「学力」観についてのメタ議論

新書で骨太なものに出会うと、読んでいてこちらもパワーをもらえる。連休中に読み終えたのも、メリトクラシー(能力主義)をその土台から考え直す良書。

「メリトクラシーを標榜する社会においては、抽象的システムに該当する学歴が貨幣ないし専門的知識を示すものとして提示される。しかしながら、抽象的システムそのものの内実(本当にその学歴を持った人はその地位に就く能力のある人なのか)を私たちはいちいち確認するわけではなく、また確認することは現実に容易ではない。したがって、そこには『学歴信仰』のようなものを含む形で、学歴を信頼してなんとか日常を回していることになる。しかしながら、上述のように、そのような抽象的システムそのものにも再帰的まなざしは向けられていく。だからこそ、私たちは学歴社会を批判し、入学者選抜や資格試験などの現状のエリート選抜の方式を批判することが日常的になるのである。」(中村高康『暴走する能力主義』ちくま新書、p157-158)

学歴は貨幣と同様に、抽象的なものであり、その学歴と引き替えにあるポジションに就くことができるなら、交換条件でもあるという点で貨幣に似ている。だが、貨幣については、1万円札の製造コストがいくらである、とかそのクオリティはどうか、などを問わないことを共通の前提として人びとが了解している。なぜなら、交換することに意味があり、金と違って、その紙幣・硬貨そのものの質や精度に価値をおかず、さらに言えば貨幣そのものでなく、その貨幣を発行する中央銀行や国のシステムへの信頼が前提となっているからだ。だから、国の信用がなくなったら、ハイパーインフレが生じる。

一方、能力に関しては、そのような中央銀行や国のような担保機関が存在するわけではない。また、貨幣と違って一元的・線形的に評価することもできない。すると、「振り返って問い直す」という意味の「再帰性」が強まる後期近代社会においては、「学歴社会を批判し、入学者選抜や資格試験などの現状のエリート選抜の方式を批判することが日常的になる」というのだ。これは、ここ15年近く大学教員をしていても、痛感することである。そしてこの本の魅力的な所は、それを文科省や政治家の問題、とせずに、社会学者ギデンズの論を踏まえながら、これは(後期)近代社会固有の問題である、と喝破するところである。

「伝統とは世襲的・血縁的な地位の継承原理であった。これがあれば、さしあたり、『なぜその人がある地位につくのか』とうことは説明を必要としなかった。『伝統』だからである。しかし、そのロジックが通用しなくなった社会では、『なぜその人がある地位に就くのか』を理由づけることがその都度求められることになる。つまり、再帰的にモニターされるようになるのである。そこで有効な説明道具となるものが『能力』となるのでメリトクラシーが普及拡大していくのだが、実のところこれは容易に測れない性質のものであるがゆえに、地位配分原理の決定的な理由づけとはなりえない。そのため、能力をめぐる再帰的モニタリングが際限もなく続いていくことになる。これが、近代におけるメリトクラシーの再帰性の基本ロジックなのである。」(同上、p147)

「伝統」「世襲」「血縁」のような理由が根拠を失うと、それ以外の根拠が必要とされる。「そこで有効な説明道具となるものが『能力』となるのでメリトクラシーが普及拡大していくのだが、実のところこれは容易に測れない性質のものであるがゆえに、地位配分原理の決定的な理由づけとはなりえない」。そう「『伝統』だから」というのは、問いを挟む余地を残さない・許さない、「決定的な理由づけ」である。でも「能力だから」と言われたら、当然その能力に関しての問いは生まれる。しかも、「容易に測れない性質」であり、IQが高くても、高学歴でも、それが眼の前の仕事に適切に対処できるか、と言われても、一致しないことがしばしばあることも、多くの人の間で共有されている。だからこそ、「振り返って問い直す」という意味での「再帰的モニタリングが際限もなく続いていく」。しかも、ギデンズによれば、グローバライゼーションが進んだ現在は、ポストモダン(近代の後)、ではなく、「モダニティの徹底化」(p148)と捉える。ということは、この「能力をめぐる再帰的モニタリング」も「徹底化」されていく。これが、近年のセンター試験の改変だの「新しい学習力」だの、あるいは大学への競争的資金配分だの、という矢継ぎ早の改革の背後にあることも、頷ける。

