タイトな前期

 

今日は某大学の講師控え室からこのスルメを書いている。

この前期だけ、お世話になっている先生がサバティカルでおられないので、その代講として、某大学で学部と大学院の講義を受け持たせて頂いている。2コマの純増というのが、どれほど大変なのか、という想像力を全く持たずに引き受けてしまったのだが、やってみると、めちゃくちゃ大変。大学院は3,4名という超少人数のゼミで、学部は200人。どちらも、もちろん手が抜けない。かといって、本務校がおろそかになっては本末転倒。それに加えてあれやこれやと仕事も降りかかり、結構めろめろな日々である。ま、そういう中でも、多少は記憶に残しておかなければ、と次のようなエッセーを書いてみた。

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ノーマライゼーションを「伝える」、ということ

「なんだか生理的に受け付けない!」

ある大学院生が、そう漏らした。そのつぶやきを聞いて、以前の自分を思い出していた。

私は以前、当誌103号で「ノーマライゼーションの具現化としての施設解体-スウェーデン知的障害者福祉改革のプロセスと施設解体後の現状」と題して、2003年冬から2004年春にかけて行った現地調査の概略を発表させて頂いた。この調査では、2006年に亡くなられた「ノーマライゼーションの育ての父」、ベンクト・ニイリエ氏に直接お話しを伺うチャンスもあり、その時の薫陶を短い原稿の中に入れようと、試行錯誤した思い出がある。

あれから5年後の今年、海外に研究調査にいかれた先生の代役として「ノーマライゼーション」に関する講義と演習を、学部と大学院でそれぞれ1コマずつ引き受けた。5年前はスウェーデンのノーマライゼーション具現化のプロセスや実践への反映を調べ、受容するだけで必死だった私が、今度はご縁あってノーマライゼーションを学生に伝える、という機会に恵まれたのだ。そこで、大学院の演習では、以前からやってみたかった(けど一人では果たすエネルギーが沸かなかった)北欧・北米・日本でのノーマライゼーションに関する文献をかき集め、時系列的に読み進めてみることにした。

実はこれには伏線がある。以前とある教科書に「ノーマライゼーション」の項目を書かせて頂いた。その執筆過程で、ある程度ノーマライゼーションの言説を集め、読み進めていたのだが、その中で、この概念ほど論者や時代によって色んな意味合いが込められているものはない、と感じ始めていた。「脱施設」推進の文脈でも、入所施設の機能充実の文脈でも、同じようにこの言葉が使われている。「この同床異夢状態がどうして起こっているのだろう?」 このときに感じた疑問を解決したくて、ある種の「謎解き」をし始めたのが、先述の大学院の演習である。そして、冒頭のつぶやきは、北欧のノーマライゼーション概念はもともと施設福祉中心的なものであった、と批判していたある論文を読んでのディスカッションの際に出てきた一言である。

実はこのつぶやき、私自身も当該論文を初めて読んだ際に、同じ事を感じていた。大学院生の頃、「ノーマライゼーション=善」という単純な理解をしていた私自身にとって、その論理の運び方に陥穽を見いだせなかったものの、どことなく「なんか違うんじゃないかなぁ」と感じていた。だが、何がどう「違う」のか、はっきりわからなかった。だから、この学生同様、「生理的」レベルの嫌悪感で留まっていた。

だが、今年のゼミで、ある「補助線」を引きながら考えることで、この「生理的」レベルでの処理ではない、新たな視点が見えてきた。その「補助線」こそ、社会学の古典的名著でもあるE・ゴッフマンの「アサイラム」である。

(以下は『季刊 福祉労働119号』現代書館、をご参照くださいませ)
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あと2回となったが、ノーマライゼーションについて学部・大学院の講義で集中的に読み進めていったことは、自分にとって新たな視点の深まりが始まっている。大学1年生の新鮮な目で洗い直してみたときに、ノーマライゼーションがどう伝わっているのか、どう伝えた方がいいのか、ということを再発見する。また、大学院生との議論の中で、自分が誤解していた部分、深く読めなかった部分、こういう視点もあるのではないか、という発見などを頂ける。毎週月曜の1・2限なので、5時52分甲府発の普通電車に乗っていく生活は相当きついのだが、こういう発見やら学びがあるのなら、何とか耐えられる、という気もする。ま、今回限りの、ということもある(有限という)気安さもあるのだが。

