託された「宿題」

 

ベンクト・ニイリエ氏の訃報に接した。
ノーマライゼーションの「育ての父」と呼ばれたスウェーデン人だ。3年前のスウェーデン在住時、ウプサラまでお会いしに出かけたことをしみじみ思い出していた。

彼はイェール大学やソルボンヌ大学で哲学や文化人類学を学び、文化相対論の視点を持っていた。第二次世界大戦後、難民キャンプや障害者支援の現場で事務方として働き、そこでの大規模集団一括処遇の「文化」が、人間の価値や尊厳を踏みにじるものである、ということに気づいてた。そして、オンブズマンとして知的障害児の入所施設を訪れた際、障害児の親(=や社会の一般人)の「普通の一日」と比べて、いかに入所者の一日が違うか、を知る中で、普通の人の一日、一週間、一年・・・がどう構成されているか、を文化的パターンの視点で捉え直したという。その視点から、またノーマライゼーションの「産みの親」といわれるデンマーク社会省の官僚、ニルス・エリック・バンクミケルセンとの議論の中から、有名な「ノーマライゼーションの8つの原理」を産み出した。

1.一日のノーマルなリズム
2.
一週間のノーマルなリズム
3.
一年間のノーマルなリズム
4.
ライフサイクルにおけるノーマルな発達的経験
5.
ノーマルな個人の尊厳と自己決定権
6.
その文化におけるノーマルな性的関係
7.
その社会におけるノーマルな経済水準とそれを得る権利
8.
その地域におけるノーマルな環境形態と水準
(ベンクト・ニイリエ著「ノーマライゼーションの原理」現代書館より)

この際、「ノーマル」という言葉は、大変誤解を招きやすい表現で、実際、多くの障害関係者でもこのノーマライゼーションの考え方を誤解して理解し、否定する向きもある。だが、ベンクト・ニイリエ氏自体の認識は、すごくシンプルで分かりやすい。この点は是非とも知っておいて頂きたいので、1960年代に入所施設を調査した後に彼が気づいたことを僕のインタビューでお話くださった、その発言の一部をご紹介しておきたい。

「(調査した当時)入所施設が全くダメだ、役に立たない、全然ダメだ、という事に気づきました。なぜかというと、入所施設はお金がかかるだけで、何も役に立たない。入所施設の中では何も成長できない。入所施設で出来るのは、そこにいる知的障害者を、そこの規則に合わせることだけで、これは当人の成長に何も役立ちません。また職員は、施設の入所者、と見なしてしまって、一人一人の個人としての個性、を全然学びませんでした。しかも、施設の中にいると、みんなグループで接しています。すると、この支援者がある人から学んだことがどういういい結果をもたらすか、ということを、他の支援者が学ぶ機会がありませんでした。」

ここで大切なのは、ニイリエ氏は障害者をノーマルにしよう、とは考えていなかった、ということだ。むしろ非人間的処遇というアブノーマルな「環境」をノーマルにしよう、と考えていた。また、個人が規則に合わせられる、という現実がオカシイ、と感じていた。

実はこの点は、あまり日本では知られていない。というか不幸なことに、このニイリエ氏の視点とは逆の観点でのノーマライゼーション理解がその後進んでいく。それというのも、ニイリエ氏の考え方を「アメリカの文化に適合的な形」で移植したヴォルフェンスベルガーは、移植の際、障害者の逸脱した外見こそをノーマルにしよう、という「同化的戦略」を取った。しかもこの逸脱論に基づく「障害者の外見をノーマルにする」という発想こそ、我が国はじめ多くの国で広まったのだ。それ故に、この戦略は80年代以後、地域でのノーマルな生活を求める自立生活運動をしていた障害者の激しい反発を喰らうこととなり、障害者側から葬り去られていく、という悲しい歴史を辿っていく。(そのあたりは以前ブログに少し書いた)

だが、改めて強調しておきたいのは、ベンクト・ニイリエ氏自体は、障害者のアブノーマルな「環境」こそオカシイ、という視点で、このノーマライゼーションの考え方を展開させたのだ。また、ノーマルという言葉の語源が「ノーム(規範)」にある、ということから、障害者の規範化、と誤解する向きもあるが、彼の先の発言を読めば明らかなように、障害者が規則に合わされていた実情に、彼は怒りを覚えていたのだ。この点が、現代の日本でも未だに誤解されていることが、僕は個人的にすごく悲しかったりする。

そんなパッションの人であるニイリエ氏と、3年前に逢った際、日本にも何度も講演に来て、日本の脱施設・脱精神病院が阻害されている現状もよくご存じの彼に、僕は次のような質問をした。「どうすれば、日本で今後、本当にノーマライゼーションが広まるのでしょうか?」 彼が答えた次の発言は、以来僕の心の奥底に突き刺さっている。

「なかなかみんなが団結しにくいならば、例えば東京や横浜は大きすぎるから、どこか一つの地域をやりなさい。どこでもいい。島でもいい。ここ、というところをすごく変えると、『あそこは大きく変わっている」とみんなから注目されるようになります。」

あれから3年、ご縁あって人口89万の山梨に赴任した。その地で、このニイリエ氏の言葉を胸に秘め、僕もささやかながら、地域での障害当事者の連携の動きのお手伝いをさせてもらっている。今日は、聴覚障害者と車いす利用者がパネラーのシンポジウムのコーディネートをさせてもらった。同じ障害者どうしでも、これまでは各障害の垣根を越えた協働や連携、があまりなかったのだが、自立支援法を契機に、バラバラだった障害者団体の足並みが、少しずつ同じ方向に向かって揃いつつある。そんな折りに、障害種別を超え、圏域や地域を越えた、県全体のネットワーク作りのお手伝いをさせて頂いているのだ。

これも、些細なことかもしれないが、ニイリエ氏に教えてもらった、「どこか一つの地域をやりなさい」という助言に、自分なりに実践で応えようとしているが故、と思っている。

修論でノーマライゼーションの考え方を知って以来、この思想に虜となり、またニイリエ氏本人にもお会いして、すっかりその人間的魅力に感化された僕にとって、ニイリエ氏の訃報は、すごく悲しい。でも、こうして大切な「バトン」を実際にお会いして託された、と感じている。託されたバトンを、どう山梨で、日本で実現させていくか? 片思い的に勝手に名乗っている不肖の弟子として、ニイリエ氏から託された「大きな宿題」を前に、心新たにしている。

変容過程の支援とは?(増補版)

 

(*さっき研究室を掃除していたら、足したい資料が出てきた。どうも酔った頭で書いた文章は明らかに舌っ足らずなので、いっそのことゴソッと書き足し直し、タイトルまで変えてしまいました。 4月20日午後7時)

