愛という鞘

 

風呂上がりに頭を拭いていると、ここんとこ気になっていたことに急に答えらしきものが見えてきたので、あわててパソコンを立ち上げてみた。

「若手たちは微妙に『切れすぎる』という感じがする。『切れすぎる刀』は抜き身では持ち歩けない。だから、「鞘」をそれぞれに工夫されることになる。『ごりごりの学術性』というのがいちばんオーソドックスな『鞘』で、これにくるんでいると、ふつうのひとには切れ味がわからない。『上の空』とか『専門バカ』というのは、そのような『鞘』のかたちである。もう少しアフレッシヴなひとは別の『鞘』をみつけだす。『脱力』とか『笑い』というのがそれである。最後に(笑)をつければ、どれほど本筋のことを言い切っても、とりあえず『鞘』には収まる。切られた方も切られたことがわからずに、いっしょに笑っていたりする。でも、いちばんよい鞘は『愛』である。」(内田樹ブログ「おでかけの日々」)

僕は自分自身の視点や分析眼などが「切れすぎる」とはお世辞にも思っていない。詰めの甘いところだらけだし、鈍磨だし、へなちょこだと思っている。そんな自分でも、例えば「脱施設」のような話題になると、どうもザクリと切っているようだ。しかも周りからの評価はどうも「切れすぎる」ようで、以前このブログでも書いたことがあるが、“I am right, you are wrong!”の論法でやってしまうと、結局対話が全く成り立たなくなる、という経験が少なからずある。最近では直球勝負はいかんけど、さりとて「ごりごりの学術性」では声が届かないので、「笑い」という「鞘」に収まったフリをしている。とはいえ、話していても、どうもこの鞘に対する不全感のようなものを感じていた。その場は「笑」えても、結局相手の心に届かない、という点では同じではないか、と。結局インターフェイスをいくら相手にフレンドリーなものにしても、その底に“I am right, you are wrong!”の論法が染みついていると、それは表面上の交通以上のものにならないのではないか、と。

そんなときに内田先生が言うのが、「愛」なのである。

「愛」って言われてもねぇ・・・。日曜日あたりからずっと考えていたのだが、さっきの風呂上がりで、昔大学一年生の時にO先生に言われたあのフレーズを思い出した。
「抽象とは捨象である。」
 
何かを選び取るとは、何かを捨てることである。その時、捨てる対象に対する慈しみや愛情を感じながらも、にもかかわらずその慈しみの対象を捨て去り、それ以外の何かを選び取るのである。抽象とは、このように苛烈で、実に辛いものである。タケバタ君にはまだ捨てる何かへの愛おしさを感じながら、でもそれを捨てる、という「抽象」かつ「捨象」の真の意味はわからないだろうけど・・・。

19か20才の頃の僕には、確かにO先生の「捨象」を表現するときの凄みの背景が、よくわからなかった。何でも自分のものに出来る、と思っていた、青臭い年頃の青年にわかるはずもない。でも、それから一回り近くが経ち、20代の後半から色々なものを「捨象」していった。ある時は率先して、ある時は渋々。そして、またある時は泣きながら・・・。そうやって、未練がましいタケバタも、色々なものを諦めて、捨て去って、後ろ髪ひかれながらも決断していくなかで、今の自分にたどり着いたと思う。まさに、この後ろ髪引かれながらの苦渋の決断こそ、抽象であり捨象なのだ。そして、それこそ「愛」を伴いながらの「切る」作業だったのだ。

なるほど、一刀両断で、「そんなものダメだ」と言うのはたやすい。私の言うことが正しくて、あんたの今の行いは間違いだ、そう言うと実にすっきりしている。でも、相手が「間違った行い」をしていると認めていても、その今現在にたどり着くまでに、様々な紆余曲折があったはずだ。それらのバッククラウンドを全く無視して、「ダメなモノはダメ」と言ったら、スパッと切れるが、でも後味は良くない。第一、切られた方が普通は納得しない。そうではなくて、今までの紆余曲折を一応は認めた上で、慈しみの視線を注ぎながら、でもその結果として立ち現れた現在に関しては、私は認めることが出来ない、別のスタンスしかとれない、と「捨象する」。この「愛」ある「捨象」(=抽象)こそが、内田先生の言うところの「いちばんよい鞘」なのではないか。何となく、そんなことを感じている。

今日は研究室で溜まっていた書類や様々なモノを捨てまくっていた。これも、一種の捨象現象。昔は捨てることが出来なくて、部屋一杯にがらくたをため込んでいたが、これは捨象が出来ずに、未練がましく何もかも手に残しておくことに等しい。そうすると、切り捨てなくていいから、その瞬間は楽なのだが、選び取れてないが故に、結局の所どっちつかずになり、何もかも判断できない「未決」の状態がズルズル続いていく。そんな日々が昔の僕の傾向だった。でも、20代の終わり頃からか、ある種の「捨象」を決意した後、以前に比べたら、部屋にため込むことなく、捨て始めた。もちろん、今日だって「ああ、これは・・・」という一定の慈しみは、捨てる対象の資料にもある。でも、それに拘泥していたら、それ以外の抽象しようと思う対象を、きちんと選び取れなくなるのだ。それがわかったから、あっさりそれ以外は諦めて、捨てられるようになった。それ以来、選び取った範囲は狭いけれど、その範囲でなら、何かが書けるようになってきた。

「捨象」と「愛」と自分の「鞘」。改めて、切り捨てたものを慈しみ、選び取ったものについて想いを深くする夕べになりそうだ。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。