分だと思っていたものが違っていたことに気づいたりするかもしれない。ぜひ、発見を楽しんでいただきたい。」(p352)
回復共同体の魅力をぎゅっと凝縮したフレーズである。また拘禁刑の導入と共に刑務所に導入されることになった「対話実践」のコアでもある。対話をしたからと言って、すぐに改善や更生、社会復帰が出来るのではない。でも、「人に自分のことをじっくり聞いてもらう機会はない」のは、受刑者だけでなく、刑務官も同じである。精神病患者だけでなく、精神病院で働くスタッフも同じである。まず支援する側が、「人に自分のことをじっくり聞いてもらう機会」を持たないと、他者の話をじっくり聞くことはできない。そして、「じっくり聞いてもらう」なかで、「思いもよらぬ傷を思い出したり、傷つけられて二度と回復しないと思っていたしこりが変化したり、これが自分だと思っていたものが違っていたことに気づいたり」という「発見を楽」めないと、他者とも対話ができない。
刑務所や精神病院だけでなく、入所施設や老人病棟、児童養護施設など、社会学者ゴッフマンが「全制的施設(total institution)」と述べた全ての場で真っ先に必要とされているのは、そこで働く支援スタッフの人々が、「人に自分のことをじっくり聞いてもらう機会」を作ることである。こうやって支援スタッフの「学びと成長」を保証し、彼ら彼女らが自らの人生の主導権を取り戻せる場でに変わることでしか、トラウマの並行プロセスを逃れる可能性はない。