今年も1年生の授業を担当している。

大学1年生、というと、フレッシュマン、というイメージだが、一方で彼ら彼女らはほんの少し前まで「高校生」。なかには「高校4年生」的意識をお持ちの方もいらっしゃる。だが現実はというと、大学という機関に関わりを持たれた方ならおわかりのように、大学と高校の落差、は、中学と高校の落差、とは大きく違う。職員室がない、先生からの学生へのコミットが極端に少ない(放ったらかしに近い)、授業は学生が選べる、45分単位から90分単位、受験勉強からそれ以外の教養や専門授業に・・・などなど。この落差を、自由の謳歌、と喜ぶ人もいるけど(僕もその一人だった)、自由であるが故の「不安」を感じる学生も少なくない。(この辺のことは、数回前に紹介した数土さんの光文社新書「自由という服従」がうまく伝えてくれている)

確かにこういう「不安」は僕も大学1年生の時に感じていた。切り離されたような、所属感のない、寂しい雰囲気・・・。だが、それから12年、教員サイドで眺めてみると、何だか今の学生さんの方が、僕らよりかなり「真面目」過ぎて、大きな変容過程の真っ直中への「不安」をかえってより一層感じているような気がする。ま、ただ比較している自分の出身学部(人間科学部)のカルチャーが「なんとかなるだろう」という「ええかげんさ」が結構支配的だったからかもしれないが、それと比べると、法学部という学部がなせるわざなのか、わが大学のカラーなのか、多くの学生が熱心かつ真面目に大学の授業に取り組もうとされている。それは大変良いことなのだが、その際、あまりにも高校までのカルチャーと大学のカルチャーが違っていて、その文化変容に関する不安が増大し、ゆえにギアチェンジ期の「危機」に直面しておられる、そんな風に見受けられるのだ。

そんな1年生の皆さんに、教員としてどんな変容過程の支援していけばいいのか、が目下の課題である。

いろんなやり方の可能性があるだろう。例えば、授業の進路やレベルを高校と同じ水準に合わせる、というのも、アクセシビリティを保障する一つの案だ。ただ、この案を実際に授業に導入され、学生からもわかりやすいと定評のある先生にお聞きしたところ、高校と同水準であれば、教員側として伝えたいことの半分から3分の1以下しか伝えられず、結果として大学の講義として提供する水準としては低くなる、というジレンマを抱えておられた。一方、昨年の1年生アンケートデータを見ていると、伝えたい何かを教員が満足できるだけ伝えることを重視しすぎて、つまり高校を出たての学生の「取っつきやすさ」や「わかりやすさ」を結果的に無視するような授業形態では、「わかんない」「ついていけない」「絶望的だ」といった感想がもたらされる。つまり、わかりやすすぎても、内容伝達を重視しすぎても、どちらかに偏ることが、結果的に学生にとって「不十分」という結論をもたらすのだ。

じゃあ、どうすりゃいいねん?という疑問につながる。この問題に対する、現時点での僕の見解は次の通り。

前々回のコラムで述べた「変容型様式」(=課題提起型教育)に従って、まずは学生の興味関心に火をつけることが一番大切。そして、ともした火と、自分のこれまでの経験や考えとの間で対比が出来るチャンスを与え、そこから「自発的な学び」へと繋がるようなアシストが教員側に必要。でも、これはそんなに大変ではない。というか、あんまりアシストが過剰すぎてもいけない。いったん学生自身が、他者の押しつけでなく「自分事」となるような課題を発見できれば、自ずとその課題を解決したい、そのためにはどうすればいいんだ、という「自発的学習」へとつながっていくのではないか、そう感じているのだ。はじめの一歩、の支援さえ出来れば、あとはスッと船出が出来るはずである。この「船出」の「変容過程」について、さっき研究室を掃除していたら、次の記事をめっけた。

「15~25歳くらいにかけて、人は誰でも貪るように、本物に触れたい、魂を揺さぶられたい、巨大なものを求めたい、という思いを持つ。つまり、感動を渇望するのです。その時期に本質的なものに触れて心を揺り動かされた経験ができるか否かで、本質を求めようとする好奇心や探求心がつくられるかどうかが決まります」(丹羽健夫「心に火がつけば走り始める」WEDGE 2005 5月号)

昨年の連休中、静岡からの新幹線が満席で、泣く泣く自腹で乗ったグリーン車の車内誌で出会った「めっけもん」の記事。1年ぶりに丹羽さんの考えを読み直して、「そうそう」と思っていたのだ。

例えば昨年の2年生のゼミでは、甲府のバリアフリーというトピックに焦点化し、自分たちで調べ、まとめ、それを中高生に伝え、全てを冊子にまとめる、という課題に取り組んでもらった。課題を設定する前の授業では、この丹羽さんの記事を含めて授業中色んな意見を配ってディスカッションをしてみたが、どうもいまいち「机上の空論」で盛り上がらなかった。でも、テーマを定め、自分たちで調べ、まとめる中で、ゼミ生ひとりひとりが何かに触れ、揺さぶられはじめたのだ。そして、いったん火がつけば、柔軟性の高いこの年代の若者達は、どんどん加速度的に自分たちで炎の勢いを高め合い、友人同士で学び合いながら、どんどん気づき始めた何かを深め、エッジを効かせていく。その変容過程に立ち会い、ゼミ生達がまさに「心に火がつ」き「走り始め」た瞬間に立ち会えた喜びを、僕自身は感じていたのだ。

つまり、大学という場で何かをパスするなら、それもゼミという少人数の場なら、今の僕なら、一方的な教師生徒の大量情報伝達、という形式を取らない。そうではなくて、一人一人の学生さんが20年近くかけて培ってきた経験や個性の固有性に着目し、どうしたらその部分が「揺り動かされ」るか、に着目する。そして、彼ら彼女らの「感動を渇望する」魂に直接届くような内容・表現形式の「課題提起」を行ってみるだろう。そうすれば、揺り動かされ、刺激をうけた個々人の中で、新たな学びへとつながる知の変容、あるいは学生の「知りたい」という欲望へ火が灯り、その火が個々人の「固有性」と化学反応を起こして、その人なりの「探求」へと繋がっていくのではないか・・・。

新米教師のタケバタとしては、昨年1年のもがきのなかで、こんなことを実感し、今年のゼミの仕掛けへとつなげようとしている。

詰め込み型でも、学生主体でも、教え方がどうであれ、つまるところこちらが伝えようとする「知識」や「智恵」を活かすも殺すも学生次第。ならば、彼ら彼女らが大学の学びを血肉化するため、つまり彼女ら彼らが「本質を求めようとする好奇心や探求心」を活性化させるために、大学教員の私たちが携わり、尽力できる「変容過程の支援」って結構たくさんあるんじゃないか。そんなことを感じている。

雑学王からの脱却!?

