脱皮の苦しみ

 

連休明けのこの1ヶ月、多くの「試練」と直面している。

以前書いた県の障害者福祉に関する特別アドバイザーの仕事が本格的にスタートし、今月から来月にかけてのたった二ヶ月あまりで、県内の28市町村全てを訪問することになった。実際の訪問し始めると、行ってみて初めて体感する市町村現場のニーズがたくさんある。そもそも「相談支援」ってなんやねん、ということから始まって、福祉という非定型なものに対する、行政現場の人のとまどいに多く出会う。法や条例をはじめとした多くのルールに則って仕事をするプロフェッショナルにとって、「目の前の人を救うためにどうしたらいいか」が第一義的でありルールは二の次、となる福祉的現実との折り合いを、なかなかつけにくいのもよくわかる。でもその相異なる価値観の真ん中に立ち、どういうポイントから「橋渡し」が出来るのか、を現場を体感しながら考えていき、時には説明する場面に立たされると、私自身の理解力や説明力が大きく問われる。

また、リスニング能力、という点でも、大きな転機に差し掛かっている。もともと私自身、増長的性質を持っているのだが、最近いくつかの現場で、相手の話を遮ってまで「こうすべきだ」とわめいている自分に後から気づいてハッとする場面があった。相手に良かれ、と思って、忠告している気になっているのだが、それってよく考えてみれば、相手の話を聞くことなく、自分の価値観や思想を押しつけていることに他ならない。また、その背後には“You are wrong!”という不遜さと、そのもっと背後には“I am rightという無批判さが内包されている。こういう不遜さや無批判さは、「裸の王様」に直結するだけに、実に危険だ。

不遜さや無批判さへの自戒、というと、昔、祖母から結婚時に言われた箴言を思い出す。

「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」

実りがあるかどうかは別にして、社会的な責任や肩書きがついてしまうと、どうしても人間は増長傾向を増しやすい。その際、実れば実るほど「ふんぞり返る」人々を垣間見て、「あんな大人は嫌だなぁ」と思っていた。だが、今、「あんな大人」にも近づく危機にある、と気づかされる。また、これに関連して、昔から母親にことある毎に、「ひろし、大人になったら叱ってくれる人はいいひんのよ」と言われていた事も改めて思い出す。最近、「叱って」もらえるチャンスは極端に減ってきた。そういう中で、放っておけば、すぐに天狗になりうる。あぶない、あぶない。

なので、直言をもらえるチャンスは実にありがたい。ありがたいのだが、直言故に、自分の偏差と真正面から向き合う必要があり、正直見たくない現実をもみるようで、しんどい時もある。前回のブログに書いたように、今月は共同研究の成果を代表でまとめる機会が何回かあった。その際、研究班の皆さんからは、忙しいさなかにもかかわらず、即時的に本質的なコメントを多数頂戴した。尊敬する先輩や仲間からの本質的なコメントほど貴重で有り難いことはない。のだが、本質的、ということは、必然的にその中にクリティカルなものが内包されている。リスニング能力がまだ不完全で至らない私は、ズバリ言われる本質的コメントを、私の意見への批判ではなくて、私そのものへの批判(=You are wrong!)と感情的に受け止め、自己否定と勘違いして、落ち込むこともあった。もちろん後から冷静に読めば、実に有意義な助言であるのだが、〆切間際にぱっと字面だけ読むと、「俺ってこんなに至らないんだ」と勝手に悲観的になってしまう自分が、まだまだいるのである。

ことほど左様に、聞くこと、読むこと、解釈すること、伝えること・・・これら全ての面で、いま、一挙に自分が「脱皮」することを求められている。ついでに言えば、このブログだけでなく、来月10日〆切の原稿も書きあぐねている、ということは、書くことにも脱皮が求められている。産みの苦しみ、なんて言えば美しいが、直面している自分からしたら、実にしんどい。

「仕事で『一皮むける』」(光文社新書)という本の中で、著者の金井壽宏は、「一皮むける」経験を「量子力学的な跳躍となった経験(quantum leap expoerience)」の日本語訳として使っている。まさに、僕自身、「量子力学的跳躍」のごとく、とてつもなく「跳躍」することが求められている。そんな脱皮の苦しみに差し掛かった、5月末日であった。

己の偏差(増補版)

 

「あんたの文章は、ほんまジャーナリスティックやなぁ・・・」

昨日の朝、学会の抄録提出の最終打ち合わせをしていた際、共同発表者がふと漏らした。今関わっているとあるテーマで学会発表をする、と決めたのが、連休明け。バタバタしていて、作り始めたのが今週になってから。で、何度も練り直し、関係者に見て頂いて、多くの本質的なコメントを頂いて、ようやく提出〆切当日の朝になって、何とか形になった。その最終原稿を巡るやり取りである。