とはいえ、月曜日に東京方面(といっても埼玉なんですけど)に来ていることが某方面にバレてしまい、その後夕方からの研究会になる日々が多い。今日もその日程になっている。すると、だいたい18時から議論が始まるので、終わるのが早くて21時、遅くて22時。で、新宿23時の「かいじ」に乗って、甲府に着くのは24時42分。明日の朝は本務校で1限なので・・・。というグロッキーな生活なのです。しかも、昨日から明日まで、3連続で東京の仕事もある。行ったり来たり、は身体に応えるのだが・・・そんな愚痴を書く前に、明日の研究会の課題読書はまだ4分の1しか読めていない。ここに来て、ようやく真面目に勉強している遅咲き男であった。

そうなんかなぁ

 

山梨は実りの季節が到来し始めた。少し前はサクランボ、今はトウモロコシ、そして来週くらいから桃のシーズンになりはじめる。そして、有り難いことに、「跳ねもの」(=規格外品)を頂くチャンスも少なくない。今日はいつもお世話になっているTさんが、トウモロコシを持ってきて下さった。関西在住時は高級品のイメージがあったのだが、こっちでは安いので、毎日もろこし三昧。旬なものは、ほんとにうまい。

で、今日は少しゆっくり出来たが、先週も神経がびりびりするほど、忙しい日々だった。というのも、とある会合で虐待防止法に関するプレゼンを急に頼まれたからだ。権利擁護と虐待防止というのは、共通している要素がある。どちらも、起こってしまった権利侵害や虐待に対してどう対応するか、という事後救済側面が強いのであるが、本当にそれらの事案に向き合うのであれば、事後救済だけではなダメで、いかに事前予防をするか、が鍵である、という点だ。虐待や権利侵害の芽をどう摘むのか、社会がどうそれに関われるのか、がポイントとなってくる。

そう考えた時、我が日本社会は最近どうだろう? 事前予防型社会といえるだろうか? 起こってしまったことに対応し、それを個人の問題と極小化して、その事後対応に終始している、とは言えないだろうか。そして、そういう個人モデルの事後救済型に終始した社会においては、次のような発言が論理的帰結として導き出されがちだ。

「『個人責任の時代』の到来です。これから十年以内に、これまでの政府・社会・会社の保護が薄れる代わりに、個人一人ひとりの責任が重要となる時代が来るということです。もちろん、そうだからこそ、今、ビジネス書がこれまでになく、よく売れているのでしょう。個人一人ひとりがサバイバルをかけているわけです。」(勝間和代『ビジネス頭を創る7つのフレームワーク力』ディスカヴァー・トウェンティーワン、p50)

本の売り上げの一部を途上国の自立支援プログラムに使おう、という志ある著者でも、日本社会の分析に関しては、「個人責任の時代」と言い切る。この部分に、単純に「そうなんかなぁ」という違和感を感じるのだ。政府や社会の保護が薄れそうだからこそ、どうしたらそういうセーフティネットを張り替えたり、現代版の強化をすることが可能か、を考えるのも、事前予防として大事なのではないか。それを「個人一人ひとりの責任」に矮小化することは、まさに事後救済的発想ではないか。で、個人がリスクヘッジするために、他から「一抜けた」するために、こういうビジネス書が出ているとしたら、何というか、浅ましいような気もする。

読み手に誤解を招かないように言うと、儲けることが悪い、と言っているのではない。ただ、儲け「のみ」に専心して「個人責任」を強調することは、たまたまその闘いで不運にも「負け組」になった人にとっては、取り返しのつかない事態になる可能性がある、ということだ。「政府・社会・会社の保護が薄れる」とういことは、その中で一部の強者は勝てるかもしれないが、脱落していく可能性がある弱者もまた、生まれる、ということだ。それが自由主義社会だから「しかたない」のか。あるいは、そういう社会での落ちこぼれもサポート出来るような「政府・社会・会社の保護」もある程度必要と考えるか。

自分だけが一攫千金出来る(=ということは他の人の不幸を甘い蜜にする)という社会に対しては、やはり「そうなんかなぁ」という違和感を感じてしまう。東京のような都会では無理かも知れないが、山梨ではとうもろこしをもらったり、お返ししたり、というお顔の見える関係がまだ残っている。そういうお顔の見える関係、の延長線上にある、「助け合い」とか「連帯」とかが、都市部であっても大切ではないか、と未だに古くさいことを考えている週末であった。

規範を超える事実とは?