 

目覚めたらまだ朝5時だった。しかし、外を見るとすっかり明るい。季節は確実に、春を通り過ぎようとしている。

そういえば、近所のクリーニング屋の春物割引セールは今日で終了する。昨日朝、出しに行ってそれを知って、昨日は時間的に余裕があったので、再び家に冬物をごっそり取りに戻った。思えばこの冬も、たくさんの防寒着にお世話になったものである。感謝しながら、来年もまたよろしく、とクリーニング屋に託した。愛宕山を染めていたピンク色の桜模様も、今見たら若葉色に変化しつつある。温度も急激に上昇している。季節の変わり目だ。

昨日はそれだけでなく、オイル交換をしたり、洗車をしたり、大学ではなかなかその気にならなかった報告書作成に向けて文献を読み始めたり、切り替えの時期だった。こういう切り替えの時期って、どうしても朝早く目覚めることもあるが、逆に言えばこれを良いチャンスと思って、パソコンの前に座って、ぼちぼちこのブログも書いてみたり。なんせ、寝ているときも仕事していたようで!?、昨日何気なくネットで捜し物していたことと、今取り組んでいる課題の整合性について考えていたのが、起きる直前の夢というか、考えていた内容だった。まあ、ヘンテコな夢で苦しむよりは遙かにましなのだが・・・。

で、せっかく起きたのだから、昨日大学で探していて見つからなかった、ある大切なデータを自宅のパソコンの中を検索して探しているのだが、見つからない。あれぇ・・・確か以前はあったはずなのだが。もう5年前に作ったデータで、プリントアウトしたものは昨日発見したのだが、肝心の打ち込んだデータがないのだ。そして、5年も経って、このデータが結構大切な価値を持っている(かもしれない)、ということが分かってきて、今あわてている。まあ、A4で5枚ほどなので、最悪の場合、もう一度打ち直せば良いのだが。

でも捜し物をしている時の効用の常で、探しているもの以外の「めっけもの」を発見。そうか、5年前にはこんなことも考えていたり、やっていたりしたのね、と。結構今、使えるものがある。常に近視眼的に「目の前の新しい何か」を追いかけていると、これまでの積み重ねを忘れてセカセカする羽目にどうしてもなりがちだ。でも、ここ何年かで積み上げて来たものを振り返ってみると、存外この「積み重ね」を活用せぬままの自分がいたりする。ちゃんと調べたものを「形にする」まで固執せずに、次の課題、次の課題とスルーしてしまっていたりするのだ。これは大変ソンなことであるばかりでなく、これだから「雑学王」の地位から抜け出せない。

この「雑学王」なる名称は、昨年ある先生としゃべっていた時に、「雑学王からどう抜け出すのか、がタケバタさんの課題だね」と言われた時、あまりにドンピシャだったので、頭にインプリンティングされた言葉だ。そう、色んなことにコミットして、あれこれ知ってはいるのだけれど、それをアウトプットという形で「まとめ」ないままなので、どんどん「雑学王」化しているのだ。研究者は、それを論文なり報告なりに「書いて」、ある種その「雑学」の種から一定のまとまりとして「切り離す」から、次の課題へと進んでいける。僕は、何だか「まとめる=切り離す」作業をしないまま、興味本位でズンズン進んでいるから、どうもまとまりのない、ダラダラした中途半端な興味本位の知識で終わってしまうのだ。そういう意味で、ここしばらくの目標の一つに「雑学王からの脱却」を掲げておこう。さしあたり、4月末にある原稿を書けるか、が一つの勝負。は、はやい〆切だぁ・・・。

どんな「様式」の授業?

 

みなさんは、どんな「様式」の授業を受けたいだろうか?
僕自身なら・・・と考えてみると、よくわからないのだ。

一方で、その分野のスペシャリストが繰り広げる知の饗宴の現場に立ち会いたい、という思いがある。様々な議論や先達の考えに基づき、今こうしてある○○が、いかにしてこうなってきたのか、こういう考えしか取り得なかったのか・・・を、理論の流れの中で一望させてくれる授業を聞いてみたい気がする。その一方で、常識になっている私たちの考えに、「それほんと?」と問いかけられ、その語義や社会状況を、多くの情報を元に根源的に考え、私たちがある対象について抱いていた偏見や先入観を根本的にひっくり返す授業も魅力的だ。

この二つの系譜を、佐藤学氏はアメリカの教育学者のフィリップ・ジャクソンの「模倣的様式」と「変容的様式」を用いて、次のように説明している。

「『模倣的様式』の『教える=伝達』という概念は、19世紀以降の各国における国民教育の制度化において普及し、20世紀の産業主義を背景とする生産性と効率的を求める学校教育において、いっそう徹底されました。大量の知識を効率的に伝達する授業の様式の普及であり、大量生産の大工場のアセンブリ・ライン(流れ作業)のような学校教育が、『模倣的様式』としての『教える』という行為を支配的なものにしてきました。」(佐藤学「教育の方法」放送大学教育振興会、p34)
「ソクラテスの『産婆術』に起源をもつ『変容的様式』の『教える』という概念は、20世紀においては、子ども中心主義の新教育の実践と理論の中に継承されてきました。子ども中心主義の授業の革新運動においては、知識の伝達の効率性や生産性よりも学習者の創造的思考や自己表現の価値が重視されてきました。『変革的様式』は、学習者のアイデンティティの追求に根ざした『教える』という概念なのです。」(同上、p36)

僕が向かい合う学生さんの多くが、福祉についてはほとんど何の予備知識もない場合が多い。しかも、うちの大学の場合、福祉を掲げた学科やコースもないので、ヘタをすると福祉に関する知識を仕入れるのは、4年間で僕の授業のみ、という学生さんだって少なくない。ならば、半年なり1年なり、の履修期間の間に、出来る限りたくさんのことをお伝えしたい、という気持ちも出てくる。そこで、「大量の知識を効率的に伝達する」「アセンブリ・ライン」的な伝え方の方が、情報をたくさん届けられるのに、という想いを、一方では持っている。

だが、「本人中心主義」といった、支援者や家族ではなく障害当事者の「想い」や「願い」を実現するためにどうすればいいか、を研究テーマとして掲げている人間が、「学生中心主義」と真逆のことをしていてよいのか、という想いも強い。僕のたった十数回の授業でしか「福祉」と出会わない人々に対して、「知識の伝達の効率性や生産性」を単に追求することに、そんなに重要性があるのだろうか? それよりも、福祉に関して学習者が持っている偏見・先入観を「産婆術」的に洗い直し、「学習者の創造的思考や自己表現」を支援する学びのあり方の方が、はるかに学生にとっても実りあるものとなるのではないか、そんなことも思っている。

僕自身の「学び」で言うと、僕は色んな師を「真似ぶ」(=模倣する)ことから、たくさんのことを学んできた。塾の恩師、予備校教師、大学教授・・・その時々で出会った尊敬すべき様々な方々をロールモデルにして、その方々の口調や声色、発想形式やファッションの好みまで、似せていた時期があった。「○○っぽい」と、その時々に言われたものである。原始的な「真似び」であったが、その中から、今にも息づく様々な体系的知識を学ばせて頂いた。また、受験勉強に学生として、そして塾や予備校講師として関わったものとして、「大量の知識を効率的に伝達する授業」を、いかに効率化させるか、ということにも、心血を注いだ部分もあった。

