「しているふう」「しぐさ」を問う

世の中でカシコイ人、というと、どういう人を思い浮かべるだろう? 早口で、エビデンスやセオリーなどの数字とカタカナ語を述べまくって、反論する相手を「はい、論破」とか、「それってあなたの感想ですよね」と潰しにかかる、あの手の人の事を思い浮かべないだろうか? これはテレビタレントだけでなく、研究者の世界にも、一定数いて、面倒くさい。

で、今日ご紹介する勅使川原真衣さんは、そういうカシコサとは別の位相・次元で聡明な人だと感じる。

「『覚悟』のような、強固そうな響きがあれど、中身はあいまいなことばで過去を振り返った気になる場面こそ、本筋から目を逸らしているのではないか。そう思ってみると、皮肉なもので、『覚悟』論を振りかざすときほど、揺らぐ情動、合理的な説明のつかなさ、概して『弱さ』『怖れ』のようなものから逃げ惑う様相が目に浮かぶ。」(勅使川原真衣著『格差の“格”ってなんですか? 無自覚な能力主義と特権性』朝日出版社、p99)

彼女の語り口は非常にソフトで、小難しい言葉や概念はめっちゃ知っているけど、ほとんど使わない。そして、カシコイ男子がしばしば無視する・なかったことにする・言及しない『弱さ』『怖れ』といった「情動」の揺らぎに目を向ける。いくら強がって「覚悟が足りない!」とか述べたところで、それは合理性がありますか? 「本筋から目を逸らしているのではないか」と。

あるいは別の所ではこんな風にも述べる。

「周りと同じことをするとは、『よりうまくやる』『より効率よくやる』といった軸の競争に自ら飛び込むことになるのだ。それも、私たちが今しがた生きるのは、分け合いの原資自体を拡げられていない社会だ。拡がらないパイに人が殺到するとなれば、当然、奪い合う方向になる。奪い合いとは、競争に勤しむことに他ならない。その地獄絵図は、どう考えても若者が望む『安心』とは真逆であろう。」(p79)

冒頭から述べているカシコイ男子って、「『よりうまくやる』『より効率よくやる』といった軸の競争に自ら飛び込む」競争の勝者である。株やストックオプションで儲けた、とか、そういうことを勝ち誇る、「奪い合い」の勝者である。だからこそ、自分が勝ち続けてきたゲームのルールを変える気は毛頭ないし、その奪い合いを批判する人々に向かって「負け犬の遠吠えだ」とピシャリと反論した気になる。

でも、勅使川原さんの批判は、位相が違う。この「拡がらないパイに人が殺到」する「奪い合いの社会」自体がおかしい、それは「若者が望む『安心』とは真逆」だと指摘している。『よりうまくやる』『より効率よくやる』ことが称揚されている前提である、「周りと同じことをする」ことに、本当に価値がありますか?と。ボルタンスキーの『批判について』を借用するなら、カシコイ男子達は、ゲームのルールの勝者として、「はい、論破」とか、「それってあなたの感想ですよね」という日常性批判を行っている。でも、勅使川原さんは、このゲームのルール自体がおかしいし、『よりうまくやる』『より効率よくやる』ことが求められる=「周りと同じことをする」こと自体に問いを挟んでいる。ボルタンスキーはそれを「メタ批判」と述べているが、彼女が本書で一貫して問い続けているのは、メタ批判である。しかも、小難しい理論やカタカナ語はもちろん彼女は知っているけど横に置き、あくまでも日常語でメタ批判をするのが、本書を読んでいてしびれる理由である。

「何かを『問題』だと提起するのなら、それをどう植えつけて達成しようか、と躍起になる前に、何がそれを『問題』にしてしまったのか。そこには個人の能力や資質の問題以前に、構造的な闇がないか。そんなことを思いめぐらすことが当たり前になればと思う。」(p59)

本書のテーマである「リスキリング」とか「自己肯定感」「つぶしが利く」「タイパ」「赦す」など、なんとなくよさそう、と思われている言葉を、彼女はじっくりあぶり返す。バッサバッサと切り捨てる、のではないし、「はい、論破」とか、「それってあなたの感想ですよね」とも言わない。そうではなくて、本書を一貫しているのは、「何がそれを『問題』にしてしまったのか。そこには個人の能力や資質の問題以前に、構造的な闇がないか。」という問いである。問題が個人化され、自己責任化されやすいこの社会において、そうやって個人責任に帰することで利益を得ている「構造的な闇がないか」を炙り出そうとしている。あなたが問題ではなくて、「何がそれを『問題』にしてしまったのか」という問題を生み出す構造を、しつこく、粘り強く、でも柔らかな言葉で、問い続ける。このふだん使いのメタ批判が、本当に迫力がある。

「一見とおりのいい言説に出くわしたときは、
・そう説くことで誰かが潤っているのではないか?
・逆に、誰かの発言権は奪われてはいないか?
とねちっこく一考したって何の問題もない(これまた学校は教えてくれないし、企業でも煙たがられる)。」(p82)