 

久しぶりに風邪を引いてダウン。
ここしばらく相当気を張りつめていた日々が続いた後だったので、身体がギアチェンジを求めているようだ。鼻づまりに悪寒がすれば、強制的にローギアに入れ替えざるを得ない。それでも金曜は冷や汗をかき、喉をからしながら日中の集まりや講演だけは何とかこなす。その後の夜の会合やら、土曜の予定は全部お断りし、寝込む、ねこむ

こういう時こそ、安静が一番、を理由に読みかけで放ったらかしだった本を最後まで読み終えるチャンスでもある。

「ひとつの王国の統一性は、それと矛盾する存在の切りはなしを前提として保たれている。それはしばしば事実を犠牲とした規範性の維持によって成し遂げられる。人民はたとえいかなる事実であれ、それが王国の規範に触れるかぎりそれを無視しなくてはならない。このようなことがあまりにもつづくと、無視された事実はだんだんと力をもち、ついには王国を倒すほどのエネルギーを貯えてくる危険性を持っている。このようなとき、いちはやく真実に気づき真実を告げる役割を道化はになっている。しかし、それは危険きわまりないことである。」(河合隼雄『影の現象学』講談社学術文庫、190-191

王国だけでなく、あるルールの中で統制されている場は、「事実を犠牲とした規範性の維持」で動いている。そして、「無視された事実」の害や影響が少ない限りにおいて、規範性の維持>事実、という図式は変わらないでいる。だが、「王国を倒すほどのエネルギーを貯えて」しまう前に、その「事実」と向き合い、ガス抜きであれ根本的変容であれ、何らかの対応をしないと、規範性の維持は事実を前に崩壊してしまう。旧ソ連の崩壊であれ、銀行や証券会社の倒産、自治体の破産なども、同じ系譜だ。

だが、昨今多くの場面で「道化」がもたらしてくる新しい事実に、そのまま肯定的評価を与えていいのかどうか、もよくわからない。

「2001年4月。ブッシュ政権の第一予算管理局長であるミッチ・ダニエルは連邦予算審議会のテーブルにおいてこう発言した。『我々政府の仕事とは、国民にサービスを提供することではなく、効率よく金が回るようなシステムを作り上げることだ』」(堤未果『ルポ貧困大国アメリカ』岩波新書、41

この本では、かの「王国」が重んじる統一性を保つ規範として「効率よく金が回るようなシステム」がこの10年近く採用されてきたこと。その結果、「事実を犠牲とした規範性の維持によって成し遂げられる」ゆえの、犠牲となった事実について、サプライムローンやハリケーンの被害者だけでなく、イラク戦争に従事する米軍や関連民間会社にも、その犠牲者が送り込まれている現実を、フットワークのよい取材で明らかにしている。流れが一面的に見える部分もあるが、王国の規範的な流れと対極をなす動きを指摘するためには、これくらいの「偏り」が必要なのかもしれない。

福祉国家から民営化へと大きく軸が動いてきたのは、確かに官僚制などの制度疲労である。だからといって、新自由主義のみが、唯一の解ではない、とこれも少なからぬ人々が気付き始めている。だが、ではそうではない「解」を、どの「道化」が出してくれるのか。このあたりが、謎のままだ。おそらく色んな政治家や学者は、それぞれの「解」を差し出しているのだろう。でも、どの解答案も「王国を倒すほどのエネルギー」とは何か、の本質をつかめていない。僕にしてもしかり。そして、その本質への近似性が、現在の所一番説得力があると思われている解が「新自由主義的」なるものなのかもしれない。だが、これだって、多くの事実を犠牲にしている、というのは、先のアメリカのルポを見てもわかるところ。ということは、それ以外の何か、がどう出てくるのか、が今、見えない、という混迷の中にいるのだろう。