その一方で、それと同じくらい、産婆術的なものに学ばせてもらうことは多かった。現代に蘇るソクラテスといわれる池田晶子氏の著作に影響を受けた部分も多いが、「わからない」、と問い続ける中から、議論を続ける中から、様々なものを学ばせてもらったのもまた、事実である。実際に教える立場になっても、「なぜ?」と学生に問い続ける中で、多くの受講者の考えや意見を分かち合ってもらう中で、学生自身が自ら気づき、考える、そんな形態の授業を評価してくれる学生も多い。

佐藤氏も、どちらか一方に善悪や優劣をつけられる訳ではなく、どう統合するかが大切だ、と述べている。

ただ、10数回しかない授業において、その両方をうまく統合する方法を見つけ出す、これはなかなか容易なことではない。今のところ、自己評価で言えば、模倣的:変容的様式の比率は3:7くらい、と思う。去年の学生の感想を読んでいると、そのやり方への評価の声も多かったが、自分の中で「伝達すべき知識の不足」に対する懸念も持っている。また、それについて、間接的な批判的意見を述べている学生もいた。今年の僕の目標は、この割合を5:5に持っていきながら、でも変容的様式の部分もきっちりと持ちながら、というものにどう高めていけるかだ、そんな風に感じている。

「巫女的楽曲」なるもの

 

「巫女的楽曲」に出会うと、僕は憑かれたように聞き続けることがある。最近出会った「巫女的楽曲」は、平原綾香の「ジュピター」。

夢を失うよりも悲しいことは
自分を信じてあげられないこと
愛を学ぶために孤独があるなら
意味のないことなど起こりはしない
(吉元由美作詞、ホルスト作曲)

ホルストの「惑星」の耳馴染みなメロディーに、吉元由美が深遠な歌詞を書く。これだけでは、必要条件は満たしていても、十分ではない。そこに、平原綾香の地響き的な声色が乗り移って、初めてそこで「巫女的楽曲」として「憑依」してくるのだ。こういう楽曲に出会ってしまうと、もうその世界に虜になってしまう。思えば、こういう体験は、高校生の時から始まっていた。最初の「巫女」との出会いは中島みゆき。多くの人は、根暗だとか何だとか、じっくり聞いてもいないのにラベリングする。しかし、彼女の歌詞は、根暗とか何とかではなく、深い。時には軽やかに、時には重厚に、歌詞なのか祝詞なのか判然としない世界観を構築していく彼女の世界に、いつの間にかはまりこんでいた。例えば・・・

「縦の糸はあなた 横の糸は私
 逢うべき糸に 出逢えることを
 人は 仕合わせと呼びます」
(「糸」 中島みゆき作詞作曲)

こうして今、歌詞カードを見直してみて、昨日読んだ本の記述につながっていくのにびっくりする。

「『しあわせ』は古くは『仕合はせ』と書いた(今でもそう書く人はいる)。それは『仕合はす』、つまり『物と物とをきちんと揃える』を意味する動詞の名詞化したものである。だから、『しあわせ』とはほんらい『合うべきものをぴたりと出会うようにする』という他動詞的な働きかけの結果を言ったのである。」(内田樹『しあはせ考』「態度が悪くてすみません」角川書店 所収)

巫女的な歌手と、巫女的要素を多分に持つ哲学者との、恐るべき着眼点の一致。これだから、巫女的世界は魅惑的だ。ちなみに言うならば、もう一人の僕の中での「巫女」さんも、中島みゆきの世界との共通点を持っている。

My life has been a tapestry of rich and royal hue
An everlasting vision of the everchanging view
A wondrous woven magic in bits of blue and gold
A tapestry to feel and see, impossible to hold
(Tapestry: Carole King

中島みゆきがあなたと私の出会いを縦糸と横糸で織りなしたとするならば、キャロル・キングは人生を「つづれ織り(タペストリー)」に見立てている。2人の出会いと、人生の出会い、の違いはあれ、「持つ」ことは出来ないが確実に「ある」世界について、糸を重ねる、というたとえを使って鮮やかに表現している。

こうして書いていて心許ないのは、これらは全て中島みゆきやキャロル・キングの魂からの「響き」が重なって、ようやくはじめて息吹が吹き込まれるのだ。それは、平原綾香の場合でも同じ。それも単なる「響き」をも超えた、何か乗り移ってきたエネルギーのようなもの、と表現してもいいかもしれない。そういう「なにか」が歌詞に付加されて、初めてその世界は「巫女的」な存在を媒介して、聞く者を「この世の少し向こう側」へと誘ってくれるのだ。こういう「合うべきもの」に「ぴたりと出会」えること、これが「しあはせ」だとするならば、僕は何とも「しあはせ」に「合う」ことが出来ている。

ちなみに内田先生は、「『しあはす』という主体的意志と行動ぬきに『しあはせ』は到来しない」という箴言も書いておられる。「意味のないことなど起こりはしない」と「自分を信じ」れる「主体的意志」と、それに基づいた「行動」があるからこそ、「逢うべき糸に出逢え」、その糸の織りなす中から” a tapestry of rich and royal hue”なるものが、少しずつ、編み出されていくのだろう。そう思うと、なんとも「ありがたい」話ではないか。やはり、巫女的世界は、「あちら」の世界へとアクセスする鍵なんだなぁ・・・。

愛という鞘

 

風呂上がりに頭を拭いていると、ここんとこ気になっていたことに急に答えらしきものが見えてきたので、あわててパソコンを立ち上げてみた。

「若手たちは微妙に『切れすぎる』という感じがする。『切れすぎる刀』は抜き身では持ち歩けない。だから、「鞘」をそれぞれに工夫されることになる。『ごりごりの学術性』というのがいちばんオーソドックスな『鞘』で、これにくるんでいると、ふつうのひとには切れ味がわからない。『上の空』とか『専門バカ』というのは、そのような『鞘』のかたちである。もう少しアフレッシヴなひとは別の『鞘』をみつけだす。『脱力』とか『笑い』というのがそれである。最後に(笑)をつければ、どれほど本筋のことを言い切っても、とりあえず『鞘』には収まる。切られた方も切られたことがわからずに、いっしょに笑っていたりする。でも、いちばんよい鞘は『愛』である。」(内田樹ブログ「おでかけの日々」)