そう、こういう問いは、カシコイ男子達は嫌がる。『よりうまくやる』『より効率よくやる』ことで「奪い合い」の勝者になってきた人たちに向けて、そのもっともらしい言説は、あなたをより潤わせ、私の発言権を奪うためになされていませんか? ゲームのルールを強化するだけの発言ではないですか?と問うことは、もっともされたくない問いだからである。だから、勅使川原さんの本は売れているけど、一定数の「奪い合い」の勝者には煙たがられたり、あるいは無視されたりするのだと思う。

「少子化問題を『(経済的)メリット』で語ることは、家族主義の前提を暗黙に了承、内面化している意味で、問題解決しているふうをとる体制側にとっては、誠においしい展開と心得たい。そして本当に未来を構想するならば、いかに皆で子を育て、生き合うか? 家族に閉じないか? という脱家族主義を解題せねばならない。」(p211)

この本の真骨頂は、一見するともっともらしい言説が、じつは「問題解決しているふう」という「しぐさ」を装っているだけで、現状の勝ち組(権力者、金持ち)のシステムに結果的に利する構造である、ということを喝破しているのである。少子化をカネの問題に矮小化してしまえば、選択的夫婦別姓問題とか、家父長制問題には手を付けなくても済むから、支配側にとっては「誠においしい展開」なのである。昭和100年の今年、昭和的なOSを入れ替えたいと思うなら、「いかに皆で子を育て、生き合うか? 家族に閉じないか? という脱家族主義」に向き合わないと社会は回らないのだけれど、それを「カネの問題」に矮小化したいから、103万の壁とか、高校の無料化でお茶を濁したくなるのだ。

本当なら「奪い合う」勝者だった彼女が、なぜ自らの立ち位置の前提を揺るがす発言をし続けるのか。それは、確かに彼女が進行性乳がんになったから、という背景があるのだが、でもそれ以前に、彼女が譲れない一線として抱えている本質的な部分で、彼女の唯一無二性があるのだ。

「でも私は、『ってことですよね?』構文も、切れ味という名の一刀両断しぐさも、自分がされてすごく嫌だった。だから相手の話を最後まで、何なら声にならない部分も含めて聞いてただその場に居る。洗練とは程遠い、謎の『ものわかりの悪いコンサル』であろうと務めてきました。」(p226)

彼女はされて嫌だったことを、ちゃんと「嫌だった」という情動も含めて、記憶している。ぼく自身も「『ってことですよね?』構文も、切れ味という名の一刀両断しぐさも、自分がされてすごく嫌だった」けど、それは僕が愚かだから、と思っていた。また、こういう「構文」や「しぐさ」を、子どもが産まれるまで、ダイアローグを学ぶまで、し続けてきた苦い記憶もある。彼女は洗練された外資系コンサルにいながら、同僚からポンコツだと罵倒されながらも、「『ものわかりの悪いコンサル』であろうと務めてき」たからこそ、もっともらしい「しぐさ」や「構文」から距離が取れたのである。「ものわかりの悪さ」というのは、『よりうまくやる』『より効率よくやる』ことを称揚するこの社会のルール自体を、「ほんまかいな?」と疑い、「個人の能力や資質の問題以前に、構造的な闇がないか」を深く深く掘り下げていく、メタ批判なのでもある。

このあたりについて、もっと色々書きたいが、その話は3月2日に隣町珈琲さんでの勅使川原さんとの対談に取っておきたい。というわけで、よかったらこちらもどうぞ。

トラウマの並行プロセスと回復共同体

読み始めたら圧倒的な迫力で、著者渾身のメッセージがビシバシ伝わってきたのが、毛利真弓さんの『刑務所に回復共同体をつくる』(青土社)である。彼女は日本ではじめて官民協働の刑務所での回復共同体(Therapeutic Community: TC)の立ち上げ支援をした心理専門職である。

このTCについては、坂上香さんによって『プリズン・サークル』として映画化されたので、ご存じの方も多いだろう。僕もコロナ下でオンラインで観てブログを書き、坂上さんの著作もブログで取り上げた。昨年1月には岡山の上映会でもう一度見て、坂上さんとも対談させて頂いた。その映像の中で、現場で訓練生と向き合う毛利さんの姿は非常に印象的であり、その甲高い声もまだ僕の中で残像として残っている。

ただ、彼女はその後大学教員になったと知っていたので、この経験を活かして研究者に転職されたのだろうと思っていた。そして、彼女の博論を元にした本著を見つけ、読むのを楽しみにしていた。読み始めて、序章からのけぞった。なぜなら、彼女は自発的に辞めたのではなく、TC現場に「出入禁止」!となったと書かれていたからだ。

