内田樹先生の本はかなり読み続けてきた方だが、ブログでご紹介するのは久しぶり。発刊されたばかりの『勇気論』(光文社)がすこぶる面白くて一気読みする。ヨシタケシンスケの挿画も、何というかほっこりする。
探偵の推理の話は何度か読んだ記憶があるが、今の自分にはぴったりくるので、改めて筆写してみる。
「探偵は現場に残された断片から推理して、その帰結として正解を『発見』する。推理というのは、それぞればらばらに散乱している断片的事実を並べて、それらの断片のつながりを説明できる一つの仮説を構築することです。その仮説がどれほど非常識であっても、信じがたい話であっても、「すべてを説明できる仮説はこれしかない」と確信すると名探偵は「これが真実だ」と断言する。これは「論理」というよりむしろ「論理の飛躍」なんです。」(p28)
実はぼくはこの内田先生の論理を、福祉現場のアセスメント研修でも度々活用させて頂いている。親が要介護状態で子どもがひきこもり、とか、介護サービスの受け入れを拒否している在宅一人暮らしで老衰している高齢者とか、福祉現場では「困難事例」と言われる対象者に支援者は頭を悩ませる。でも、それは対象者と支援者の「関係性の中での心配事や困難」である。ということは、支援者の関わり方を変えれば、心配事や困難は減っていく可能性がある。そのために必要なのが、「断片的事実」を集めながら「仮説を構築」することである。
独居高齢者がサービス受け入れを拒否している。が、近所のひとは放っておいたら心配だ、と言われ、支援者がおうちを訪問する。散乱する室内、失禁でべちょべちょになったベッド。でも、本人は昼から、刺身をあてにビールや焼酎を飲むのが何より楽しみで、どうもヘルパーなどを入れたらこの昼からの生活を規制されるのではないか、と恐れているようだ。こういう断片的な情報を集めていくと、「昼からお酒を飲んでもよいので、生活環境を整えてもらい、在宅一人暮らしを支えるチームを作る」という目標が出来る。そのために、ヘルパーや訪問看護も、「生活指導をするのではなく、楽しく昼から酒が飲めるように、生活が崩壊しないような支援を」という方針を、本人がいる場所で共有する。そうすると、あれほど頑なにサービス受け入れ拒否をしていたお年寄りが、「それでもいいなら、助けてもらいたい」とぼそっとつぶやく。
内田先生は、この文章の後に、とても大切なことを付け加えている。
「同じ断片を見せられて、誰もが同じ仮説にたどりつくわけではありません。凡庸な知性においては常識や思い込みが論理の飛躍を妨害するからです。」(p29)
これは結構大切な部分である。「同じ断片」でも「常識や思い込み」に支配されていると、別の論理的帰結に陥る。失禁をしてまで昼から酒を飲んでいる独居高齢者。この断片的情報を「常識」のレンズに照らせば、「失禁するなら昼は酒を飲まさないほうにした方がよい」という帰結にたどり着くかもしれない。それを指摘されるのが嫌でサービス受け入れ拒否をしていても、「健康のために」「衛生状態を向上させるために」という錦の御旗で説得しにかかるかもしれない。そして、その説得が受け入れられなかったら、「分からず屋だ」と「困難事例」のラベルが貼られるかも知れない。
でも、それは「失禁してまで昼から酒を飲むなんて、何事だ!」という一つの「もっともらしい」価値観の押しつけである。だが、人間の生き様は千差万別である。朝から酒を飲むひともいれば、晩酌をたまにするだけで十分なひと、そもそも飲まない・飲めないひともいる。人それぞれ、なはずなのに、「健康」「衛生」「病気」など科学的な「錦の御旗」を掲げると、特定のやり方のみが正しい、となる。そして、その常識や思い込みをもって対象者を見ると、科学的・常識的に正しい・標準的な生き方の評価軸から外れて生きているひとの内在的論理を理解することは出来ないのだ。
だからこそ、必要なのは「論理の飛躍」であると内田先生は言う。
「例外的知者の例外的である所以はその跳躍力なんです。彼らの論理的思考というのは、いわばこの跳躍のための助走なんです。こうであるならこうなる。こうであるならこうなる・・・と論理的思考を積み重ねることによって、思考の速度を上げている。そして、ある速度に達したところで、飛行機が離陸するように地面を離れて高く遠く跳躍する。「論理的にものを考える」というのはこの驚嘆すべきジャンプにおける「助走」に相当するものだと僕は思います。そこで加速して、踏切線で「常識の限界」を飛び越えて、日常的論理ではたどりつけないところに達する。
でも、凡庸な知性は、論理的に突き詰めて達した予想外の帰結を前にして立ちすくんでしまう。論理的にはそう結論する他ないのに、「そんなことあり得ない」と目をつぶって踏切線の前で立ち止まってしまう。それが「非論理的」ということだと僕は思います。」(p29)
論理を積み上げると、予想外の帰結にたどり着くときがある。でも、それは凡庸な知性と例外的知者の分岐点である、と内田先生は言う。その予想外の帰結が見えたとき、常識や思い込みが邪魔になって立ちすくみ、「そんなことあり得ない」と目をつぶり、これまでのパターンの中に閉じこもるのか。あるいは、その予想外の帰結が見えた段階で、「「常識の限界」を飛び越えて、日常的論理ではたどりつけないところに」「高く遠く跳躍する」か。そのどちらかで、見える世界は大きく異なる。
