「五つのステップ」という学恩

連休後半でようやく時間が出来たので、録画した「ほのぼの屋」の映像を見る。僕がこの「ほのぼの屋」さんの存在を知ったのは、2002年。博論調査をしている真っ最中だった。ちょうどオープンほやほやの「ほのぼの屋」さんを訪問して以来、だったが、今年二軒目のお店を開く、と番組で知り、嬉しくなった。それと共に、博論で掘り下げたことを、もう一度、反芻しながらこの番組を見続けていた。(YouTubeにもアップされています)

博士論文をどういうテーマで掘り下げようかと迷っていたD2の終わり頃、大熊一夫師匠から、こう言われた時には、文字通り頭が真っ白になった。

「タケバタくんは、どうも精神科ソーシャルワーカーに執着しているようだから、いっそのこと、京都中の精神科ソーシャルワーカー全員にインタビューして、そこから発見したことを論文でまとめるように。それがなければ、君に博士論文の道はない。」
それを言われたのが2002年の冒頭で、博論締め切りはその年の12月末。文字通り、1年を切ったタイミングで、まさかの巨大調査。しかし、それをしなければ博論の可能性はない、とまで、師匠に断言されてしまう。強烈なピンチ。だが、迷っている暇もないほど追い詰められていたので、フィールドワーク先の精神科病院のベテランPSWにご協力頂き、京都のPSW協会の当時の会員120人強全員に連絡させて頂き、うち117人からインタビューさせて頂く、という無謀な試みを始めた。そして、確かに師匠の言うとおり、この「ほぼ全数調査」は、博論だけでなく、その後の僕自身の研究を進める上での大きな原点となった。
この調査は2002年の春から秋までのおよそ7ヶ月くらいでやり終えたので、死にものぐるいの調査だった。舞鶴から精華町まで、京都は縦に長い。そして、京都市内だけでなく、郡部にも様々な作業所や授産施設もあり、PSWは点在している。1名の方は電話インタビューだったが、後の方には、全員に会いに出かけた。研究費をどこからも貰っていなかった(助成財団に申請するというアイデアすら浮かばないほど追い詰められていた)ので、家庭教師や塾講師で稼ぎながら、毎日京都中を駆けずりまわり、話を伺い、インタビューデータを整理し、分析する、という過酷な日々だった。だが、その際に指導教官の大熊由紀子さんに、次のようにアドバイス頂いたことが、このインタビューを実りある論文に変えるきっかけとなった。