「極めつきは、受刑者の前で刑務官に意見を述べた民間スタッフが次々と現場出入禁止になったことである。出入禁止を命じるのではなく、あくまで民間側が自分たちの判断で自粛したという形にさせるというのも嫌な感じが残った。実は私も、その出入禁止になった一人である。そして一年半後、現場には戻してもらえずそのまま退職した。ものを言えない雰囲気が作られていき、みんなが叱られないように頭を低くし、忖度して目立ったことをしないようにし始める。
それは、私がアミティで体験し、作りたいと思ったものとは真逆の場であった。刑務所で対話の場を作ることは、ある意味最も対等な対話が難しい場所で対話の場を作るという、非常に困難な、いわゆる『無理ゲー』への挑戦に近かったと思う。」(p14-15)

これを読んで、正直なところ、やっぱりそうだったか、とも思った。

僕は以前、オープンダイアローグが日本に広まった初期の頃、「精神病院の中でのダイアローグは無理だ」と東大講堂で言い放って、物議を醸したことがある。精神病院においては患者と医療者の非対称性が強く、「縛る・閉じ込める・薬漬けにする」ことが可能な病院のなかで、「利用者と対等に話しましょう」なんて簡単なことではないと思っていた。患者を治せない病院では、職員や病棟組織にもトラウマ状態が連鎖する「トラウマの並行プロセス」に置かれるからである。そして、こないだ矢原さんが書かれた本を読んで、刑務所内でもまず必要なのは職員同士の対話なのだと思った。そして今回毛利さんの本を読んで再度気づかされたのは、刑務所内での対話不全な組織環境の構造的問題である。その歪みが最も弱い部分で最大化され、毛利さんも「出入禁止」となったのだ、と。

「刑務所の組織は男性社会で、弱音を吐くことが許されないのは当然のこと、努力したことをほめてもらえる機会はほとんどなく、1つの失敗は単なる失敗と受け止められ叱られる。そしてそれらの評価は即、職務配置(どの部署でどんな仕事をするのか)に反映され、自分がどう評価されているかが自他に瞭然になる。大きなヒエラルキーの中にいて、下の者が上の者に物を言うなど許容されない。何より、彼らにも刑務官人生の中で傷ついたり失敗したりして自分なりに処遇スタイルを確立してきたというプライドがある。そんなところに、官民協働だかなんだか知らないが法務省の方針というお墨付きを得た民間の支援員達がポッと現れたら、自分たちのパラダイムを変えられるのではないかという脅威を感じるのも当然だろう。専門資格を持っているという支援員が新しい刑務所についての処遇理論や理念を話していたら、自分たちのこれまでの処遇を否定されるような思いを抱いたかもしれない。そのおそれは、変わることへのおそれと、変わることはこれまでの自分たちを否定することと同義だと誤解してのおそれだ。当の刑務官達は『おそれなんか抱いていなかった』と言うかもしれない。でも本当におそれを抱いていなければ執拗にたたきに来たり、いちいちマウントを取りに来たりする必要などなかったはずだ。本当に力のある人たちは『俺は偉い、お前はだめだ』と言って優位性を保とうとしたりしない。」(p244-245)

書き写していても、彼女の文章の気迫を感じる。彼女が刑務所という構造から排除されざるを得なかった(=出入禁止になった)背景論理や、マウント被害にあった現実に肉薄していく。そして、彼女の書いていることに、思い当たることがありまくる。それはぼく自身も、毛利さんほどではないが、批判の矢面に立ったことがあるからだ。

クローズアップ現代という番組で病院での身体拘束の問題がテーマになった際、ゲスト出演した。身体拘束に批判的なコメントをした後、ツイッターでは軽い炎上状態になり、「自分たちはこんなに頑張っているのに、あいつの発言は理想論だ」「現場をわかっていない」「おまえがやってみろ」と罵詈雑言を浴びせられた(これもブログに書いた)。四半世紀前、大学院生の頃、生まれて初めて担当した非常勤の授業で、「身体拘束やミキサー食は人権侵害だ」と述べた後、精神病院で夜勤をしている准看護師達から強烈に反発を喰らったのも同じ構造である。どちらも、毛利さんの言葉を用いるなら、「変わることへのおそれと、変わることはこれまでの自分たちを否定することと同義だと誤解してのおそれ」なのである。そして、現状肯定にはこのような「おそれ」がつきまとう。

「変わることはこれまでの自分たちを否定すること」というのは、学生たちと話していても感じることだ。授業で能力主義の構造的問題を議論していると、「それは受け入れがたい」という学生に出くわす。なぜかと深掘りしてみると、能力主義の「批判」は、自分自身の受験勉強の「否定」に思えるからだ、と。だから、最近では授業の冒頭で、「批判」と「否定・非難」の違いを必ず述べるようにしている。ぼく自身は存在や経験を「否定や非難」したいのではない。そうではなくて、現状とは違う、よりましな、別の可能性を探りたくて「建設的批判」をしているのだ、と。(これは僕のオリジナルではなく、人類学者のグレーバーが「別の可能性も想像できる」という意味で「批判的」と使っているのを真似ている。)