しかも、このような「モダニティの徹底化」によって、そもそも「能力」に基づくアイデンティティも何度も何度も再帰的に問い直されるため、そのことに関連した不安である<能力不安>が生じる。それに対応するのが、偏差値である、という。

「偏差値は、メリトクラシーの再帰性の観点から言えば、選抜が大衆化したときに、<能力不安>も大衆化するために、そうした不安を抱える多くの生徒達に自己能力への再帰的モニタリングを強力に手助けするための情報提供のツールとして、導入され普及したと考えることができるのである」(p186)

僕が昨年まで、13年間お世話になった山梨学院大学は、偏差値上では「Fランク」と受験産業が勝手に決めつけている。これは、最低ランクであり、倍率が低くて偏差値が算出できないが故に、「誰でも入れる(ボーダーフリー)大学」とバカにされる対象である。でもその大学で学生達と接していて、「Fラン大学は学級崩壊」とかネット上の批判は全く当たらない、と感じていた。意欲的な学生も多く、ゼミなどでも真摯な問いや本質的な議論が出来ていた。そして、今思えば偏差値的な格付けをそれほど気にしていない学生も、少なくなかった。そういう意味では、今勤めている県立大学の学生さんの方が、「自己能力への再帰的モニタリング」への強迫観念は強いのかもしれない。

そして、前任校時代に「自己能力への再帰的モニタリング」に関して、文科省が出してきた政策への問いとして、「『L型』枠組みを疑うメタスキル」というブログを書いたこともある。その時にはわかっていなかったが、このような「L型G型」という二項対立軸の提示の背景にも、「能力不安」とか、「自己能力への再帰的モニタリング」への強迫観念があったのだ、と整理することができる。ああいう変さを、あのときは論理的に言えなかったが、この著者はギデンズの言葉を見事に用いている。あれは「同じパターンの行動の繰り返し」により「同じ状態であり続けられる」ことを容易に確認するための、「一種の不安解消の一つのあり方」「嗜癖(しへき)」である(p179)、と。

「偏差値も、通塾と同様に、それを求めずにはいられなくなりながらも、能力アイデンティティと<能力不安>を恒久的に安定化あっせるものではないという意味でも嗜癖的である。戦後教育をめぐる議論において、これらの現象が病的とみなされてきたのも、決して根拠のないことではないのである。」(p187)

この整理を読むと、今の文科省や財務省、政治家や経団連が教育改革に口だしし続けることとも、「自己能力への再帰的モニタリング」への強迫観念に基づくある種の「嗜癖」だと納得する。あの「L型G型」の整理も、一見すると論理的な「ふりかけ」はまぶしているが、決して論理的には思えない提言である。なぜそれを大声で叫んでいるのか、と不思議だったのだが、「それを求めずにはいられなくなりながらも、能力アイデンティティと<能力不安>を恒久的に安定化させるものではない」という、信じたい価値前提を根底から揺るがすような、ギデンズのいう「存在論的不安」に蓋をしたいがゆえの対応策である、と言われたら、すっと了解できる。メリトクラシーの揺らぎの中で、自らが培った能力やアイデンティティが高く評価され続ける、という意味での、「同じ状態であり続けられる」ことを担保する「一種の不安解消の一つのあり方」に「嗜癖」的にのめり込んでいく。これが、教育改革への多くの人ののめり込みの背後にあるのだ、と。

では、どうすればよいのか。これからの社会に必要な能力とは何か、という問いに、筆者は単刀直入に「それは簡単にはわからないこと」(p236)と言い切る。「簡単にはわからないこと」なのに、わかったフリをして、あれこれいじり倒すのは、嗜癖的であり、存在論的不安を一時的に解消するが、本質的な解決策には導きにくい。

だからこそ、大切なのは、このような『暴走する能力主義』の構造的特質を理解することが大切なのだ、と感じた。これは、手前味噌ながら、僕が5年前に書いたブログのタイトルでもある「『L型』枠組みを疑うメタスキル」そのものでもある。こういうメタスキルを養い、「メリトクラシーの再帰性」を問い直すことこそ、やはり大学教育で必要とされている重要なことではないか、と感じている。