僕は自分自身の視点や分析眼などが「切れすぎる」とはお世辞にも思っていない。詰めの甘いところだらけだし、鈍磨だし、へなちょこだと思っている。そんな自分でも、例えば「脱施設」のような話題になると、どうもザクリと切っているようだ。しかも周りからの評価はどうも「切れすぎる」ようで、以前このブログでも書いたことがあるが、“I am right, you are wrong!”の論法でやってしまうと、結局対話が全く成り立たなくなる、という経験が少なからずある。最近では直球勝負はいかんけど、さりとて「ごりごりの学術性」では声が届かないので、「笑い」という「鞘」に収まったフリをしている。とはいえ、話していても、どうもこの鞘に対する不全感のようなものを感じていた。その場は「笑」えても、結局相手の心に届かない、という点では同じではないか、と。結局インターフェイスをいくら相手にフレンドリーなものにしても、その底に“I am right, you are wrong!”の論法が染みついていると、それは表面上の交通以上のものにならないのではないか、と。

そんなときに内田先生が言うのが、「愛」なのである。

「愛」って言われてもねぇ・・・。日曜日あたりからずっと考えていたのだが、さっきの風呂上がりで、昔大学一年生の時にO先生に言われたあのフレーズを思い出した。
「抽象とは捨象である。」
 
何かを選び取るとは、何かを捨てることである。その時、捨てる対象に対する慈しみや愛情を感じながらも、にもかかわらずその慈しみの対象を捨て去り、それ以外の何かを選び取るのである。抽象とは、このように苛烈で、実に辛いものである。タケバタ君にはまだ捨てる何かへの愛おしさを感じながら、でもそれを捨てる、という「抽象」かつ「捨象」の真の意味はわからないだろうけど・・・。

19か20才の頃の僕には、確かにO先生の「捨象」を表現するときの凄みの背景が、よくわからなかった。何でも自分のものに出来る、と思っていた、青臭い年頃の青年にわかるはずもない。でも、それから一回り近くが経ち、20代の後半から色々なものを「捨象」していった。ある時は率先して、ある時は渋々。そして、またある時は泣きながら・・・。そうやって、未練がましいタケバタも、色々なものを諦めて、捨て去って、後ろ髪ひかれながらも決断していくなかで、今の自分にたどり着いたと思う。まさに、この後ろ髪引かれながらの苦渋の決断こそ、抽象であり捨象なのだ。そして、それこそ「愛」を伴いながらの「切る」作業だったのだ。

なるほど、一刀両断で、「そんなものダメだ」と言うのはたやすい。私の言うことが正しくて、あんたの今の行いは間違いだ、そう言うと実にすっきりしている。でも、相手が「間違った行い」をしていると認めていても、その今現在にたどり着くまでに、様々な紆余曲折があったはずだ。それらのバッククラウンドを全く無視して、「ダメなモノはダメ」と言ったら、スパッと切れるが、でも後味は良くない。第一、切られた方が普通は納得しない。そうではなくて、今までの紆余曲折を一応は認めた上で、慈しみの視線を注ぎながら、でもその結果として立ち現れた現在に関しては、私は認めることが出来ない、別のスタンスしかとれない、と「捨象する」。この「愛」ある「捨象」(=抽象)こそが、内田先生の言うところの「いちばんよい鞘」なのではないか。何となく、そんなことを感じている。

今日は研究室で溜まっていた書類や様々なモノを捨てまくっていた。これも、一種の捨象現象。昔は捨てることが出来なくて、部屋一杯にがらくたをため込んでいたが、これは捨象が出来ずに、未練がましく何もかも手に残しておくことに等しい。そうすると、切り捨てなくていいから、その瞬間は楽なのだが、選び取れてないが故に、結局の所どっちつかずになり、何もかも判断できない「未決」の状態がズルズル続いていく。そんな日々が昔の僕の傾向だった。でも、20代の終わり頃からか、ある種の「捨象」を決意した後、以前に比べたら、部屋にため込むことなく、捨て始めた。もちろん、今日だって「ああ、これは・・・」という一定の慈しみは、捨てる対象の資料にもある。でも、それに拘泥していたら、それ以外の抽象しようと思う対象を、きちんと選び取れなくなるのだ。それがわかったから、あっさりそれ以外は諦めて、捨てられるようになった。それ以来、選び取った範囲は狭いけれど、その範囲でなら、何かが書けるようになってきた。

「捨象」と「愛」と自分の「鞘」。改めて、切り捨てたものを慈しみ、選び取ったものについて想いを深くする夕べになりそうだ。

「当たり」をもたらす整理整頓

 

昨日、前回のブログを見直していて、そういえば・・・と一冊の本を思い出した。

「システム社会の現代的位相」(山之内靖著、岩波書店)

山之内先生の本は、出た直後に気になって買っておきながら、今まで「積ん読」本の一つだった。僕の部屋にはそうした「寝かせ本」がたくさんある。この本も奥付を見たら96年だから、気がつけば10年近く放ったらかしておいたことになる。スイマセン。でも、何気なくアマゾンで見たら、古本に9800円の値が付いている。やはり買っておいて良かった。こういう「積ん読」本は、買った当初には読まなくとも、こうやってRight time, right placeでひょっこり出会い直せることが良い。今日、いつものように仕事の後の「風呂読書」し始めて、序章のところで既にしびれてしまった。

「環境問題にかかわる運動であれ、家父長制にたいする女性の闘争であれ、あるいは差別されているエスニック・グループの闘争であれ、それらが社会的に差別されているという位置の落差をエネルギーとして展開され、したがって、社会システムの内部において市民としての一般的に平等な処遇を期待し要請する運動であるかぎり、結局はシステムの内部において制度化されるという道をたどるであろう。」「そうした旧来型の社会運動は、それらが『成果』を獲得すればするほど、現存の社会システムを強化し、あるいは現存の社会システムの矛盾を拡大する」(同上p13-14)

この鮮やかな切り口は、読み手にとってゾクゾクさせられる切れ味の良さであり、また問題群の核心をついている、という意味で深く自分の内奥に突き刺さる視点である。実はまだ序章しか読んでいないのだが、もうこの氏の視点に釘付けになりつつある自分がわかる。久しぶりにこういうズバッとした視点と出会うと、改めて理論の持つ魅力を再確認すると共に、「そりゃあ古本屋でそれくらいの値が付くよね」と変に納得してしまう。「旧来型の社会運動」が追い求める「成果」というものの有り様に、何とも言えない不全感を感じていた僕にとって、氏の分析がすごく楽しみだ。ただ断っておきたいのは、山之内氏はこの種の社会運動が無駄だ、と言っているのではない。そうではなくて、追い求めて、運動しているうちに、気がついたら抵抗しているはずの当の社会システムそのものの「強化」に「結果的に」繋がっていることの問題点について言及しているのだ。これは中野敏男氏の「ボランティア動員論」批判につながるものであろう。障害者の権利獲得の「運動」について考える際も、この視点をしっかと持っておかねば、当の社会システムそのものの改善どころか、その矛盾の強化に繋がりかねないのである。読み進めるのが楽しみだ。