ただ、その現場「しか知らない」人は、しばしば「別の可能性」が想像できない。そのようなインプット経験もない。しかも知っている現場が、「弱音を吐くことが許されない」「下の者が上の者に物を言うなど許容されない」マッチョで懲罰的な究極の縦型組織だったら、どうなるだろう。すると、刑務官自身も心を落ち着けて働けず、ビクビクおびえながら仕事を続けるようになる。ちょうど新聞記事にもなったが「仕事にやりがいはない」と感じる刑務官だって増えていくはずだ。

先ほどの引用の直後に、毛利さんはこうも書いている。

「非常に感情を消費する仕事であるうえに、こうして何も迷いのないふりをして堂々としていることを求められるのは、心に強い負荷がかかるのだと感じた。傷付きを負った対象者を扱うことで自身も傷つく二次被害と、彼ら自身の傷つきの双方があるにもかかわらず誰にも扱われない、『トラウマを受けた組織の影響を受けている人たち』という言葉が頭に浮かんだ。」(p245)

これも精神病院と共通している。本来、病院は通過施設であり、治療をし回復すれば地域に戻すことが求められている。だが、現実の精神病院の多くが、長期に社会的に入院させ続けてきた。実際に病院に長期間入院させることによって「施設病」状態になっても、入院させ続けるしかないと思い込んで、抱え込んできた。「家族丸抱えか施設丸投げ」の二項択一構造に国自身も加担してきた。地域の中で精神障害のある人の回復を支える支援は日本の中でもあちこち芽生えているのに、厚労省は脱・精神病院やコミュニティメンタルヘルス推進に向けた政策誘導する仕組み作りは、本当にずっと放置されてきた。

厚労省と同様の放置が、法務省でもあったのだと、毛利さんの論考を読んでいて感じた。本来、刑務所も通過施設であり、受刑者を再犯しないように更生させて地域に戻すことが求められている。でも、秩序を護ることのみが重視され、受刑者の更生についても、「反省の色が見えない」(p285)などのパターナリスティックで主観的・情緒的判断が主になっている。毛利さんもこの言葉を言われて出入禁止が継続したので、この主観的評価は職員相手にもなされている。ということは、これはろくでもない刑務官個人とか、良くない個々の刑務所組織、といった単独の問題ではない。日本の矯正行政において、どのように受刑者の傷付きや生育歴に向き合うか、その上でいかにして受刑者の生き直しを支援するか、というアプローチを全く取ってこなかった。そういう組織風土が醸成されてきたのであり、それを温存していた法務省の政策的瑕疵なのである。

だからこそ、遅まきながら刑法改正に伴い、2025年7月から拘禁刑を導入し、対話実践なども入れようと、刑務所改革が始まっている。その中で、どういう方向性を目指せば、受刑者の更生可能性があるのか。それについても、本書の中でふんだんに触れられている。

まず、犯罪についての私たちの認識を改める必要があると毛利さんは述べる。

「犯罪をする人全員に当てはまることではないが、犯罪行動は、自分のしんどさを抱えられずに外(誰かもしくは何か)に解決を求める行為である。したがって、まずは、言葉にする前のしんどさを抱える力を伸ばすところからだった。もちろん抱えることができても、今度は握りしめていたものを手放すこと(語ること)も難しい。そしてそれが難しいのは、罪を犯した人たちだけではなかった。」(p13)

もしかしたら正義漢の強い人にはこの表記だけでも許せないかもしれない。犯罪者を甘やかしている視点ではないか、と。誤解なきように付け加えたいが、毛利さんは犯罪を正当化するためにこのような論理を述べているのではない。そうではなくて、犯罪行動とは何か、なぜ・どのように生じるのか、というパターンや構造を理解し、個々の受刑者がそこに陥った背景構造も理解した上で、そのことに向き合わない限り、ほんまもんの意味での再犯防止には繋がらない、という非常にロジカルな視点である。薬物依存領域で「ダメ、ゼッタイ」がダメなのと同じように、厳罰主義では何も変わらないのである。

では回復共同体は受刑者達を甘やかしているのか? 実際のやりとりを見ていると、単なる刑務作業より、ある意味かなりキツいやりとりが行われていた。

「個人としても、社会にいれば『あいつは嫌い』と言って口もきかなかった存在と話をする貴重な経験ができる。実際にTCの訓練生から他人の悪口を聞くことも多かったが、『嫌っているのはあなたの心で相手のせいじゃないですよ。なんで嫌いか考えてみてください』と言うと、偉そうだった父親を思い出すとか、いい顔ばっかりしているのが嫌いだったが自分も周囲に評価されたい気持ちが強いのにそれを認めていないだけだったなどと考え、結局は自分の問題だったと気づく。TCは『方法としてのコミュニティ』とも言われるが、コミュニティ内でリアルタイムに起こるいざこざを通して、自分を知り、他人を知り、感情と行動をコントロールしつつ、適切に自分の考えや気持ちを相手に伝える方法を学ぶことに重きを置いている。」(p153)

