「巫女的楽曲」に出会うと、僕は憑かれたように聞き続けることがある。最近出会った「巫女的楽曲」は、平原綾香の「ジュピター」。
夢を失うよりも悲しいことは
自分を信じてあげられないこと
愛を学ぶために孤独があるなら
意味のないことなど起こりはしない
(吉元由美作詞、ホルスト作曲)
ホルストの「惑星」の耳馴染みなメロディーに、吉元由美が深遠な歌詞を書く。これだけでは、必要条件は満たしていても、十分ではない。そこに、平原綾香の地響き的な声色が乗り移って、初めてそこで「巫女的楽曲」として「憑依」してくるのだ。こういう楽曲に出会ってしまうと、もうその世界に虜になってしまう。思えば、こういう体験は、高校生の時から始まっていた。最初の「巫女」との出会いは中島みゆき。多くの人は、根暗だとか何だとか、じっくり聞いてもいないのにラベリングする。しかし、彼女の歌詞は、根暗とか何とかではなく、深い。時には軽やかに、時には重厚に、歌詞なのか祝詞なのか判然としない世界観を構築していく彼女の世界に、いつの間にかはまりこんでいた。例えば・・・
「縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます」
(「糸」 中島みゆき作詞作曲)
こうして今、歌詞カードを見直してみて、昨日読んだ本の記述につながっていくのにびっくりする。
「『しあわせ』は古くは『仕合はせ』と書いた(今でもそう書く人はいる)。それは『仕合はす』、つまり『物と物とをきちんと揃える』を意味する動詞の名詞化したものである。だから、『しあわせ』とはほんらい『合うべきものをぴたりと出会うようにする』という他動詞的な働きかけの結果を言ったのである。」(内田樹『しあはせ考』「態度が悪くてすみません」角川書店 所収)
巫女的な歌手と、巫女的要素を多分に持つ哲学者との、恐るべき着眼点の一致。これだから、巫女的世界は魅惑的だ。ちなみに言うならば、もう一人の僕の中での「巫女」さんも、中島みゆきの世界との共通点を持っている。
My life has been a tapestry of rich and royal hue
An everlasting vision of the everchanging view
A wondrous woven magic in bits of blue and gold
A tapestry to feel and see, impossible to hold
(Tapestry: Carole King)
中島みゆきがあなたと私の出会いを縦糸と横糸で織りなしたとするならば、キャロル・キングは人生を「つづれ織り(タペストリー)」に見立てている。2人の出会いと、人生の出会い、の違いはあれ、「持つ」ことは出来ないが確実に「ある」世界について、糸を重ねる、というたとえを使って鮮やかに表現している。
こうして書いていて心許ないのは、これらは全て中島みゆきやキャロル・キングの魂からの「響き」が重なって、ようやくはじめて息吹が吹き込まれるのだ。それは、平原綾香の場合でも同じ。それも単なる「響き」をも超えた、何か乗り移ってきたエネルギーのようなもの、と表現してもいいかもしれない。そういう「なにか」が歌詞に付加されて、初めてその世界は「巫女的」な存在を媒介して、聞く者を「この世の少し向こう側」へと誘ってくれるのだ。こういう「合うべきもの」に「ぴたりと出会」えること、これが「しあはせ」だとするならば、僕は何とも「しあはせ」に「合う」ことが出来ている。
ちなみに内田先生は、「『しあはす』という主体的意志と行動ぬきに『しあはせ』は到来しない」という箴言も書いておられる。「意味のないことなど起こりはしない」と「自分を信じ」れる「主体的意志」と、それに基づいた「行動」があるからこそ、「逢うべき糸に出逢え」、その糸の織りなす中から” a tapestry of rich and royal hue”なるものが、少しずつ、編み出されていくのだろう。そう思うと、なんとも「ありがたい」話ではないか。やはり、巫女的世界は、「あちら」の世界へとアクセスする鍵なんだなぁ・・・。