「現場で見聞きしたことから、どのような法則があるのか、をまとめてみては? 私も『おゆきの法則』としてまとめているのよ」
由紀子さんがおっしゃる、「作業仮説をたてる⇒法則を発見する⇒実証・検証・分析によって、それを吟味する、というプロセス」は、グラウンデッド・セオリーにも通じる、帰納法的な調査の王道である。だが、当時、グラウンデッドはおろか、帰納法と演繹法の違いも怪しい状態だったので、とにかく「インタビューデータから法則を作るんだ」という言葉を念仏のように唱えながら、現場に通い続け、話を聞き続けていた。その中で、冒頭にご紹介した「ほのぼの屋」の総支配人で、まいづる福祉会に所属するPSWの西澤心さんのお話を伺った頃から、ぼんやり法則のようなものが、僕の頭の中に浮かび始めた。
「僕が『オモロイ』と思うPSWって、現場を変え、社会資源を作り出している人だ。でも、本当に地域を変えた人って、当事者や周りの他人を変える前に、まずは自分が変わることからスタートしているのではないか?」
そういう予感を基に、インタビューデータを読み返して見ると、確かにオモロイ展開をしている人は、精神障害を持つ当事者の「本音」に出会い、まず自らの態度や考え方、既成概念や偏見の限界に気づく。そして、根本的に仕事のあり方を変えようとする。西澤さんが冒頭の番組でも話していたけれど、「障害者でもまともな給料がほしい」という本音に対して、「あなたは○○が出来ないから無理」と決めつけるのではなく、「では障害を持ちながらも、まともな給料が払える仕事を作り出すにはどうしたら良いか?」を考える。「出来ない100の理由」で説得するのではなく、「出来る一つの方法論」を徹底的に考え抜く中から、ブレークスルーとなるアイデアを思いつき、その実現に向けて周囲を巻き込み、渦を大きく展開する中で、無理に思えたことを実現していく。その結果として、障害当事者の役割や誇りを取り戻す支援が展開でき、それが希望につながる。そんなプロセスが見えてきたので、「五つのステップ」という法則にまとめてみた。
<精神障害者のノーマライゼーションを模索するPSWの五つのステップ>
ステップ1:本人の思いに、支援者が真摯に耳を傾ける 
ステップ2:その想いや願いを「○○だから」と否定せず、それを実現するために、支援者自身が奔走しはじめる(支援者自身が変わる) 
ステップ3:自分だけではうまくいかないから、地域の他の人々とつながりをもとめ、個人的ネットワークを作り始める 
ステップ4:個々人の連携では解決しない、予算や制度化が必要な問題をクリアするために、個人間連携を組織間連携へと高めていく 
ステップ5:その組織間連携の中から、当事者の想いや願いを一つ一つ実現し、当事者自身が役割も誇りも持った人間として生き生きとしてくる。(最終的に当事者が変わる) 
(竹端寛 2003 「精神障害者のノーマライゼーションに果たす精神科ソーシャルワーカー(PSW)の役割と課題―京都府でのPSW実態調査を基にー」大阪大学大学院人間科学研究科博士論文)
たとえば、ほのぼの屋の展開に当てはめるなら、それまでのまいづる福祉会がやっていたのは、ごく普通の作業所であり、工賃は1,2万円が上限だった。でも、「まともな給料がほしい」という「想いや願い」に、西澤さんや支援者たちは「そんなの無理」と否定せず、本気で実現するための奔走を始める。その中で、古本屋を始め、それがやがてレストランの運営という物語の展開を引き寄せ、月4、5万円の給料、多い人では月7万円を超える給料を支払うことが可能になり、ご本人の「役割」と「誇り」を取り戻す支援に
つながる。そして、このステップは、ほのぼの屋に限らず、例えば共生型ケアを始めた「このゆびとーまれ」の惣万さんや、精神障害者の地域支援の先駆的存在である「べてるの家」の向谷地さんなど、地域を変えてきたソーシャル・アクションの担い手に共通するプロセスであることも、博論を書いた後になって、気づき始めた。そのことは、博論執筆後10年後にやっと出せた単著、『枠組み外しの旅-「個性化」が変える福祉社会』の中で、整理することが出来た。
社会を変える前に、他人を変える前に、まず自分が変わる。
これは、言うは易く、行うは難いこと、である。特に福祉現場のような支援関係であれば、指導・助言は簡単に支配に転化しやすい。そんな中で、認知症や精神障害を持つ当事者を変えることより、その人が置かれた社会的環境を変えることで、障害のある人でも、認知症であっても、「ごく普通の暮らし」が実現できる。それが、スウェーデンやデンマークなどの北欧で実践されてきた、ほんまもんの「ノーマライゼーション」の中身そのものであり、博論を書いた後、僕自身もスウェーデンで半年暮らす中で実感したことでもある。
そして、僕自身はこの「5つのステップ」という作業仮説を法則化し、吟味するプロセスに歩み始めることが出来たので、その後、障害者地域自立支援協議会や地域包括ケアシステム、あるいはコミュニティ・ソーシャルワークの現場実践に関わるようになっても、ずっとこの「五のステップ」から、眺め続けている。このプロセス化は、僕自身が博論で気づいたこと、だけではなく、その後の10年の、そしてこれからの僕自身の仕事を形成するための、一つの軸というか、視座の獲得につながった。
そんな学恩を、西澤さんを始めとした京都のPSWの方々や、大熊由紀子さん、大熊一夫さんから頂いたんだなぁ、と走馬燈のように思い出しながら、映像に見入っていた。