一呼吸を置いて、まずは聴く

このタイトルは、僕が今、一番変えねばならないポイント。先日、妻に指摘された。

「あのさ、相手の話を聴いた時、『へぇ、そうなん!』で良いところを、どうして『それについて僕はね・・・』なんて言い出すの? コメントを求められているのではなく、共感や理解を求められる時にまで、どうして自分の意見が言いたくなるの?」

いてて!そこ、自分でも一番の弱点と思っている部分です・・・。

実はこないだのAD集中研修中でも、飲み会の席で、気づけば心理療法家であるSさんに、「僕は『なんで?』を多用するんです」とこぼしたら、飲みながら「なんで返し」で突っ込まれていた。

「実は僕、だまって聴くだけ、が苦手なんです」
「なんで?」
「間が怖いというか、相手の話に何か付けて返さなければならない、という強迫観念のようなものがあるんです」
「なんでそんな強迫観念をもっているの?」
「えーっ・・・、なんでやろう・・・。なんか沈黙があると、ついついしゃべりだして場をもたせようとする自分がいます」
「なんであなたが場をもたせる必要があるの?」
「うぇーっ!!! 確かにその通りや。でも、ゼミ生との飲み会でも、ついつい場を盛り上げようと必死にしゃべって疲れ果てる僕がいて・・・」
「なんでそんなに頑張るの?」
「ひゃぁーーー。助けて! でも、なんでなんやろう。そうやって合いの手を入れて必死になると、疲れ果てるんです。でも間が怖いような気もします。それはなんで???」

なるほど、この「なんで?」攻撃はかなりえげつないことがその時よく分かりました(笑)

閑話休題。

こんなエピソードの後だったので、妻の指摘を受けた直後の妻との会話は、「相手の話の確認モード」に徹してみた。

「そんな余計な事を言わんと、共感の言葉を出すだけで充分なんじゃない?」
「そうか、余計な事を無理に言わなくてもよいんだね」
「そうそう、たいていの場合、相手はそこで議論をしたくないんだから。ただ、共感してほしいだけだから」
「なるほど、共感してほしいだけで、議論したくないなら、余計な合いの手はいらない、と」
「そうよ。それに、余計な一言は、火に油を注ぐ、というか、自分が巻いた種で面倒な事を引き起こして炎上した経験、あるでしょう?」
「確かに、巻いた種で、火に油を注いで、疲れ果てたことは一度や二度では無い」
「だからこそ、相手の発言を聴いた後、『俺の意見を言わねば』なんて頑張らないで、スーッと聴いて受け止め、理解していることを伝えるだけで、充分な場合も多いんじゃない?」
「そうか、聴いているよ、と伝えるには、この前の研修でも習ったけれど、こういう事実確認をするだけで、充分なんだね。頑張らなくてもよい、のかもね」
「そうそう、今日はいつもと違って余計な返しやツッコミが無いから、以前から言いたかったことが、ずいぶんスッキリ言えたわ」
「僕の余計な返しがないと、言いたいこともスッキリ言えるんだね」
「ほんとよ!」

こう書くと、少し技法チックだが、実際僕は随分省エネで話せたし、妻は今までよりも随分「聴かれた」という感覚を持ったそうだ。

大学院生の頃は、何の肩書きも社会的信用もなかったので、自分の意見を聞いてもらうために、必死でアピールしていた。自己顕示欲もあるのかもしれないが、それよりも、「言わないと誰も聴いてくれない」「存在がなかったことにされる」という危機感・切迫感がひどく内面化されているのだと思う。でもその実、対話空間が好きだ、なんて言いながらも、そういうやりとりの後はごっつう疲れ果てている事も、一度や二度ではなかった。つまり、自分では「自然体のつもり」でも、実際はかなり「無理して」「合いの手を入れている」ことが多かったのだ。

だが、こないだのAD研修で学んだのは「話すと聴くを分ける」と「ポリフォニー」。一方、これまでの僕は、相手の話を聴きながらも、自分の話すことを考えたり、その合いの手を入れるタイミングを探っていたのかも、しれない。それは、僕の中で、相手の話を受け止めて、内的対話をする時間や空間を用意せずに、脊髄反射的なコメントをする、ということを意味する。相手にとっては、その発言に関する情動やパッケージの総体が受け止められていない、という感じになるだろう。また、単なる「オウム返し」ではない事実確認の質問は、「こっちはあなたの話を聴いているよ」とキャッチのサインを出した上で、あなたの話をもっと聴きたいな、という素敵な合いの手なのだ。「なんで?」より、随分マイルドで、相手も答えやすい。そして、僕も相手の発言を整理・要約することで、僕自身の中での対話も促進されている。何より、エネルギーの消費量ががくっと下がって、楽な対応なのだ。

こういう「聴く前提」に耳も口もそろっていると、聴いた後の対応も全然違う。相手の意見は相手の意見として尊重して、でも自分の意見はそれと違っても良いのである。その中で、初めて「ポリフォニー」が生まれてくる。

実はAD研修を受けて目から鱗だったもう一つのポイントが、ポリフォニー。これって、意見を一つの方向性にまとめなければならない、というファシリテーター的強迫観念に縛られていた僕には、本当に青天の霹靂。無理してまとめなくても、「話すと聴く、をわける」事が出来ていると、相手の話を聴いて受け止めた上で、でもそれとは違う自分の意見を共存させる、ということが可能になる。更に言えば、そういう異なる意見が、でも相手の話を聴いた上で、共存しているうちに、何となくのハーモニーが生まれてくる。

これは「妥協」とは違う。各人のヴォイスというか、主体性は守られるし、しっかり聴かれる。でも、他の人のヴォイスを聴いて、その主体性を受け止めることで、自分自身が単独で踊っていた時と違い、ある種のダンスの状態に入る、ということでもある。

今回の研修の中で、「関係性の中での心配事(relational worries)」という考えを聞いた。それに関連づけるなら、ポリフォニーとは「関係性のダンス」なのだ。あなたと私は違う主体や意見を持ちながら、ダンスを続ける関係性を維持する。その中で、ダンスのステップが、少しずつ同期してくる。同調ではなく、お互いが気持ちよい感じで同期していくのだ。

そしてこういう気持ちよい、ポリフォニックなダンスを続けるための「初めの一歩」こそ、「一呼吸置いて、まずは聴く」ことにあるのではないか。そういう仮説を抱き始めた。