僕にもあなたにも、「嫌いな奴」はいるだろう。そして、大体「あいつは嫌い」というとき、あいつのどこが嫌いなのか、と相手に矢印が向いているだろう。でもTCでは、「嫌っているのはあなたの心で相手のせいじゃないですよ。なんで嫌いか考えてみてください」と矢印が相手ではなく、自分に向けられる。しかも「コミュニティ内でリアルタイムに起こるいざこざ」を元にして、そこから自分自身を見つめ直す作業をさせるのである。これはめちゃくちゃキツいことだ。そしてこの見つめ直しは、先ほど引用した「言葉にする前のしんどさを抱える力を伸ばす」ことや、「握りしめていたものを手放すこと(語ること)」につながる。さらに言うと、こういう「しんどさを抱えること」や「握りしめていたものを手放すこと」が不得意なのは、受刑者に限らない。専門職や一般人、あなたも私も、みんなこれに慣れていない。回復共同体(TC)では、訓練生だけでなく、ワークを行うスタッフ達にも、この力が問われていた。そういう意味では、支援者が訓練生を教え導く、のではなく、共に自分を見つめ直し、相手に伝え合うコミュニティが徐々に形成されていったのだと、読んでいて感じた。

また、日本の刑務所TCが参考にしたアメリカのアミティの教材では、こんなことも述べられていた。

「自分自身をかわいそうと思うこと(自己憐憫)と、心から後悔することは違います。多くの人にとって、これを区別するのは難しいことです。あなたが本当に変化しようと思うならこの区別を正しくすることが非常に大切です。
自己憐憫は逃げようのない罠になりますが、心から後悔することは、それができるなら自由と解放につながります。
多くの人が心からの後悔のサイクルの途中でひっかかり、後悔が自己憐憫へと麻痺し、ついには自己破滅、恨み、自己破壊的行動を育んでいるのです。
あなたが自分自身をかわいそうと感じたときのことを思い出してください。」(p190)

これも結構キツいワークである。

受刑者が出所後再犯するプロセスの中には、「後悔が自己憐憫へと麻痺し、ついには自己破滅、恨み、自己破壊的行動を育んでいる」部分が多分にあるだろう。「自分はかわいそうなんだんから○○しても許されるだろう」というのは、その認識枠組みを一度持つと「逃げようのない罠」になる。自分はかわいそうなんだから悪くない、というパターンもあり得る。犯した犯罪に対しての「心からの後悔」は、矢印が自分に向くしんどい作業である。自分や他人を深く傷つけた言動を振り返り、それと向き合うのは、先ほどと同じで徹底的に自分の心と向き合うことである。刑務作業をしていても、あるいは独房に閉じ込められたり、刑務官から説教されていても、「心からの後悔」は生まれない。後悔と自己憐憫の違いを考えるワークに向き合わないと、こういう感情は生まれてこないのだ。

「少なくともこれからの人生を自分でコントロールできる、自分次第だと思えた人は、強い。もちろん自分のしたことを忘れてはいけないが、これからの人生では、被害者でも加害者でもなく、犯罪者でも前科者でもなく、一人の人として自他を傷つけない生き方を選ぼうとすることができるようになる。罪を犯した人生からの回復にまず必要なのは、被害者の痛みを知らせることや、刑務所でしんどい思いをさせて事件の重大さを痛感させることではない。学習と成長の場と、自分の人生の主導権を取り戻す機会だ。自己憐憫を引きずったまま主導権を取り戻せなければ、『自分が』被害者に傷を与えたという本当の意味での責任は自覚できない。」(p193)

日本の刑務所で回復共同体を手探りの中から作り上げてきた第一人者の毛利さんだからこそ、「罪を犯した人生からの回復にまず必要なのは、被害者の痛みを知らせることや、刑務所でしんどい思いをさせて事件の重大さを痛感させることではない」と断言する。これは非常に重要なことである。懲罰は再犯防止に直接的な効果がないとはっきり述べている。その上で、自己憐憫に引きずられることなく、「学習と成長の場と、自分の人生の主導権を取り戻す機会」が作れるかどうか、が回復可能性や心からの後悔につながると述べる。それが犯罪からの「自由と解放」につながるのだ、と。

そして、これは刑務所で働く刑務官にも、同じ事が言えるだろうし、むしろそういう職場に変わっていく必要があると、本書を読んで痛感した。マッチョで上意下達で上司の命令はゼッタイな組織であれば、そこで働く個々人の刑務官の「学習と成長の場と、自分の人生の主導権を取り戻す機会」がない。そんな現場では、受刑者に対しても、同じように上意下達でマッチョで懲罰的な言動が繰り返される。これがトラウマの並行プロセスである。だからこそ、先進他国で常識とされているダイナミックセキュリティ(動的保安:刑務官と受刑者との信頼関係の構築、積極的な処遇の展開が、刑務所の保安にとっても大きな役割を果たすことができるという考え方)を、刑務所組織で学び、その風土を取り入れていくために、矯正職員自身が成長する機会を取り戻すことが大切だ。それを通じて、刑務官ひとりひとりが、まずは自分自身の「声」を取り戻せるかが鍵なのだろうと、この本を読んでいて感じた。