福祉現場でも同じだ。福祉や医療の専門家が、自らの「正しさ」や「価値前提」を押し付けるのか。相手の特有の正しさや価値前提をとりあえず理解しようと試みる事が出来るか。それは、探偵が断片的な証拠から真犯人を探るプロセスと似ている。先日ブログで紹介した、精神障害のある人を地域で支えるACT-Kの実践を観察した近田さんの『精神医療の「「治す」とは異なる」専門性』においても、「治す」以外の別の価値観、別の可能性が模索されている。そして、その別の可能性の模索の中で、「驚嘆すべきジャンプ」としての「神社のお札」や「シイタケの原木」が用いられ、それが「治療」より優れた「成果」を出していく。
常識からの跳躍を行い、予想外な論理的な帰結と向き合う。これは確かに「勇気」のいることだ。でも、その「勇気」はロジックの積み重ねなので、決して「向こう見ず」ではない。とはいえ、ひとは常識や思い込みに支配されていると、その論理に従えず、「非論理的」な言動をしてしまう。そして、問題をこじらせてしまう。だからこそ、智者に相談に訪れる。
「僕のところに寄稿依頼や講演依頼が来るのは、僕が何か有益な『情報』を提供できるからではないと思うんです。情報なら、あるいはある問題についての答えなら、どのトピックについても僕より百倍も詳しい人がいくらでもいるから、その人たちに訊けばいい。
僕に訊きに来る人たちはどちらかというと「どういうふうに問いを立てたらいいんでしょう?」というタイプの質問を向けてきます。私たちの目の前にはいったい「どういう問題」があるのか、それがよくわからない。問いの立て方を知りたい。答えを知りたいんじゃなくて。」(p107-108)
これを拝読しながら、僕は内田先生ほどの智者でもないけれど、そういう「相談」なら何度も受けたことがあるよなぁと思い出していた。
「答えが一義的に決まっている問い」であれば、僕の所に相談にはこない。「モヤモヤするけど、どう考えてよいのかわからない」「相手との関係性がわるくて、色々試行錯誤してみたけれど、全然解決の糸口がみえないままだ」「新しく事業を始めたいのだが、何をどこから手をつけてよいのかわからない」という、よくわからない相談が持ちかけられる。
相手が考えてわからない問題に、最初から僕が答えを持ち合わせている訳ではない。ただ、よくよく話を聞いてみると、相手は論理的な積み上げとしての「予想外の帰結」を受け入れるのを拒否して、最初からそれについては考えないようにしている場合もある。「相手が悪い(無能力だ、わからずやだ、仕事をしていない・・・)」と思っていたが、実は自分の相手への関わり方が、相手の無能力を社会的に構築する上で決定的要素(の一つ)であることが、僕との対話の中から浮かび上がってきたこともある。
そのとき僕がしていることは、まさに「問いの立て方」を変えることである。相手が問題である、ではなく、相手と自分の関係性の中での問題である、と「問いの立て方」を変えるだけで、ずいぶん見えている世界の解像度が異なってくる。「どうやって昼から酒を飲むのを止められるか?」ではなく、「昼から酒を飲みながらでも、陽気で愉快に在宅一人暮らしを続けられるか?」と問いを変えると、目的を実現するための方法論もガラッと変わる。
情報処理能力が高く、賢くて知識も多そうなのは文体からもわかるのだが、読んでいてつまらない結論に至る文章の書き手、もいる。そういう人って、「学界」の「常識」を網羅しているのだろうが、逆にその知識によって窒息させられているように感じる。そういう人は、「問いの立て方」自体もアカデミズムの定石から離れられないように見える。これは勉強熱心な支援者の中にも、たまに見られる現象だ。色々な勉強会に出ているし、様々な方法論も知っている。にもかかわらず、目の前の当事者という「生のデータ」の情報を集めていくと、自分が学んだ技法の標準的やり方に当てはまらない事態になる。そのときに、「自分が学んだこと」という常識や思い込みを横に置き(現象学で言うなら括弧でくくり)、逸脱値に見える事態から読み取れる、論理的で予想外の帰結に真正面から向き合うことが出来るか。これで、支援も論文もイノベーティブになるか、月並みなもので終わるか、が大きく別れるのである。
「孤立に耐えることのできる人は他者の他者性に耐えることができる。理解も共感もできない他者を前にした時に、それを「人間ではない」とか「忌まわしいもの」とかいうふうにラベルを貼って分類して、処理することを自制して、しばらくの間の「判断保留」に耐えることができる。」(p286)
常識の世界での帰結を「しばらくの間「判断保留」」して、それ以外の可能性を考える。言われてみれば、それは確かに主流の価値観から離れることであり、「孤立に耐える」ことかもしれない。僕は社会福祉学と福祉社会学の汽水域で仕事をしてきた。福祉学系の学会で発表すると、福祉現場のリアリティから離れた抽象度の高さだと指摘され、社会学系の学会だと具体的過ぎて社会学的インプリケーションに欠けると批判された。どの学会に行っても、孤立してきた。まあ、そういうもんだ、と思って、30代から40代にかけて孤立に耐えてきたのかもしれない。
でも、そういう風に一匹狼的に書き続けてきたからこそ、このブログを読んでメールをもらい、そこから魅力的な社会福祉学者や福祉社会学者とお友達になったこともある。子どもが産まれた42歳から、出張も出来なくなっていよいよ孤立が深まるか、と思ったが、様々なジャンルのオモロイ研究者仲間とZoomで読書会を続けてきたら、むしろ30代より学びを深めているかもしれない。それは、孤立に耐えてでも、「問いの立て方を変える」ことを大切にし続けてきたからこそ、他者の他者性に出会いやすくなったからではないか、と思う。
というわけで、内田先生の本は、汲んでも汲み尽くせない叡智を提供してくださっている。