ちなみに、実は昨日も「当たりフレーズ」と出会うことが出来たので、これもご紹介しておこう。

「『自由である』ような私たちは、それがために他者の視線に晒される存在である」「他者の視線に晒されることが苦しいのは、私が他者にどのように見られているのかを知ることができないから」「私が『自由である』としても、他者の目に自分がどのように映っているのか、他者は自分をどう評価しているのかについて完全にコントロールすることはできないのだということ、そして、それにもかかわらず他者の評価を躍起になってコントロールしようとしているとき、そのとき問題とされている他者は、自分の心の中に内面化された幻影にしかすぎないこと」(数土直紀「自由という服従」光文社新書p225-226

実はここしばらく、数土氏の言うところの「自分の心の中に内面化された幻影」に自分自身が苦しめられていて、しんどかった。つまり「他者にどのように見られているのか」「どのように見られたいか」という「理想像」と「現実」のギャップに苦しんでいた。でも、その理想像なるものも、本当に自分が望む理想像であれば、まだいい。そうではなくて、「自分が作り出した他者評価という幻影の内面化」、という面で、ねじ曲がった、かつ実体的なモノではない変な「理想像」であったが故に、しんどかったのだ。ようは、本当に自分がしたいこと、ではなくて、「こんな風になったら人に尊敬してもらえるだろうな」という類の、実にくだらないモノサシで評価して、そこに至らない自分にウジウジしていた。こう書いてみてつくづく思う。つまんない、つまんない。

それがつまんない、と断言できるのは、「自分の心の中に内面化された幻影」を「躍起になってコントロールしようとしている」という構造が、数土氏の指摘からわかったのだ。実にちっぽけなことで悩んでるじゃん、って。そんな暇が合ったら、目の前の仕事をちゃんと形にすることにこそ、エネルギーを注ぐべきだって。

まあ、これは数土氏の本を、たまたま部屋の大掃除をした後に読んだから、ということとも関連する。だいだい僕の場合、机や部屋が荒れているときは、生産的にはなれない。特に机の周辺が荒れている際は、まともな思考にはなれない。すごくシンプルかつ当たり前のことかもしれないけれど、心が乱れている時は、部屋も乱れている場合が多い。だから、昨日は、海外出張前後に散らかしっぱなしになっていた自宅の整理を時間をかけて徹底的に行っていた。そして、机と仕事部屋が綺麗になった後、数土氏の本を何気なく読んでいたら、最後のところでグッと来たのだ。そして、その後にふと、山之内氏の本を思い出したのである。やはり、部屋の体制として何かを受容できる環境が整ったからこそ、スッといろんなことが入ってきたのだ。

研究室も、机周りは大部整理できていたので、おかげで今日は新たな原稿の仕込み作業がはかどった。でも、新しく本棚を入れた関係で、机の周り以外はまだ散らかっている。きっと今もがいているもう一つの難題を解決するためにも、まずは明日あたり、この「身辺整理」から着手した方が、案外早くものは片づきそう・・・そんな予感がしている。

誰にとっての「システム」?

 

ジムで汗をかきかき、エアロバイクで「ファットバーン」モードにしながら、こぎ続けること40分。最近、いよいよ皮下脂肪がレッドゾーンになってきたタケバタにとって、この種の修養は、必須項目になりつつある。この春は、ここ10年ほど体重の目安としてきた、大学2年生の春に買った「当時からピッタリの4つボタンブランドスーツ」が、いよいよ危機的なほど「ピッタリ」状態になった。これから夏にかけて、腹筋とジムはほんとうにみっちりやらねば、いよいよ破綻を迎えてしまう・・・。

そんな破綻回避の為にエアロバイクこぎながら、読んでいた新書にふと目がとまる。

「いろんなものが錯綜していて、それゆえにこそ不便な『世界』がある。だから、『これを整理してシステム化すれば便利になる』と思う。システム化すれば、方向性はどんどん『一つ』に近づいて行く。なぜかと言えば、それこそが『便利なあり方』だからです。誰にとって便利かと言えば、それはもちろん、『システムにとって』で、『システム化を実現させて行く人にとって』です。それが、『システムを利用する人』にとって便利かどうかは分かりません。それを『不便』と言えば、その人達はシステムから遠ざけられてしまう-それが『推進されるシステム化の究極の姿』で、『システム化』というものは、そういうい方向を目指すものだから、仕方がありません。」(橋本治「乱世を生きる-市場原理は嘘かもしれない」集英社新書p99-100

そう、システムとは、制度設計者にとって「便利」かつ「シンプル」であるが、その「システム利用者」にとって、本当に便利かどうか、役に立っているかどうか、守ってくれる存在かどうか、とは別問題だ。これは、このブログ上で何度も書いてきた、自立支援法をはじめとした日本の福祉改革でも同じことであろう。制度の一元化、わかりやすい制度構築を目指して、介護保険との将来的統合という「わかりやすさ」を錦の御旗に、厚労省は「改革」路線を突っ走っている。だが、それが「システム化を実現させて行く人にとって」のみの「便益」なのか、システムの「利用者」にとっても便益になりえているのか、この点をこそ、システム設計者の側が問う必要があるのだが、果たして本当に問うているのかどうか・・・。

さて、「システム化」の便益が、システム構築側のみであり、システムの利用者は往々にして蚊帳の外に置かれている事象は、なにも福祉の面だけではない。それは自分が関わる大学教育の現場でも同じである。

「制度はなく設備もないが、親密さと対話だけは横溢していた『ソクラテスの仲間』の段階から次第に制度化が進み、多くの俊秀が目指してやって来るようになったアカデメイアを経て、規模も大きくなり、設備とカリキュラムが整った反面、親密さと対話はすこしく犠牲とならざるを得なくなったであろうリュケイオンまで、絵に描いたような学問の制度化と教育の序列化」「いま叫ばれている大学教育の改革で、もっとも問題とされている一つは、戦後、こうした制度化と大規模化によって、対面的な教育や互いに仲間として学び合う面が失われたこと、とみなすことができます。」(船曳建夫「大学のエスノグラフィティ」有斐閣、p4)

船曳氏が言うように、制度化(=システム化)によって、「対面的な教育」「学び合う」という側面が大学から消えつつあることは、何も今最近の話ではなく、僕が大学生の頃から、既にその事態の真っ直中にあった。ただ、それが構造的に不可能か、というと、そうではない。「対面性」や仲間(=ピア)として「学び合う」というスキームは、それを意識化して授業プログラムの中に取り込んでいけば、ゼミや授業の中でも実現可能である。つまり、現在のシステム下にあっても、そのシステムを「何のため」という視点で捉え直していくことを忘れなければ、つまり「システムの利用者の便益」を意識した「システム構築」を目指していくことが出来れば、システム化の弊害は防げるかもしれない。

ここで論点をはっきりさせておきたい。何が問題か、というと、システム化自体が問題、というわけではない。そうではなくて、システム構築の際、システム構築者が、自身にとっての「わかりやすさ」「整理」「便利」は、システム利用者にとっての便益と同じだ、と何も疑うことなく信じてしまう。このことにこそ、実は大きな陥穽があるのだ。本当に自分が作ろうとしている「システム」が、システム利用者にとっての便益と一致しているのか、この点を問い続け、違うのであれば、システム利用者の方ではなく、自らの作ろうとするシステムそのものを改変していく、この姿勢がどこまであるか、が問われているのである。