最後に、素敵なフレーズを引用しておく。

「また、是非自分のことを語る経験もしてほしい。私たちは皆、何かしらの当事者性を持っている。そして以外と、人に自分のことをじっくり聞いてもらう機会はない。話してみると、思いもよらぬ傷を思い出したり、傷つけられて二度と回復しないと思っていたしこりが変化したり、これが自分だと思っていたものが違っていたことに気づいたりするかもしれない。ぜひ、発見を楽しんでいただきたい。」(p352)

回復共同体の魅力をぎゅっと凝縮したフレーズである。また拘禁刑の導入と共に刑務所に導入されることになった「対話実践」のコアでもある。対話をしたからと言って、すぐに改善や更生、社会復帰が出来るのではない。でも、「人に自分のことをじっくり聞いてもらう機会はない」のは、受刑者だけでなく、刑務官も同じである。精神病患者だけでなく、精神病院で働くスタッフも同じである。まず支援する側が、「人に自分のことをじっくり聞いてもらう機会」を持たないと、他者の話をじっくり聞くことはできない。そして、「じっくり聞いてもらう」なかで、「思いもよらぬ傷を思い出したり、傷つけられて二度と回復しないと思っていたしこりが変化したり、これが自分だと思っていたものが違っていたことに気づいたり」という「発見を楽」めないと、他者とも対話ができない。

刑務所や精神病院だけでなく、入所施設や老人病棟、児童養護施設など、社会学者ゴッフマンが「全制的施設(total institution)」と述べた全ての場で真っ先に必要とされているのは、そこで働く支援スタッフの人々が、「人に自分のことをじっくり聞いてもらう機会」を作ることである。こうやって支援スタッフの「学びと成長」を保証し、彼ら彼女らが自らの人生の主導権を取り戻せる場でに変わることでしか、トラウマの並行プロセスを逃れる可能性はない。

化学物質ではなく心と社会の不均衡

貧困研究や若者研究が専門の知り合いが高く評価していたので、ヨハン・ハリ著『うつ病 隠された真実』(作品社)を読んだ。圧倒的な迫力で、普遍性が高く、確かに読ませる1冊である。

この本が信用できるのは、まず世界中の精神医療関係者へのインタビューを行い、膨大な論文を読みあさったジャーナリストによる著作であるという点、しかも著者のヨハンさん自身もうつ病で苦しんだ経験当事者であり、その視点から「本当に薬は効くのか?」という問いをぶつけ続けてきた「研究成果」であるという点だ。

死別によるトラウマが専門のジョアン・カッチャトーリ氏とのやりとりが、特に印象的だった。

「ジョアンはぼくに言った。わたしたちは『状況を考慮にいれること』をしない、と。人間の感じる痛みというものを、あたかも人生とはまったく切り離された一つのチェックリストによって査定でき、脳の病気であるとレッテルを貼ることができるかのように振る舞っている、と。
それを聞いたぼくは、自分も13年間抗うつ薬を処方されていて、用量も次第に増えていったのだけど、その間、ぼくがそのように苦痛を感じる理由が何かあるかと、医者から尋ねられたことは一度もないという話をした。ジョアンはぼくに言った。ぼく自身に異常があるわけではない、ある種の災害のようなものだ。医者たちのメッセージ—われわれの感じる痛みは単に脳の機能不全に由来する—こそが、わたしたちと『わたしたち自身との絆を断ち切る、ということはつまり他者との絆も断ち切るのだ』と。」(p57)

うつ状態を「脳の機能不全」だと単純化するならば、それは私たちの生きている「状況を考慮に入れること」がなくなる。近代科学においては、そうやって個人因子を取り去って生物学的な機能面での同一性にのみ着目する「操作的定義」を行う。そうやって「ノイズ」を除去し、「科学的」な原因を特定し、結果を一元的に把握し、その因果モデルに則った対処療法となる薬を開発する。「セロトニンの不足には、この薬が効果的です」と。

ただ、抗うつ薬を処方する際、「そのように苦痛を感じる理由が何かあるかと、医者から尋ねられたことは一度もない」のは、ヨハンさんだけではないと思う。もしかしたら、標準的な生物学的治療を信奉する精神科医にとって、「操作的定義」が排除する個人の悲劇を聞いていても、時間が取られるだけだし、それは「ノイズ」だと感じる人もいるかもしれない。あなたが苦痛に感じる理由を聞いたところで、それはあくまでも個人の主観に過ぎませんよね、と。

だが脳の機能不全に原因を単純化すると、見えなくなることがある。それが、「わたしたち自身との絆を断ち切る、ということはつまり他者との絆も断ち切るのだ」という点である。この部分は、本書の本質的な核になる。本書の英語の原題は“Lost Connections: Why you’re Depressed and How to Find Hope”であるが、つながりや絆を失うことで、絶望的な経験はますます深まっていく。その際に、どう視点を切り替えればよいのだろうか?

