「正義」の恐ろしさ

以前からネット記事を読んで興味があった『ファシズムの教室』(田野大輔著、大月書店)が書籍化されたので、早速目を通す。面白くて、スルスル読めるので、一気読み。かつ、内容が深い。

ファシズムやナチスドイツの歴史研究がご専門の田野さんが、ファシズムを「自分事」として体感させるために、授業で「ハイル、タノ!」と叫んだりと疑似体験させる授業。その授業を作りあげた田野さんが、どんな思いでこの授業を作ってこられたのか。そこに、ファシズムのどのような現代性があるのか、がよくわかった。

それを最も象徴的に物語るのが、疑似体験後の学生の感想。

「規律や団結を乱す人を排除したくなる気持ちを実感した」
「250人もの人間が同じ制服を着て行動すると、どんなに理不尽なことをしても自分たちが正しいと錯覚してしまう」(p116-117)

このような声を引用したあとの、田野さんの解説の一行にグサッとくる。

「この『正義』の感覚こそ、参加者を攻撃的な行動に駆り立てる最も重要な要因のほなからない」(p117)

コロナ危機において、「自粛警察」をはじめとした他罰的な動きにうんざりしていたが、それは「攻撃的な言動に駆り立てる」「『正義』の感覚」に基づいているなら、これほど恐ろしいことはない。そして、これは日本でも昔から起こっていることだ、と田野さんは指摘する。マンガ「はだしのゲン」(懐かしいですね!)に出てくる、戦中は「非国民」を摘発していた町内会長が、戦後一転して「平和の戦士を気取る」事態についての考察の部分である。

「彼の言動は戦中と戦後で矛盾していない。時代ごとの正義、誰もが逆らえない権威を笠に着て、これに従わない人びとを抑圧しようとしている点では、彼の姿勢は一貫しているのである。この町内会長のような末端の権力者は、権威を後ろ盾に異端者を攻撃することで、自分の地位と力を得ている。」(p20)

発言の表面だけみると、戦争賛成から戦争反対への大転換であり、論理的に一貫していない、ようにみえる。だが田野さんはその背後に、「時代ごとの正義、誰もが逆らえない権威を笠に着て、これに従わない人びとを抑圧しようとしている点では、彼の姿勢は一貫しているのである」と見抜く。発言の一貫性ではなく、「正義」や「権威」を傘に着て、他者を抑圧するという抑圧の論理の一貫性なのである。「権威を後ろ盾に異端者を攻撃することで、自分の地位と力を得ている」という権力支配の構造の一貫性なのである。

それに引きつけて、ナチスドイツ時代に、ユダヤ人を袋だたきにして、略奪や破壊を尽くした「水晶の夜」における集団的迫害で何があったのか、を田野さんは読み解いてくれる。

「権力の後ろ盾のもとでは好き放題に暴れ回っても罰せられないという状況が、多数の人びとを過激な暴力に駆り立てたことは明らかである。彼らは上からの命令を錦の御旗にして、存分に欲求を満たすことのできる『自由』を享受していたと言えるだろう。」
「権威の庇護のもと万能感にひたりながら、自らの攻撃衝動を発散することが許される。」(p27)

この記述を読んでいて、この1ヶ月くらいの中で目にした記事を様々に思い出す。他県ナンバーお断り、とか、パーキングエリアでそれを調べる、とか、そのような排除的な為政者の言動を「錦の御旗にして」、卵を投げつけたり、張り紙や落書きをしたり、他者に暴言を吐きながら、「自らの攻撃衝動を発散することが許される」「存分に欲求を満たすことのできる『自由』を享受していた」ひとびと。あれ、今は戦時中ではないよね。でも、ここで書かれているファシズム的言動と実に似た論理が、コロナ危機の中で生じているよね、と。

「『指導者から指示されたから』『みんなもやっているから』という理由で、彼らは個人としての判断を停止し、指導者の意思の『道具』として行動するようになる。監獄実験やミルグラム実験の結果が示しているように、権威への服従は人びとを道具的状態に陥れ、自分の行動の結果に責任を感じさせなくさせる働きをもっている。」(p124)

いまの「自粛警察」が恐ろしいのは、個々人の判断というより、「彼らは個人としての判断を停止し、指導者の意思の『道具』として行動する」部分だと改めて感じる。田野さんが言うように、「権威への服従は人びとを道具的状態に陥れ、自分の行動の結果に責任を感じさせなくさせる働き」を持っている。道具なんだから、指導者が言うから、みんなやっているから、と個人の倫理を取っ払い、暴力的な言動を肯定してしまう。その恐ろしさが、コロナ危機で噴出したものであり、田野さんが言うようにそれはヘイトスピーチにも通底する、排除の論理でもあるのだ。

その上で、こういう内容を授業で扱うことに関して、必ず寄せられる「寝た子を起こすな」論にも、明確に反論している。

「教育は、社会に根ざした道徳を次世代に継承しつつも、その道徳をより適切なものへと刷新していくことを一つの使命としている。体験を通じて集団行動の危険性に目を開かせる取り組みは、道徳の継承のみならず刷新も図ることで、従来の教育の限界を乗り越えようとするものである。」(p157)

道徳は、「○○するべからず」を伝えるものである。でも、それをアップデート=刷新するためには、単にファシズム的な集団行動をするな、では不十分だ。「いま・ここ」において、「他ならぬ私が暴力的になりうる」ことを痛感しないと、その危険性を自分事として理解できない場合もある。それを田野さんは「ファシズムの教室」を通じて伝えようとする。だからこそ、当然ファシズムの危険性や監獄実験など、座学でみっちり教え、疑似体験の後はきっちりデブリーフィング(解毒化・脱洗脳化)も行い、その危険性を理解しながら講義を続けてきた、という。

だが、ネット記事などで取り上げられると、大学への・大学からの圧力も高まり、結局10年続けたこの体験授業を一旦終えたので、今回の書籍化につながった、と田野さんは書く。僕も大学教員なのでよくわかるが、大学当局の「目立つ内容は、リスク管理の対象だ」という対応には、どれほど田野さんも落胆しただろうと想像する。そして、そのような一律の「自粛」や矮小化を求める動きそのものが、「人びとを道具的状態に陥れ」る方向性に通じて、ひいてはファシズムや全体主義の可能性にもつながるのだろう、と、読者としては読みながら妄想する。

だからこそ、「自粛警察」に代表されるような、「権力の後ろ盾のもとでは好き放題に暴れ回っても罰せられないという状況」にはNO!と言い続けないとあかんと、改めて感じた。私たちの社会が、本当の意味での自由があり、一人一人の人にとって生きやすい社会になるためには、「権威を後ろ盾に異端者を攻撃することで、自分の地位と力を得ている」人を許さない、という断固とした姿勢が必要なのだと思う。そして、それがほんまもんの民主主義社会につながるのだと思う。

人を「攻撃的な行動に駆り立てる」「正義」こそ、もっとも疑うべきだ。今の時期だからこそ、田野さんの本を通じて、心から痛感した。