ただ、こういう作業を伴ったシステム化は大変「面倒くさい」種類のものだろう。なぜって、システム設計者にとっての「わかりやすさ」や「整理」より、システム利用者の便益を重視することは、時として例外や付加的なものが一杯くっついた、複雑なものであり、わかりやすさの対極にあるから。それよりは、ある程度のところで、設計者の中で「妥協」して、こっちが大切なのだから、あっちはある程度は泣いてもらわないと仕方ない、という形で切り抜けたくなる。しかし、教育の話に戻ると、「泣いてもらう」相手と、本当に真剣な対話や学び合いの上で、システム利用者の合意を得た上で、妥協しているのか・・・。この点を曖昧にして、システムの整合性やわかりやすさのみをごり押しにすると、結果としてシステムの利用者の便益と相反する「わかりやすいシステム」が構築されてしまうのだ。

大学教育の現場で、自立支援法の現場で、どういう「わかりやすいシステム」が構築されようとしているのか? これを、現場に佇むタケバタとしては、しっかと見て、システム利用者の立場からのシステム改善への提言へとつなげていかねば・・・。そんなことを感じていた。

バランス感覚と体内センサー

 

久しぶりにスピード違反に引っかかってしまった。

ところは御坂峠。そういえば、昨日から春の交通安全運動期間がスタートしたことには、気づいていた。注意しなきゃあね、と言い聞かせていた。また、捕まる直前、対向車線で白バイをみた。無線でなにやら話していた。こっちをジロリとみていた。僕は速度超過だった。その時点で、「あ、やばい」と減速すれば、きっと何事もなかったはずだ。だが、僕自身、バックミラーやスピードガンを注意していたものの、多分注意が散漫だったのだろう。気がつけば、黄色いジャンパーを着た警察官の赤い「止まれ」の標識が見えた。22キロオーバー。ゴールド免許の効能は、取って1ヶ月で、消えた。

もちろん自覚はあったので、すんません、という事態である。でも何より腹が立ったのは、事前に様々な警告的現象を頭の中にインプットしていたのに、それを現実問題として認識せず、スルーして無視していた、という事態である。罰金を払う、点数が2点減る、そういうことは自分が起こしてしまった結果責任だからしかたない。それよりも、自分がそういう徴候があったにもかかわらず、意識していたのにもかかわらず、行動を改めなかった、このセンサー不能の事態にこそ、ごっつうショックを受けたのである。ここしばらく、忙しすぎたから、センサーがバカになっていたのだろう。不幸中の幸いは、事故ではなく、違反で済んだこと。ほんとうに、気をつけねば。

帰国して一週間が経ったが、この一週間は死ぬほど忙しかった。土曜は辞令交付式に様々な会議で朝から晩まで缶詰状態。日曜日は一日寝ていたけれど、月曜日は午前中スノータイヤからノーマルタイヤに履き替え、昼からは研究室に本棚が4本と机1個が届いたので、4年生の学生さんに手伝ってもらって、の大片づけ大会。火曜日は一日かけてタイ、ラオス、ミャンマーでお世話になった方々へのサンキューレターを書いていたら終わってしまい、水曜日は入学式。昨日の木曜日は新入生ガイダンスとイベント続きで、両日とも午後はグッタリ疲れ果てながら、最低限の〆切に追われる始末。そんなこんなで、ここ1週間、まともにブログを書くまもなく、過ぎていった。こういうバタバタの時期が重なったからこそ、様々な徴候が体感されなかったのだ。いやはや。気をつけなければ。

帰国後からずっと、「権利」について考えている。前回のブログで、rights-basedということについて触れたけれど、これを「権利ベース」あるいは「人権ベース」と置き換えた時、どうしてこんなに違和感が自分の中でわき上がるのだろう。あるいは、アドボカシーを「権利擁護」と訳した時の不全感は何なのだろう・・・。ここのところ、ずっとそういうことを考えている。本来なら、障害者はもちろん、市民全般に「権利」概念は大切なはずだ。特に、日本のような国では、こういう「権利」のawarenessはすごく大切だと思う。でも、一方で、「権利」や「人権」ということは、手あかが付きすぎた言葉のようで、日常用語として使いにくいような気もしている。両方とも明治に輸入された言葉なのだが、今だに輸入時の摩擦、というか、日本的文脈に即した転移が出来ていないような気がしている。

来週から授業も始まり、いよいよ研究モードから教育モードへの頭の切り替えが求められる時期になってきた。でも、3月後半の旅を通じて得られた「研究の芽」は、常に頭の片隅で「培養」しながら、文献をコツコツ読みながら、気づきから新芽が息吹くように、少しずつ考えていきたい。でもその際、こういうバランス感覚を失っていては、根付かせるところか、返って既存の何かも枯らせてしまうかもしれない。だから、なおのこと、バランス感覚と体内センサーを大切にせねば、そんなことを簡易取り調べ室で書類に捺印しながら、考えていた。

パラダイムシフトに向けて

 

<3月27日(月)午後4時 バンコクのプリンスパレスホテル>

25日から3日間、アジアの障害者が集まった会議でバンコクのホテルに缶詰になっている。しかもこのホテルはネットがつながらず、さらになぜか泊まっている部屋の外線電話も死んでいる。で、朝から夕方まで議論が続き、夜は夜で飲みながら議論を続けていると、結局ネットカフェに行く間もない。というわけで、ここ数日、ネット生活から遠ざかり、目の前の会議にのみ専心する日々が続いた。まあ、こういう風にネットを見ない日々が続くことは、精神衛生上はよいことである。ただ、昔なら3,4日時間をおくと言うことは、ほとんど何の問題もなかったのだが、メールでばりばりやり取りするようになった今日、ネットにつながっていない、というのはどことなく、「取り残された感」がなくはない。まあ、これは立派に「ネット依存症」の一歩手前、といえるだろう。

この会議は無事に今、閉幕式を迎えている。この3日間、アジア太平洋地域の9カ国の障害当事者リーダーが集まって、実に深い議論をしていた。その議論は大きく分けると、次の5つの話題について議論していた。

1,障害当事者のcapacity buildingempowermentをどう進めていくか
2,社会の側の差別・偏見をどう取り除くか(public awareness)
3,社会福祉サービスに関して、慈善や哀れみに基づく支援のあり方(charity based)から、当事者の権利を促進する支援のあり方(rights based)にどう変えていくか

4,国連で今議論されている、「障害者の権利条約」制定に前後して、アジア太平洋の地域で障害当事者の権利をどう促進するためにネットワークを組めるか?
5,日本を始め障害者差別を禁ずる法律が制定されていない国々で、法制度の制定や個別救済などのアドボカシーを進めていくためには何が必要か?