「ジョアン・カッチャトーリと話してからだいぶん時が経って、自分でも大幅に調査を進めたあとで、ぼくは再びこのときのインタビューの音声を聞き直した。そのときぼくは、悲嘆とうつが同じ症状を呈するという事実には、何か重要なところがあるのではないかと考え始めたところだった。その後のある日、うつを抱えた人たちに話をきいたあと、ぼくはふと自問した。うつが、実は悲嘆の一形態だったらどうだろう。本来あるべき状態にない自分たちの人生を悲しんでいるのだとしたら? あるいはぼくらが失ってしまった、でもまだ必要としている絆を惜しんでいるのだとしたら?」(p59)

悲嘆とうつが同じ症状を呈する。言われてみれば、ものすごく当たり前のことなのだが、操作的定義がされてしまうと、そうではなくなる。「本来あるべき状態にない自分たちの人生を悲しんでいるのだとしたら? あるいはぼくらが失ってしまった、でもまだ必要としている絆を惜しんでいるのだとしたら?」と問うてみると、すべきことは「しっかり話をきく」こと一択なのだ。でも現実は、ヨハンさんがいうように、「13年間抗うつ薬を処方されていて、用量も次第に増えていったのだけど、その間、ぼくがそのように苦痛を感じる理由が何かあるかと、医者から尋ねられたことは一度もない」のである。これが、うつ病を巡る、単純だが最大の落差なのである。そうやって、患者は自分の苦痛や苦しみの理由について話を聞かれることはなく、自分や他者とのつながりを断ち切られ、薬に依存し、でもそれでは治らず、袋小路に陥るのである。

ではどうすればよいのか?

そのことのヒントが本書にはちりばめられているのだが、どうしても紹介したいのが次のエピソード。抗うつ薬もプラセボも変わらないと主張する、『抗うつ薬は本当に効くのか?』の著者アーヴィング・カーシュに真っ向から反論した抗うつ薬の擁護者、ピーター・クレイマー博士は、自身の論を正当化するために製薬会社の治験会場に赴く。法律で謝礼が40ドル〜75ドルと制限されているなかで、うつ状態の人に治験薬を受け入れてもらうために、こんな努力がなされていたという。

「ピーターは、貧しい人々がバスに乗せられて町外れから連れてこられ、日頃家では得られないような上等な心遣いの数々を受けるさまをじっと観察していた。たとばセラピー。そこでは誰もが話をじっと聞いてくれる。あるいは一日中くつろげる温かな場所。医療。そして貧困ライン以下の者にとっては収入が二倍にもなるお金。
こうしたことを観察したピーターは衝撃を受けた。このセンターに姿を見せた人たちは、たまたまそのときそこで検証されているどんな条件にも自分が合っているように見せかける強力な動機があるということだし、また治験を実施しているのは営利企業なのだから、その人たちの言うことを信じているように見せかける、これまた強い動機があるということになる。」(p46)

これは非常に象徴的である。薬が効くか効かないか、以前に必要とされていることを、実は製薬会社も知っているのである。

「たとばセラピー。そこでは誰もが話をじっと聞いてくれる。あるいは一日中くつろげる温かな場所。医療。そして貧困ライン以下の者にとっては収入が二倍にもなるお金。」

つまり、じっくり話をきいてもらえる、心からくつろげる、自分のことを心配してくれる人がいる、お金の事で心配しなくてもよい・・・といった、自分や他者との絆(Connections)が取り戻されている状況があれば、その人は安心が出来るのである。そして、そのような安心できる環境で治験をすれば、それは薬は効くにきまっているのである。だからこそ、「科学界を代表する抗うつ薬の擁護者であるピーター・クレイマーが、薬を擁護するために、薬が効果的だとする科学的エビデンスをくずだと言った」。

「治験そのものが、ペテンだ」(p47)

それ、言うたらあかんやん奴やん・・・! 抗うつ薬の擁護者は、治験現場を見て、科学者であるがゆえに、嘘がつけなかった。製薬会社も被験者も言わないことを、言ってしまったのだ。「王様は裸だ」と。

そして、この本がすごいのは「うつと不安の9つの原因」を述べるだけでなく、「絆の再建」のために大切なこともしっかり提起している点である。しかも「社会的処方」や「ベーシックインカム」、「意味ある仕事につながる」「子ども時代のトラウマを認め、乗り越える」といった、極めて真っ当な解決策を提示している。しかも方法論だけではなく、そもそもうつ病に向き合う価値前提も捉え直そうとする。