何人かの助言をまとめると、私の書くものには、「価値観が出過ぎ」で「口語調」、そして「くどい」とのこと。自分一人でるんるんブログを書いている分には良いのだが、共同研究を学会の場で発表するにあたっては、この3つは致命的。「価値観が出過ぎ」であれば事実ではなくその価値観のとらえ方で発表内容が攻撃されてしまう。「口語調」になりすぎると、せっかくの発表の品格が揺らいでしまう。で、「くどい」とそもそも話を聞きに行く気がなくなってしまう。だから、絶対やってはいかんことなのだ。

学会抄録って、印刷されたものが後に残るだけでなく、「顔見世興行」的に発表のダイジェストを書くため、多くの聞き手にとってはそれを頼りに「どれを聞こうか」と値踏みするものでもある。いや、聞けなくても、残された記録を頼りに、当該研究の進捗具合や成果などを、外部から眺めることが可能なものである。研究チームの一員として、外部資金も頂いて、一定の社会的使命を持つ研究であればなおのこと、その成果をストレートに世に問いたい。その際、事実ではなく価値論争になったり、品格がなかったり、そもそもまわりくどいなら、せっかくのチームのやっている意義が台無しになってしまう。だから、直前にもかかわらず、関係者の方々が時間を割いて見てくださったのだ。関係者のみなさま、ほんとうに、ありがとうございます。

で、僕はずぼらな人間なので、これまで基本的に一匹狼的に、学会発表も文章も一人で書いてきた。ということは、他人とのコラボレートでこのような発表を作る、ましてや研究チームを代表して、なんていうことがなかったので、今まで自分の偏差を指摘される機会があんまりなかったし、あってもすっと頭に入ってこなかった。それが今回、原案を書いたのは僕だが、それを共同発表者で僕より遙かに頭の切れるH氏と毎日のようにやり取りをしていて、かなり色々ダメ出しを受ける。これって院生時代以来のしんどさ。ある程度まとまった、と思って切り返しても、「これじゃあ研究発表ではなく、何だかまだ実践報告だね」「まだ変だよ」とクールに返される。もちろん、代案も示してもらうのだが、そこから格闘が続く。その間も県の仕事関連の打ち合わせなどもあり、いつも深夜か早朝にクチクチ直す始末。その結果、ようやく最終稿が固まった後で、冒頭の発言を、しみじみ言われたのだ。

大学院に入学の際、僕はあるジャーナリストに弟子入りした。その師匠からは文章のイロハからものの見方、人生観まで実に様々なことを学ばせて頂いたが、書くプロでもある師匠から何度も言われたことは、「文章は省略と誇張だ」、ということ。見出しの一行でいかに引きつけるか、でその後読者が読んでくれるかどうかわかる。徹底的に考え抜いて、インパクトのある一文をぴりっと書けるか、が勝負だ、と言われてきた。で、「くどい」と指摘されることは、まだ省略が足りない、精進が足りない証拠なのだが、「誇張」というか、価値観を全面に押し出して、インパクトのある言葉を探す営み、というのは、身に染みついているような気がする。その部分をさして、先の共同発表者は「ジャーナリスティック」というのだ。

実は彼から以前にもそう指摘されていたのだけれど、そのときはその意味が正直わかっていなかった。だが今回、そうやって僕の文章に赤を入れるやり取りの中で、わかってきたのだ。あ、この業界では、僕のやり方の方が偏っているのね、と。

ただ、だからといって師匠に教えられたことが問題、とは思わない。むしろ逆で、中途半端な「省略と誇張」だからこそ、研究者からも、ジャーナリストからも批判される文体になってしまっているのだ。超一流のジャーナリストは、凡庸な学者を遙かに超えたよい「研究」をされておられる。それを、二人の超一流ジャーナリストに身近に接するチャンスを持って、実感した。問題は、その教えを、きちんと自覚した上で、体内化、徹底化出来ていない己の問題なのだ。この偏差を、血肉化できるか、が最大の論点なのである。

ことほど作用に、一匹狼、ということは、お作法がなっていない、ということの証拠でもあった。基本が出来てない、なんて、あな恥ずかしや。でも、よう勉強させてもらいました。おかげで、昨日原稿を出し終わり、その後家を飛び出して、午前は県の仕事で役場への聞き取り、午後は講演、を終えて駅まで送ってもらって気が抜けたら、とたんに急にヒドイ頭痛肩こりに。あんまり真剣に頭を使わないタケバタは、基本的に肩がこらない。久しぶりに真面目に頑張った、のであろう。昨晩はサロンパスが本当にじわーっと効いた。どうやら偏りは、ほんとうに「身体にくる」ようだった。

胆識を体感するには

 