これらの重要な議題について、参加9カ国の実情をシェアする中で、どのように実体化していけばいいのか、の方策を探る入り口となる会議であった。こういう議論はすごく大切なのであるが、日本に帰ると目の前の現実(=4月1日から施行される自立支援法など)に囚われて忘れがちな視点なので、少しこの5点について、覚え書き程度に論じておきたい。

1つめの障害当事者のcapacity buildingempowermentについて。エンパワメント、という言葉は障害者支援の世界でも最近聞くようになってきたが、後者のcapacity buildingについては日本の福祉業界では耳馴染みのない言葉だ。だが、国際的な障害者運動の文脈や、あるいは国連の主に開発分野での議論では、ごく当たり前の議論になっている言葉である。その人の潜在能力をどう開発して、開花させていくか。あの、アマルティア・センの思想につながる考え方だ。アジアの文脈で言えば、障害を持ったことが自分のせい、あるいは前世の悪行のせい、と必要以上に自分で背負い込んでしまい、社会の中での様々な障壁に関しても、「超えられない自分が悪い」「しかたない」と諦めてしまう状態がある。これは、実は支援する側のアプローチを変えれば、あるいはバリアとなる社会環境の方を障害者にアクセシブルなものに変えていけば、十分に障害当事者にとっても諦めなくてもする状態へと変化していくはず、なのだが、この辺のところが自信や自己肯定感の低い状態の障害当事者にはなかなかしっくりこない。これを、仲間の障害当事者の声や、継続的支援を通じて変えていき、「自分の夢を我慢しなくても、諦めなくてもいいんだ」と思えること。これがcapacity buildingの核心であり、スタートである。

だが、本人の意識が変わっても、社会の側の認識が障害者に対して差別的なものであれば、社会的障壁はなくならない。その際に大切になってくるのが、2つめの社会の側の障害者に対する意識をどう変えていくか、という「社会の気づき」の問題だ。日本でも国主導による「普及啓発」の活動は行われているが、たとえばメディアによる障害当事者の特集などあまりないし、ましてや小学校中学校レベルでの障害教育はほとんどない。もっといえば、障害児を普通学校から政策的に「隔離」してしまっていることに、問題の根元のある部分はあるのだが・・・。この点はもちろん一概には言えず、またじっくり一度考えなければならない課題だ。また、僕の研究課題で言うと、障害者の支援に携わる「支援者」のcapacity buildingもこの観点では大切になってくる。支援者が「当事者中心主義」という「気づき」に基づき、まず支援する自分たちが「支援する主体」から「生活主体者を支える黒子」へと変わっていくことが出来るかどうか、が鍵となってくるだろう。

そして3つめは、日本にもまさに当てはまる問題だ。日本の社会福祉サービス法が、障害者の権利を促進する「権利法」となっているか? 残念ながら、そうはまだ、なってはいない。また支援者の接し方をみていても、当事者を「指導する」「教育する」といった上下関係の枠組みから抜けきれない支援者も少なからぬ数、見られる。つまり、これは「かわいそうな障害者」を「優しい支援者」が支援してあげる、という慈善的な視点から脱却し切れていない、といえる。また、社会の側も、障害者支援に関わる人に対して「偉いねぇ」という言葉を投げかける。じつは、この「偉い」という役割付与自体、よく考えればおかしいのだ。だって、給料は低いとはいえ、賃金労働をしている人々が、なぜ「偉い」のか。それは、「わざわざそういうことをやるなんて」という差別や偏見、スティグマの裏返しなのだ。また「そういうことをやる」人は「心が広い」、逆に言えば「私は心が狭いからそういう事が出来ない」というのも、障害福祉サービスを普通のサービスと同等と見なさない、慈善や哀れみの仕事、と見なされていることの証左でもあるだろう。

今、国連で「障害者の権利条約」を議決に向けて、議論が進んでいる。僕も実際にニューヨークの国連議事堂の場での議論を見に行ったことがあるのだが、そのときに一番びっくりしたのだが、必ず障害当事者の国際的NGOが積極的に議論に参加して、条約の細かい文言の一つ一つに障害当事者の視点から注文をつけていたことだった。そして、そのときに、もう一つ印象に残ったのが、次のフレーズをかならず障害者団体は述べて議論を始めたことだ。
Nothing about us without us! 私たち抜きで私たちのことを何も決めないで!」
そう。日本でも、自立支援法の顛末を見ていて一番気にかかるのが、障害当事者の意見や視点を無視したところで、厚労省の意向や、財務省へのお伺い、社会保障改革全体との整合性、といった、障害当事者の思いや願いを無視したレベルで、障害者の政策が決まっていくところである。今回の議論では、アジアの様々な国で、障害者の権利を促進させるために、どう政府と連携して、政府にその政策を盛り込ませるか、ということが検討され、一部の国では実践に移されていた。私たちは、そういった他の国々の努力や実践のよい部分をどう取り込んで、自国の政策への実践に活かしていくか、が問われていると思う。そういう意味で、アジア太平洋の様々な国々の試行錯誤やモデルケースをお互いに学びあい、権利促進を目指して連携していくことは、実に大切になってくる。

で、こういった連携の最終目標は何か、というと、日本の文脈で言えば、世界各国の40以上の国々で法制度化されている、障害者の差別を禁ずる法律をどう日本で実現していくか、ということであろう。今年になって千葉県議会で「障害者差別禁止条例」が上程されたが、結局のところ、継続審議になった。その理由として、堂本知事に対する反対勢力のアレルギーなどが指摘されているが、その背景には、政治的理由以外にも、結局のところ、日本人の「権利」「人権」「差別」などの言葉や概念に対するアレルギーがあるのではないか、と感じている。実は正直僕自身、rights basedという言葉の方が、「権利に基づく」というよりしっくりくる。それくらい、日本ではこの“rights”という言葉に対するネガティブな意味付与がなされている、と思うのだ。この部分を、うまく日本のこれまで言われてきた文脈なり概念と整合性を持たせながら、日本なりに受容していかないと、結局のところ、権利擁護なんて考えは、夢のまた夢になってしまう。権利概念が元々内発的に生まれてきた西洋と違い、後付的に権利概念を輸入したアジア各国で、それらの権利をどう「内発化」するか? この部分が今、大きくと割れている、と思われてならない。

このように、3日間のアジアの障害当事者の意見交換の場は、日本でもまさに必要となる視点ばかりだった。日本の現実の問題に目を向けるとき、こういうバックグラウンド、というか根本的視点を持って関わるべきなのだが、どうしても現場では変わりゆく制度に対応することに精一杯で、長期的視点が持ちにくい。そういう中で、研究者がすべき事の一つに、charity basedからrights basedといったパラダイムシフトをどう現場レベル・政策レベルで支援していくか、ということが問われている、そんなことを感じた数日間だった。