「『うつは一種の自意識の拘束なんです』と、ビル・リチャーズはぼくに語った。ビルはジョン・ホプキンス大学での治験チームの一人だ。『うつの人たちは自分が誰か忘れてしまっている、自分に何が出きるのかを忘れてしまっている、自分がのめり込んでいたものを忘れてしまっているのだと言っていいかもしれません。・・・多くは自分の痛みしか、自分の受けた傷しか、自分の恨みしか、自分の失敗しか見えなくなっているのです。青い空も黄色く色づいた葉も目に入らないのです。わかりますか?』 自意識をもう一度開いていくプロセスによって、この拘束を壊すことができる。そしてそれによって、うつを壊すこともできるのだ、と。そのプロセスはエゴの壁を取り払い、たいせつなものと絆を結ぶために自分を開いてくれるのだ。」(p324)

「自分の痛みしか、自分の受けた傷しか、自分の恨みしか、自分の失敗しか見えなくなっている」状況とは、想像するだけでも息苦しくなる。そして実際、うつとはそのような息苦しい状態であり、「自意識の拘束」=「エゴの壁」である。「どうせ」「しかたない」と可能性に蓋をしてしまう。その際、確かに脳の何らかの気質の特性や異常があるのかもしれない。でも、他ならぬ私自身の痛みや傷、恨みや失敗は、あなたのそれとは異なる。生物学的な状況がたとえ特定できたとしても、傷や痛み、恨みや失敗は、薬だけでは癒えない。ゆえに多くの人が「自意識の拘束」=「エゴの壁」に囚われてしまう。その悪循環から脱出するためには、「自意識をもう一度開いていくプロセス」が必要不可欠だと筆者は述べる。なぜなら、自意識の拘束を超えることで、自分が誰かを思いだし、自分に何が出きるのかを思いだし、自分がのめり込んでいたものを思い出すことが可能になるからだ。

イギリスで社会的処方に取り組む医師のサムは次のように言う。

「とりわけうつや不安の場合は、『どうしましたか?』と尋ねるのではなく、『あなたにとって何が大切ですか?』を尋ねるようにしなくてはならないことを学んだとサムは言う。解決策をみつけたいと思うなら、うつや不安を抱えた人が、人生で何をなくしてしまっているのか耳を傾け、なくしてしまったものを取り戻す途を見つける手助けをしなければいけない、と。」

自分自身の「痛みや傷、恨みや失敗」に苦しめられ、そこから抜け出せない人に、「どうしましたか?」と尋ねても、傷口に塩を塗り込むだけかもしれない。であれば、それより「あなたにとって何が大切ですか?」と聞く方がよい。それは、不安や心配ごとではなく、希望や夢に目を向けることだからだ。だからといって、しんどい状況について尋ねないわけではない。「人生で何をなくしてしまっているのか耳を傾け、なくしてしまったものを取り戻す途を見つける手助けをしなければいけない」というのは。その人の悲嘆や喪失の物語をじっくり伺った上で、ではどうすればそこから何かを取り戻せるのか、を一緒に考えることである。これは、薬の処方では出来ないことだ。

その上で、筆者はうつ状態に苦しみ始めた10代の自分に向かって、こんな風に最後語りかける。

「君は脳内の化学物質の不均衡で苦しんでいるんじゃない。君が苦しんでいるのは、われわれの生き方における社会の不均衡、心の不均衡だ。これまで君が聞かされてきたことのほかに、はるかにたくさんの問題がある。セロトニンじゃない。社会なんだ。君の脳じゃない。君の痛みなんだ。君の生物学的機能の不調が、君の苦悩を悪化させることは確かにある。でもそれは原因じゃない。それは後押しをするだけだ。だから一番の解決策を求めているなら、探すのはそこじゃない。」(p351)
「うつは、有意な程度に、われわれの文化の中のおかしな方向に進んできてしまった部分に由来する集団的な問題であると理解した以上、その解決も—有意な程度に—集団的なものでなければならないのは明らかだ。つまりぼくらは、文化を変えなければだめなんだ。そうやってもっと多くの人たちがそこから解放されて、自らの人生を変えることができるようにならなければだめなんだ。」(p356)

生物学的な精神医学では、うつは「脳内の化学物質の不均衡」と説明される。だが、この本の結論では、「化学物質の不均衡」説は退けられ、「われわれの生き方における社会の不均衡、心の不均衡だ」と著者は喝破する。「セロトニンじゃない。社会なんだ。君の脳じゃない。君の痛みなんだ」と。社会的な抑圧や力の不均衡、そしてそれが個人に内面化された際の、個人の不安やストレスの最大化。そういった悲嘆や苦しみ、生きる苦悩の最大化こそが、うつの元凶にある。そして、それは個人的な問題ではない。物質主義化した西洋近代社会という「集団的な問題」である、とだからこそ、パキシルを飲んでも状況は改善しない。本当に状況を変えるためには、「文化を変えなければだめなんだ」と。

本書では、オープンダイアローグもイタリアの精神医療改革も、一切登場しない。でも著者のこの結論は、病気から生きる苦悩へのパラダイムシフトを果たしたバザーリア達の達観とも通じるし、近代合理主義に自閉した人工的な生態系を越えて、「一神教的な裁定者・裁定システム」の限界を超えた結論なんだと改めて感じた。