能力主義ってやっぱり変!

マイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(早川書房)を週末に読み終える。サンデルの本をちゃんと最後まで読み通せたのは、これがはじめて。正直、正義論や倫理の議論はあまり得意ではなく、ましてや流行の本にすぐに飛びつく性質でもないので、本当に珍しい読書体験。でも、僕がここ最近ずっと気になっている能力主義について、サンデルならどう描くか、を知りたかった。そして、めちゃくちゃ面白かった。

「人を鼓舞するにもかかわらず、能力の原則は専制的なものに転じることがある—社会がそれに従い損ねる時だけでなく、実はとりわけ、社会がそれに従う時にも。能力主義的理想の影の側面は、その最も魅力的な約束、つまり支配と自己実現の約束に埋め込まれている。この約束にはとても負いきれないような重荷が伴っているのだ。能力主義の理想は個人の責任という概念を極めて重視する。人々に自分の行動の責任をある程度まで背負わせるのは良いことだ。道徳的主体として、また市民として、自分で考えて行動する能力を尊重することになる。だが、道徳的に行動する責任を負わせることと、我々一人一人が自分の運命に全責任を負っていると想定する事は全く別である。」(p52)

この10年ほど、日本社会における「生きづらさ」について授業でもずっと取り上げてきて、自己責任論と向き合い続けてきた。そして自己責任論の背景に能力主義の弊害があるのではないかと思い続けてきた。ただ能力主義を頭から否定することはできない。なぜならばその能力主義社会の中で、僕自身も生きてきたのであり、ある時点まではその能力主義の果てしない競争に自分自身もしっかり乗ってきたからである。その自分が信じて疑わなかった価値前提を疑うのは、そう簡単ではない。だからこそ能力主義はどう考えていいのか、いろいろな文献を読みながら、毎年授業で学生達とああだこうだと言い続けながら、考えてきた。その課題を、サンデルは実に明快に整理している。

「道徳的に行動する責任を負わせることと、我々一人一人が自分の運命に全責任を負っていると想定する事は全く別である」

この2つが渾然一体となっているのが、能力主義のややこしいところだ。道徳的に行動する責任を免責するつもりはない。でもたまたま勉強ができたかどうか、受験勉強をうまくすり抜けることができたか失敗したか。それは、人間の様々な能力の中のごく一部分にすぎないのに、例えば高卒か大卒か、とか、有名大学を出ているかどうか、で、その後の自分の運命が大きく変わったり、それも自己責任といわれると、それは何だかおかしいのではないか、と思う。

そして論考は、民主党の大統領だったバラク・オバマがこの能力主義の申し子だったという考察を深めていく。僕自身、オバマ政権の誕生は単純にワクワクしたし、期待もしていた。サンデルも書いていたが、黒人乱射事件の後の「アメージンググレース」の弔辞は感動的で、いま見ても彼の訴える力は圧倒的でもある。そんなオバマがなぜアメリカ社会で評価を落としていくのか、そしてトランプに政権の座を譲ることになるのかが理解できていなかった。「リベラル左翼」と呼ばれる論者たちは、それをポピュリズムのせいだとか、アメリカの貧しい白人たちの最後の反論だとか様々な分析をしていたが、どうもそれらの分析にはしっくり馴染めなかった。だがサンデルの能力主義論を読んでいて、オバマが嫌われる理由がすごくよくわかった。

「能力主義者は、あなたが困窮しているのは不十分な教育のせいだと労働者に向かって語ることで、成功や失敗を道徳的に解釈し、学歴偏重主義—大学を出ていない人々に対する陰湿な偏見—を無意識のうちに助長している。」(p132)
「民衆的な統治についての見解になると、オバマは心底から一人のテクノクラートだった。これは、人望ある大統領に対する評価としては手厳しいと思われるかもしれないので、説明さしてほしい。民主的社会を統治するには、意見の衝突に対処する必要がある。意見の衝突に直面しつつ統治するには、意見の衝突がいかにして生じ、あれこれの瞬間に、あれこれの公共目的のために、いかにして克服されるかについて、一つの見解を想定することになる。オバマは、民主的社会において意見の衝突が生じる最大の原因は、一般市民が十分な情報を持っていないことだと信じていた。情報不足が問題なら、解決策は次のようになる。事実をよりよく理解しているものは仲間の市民に代わって決定を下したり、あるいは少なくとも彼らを啓発すべく、市民自身が賢明な決定を下すために知るべきことを教えてやったりすれば良いのだ。大統領のリーダーシップは、道徳的心情ではなく、事実の収集と公表めぐって発揮されることになる。」(p155)

オバマだけでなくイギリスのブレアも、政権の主要施策に教育を挙げた。これは「あなたが困窮しているのは不十分な教育のせいだと労働者に向かって語ること」であり、それは大卒でない人に対して、「学歴偏重主義—大学を出ていない人々に対する陰湿な偏見—を無意識のうちに助長している」のであり、その学歴偏重主義そのものを是正する気持ちがない、と表明することでもあった。また「事実をよりよく理解しているものは仲間の市民に代わって決定を下したり、あるいは少なくとも彼らを啓発すべく、市民自身が賢明な決定を下すために知るべきことを教えてやったりすれば良いのだ」という「上から目線」は、「大卒の知的エリートである私は事実を知っていて、高卒の無学なあなたはそれを知らない」という非対称性に基づく上から目線の「陰湿な偏見」をはらんでいる。さらには、「意見の衝突」は、知識の量如何ではなく、能力主義の前提の中で、労働者階級の意見がそのものとしてしっかり受け止められないことへの反発だ、と理解していないことが、オバマ政権やヒラリー・クリントンへの反感にも繋がった、というのは、すごく納得出来る整理であった。