連休明けの1週間、寒暖の差も激しく、木曜日を迎える頃にはぐったりしていた。
で、土日は仕事なので、金曜日は「臨時休業」。裁量労働制なので、この辺の加減が出来るところが良い。教員になった当初は平日に休む、ということが出来なくて、でも研究会、講演、調査などは土日に多く、結果、休みなく働いてかえって平日の能率を下げる、ということを繰り返していた。なので、ようやく最近、オン・オフスイッチをはっきり切り替えられるようになり、多少能率もあがる。

で、能率を上げるために!?、休みで訪れたのは、八ヶ岳の麓のアウトレット。今回はパートナーが所望され、お昼過ぎから出かける。今回は僕は買うつもりはなかったので、文庫本を抱えて、青空の下で読書。南アルプスの山々を眺め、初夏の風と陽射しを浴びながらノンビリしていると、一週間の気持ちの張りがほぐれ、バカンスをしているかのようなリラックスが出来る。で、読んでいたのは、バカンスには似つかわしくない!?一冊。

「一つの問題について、いろいろな見方や解釈が出る。いわゆる知識である。しかし、問題を解決すべく『こうしよう』とか『かくあるべし』という判断は、人格、体験、あるいはそこから得た悟りなどが内容となって出てくる。すなわち見識である。ところが、見識だけでは未だしである。見識が高ければ高いほど、低俗な連中は理解できぬから反対する。この反対、妨害を断固として排除し、実践する力を胆識という。いうなれば、決断力や実行力を伴った知識や見識が胆識である。学問は実にその胆識を養うところにある。」(伊藤肇「現代の帝王学」講談社文庫、」p86)

とある著名人が、若くして親から会社を継いだ時に一番参考になった、というので、古本で入手してみた一冊。古今東西の箴言と、名経営者の格言を織り交ぜている「自己啓発系」と言ってしまえばそれまでだが、昨今の自己啓発本との違いは、その掘り下げ具合。論語や十八史略などの古典の世界が、まだリアルに読者に訴えた最後の時代なのだろうか。出てくる経営者達も、そういった古典を自身のバイブルとして、あるいは難局を乗り越える際のぶれない指標として用いている。この本が出たのが1979年だから、たった30年前。それまで漢文的素養が当たり前のように日本に残っていたのに、その伝統がこの30年で見事に消えつつあるとしたら、実に寂しい。大事な筋の一本が、日本人の中から抜けていったかのよう。筆者の言うように、「知識」や「見識」があっても、「胆識」なき日本人が昨今多いのも、そういう古典との巡り逢いのなさが、その理由にあるのではないか。

最近、大学で担当している1年生向けの補習授業では、「声に出して読みたい日本語」(斉藤孝著、草思社)を用いて、みんなで音読している。「大学で朗読?」と思われる方もいるかもしれない。でも、高校までで、そういった古典との出会いに目や耳を閉ざし、つまんねえ、とシャッターを下ろしてきた学生達のエンパワメントには、力強い日本語が大きな励みになる。正直僕自身も、斉藤氏の一連の著作を「有名人だから」とさけてきた。だが、大学での補習授業(リメディアル教育って奴です)に向き合うようになってから斉藤氏の著作を読み始め、そういう臆断を反省。「教え育む」という営みと真正面から向き合って来た人の編み出した様々なメソッドは、使える、を超えて、一つの人間学として学びが多い。

日本語の暗唱や反復練習を重視した氏の教育論は、スポーツで秀でた能力を持つ学生達の勉強面のサポートの上で、彼ら彼女らの得意なメソッドが使えるため、実に役立つ。実際今年はそのリメディアル授業において、最後10分間、全員立ち上がって大声で、「祇園精舎の鐘の音・・・」なんて叫んでいる。担当する柔道部の1年生達も、身体を揺らして叫んでいる。そういった古典の「体感」の中で、少しでも「胆識」が育まれないだろうか。それが、担当教員の切なる願いでもあるのだ。

運命へのチャレンジ

 

Duty first, Self second! (大儀が第一、私は二の次)

連休中に映画館で見たクイーンでの、エリザベス女王の台詞。久々に質の良い心理劇を見た。ダイアナ妃の突然の死亡から1週間、自身の信念に基づき声明も哀悼の辞も発しない女王に対して、国民的なバッシングがエスカレートしていく。女王は、滞在中の別荘で、マスコミの膨大かつ一面的な報道に心を痛め、就任したてのブレア首相は、最初冷ややかに見ていたが、やがて女王の信念に気づき、共鳴の考えを持ち始める・・・。もちろんこの映画もフィクションだが、一方でマスコミ報道とい事実の切り取り方(=フィクション)についても考えさせられた作品であった。私たちが「一次情報」として鵜呑みにしやすいマスコミ報道が、いかに本当の情報の中から取捨選択と価値付けをした「二次情報」であるのか。一端流れ始めたマスコミ報道という流れが、いかに暴力的な色彩を持つのか。その中で、どういう決断を、どの場面ですることが、筋を通すことになるのか。