とまあ、文章のまとまりをどうつけてよいのか、混迷の中にいるうちに、今日はお仕事に出かけなければならない時間。鼻はまだムズムズするが、スーツに着替えて、出かけるとするか。

「失望とフラストレーション」で終わらないために

 

「多くの人は、自分がどんな信念をもっているかにすら気付いていない。したがって、その信念を理解しようとしたり、修正しようとしたりする機会はあまりない。他人への接し方に関して、自分の信念がどう影響しているのだろうか? その点がわかっていないと、自分とは違った考え方や行動を受け入れるのは難しいだろう。(略)
私とあなたがお互いの信念にきづかなければ、それぞれが相手を厄介者扱いする。反対の考え方を持っているわけだから、相手の考えを聞くのは骨の折れる作業になる。お互いを侮辱し合うことにもなりかねない。互いにうまくやっていくのは至難の業だ。
このように、自分の考えを持っていると、相手に何らかの行動を期待してしまう。そして、相手も別の考えに基づいて、別の行動をこちらに期待する。信じるところが違えば、お互いの期待は成就せず、失望とフラストレーションだけが残る。一方、お互いに相手の考えを理解しようと努めるなら、性急に決めつけることなく相手の主張に耳を傾けられる。」(マデリン・バーレイ・アレン『ビジネスマンの「聞く技術」』ダイヤモンド社、63-64

ここ最近、幾つかの〆切やら、新しい展開やらの真っ直中にあって、なかなかブログの更新が出来ない。もう少し長めに書きたいネタも二つほどあって、家のデスクの前に置いてあるのだが、その時間がとれない。今日も、今日が〆切の原稿の詰めの段階で、長々書いている余裕はないのだが、でも、最近読み返しているこの本の、「自分がどんな信念をもっているかにすら気付いていない」という部分は、まさに僕自身に当てはまる。今、幾つかの状況で「失望とフラストレーション」が生じている。何でだろう、と、困惑している時に、実はパートナーに同じ事を言われた。「みんなあんたのように考えている訳ではないよ」。そういわれてみて、ハタと気付いたのだ。そうか、僕は僕の「信念」を前提に話しているのだ、と。

その際、「信じるところが違」うという事実に気付いていなければ、「自分とは違った考え方や行動」に出逢った時に、「相手を厄介者扱い」にしてしまう可能性がある。すると、結果として「お互いの期待は成就せず」、となるのだ。幾つかの暗礁に乗り上げかけている課題は、おそらくこの「私とあなたがお互いの信念にきづかな」いことが原因になっているようだ。で、それを変えるために、「だからあなたがわかっていない」と言ってしまうのは、全くの悪循環。そう、僕が気付いたのなら、僕から変わる必要があるのだ。

正直、「相手も別の考えに基づいて、別の行動をこちらに期待する」状況にあって、「相手の考えを聞くのは骨の折れる作業」である。それは、単に話を聞くのが面倒だ、というのではなくて、異質な何かと、自分の信念とは違う何かと向き合うことが、イコール自分自身のゆがみや偏りと直に向き合うことになるからだ。つまり、「反対の考え方」を直視する事から、反射的に自分の考えの枠組み、というものが照らされて、しんどいのである。ツーと言えばカーとならない事態だからこそ、対話の困難性の中に、困難をもたらす自分自身の要因をも見出すのだ。そりゃ、人間自分の嫌な部分を見たくない。話が通りやすい人と慣れた会話でお茶を濁す方が楽ちんだ。だからこそ、対話はしんどいのである。

さあ、しんどいその状況下にあって、逃げるか、真正面から向き合うか、が問われている。
でも、どうせなら「失望とフラストレーション」で終わるのは、あまりに面白くない。すると、残されている選択肢は、「性急に決めつけることなく相手の主張に耳を傾け」ることを通じて、「相手の考えを理解しようと努める」しか、ないのだ。何だ、答えは簡単だ。でも、これほど、言うや易し行うは難し、なことはない。