さらにこの本では今の議会政治が普通選挙制以前の、財産資格に基づく制限政治と似ていると言う。普通選挙制度が始まった当初、労働者階級の、つまりは高卒の国会議員がアメリカでもイギリスでも一定数いたのに、現在は、本来労働者階級の政党であるアメリカの民主党も、イギリスの労働党も、大卒エリートで占められていて、労働者の意見を充分に反映できていない、という点で、普通選挙以前の議会構成員の学歴と同じ、というのである。ここにも確かに能力主義の奢りがある、というのもよくわかる。

そして、この本の主張の核心部分は次の部分だと僕は感じた。

「金儲けがうまいことは、功績の尺度でもなければ貢献の価値の尺度でもない。すべての成功者が本当に言えるのは次のことだ。類いまれな天分や狡猾さ、タイミングや才能、幸運、勇気、断固たる決意といったものの不可思議な絡まり合いを通じて、いかなる時も消費者の需要を形作る欲求や願望の寄せ集めに—それがいかに深刻なものであればかけたものであれ—どうにかして効率的に応えてきた、と。」(p207)

能力主義は成功を、努力の成果だと思い起こみたがる。確かに努力もあるだろう。でもサンデルが描くように努力以外の様々なファクターが不可思議に絡まり合う中で、ある人は成功し、ある人は失敗する。それは文字通り、運不運である。にもかかわらず、能力主義は、運不運という人間の計らいではどうしようもないことを、努力如何で、しかも大学卒業かどうかと言う狭い評価基準で克服可能なものだと縮減して決めつけようとする。そして、その能力があるのだから、高い給料がもらえるのは当然だ、ということで、企業のCEOに破格の給与を払うことを許してしまう。それは、99%の平民の賃金が下がっていっても、1%の能力主義の成功者を評価するためには仕方ない、と放置されることにもつながる。それでは、高卒の労働者達にとっては、その能力がない、と査定されていることとも同じであり、自分がバカにされていると怒り狂うのも、理解できる。だからこそ、彼等彼女らはトランプに信じて託したのである。

少しだけ、自分がたりもしようと思う。僕自身、今大学でフルタイムの仕事を得られているのは、自分の努力や能力のおかげもあるかもしれないけれど、それよりも運やご縁のなせる技だと思う部分が多い。

もともとは「京大合格至上主義」の高校にいたにも関わらず、「阪大しか受からなかった」ことに落ち込み、ヤサグレていた自分(それ自体がずいぶん不遜な能力主義的思い込みの表現であるとは、30代になってやっと認めることができるようになってきた)。でも阪大の人間科学部でほんまもんの学問に出会い、人生で初めて学ぶ面白さに気づいた。そして僕自身が大学院に入るタイミングで、ジャーナリストの大熊一夫師匠が新設講座の教授として、やってきてくださった。僕はジャーナリストに弟子入りした大学院生だったからこそ、なんとか潰れずに大学院をサバイブできたのだと思う。理論社会学とか必死に勉強しても、自分よりはるかに優秀な院生やポスドクの層の厚さの前に、絶対挫折していたと思う。博士号を取ってみて、でも出身講座の助手にはなれないと遅まきながら気づき、紆余曲折の中で2年間フリーター生活。でもそこで時間があったから、スウェーデンでの調査研究にも従事できた。50の大学に落ち続け、最初に拾ってもらったのが山梨学院大学だったからこそ、地域福祉のダイナミズムをリアルに学ぶことができた。山梨で13年間楽しく研究を続けたからこそ、こつこつと著作も出すことができた。

自分の想定外の事態にばかり遭遇したし、能力主義でコントロールできない不可思議な偶然の出来事が積み重なる中で、結果的に唯一無二の存在としての自分の人生が形成されてきた。そういう意味で努力も運の一部であるし、能力主義を無批判に信じる必要性はないと、この本を読んであらためて感じる。

であるが故に、残念なのはこの本の結論の部分である。この本は能力主義に代わる概念として、貢献的正義を定義する。だが能力主義の性質に関する膨大な分析に対比すると、貢献的正義に関する提案はごくわずかであり、正直「それだけ?」と拍子抜けする結論であった。その部分では、マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』にも似ている。だが、マルクス・エンゲルスの秀逸な資本主義批判は100年以上経っても現実味を失っていないのと同じように、サンデルの能力主義批判も、今後何度も参照する立派な批判であることは確かだ。その意味で、半世紀前に提起されたマイケル・ヤングの「メリトクラシー」の概念を、サンデルはしっかり引き継いで、現代版の問題として問い直した力作だと感じる。

ではどうしたらよいのか?問題は、ぼく自身、引き続きぼちぼち考え続けたい。