この映画を見ながら、大阪からの出張帰りにの汽車の中で読んでいた一節を思い出していた。

「人生のすべての決定が賭けである。どのような行動をとるにしても、その行動が将来どのような結果をもたらすかわからない状況で、可能な行動の中から1つを選ばなければならない。」(繁桝算男「後悔しない意志決定」岩波書店、p42)

クイーンの選択、でなくとも、私たち一人一人の「人生のすべての決定が賭けである」。その際、自分の今まで守ってきた価値観を固守する選択が、時として「時代のムード」というものと合わずに、大きな反発を催すこともある。それに対して、全てを引き受ける立場という重責であればあるほど、あるいはこれまで重責を担い続けてきた期間が長ければ長いほど、その「可能な行動」の選択肢の幅は狭まり、結果として自身の「賭け」のレートは高まり、選ぶ事への厳しさ、しんどさも増えていく。それを意識して、なおかつどういう「賭け」が求められているのか、この映画を見ながら、そんな事を考えていた。

また、この徹底的に論理的で、僕の文章とは違い無駄な形容詞や接続詞の一切ない、シンプルで骨太なテキストには、多くの名言が内包されている。そして、そういう名著は、別のある名著を思い出させてくれる。

「社会科学的認識の芽がわれわれの中で育ってくる最初の結節点は、われわれ一人一人が決断という行為に迫られることです。決断、賭けということであって、はじめて事物を意識的かつ正確に認識すると言うことが、自分の問題になってきます。(中略)事物の認識が深まれば深まるほど賭けらしい賭けができる。逆に言うと、深い賭けが出てきて、はじめて、主観とか希望的観測ではなくて、客観的な認識が自分のこととして出てきます。」(内田義彦「運命へのチャンレンジ」『社会認識の歩み』岩波新書、p44-45)

統計学的に言うか、社会思想史の側面から言うか、の違いはあれど、二人は同じ事を言っている。「賭けらしい賭け」をする主体とは、徹底した「事物の認識」を深め、それが「主観とか希望的観測ではなくて、客観的な認識」にまで高まっている。そういう深い認識があるからこそ、ぶれない決断が可能となる。

「一貫して安定した効果評価は、一貫した価値観の反映である。」(繁桝算男、前掲著、p98)
「後悔しないためには、変化しない大きな目標をもつべきであり、また、能動的な意志決定の機会をなるべく多く持つべきであろう。」(同上、p101)

常に「私」よりも「大儀」を優先させる、これも「一貫した価値観」である。また、「変化しない大きな目標」とも言える。そういう視点を持っていると、「決断という行為に迫られる」場面でも、「一貫して安定した効果評価」を持ち続けることが出来る。このぶれない視点があるからこそ、「深い賭け」が可能になる。そうした「結節点」における、主体的かつ本質的で、さらには「能動的な意志決定」のくり返しの中で、人々の信任や評価というものも、少しずつ積み上がっていく。それが「伝統」という無形のものを構築していく。

「伝統の価値を高唱する保守主義者はその価値の源泉を超越性、すなわち伝統が有限な人間を超出しているところに求めがちであるが、子細に眺めれば、伝統もまた人間のさまざまな活動の産物であり、問題解決のプロセスを経て形成されたものであることがわかる。伝統もまた『主体』的に形成されてきたのであって、自然の形成物ではない。」(間宮陽介「丸山真男」ちくま学芸文庫、p170)

そう、今日見た映画の中で演じられていたのは、クイーンという「有限な人間」が、「問題解決のプロセス」の中で、一貫した価値観を保持しながらも、「主体」的にその時点で深い賭けをし続けた、結節点におけるドラマだったのだ。それは「伝統」という「超越性」で押し切ることが不可能な、まさに「その行動が将来どのような結果をもたらすかわからない」分岐点における賭けの場面での、「能動的な意志決定」の瞬間に関する優れたフィクションだったのだ。

もちろん、事実はどうだったのか、はわからない。でも、それを見る私たちにとって、むしろ大切なのは事実の判定ではない。そうではなくて、そこでどのような選択がなされ、何が選び取られたのか。その際、自身の中でどのような価値観が大切にされ、守り続けようとしたのか。それが、賭けにどう反映されたのか。その部分が大切なのだ。だからこそ、映画のラストシーンでのクイーンの発言が、胸にしみるのである。

Duty first, Self second!

私自身も、これから社会的な立場で仕事をする機会が増える中で、この矜持を持ち続けることが可能なのか。賭けの主体として、しみじみ自分に問い直していた。